☆ 天明八年(1788)
◯『俗耳鼓吹』〔燕石〕③161(惰農子(大田南畝)著・天明八年(1788)序)
〝市村家橘、狂名を橘太夫元橘といふ、天明五年二月十八日より堺町へすけに出て、三ッ人形の所作事大
入也、此時、狂歌連中、三枚の摺物、各二百枚づゝおくる、これ芝居狂歌すり物のはじめ歟〟
〈この市村家橘は九代目市村羽左衛門、立川焉馬編『江戸芝居年代記』(『未刊随筆百種』十一巻所収)に「二月十八
日より三ッ人形の所作事、市村羽左衛門一世一代、当座(中村座)にて致す、大当り」とある〉
☆ 文化六年(1809)
(摺物交換会の様子)
「摺物交易図」柳々居辰斎画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所蔵『四方戯歌名尽』より)
☆ 文化八年(1811)
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
〝北斎だねと摺物を撥で寄せ〟「柳多留52-34」文化8【川柳】
〈三味線の稽古中に北斎画の摺物が届いたところか〉
◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「狂歌の摺物」(8/24コマ)
〝天明寛政時代 狂歌師俳人が好事の為め配つた摺物には 春章・花藍・歌麿・清長・子興・俊満等の各
自腕を振つて居る 此出費は歌を出したものの頭割になつて居る 彼の岡持家集に「狂歌の摺物の出銭
五銭目づつなりと云ひこせしもとへその料をつかわすとて」とあつて「歌柄は古今にあらぬ文銭のごせ
ん集とも名つけてしかな」と 五銭目は五匁(八百文)なり〟
〈花藍は北尾重政。天明寛政頃の狂歌摺物の入花料は800文の由〉
◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊
◇「風雅界の新年摺物 宗匠や画伯が得意の試筆」p157
〝新年の摺物、例えば俳詣師の三節、謡曲家の勅題小話、画家の試筆、和歌狂歌の祝詠摺物など、近年は
ほとんど葉書の賀状に奪われたが、明治時代はもっばら特別の摺物として知己へ配ったものだ。木版奉
書摺の雅なもので新年気分を漂わせ、後には貼交ぜの材料にも使われて風流趣味の名残りをとどめる。
明治の中頃まで、俳句の宗匠では向島の老鼠堂永機を始め、深川の不白軒梅年、春秋庵幹雄、湯島天神
下の夜雪庵金羅、下谷の稲の舎悟友、根岸の雪中庵雀志など一流の連中、随ってその門下の人々など、
年々自筆の三節摺物を配った。和歌では高崎正風、佐佐木弘綱、今の信綱大人など色紙風の摺物を見受
けた。謡曲界では観世宝生を始め、それぞれめでたい文句の小謡を新作して節付けしたのを門中へ頒(ワ
カ)つ。
画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣昧に富んで佳作が多い。中にも尾形月耕
翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、さすが版画家
としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいていは木版石版いろい
ろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新年になってしまった。
摺物以外だが、これも新年の配り物、陶器の巨匠先代宮川香山翁は年々の干支の盃を作って十二カ年押
通し、この一揃いは今では珍品、猪口(チヨコ)とはいえ翁独得の妙味を示した作品だけに芸術昧の高いも
の。
彫刻の元老高村光雲翁も、同じく十二支の浮彫丸額を年々製作、これを石膏に移して知人へ頒ったが、
複製ながら老巧の技を窺うに足る立派な作品。ともかくも毎年よく続けたもので、名人肌の道楽気がな
くては出来ぬ芸だ〟
◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「狂歌の摺物」(8/24コマ)
〝天明寛政時代 狂歌師俳人が好事の為め配つた摺物には 春章・花藍・歌麿・清長・子興・俊満等の各
自腕を振つて居る 此出費は歌を出したものの頭割になつて居る 彼の岡持家集に「狂歌の摺物の出銭
五銭目づつなりと云ひこせしもとへその料をつかわすとて」とあつて「歌柄は古今にあらぬ文銭のごせ
ん集とも名つけてしかな」と 五銭目は五匁(八百文)なり〟
〈花藍は北尾重政。天明寛政頃の狂歌摺物の入花料は800文の由〉