Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うきよえし 浮世絵師(武家出身)浮世絵事典
 ☆ 十返舎一九(いっく) 小田切土佐守家臣 駿府藩町同心重田与八郎三男・重田貞一    △『近世物之本江戸作者部類』p44(曲亭馬琴著・天保五年(1834)成立)  〝十遍舎一九   生国ハ遠江也、小田切土州大坂奉行の時、彼家に仕へて浪華にあり、後に辞して去て、大坂なる材木商   人某甲の女婿になりしが、其処を離縁し流浪して江戸に来つ、寛政六年の秋の比より通油町なる本問屋   蔦屋重三郎の食客になりて、錦絵に用る奉書紙にドウサなどをひくを務にしてをり、その性滑稽を好ミ   て聊浮世画をも学ひ得たれバ、当年蔦屋が誂へて心学時計草といふ三冊物の臭草紙を綴らしめ、画も一   九の自画にて、寛政七年の新板とぞ(中略)是その初筆也〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(50/103コマ)   〝十返舎一九【寛政元年~十二年 1789-1800】    姓は重田、名は貞一、通称与七、幼名を市丸といひて、駿府の町同心重田与八郎の三男なり、年稍(や    や)長じて江戸に出で、小田切土佐守に仕へて小吏となり、主の大阪町奉行を命ぜられし時、一九も共    に大阪に到りしも、放蕩無頼にして吏務を理(おさ)めず、遂に職を辞して、同地の材木商人某の女婿と    なりしが、間も無く離縁せられしに因り、再び江戸に帰りて(云々)〟  ☆ 葛飾一扇(いっせん)  津藩 家臣  ◯『本の覚』(三村竹清著「本道楽」・昭和十四・五(1939-40)年)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「浅草一覧図」   〝津藩士に葛飾一扇といふものが、北斎門人だ、常府であつたか、委しい伝は、津で分らぬ、私はこの人    の美人の扇面を持つてゐる〟    〈伊勢の津藩士だが、常住していたのは江戸の藩邸のようである。「私」とは三村竹清〉  ☆ 喜多川歌政(うたまさ)(下掲 北亭墨僊(ぼくせん)参照)  ☆ 鳥文斎栄之(えいし) 旗本 五百石 勘定奉行 細田丹波守時行嫡男・時富  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1404(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝栄之 【俗称細田五郎兵衛、或云弥三郎】御小納戸相勤、僅三年ニテ、依病隠居、号鳥文斎、御勘定奉        行細田丹波守、三世之孫也、狩野栄川院門人、    浚明院様之御小納戸を勤む、画を好み給ふ故に、殊御意に叶ひ、日々御側に在て、御画の具の役をつと    む、上意に依て栄之と号、勤仕僅三年、病に依て辞し隠居、長病閑居中に、自分工夫を以て、浮世画の    一派を絵出す、天明中、錦画を以て、専ら世に行はる、寛政中、故障ありて、錦画を止む、栄之、天覧    之印を用ることは、過し年、宮方東方御下向之時、御望によりて、隅田川の図を画て呈す、仙洞画を好    み給ふによりて、宮帰京の後、隅田川の画を進献す、仙洞御賞美斜ならず、終に御文庫に納る、仍て天    覧の印を用るといへり、懇望にあらざれば、猥に印することなし〟  ☆ 岳亭(がくてい) 御家人 平田氏  △『近世物之本江戸作者部類』p114(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「洒落本并中本作者部」)   〝岳亭丘山    原是小禄の御家人也といふ。退糧したるなるべけれども、なほ帯刀す。画工にて戯作をかねたり〟  ◯『浮世絵師伝』p28(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝菅原姓、八島氏、通称丸屋斧吉、幕府の士平田某の庶子なりしが、母故ありて八島某に嫁するや共に其    家に養はる、初名を春信といひ、後ち定岡と改む、字は鳳卿、岳亭(また岳鼎)と号す、別に五岳・丘    山・一老・南山・陽亭・陽斎・黄園・神歌堂・神岳堂・堀川多楼等の諸號あり、晩年には梁左とも称す、    初め画を堤秋栄に学び、後ち北渓の門人となる、また狂歌を窓の村竹及び六樹園に学びたり〟  ☆ 月斎峨眉丸(がびまる) 尾張藩士 沼田政民  ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝峨眉丸 姓は沼田、名は政民、字は士彜、通称を半左衛門と云ふ、凌雲、或は月斎と号す、尾州藩士、    初め牧墨僊の門に入り、又歌麿の門に入り、二世歌政と号す、北斎が名古屋滞在中、更に其教を受けた    り、後年浮世絵を廃す、元治元年六月廿九日没、七十八歳、長文斎の印章を用ひたるもの有〟  ☆ 歌川国明(くにあき) 御徒 平沢氏  ◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝十四番組御徒士平沢辰之助の長男にして、二代国明の兄なり〟  ☆ 歌川国幸(くにさち) 福井藩士 槙田氏  ◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)   〝歌川派の十元祖     びら絵 歌川 国幸〟   〝国幸 三世豊国門人、槙田氏、福井藩士〟  ☆ 歌川国輝初代(くにてる) 幕臣・太田金次郎  ◯「読売新聞」(明治23年10月17日付)   〝国輝大に奮激す    (前略)初代国輝と云ふは旧幕臣にて 本名を太田金次郎と呼び 名人二代豊国の一弟子にて 神田明    神へ捧げたる神田祭の大額を画きて其の名世に高かりしが 不幸にして狂気したれば(以下略)〟    〈「名人二代豊国」とあるが現在では三代目豊国(初代国貞)とする〉  ☆ 歌川国照(くにてる) 古河藩士・山下彦三郞(惣右衛門)    ◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国照    【生】文化五年(1808)        【歿】明治九年(1876)-六十九    【画系】初代豊国門人(初め国直に学ぶ)【作画期】文政~慶応    歌川を称す、山下氏、俗称彦三郎(一に惣右衛門)、下総古河藩士、浮世絵の傍ら文晁の風を学び、晩    庵・琴松と号せり〟  ☆ 歌川国信(くにのぶ) 御家人 御小人目付・金子総次郞  ◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(65/103コマ)   〝歌川国信    通称金子総次郞、一礼斎、陽岳舎等の号あり、湯島三組町に住みて幕府の御小人目附を勤めしが、初代    豊国の門弟となり、志満山人と号して、自画作の草双紙を多く出せりと云ふ〟  ☆ 歌川国濱(くにはま) 御家人 御小人目付・本名未詳    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p128(文政七年(1824)八月七日)   〝同(丙申(文政七年)八月七日)神田明神下御台所町 御小人目付也 実名未詳 画名 歌川国濱〟  ☆ 歌川国広(くにひろ) 大名 六万石 伊勢亀山藩主 石川主殿頭遊佐(ふさすけ)  ◯ 文政元年十二月十八日 鈴木牧之宛 曲亭馬琴書翰(第一巻・書翰番号-19)   ◇ ①107   〝不佞ハ例の大小も不仕候。然処、下谷辺の歴々方、御慰ミに被成候御自画のすり物へ、拙句を加入仕候様    被為命候。此貴人、豊国にうき世絵御学び故、豊国より此義申通じられ、豊国代句もまけにしてくれ、そ    して只今直ニ認候様被申候。まづ御下画を拝見いたし候処、窓の内外に美女二人立り、窓の下に梅の花さ    けり。よりて、彼使をしばしまたせおき、      元日はをな子の多きちまた哉  豊国代句      梅一輪窓のひたひや寿陽粧   馬琴    と、あからさまに認メ差上申候。只言下に吐出し候と申ばかり、一向をかしからず候〟    〈この下谷辺の歴々で、豊国に浮世絵を習っている貴人とは誰であろうか。三田村鳶魚の「歌川豊国の娘」によると、豊     国の娘きんが奉公に出た下谷御成道の石川家当主で六万石の伊勢亀山城主、石川主殿頭総佐のようである。〝その殿様     のお道楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号さえ持っておられ     た〟とある。(『三田村鳶魚全集』第十七巻所収)通常ならこの手の大小画に揮毫はしないたのだが、相手が歴々の画     とあっては馬琴もさすがに断り切れなかったのである〉  ◯「歌川豊国の娘」(三田村焉魚著『中央史壇』大正十年十月号(『三田村焉魚全集』17巻p282))   〝(初代豊国の娘・きん(後の国花女)、文化十三年七歳の時、下谷御成道の石川家に「お画具(エノグ)溶き」    として奉公にあがる)     この石川家は、伊勢亀山の城主で六万石、石川主殿頭(トノモノカミ)遊佐(フサスケ)といわれた。その殿様のお道    楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号をさえ持    っておられた。江戸三百年の間n、浮世絵の弟子になったり、俳優の似顔を描いたりした大名は、この    石川主殿頭のほかにはない。無類一品の殿様である。豊国代々の紋章になったあの年の字を丸くした紋    所も、亀山侯の徽章であるのを、殿様が初代に襲用を許したそうだ〟  ☆ 竹内桂舟(けいしゅう) 紀州藩士 竹内銀平  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「口絵華やかなりし頃(一)」p189(武内桂舟記事)   〝 中野区昭和通、真宗、正見寺にある墓碑に、本間久雄氏の撰文があって、それに依って、文久元年十    月十一日、紀州藩士、武内半助の男として、江戸赤坂、紀州邸に生れ、狩野立信の養子になって敬信と    云ったが、後に生家の跡を継いで旧姓に復したことが判った。本名は銀平、戒名は硯精院釈桂舟居士と    ある。なお、桂舟は一時芳年に就き、年甫と云ったとの説もあるので記して置く〟    ☆ 磯田湖龍斎(こりゅうさい) 常陸土浦藩土屋家 浪士・磯田正勝  ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③295(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立) 〝湖竜斎     俗称磯田庄兵衛、住居両国薬研堀、後法橋となる    浮世絵を能す、東都薬研堀の隠士と画名を誌せり、法橋となりてより板下絵をかゝず、小川町土屋家の    浪人なり〟〈神田小川町には常陸土浦藩土屋家の上屋敷があった〉  ◯『浮世絵師便覧』(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   ◇p226   〝磯田氏、名は正勝、又春広、俗称庄兵衛、西村重長門人、後に法橋に叙せらる、錦画多し、◯明和、安永〟  ☆ 歌川貞勝(さだかつ) 石河甲斐守家臣・鈴木長次郎    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p114(文政七年(1824)二月二十七日)   〝甲申(文政七年)二月廿六日初来訪他行中ニ付不逢 廿七日再来対面ス 水道橋内石河甲斐守殿家臣     国貞弟子のよし 鈴木長次郎 画名 貞勝〟  ☆ 柳川重信初代(しげのぶ) 御家人 御玄関番・鈴木重兵衛     ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p125(天保六年四月頃)   〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信〟    〈この記事自体は二代目重信に関するものだが、ここから初代重信が根岸中村住の鈴木忠次郞の養子であること、そし     て二代目がやはり初代重信の養子であることが分かる〉    ◯『葛飾北斎伝』「重信伝記」p315(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝柳川重信 重信は、鈴木氏、俗称重兵衛、江戸の人初め本所柳川町に住す〟  ☆ 柳川重信二代(しげのぶ) 御家人 御玄関番?・鈴木佐源次    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p125(天保六年(1835)四月頃)   〝根岸中村御玄関番鈴木忠次郎養子重信婿養嗣 鈴木佐源次事 二代目 柳川重信〟  ◯『葛飾北斎伝』「重信伝記」p315(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝(柳川重信)門人重山【博覧家志賀理斎の男、俗称谷城季三太】(重信の)養子となりて、家を継ぐ〟    〈志賀理斎の三男〉  ☆ 竜光(しんこう) 藤堂藩士・福井八三郎  ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「虎門」合い印「浮世画」)   〝辰光 (号)柳月斎  (外)藤堂(侯)藩  福井八三郎〟       露繁子    〈辰光は藤堂藩士・福井源八郎(狂名・遊蝶窓露繁)の子〉  ☆ 樹下石上(せきじょう) 羽前山形藩士・梶原五郎兵衛  △『近世物之本江戸作者部類』p35(曲亭馬琴著・天保五年(1834)成立)   〝樹下石上    こもふるき作者にて寛政中よりその名聞えたり。鍛冶橋御門のほとりなる武家の臣なりしとぞ。実名を    知らず。その作風楚満人に似て、多くかた記討物をあらハしたれども、あたり作ハなし。今ハ古人にな    りしと歟。詳なることを聞ざりき。なほたづぬべし〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(50/103コマ)   〝樹下石上【寛政元年~十二年 1789-1800】    通称梶原五郎兵衛、市中山人と号す、羽前山形の藩士にして、戯作に名あり、また錦絵を画けりと云ふ〟  ☆ 葛飾戴斗二代(たいと) 京極飛騨守家臣・近藤伴右衛門    ◯『滝沢家訪問往来人名録』   ◇下121(文政十三年(1830)六月二十日)   〝庚寅(文政十三年))六月廿日地主杉浦より紹介 大暑中ニ付未面 麹町天神前京極飛騨守殿家臣     北斎門人之よし 近藤伴右衛門 画名 葛飾戴斗〟   ◇下123(天保四年(1833)十一月六日)   〝巳(天保四年)十一月六日 口状書持参 是より前杉浦氏継母紹介ス来面 麹町天神前 京極飛騨守殿    家臣 画名後ノ北斎戴斗 近藤伴右衛門〟  ☆ 楊洲周延(ちかのぶ) 越後高田藩主 榊原家家臣・橋本直羲  ◯『都新聞』(大正元年(1912)10月2日記事)(原文は漢字に振り仮名あるも省略)   〝楊洲周延翁死去。千代田の大奥を錦絵にうつし、美人画の大家として著名なりし。楊洲周延は翁は五年    前より御殿山下なる下大崎に隠遁、世に遠ざかり風流にくらし居たるが、去る六月以来胃腸を病み、九    月二十八日の夜遂に死す、七十五歳。翁は本名を橋本直羲といひ、越後高田榊原家の士。瓦解後彰羲隊    に入り上野にて戦ひ、夫より函館に遁れ、榎本、大島氏に随ひ五稜閣の戦ひに勇名ありしも、降伏して    高田藩へ引渡され、明治八年好める道を以て世を渡らんと出京して、湯島天神町に住し、改進新聞の画    工となり、旁、錦絵を多く画き、画は幼児狩野派を学びしが、後、浮世絵に転じ渓斎英泉の門人に就て    学び、次いで一勇斎国芳の門に入り芳鶴と号す。国芳没後国貞に就き、後に似顔画を豊原国周に学びて    一春斎周延と云ひ又楊洲とも号す。門人延一、玉英(楊堂玉英と云ひ団扇絵師)外数名ありし。玉英の    門より梶田半古を出せり。延一氏のみ目下壮健なりと雖も、周延翁の美人画を継ぐ者なく、国周没後の    江戸画は翁を以て全滅に帰せるものなり、惜しむべし〟  ☆ 恋川春町(はるまち) 駿河小島藩主 松平丹後守家臣 百二十石 年寄本役・倉橋格  ◯『近世物之本江戸作者部類』p31(曲亭馬琴著・天保五年(1834)成立)   〝恋川春町 號壽亭    駿河の小嶋侯(松平房州ママ)の家臣、倉橋春平(春平一作壽平)の戯号也、小石川春日町の邸に在るを    もて戯号を云々といへり【恋川ハこひしかわの中略、春町は春日町ハ中略也】この人の作は皆自画也、    好画てハなけれども一風あり、安永中喜三二と倶にくささうしの作に滑稽をはじめて、赤本の面目を改    めたり、そハ金々先生栄花夢、高慢斎行脚日記【春町自画にて并ニ安永四年正月出ッ、鱗形屋孫兵衛板】    是臭双紙に滑稽を旨とせし初筆にて當年大(イタ)く行れたり、就中万石通シの後編鸚鵡返シ文武二道【北    尾政美画、天明九年正月出ッ、三冊、物蔦屋重三郎板】いよゝます/\行れて、こも亦大半紙搨リの袋    入にせられて二三月比まで市中を売あるきたり【流行此前後二編に勝るものなし】當時世の風聞に右の    草紙の事につきて、白川侯へめされしに春町病臥にて辞してまゐらず、此年寛政元年己酉の秋七月七日    没年若干【葬於四谷浄覚寺云】〟  ☆ 歌川広重(ひろしげ) 御家人 火消同心・安藤鉄蔵(徳兵衛)    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下121(文政十三年(1830)閏三月七日)   〝庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広門人 画工広重〟  ☆ 歌川房種(ふさたね) 対馬藩士、長崎県士族・村井静馬    「桜斎房種」 靄軒生著(『【江戸生活研究】彗星』第三年 八月号)  ◯『文福茶釜』挿絵・赤表紙 多色摺 無署名(房種) 村井静馬 小森宗次郎   (国立国会図書館デジタルコレクション画像)    奥付「著者 南本所外手町十八番地 長崎県士族 村井清馬」  ☆ 北辰(ほくしん) 旗本  ◯「江戸座談会-奇人譚」(『江戸文化』第四巻四号 昭和五年(1930)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「岡本北辰」(17/37コマ)   〝(伊藤)葛飾北斎の弟子に岡本北辰をいふ人がある。これは本所の旗本でした。この人が奇人で御維新    の時に、榎本武楊と函館へ落げて流浪して醜態を極めてすつとこ冠りをして逃げた、それから食物がな    くて綿の実を食つて房州に流れた、其の時は旅画師になつて無事経過した。剣術が出来て晩年は小松川    警察の剣道指範になり、画がうまい。北斎の偽なんかうまい、この人が嫌ひなのは犬。唐竹割の腕を持    つてゐても犬がこわい。犬が来るとワーッと云つて竹刀をかついで逃げ出して行く。     府下南葛飾郡の鹿骨(しかもと)村、小岩村一円は傘の名産地だつた。飴屋の大きな傘に、人物の極彩    色を施して米国に輸出しました。この北辰先生のやつた仕事は、江戸末期の芸術(凧絵や絵馬)に全力    を注いださうで、かなり傑作を残しました〟  ☆ 北亭墨僊(ぼくせん) 尾張藩士・牧信盈 歌麿門人歌政  ◯『一宵話』秦鼎著・文化七序・跋〔日本随筆大成Ⅰ期〕⑲387   (『一宵話』の「解題」)   〝牧墨僊 名は信盈、俗称は新次郎、登、助右衛門等と改めた。雅号は月光亭、北亭、百斎、墨酔山人。    喜多川歌麿門人時代歌政、のち葛飾北斎の門人となり甚だ親しかった。名古屋に浮世絵の根を下したの    は此人であった。絵本の挿絵や自刻の銅版絵挿画がある。名古屋藩士、文政七年四月八日没す。享年五    十。名古屋市中区裏門前町万松寺に葬る〟  ☆ 蹄斎北馬(ほくば) 御家人・有坂五郎八(光隆)  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝蹄斎北馬(ルビていさいほくば)    北馬は本姓星野氏、俗称有阪五郎八と称し、駿々亭と号す。天保年間下谷二長町に住み、御家人の隠居    なり。蹄斎、幼き頃より画才ありしが長じて、北斎を師と仰ぎ、馬琴、振鷺亭、蘭山等の小説の挿画を    かきて名を顕せり。戯れに左筆を揮て曲画を作り、又彩色に巧なるを以て、谷文晁に愛せられ、密画の    模様を手伝ひ、奇才の聞え高し、晩年薙髪して、浅草三筋町に移り、弘化元年八月六日、七十四歳にて    歿す、一子を二世北馬と称し、門人遊馬、逸馬もまた善く蹄斎の風を守れり〟    〈北馬を御家人としたのは関根黙庵からのようである〉  ☆ 北鷹(ほくよう) 尾張藩士・水野継之  ◯「日本経済新聞社」2009年4月21日付夕刊「幻の弟子「北鷹」の作品発見」   〝北鷹は、尾張藩士で通称を水野善左衞門、名を継之といい、文化年間(1804-18)の初期に、江戸で北斎    に師事した。画名は北鷹のほか「桑亭」を名乗り、後年、葛飾以外お様式を学んで「蕃谷」と改名して    いることも判明した。没年は安政三年(1856)66歳の時である〟  ☆ 岩佐又兵衛(またべえ) 荒木摂津守村重遺児・岩佐勝重  ◯『好古日録』〔大成Ⅰ〕22-149(藤原貞幹著・寛政八年(1796)序)   (「岩佐又兵衛」の項)   〝又兵衛父ヲ荒木摂津守ト云、信長公ニ仕テ軍功アリ。公賞シテ摂津国ヲ予フ。後公ノ命ニ背テ自殺ス。    又兵衛時ニ二歳、乳母懐テ本願寺ノ子院ニ隠レ、母家ノ氏ヲ仮テ岩佐ト称ス。成人ノ後織田信雄ニ仕フ。    画図ヲ好テ一家ヲナス。能当時ノ風俗ヲ写スヲ以、世人呼テ浮世又兵衛ト云、世ニ又平ト呼ハ誤也。画    所預家ニ又兵衛略伝アリ〟   ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝岩佐又平、名は勝重、摂津伊丹の城主、荒木摂津の守村重の遺孽にして、越前の岩佐氏に育なわる、因    て其の姓を冒す。寛永中に平安に遊び、土佐光則を師とす、後、画を以て越前侯に仕ふ。世に称して浮    世又平と為すは即ち是なり〟  ☆ 墨川亭雪麿(ゆきまる) 越後高田藩 榊原遠江守家臣・田中源治    ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(文政十年(1827)十月十一日)   〝丁亥(文政十年)十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪    麿事 田中源治〟〈榊原遠江守は越後高田藩主〉 △『近世物之本江戸作者部類』p63(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝越後高田侯(傍注、榊原李部)の家臣也、俗称を田中源治といふ、文政の初の比より臭草紙を綴りて印行    せらるゝもの多かり、初は世評よしと聞えしのみ、抜萃なるあたり作なし、しかれども疊々として已ま    ず、戯作を著すをもて楽しみとす、みづからいふ、幾十歳になりても童こゝろのうせざればや、冬毎に    自作の冊子の発兌せらるゝを待わびざる年はあらずといひけり、好むことの甚しければならん、うち見    は老実なる好人物にて俗気あり、書は読まぬ人なるべし〟  ☆ 歌川芳形(よしかた) 常陸笠間藩 牧野家典医・大伴良順三男 庫之助   (玉川大学教育博物館ネット画像)   〝歌川国芳の門人。号は一震斎。十二、十三歳頃国芳に入門し、主に武者絵を多く描くが、二十四歳の若    さで没する〟  ☆ 歌川芳延(よしのぶ) 幕府小吏 松本家養子 松本弥三郞  ◯『古今書画名家全伝』続編(川瀬鴎西 東雲堂 明治三十六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)91/149コマ   〝松本芳延 画家なり、通称弥三郞、一狭斎と号す、亦遊狸菴都々美(つゝみ)と称して狂歌を善くす、天    保九年十一月生る、幼時幕府の士、松本某の養子となり其の家を継ぐ、然れども性放逸不羈にして、士    風の窮屈なるを患ひ、壮年の頃、画家国芳の門に入り、以て浮世絵を学ぶ、而して其の画名を芳延と云    ふ。狸を画くに妙を得たり、故に世人呼んで狸の芳延と称せり、嘗て産を破り、赤坂なる義兄吉田屋宇    三郞の許に寄食す、二世絵馬屋の門に入りて狂歌を学び、大に之れに妙を得たりしかば、画家を廃し、    名古屋に移りて幽居す、然れども其の生計に苦しむを以て陶器画を画き、多少の蓄財をなしたりしば、    之を懐にして東京に帰り、浅草田甫に料理店を開く、通称を狸汁を云ふ、幾ばくもなくして又横浜に移    り住みしが、明治二十三年八月十四日没す、年五十三、本所中の郷原庭町長建寺に葬る〟  ☆ 歌川芳春(よしはる) 幕臣 旗本某家臣  ◯『浮世絵』第三十号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一梅斎芳春小伝」兼子伴雨   〝渠(かれ)は文政十一戊子年、本所の旗本邸内で生れた、父は其処(そこ)の御小納戸を勤めた皆右衛門と    云ふ人だ、幾三郞は幼にして父の兄なる村川某に養はれて嫡子となつたが、長ずるに従ひ武家の窮屈を    厭ひ、渠の眼から自由の天地とも見える猿若町に出入して、盛んに天保時代のデカタンスを試みた 渠    が頻りに此自由の小天地に出入するのは、啻(たゞ)に自由を得らるゝばかりからではなく、一つの目的    があつた、それは当時売出しの若手四代目芝翫が芸に舞台に心酔されて、最初贔屓であつた芝翫を、野    暮な大小を棄て師匠と仰ぎたくなつた、が社交に通じない渠は、如何にして其の企図を推行しやうかと    熟考のすゑ、馴染の留場若衆から芝翫へと頼み込んだのである。    話の漸く進行するのを、何処でか漏れ聞いた養父は、立腹して禁足を命じ厳重に渠を監視した、渠は禁    足の苦悩に堪ず、庭に出ては、釘或は箒を持て、日頃親しく見た芝翫を初め俳優の似顔画を描いて自身    を慰藉した、此の様子を見た養父は、家職の無理強ひを止め、役者になられるよりは増であると、狂言    方勝能進の肝煎で歌川国芳の門下に列したが、渠の二十三歳の時であつた〟  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   「魯文の交友」(カッコ【~】は仮名垣魯文の文。地の文は竹清)   〝【一梅斎芳春廿一年二月六日没 六十一 霊岸寺中不動寺に葬る 伜は左団次門弟左伊次】    芳春の没日は五日なるべし、通称生田幾三郎 法号を芳雪院春誉一初信士と云ふ。    「隅なき影」輪にたらぬ程やをとりの影ほうし 芳春    始帯刀士官の身なりしが、すつべき物は弓矢なりけりと、彼薬師寺がむかしに傚へど、世を塵外と見破    るにはあらず、隣◎(忄+象)敷蝸廬に膝を屈し、画を以て産業とす、此人言葉に一僻あり、喰をさして    飯敵と号し、妻をさんかと唱ふ、此類尚多かれどさのみはもらしつ〟    〈蝸廬は小さな家。薬師寺公義は高師直の家臣。徹底抗戦の主張が入れられず落胆して「取ればうし取らねば人の数な     らず捨つべきものは弓矢なりけり」と詠じて落髪、身を墨染めに替えて高野山に入る(『太平記』)〉  ☆ 柳谷(りゅうこく) 平戸藩 松浦壱岐守家臣・未詳    ◯『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年(1845)序)   〝画工 柳谷 樵者 鳥越松浦公家士〟〈鳥越は平戸藩松浦家の屋敷のあったところ〉  ☆ 水野盧朝(ろちょう) 旗本 千四百五十石 御使番・水野元休  ◯『増訂浮世絵』p185(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝盧朝は徳川幕府の御使番を勤めた千四百五十石の旗本で、浅草鳥越町に屋敷のあつた水野小十郎元休で    ある。始め元敏といひ隠居して卿山と号した。明和五年十二月西丸御小姓、安永八年四月御本へ移徙、    天明元年五月再度西丸勤、寛政五年正月御使番、寛政八年六月大坂御目付、享和四年正月御先手御鉄炮    頭、文化十三年三月西丸御持筒頭、文化十四年七月新番頭、文政七年二月晦日辞す。盧朝の役人生活は    これで終つた。役の暇に風俗画を作つたのである。天保七年正月二十二日病死、享年八十五、浅草本願    寺中徳本寺に葬る。法名元休院釈遊法卿山大居士〟    〈上掲記事の出典は島田筑波著「隠たる浮世絵師/水盧朝」(『史蹟名勝天然記念物』7集1号所収 昭和7年1月刊)なお     『島田筑波集』上巻(『日本書誌学大系』49(1)所収)に同文あり〉