Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ つたや じゅうざぶろう 蔦屋 重三郎浮世絵事典
 ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 鶴に蔦こたつの上に二三さつ 「柳多留25-30」寛政6【川柳】     〈黄表紙は初春を飾る江戸の風物詩。鶴屋板と蔦屋板の新刊がこたつに上に二三冊〉   2 吉原は重三茂兵衛は丸の内 「柳樽27」寛政9【続雑】     〈歌麿・写楽を世に出した蔦屋重三郎は遊女の名鑑『吉原細見』の板元でもあった。また須原屋茂兵衛は武家      の名鑑『武鑑』の板元。ともに地本問屋と書物問屋を代表する板元である〉   3 五葉の松を手に持て素見なり 「柳樽72」文政2【続雑】注「蔦重版の吉原細見」     〈素見はひやかし、店先の遊女を見るだけ〉   4 蔦重は五葉の松を細く見せ 「柳多留114-36」天保2【川柳】注「吉原細見」     〈「五葉の松」は蔦屋版細見の書名〉   5 五葉の松にからまるは蔦の株(天保年間【江戸名物】)     〈吉原細見『五葉の松』の出版は蔦屋の特権〉  ☆ 安永五年(1776)  ◯巻末出版広告   (読本『烟花清談』隣松画 葦原守中作 蔦屋重三郎・上総屋利兵衛板 安永五年正月刊)   〝美人合姿鑑 箱入 全三冊    此書は 当時よし原の名君の姿を 北尾勝川の両氏 筆を揮◎にしき絵に摺たて 居ながら粉黛のおも    かげを見るが如くに出板仕候 御求め御覧か◎◎候       東都書林 日本橋万町 上総屋利兵衛 /吉原大門口 蔦屋重三良〟  ◯『青楼美人合鏡』奥付   〝浮世絵師 北尾花藍重政〔北尾〕〔重政之印〕 /勝川酉爾春章〔勝川〕〔春章〕     剞劂氏 井上進七〔不明〕     安政五歳丙申春正月発鬻    江戸書林 本石町拾軒店 山崎金兵衛 /新吉原大門口 蔦屋重三郎〟    〈どのような事情があったものか、『青楼美人合鏡』の一方の版元が上総屋ではなく山崎金兵衛になっている〉  ☆ 安永九年(1780)  ◯『百姓往来』往来物 画工未詳 蔦屋重三郎 安永九年三月刊 〔国書DB〕   (内題『新撰耕作往来千秋楽』「新吉原大門口 耕書堂 蔦屋重三郎板」  ◯外題「新よしはら大門口(入山型+蔦葉)」の黄表紙   『通者云此事』北尾政演画  ☆ 天明元年(安永十年・1781)     ◯『其後瓢様物』黄表紙 北尾政演画 作者風車 蔦屋板    巻末〝新吉原大門口蔦屋重三郎〟とあり  ☆ 天明二年(1782)  ◯外題「大門口つたや(入山型+蔦葉)」の黄表紙   『景清百人一首』 北尾重政画 朋誠堂喜三二作   『網大慈大悲換玉』北尾重政画 喜三二門人宇三太作   『恒例形間違曽我』北尾重政画 喜三二作   『芳野の由来』  北尾政演画 南陀伽紫蘭作   『雛形意気真顔』 恋川春町自作・自画   『我頼人正直』  恋川春町戯作  ◯「耕書堂夜会出席者名録」天明二年十二月十七日(「杏園余芳」月報4 巻3 南畝耕読)   (天明二年十二月十七日、吉原大門口の耕書堂・蔦屋重三郎宅にてふぐ汁の会あり。参会者は南畝・重政    ・政演・政美・安田梅順・藤田金六・朱楽菅江・唐来参和・恋川春町・田阿)    〈後に蔦屋の出版を支えることになる狂歌師・黄表紙作家と北尾派の挿絵師達である。安田梅順は未詳。藤田金六は彫     師かと、全集の月報は推定。田阿は河口田阿(河益之)という町絵師で、南畝とはごく親しい間柄。この後、一座は吉     原・大文字楼に宴席を移すが、なぜか重政と金六は参加していない。ともあれこの会は蔦屋の本格的文壇進出工作の     一環なのであろう。蔦屋はまだ吉原大門口にあった〉  ☆ 天明三年(1783)(九月、吉原大門口から日本橋通油町へ転居)  ◯外題「大門口つた屋(入山型+蔦葉)」の黄表紙   『長生見度記』 恋川春町画 喜三二作   『三太郎天上廻』北尾重政画 喜三二作  ◯刊記「新吉原大門口」の洒落本   『三教色』唐来三和作 うた麿画   『滸都洒美撰』志水燕十作  ◯『五葉の松』吉原細見 奥付「新吉原大門口 蔦屋重三郎」天明三年正月刊  ◯『青楼夜の錦』狂歌本 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎板 本書は吉原大門口の出版なり   (「蔦屋重三郎出版絵本」漆山天童著・『江戸文化』1-1〔国書DB〕)   〈題簽や刊記から判断すると、吉原大門口から通油町の移転は天明3年(1783)〉  ◯「蔦屋重三郎母津与墓碑銘」寛政五年三月 大田南畝撰   〝(前略)蔦屋重三郎、其居近倡門、天明三年癸卯九月、移居城東通油町而 開一書肆、競刻快書、大行    都下、都下之好稗史者、皆称耕書堂(後略)〟  ☆ 天明四年(1784)  ◯外題「通油町蔦屋(入山型+蔦葉)」の黄表紙   『此奴和日本』北尾政美画 四方作   『亀遊書双帋』哥麿画 喜三二門人亀遊作   『従夫以来記』うた麿画 竹杖為軽作   『万載集著微来歴』恋川はる町作   『太平記万八講釈』北尾重政画 喜三二戯作   『大千世界牆の外』北尾重政画 唐来参和戯作  ◯『老萊子』狂歌 四方赤良編 奥付「江戸通油町 耕書堂 蔦屋重三郎」天明四年正月  ☆ 寛政三年(1791)  ◯『箱入娘面屋人魚』黄表紙 歌川豊国画 山東京伝作 蔦屋板〔国書DB〕   (巻頭)   〝まじめなる口上     まづもつてわたくし見せの儀 おの/\様御ひゐきあつく 日ましはんしやう仕(り) ありがたき仕合    (に)ぞんじ奉り候 扨作者京伝申候は たゞ今までかりそめにつたなき戯(け)さく仕り 御らんニ入候    へども かやうむゑきの事に 日月および筆紙をついやし候事 さりとはたはけのいたり 殊に去春な    ぞは世の中にあしきひやうぎをうけ候事 ふかくこれらをはぢ候て 当年よりけつして戯作相やめ可申    と わたくし方へもかたくことはり申候へ共 さやうにては 御ひいきあつきわたくし見世 きうにす    いびニ相成候事ゆへ ぜひ/\当年ばかりは作いたしくれ候やう 相たのみ候へば 京伝も久しきちい    んのわたくしゆへに もだしがたくぞんじ まげて作いたしくれ候 すなはちしやれ本およびゑざうし    しんはん出来候間 御好人さまはけだいもくろく御らんの上 御求可下ひとへに奉希候 以上〟      寛政三ッ亥の春日〟    〈京伝は寛政元年(天明九年・1789)春に出版した黄表紙『黒白水鏡』が筆禍に遭って過料(罰金)に処せられている。こ     の蔦屋の口上によれば、京伝にはこれがひどく応えたらしく、一時は断筆まで考えたようである。しかしそれでは商     売あがったりだと、蔦屋は訴え、なんとか当年だけでも筆を執ってもらえないかと、京伝を説得した。すると年来の     友人でもあった京伝はこれに応えた。そうして成ったのが今年の絵草紙(黄表紙)と洒落本、これを京伝ファンの人々     は是非買い求めてほしい、という訴えである。しかし案に相違して、この年の三月、これらの洒落本(『仕懸文庫・     錦の裏・娼妓絹籭』)が、町奉行より発禁・絶版を命じられ、京伝は手鎖五十日、蔦屋は財産半減の刑に処せられる〉  ☆ 寛政七年(1895)  ◯『万物名数往来』往来物 画工未詳 蔦屋重三郎 寛政七年三月刊〔国書DB〕   「御江戸常盤橋御門本町筋下ル八町目通油町 蔦屋重三郎蔵板」  ☆ 寛政九年(1897)(五月六日没 四十八歳)  ◯「喜多川柯理墓碑銘」石川雅望撰    〝(前略)丙辰秋得重痼 弥月危篤 寛政丁巳夏初六日(中略)至夕而死 歳四十八 葬山谷正法精舎〟  ◯「会計私記」大田南畝記〔南畝〕⑰87   〝(寛政九年五月)七日 帰路 会 耕書堂葬 于山谷 正法寺〟    〈大田南畝(後の蜀山人)、役所からの帰路、蔦屋の会葬に立ち会う〉  ☆ 寛政十一年(1899)  ◯『世諺口紺屋雛形』黄表紙 子興画 曲亭馬琴作 寛政十一年刊〔国書DB〕   (巻頭)   〝未ノ元日より 乍憚口上書を以御披露仕候    御子様方益々御機嫌能く御座遊ばされ 恐悦至極に存じ奉り候 随て私見世 御贔屓を以て日増に繁昌    仕り 冥賀至極有り難き仕合せに存じ候 右為御礼 去秋中より作者画師諸職人手透之時節を相考 諸    事調味仕り 絵双紙類沢山所持仕り 当未ノ元日より無類(の)大安売仕り候間 御遠方之御方様は小売    見世 御もより/\にて蔦屋板と御尋 多少に限らず御用仰せ付られ下され候様願い奉り候 憚り乍ら    御手習侍◎様えも 御風聴成し下され 御賑々敷御光駕之程 偏に願上げ奉り候 以上     御とし玉ものしな/\ 御あきなひ物おろし仕り候                江戸とをり油町 蔦屋重三郎〟  ◯『江都諸名家墓所一覽』(岡田老樗軒編・文化十五年(1818)刊)   (新日本古典籍総合データーベース画像 103/34コマ)   〝蔦唐丸 狂歌 喜多川氏 名柯理 称重三郎 寛政九年六月三日 山谷 正法寺〟    (法号 幽玄院義◎日文盛信士 四十八)〈朱筆は「古典籍総合データベース」本の書き入れ〉  △『物之本江戸作者部類』(曲亭馬琴著・天保五年(1834)成立)   ◇「赤本作者部」p83   〝蔦唐丸    寛政中通油町なる書肆蔦屋重三郎【名は柯理(カラマル)】の狂名也。天明の年、四方山人社中の狂歌集に、    唐丸の歌あれども自吟にあらす、別人代歌したる也。又寛政九年の春、新板の臭草紙、増補猿蟹合戦と    いふ二冊物に唐丸作とあるは馬琴が代作したる也。是より先にも別人代作の臭草紙一二種あり。その書    名は忘れたり。唐丸は寛政九年五月六日に没しぬ。略伝は洒落本作者の部の附録に在り併見すべし〟     ◇「洒落本作者部」p113   〝吉原細見は享保中より印行したり。【この頃は小冊の横本多かり】さるを天明のはじめ、書賈畊書堂蔦    重【狂名を蔦ノ唐丸といひけり、しかれどもみづからは得よまず、代歌にて間を合したり】か吉原なる    五十間道に在りし時【天明中通油町なる丸屋といふ地本問屋の店庫奧庫を購得て、開店せしより、其身    一期繁昌したり】其板を購求めて、板元になりしより、序文は必四方山人に乞ふて印行しけり。又朱良    (ママ)菅江の序したるも有りき【菅江か序文の編末に「五葉ならいつでもおめしなさいけんかはらぬ色の    松の板元、といふ狂歌ありしとおぼへたり。細見の書名を五葉松といへば、かくよみし也】天明の季よ    り四方山人は青雲の志を宗とせし故に、狂歌をすらやめたりければ、細見に序を作らずなりぬ。是より    して蔦重は、その序を京伝に乞ふて、年毎に刊行したるに京伝も亦錦の裏・仕掛文庫二小冊の故に、事    ありしに懲りて、寛政四五年の比より細見の序をかゝずなりけり。是よりして浮薄の狂歌よみ名聞を貪    るもの、或は金壱分或は南鐐三片を板元におくり彫刻料として、その序を印行せらるゝを面目にしたり    き。はじめ諸才子の序したる天明寛政の間は彼細見の売れたることいと多かりしと聞えたり。顧(オモ)ふ    に件の蔦重は風流も無く文字もなけれど、世(一字未詳、異本に「才」)人に捷れたりければ、当時の    諸才子に愛顧せられ、その資によりて刊行の冊子、みな時好に称ひしかば、十余年の間に発跡して、一    二を争ふ地本問屋になりぬ。世に吉原に遊びて産を破る者は多けれど、吉原より出て大賈になりたるは、    いと得がたしと、人みないひけり。当時の狂歌集に代歌をせられて、唐丸の歌の入らざるもなかりしか    ば、その名田舍までも聞えて、いよ/\生活の便宜を得たりしに、惜むべし寛政九年の夏五月、脚氣を    患ひて身まがりぬ。享年四十八歳なり。墓は三谷正法寺【日蓮宗】に在り。南畝翁墓碑を撰述して石に    勒したり。こも又一畸人なればここに畧記すといふ〟    ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝草双紙 古ふみの種よりめぐむ草双紙いだすも鶴屋蔦屋なりけり〟    〈黄表紙・合巻の版元〉  ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②p34 嘉永二年(1849)頃編撰   〝 蔦唐丸    喜多川氏【本姓円山】名柯理、号を耕書堂といひ、通称を蔦屋重三郎といふ、初め吉原大門口に住して、    吉原細見を鬻ぐ、後、通油町へ移りて書肆となれり、逸人画史に云、寛政八年巳三月六日、行年四十八    歳とあり、山谷正法寺に葬る、碑文あり、石川五老が撰なり     著述 本樹に真猿浮気噺    ◯雪麿云、唐丸は頗侠気あり、故に文才ある者の若気にて、放蕩なるをも荷担して、又食客となして、    財の散ずるを厭はざれば、是がために、身をたて、名をなせし人人あり、蜀山老翁、うた麿、馬琴抔、    其中也、又、己が名あらはれたるも、其人によりてなりとぞ、寛政九年六月三日没すといふ〟   ◯『名人忌辰録』上巻p36(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝蔦ノ唐丸 柯理    喜多川氏、通称蔦屋重三郎、烟羅館唐丸は狂歌の号也。寛政九年巳五月六日歿す、歳四十八。浅草山谷    正法寺に葬る〟  ◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝蔦屋の細見 150/162    蔦屋重三郎は名代の絵双紙屋であるが、特に其吉原の武鑑とも云ふべき細見は当店の専売品であつたこ    とは     吉原重三茂兵衛は丸の内(寛政)    の句が判然と説明してゐる〈茂兵衛とは大名・旗本・幕府役人の名鑑『武鑑』の板元・須原屋茂兵衛〉     蔦重は五葉の松を細く見せ (天保)     五葉の松にからまるは蔦の株(天保)     五葉の松を手に持つて素見也(文政)    の五葉松とあるは吉原細見の題号である〟    〈蔦屋重三郎の狂歌名は蔦の唐丸(からまる)。吉原細見は遊女の名鑑〉  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好続編筆者小伝」p456(昭和六年九月稿)   〝蔦から丸 喜多川柯理、称蔦屋重三郎、住吉原五十軒、出板書肆耕書堂、天明三年移通油町、寛政九年         丁巳五月六日没、享年四十八、葬山谷正法寺〟