☆ 元禄年間(1688~1703)
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
◇「元禄九年 丙子」(1695) p56
〝此頃、元祖市川団十郎鍾馗に扮す。浮世絵師その容を画き板行して市中に売る、価五文なり。是より一
枚絵と称するものを種々発行して、正徳の頃まで専ら行はる〟
◯『江戸真砂六十帖広本』〔燕石〕④97(和泉屋某著・宝暦(1751~1764)頃)
〝元禄年中、勘三郎座にて、親団十郎荒岡に成て、切に鍾馗大臣と成て大当り、其鍾馗を西之内四ッに切
て、板行して出す、読売の者、鍾馗大臣団十郎と、呼かけ売ける、我も七八歳の頃、珍敷五文宛に買け
る、夫より段々外の役者絵はやりて出ぬ〟
〈市川団十郎の役者絵、一枚5文〉
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
〝浮世絵類考云
京伝按、江戸真砂六十帖云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、其容を画き刻て街に売、価銭五
文、是より役者一枚絵と称するもの、数種を刻す云々、以上略す〟
☆ 寛延~宝暦~文化年間(1748~1817)
◯『続飛鳥川』〔大成Ⅱ〕⑩25(著者未詳・成立年未詳)
〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物、
元日に番附売、初狂言正月二日始る。番附代六文
一枚絵草紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり鳥居清信筆、其外奥村石川〟
〈正月早々、一枚絵草紙売りが売り歩いたものは、漆絵・浮絵・金平本・赤本・糊入ずり鳥居清信・奥村政信や石川豊信
の一枚絵や草双紙。この中の「糊入ずり鳥居清信」とは『塵塚談』に〝其頃(宝暦)迄は、一枚絵とて、役者を一人を、
糊入紙を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記すのみにて、
顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり〟とあるもので、糊入紙を三ッ切にした鳥居清信画の役者絵である〉
〈芝居番付は6文、役者の細判紅摺絵は4文〉
☆ 宝暦年間(1751~1763)
◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立)
〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の
額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍
敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者を一人を、糊入紙
を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記す
のみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も
似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、
角力取迄も似顔絵にしてうることゝなれり〟
〈錦絵以前の役者絵の記事。役者似顔絵は鳥山石燕が浅草寺に奉納した額の肉筆絵から始まるという。板画の役者絵の
方はまだ似顔がなく、しかも糊入紙を三ッ切にした三四遍摺とあるから、紅摺絵である。それが一枚4文であった。
なお、この中村喜代三郎は初代で安永六年(1777)没。浮世草紙とは草双紙(黄表紙・合巻)か〉
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②276(山東京山著・弘化三年(1845)序)
〝此頃(天明期)は、今の如く絵店にて、錦絵の団扇は稀には売もありけれど、はし/\には絵みせさへ
なければ、うちわを物に入れて背負ひ、竹に通したるをもかたげ「ほんしうちわ、ならうちわ、さらさ
うちはや、ほぐうちは」とよびて売りありく、おほかたは、若しゆ、二さいなどなり、にしきゑのうち
わ一本十六文なり、其粗末なりしをしるべし〟
〈錦絵の団扇16文〉
☆ 天明三年(1783)
◯『通詩選笑知』〔南畝〕①416(天明三年一月刊)
(「薬用貧女訪不遇」という狂詩の中に「此乳春」の語あり。その頭注)
〝此乳春 春章一こくあたへ八もんと、むせうに似づらをかひて八文にうらせやす。つぼの印は乳のはつ
たやうなることなり〟
〈春宵一刻値千金ならぬ春章の似顔絵は値八文という意味か。壺印は春章の印〉
☆ 天明頃(1781~1788)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
◇役者絵 ⑥61
〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古
板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程
なるや予不知〟
〈新版錦絵の西之内紙三つ切の細判役者絵が8文、古版が6文、糊入紙(杉原紙)の三つ切が2~3文〉
◇草双紙 ⑥61
〝草双紙、天明年中迄は、新作の本一冊八文にて、五枚宛綴たるもの、是を上下もの又三冊もの迚統き物
にして、尤祇は白漉の返し紙なり、表紙黄色の紙にて仕立たる物也、是を正月元日より、一枚草双紙と
て売来る、求め、子供への年玉物にしたる物也〟
〈黄表紙は一冊8文だから三冊物だと24文〉
◇団扇絵 ⑥162
〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る
ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、
其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟
☆ 寛政七年(1795)
◯『江戸町触集成』第十巻 p45 触書番号10266(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
(寛政七年(1795)九月晦日付)
〝錦絵之分、先年より追々高情(ママ)ニ相成、直段相増候間、錦絵壱枚廿銭已上之品摺立有之分、其外所持
之分画数銘々書出置、其数限売払、此上売直段壱枚十六文十八文已上之品致無用候様、相心得候様可申
付候右之通申談候間、右両様共御承知之上、猶又御心付御取計ひ、廿銭已上有来画数御組合限為御書出、
其品限売払候段御聞届可被成候〟
〈一枚の売値20文以上の錦絵は在庫限り、今後は一枚16文から18文までとし、それ以上は無用だと、町奉行の強
制命令である〉
☆ 寛政年間(1789~1800)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
◇団扇 ⑥62
〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る
ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、
其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟
〈寛政年中の役者絵の新版団扇絵は一本16文〉
☆ 天保二年(1831)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
◇草双紙 61
〝今の草ぞうしは、何かこと/\敷致、害事も細かに長々と書て、さま/\込入たる故、子供の慰にはな
らず、大人の持あつかふものなり、価も一冊一匁又一匁五分などゝ有れば、子供の詠めものにならず、
根本の訳をうしなひし事、此類近比は余多有りける〟
〈「今の草ぞうし」とは合巻のこと、一冊一匁~一匁五分とある、当時の銭相場は一両=6535~6600文、仮に6600文と
して、金一両=銀六十匁で換算すると、一冊一匁は110文に相当する〉
◇団扇 ⑥62
〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る
ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、
其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟
〈天保二年当時、団扇絵一本48文のものと36文のものがあったようだ〉
☆ 天保五年(1834)
◯『馬琴日記』④165 七月廿一日記
〝清右衛門来る。申付置候にしき画三枚、つるやにてかひ取、持参。右代銭三十六文、遣之(中略)にしき
は、より朝不二牧狩の処、太郎ほしがり候に附、かひ取、遣之〟
〈錦絵三枚続が36文、一枚12文。図柄は頼朝富士の牧狩。つるやは鶴屋喜右衛門店。太郎は馬琴の嫡孫〉
☆ 天保九年(1838)
◯『馬琴書翰集成』⑤36 天保九年(1838)七月一日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)
〝「八犬士錦画」、西村やニて、先年より追々ニ出板の残り弐枚【毛野大角】当三月出板いたし候間、早速
買取置候。是ニて、八枚不残揃ひ候也。(中略)錦画の紙イヨマコ、甚高料のよしニて、価前々とハ一倍
に成り、西与のハ壱枚おろし直三分づゝ、小うり店ニてハ四十八文づゝニうり候よし。役者画ハ、おろし
直壱枚廿四文づゝ、小うり店ニては三十二文づゝにうり候へども、よくうれ候よし〟
〈「八犬士錦画」とは一勇斎国芳画・西村屋与八板『曲亭翁精著八犬士随一』。最後の二枚は「犬阪毛野胤智」と「犬
村大角礼儀」。これを48文の小売値で販売していた。なおこの八枚組の出版時期を整理すると、以下のようになる。
天保七年三月刊 四枚 「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」
「犬江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」
天保八年六月刊 二枚 「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」
天保九年三月刊 二枚 「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」〉
一勇斎国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」
(館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)
〈またここでいう「役者画」とは、閏四月から市村座で興行していた「八犬伝狂言」の「錦画」で、国貞画の「歳戌里
見八熱海」などをいうのであろう。これの小売り直が32文〉
五渡亭国貞画「歳戌里見八熱海」
(早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索)
☆ 天保十一年(1840)
◯『馬琴書翰集成』⑤191 天保十一年(1840)六月六日付 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-54)
〝「八犬伝芳流閣之大錦絵」三枚続、此節芝泉市ニて新板売出し、高料ニハ候へども能うれ候由、去乍色
板数返ニて、摺多出来兼候由聞伝候間、板元ハ遠方ニ付、近処伝馬丁絵草紙屋ニてかい取候。(中略)
代銭ハ壱枚三十八文宛、三枚ニて百十八(ママ)文ニ御座候。(中略)此度のは国芳作乍、至極評判宜敷由
ニ候へども、何分衰眼ニて見へわかず候〟
〈国芳画・三枚続「八犬伝芳流閣之大錦絵」は、一枚38文の三枚で118文という、単価と合計の計算が合わないが、と
りあえず一枚38文と見なす。「曲亭翁精著八犬士随一」が一枚48文で、飛び抜けて高く別格だが、普通の役者絵の
32文よりは高価である〉
◯『馬琴書翰集成』⑤228 天保十一年(1840)十月二十一日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-69)
〝「弓張月の錦絵」、三枚続キニて、素人之蔵板に御座候。画工ハ北鵞ニて、為朝大蛇を退治致候処ニ御
座候。色ざし廿ぺんほどの由ニて、美を尽し候。「八犬伝之錦絵」流行故之事ニ可有之候。先頃、引受
人より三枚百文ニてかい取せ候へども、老眼ニハ何かわからず、無面目に御座候〟
〈素人蔵板とは地本問屋仲間以外の制作という意味であろうか。引受人とはその販売担当か。馬琴作『鎮西弓張月』に
題材をとった武者絵、二十遍摺、三枚続きの北鵞の錦絵が100文。一枚33文の見当である〉
☆ 天保改革以前(~1841)
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④307
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝『田舎源氏』等、その他ともに合巻一紙二冊入、価銭大略百二十四文。毎冊各二十枚なり。二冊入の表
囊にも五、六編摺りの画を用ひたり
一枚画すなはち錦絵、あるひは江戸絵と云ふ物、伊予正(イヨマサ)と云ひ、紙半枚摺りなり。美人等十三
五編摺の物一枚、価三十二銭ばかり。役者肖像等、わづかに粗なるもの、一枚二十四銭なり〟
〈「田舎源氏」とあるから、天保年間の値段と考えてよいのであろう。二冊からなる合巻の値段が124文。錦絵の美人
画が32文、役者似顔絵が24文〉
☆ 天保十三年(1842)
◯『藤岡屋日記 第二巻』p302(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)十一月記)
〝十一月 町触
絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。
但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限
り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人
抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟
〈彩色は七八遍摺以内、値段は一枚16文。これは寛政の改革時の16~18文以内に倣ったもの〉
◯『藤岡屋日記 第二巻』p314(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記)
〝天保十四卯年春
本郷二丁目古賀屋板元にて、神田明神祭礼の画を出して、よく売れて損をせし事
是は祭礼之図三枚に紅をたんと遣いて極彩色に致し、能売候得共、前々と違ひ高直に売事ならず、一枚
十六文宛にては少々損参り候に付、能売候程たんと損が参り候に付、
古賀やめが祭りを出して声とあげ
きやりのやふななきごへがする〟
〈昨年十一月の通達で一枚16文以上無用とされたのだが、色数を制限しないとコスト的には相当厳しいようである〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)(弘化元年)記)
(「源頼光土蜘蛛の画」記事、天保十四年八月、歌川国芳の三枚続き大評判になる。それに続いて)
〝又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵双
紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見せ
売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続百
文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり
廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ
板元過料、三貫文也
画師貞秀(過脱)料 右同断也〟
〈これは一勇斎国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」に続いて出版された貞秀の土蜘蛛の記事。小売り値を見ると、店頭に
つるした絵(改めを経た化け物なし〉は36文で一枚12文、しかし密売品(化け物入り)の方は100文で一枚33文、約
三倍の値段で隠し売りしていた。貞秀画は国芳のものより小形でこの値段。前年、天保十三年のお触れでは「彩色七
八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用」であるから、如何に高価であるかがわかる。逮捕された板元久太郎およ
び画工・貞秀は共に手鎖二十日、過料三貫(3000)文。2011/04/12・訂正〉
〝其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘蛛
のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也〟
〈今度は「頼光土蜘蛛」の春画版である。一組三匁とは銭換算するとどれくらいなのであろうか。天保十三年の公定相
場、金1両=銀60匁=銭6500文、これで換算すると、三匁は325文。2011/04/12・訂正〉
☆ 弘化四年(1747)
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二」「市中取締之部 二」p24
(町奉行配下隠密廻りの弘化四年(1847)五月十三日付「市中風聞書」)
〝趣意弁別致し兼候絵を板行し、右之内頼光四天王之絵、又ハ天上地獄之絵其外品々不分之絵柄など差出、
人々之目ニ留り、是ハ何に当り可申抔判断を為附候様ニ致シ成、奇を好候人情ニ付、新絵出候度、毎争
而買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後ハ、猶々難得品之様ニ相心得、探索いたし相調、残
り少ニ相成候所ニ至候而ハ、纔三枚ツヾキ之絵二朱一分位ニも素人同士売買致し候由ニ相聞、右ハ何と
なく御政事向、御役人ぇ比喩いたし候事ニも相聞、以之外不宜筋ニ而(云々)」
〈「頼光四天王之絵」は天保十四年(1843)の一勇斎国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」、「天上地獄之絵」は天保十五
年(弘化元年・1844)歌川貞重の「教訓三界図絵」。(本HP貞重の項参照)この史料は隠密廻りがこれら判じ物の
取引値段を報告したもの。絶板・発禁になると、今度は希少価値が付いて、三枚続を一分二朱で買い求める者も出て
くるというのである。一分二朱は八分の三両、これを天保改革での公定銭相場・金1両=6500文で換算すると、2436
文に相当する。こうなると判じ物も立派な投機の対象といって差し支えあるまい。手入れがあったと噂するだけでも
売値はあげられるのである〉
☆ 嘉永元年(弘化五年・1748)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)
◇三月刊、英泉戯作・国芳画「誠忠義士伝」p246
〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、
団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七
人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚
続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番
ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。
誠忠で小金のつるを堀江町
ぎし/\つめる福はうちハや〟
「誠忠義士伝」 一筆葊誌・一勇斎国芳画
(江戸東京博物館)
〈五十一枚組の「誠忠義士伝」が八千セット(合計すると四十万八千枚)。上記貞秀画「富士の裾野巻狩之図」三枚組
72文で計算すると、一枚当たり24文が408000枚であるから、総計で9792000文。これを前項同様、1両=6500文の相
場で換算すると1506両になる。因みに次項の国芳画「亀奇妙々」三枚続60文を参考に一枚20文とすると、8160000文
で1255両となる。いずれにせよ前年の七月からこの年の三月まで、約八ヶ月でこれだけの売り上げである〉
◇四月刊、国芳画「亀奇妙々」p246
〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、
三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、
残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。
是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売
れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。
工夫して徳兵衛取らふと思ひしに
亀々妙々に売れず損兵衛〟
「亀奇妙々」
(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
〈三枚続60文、一枚20文。前項の「誠忠義士伝」は四十万八千枚、こちらは三千枚摺り込んだものの実際に売れたのは
四百五十枚。当たるとはずれるとでは雲泥の差である〉
◇九月刊、貞秀画「富士の裾野巻狩之図」p245
〝三枚続ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり〟
〈一枚あたり24文である。全文は本HP歌川貞秀の項参照〉
〝右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、
二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十
一月十日ニ右板木をけづらせけり〟
〈三枚続きが8000組、合計576000文。当時の公定相場1両=6500文で計算してみると約89両に相当する。
九月二十四日売り出し、板木を削ったのが十一月十日。約二ヶ月足らずであった〉
「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画
(早稲田大学・古典籍総合データベース)
☆ 嘉永三年(1850)
◯『藤岡屋日記 第四巻』p134(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
◇「【きたいなめい医】難病療治」国芳画
〝(六月十一日之配り、通三丁目遠州屋彦兵衛板元、一勇斎国芳画「【きたいなめい医】難病療治」記事)
右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下げ二
〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に付卸直一
〆文、又は二朱也〟。
〈遠州屋彦兵衛の卸値は百枚2300文(一枚23文)、売れるにつれて卸値が下がり、一枚20文から一枚12文になる。一方
重板のほうの卸値は百枚1000文(一枚10文)か、または百枚に二朱(2朱は1/8両で、天保改革の公定では約812文、
嘉永二年末で718~736文という記事もあるから(『事々録』未刊随筆〕⑥386)、一枚約7~8文である。小売りの方
は分からない〉
◯『藤岡屋日記 第四巻』p175(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
◇落雷場所附
〝八月十七日之配り
本郷金助町板木屋太吉板元ニて、為直画、落雷伊予政壱枚綴出ル。袋ニ、名倉の門口へ雷の怪我人を戸
板ニ乗せ、黒雲がにない込候処、肩ニ落雷場所附、入口の札ニ、骨接泥鏝療治所、応需為通(ママ)画、墨
・丹・藍の三扁摺ニて、五十文也、尤無印也〟
〈為直画の「落雷場所附」。火事や地震時にその被害状況を報道する「かわら版」の一種。三色摺で50文は高価である〉
☆ 嘉永六年(1853)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)
◇三人賊の錦絵
〝二月廿五日
昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也
浅草地内雷神門内左り角
錦絵板元 とんだりや羽根助
今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ
て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門
より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。
三賊で唯取様に思ひしが
飛んだりやでも羽根がもげ助
右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。
浅草並木町
湊屋小兵衛
長谷川町新道
住吉屋政五郎
日本橋品川町
魚屋金治郎
右三人、三月廿日手鎖也〟
〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児
来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを
経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(摺師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸では禁じら
れていた金摺りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的に1両=
60匁=4000文で、計算してみると、三百文になる)で売り出した。天保十三年十一月の御触書では「彩色七八扁摺限
り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き三百文(一枚百文)は飛び抜けて高価である。ところ
が評判を得て売れた。すると早速、改めの懸かり名主がそれを咎め(察斗)て板木を取り上げてしまった。さらに、
板摺・とんだりや羽根助なるものの陰に隠れていた実の板元の名が割れて、湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋金治郎
が手鎖に処せられた。当時の江戸の板元は、利益率も高いが検挙されるリスクも高い商品の場合、密かに板摺に資金
を提供して、板元の役割をさせたのではないか。ところで、どれほど売れたのであろうか。二十五日売り出し、二十
八日の板木没収まで実質三日の販売。参考までにみると、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り
候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。
この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一日だけで銭十六万文、これを金換算すると、実に四十両である。二日
で八十両にもなる。板木を取り上げられるまで、どれだけ売り抜けられるかそれに勝負をかけているのだろう〉
〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値の
四匁五分は440文に相当する。一枚あたり146文になる。1600枚では233600文=37両となる。参考までに「【見立】三
幅対」をあげておく。2010/3/16追記〉
「見立三幅対」 豊国画
(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
〝 東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東
都会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。
右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大
評判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名
主立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。
東海で召連者に出逢しが
皆幽霊できへて行けり
右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟
〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁
五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。
「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。
「同合之宿」も未詳。
「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。
「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。
「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。
「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。
「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。
「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。
以上はすべて嘉永五年の刊行〉
〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、
極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目
豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
「東海道五十三次お内 藤川駅」「佐々木藤三郎」 豊国画
(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
「木曾街道六十九次」「下諏訪 八重垣姫」 一勇斎国芳画
(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
「東都名所見立十二ケ月之内極月 両国 大星由良之助」 一勇斎国芳画
(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
「江戸名所図会 九・真乳山 三浦屋揚巻」 豊国画
(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
「見振十二おもひ月」 一勇斎国芳狂画
(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
「東都高名会席尽 藤屋」 豊国・広重画
(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
☆ 幕末
◯『浮世絵』第一号 (浮世絵社 大正四年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝江戸の錦絵店 小島烏水(p2-8)
絵は二十四文から、三十六文が上物で、十六文が安摺や、八文のベボ絵となると、買つても包み紙を出
さない、いゝ品となると、店の名を入れた駿河半紙に包んで、版元からよこす截ち落しの柾の細紙で、
結(ゆは)ひてよこしたもんだ、中にも奉書刷の極彩色大首は、九十六文からした、さういふのは、店頭
に吊さず、影で売つてる、店頭に出すと、こんな贅沢な物を、何にするんだと、その筋の御役人に、咎
められるからだ〟
☆ 明治元年(慶応四年・1868)
◯『藤岡屋日記 第十五巻』p505(藤岡屋由蔵・慶応四年(1868)記)
◇戊辰戦争絵
〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之
此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、
三月廿八日御手入有之。
右品荒増之分
子供遊び 子取ろ/\ あわ手道化六歌仙〟
「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆
(東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図
(東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
「道化六歌仙」二枚組・右図 左図 署名なし
(東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
〈二図ともに戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、子供たち
の着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。また遊び
を後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負っている
のが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬えたのであ
る。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。図の上
「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよく分か
らない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」とある。
「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手してい
るのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考えられ
る。ではもとの小売り値段はどれくらいだったのであろうか。
『藤岡屋日記 第十四巻』慶応三年の記録に「蕎麦屋も段々直上ゲ之上ニ、五拾文ニ相成候ニ付 十六が三十二になり
片付かず五十に成てまだこもり也」(p458)とある。天保の頃16文だった蕎麦がこの時期には50文にも値上がりし
たというのである。この天保の頃16文は一枚絵も同じ。天保十三年十一月晦日の通達には「売直段壱枚拾六文已上之品
可為無用」、つまり一枚16文以下にせよとある。一枚絵をそばと同列に論じられるかどうか心許ないが、今仮に準じて
みると、この頃は一枚絵も50文位ということになる。それが30万余の出回ったというのである。上記二図で30万という
ことでなく、戊辰戦争絵のような時世を題材とする一枚絵の総数をいうのであろうが、それにしても大量である。この
二図でいえば、発売が二月と三月、手入れが三月末、わずか一、二ヶ月である。さて売り上げを見積もってみよう。50
文が30万部で1500万文。これを明治二年(とはいえ翌年のこと)新政府が定めた1両=10貫文=10000文を、これまた
便宜上当てはめると、ちょうど1500両になる。30万という数にどれほどの信憑性があるか確かめるすべもないが、それ
にしても莫大な売り上げである。まして二枚組100文の売り物を官憲の手入れの後216文も出して求める人もいるのであ
る。摺り溜めていたものを隠し持っていて売るものにとってはボロ儲けである。時世を題材とするものは板木没収・過
料・江戸払い・財産没収などの危険と隣り合わせであるが、当たればこれだけの利得をもたらすのである。諷刺画は金
のなる木であった〉
〈下掲、淡島寒月著「私の幼かりし頃」によると、慶応の頃、役者の一枚絵は天保銭二枚の由。天保銭は額面こそ100文だ
が、実勢は80文だから実価格は160文位か。従って上掲「幼童遊び」シリーズ、役者絵ではないといえ「一枚絵50文位」
という推定は誤りであった。また二枚続の「道化六歌仙」の216文を官憲摘発後の高騰した取引価格と見なしたことも、
適切ではなかったように思う。単に一枚108文の小売値と見てもよいのだと思う。役者絵160文と際物出版108文の価格差
は、画工・彩色・紙質の差なのであろうか。2020/03/14〉
☆ 明治七年(1874)
◯「東京日々新聞大錦」(錦絵版『東京日々新聞』の出版予告)
〝一葉ニ付 一銭六厘〟
〝東京人形町通り/地本絵双紙問屋 具足屋嘉兵衛〟
☆ 明治九年(1876)
◯「上野公園ヨリ南東眺望之図」錦絵 大判三枚続 守川音次郎(周重)画 森本順三郎板 価四銭五厘
〈3枚続4銭5厘は1枚1銭5厘〉
☆ 明治十年(1877)
◯「各隊整列之図」錦絵 大判三枚続 広重画 林吉蔵板 価六銭〈3枚続6銭=1枚2銭〉
◯「生徒勉強東京小学校教授双六」双六 広重画 多賀甚五郎 明治10年10月 定価12銭
☆ 明治十一年(1878)
◯「大晦日盛衰振分双六」錦絵 双六「桜斎房種画作」「画工村井静馬」綱島亀吉板 定価十七銭
☆ 明治二十九年(1896)
◯『読売新聞』(明治29年6月29日)
〝昨今の錦絵
東錦絵は日清戦争に止めを刺して 是ほど捌けしこと古来稀なりといへるが 其余波今も猶残りて 年
方・年英・月耕などの筆になる京城談判より講和談判に至るまで 五十組に仕組みて画帖となせしもの
地方は勿論 遠く海外へも輸出するもの多しとぞ 代価は凡そ三円五十銭乃至四円なり(中略)
〈三枚続きの五十組の総枚数は150枚、その代価が3円50銭~4円の間とすると、1枚当たりの平均は約2銭5厘〉
「千代田の大奥」(楊洲周延画) 定価は三枚七銭五厘(四十番ありて之を組みて折本とするもの)
〈3枚7銭5厘は1枚2銭5厘〉
「徳川時代貴婦人」(周延画) 三枚七銭五厘〈1枚2銭5厘〉
「子供遊」(宮川春汀画) 奉書一枚もの四銭〈奉書1枚4銭〉
「子供風俗」(春汀画) 政摺一枚もの二銭五厘〈政摺1枚2銭5厘〉
(同じ紙面上に、政摺(まさずり)とは「伊予より産出する奉書に類して稍(やや)劣れるもの」とあり)
「花美人名所合」(尾形月耕画) 奉書摺三枚十二銭位〈奉書1枚4銭〉
「花模様」(小林清親画) 三枚七銭五厘〈1枚2銭5厘〉
「切組灯籠」政摺 小一枚五厘 大三枚六銭〈小1枚5厘・大1枚2銭〉
〈この頃の錦絵の小売り値段は奉書1枚4銭・3枚続12銭 政摺1枚2銭5厘・3枚続7銭5厘〉
☆ 大正四年(1915)
◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「浮世絵雑記 春信の座敷八景」柏原古玩氏談(19/24コマ)
〝明和の頃に錦絵屋で売つた直段が 外の細絵は十二文、大錦は廿四文と云ふのだそうで、所で此春信の
中錦はと云ふと、一枚一匁(百六十文)と云ふ群を抜いた直段でした、第一買ふ客種が違ひました、細
絵や大錦は お百姓お職人中商人の土産ものと極つて居ましたが、独り春信の絵に至つては武家か大商
人でなければ買はなかつた、否(いや)外の者には買切れなかつたのでした。あの春信の絵に座敷八景と
云ふのがありませふ、あれがさ、揃八枚で其当時、桐箱へ入れて 中へ奉書で一枚々々に合ひ紙がして
あつて、其直段は云ふと金一分。酒と肴で六百出しや気侭と云つた尻取り文句の流行た時代よりズーツ
と未だ諸式の安かつた時代にですね、金一分と云ふ錦絵は、マア余程余裕のあるものでなけりやア 手
が出せませんでしたろう〟
☆ 大正六年(1917)
◯「私の幼かりし頃」淡島寒月著(『錦絵』第二号 大正六年五月刊)
(『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p390)
〝(私の幼い頃)私なぞが錦絵でよく買ったのは、やはり役者絵であった、権十郎(九代目団十郎)、田
之助、彦三郞などを盛んに集めた。そしてその錦絵は三枚読き大抵一朱で、一枚絵天保銭で二枚位、よ
ほど上等な奉書紙ででも使ったのでなければ二朱なんていうのはなかった〟
〈梵雲庵淡島寒月は安政六年(1859)生まれ、幼い頃というと慶応年間(1965-7)をいうのであろう(九代目団十郎が権十郎
を名乗るのは明治二年(1869)二月まで)さて役者絵の値段、一枚絵は天保銭二枚とする。天保銭は額面100文だから200
文ということになる(寒月は「行楽の江戸」(『梵雲庵雑話』p89) の中で「二百文即ち天保銭二枚位」と言っている。
ただ天保銭の実勢は80文相当であったから、この観点からすると役者絵一枚160文ということになる)次に三枚続の値
段1朱であるが。この当時の銭相場が不安定で1朱が何文に相当するのかよく分からないので、取りあえず3倍してみる
と600文ということになる(参考までに、ネット上の「江戸時代貨幣年表」によって換算してみると、元治元年(1864)
は1両=16朱=6.716文であるから1朱=420文となる。慶応元~二年の銭相場は不明。慶応三年は1両=16朱=8164~8432文、
これの平均をとって1両=16朱=8313文とすると、1朱は520文となる。なお明治4年の「新貨幣条例」以降、新旧通貨の交換
レートは1銭=100文であったが、天保銭はやはり実勢を反映して8厘(0.8銭)と定められた。従って一枚絵は天保銭2枚相
当とすると1銭6厘となる。上掲明治7年刊「東京日々新聞大錦」も1枚1銭6厘であるから、幕末から明治の初年にかけて
一枚絵はこの程度の値段であったものと思われる〉
◯「近世錦絵製作法(三)」石井研堂著(『錦絵』第廿四号所収 大正八年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝 新版錦絵の小売相場を書いておかう、近年まで一孔二厘づゝに通用してた寛永青銭、あの青銭が四文
銭と通称されて、小寛永の四当銭であつた、手遊絵などは、価四文でこの青銭一孔、三枚つゞき芝居絵
は四十八文(青銭十二孔)を常とし、田舎向の安物などは、それ以下であつた〟