☆ 弘化四年(1847)
◯『著作堂雑記』265/275(曲亭馬琴・弘化四年(1847)記)
〝京橋なる本屋蔦屋吉蔵が板にて、八犬伝を合巻に綴り改め、上方より来つる戯作者某に綴らせて、画は
後の豊国になりと云、この風聞今年【弘化四年】六月の頃聞えしかば、八犬伝の板元丁子屋平兵衛ねた
く思ひて、吾等に相談もなく、亦八犬伝を合巻にすとて、文は後の為永春水【初名金水】に課せて是を
綴らせ、画は国芳の筆にて、其板下の書画共丁秋七月に至り稍成りし時、初て予に強て曲亭校合として
出さまほしといひしを、吾肯んぜず是に答て云、吾等此年来、他作の冊子に名を著して、校合など記さ
せし事なし、思ひもかけぬこと也とて、其使をかへしたり、彼蔦屋吉蔵は利にのみはしるしれものにて、
吾旧作の合巻冊子を、恣に翻刻して新板と偽るもの、是迄二三板出したれども、いふかひなくてそが侭
に捨置たり、蔦吉は左まれ右まれ、丁平は八犬伝の板元にて、作者猶在世なるに、吾等に告げずして、
是迄合巻の作はせざりける金水の為永に課て、是を合巻に綴らせしはいかにぞや、彼金水は其師春水の
遺恨にもやよりけん、丁子屋板にて彼が著したる冊子に、吾等の事をいたく譏りたりとて、伊勢松坂な
る桂窓が告げたりしことさへあるに、こたび丁平の做す所、義に違ふに似て心得がたけれども、夫将利
の為にのみして、理義に疎き賈豎のことなれば、いふべくもあらず、蔦吉板の合巻八犬伝は、書名を犬
の冊子と云、初編二編四十丁、今年丁未九月上旬発板の聞えあり、丁平のは初編二十丁、書名をかなよ
み八犬伝と云、近日発行すべしと正次の話也、蔦吉の課たる作者の巧拙は未だ知らず、金水が手際にて
よくせんや、否可惜(アタラ)八犬伝をきれぬ庖丁にて作改めなば、さこそ不按塩なるべけれと、いまだ見
ざる前より一笑のあまり概略を記すのみ〟
〝蔦屋吉蔵、又美少年録草ざうしにせんとて、後の十返舎一九に約文させて、画は後の歌川豊国筆にて、
弘化四年冬十月上旬出板の聞えあり、因て取よせて、閲せしに、多くは美少年録の抄録にて、初編二冊
□□野の段に至る、その約文、一九が其身の文をもて綴たる処は、前と同じからず、抱腹に絶ざる事多
かり、丁子屋平兵衛又此事を聞知りて、弥憤りに堪ず丁平も又美少年録を合巻ものにして、蔦吉が烏滸
(オコ)のわざはいふにしも足らず、丁平の恣なる、予を蔑(ナイガシロ)にするに似たり、懐ふに当今は寅年
御改正の後、書肆の印本に株板と云物なく、偽刻重板も写本にて受ぬれば、彫行を許さるゝにより、同
書の二板も三板も、一時に出来ぬる事になりたるは、夫将に戯作の才子なければ、人の旧作を盗みて、
利を得まく欲しぬる書賈の無面目になれる也、独歎息のあまり、録して以て後の話柄とす〟