Top 浮世絵文献資料館 浮世絵師総覧
☆ うめのや かくじゅ 梅の屋 鶴寿(鶴子) 浮世絵事典
☆ 天保年間(1830-1843)
◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)
(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)
〝芸能長者
天狗 カンタ 梅屋隺子/仙人 シハイ丁 竹本高栄〟
☆ 弘化三年(1846)享和元年(1801年) - 元治2年1月12日(年
◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
(東 三段目)
〝歌人 カンダ 梅屋隺子 画師 ゲンヤ店 歌川国芳 画工 カヤバ丁 渓斎英泉(ほか略)〟
☆ 嘉永六年(1853)
◯『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)
(嘉永六年(1853)記事)
〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書
画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の
像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟
〈下掲『内外古今逸話文庫』記事参照〉
◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p129
「新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付 隠密廻」
(町奉行の隠密が作成した国芳の身辺に関する報告書)
〝(錦絵)図取之趣向等国芳一存ニは無之、左之佐七え相談いたし候由。
神田佐久間町壱丁目 喜三郎店 明葉屋 左七 此ものは狂歌を好み、狂名は梅の家と申し候由
右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類の趣向功者の由、同人は国芳え別懇にいたし候間、同人義板元より注
文受け候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取の摸様にて推考の浮評を生し候
由
国芳居宅は、新和泉町新道間口二間半・奥行六間、自分家作に住居、家内八九人程の暮方に付、妻子
は相応の衣類も着候得共、其の身は着替衣類等の貯えも薄く、注文受け候画類賃銭相応に受け取り候得
共、弟子共の内へも配当いたし、其の上欲情には疎き方にて暮方等には無頓着、借財等も有之候者の由、
且、前書佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借り受け、雅友共
書画会催し候節、国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程の紙中へ、水滸伝の人物壱人みご(ママ)筆にて大図に
認(したた)め、隈取に至り手拭へ墨を浸し隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取り候迚(とて)、着用
の単物を脱ぎ墨を浸し、裸にて紙中の隈取りいたし候間、座輿にも相成り、職人の内にては、下俗の通
言「きおひもの」杯(など)と申し唱え候由〟
〈梅の屋は国芳にとっては図案等の知恵袋。世間に浮評を生じさせるような判じ物のアイディアは、この梅の屋から出
ていると、隠密は推定したのである。この梅の屋の河内屋での書画会、国芳たちは脱いだ単衣に墨を浸して、裸のま
ま色塗りをしたというから騒々しいパフォーマンスだったに違いない〉
☆ 安政三年(1856)
◯「地震安政見聞誌出板一件」(『藤岡屋日記』第七巻p199 藤岡屋由蔵 安政三年六月記事)
(五月十七日、一筆庵英寿著 一登斎芳綱画『安政見聞誌』に関する町奉行の吟味あり)
一 同日 狂言師、梅の屋事 左吉
右者口画の達摩の事ニて、御呼出御尋ニハ、上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上
之思召ニたがひ候由御𠮟り、然ル処、右画ハ扇面へ書候を写し取られ候由申上候ニ付、御構無之〟
〈口絵の達磨に添えられた梅の屋の詠〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし〟に対して、表向きは禅
の公案(無門関)めかして「本来無一物」といるが、実は「上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなし」の意
味を込めて、暗に幕府の救援策を風刺しているのではないかという疑いを奉行側は抱いたようである。これに対して
梅の屋は扇面に認めたものを写し取られたと釈明して、難を逃れた。なお芳綱はこの件で画料一両取り上げ・五貫文
の罰金に処せられている〉
『安政見聞誌』「口絵の達磨」 一登斎芳綱画
☆ 安政五年(1858)
◯「【再案】混雑三個今伊達(とりあハせみつものこんだて)」(番付・安政五年夏刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)
〝狂歌 年は 梅の屋鶴子
狂句 とつても 緑亭川柳
太棹 しやんとこい 鶴沢勇造〟
☆ 安政六年(1859)
◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)
〝筆頭十才子
狂歌 梅屋鶴子 (梅屋鶴寿。国芳画とは狂歌の賛を寄せるなど親密な関係があった)
画家 山形素真 (谷文晁門人)
画工 一勇斎国芳〟
☆ 慶応元年(元治二年・1865)
◯『武江年表』(斎藤月岑著)
〝正月十一日、狂歌氏梅の屋秣翁死す(六十二歳、称吉田佐吉、一号鶴寿、神田佐久間町住。
辞世 爪づくがさいご此の世の暇乞ひま行駒の送り狼)〟
☆ 明治以降(1868~)
◯「一勇斎歌川先生墓表」東条琴台撰文(飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』下巻「歌川国芳伝」所収)
〝先生(国芳)梅屋鶴寿と情交尤も密、恰も兄弟の如し、鶴寿其の業に賛成し、四十年亦た一日の如し、
良友と謂ふべし〟
◯『内外古今逸話文庫』6編 岸上操編 博文館 明治二十七年刊 (国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名
(第六編「文芸」の項)
〝歌川国芳浴衣を以て岩石を画く(9/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名
嘉永六年、両国柳橋の河内屋にて、狂歌師梅の家鶴子狂歌画会の催しあり、其席にて一勇斎国芳、畳五
十畳敷に、水滸伝百八人の内、九紋龍史進を画けり、当日国芳大勢の門弟を取持かた/\連来り、おの
れを始め一同、真岡木綿白地に大絞りの浴衣の揃(そろひ)にて、扨画(ゑ)にかゝり、人物を認めおはり
て、九の龍を画き、雲のところは手拭の両端に藍と薄墨を浸し、これにて隅どり、それより浴衣を脱ぎ
て、磨(す)り置きたる墨の中へ入れ、よく/\墨を含ませ、史進が足を踏みかけたる岩石を画きけるに、
筆力勁健にして、おのづから凡ならず、一座どつと感嘆して、感嘆して、流石は当時江戸に名高き画工
なりと評判せしよし〟
◯『名人忌辰録』下巻p3(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)
〝梅屋鶴子 鶴寿 通称宝田又兵衛、後左助、一号鶴芝之。慶応元丑年正月十一日歿す、歳六十三。
辞世 つまづくがさいご此世のいとまごひひま行く駒におくりおほかみ〟
◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)
(『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った
〝其頃狂歌師で梅の屋鶴子(かくし)といふ人があつたが これは長谷川町の待合茶屋の主人で 此人が
国芳の為めには顧問になつて尽力したので 絵の方も又種の計画も 此人の采配になつたのだ だから
此梅の屋の文台披露を万八楼で開いた時は 国芳も一肌ぬいで 弟子と揃の縮緬の浴衣で出席したとい
ふ話がある〟
〈これは当時東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一(歌川芳兼の実子)の談。この文台披露宴は万八楼での催しであ
るから、上掲嘉永6年河内屋の書画会とはまた別ものなのであろう。「種」とは種本の意味で、版本の場合は、作者が
作成する下絵のこと。画工はこれに基づいて板下絵を画く。版画の場合は、構図・衣装等における趣向の構想をいう
のだろう。つまり梅の屋は芳年の懐刀なのである〉
◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「偽の豊国の狂詠につきて」梅堂豊斎翁談(17/24コマ)
〝歌川のうたかはしくも名乗り得て二世の豊国偽(にせ)の豊国 と云ふ狂歌について、世間では亀井戸豊
国の事を云つたのだとも云ふし 又本郷豊国が己(おの)が拙技(つたない)のも顧みず名を継いだところ
から云はれた悪口だとも云つて居りますが、あれは矢張り亀井戸豊国の事を云つたもので、御承知の如
く、国貞と国芳とは丸ツキリ肌があいません、だが豊国を継いだについては一応通知(しらせ)なければ
ならないので 門人だつた二代国麿に委細事を手紙に書いて玄冶店の国芳の家へ届けました、スルトこ
ゝへ狂歌師の梅屋(うめや)鶴寿(かくじゅ)が来合して この手紙を見て居たそうです、この人は神田佐
久間町に住んで尾張様御用の秣屋(まぐさや)で 後神田岩井町から長谷川町へ移つて待合茶屋を出しま
した、大層国芳に肩を入れて 一寸とした賛など其他書入は大概此人が書いて居ました、愈々国貞改二
世豊国と発表すると、誰が咏んだか此狂歌が世間へパツと評判になりました、咏人(よみひと)しらずと
は云へ 国貞国芳の中を知つて居るものは、ハゝアこりやア梅屋の悪戯だナと勘づきました〟
◯『墓所一覧表』(山口豊山編 成立年未詳)※(収録の最終没年は大正五年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝梅屋鶴寿 元治元年正月十二日 駒込東片町 大円寺 梅屋鶴寿信士〟
◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)
◇「夷曲同好続編筆者小伝」p456(昭和六年九月稿)
〝梅屋鶴子 室田亦兵衛、一号鶴芝、神田元岩井町住、為本町判者、後号鶴寿秣翁、慶応元年正月十二日
没、享年六十五、葬駒込大円寺〟
◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」(飯島虚心著 玉林晴朗校・解説 畝傍書房 昭和十六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝按ずるに、狂歌師梅の屋鶴寿は、諸田亦兵衛、始吉田佐吉、松枝鶴寿と号す。狂歌堂新顔の門人にして、
神田佐久間町に住す。その家秣を売るを業とす。よりて別号を秣翁といふ。国芳の気性を愛し、常に衣服
を与へ、包厨を助けたり。元治元年正月十二日没す。年六十三、或人曰く国芳が名をなせしは、全く鶴寿
が力なりと〟