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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ちょうじや へいべえ 丁字屋 平兵衛(書物問屋)
浮世絵事典
☆ 天保十三年(1842) ◯『著作堂雑記』244/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)記) 〝天保十二年丑十二月、春画本并並に人情本と唱へ候中本之儀に付、右板本丁子屋平兵衛、外七八人並中 本作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え被召出、御吟味有之、同月廿九日春 画本中本之板本凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行所え差出候、翌寅年正月下旬より、右之一件又 吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者春水事長次郎は御吟味中手鎖を被掛、四月に至り 板元等御預御免、六月十一日裁許落着せり、右之板は皆絶板に相成、悉く打砕きて焼被棄、板元等は過 料銭各五貫文、外に売得金七両とやら各被召上、作者春水は、改てとがめ、手鎖を掛けられて、右一件 落着す〟 ◯『馬琴日記』第四巻 ④318(曲亭馬琴・天保十三年六月十五日記) 〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水 は、咎手鎖五十日、板木はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也・丁子屋へ 見舞口状申入候様、申付遣す〟
〈天保十二年十二月、人情本の第一人者・為永春水と丁子屋平兵衛ほか七八人の板元が、町奉行へ呼び出され、そのまま 吟味に入った。同月二十九日には、春画本(好色本)と中本(人情本)の版本、車にして五台ほど押収された。翌年二 月五日から家主預け、四月解除、六月十二日、絶板・板木焼却・罰金五貫文に処せられる〉
◯『著作堂雑記』244/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)記) 〝同(天保十三)年六月、江戸繁昌記の儀に付、右作者静軒実名寺門次右衛門は【静軒今は駿河台某殿の 家来に成りてある故に、右主人に御預けになれり】鳥居甲斐守殿南町奉行所え被召出、御吟味之処、右 繁昌記は静軒蔵板に候処、丁子屋平兵衛、雁金屋引受候て売捌候次第、五編は丁子屋平兵衛方にて彫立、 初編より四編迄の板も、平兵衛方へ売渡し候由申に付、丁子屋平兵衛を被召出、御吟味之処、右繁昌記 の板は、何某と申者より借財之方に請取り候て摺出し候、其何某は先年他国致、只今行衛知れず、五編 を彫刻致候事は無之由陳じ候、然れども右繁昌記は、初編二編出板之頃、丁子屋平兵衛引受候て、町年 寄館役所え窺に出し候間、館市右衛門より町奉行所え差出し伺候処、漢文物に候間、林大学頭殿へ付問 合候に付、大学頭殿被見候て、此書は不宜物に候、売買無用可為(タルベシ)と被申候に付、右之書は御差 止に相成、出版仕間敷旨、丁子屋平兵衛より館役所え証文被取置候所、平兵衛内内にて摺出し、剰へ五 編迄売捌候事、重々不埒之由にて、平兵衛は五人組え厳敷御預に相成候由にて、未だ御裁許落着無之候 へども、犯罪、人情本より重かるべしと聞ゆ〟
〈六月、町奉行鳥居耀蔵は『江戸繁昌記』の著者寺門静軒を召喚。続いてその板元丁子屋平兵衛を吟味、無許可販売の廉 で五人組預け、裁許待ち〉
◯『藤岡屋日記 第二巻』p291(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記) ◇出版関係者の処罰 〝十月十六日 寺門五郎左衛門 号静軒 一 江戸繁昌記作者、板本小伝馬町
丁子屋平兵衛
御咎メ、所構ニ而、大伝馬町二丁目ぇ引越ス〟 ◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編述 東京書籍商組合事務所 大正元年十一月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇天保十三年(1842) 〝八月、寺門次右衛門【静軒と号す町儒者】江戸繁昌記を著し、其筋の不許可にかゝはらず出板せる科に より江戸構の刑に処せらる、其の出板元
丁字屋平兵衛
は所払、家財は妻子に下され【初編より四編まで は著者蔵板、五編以下丁字屋出板せるなり】売捌せる雁金屋は過料十貫文、雕刻せる板木屋は過料五貫 文に処せらる 因に云ふ、丁字屋は此く罰せられしも当主一人に止り【所払とは其の居町を去るのみにして、其の隣町 に住するも妨なし】、家財は妻子に下されし故、其の子六歳【後平兵衛と改名す】引続き営業せり、此 家は馬琴の八犬伝の板元にして、絵入読本等を専業とせり、且繁昌記斯くて絶板せられたるも、余人是 を重刻して売買せるも幕府は敢て咎むることなかりき〟