☆ 享和年間(1801~1803)
◯『増訂武江年表』2p28(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享和年間・1801~03)
〝享和中にや有りけん、菊塢(キクウ)といへる人寺島村に花園を設け、四時の花を栽えて遊賞の所となせり。
奥州の人にして(称北平といふ)江戸に下り、此所に住し天保の始め終れり(菊塢、始め或る人名つけ
て帰空といへり。文字をいみてかく改めたりといへり。此の梅園をひらきしあくる正月、園中に小松を
栽えて子(ネ)の日の宴を催したるをり、文人つどひきたりし時の歌に)、
松も引きわかなもつみてけふよりは春のこゝろをおぼえそめけり 千蔭
梅さかばつぎてもとはむ此のやどの松にひかるるけふばかりかは 春海
鴬のはつねの小松ひく袖にあるじがほにもおもふ梅がか 自寛
あらためてひらくやうめの花やしき
(或人の説に、此の地の旧名を多賀屋敷といふ。昔豪民多賀三郎兵衛、同角左衛門、同友三郎、同又三郎
等の人住みたる所なり。其の菩提寺は白髭の後法泉寺なりしと云々)
筠庭云ふ、北平が事もと茶がらを商ひし者なり。初め大門通り横店と称するところにすみ、それより
住吉町裏屋にも居たり。好事者にて書画をすき、大雅堂贋筆を多くなしたり。文字はなけれども諸名
家に立入り、なぐさまるゝをおのれは得意とし、遂に梅屋敷を思ひつき、諸家に募りて梅樹の料を求
め乞ひ、詩を集めて「盛音集」を板にして人々に呈す。各家に嘲弄された文などを、よきことにして
驥尾(キビ)の蠅とならんとす。梅屋敷こゝに於いて成就す。其の後こゝに道具市を立て、素人奢り者
ども会合す。果は金子の売買抔(ナド)に至り、いつも会の終りは、我が娘の吉原町遊女屋に嫁してあ
れば、夫が処へ諸客を誘ふ。戯れながら道具市不正の聞へありて咎められ、入牢して過料追放さま/\
なりき〟
〈佐原菊塢の新梅屋敷(現在の向島百花園)開設は文化元年(1804)〉
☆ 文政年間(1818~1829)
◯『増訂武江年表』2p79(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政年間・1818~1829)
〝目黒石古坂梅やしき出来る〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
(梅屋敷 亀戸)
〝梅 花の香も風にひそみて臥竜梅さくらの雲をおこすまでさけ
花の香の匂ふかたをばしるべにてたどりては来る梅やしき道
鴬は宿にそだてゝ梅やしき江戸すゝめらが哥やよむらん
臥竜のかたちの梅の真盛は匂ひの淵のぬしかとぞ見る〟
〈臥竜梅〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
◇西ヶ原梅屋敷 ⑥300
〝天保十五甲辰年二月初旬、西ヶ原の梅やしきは此二三年より人々の遊び所と成る、是は其所の醤油問屋
の隠居が持地にて数株の植ならべたる事、臥竜菊塢にもおとらぬ様なり〟
〈「臥竜」は臥竜梅で知られる亀戸の梅屋敷。「菊塢」は佐原菊塢で、向島の新梅屋敷(現在の百花園)を開発した人〉
☆ 弘化年間(1844~1847)
◯『増訂武江年表』2p113(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(弘化年間・1844~1847)
〝根岸新田といふ所に梅屋敷をひらく。園中広からねど紅白枝を交へて頗る壮観なり(庵主富右衛門とい
ふ。此の家にも鴬の会あり。抑(ソモソモ)此の地を初音の里と号し鴬の名所とす。東叡山凌雲院主某、初音
の里のゆゑよしを記して此所に碑を建てらる。碑蔭に当時江戸に勝れたる鴬の名寄(ナヨセ)を鐫(セン)して
あり)〟
☆ 嘉永五年(1852)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p48(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇梅屋敷
〝二月、梅やしき 北本所請地、小村井(ママ)村 名主 小山孫右衛門
右孫右衛門地面、去亥年梅樹数多植込、当子二月梅屋敷全く庭出来候に付、二月十八日始て御成有之候。
遙々と尋て爰へきた本処花にひかれて誰もこむらひ〟
〈亥年は嘉永四年〉
◯『増訂武江年表』2p127(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永五年・1852)
〝二月十九日、千駄木七面坂下紫泉亭(植木屋宇平次といへる旧家なり)梅園をひらく。又四時の花を栽
へ、盆種の艸木を育て、崖のほとりに茶亭を設け眺望よし。諸人遊観の所となりて、日毎に群集するも
の多し〟
〝春の頃より、浅草寺奥山乾の隅林の内六千余坪の所、喬木を伐り梅樹数株を栽へ、また四時の草木をも
栽へ、池を堀りて趣をなし、所々に小亭を設く。夏に至り成就し、六月より諸人遊観せしむ(千駄木植
木屋六三郎の発起なり)〟