Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うきよえ 浮世絵の分業システム(未定稿)浮世絵事典
    浮世絵の製作システム(※ 諸職とその役割)     浮世絵の製作プロセス(※ 分業の流れ)    版画や版本は上掲のようなシステムの下、上掲のようなプロセスを経て製作されます。浮世絵師がこれらを独りで担うわけ    ではありません。通常私たちが「神奈川沖浪裏」や「婦人相学十躰」を目にしたとき、真っ先に思い浮かべるのは北斎・歌    麿といった絵師名であることが多い。しかし「神奈川沖浪裏」も「婦人相学十躰」も、それらを企画する版元がいなければ、    北斎や歌麿がそもそも富嶽や婦人の様相を画くことはなかっただろうし、作品として世に出ることもなかったに違いありま    せん。また同様に、器量のある彫師・摺師がいなかったら、現在私たちが目にするような出来映えにならなかったことも確    かです。実際、作品に彩りや華を添えるのは、この版元・絵師・彫師・摺師の分業体制に他ならないからです。    現在、私たちは北斎や歌麿を西洋の近代画家と同様のイメージで捉えがちです。確かに北斎や歌麿は今や世界の北斎・歌麿    ですから、彼らの名称および彼らの作品は、もはや江戸という時空を超えて、未来にもおよぶ普遍性を有しています。した    がって彼らを西欧の芸術家と同列においてその異同や特長を論ずることは十分に意義があると思います。    しかし一方で、彼らは上掲のような製作システムの中に組み込まれているわけで、基本的には彫師・摺師同様、浮世絵師は    画工と呼ばれる職人として位置づけられていました。彼らの役割はいうまでもなく、版元や戯作者の求めに応じてそれを視    覚化することにあります。しばしば「応需◯◯画」(◯◯は画工名)といった落款を目にします。これは板元や戯作者や狂歌    師のような風流人の「需(もとめ)」に応じて画いたという意味ですが、本HPはこの署名に込められた画工の意向を以下の    ように理解しています。何を画くかについては「需め」という形で他者からもたらされる以上、自分の内面がこれに関わる    ことはない、しかし一旦「需め」られたものなら、例えそれがなんであれ自分は全力でこれに「応じ」てみせると。「応需」    には、職人画工としての自分の技倆に対する自負心が密かに込められていると見てよいのでしょう。ともあれ「応需」とは    浮世絵師が画工として分業体制の中に組み込まれていることを示すサインでもあるわけです。    以下、製作システムの役割分担がどのようになされていたのか、少し詳しく見ていきます。   式亭三馬は合巻(草双紙)の製作について次のように述べています。   「(作者・画工・筆工・彫師・摺師・板元について、これらを)たとへばあやつり芝居のごとく 作者は大夫にて絵師は三味    線ひきなり それゆゑ合(あひ)三味せんとあはぬ三味せんあり 又ひきころばさるゝ大夫もあり 又かたりいかして三味せ    んをひきたつる大夫あり その中にも大夫がふしづけをするは 作者が下絵を付るにひとしく 三味せんひきがふしづけを    するは絵師が下絵から画くにおなじ これきはめて大切なることにて 大夫・三味せん 作者・画工の心があはねば やん    やとお声もかゝらず ゑらいとも うまいとも 三糸すりますともいはれず 両方のそんもうとなるなり そこで板元の座    元どのが おの/\大当たりをせんとて骨を折ることなり(中略)さて又そのほかの面々は おの/\手すりへまはる人々    にて たとへば人形つかひの人形をつかふがごとく なかまの人々をつかふやら 下細工をつかふでつちをつかふ さいそ    くの人をつかふ せつないときには留守をつかふ 板元・作者・絵師・筆工 おたがひにつかはれたりつかつたり 一年中    立まはりて そのいそがしさ図のごとく(云々)」(合巻『腹之内戯作種本』発端 式亭三馬作・文化八年(1811)刊)   草双紙は作者・画工・板元・学者・板木師(彫師)・摺師の協業によって製作される、と三馬は言う。なかでも作者と画工との   関係は緊密で、三馬はこれを浄瑠璃における大夫と三味線弾きの間柄になぞらえます。そして、芝居の出来が大夫と三味線弾   きとの呼吸に左右されるのと同様、作品の出来栄えも作者と画工との相性にかかっている。したがって、この両者の関係がし   っくりいくよう調整するのが、座元ならぬ板元の勤めであるとするのです。またその他の面々、つまり彫師や摺師についても   同様で、こちらは手摺のある舞台上の人形遣いと同じ役割をしているとします。ですから、大夫と三味線弾きによって音曲化   された床本の世界を、視覚的に表現するのが人形遣いであるとするならば、作者の趣向を盛り込んだ文や画工の板下絵によっ   て示された世界を、彫刻・印刷して具体的に表現するのが彫師や摺師の役割だと、三馬は見ているようです。   〈以上、式亭三馬の引用は2024年1月の加筆〉  ◎【板元と戯作者および画工との関係】版本(合巻)  ◯『復讐源吾良鮒魚』合巻(勝川春扇画 東西庵南北作 山田屋板 文化五年(1808)刊)   (慶応大学提供 ネット画像より)    (板元・山田屋三四良の口上)    〝当時 艸草紙益々流行仕候ニ付 私義も誠に卵魚(ざこ)の大魚交りながら 源五郎鮒と申(す)外題を     思ひ付 頼ミし作者ハなんにも知らぬ井のうちの鮒 その井戸に縁のある糀町の春扇が画も始て作も     始て版元も始めての 三人竒れハ合巻の智恵も身もなひ敵打 人をば鱗(こけ)にした埜奴(やつ)と誹     (そしり)の程は御用捨あれ 只面白し尾◎(おひれ)を附て 御評はん元の名と      作者の顔も辰の初春  地本問屋 芝神明前 山田屋三四良梓〟    〈板元山田四郎の合巻出版は初めての試み。新参の板元としては当時の流行作家である山東京伝や曲亭馬琴のような大物の     起用が難しかったのだろう。画工の歌川豊国・豊広・勝川春亭なども事情は同じ。そこで山田屋は自らの腹案を形にして     くれる作者と画工を新規に開拓せねばならなかった。白羽の矢を立てたのが彫師の朝倉力蔵で、戯号は東西庵南北と名乗     った。画工の方は勝川春扇を抜擢したが、これは春扇の師匠である春好の意向を汲んでの起用なのであろう。この三者の     関係で特徴的なのは、板元自身が作品内容の腹案を持っていたということ。京伝や馬琴の場合、板元が合巻か読本かの依     頼をすることはあっても、自らの腹案を持って接するようなことは考えがたい。ただ当時の合巻の出版状況をみると、た     しかに急速に延びている。著名な戯作者や画工には注文も殺到しているのであろう。すると山田屋のように板元自ら腹案     を示して「なんにも知らぬ井のうちの鮒」のような作者に 作品の方向性を与える必要もあったのだろうと思う。珍しい     例なのか一般的なものなのが即断しがたいが、板元主導で製作される合巻もあるという具体例である〉  ◎【戯作者と画工の関係】版本(草双紙)  ◯「浮世絵の誕生と終焉」(3)浮世絵の終焉Ⅲ 館主加藤好夫著〈本HPのTop「著述」の項より引用〉   〝そもそも浮世絵製作システムの中で、戯作者と画工との関係はどのようなものだったのか、少し振り返ってみます。好例が    馬琴の遺した資料の中にありますから引用します。    「小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御座候。北さい     も筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画がゝせ候さし画之稿本に、     右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候」     (『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56))    天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節です。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与える絵と朱書か    らなる下絵のことを云います。馬琴はこれでもって画工に指示を出します。   「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」というところを見ると、画工は作者の指示に忠実であるべきだと、馬琴は考えてい    たようです。その上でお気に入りの画工を三人あげます。北尾重政・初代歌川豊国・歌川国貞、彼らこそプロ中のプロ、作    者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に昇華できる名人だというのです。    それに対して、葛飾北斎は、と馬琴は云います。北斎は云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工である、しかし「作    者ニ随ハじ」が玉に瑕で、作者の指示を無視して我意を通すというのです。それもあったのか、文政元年(1818)のころ、    越後の鈴木牧之から『北越雪譜』の出版に協力してほしいと頼まれたとき、馬琴は内心では北斎の起用も考えたものの、   「彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後ハ何もたのみ不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび    申まじく候」として、結局断念しました。よほど北斎の難しさに懲りている様子です。    (『馬琴書翰集成』第一巻 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(書翰番号-15)     ※「其後」とは文化十二年刊の読本『皿皿郷談』を最後としてという意味)      上掲のように、式亭三馬は作者と画工との関係を次のように述べていました。    「たとへばあやつり芝居のごとく 作者は大夫にて絵師は三味線ひきなり それゆゑ合(あひ)三味せんとあはぬ三味せんあ     り 又ひきころばさるゝ大夫もあり 又かたりいかして三味せんをひきたつる大夫あり その中にも大夫がふしづけをす     るは 作者が下絵を付るにひとしく 三味せんひきがふしづけをするは絵師が下絵から画くにおなじ」     (『作者腹乃内』合巻 式亭三馬作・文化八年刊)    作者と画工との関係は緊密で、三馬はこれを浄瑠璃の大夫と三味線弾きの間柄に譬えている。こうした感慨は実作者には共    通のようで、遙か後年、明治の鏑木清方も小説家と挿絵画家との関係をはやり「太夫と三味線弾き」に擬えています。    (『こしかたの記』所収「横寺町の先生」鏑木清方著)    北斎の場合は、三味線が自在過ぎて、さすがの馬琴も合わせかねるというのでしょう。やはり作者と画工の間には阿吽の呼    吸のようなものが働くか否かが重要のようです。    さて、清方はその太夫と三味線の絶妙な具体例として、尾崎紅葉と梶田半古との間柄を挙げました。ではそのような例を江    戸に求めるとすれば、誰と誰になるか。やはり合巻『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦と歌川国貞のコンビを挙げるほかありませ    ん。※『偐紫田舎源氏』板元・鶴屋喜右衛門 文政十二年(1829)~ 天保十三年(1842)刊    これには幸い種彦の下絵が部分的ですが遺っています。岩波の『新日本古典文学体系』の鈴木重三氏の校注によると、種彦    は、時間や場所、構図に調度品の図様から着物の模様紋様に至るまで、ずいぶんこと細かに指示を出しているようです。そ    れに対して国貞は実に様々な工夫を凝らして応じています。しかしそれ以上に注目したいのは、両者にはもっと積極的なや    りとりがあったことです。馬琴ように一方的な関係ではありませんでした。種彦は図案の決定に迷うと国貞に判断を求めま    す。また国貞は国貞で、種彦の意を酌んで、下絵にない図様を加えています。つまり種彦もその図様を受け入れたわけです。    両者の間に強い信頼関係がないと、こうしたやりとりは生じません。おそらくこの種彦の柔軟性と懐の深さが、国貞に工夫    を促し、ひいては作品に生彩を与えているものを思われます。    ともあれ、江戸の戯作者と画工の関係は下絵によって、しっかり結ばれていたわけです。    こうした作者と画工との関係が明治まで及んでいたことは、これも前回示した下掲の挿絵が物語っています。ちょうど編輯    人が画工に指示を出している場面です。     近世桜田講談(小林鉄次郎編・山崎年信画・明治十一年(1878)刊)    ではなぜ明治の画工に下絵が必要だったのか。野崎左文は次のように説明しています。    「馬琴種彦等の草双紙の稿本を見ても、皆作者が自筆で下絵を付けて居るが、これも単に作者の物好きというではなく、実     際にその必要があったのだ。それは当時の画家は絵をかく事は上手にしても、何分にも時代の研究という事が足らず、甚     (はなはだ)しいのには草双紙の挿画や俳優の舞台上の着附などを唯一の粉本として筆を把る画工もあったので、時代の風     俗にとんでもない誤りが起こる事がある。そこで作者はその下絵に先ず時代(天保年間とか慶応年間とか)、時節(夏の     夜とか冬の朝とか)、場所、人物の身分年齢、時によると人物の服装や背景の注文まで委しく朱書して送らねばならむ事     があった。この必要上から魯文、藍泉-藍泉氏は玄人の画家-その他の人々でも大概素人画はかけたのであった」     (「明治初期の新聞小説」野崎左文著。『早稲田文学』大正十四年三月号)    画工は絵を上手に画くが、作品の時代や場所の風俗などには無頓着だから、放っておくと過去の草双紙を焼き直したり、役    者の舞台上の着付けをそっくりそのまま使ったりする。とても油断がならないので朱書で注意する必要があるのだという。    当然、魯文も藍泉も自ら下絵を画きました。藍泉の場合は、そもそも藍泉の号が、彼が松前の藩士高橋波藍に就いて絵を学    んだときの画号ですから、作画はお手の物で、下絵はそれほど負担ではなかったでしょう。これは例外です。しかし戯作者    たるもの、絵ごころの有無にかかわらず、何としても下絵は必須なのでした。    (『新聞記者竒行傳』初編 隅田了古編・鮮齋永濯画・墨々書屋・明治十五年(1882)刊)  ◎【戯作者と画工の関係】版画(錦絵)  ◯「浮世絵の誕生と終焉」(3)浮世絵の終焉Ⅲ 館主加藤好夫著 ※(本HPのTop「著述」の項より引用)   〝版本にも一枚絵にも落款に「応需」とあるのをしばしば見ます。これは戯作者や版元の需めに応じてと、理解できます。し    てみると、おそらく一枚絵・錦絵の場合も、版元側が下絵に相当するようなものを、画工に与えていたものと思います。戯    作者と違って、実際に画いたり朱書きしたりすることはないにしても、指示というか口頭あるいは文書によるアドバイスは    していたはずです。その指示の出し手が、版元自らであったり、あるいは趣向上のアイディアを豊富に持つ好事家であった    りはするでしょうが。   「『月百姿』が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の背後には、その師で    博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、『月百姿』の百番が成ったのではない」    (『明治東京逸聞史2』森銑三編「太平洋三九・一・一五」記事。『東洋文庫』142 所収)    これは明治三十九年(1906)『太平洋』という新聞に載った記事です。これによると「月百姿」は、版元の滑稽堂・秋山武    右衛門と桂花園桂花(日本橋室町の算盤商・幸島桂花)が趣向を凝らして図案を作成し、それを基に芳年が画いたとのこと。    つまり錦絵の場合でも、画工は板元側からの指示に従って作画していたわけです。    さて、いうまでもなく桂花園桂花のような好事家は江戸にもいました。    嘉永六年(1853)のことです。七月ごろから国芳の「浮世又平名画奇特」という二枚続きの錦絵が、板元越村屋平助から売    り出されました。図柄は浮世又平が大津絵を画いているという変哲もないものなのですが、市中ではこれにいろいろな噂が    立ちました。例えば、浮世又平が役者市川小団次似でしかも水戸のご隠居(水戸斉昭)を擬えているとか、藤娘は中村愛蔵    でこのほど新しく将軍の奥様になる方だとか、いやあれは大奥の姉の小路というお方だとか、こうした謎解きのようなもの    を、画中の人物ことごとくにやっているわけです。    市中を取り締まる町奉行はこれを世を惑わす浮説の流布だと捉えました。そこで隠密を放ちます。市中の様子、とりわけ国    芳の身辺を重点的に探索させました。すると神田佐久間町の明葉屋佐七なる人物が作画に関わっていることが分かりました。    この佐七、報告書には「狂歌名梅の屋」とあり、また茶番や祭礼の練り物類の趣向の巧者ともあります。つまりイベントを    企画する名人なのでした。両者の関係は次のように記されていました。     「図取之趣向等国芳一存ニは無之、左之佐七え相談いたし候由」   「同人(佐七)は国芳え別懇ニいたし候間、同人(国芳)義、板元より注文受候絵類、図取を佐七え相談い    たし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候」    (『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」第二六七件)    国芳は板元から注文を受けると、この佐七と相談して趣向や図様を決めるとあります。どうやら浮説の発生源はこの佐七だ    と、隠密は睨んだようです。ただこれだけでは証拠として不十分らしく、作品は発売禁止になったものの、国芳は佐七には    お咎めなしでした。なお板元の越村屋平助は過料(罰金)に処せられています。    参考までに「浮世又平名画奇特」関係の資料を、以下に引いておきますので参照ください。     浮世又平名画奇特 (浮世絵文献資料館所収)    この佐七、梅の屋鶴寿の狂歌名で知られた人で、名古屋藩出入りの秣(まぐさ)屋ともいわれています。商売柄武家屋敷に出    入りする機会も多かったものと思われます。国芳は天保十四年(1844)、判じ物の嚆矢とされる「源頼光公館土蜘作妖怪図」    を出版しました。この時、水野忠邦を始めとする幕閣や改革の犠牲者を暗に擬えているのではないかと、国芳は疑惑の目で    見られました。案外梅の屋はこれにも関与していたのかもしれません。    ともあれ錦絵でも、版元の強い指導力はもちろんのこと、鶴寿や桂花のような情報通や故事古典に通じた好事家が画工の身    辺にいて、下絵に相当するような図案を提供していたことは、確かでしょう〟  ◯『河鍋暁斎翁伝』p77 飯島虚心著 ペリカン社 昭和五十九年十二月刊   〝(維新後)最も行はれしは若狭屋板の狂斎百図、辻文板の狂斎漫画にして、狂斎百図、殊に行はれたり。これ狂斎が浮世絵    場裏に名をなしたる始めなるべし。一説に、百図の意匠は、多くは万亭応賀の考案に出づと。或いは然らん〟    〈狂斎時代の画稿、実は戯作者・万亭応賀の考案になるものが多いというのである〉  ◎【作家と画家との関係】小説挿絵  ◯『こしかたの記』鏑木清方著 中公文庫   (「読売」在勤)p150   〝挿絵にも、口絵にも、鏡花の作を手がける時は、いつも極まって真ッ白な無罫の江戸川半紙に、筆で書いた、その淡墨の滲    んだのも、指が触れたら湿りそうな、作者の机を離れてからまだ人手に渡らない原稿を、夜を徹してでも読み耽った〟    鏑木清方が泉鏡花の挿絵を担当し始めたのは明治三十一年(1898)刊の『起誓文』から。ここには戯作者と画工との間に見ら    れるような上意下達の関係はすでにない。画家は原文を直接読み込んで、自ら画稿を考案せねばならない時代に入ったので    ある。いわば主体的な取り組みが求められたわけである。明治時代になって新たに生じたこの関係を清方は次のように譬え    ていた。   (横寺町の先生)p169   〝小説家と挿絵画家の関係を、私は嘗つて太夫と三味線弾きに譬えて見た。連載する場合によくそう思ったものである〟    挿絵画家は作家の画稿に頼ることが出来ない。もはや作家の求めに応じて画く時代ではなくなっていた。両者の関係はもは    や主従ではなく協業なのである。  ◯『デモ画集』名取春仙画 如山堂 明治四十三年(1910)刊   (森田草平の序)   〝作者と挿画との関係は、脚本の作者と俳優が舞台上の表現と云ふ程でもないが、画家が表はそうとする情調の幾分は作者も    手伝つて居るのだから、時としては、自分が画いた様にも思はれた。    (名取春仙の言として曰く)「一体小説の挿画と云ふものは、如何かすると、読者のイリョージョンを扶けるよりも、却て    それを壊すやうな結果の成り易い。それだから成るべく簡単に一章の感じ、一句の印象を捉へて描くといった様にして居る    と云はれた。成程画家として用意ある言葉だと思った〟    森田草平は、自作に寄せた春仙の挿絵をみて、そこに漂う情調はまるで自分が画いたもののようにも思えたという。つまり    春仙は、作品の醸し出す情調を、原作者がなるほどと感心するほど、ぴったりとしたかたちで画いたのである。春仙の挿絵    に対する心づもりは、「成るべく簡単に一章の感じ、一句の印象を捉えて描」いて、つまり説明に陥らないようにして、読    者のイリョージョンに資することにあるようだ。肝要なのは文と画の一体であるが、江戸戯作では、種彦と国貞のような例    外もあるが、総じて戯作者の考案になる下絵によって支えられてじるが、明治の小説にあっては、作家と画家の主体的な読    みがこれを支えているといってよいのではなかろうか。   ◎【画工と彫師・摺師との関係】  ◯「北斎書翰」『葛飾北斎伝』上巻 所収(飯島虚心 明治二十六年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(66/86コマ)   ※(漢文体の所は書き下し文にした。半角(よみかな)は本HPが施したもの)   (天保六年(1835)年二月中旬、嵩山房(小林新兵衛)・万笈閣(英大助)・衆星閣(角丸屋甚助) 三版元宛書簡)   〝(版本の彫師について、北斎の依頼)    武者絵尽(づくし)画の事、私贔屓の沙汰には御座無く候が、何卒御三人様彫の所は、浅草馬道聖蔵院寺内、江川留吉殿へ仰    せ付られ下さるべく候(中略)    何卒右江川へ仰せ付けられ下さるべく候と申すは、漫画、唐詩選等、何れも上彫には御座候え共、胴彫、頭等、不揃の場所    も之有り候、富嶽百景の本、富嶽百景の本、初編より三編まで一丁にても見落し等御座無く候間認候、老人も一入(ひとし    お)張合に相成候て、格別出精仕る候事に御座候(中略)    釈迦御一代記の彫は、嵩山房様、江川へ遣わされ候様にも仰せられ候よし、左候えば、其積にて、認申候、天竺は頭は尽    (ことごと)く(螺髪の図)に御座候間、一入六つか敷(く)、胴彫もいろ/\むつかしく候間、何卒々々、弥(いよいよ)江川    へ彫に遣わされ下さるべく候(以下略)〟   〈「武者絵尽画」の彫工について、これまで出版された「漫画、唐詩選等」の彫りに不揃いがあるので、「富嶽百景」おいて一丁の見落としも     なかった江川留吉を起用してほしいというのである。この書簡に関係する天保六年二月以前の北斎作品の彫工は以下の通り。    「唐詩選」 『画本唐詩選』六編 天保四年正月刊 彫工 杉田金助 嵩山房板    「漫画」  『北斎漫画』十二編 天保五年春序  彫工 江川留吉 永楽屋版    「富嶽百景」『富嶽百景』初編  天保五年三月刊 剞劂 江川留吉 角丸屋甚助 永楽屋ほか     天保六年二月以降の彫工    「武者絵尽画」と目される作品          『絵本魁』     天保七年三月刊 彫工 杉田金助 江川留吉 嵩山房板          『絵本武蔵鐙』   天保七年八月刊 彫工 江川留吉 嵩山房板    「唐詩選」 『画本唐詩選』七編 天保七年九月刊 彫工 一・三巻 杉田金助 二・四・五巻 江川留吉 嵩山房板    『絵本魁』の彫工は杉田・江川の併用、『画本唐詩選』の彫工は六編では杉田金助であったが、七編ではそこに江川留吉が加わる。また『絵本     武蔵鐙』は江川単独の担当となっているから、北斎の要望は届いたようである。参考までにいうと、この要望がどこまで影響しているか分か     らないが、和泉屋市兵衛板『絵本和漢誉』(天保七年八月刊)の彫工も江川となっている。ではなぜ、北斎は杉田の起用に消極的なのか。ヒン    トは次の書簡にあるように思う〉   (天保七年正月十七日付 嵩山房宛書簡)   〝杉田様へ申上候    人物之事      目は(図)下まぶちなしに御ほり下さるべく候〈まぶち「目縁」=目蓋〉        職人衆、小刀の先キにて下まぶちを付候事は真平御容赦下さるべく候     鼻は(側面・正面図)此二品に御ほり下さるべく候        職人衆、能御承知之はなは、歌川風の(側面図二)此分は、画法にはづれ候間、私の方にてはどうぞ此のやうに        ならぬやうに(側面図)と御ほり下さるべく候     (上下目蓋入りの目三図・鼻の側面図一)      此類流行にてもあるべけれど、私はいや/\〟    〈杉田金助への指示である。上掲、天保六年(1835)年二月中旬の書簡で、北斎は嵩山房に江川の起用を要望したのであるが、上記、天保六年二     月以降の彫工「武者絵尽画」と目される作品の『絵本魁』と『画本唐詩選』を見ると、版元と杉田との間に、仕事上の約束があったものか、     依然として杉田の起用は続いている。その杉田に出した北斎の指示はというと、自分の画く目と鼻を決して歌川風にしてはならないというも     のであった。おそらく杉田金助は無意識のうちに当世流行の歌川風に彫ってしまうのであろう。それで事前に北斎は杉田に指示を出したので     ある。この指示ぶりを見ると、北斎は画工の職分としては、板下絵を画くにとどまらず、板下絵通りの木版に仕上がるよう監督するところま     で含むと、考えていたように思う。もっとも、それが画工一般の意識なのか、仕事をゆるがせにできない北斎の画工観の現れなのかは分から     ないのだが〉     葛飾北斎伝(国立国会図書館デジタルコレクション)(66/86コマ)  ◯『浮世絵の価値と鑑賞』矢田三千男著 矢田商会 大正十年八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(23/49コマ)   〝三世豊国が国貞の時代に、俳優大谷友右衛門の似顔を描いて、本所横川町に住んで居た当時の名彫師横川竹に彫らせたとき、    竹はその版下絵を見て、友右衛門が、斯う云ふ見栄をした時は、こんな眼になると云って、原画になかつた一線を、眼辺に    加へ、国貞にその話をしたので、国貞も竹の鑑識とその忠実に服したと云ふ、挿話が遺って居る。これ等は、浮世絵版画が、    画師と、彫師と、摺師とが、交互に、版画の効果を企画し、助成した好例証で(云々)〟  ◯「日本版画について」淡島寒月著(『振興美術』第三巻第二号 大正八年二月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p401)※(かな)は原文の振り仮名   〝木版画は大体、(一)画家(二)版木師(三)刷り師    の三拍子がちゃんと揃わなくっては駄目である。ところが、昔にあっては、この三拍子の内の刷り師だけがきわ立って熟達    していたので、唯(ただ)単に絵師が満足するだけでなく画そのものまで非常に美しい物が出来た。当時は原画をかく画家が、    簡単に、赤なら赤と書いて置けば充分であった。時には画家自身さえ想像だにしなかった色が刷師によって出されることさ    えあった。要するに当時にあっては、この刷師と言うものに偉大な才能と力がなければならなかったので、刷師には画家以    上の心得が必要であった。こんな理由で万一刷り師が劣いと来たら、まるで気分を壊してしまったのである。また、この版    画の中にも、同じ絵でありながら、一枚は一枚と色のちがったのがあったが、これは金銭なぞの都合で、    刷師が各々別々であったためである〟   〈版画の出来栄えを左右するのは版木師(彫師)と刷り師(摺師)の力量にかかっている。とりわけ摺師の器量によっては版下絵絵師が想像する以上    のものが下絵にもたらされるという。その具体例が下掲、野崎左文の伝える芳幾画〉  ◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著 昭和二年刊   (『増補 私の見た明治文壇1』p80 東洋文庫 平凡社 2007年刊)   (八)新聞挿画の沿革」1   〝芳幾の作をその下絵で見るといつも貼紙をして改描(かいべう)した痕跡を存(そん)し、又線書きも肉太で別に綺麗な絵だと    の感じも起らぬが、一旦剞劂師の手を経て刷上つた処を見れば、殆ど別人の筆かと思はれる程優美なものに出来上り、且そ    の画面に艶気(つやけ)を含んで居るやうに見えた〟   〈芳幾の描き直しの多い線の太い版下絵も、彫師と摺師の手にかかると、まるで別人の筆かと思われるほど変貌して、優美さと艶気がそこに生ま    れてくるというのである。芳幾の意を汲んだ彫師と摺師が、芳幾が望むような出来栄えを実現する、別にいえば版下絵にはない優美・艶気を、    彫師と摺師の器量が版画に付与するのである〉    (2020/03/17 追記)