Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ たまぎく とうろう 玉菊 灯籠浮世絵事典 ☆ 享保十一年(1726)没 ◯『増訂武江年表』1p130(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (享保十三年・1728) 〝七月、吉原仲の町に灯籠を出す(角町中万字屋の名妓玉菊といへるもの、享保十一年午三月二十九日死 せり。今年三回忌にいたり、盆中霊をまつるとて、仲の町俵や虎文、揚屋町松屋八兵衛などいへる者、 此の事をはじむ。始めは切子どうろうにてありしが、小川破笠が奇巧より次第にたくみになりしといへ り。ことし「玉菊追善袖さらし」といへる河東節の上るり、竹婦人作にて行はれたり) 筠庭云ふ、此の灯籠、玉菊が追善に始まれりとは、普くいへることながら、非なるべし。其の考「嬉 遊笑覧」にあり。開き見るべし〟 ◯『増訂武江年表』2(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (文政九年・1826) 〝今年遊女玉菊が百年の忌に当れりとて、浅草新堀永見寺に墳墓を営む(石碑に菊顔玉露享保十二年六月 二十五日と鐫(セン)せり。玉菊が事は前にもいふ如く、角町中万字屋勘兵衛が抱(カカエ)の遊女にして、 享保十一年三月二十九日二十五歳にしてみまかれり。浅草新寺町光感寺へ葬りける事は、「袖さうし」 其の余の冊子どもに明らかに見えたり。永見寺は万宇屋が菩提所なれば、墳墓を営みしよしなれど相違 の年月を記し、戒名も跡にてまうけたる物と見ゆ)〟〈吉原の玉菊灯籠として、死後なおその名を残す遊女・玉菊の没年は享保十一年(1726)。荻野梅塢が、その百年忌 にあたって墓を立てさせたのはよいのだが、実際と違う没年月日を彫らせ、またその場所も玉菊の眠る光感寺では なく、玉菊の抱え主である万字屋の菩提寺・永見寺にしたのは、如何なものであろうかというのであろう〉 ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥121(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) (文政九年・1826) 〝今茲玉菊 といふ遊女が百回忌とて、浅草新堀永見寺に墓を立しは、荻野梅塢が、ある人をそゝのかして なしたるとかや、軽薄のわざはもとよりにて、且その年月も相違なることを書せしとぞ〟〈喜多村信節もまた荻野梅塢の玉菊墓の建立を「軽薄のわざ」としている。なお、荻野梅塢は喜多村信節の考証『瓦礫 雑考』(文化十五年(1818)刊)に序を寄せているから、二人は相識である〉 ◯『藤岡屋日記 第二巻』②533(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記) 〝七月、新吉原、例年之通玉菊が追善之灯籠 、当年は大仕掛にて、芸州宮島の風景、大門の内に鳥居を建、 中の町廻廊にて、水道尻は拝殿也、同揚屋町は京都清水観音舞台景也 吉原に宮島の景を移す前に 船を繋(ウカ)べて客を乗す 多くは皆芸州の湊入込 終は身上灯籠の如くになる 清水の地主の桜と詠むれど 冬枯時は同じ柴かな〟