Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しゅんが 春画浮世絵事典
 参考資料  春画戯号  川柳・雑俳上の春画  ☆ 元禄十三年(1700)    ◯『著作堂雑記』237/275(曲亭馬琴・天保五~六年(1834~35)記)   〝此頃【元禄十三年】云々、又京都難波東都に令して、春画楽事等、凡時尚の俗書板行を禁じ給へり、自    注、近世大阪にて西鶴と云し俳師、戯書多く作りて板せしかば、是にならふてよしなき事を作りて、世    を弄び人心の害にもなる故と云々【塩尻に出】〟    〈天保五~六年頃の記事〉     ☆ 安永六年(1777)  ◯『【浪花名物】富貴地座位』安永六年刊   (『摂陽奇観』巻35 浜松歌国編・『浪速叢書』第4所収)   〝月岡の春画    たちまち心をうごかし侍りて罪共なれば〟    〈月岡丹下(雪鼎)〉  ☆ 天明三年(1783)    ◯『狂歌若菜集』〔江戸狂歌・第一巻〕唐衣橘洲編・天明三年刊   〝寄春画祝  (あけら菅江詠)      もう床もおさまりてよいきみが代はいまいく千世と祝ふまくらゑ〟    ◯「一話一言 六」〔南畝〕⑫237(天明三年記?)   〝春画    青藤山人路史にいはく、ある士人蔵書はなはだ多し。その匱ごとに必春画一冊づヽいれ置けり。ある人    そのゆへをとふに、これ火災をよくる厭勝なりと。云云 此方にて具足櫃に春画をいるヽといふ事も、    かヽる事などによれるやらん〟    〈「青藤山人路史」は書名。明・徐渭の撰。中国では、火災除けの呪いとして「春画」を箱ごとに入れる風習があった     ようだ。本邦の場合はとりわけ具足櫃に「春画」を入れたのだが、これも中国同様火災除けの呪いだろうと、南畝は     推測するのである。但しなぜ甲冑の火災除けに「春画」なのか、この文からはよく分からない。南畝はこの記事がよ     ほど気に入ったと見えて、文化十四年十月刊の「南畝莠言」(⑩三九〇)にもわざわざ収録している〉    ◯『万歳狂歌集』「賀歌」〔江戸狂歌・第一巻〕四方赤良・朱楽菅江編・天明三年刊   〝寄枕絵祝  あけら菅江      床もはやおさまりてよききみが代はもういく千代をいはふ枕絵〟    ☆ 天明五年(1785)    ◯『下里巴人巻』〔江戸狂歌・第二巻〕四方赤良著・天明五年詠   「八月十九日、兼題月前枝大豆」   〝天地玄黄      かつぶきし月は西川祐信か枕草紙のゑだ豆男〟    ☆ 文化元年(1804)    ◯『瓊浦雑綴』〔南畝〕⑧488(大田南畝・文化元年十二月十四日明記)   (南畝、長崎にて春画一巻をみる。これには明の文人解縉の跋があり、それによるとこの春画は「趙魏公    春意図三十一景」というものらしい。これに「春意詩」という作者未詳の詩が二十首、跋者の解縉の手    によって書き加えられていた)        啼鴬談燕豓陽天 小院相陰集女仙 一局囲碁争勝負 羞将時態逐鞦韆 (以下、十九首省略)         〈跋文は以下の通り。なお趙魏公とは宋末元初の文人・趙孟頫〉   〝右春意詩二十首、誰氏の作る所と為るかを記さず。偶々客有りて趙魏公の春意図三十一景を持示す、余    に命じて是の詩を後に書せしむ、為に之を録すこと右の如し。夫れ趙魏公の字画古今に冠たり、声名宇    宙に盈つ、何ぞ亦此の淫媒の図を屑(ヨ)しとするか。曾て聞く、此の図古より有する所、宮闕庫蔵必    ず一二を置き、以て火災を避く、名公高士の亦淫媒を以て廃(ス)て得ざる所以なりと。烏(イヅ)くん    ぞ魏公の詔旨を奉じて此を図し以て文庫を鎮めるものに非らざるを知らんや。況や其の筆意の工緻、設    色の清深にして神情の煥発たるを閲するをや。真に以て目を眩まして心を蠱(マド)はす、魏公に非ず    んば孰れか能く此を為さん、庚午夏五月解縉跋〔大字十印〕〔負墨林監賞章〕〟(原漢文)    〈明の文人・解縉によれば、春画を古来信じてきた火災を避けるためのものと考えると、趙魏公(趙孟頫、子昂ともい     う)の狙いは理解できないだろうし、彼の絵が放つ興奮や耀きを感じることもできないだろうという。解縉の趙孟頫     に対する評価は高い。この目眩くような妖しい魅力を表現しえるのは彼をおいて他にいないとまでいう。加えて、春     画を呪いという効用の面から捉えるのではなく、絵画それ自体、つまり表現行為の一形態として捉えようという視点     が、宋末元初の趙孟頫には既に備わっていたと指摘している〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『輪翁画譚』屋代弘賢・文化十年記〔出典『日本画談大観』「中編随筆」坂崎坦編〕   (国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝春画のはじまり    男女交合の図をつくりしことは、いつの世よりやはじまりけむ、さだかに記したるものもあらざるにや、    西土にては、漢人の春画伝はれるよし、青藤山人の路史に見え、皇朝にては能宣集に春画の賛見えたり、    能宣朝臣は円融院花山院の御宇の人なり、されどこれをはじめとは言ひがたし、それよりこのかたは灌    頂巻、古今著聞の絵師賢応が弟子の、師の後家が密夫会合の絵など聞えたり、此ことをこなたの詞には    おそくつといへり【著聞集】おそくつとはおそひくつといふ詞の中略にやと、類聚名物考にはいへれど、    いかがあらん、もし燭余をほそくつなどいひしこともありけんには、陰茎の首を燭余にたとへていひも    しけんとおもはるれど、それも証拠なかればいひがきにや【おそくつ、鳥羽僧正の許に、画かく侍ひ法    師ありけり】    青藤路史云【引松江河俊所述】予家有漢人画、此世之所不見、亦世之所未知也、其画非縑非楮乃画于車    画殻上、乃是姑蘇沈弁之至山東売画買回者、聞彼処盗墓人、毎発一墓、則其下有数十石、其画皆作人物、    如今之春画、間有幹男色者、画法興隷釈中有一碑上所画之人大率相類、其筆勢甚拙云々〈返り点省略〉    能宣集、但馬守ためちか、屏風にさま/\の画かゝせ侍るに、男女のけしからぬことどもかゝれたると    ころに      うしろめた下のこゝろはしらずして        身をうちとけてまかせたるかな    灌頂巻は、斎宮経子女王【三品兵部卿章明親王女】の滝口武者平致光といふものと密通ありしことを敷    演してゑがけるものなり、木下侯に古本あり、書画の様鎌倉時代のものとおぼし、もしこれより先き原    本ありしものにや、斎宮部類記云、寛和元年九月二日癸酉、伊勢斎宮王済子女王、自中河家禊東河入左    兵衛府、廿六日丁酉、自左兵衛府禊鴨河入野宮云々、雖未造畢、依不可過今月令入也。又禊所前野有火、    遣人見之葬送也、諸人怪之、廿八日己亥、夜盗入野宮、盗取侍女衣裳、未有如此事、日本紀略、二年六    月十九日丙申、於野宮與滝口武者平致光密通之由風聞、仍公家召神祇官令仰祭文、近四日、遠七日、祈    申此事之実否、外記日記云、十九日丙申、天晴、従昨日伊勢斎宮警衛被差遣、瀧口平致光密済子女王突    せりと云々、件致光、彼宮女房字宰相君相談之次、如此事所出来也、或時彼宮斎内親王密奉突れりと云    々、因茲公家聞食此由、被下宣旨神祇官、造斎祭文、近四被遠七日之中、此事実否之由祈祷、帝王年記    々、廿二日退出 〈返り点省略〉    著聞集男女会合図、古今著聞集巻十一【画図部】に云、絵師大輔法眼賢慶が弟子に、なにがしとかやい    ふ法師ありけり【文化十年十月十六日、弘賢】〟    ☆ 文化十四年(1817)    ◯『南畝莠言』〔南畝〕⑩389(杏花園主人(大田南畝)著・文化十四年刊)   〝青藤山人路史(セイトウサンジンロシ)にいはく、ある士人(シジン)蔵書(ザウシヨ)はなはだ多(オホ)し、その櫃(ヒツ)ごと    に必(カナラズ)春画(シュングハ)一冊(サツ)づゝ入(イレ)置(オ)けり、ある人(ヒト)其(ソノ)ゆゑをとふに、これ火災    (クハサイ)をよくる厭勝(マジナヒ)なりと云々。此方(コノホウ)にて具足櫃(グソクビツ)に春画(シュングハ)をいるゝと    いふ事(コト)もかゝる事(コト)などによれるにや〟    〈天明三年の項『一話一言』に同じ記事あり〉    ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯『読老庵日礼』〔鼠璞〕中p132(老樗軒著・文化年間記)   〝春画    今世玩弄するところの春画といふもの、何の時代より権與する事をしらず。漢書陳平伝曰、坐画屋、為    男女裸交接、置酒請諸父姉妹飲、令仰視画(画屋に坐し、男女裸と為りて交接す、酒を置き諸父姉妹に    請ふて飲む、仰ぎて画を視せしむ)とある。春画こゝに権與するか、未考〟       ☆ 文政六年(1823)    ◯『地色早指南』艶本・渓斎英泉画・淫乱翁白水(英泉)の第二編序   (国文学研究資料館・艶本資料データベース)   〝今流行の好色本ハ弥(イヨイヨ)奇(キ)を愛(メデ)珍らしきを弄ぶ事を旨として、春情発動する情状をばしる    さず。鎧櫃に納めかたき不吉のことを専らとす。されば俗にいふ笑本(ワラヒホン)も怪談めきておそろしく、    悉(コトゴト)く意を失ふて、人情の不義不実を明白に誌せるものとハなりゆきぬ。往昔(ワウワウ)土佐の某    (ナニガシ)が感情の画巻(ヱマキ)ものに何某の君が詞書を添(ソヘ)給ひしなんどハ、情深く見るにおかしく愛    たきことのみいとおほかりし。東山殿の愛給ひし袋僧の画巻、朝顔の巻なんど実(ゲニ)うべなりと思ふ    ぞかし。探幽斎が曲取(キヨクトリ)の絵ハ華本(クワホン)の素女伝(ソヂヨデン)によりて写し出(イダ)せしものなら    んか。肉蒲団・金瓶梅・淘月艶の文によりて、諸名家筆を震ひしより遥に後、浮世絵師吉田半兵衛・    菱川吉兵衛なんど、好色本を板行して、艶書軌範・床談義・好色訓彙・玉簾・近世大全・色双子・旅つ    ゞら、かぞへ挙るにいとまあらず。その後、浪華の西川祐信が百人美女の好色本いよ/\世上に流行し    て、貞享天和の枕草紙を画組を換て再板せり。されば各(オノオノ)二本あれども、却て元板(ゲンハン)むかし    めきて、詞書もひなびたり。夫より中興月岡丹下、好色本に妙を得て、求る者の多かりしとぞ。この比    までは画師の名印(ナイン)を顕(アラハ)にせり。流行広大なるゆゑに数百巻の艶本(ワラヒホン)唐本(タウホン)俗話    解(ワゲ)別伝、各争ひ発市なすほどに、勝川元祖春章初め鳥居庄兵衛・喜多川歌麿(ウタマロ)、交接(トボシ)    の絵組に奇妙を尽し、享和の頃まで発行せしは皆是世人の知る所也。されども今の流行ほど奇怪(キク    ワイ)を画くことは稀也。そは左(ト)もあれ、此草紙は密に淫を弄ぶ田舎人の楽(タノシミ)のたよりともなら    んかと、地色早指南と題して、先に出板せしは交接かたのこゝろ得(エ)、色事の弁用(ベンヨウ)を誌した    り。残れるを次(ツギ)て二編とす。されども紙数に限りありて、九牛が一毛をあらはし、猶三編四編に    至て委く淫術早指南の事を誌し尽す。発兌の時をまち得て看給へ。交接の術には男のこゝろ得をのみし    るせども、女の心得をしるしたるは這(コノ)一書に限(カギ)〈ママ(カギル)カ〉ものならん歟(カ)。      淫乱翁白水誌」    〈英泉は、現在の好色本(春画)を評して、奇態で珍しい図様を好んで弄ぶが、春情を催させるような図様には関心が     ないとする。また、不吉なことも画くので、従来の用途のように鎧櫃に入れて武運を願うわけにもいかないし、怪談     めかしたりするため、笑って言祝ぐという本来の役割をも失ってしまった。なかには人情の不義不実を明白にするも     のすらあるとした。以下、往古の春画を振り返る。土佐某の画巻は「小柴垣草紙」「東山殿の愛給ひし袋僧の画巻」     は「袋法師絵詞」か、続けて狩野探幽の「曲取絵」。こうして英泉は、本絵の土佐と狩野を経由させて、春画の系譜     を町絵の浮世絵師につなげる。吉田半兵衛・菱川師宣・西川祐信・月岡丹下・勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿、こ     れらは英泉が高く評価する春画の大御所なのだろう。なお、西川祐信は(寛延三年(1750)八十歳没)貞享天和の枕絵     を絵組みを換えて再版したという。また、月岡丹下(天明八年(1788)七十七歳歿)の時代あたりまで、春画には絵師     の名が入っていたとする〉    ☆ 文政七年(1824)    ◯『摂陽奇観』巻四十九・浜松歌国著・文政七年記事(『浪速叢書』第六所収)   (国立国会図書館デジタルコレクションより)   〝此節(八月) 春画錦絵板行之義 毎々御申渡有之義なるに 風義不宜也とて 本屋艸帋屋共 御呼出し    にて御呵り〟    〈これは大坂でのこと〉  ☆ 文政十年(1827)     ◯『馬琴日記』①91「文政十年丁亥日記」四月廿三日   〝杉浦清太郎、無拠方より被頼候よしニて、春画折本持参、賛たのミ候旨、被申之。宗伯、対面。右春画    類ハ、壮年より手にとり候事も無之、況、賛抔之義ハかたく御断申候旨、及断〟    〈謹厳な馬琴に相応しいエピソードである。拠んどころない方の依頼とあるが、馬琴に春画の賛を頼むとは見当違いな     のか、それとも逆に希少価値を狙ったものか。兎園会の会員である大郷信斎は、翌文政十一年の春、次のような記事     を書いている。「新板の春画 寛政年間、白川拾遺執政の時は、厳しく春画の類を禁ぜらる。之に依り都下に売者な     し。三十余年を経て、いつしか其禁ゆるみけるにや、近世年毎に増長し、大小の錦画はいふに及ばず、今春抔は、別     紙の如き新奇の摺物、画本流行す」(下掲『道聴塗説』第廿三編『鼠璞十種』中巻所収)禁制の緩みが馬琴に及んだ     というべきか〉    ◯『道聴塗説』〔鼠璞〕中(大郷信斎著)   ◇「第十二編」p283(文政十年記)   〝戯作の来(ママ)暦    例年の大小柱暦、春画の大小など数多ある中に、武鑑に作りなせし一枚、殊に手際よし〟    ☆ 文政十一年(1828)      ◯『道聴塗説』〔鼠璞〕中(大郷信斎著)   ◇「第廿三編」p327(文政十一年記)   〝新板の春画    寛政年間、白川拾遺執政の時は、厳しく春画の類を禁ぜらる。依之都下に売者なし。三十余年を経て、    いつしか其禁ゆるみけるにや、近世年毎に増長し、大小の錦画はいふに不及、今春抔は、別紙の如き新    奇の摺物、画本流行す〟  ☆ 文政十二年(1829)  ◯『馬琴日記』②24「文政十一年己丑日記」正月廿七・廿八日   〝此節、春画板元吟味ニ付、改名主とり込居、美少年録改未済よし〟    〈当節の春画の流行については前条、大郷信斎記事参照。馬琴の読本『近世説美少年録』の名主の改めに遅れが生じた     のはその余波であろうか〉  ◯『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-47 ①233 二月九日 殿村篠斎宛   〝此間中、仕立師方、春画一件ニて隙入出来、約束の日限ニ製本出立不申候。板元甚心配いたし、昨日や    う/\百部出来候間、先づうり出し申候〟    〈上掲『馬琴日記正月廿七日記事参照、名主の改(アラタメ)が春画一件吟味のために進まないので、『近世説美少年録』初     編の製本スケジュールに狂いが生じたというのである〉  ☆ 文政十三年(1830)    笑い絵  ☆ 天保三年(1837)  ◯『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-63 十二月八日 殿村篠斎宛 ②265   〝画工重信、九十月両月ハ、外板元より急ニさし込たのまれ候春画とやらニ取かゝり、『俠客伝』のさし    画、一向ニ出来不申、十一月ニ至り、少々画キかゝり候内、同人、気分勝れ不申よしニて、又出来不申    候。これは、ずるけ病ひならんとのミ存候処、閏月より不食の病症に変じ、打臥候ニハ至らず候へ共、    日々不食故、段々おとろへ、閏十一月廿八日夜五時、物没いたし候。享年四十六。さし画の残り四丁有    之。【三の巻の内一丁、五の巻三丁】重信婿重正といふもの、若輩未熟に候へども、重信生前のたのミ    故、これニ画せ候へども、同居の事故、重信死去の取込にて、これも出来不申、やうやく三丁ハ出来候    へども、甚わろく画キ候処あり、残り壱丁ニてせり詰申候〟  ◯『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-64 十二月八日 小津桂窓宛 ②279   〝画工柳川重信、九月より十月迄、外の板元に、いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画    にのみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、さし画半分ほど不出来、十一月に至り、やう/\    『俠客伝』の画を画候処、いく程もなく気分あしく塞ギ候よしニて、埒明不申、忰たのまれ、療治いた    し候へども、身にしミて薬を飲ず。そのゝち両三人に見せ、転薬両三度に及び候よし、閏十一月に至り、    不食の症に変じ、病臥ハ不致候へども、ふら/\として日をおくる内、段々におとろへ、閏十一月廿八    日の夜五時に身まかり候。享年四十六也。    〈当初、馬琴は「俠客伝」の挿画が出来ないのは柳川重信の「ずるけ病ひ」のせいだと思っていた。実は春画の仕事が     急に入り「俠客伝」に影響が及んだのである。どうやら春画製作が最優先されるようである。十一月に入って「俠客     伝」にとりかかり始めたものの、閏十一月から極度の食欲不振に陥り、遂に閏十一月二十八日死亡した。享年四十六     才。残りの挿画は重信生前からの依頼で婿重正が担当することになった。この「婿重正」は後に二代重信を襲名する     ので、重山のことと思われるが、馬琴はなぜか重山と記すことはなかった。その間の事情は不明である〉  ◯『画乗要略』白井華陽著・天保三年(1832)刊   (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)   〝西川祐信、自得斎と号す。平安の人。善く邦俗の美人を写す、賦色娬媚、最も秘戯(ハラヒヱ)の図に工なり、    狎昵の状精妙ならざるは莫し。     梅泉曰く「秘戯の図何人の手に始ることを知らず、古へより之れ有り、多く臥軸となり相伝ふ。武夫、     之を鎧匱(クグソヒツ)中に蔵して、以て久屯城守の鬱気を散ずと。故に往昔の諸家、皆之を写す。頃ころ     祐信が画く所を観るに、筆情繊勁、設色精巧、眉睫瑟瑟然として、動かんと欲す。古人云ふ「秘戯の     図巧ならずんば則ち已む、巧なるときは則ち媱を誨ゆ」と。信(マコト)に然り〟(原漢文)    〈「媱」は婬(淫)と同義、「誨」は教える〉  ☆ 天保五年(1834)    ◯『江戸繁盛記』三篇「書舗(ホンヤ)」(寺門静軒著・天保五年年刊)   〝曝書賈(ばくしよこ)あり。鬧街(どうがい)に肆(みせ)を下し、新を曝(さら)し旧を曝し、雅を攤(ひろ)    げ俗を攤ぐ。大学、塵に委(ゆだ)ね、中庸、風に繙(ひもと)く。年代記・春画本・字書・墨帖、枕藉雑    陳す。(中略)    (酔客)「那(か)の大学は値(あたひ)幾何(いくばく)ぞ」と。(亭主)曰く「七十二銭なり」と。曰く    「這(こ)の春本は」と。曰く「八銖銀なり」と。曰く「亭主、呵(ああ)。箇(こ)は這れ修身治国、千劫    磨せず、万世不刊の書なり。那は這れ風を弄し、淫を牽(ひ)き倫(みち)を乱るの具。然るに那の値甚だ    低く、這れは則ち甚だ貴(たか)き」と。曰く「理は則ち然り。然れども亦(また)、寒房に春を醸し、愁    帳に笑ひを潮(さ)す。此を把(と)つて之を展(の)ぶれば、孰(たれ)か眉伸び眼明らかならざらん。男女    は人の大欲、此も亦世間欠(か)くべからざる物。且つ下の上に献ずる、常に物なきを苦しむ。金帛(きん    ぱく)は他(か)の有する所、珍奇は他の有する所、因つて或いは之を用ひて人事と為す」と。    客、叱して曰く「亭主、妄言。礼にあらざれば、見ることなかれ。礼にあらざれば聴くことなかれ。且    つ公侯貴人は、国を治むるを急と為す。何の遑(いとま)か、喜びて這等(これら)の物を覧(み)ん」と。    主曰く「且つ聞く、士の戦ひに臨む、之を展べて以て出づれば、戦ひ輙(すなは)ち利ありと。是れ之を    甲笥(かふし)に蔵する所以なり」と。曰く「妄々。此の事、何の書に出でて、此の語、何の典(ふみ)に    か載る。古人、之を言ふことなし。後来、何物の登徒(イロゴノミ)か此の妄説を作(な)す。妄々、呵(ああ)、    主人。大学、彼の如く甚だ賤しき、是れ聖を侮(あなど)るならずや。春本、此(かく)の如く劇(はなは)    だ貴(たか)き、是れ淫を誨(をし)ふるにあらずや。亭主、若(なんぢ)、天下の罪人。白日に之を曝(さ    ら)して、高価、利を射(はか)り、大いに人倫を乱し、極めて風俗を壊(やぶ)る。若(なんぢ)、罪人。    若、罪人」と。遂に数本を把(と)つて地に擲(なげう)つ。紅紊(みだ)れ、金翻へる。正に是鴛鴦(えん    あう)夢驚き、鳳鸞(ほうらん)倒(さかし)まに翔(かけ)る。    主忍(た)へ住(とど)まらず、火、心頭に発し、喝して曰く「潑酔畜生。若(なんじ)、何の仇(あだ)か我    が衣食を妨ぐる」と。早く一拳を走らして客を打すること一打、四隣梃(はし)り出て、遮欄勧解す。客    を扶(たす)けて拽(ひ)き去る。客叫声す「来たれ(キヤアガレ)、来たれ、来たれ」と。跌過し(ツマヅキ)」倒    れんと欲す。聞く、他(かれ)の喉裏、咯々(ゲロゲロ)たるを。地を看て便(すなは)ち吐く。衆鼻を捻(ひ    ね)つて逃(のが)る。早く見る、一犬の来たるを。尾を掉(ふる)ひ、耳を揺(うごか)し、乾々舐(な)め    尽す。客纔かに歩を挙げ、又犬尾に跌(つまづ)く。犬驚き吼(ほ)ゆ。客顧(かへり)みて曰く「叱(しつ)    畜生、天下の罪人」    〈雅俗を取り混ぜ雑然と売る露店の店頭。儒書の『大学』が72銭に対して春画本が銀8朱という値段がついていた。金     一両は銀16朱、天保四年頃の銭相場は金一両約6500文。従って春画本は約3250文に相当する。「修身治国」の書と     「淫」を教える書とのあまりの価格差に憤慨した酔客が、店主を罪人呼ばわりして、春本を地面に投げつけるという     顛末を記す。店主が酔客をなだめるために春画の効用として持ち出したのが、春情を醸し笑いをもたらす、そのうえ     人事(贈り物)にも有用だとする説と、鎧櫃に入れ置きこれを広げ見て戦に臨めば容易く利を得るという説であった〉  ◯『馬琴日記』第四巻 p176 八月六日付   〝(淡路藩須本城下、津国屋関右衛門なる町人の書状に)売薬の事并ニ柳里恭の春画本等、ほしく候間、    さしこしくれ候様申来ル。田舎ものニて、此方之様子一向不存、尤非礼の文通、一笑に堪たり。沙汰ニ    不及なり〟    〈「柳里恭の春画本」は未詳〉  ☆ 天保六年(1835)  ◯ 九月十六日 小津桂窓宛(『馬琴書翰集成』第四巻・書翰番号-26)④111   〝種彦の『田舎源氏』、ます/\流行のよし。来春も五編ほど、引つゞき出候との噂ニ御座候。大体、世    評愚老と肩を比べ候様ニ聞え候。これも意外之事ニ存候。いかで、上手の作者多く出候ハヾ(一字ムシ)    も薄らぎ候半とたのもしく候へども、合巻画ざうしのミニて、よミ本にハいまだ上手も無之候哉、今以    責られ、困じ果候〟       〝此節、『田舎源氏』を春画にいたし、内々ニて出板、代金弐分弐朱にうり候(ムシ)終にハむつかしく    成候ハんと、ある人の話なり。とかく、淫奔にちかきもの、人気に叶ひ候事、昔より今に至るまで、勿    論の事ながら、嘆息の外無之候。その作者の胸の内を、かたハらよりうかゞへバ、なげかしき事に御座    候。かゝる画の(二字ムシ)なるもよくうれ候ハ、是亦意外の事ニ御座候〟    〈柳亭種彦と歌川国貞の合巻『偐紫田舎源氏』の人気に便乗した春画の出現。本来春画は非合法、しかしこうした噂が     流れているにもかかわらず、取り締まるような様子もないことからすると、半ば黙認されていたとみてよいのだろう。     上掲の『馬琴日記』には、春画の製作が急に入ったために、読本や合巻の口絵・挿絵に支障が生じる旨の記事が出て     くる。絵師にしても板元にしても、優先すべきうま味が春画製作にはあったのである。それは値段にあった。代金二     分二朱、これはかなりの高額である。天保二年の序をもつ『宝暦現来集』にこの頃の合巻一冊が「一匁又一匁五分」     とある。三冊ものは3匁~4匁5分、これを1両=60匁=6500文で換算すると、3/60(0.05)両=325文~4.5/60(0.07)両=455     文に相当する。「田舎源氏」の春画は2分2朱、10/16(0.62)両であるから4030文。実に十倍内外の値段の差だ。上掲     『江戸繁盛記』にも、新本か古本か分からないが、同様の値段で売られていた。これは春画に強い需用あったことを     物語っていよう。※『『宝暦現来集』の記事は本HP「浮世絵事典」の「浮世絵の値段(新板)」を参照のこと。な     お当時の銀・銭相場は実際には1両=約62匁=約6600文前後のようであるが、便宜上上掲相場で換算した。2018/04/10記〉  ☆ 天保十二年(1841)  ◯『吾仏乃記』滝沢解(曲亭馬琴)記 天保十二年記事(八木書店・昭和62年刊)   (家説第四)p474   〝辛丑の十一、二月の比、春画の「よつ」と唱て奉書紙を四つ切にしたると春画本とを、画冊子掛りの名主    等あなぐり(穿鑿)得て、町奉行にへ訟まうししかば、其の摺本は焼棄られ、板は絶版せられて、板元丁字    屋平兵衛等六、七人は過料にて、裁許落着しけり〟    〈「辛丑」は天保12年。「よつ」は春画、下掲天保十五年の『藤岡屋日記』第二巻参照。春画本は好色本。丁子屋平兵衛は     中本(人情本)に関連して過料(罰金刑)に処せられた〉  ☆ 天保十三年(1842)  ◯『馬琴書翰集成』⑥12 天保十三年二月十一日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-2)   〝旧冬より中本春絵本一件、旧冬大晦日ニ右板を五車程町奉行ぇ差出し候儘、暫御沙汰無之候所、当正月下    旬に至り、右一件の者不残召被出、丁平初中本春絵本の板元六七人、組合家主ぇ御預ケニ相成、中本之作    者越前屋長次郎事為永春水ハ、御吟味中手鎖ニ成候由聞え候。丁平御預ケ中ニ候ヘバ、『八犬伝』売出し    も遠慮致、右壱件相済候迄、三四月頃ならでハ売出す間敷存候処、小子ぇ無沙汰ニ急ニ売出し候ハ、必訳    可有候得ども、外事とハ申ながら、板元御預ケ中新本売出し候てハ、不慎の様ニ聞え候て、後の障りニハ    成間識哉と、小子等ハ不安心ニ存候得ども、板元久敷拙宅へ不参候間、其訳知れがたく、ひそかに阽ミ候    事ニ御座候。春水門人金水、其外鯉丈抔云ゑせ作者、中本綴り候者有之ども、夫等ニは御構なく、春水の    ミ召被出、御吟味の由聞え候。春絵本ハ中本より猶御吟味厳敷候間、国貞抔も罪可蒙哉といふ噂聞え候。    寛政の初、しやれ本一件之例をおし候得バ、此御裁許如何可有之や、気の毒ニ存候〟    〈天保十二年大晦日、町奉行は中本(人情本)と春画本(好色本)を大量に没収した。翌十三年正月下旬、丁平(丁子     屋平兵衛)などの板元は組合家主へお預けになり、作者の為永春水は吟味中から手鎖に処せられる。ただ松亭金水や     滝亭鯉丈はお構いなし。国貞は春画本の件で罪を蒙るにちがいないとの噂が流れた〉    押収書目 「天保十二年十二月 中本(人情本)・好色本(春本)押収リスト」     ◯『馬琴書翰集成』⑥30 天保十三年六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-6)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候〟    〈中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春     画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受     過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。御家人と亀戸居住は江戸町奉行の管轄外という     ことなのであろうか〉    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集一」市中取締之部 第三件   (正月「市中取締之儀ニ付存寄之趣申上候書付」南町奉行同心 小林藤太郎)   〝干見世と唱、往還ぇ莚を敷、古本・古道具類並べ商ひ候もの、往来人立止候様可致為メ、俗ニ枕双紙と    唱候男女乱行之図を画候古本を並べ置、右は御法度之品ニ有之処、近来相弛、大行ニ商ひ候もの有之候    間、組々名主共(一字欠)御沙汰御座候ハヾ、相止可申哉ニ奉存候〟    〈古本屋や古道具屋が店先に禁制の春画を置くのは客引きのためでもあるという。この手の客引きはなかなか止まなか     ったようで、弘化四年の記事にも見えている〉    ☆ 天保十五年(1844)    ◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年刊・『日本画論大観』上384)   (新日本古典籍総合データベースに画像あり)   〝春画火災を除(ヨク)るといふ事    漢書、景十三王伝に云ふ、屋に画く、男女の裸交接を為す(ハダカニシテマジハル)、酒を置き諸父姉妹を請じ、    飲て仰て画を視せしむ【廣川王の子海陽】とあり、春画こゝに権與(ケンヨ ハジマル)するかと覚ゆ、青藤山    人が路史に、ある士人蔵書甚多し、其櫃(ヒツ)毎(ゴト)に必春画一冊づゝいれ置けり、或人その故を問ふ    に、是火災をよくる厭勝(マジナヒ)なりと云へりとぞ。此邦にて鎧櫃(ヨロヒビツ)に必春画をいるゝと云こと、    いつの頃より始りしか、未(イマダ)考へず、又月岡雪鼎が伝に、明和中京師火災あり、ある典舗(シチヤ)の    倉庫(クラ)に彼雪鼎が春画あるが為に火を除けしこと見ゆ、路史の説によれるにや〟(原漢文)    〈『漢書』の「景十三王伝」に、男女が裸で交接するさまを屋内に画き、伯父や姉妹を召して酒を飲みながら、その画     を仰ぎ見させたという記事がある。どうやら春画はここから始まるというのである。我が国において鎧櫃に春画を必     ず入れるのは火除けの呪いのためで、これは中国に由来するというのが当時の理解であったようだ。その典拠として、     「青藤山人が路史」なるものをあげるのだが、これは青藤山人著の『路史』という意味ではなく、『青藤山人路史』     自体が書名のようである。明、徐渭の撰になるという。なお月岡雪鼎のエピソード、出典は未詳〉    ☆ 天保十五年(弘化元年・1843)<正月>     筆禍 春画「頼光土蜘蛛(仮題)」小判十二枚・歌川芳虎画      処分内容 ◎板元  松平阿波守家中(板摺内職)高橋喜三郎、阿波藩屋敷門前払(追放)           ◎卸売り 糴(セリ)売問屋  直吉    江戸御構(追放)           ◎小売り 絵双紙問屋   辻屋安兵衛 手鎖十ヶ月           ◎絵師  芳虎 罰金三貫(3000)文      処分理由 好色本出版        ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)   〝(一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・歌川貞秀画(仮題)「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」    の出版後)    其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟     『藤岡屋日記』第二巻 ②449(藤岡屋由蔵・弘化元年十月十日記)    〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二(ママ)日より戸〆の処、今日御免也〟    〈「戸〆」押し込め=外出禁止〉
    「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
    一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・玉蘭斎貞秀画「土蜘蛛妖怪図」     (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈「わらいを添て」とあるから「土蜘蛛」の春画版である。春画はもちろん非合法。板元は阿波藩の家臣高橋喜三郎。     武家屋敷内は町奉行の管轄外、そこで春画が密かに作られていた。芳虎は三貫文(一両の3/4)の罰金。板元高橋は阿     波屋敷から追放。絵を糴売り(セリウリ=行商)や絵草紙屋に卸した呉服町の直吉は、逮捕の際、土蔵から賭博用のめく     りカルタ五十両分発覚したこともあって、江戸追放。そして小売りの辻屋安兵衛外の三人が八ヶ月~十ヶ月の手鎖り。     辻屋は十月十日に押し込め解除とあるから、辻屋が十ヶ月、その外の小売りが八ヶ月に処せられたのであろう。小売     り価格は小型十二枚一組で三匁。銀三匁は当時の相場(1両=銭6500文=銀約65匁)で換算すると、三百文に相当す     る。なお「八ヶ月手鎖、五十日の咎」の「五十日の咎」の意味がよく分からない。ところで、武家屋敷の非合法出版     には絵草紙担当の名主たちも相当注目していたようで、次のような文書が残されている〉    参考史料  ◎「書物絵草紙改め懸り名主伺書」天保十五年正月廿八日付   (『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」第三九件)   〝書物・絵草紙・小冊物之内、書物之分ハ一々館市右衛門(町年寄)え申立、御伺済之上同所ニて願之通    被申渡候、草双紙・一枚絵・手遊替絵・双六之類は、私共手限ニて見改、如何之儀無之分ハ摺立売買為    致候処、私共えも不申立勝手儘ニ摺立候絵本、又は双六之類、并武家方等ニて内職卸売致歩行候族も有    之、何れも改受不申品、此節市中本屋・絵草紙屋等ニて見世売致罷在、尤差向何之絵柄も相見え不申候    得共、此儘売買為致候ハゝ、追々勝手儘ニ売方売徳のみを心掛、人情本・笑絵等ニ紛敷分も出来致可申    候間、前書手続通り御伺済、又は私共手限ニ候共、改方無之品は勿論、前々より売来候古板之内ニも、    絵柄其外不宜分は板木削取、以来売買不為致、其上私共申合寄々見廻り、不取締之宜無之懸かり様仕度、    此段奉伺候、以上     辰正月             書物・絵草紙改掛り 名主共〟    〈書物は町年寄・館市右衛門に出版伺いを立て、草双紙・一枚絵等については、絵草紙改(アラタメ=検閲)掛りの名主が     「手限(テギリ)=上の裁断を仰がず、自己の責任で判断すること」によって許可を与えることになっているのだが、最     近、検閲を受けない絵本や双六、あるいは武家の内職によって仕立てたものが、市中の本屋・絵草紙屋に出回ってい     る。現在のところいかがわしいもの見当たらないが、このまま放置しておけば、利得に惑わされて、人情本や笑絵等     に紛らわしいものも出てこよう。従って、改印のない品はもちろん、以前から売ってきた古板であっても、絵柄の宜     しからざる品はすべて板木を削り取り、売買を禁じてはどうかという、改を担当する名主たちの提案である。しかし     これがなかなか徹底しなかったようで、後年にも次のような報告書が出ていた〉    参考史料  ◎「流行錦絵の聞書」絵草紙掛り名主・天保十五年三月記(『開版指針』国立国会図書館蔵所収)   〝春頃或屋敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候〟。    〈これは国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」に関する聞書であるから、「内証板」とはその類版をいうのであろう。「夫     々手筋を以て売々致候」とあるから、売り捌くルートまであるらしい。上掲の春画版「土蜘蛛」を武家から買い取っ     て卸す直吉のような問屋、そしてそれを小売りする辻屋安兵衛のような絵草紙屋や糴売りたち、恐らく彼らの間には、     武家方制作の春画や類版を市中に流通させる経路が出来ていたのであろう。そういえば辻屋安兵衛は、一年前の天保     十四年七月、やはり武家方の類板「将棋合戦」を売り捌いた廉で摘発されている。その時は、今後は武家内職の品は     取り扱わない、次に違犯した場合には商売禁止処分、開板する場合は必ず改を受ける、以上三点誓約させられただけ     で済んだが、今回は実刑で十ヶ月間の戸閉め(手鎖ともある)に処せられている。さてこの武家方の非合法出版、神     経質になっていたのは絵草紙担当の名主にとどまらない。嘉永三年(1848)正月、町奉行の隠密も次のような報告を     上げていた〉     ☆ 弘化二年(1845)<十一月>    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」第七十件 p335    (絵草紙掛り名主の好色本類取締りに関する伺書)    〝壱枚摺錦絵・絵本類取締方、組々市中取締懸名主え心付之儀被仰渡度段、先月中奉伺候所、右は兼て     懸り之儀ニ付、私共限り精々心付、其上ニも増長致候ハゝ可相伺旨、被仰渡奉畏候、壱枚絵・草双紙     之類板下ニて相改、絵柄子細無之分は改印致し遣候得は、衣服模様等は、色板無之下絵ニては密細(マ     マ)相分不申、摺立候上紋所其外禁忌有之は、其時々為相直候得共、自然相弛ミ、色摺遍数も相増候様     ニも相見え候間、此上心得違無之様、猶又其筋渡世之ものえ申諭、請印取置申候、     一 市中古本屋又は往還莚敷等ニて見受候無改禁忌之品は取上ケ、元方取調板木削取、証文取置候仕      来ニ御座候、然処、私共限り取扱仕候儀と見居、追々増長仕、別て好色本・右絵類之義は、前々御      制禁之品ニ有之処相弛ミ、私共差当り見請候好色本五冊、折本壱冊、たとふ入絵三品取上、元方取      調候所、左之名前之もの共彫刻売買仕候旨相分候得共、今般之儀は、右絵類は裁切、板木削取、証      文取之相渡遣、此上及再度ニ候者共は、被為遂御吟味候様仕度、差向御仁恵之程難有可奉存、尤可      相成御儀ニ御座候ハゝ、此節改好色本・絵類前々より御制禁之品ニ付、一切売買不仕様市中一統被      仰渡御座候様仕度、左候ハゝ、猶以跡取締方相附可申奉存候     〈以下、没収品の表題と板元〉     一 表題 文のはやし   全一冊    板数十四枚     一 同  水かゝみ    折本一冊   同 拾八枚     一 同  花結      小本一冊   同 拾五枚        右 浅草福井町壱丁目宇右衛門店 本綴職 岩松     一 同  閨中覗からくり 全一冊    同 六枚     一 同  黄素妙論    全一冊    同 拾枚        右 飯倉方町 七兵衛店    糴本渡世 三次郎     一 同  和合珍開   拾弐枚たとふ入 同 弐拾五枚 但、色板とも        右 浅草西仲町 勝蔵店    糴本渡世 半次郎     一 同  宮弁慶    拾弐枚たとふ入      一 同  風流玉手箱  同       右板数合三拾枚 但、両面        右 小嶋町定八店       古道具屋 八兵衛     右之通、取計方奉伺候、以上       巳(弘化二年)十一月廿七日   絵双紙懸 名主共〟    〈古本屋や往来の露店で好色本等の禁制品を発見した場合、品物は没収し、板木は削り取り、証文を取る仕来りになっ     ているが、最近、改(アラタメ)掛り名主のみの検閲と見透かしてか、増長する輩が出てきた、特に好色本・右絵類(春画)     での弛みが目立つ。差し当たって見かけた好色本五冊、折本一冊、たとう入りの絵三品を没収した。これらについて     は、版本は裁断、板木は削り取り、証文を取り置く。さらに今後、再犯したものについては吟味に回したい。以上が     絵双紙掛りたちの伺書の内容。これに対して、市中取締り掛りの与力たちは次のような評議を行っていた〉       〝町年寄申上候趣一覧仕候処、絵草紙掛名主共差当り見請候旨ニは候得共、於見世先売買致し候儀とも     不相聞候間、此度之儀は御宥免を以、別段不被及沙汰方ニも可有御座哉       巳十二月            市中取締懸〟    〈今回は店先での売買ではないから大目に見てもよいのではないかという見解もあった。しかし決着は次の通り〉       (十二月六日付、町年寄宛書面)    〝書面之絵本其外は仕来之通取計、以後等閑之儀有之候ハゝ、急度沙汰可有之旨、絵草紙掛名主共限申     諭候様可申渡候〟    〈絵双紙掛り名主の伺書の通りになった。これを受けてか、次のような町触れが早速出ている〉    ☆ 弘化二年(1845)<十一月>      ◯『江戸町触集成』第十五巻 p189(触書番号14397)   〝市中古本屋又は往還莚敷干見世等ニて、御制禁之好色本類相見え候ニ付、此度拙者共見受相伺候品も御    座候得は、今般之義格別之御宥免を以拙者共手限取扱、此上心得違之者有之、本屋共見世先ニて有之候    分は勿論、往還莚敷等ニても右躰之絵本類見留次第取調可申上候、急度可被仰付旨御沙汰付、向後心得    違不仕様、其筋渡世之もの共え、御組合限り不洩様御通達可被成候、尤御同役御支配限り精々御心付、    以後御見留之分は御取調、拙者共之内え日仰聞候様仕度、此段御達申候、以上      十二月廿二日         絵本類改懸り〟    〈古本屋や往来の露店が地本問屋とは関係のないところで好色本や春画を自ら制作・販売していたようだ。露店で春画     を並べ置くことについては、天保十三年一月の町奉行・市中取締り掛りの書き付けにも「干見世と唱、往還ぇ莚を敷、     古本・古道具類並べ商ひ候もの、往来人立止候様可致為メ、俗ニ枕双紙と唱候男女乱行之図を画候古本を並べ置、右     は御法度之品ニ有之処、近来相弛、大行ニ商ひ候もの有之候」とあり、以前からの懸案事項であった。しかし、この     町触の後も取締りが徹底しなかったらしく、翌四年二月の町奉行・市中取締り掛りの「市中風聞書」にもその様子が     出ている。本HP「浮世絵の筆禍史(7)参照〉    ☆ 弘化四年(1847)<二月>」    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部」二 第二三件 p5   (弘化四年二月「市中風聞書」)   〝春画之儀草紙ニ綴候分ハ勿論四ッ切・八ツ切抔と唱、大奉書を裁候而、早春世上ニ而交易等いたし候儀    之処春画ハ御政革以前迚も厳敷御制禁ニ候処、昨年春頃より次第ニ多く相成、天道干しと唱へ路傍ニ莚    を布、古道具等並へ置候向ニ多く有之、八ツ切之方ハ当春抔大分ニ世上ニ相見へ、是ハ錦絵と違ひ猶又    遍数も多く金銀摺も有之候由、其内ニも六哥仙と唱へ候春画は金銀多く遣ひ有之候由〟    〈これは町奉行の市中取締り係が作成した市中風聞の報告書である。草紙仕立ての春画は勿論のこと、四ッ切・八ッ切     などと称して大奉書を裁断したものまで売買されている。春画は改革以前から禁止であったが、やはり昨年の春頃か     ら次第に多くなり、天道干しなどと称して、路傍に筵を敷き古道具屋のような体裁で売られている。そのうち八ッ切     がこの春多く出回り、摺り数も多く中には金銀摺りのものもある由である。特に「六歌仙」なる春画は金銀を多く使     っているとのことだ。この「六歌仙」の春画、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、浮世又平(歌     川国貞)の『閨中六歌仙』(三冊?)と北渓の『六歌仙』(一帖)とあるが、画工の特定は後考に待つ。金銀摺が手が     かりとなろう〉    ☆ 弘化四年(1847)<十一月>      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p201(藤岡屋由蔵・弘化四年記)   〝十一月十二日、永代橋御普請に付、御見分として南御奉行遠山殿新堀通り御通行之処、新堀の往還にわ    らい本ならべ有之、御目に留りて直に御取上げに成、翌十三日、江戸中にならべ有わらい本御取上げ也。    是は遠山殿の仰に、我が通る処にさへ如斯大行に春画ならべ有からは、江戸中の往来にならべ有べしと    て、翌十三日に町方同心名主差添、江戸中にて取上る也、凡百十一人也、本と取上げ名前を留て行也、    柳原土手計にて拾両計の代呂もの也〟    〈この五月、往来の露店でに春画に関して、比較的穏当な見解を出した町奉行遠山左衛門尉景元、この日はあからさま     に商売をする光景が目に余ったか、いきなりわらい本(春画)を取り上げた。しかしこれでも収まらなかった。自分     が通る往来さえかくのごとし、ならばその他は押して知るべしと、翌日、今度は同心及び名主、武家方町方総勢百十     一を動員して、江戸中の露店から没収した。古道具屋の名所である柳原の土手だけでも十両ほどになったとある。古     本屋や古道具屋が店先に禁制の春画を置くのは客引きのためでもあるという。本HP「浮世絵の筆禍史(3)」天保     十三年一月、「同(6)」弘化二年十二月の項参照〉    ☆ 嘉永三年(1850)<正月>    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締部」二 第三三件 p198   (嘉永三戌年正月「花会其外春画之儀ニ付三廻風聞申上調」三廻上申書)   〝当春春画之義出来致し候風聞ハ有之候得共、重ニ山之手軽キ御家人又ハ藩中もの抔、板元摺立とも内職    ニ致し候義ニ付、何分板元突留り不申、且又、往還干見世等ニ往来人足留之為二三枚位ヅヽ、差出し有    之候儀も御座候間、見懸次第取上候様可仕候〟    〈当春、春画が出回ったとの噂があったが、主に山の手の身分の軽い御家人あるいは藩中の家臣などが、板元や摺りを     内職としているので、板元を突き止めることができないとの報告である。(どうやら武家屋敷が非合法出版の隠れ蓑     になっていたようだ。春画が町奉行の管轄外で密かに作られているのである)また往来の干し見世の中には、客引き     のため二~三枚ずつ出し置くものもあるが、こちらは見かけ次第没収したいとしている。これに対して、「市中取締     掛」が次のような意見を述べている〉     〝春画之義は前々より兎角早春流行致シ候品故、若往還等ニ而専売買致し候様之義も有之候而ハ、以之外    外の義ニ付、私共より一応名主共ぇ心付方之義及沙汰置候様可仕(云々)〟    〈春画については、市中取り締まり掛りの方でも、往来で売買しないよう名主を通して通知したいとしている。それに     してもおもしろいのは、春画は「兎角早春流行致し候品」とある。はたしてどのような事情があって早春に多く出回     るのであろうか〉    ☆ 万延元年(1860)    ◯『氷川清話』(勝海舟、明治二十年代談)〔講談社学術文庫本〕   ◇「時事数十言」「海外発展」p246   〝昔時、おれが咸臨丸で米利堅(メリケン)にいつた時の事だが、その時の米人の歓迎といふものはたいしたも    のサ。スルト二、三日して突然裁判所から咸臨丸艦長勝麟太郎として、明何日其方(ソノホウ)へ相尋度義    (アイタズネタキギ)あり出頭すべしといふ手紙が来た。行つて見ると塑(デク)のごとく裁判官が上座に居つて、    其方が勝艦長か。実は其方の水兵の者共が米国の二貴婦人に向つてコンナ品を与へて侮辱をした。ソレ    でその貴婦人達は怒つて訴へて来た。その証拠品はコレである。早速其方は水兵共を処罰すべしとの事    であつた。ソコで俺は吃驚(ビツクリ)して、一体我が水兵は何をしたかと怪しみながらその証拠品という    ヤツを一見に及ぶと、驚くなかれ、二冊の春画サ。ソコでその証拠品を受取り帰らうとすると、その裁    判長め、法服を代へ、今度は打つて変つた態度でさて言ふには、唯今(タダイマ)は公法の手前甚だ失礼し    た。今度は個人としての話だが、この画は実に珍らしいもので、侮辱された二婦人は勿論自分なども大    層欲しいと思つて居る。ソコで物は相談だが、侮辱した水兵には金を出すからこの品は譲つてくれまい    か、との事である。こ奴米利堅の官憲め、そのくらゐの事なら何も大形(オオギヨウ)におれを召喚などする    までもないものだと内心甚だ不平であつたが、また一面から見れば公私の区別截然(セツゼン)として居る    事に感心した。ソレから艦に帰つて水兵を調べ上げ、謹慎を命じた上、今度は艦長の名義でもつて前の    裁判官に向け、其方共の願ひ出の趣(オモムキ)聞届(キキトドケ)候条何日何時日本軍艦に出頭すべしと手紙を    やつたが、その夜裁判官の二人がコツソリ出掛けて来て、今日の手紙はあまりヒドイ、どうか内分(ナイ    ブン)にして渡してくれを泣きを入れたから、その儘(ママ)くれてやつたよ。馬鹿々々しい話だが、外国の    奴らは公私の区別をキチンとするのは感心だよ〟    〈遣米使節が咸臨丸に乗って訪米したのは万延元年(1860)。これはサンフランシスコでの出来事。日本の水兵がどうい     う経緯か分からないが、アメリカの婦人達に春画をあげた。するとアメリカの裁判所は、それは婦人達に対する甚だ     しい侮辱だとして、監督責任者たる勝海舟艦長に水兵の処罰を要求してきた。勝海舟、その証拠品を受け取って帰ろ     うとしたところ、突然裁判官が法服を脱いで私服に着替え、その春画、絵画としては大変珍しいので、お金を出すか     らぜひ譲ってほしい、あの貴婦人達も同意しているとしきりに懇願する。艦に戻った勝海舟、水兵に謹慎を命じた上     で意趣返しの意味もあったか、今度は艦長名義で、願いは承知した、ついては証拠品を引き渡すから当艦まで出頭す     べしという書状を、件の裁判官に送ってやった。するとその夜、裁判官がやってきて、この公文書は困る、どうか内     密に願いたいとの「泣き」を入れてきた。それで勝艦長はタダでくれてやったというエピソードである。この挿話の     ポイントは、アメリカ人は公私をキチンと区別するからエライという点にあるから、勝海舟自身は、春画それ自体に     ついても、また水兵たちが春画を持参していたという点についても、言及はない。しかし勝海舟にしてみれば、水兵     が白昼公然とアメリカの婦人に春画を見せたことは甚だ問題であっても、春画持参についてはなんらの違和感もなか     ったに違いない。むしろ持っていて当然ということなのかもしれない。下掲、慶応二年の『藤岡屋日記』の記事にあ     るように、春画は武士にとって「戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候」なのである。それにしても、     日本水兵、なぜアメリカの貴婦人に春画を贈ったのだろうか。勝海舟に言及がないのは残念である〉      ◇「文芸と歴史」「蜀山人その他」p305    〝(上略。蜀山人・山東京伝の書き留めた随筆を買い損ねて惜しいことをしたという記事あり)以上戯     作者とは、ずつと下つて、春水、三馬、一九、その他こんな連中が大分あつたが、みな下卑てゐたよ。     私は武芸一方で、あまりかういふ風の男とは交際(ツキア)はなかつたが、それでも今の小説家なんぞよ     りは、ずつと器量は博く気前も大きかつたらうよ。それにこの頃は笑ひ本が沢山流行つたよ。-(今     は禁制だがね)-みんな、種彦だの、京伝などが書いたので、なか/\旨く書いてあつたよ。旗本そ     の他所々の邸々へ貸本屋が持つて来たが、見料は通常の十層倍もして、おまけに一朱、二朱の手金(テ     キン)を取られるのだが、それでもみんな争つて借りたよ。いはゞ当時の戯作者は万能に通じて居たの     だネ〟    〈この「笑ひ本」が必ずしも「春画」かどうか分からないが、参考までの収録した。手金とは手付金のこと〉    ☆ 文久三年(1863)    ◯『続・絵で見る幕末日本』「浅草の祭り」エメェ・アンベール著(講談社学術文庫)   〝日本で驚嘆するほど多数出版される書物の中には、影響力の動かしがたいほど甚大なものがある。それ    は艶笑文学であって、商品として公然と売買され、飛ぶように売れている(「笑い絵」「春画」などを    指すものと思われる)。そこには、あらゆる年齢の淫蕩な姿が、人間の想像を絶する、このうえもなく    苦心惨澹して、もっとも空想的に描き出されている。芸術性も、趣味も、造形的な美も全然欠けており、    美の三女神 Gracesも、笑いの神 Risも、喜びの神 Jeuxmo、愛の神 Amoursも、日本の美の女神    Venusには伴っていない。というより、むしろ性(セックス)そのものであるだけであって、女性ではなく、    その主人公は賤しい人体模型なのである〟    〈日本の工芸品に高い評価を与えるアンベールもこれには閉口したようで、「淫蕩な姿」の「賤しい人体模型」のよう     な春画が「商品として公然と売買され、飛ぶように売れている」ことに驚きの目を向けている〉    ☆ 慶応二年(1866)      ◯『藤岡屋日記 第十三』p465(藤岡屋由蔵・慶応二年記)   ◇春画、パリ万博出品   〝三月廿三日 町触    今日拙者共、北御番所ぇ御呼出し有之、罷出候処、今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮    世絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニ    ても、右絵御入用ニ付、売物ニ無之、所持之品ニても宜、御買上ニ相成候義ニは無之、御見本ニ御覧被    成度候間、早々取調、明後廿五日可差出旨被仰渡候間、御組合内其筋商売人手許御調、同日四ッ時、右    品各様御代之衆ぇ御為持、所持主名前御添、北御腰掛ぇ御差出可被成候、無之候ハヾ、其段同刻、御同    所迄御報可被成候。     三月廿三日                                 小口世話掛      右、古今異同を著述    夫、わらい本春画と言て、戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候得共、若き男女是を    見る時ハ、淫心発動脳乱して悪心気ざす故ニ、此本余り錺り置、増長する時ニハ御取上ゲニ相成、御焼    捨ニ相成候、其品が、此度御用ニて御買上ゲニ相成、仏蘭西国ぇ送給ふ事、余りニ珍敷事なれバ、      母親の子に甘きゆへ可愛がり末ハ勘当する様になし〟    〈これは来る慶応三年のパリ万博出品のために、工芸品の供出を呼びかけた江戸町奉行の町触(御触書)である。「近     世浮世絵豊国」とは近来浮世絵に名高い豊国といった意味合いがあるのだろうか、その豊国は言うまでもない、また     そのほかの絵師でも、極彩色の女絵(美人画)や景色(風景画)なら巻物でも画帖でも結構、さらに枕絵の類も構わ     ないから差し出してほしいというのであった。しかしこの町触を写した藤岡屋由蔵、よほど奇異に思ったらしく、こ     れまで町奉行は、春画の流通が若い男女を誘発して「淫心発動脳乱」が目に余ると判断した場合には、その都度、従     わないものについては没収・焼却等の処分をしてきたではないか、にも関わらずそのようなものを異国にまで送ると     はどういうことなのだろうと、訝しく感じたのである。さて藤岡屋における春画のありようはというと、一方では     「なくてならぬ品」ではあるが、他方ではいつ何時「悪心」を誘発するか分からないという、まさにアンビバレンツ     な存在であったようだ。ところで、この呼びかけにどの程度の浮世絵が集まったのであろうか、また実際にパリに送     られたのはどのような浮世絵であったのか、残念ながらそれを証する手がかりが見つからない。役所の呼びかけなの     だから、収集リストのようなものが作成されたとは思うのだが〉  ☆ 明治五年(1872)    ◯『早稲田文学』第25号p16「明治文学一覧」(明治30年(1897)1月3日刊)   〝(四月)府下に令して、男女混浴、春画売買、及び刺繍を禁ず〟〈刺繍は刺青。他に裸体・性具を禁止〉  ☆ 明治八年(1875)  ◯『早稲田文学』第32号p191「明治文学一覧」(明治30年(1897)4月15日刊)   〝(四月)先年の春画売買禁止令ゆるみて貸本屋必ず二三冊を携ふを嘆ずる者あり〟  ☆ 明治十年(1877)  ◯『盛衰一覧』東京 番付 山口一轍編・出版 明治十年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※(維新後の盛衰リスト)   〝盛ナル方  中村楼書画会    衰たる方  山王祭          芸者のころび          張かた〟   〝文明    西洋玉つき     固陋    麻上下          合乗の人力車          婦人の鉄漿〟   〝開化    牛肉        因循    柳ばし船宿          賄附下宿            おいらん道中          書生食客            春画〟   〈因循固陋とは古いものに執着し,新しいものを受け入れようとしないことをいう。春画も相変わらずで、代わり映え    しないというのである〉  ☆ 明治十二年    ◯『明治百話』「長門屋と好文堂」上p176(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 初春新版封切本の水揚     八官町の『長門屋』の貸本に対して、筋合の違った貸本屋『好文堂』のあった事について、話がある    席で産れ出した。     「今お話しする『好文堂』というのは、銀座の三越の裏通りにあった貸本屋で、仔細あって、私はよ    く存じております。この『好文堂』の方は雑書でない貸本を、多数所蔵しておりました。珍書貴書とい    った側の貸本でした。ソレというのも『好文堂』の主人が、金座の辻さんの番頭で、辻さんの蔵書は悉    皆(スツカリ)この『好文堂』へ納ってしまいました。ソレですからとても善い本がありました。今でもそう    した本に、子持枠へ入った『好文堂』の院を捺(オ)した書籍がありますが、ソレは辻さんの御本でして、    コノ『好文堂』が『歌舞伎新報』の発行所ともなって条野採菊(ジョウノサイギク)、落合芳幾、広岡柳香、    西田伝助なんかの通人が、久保田彦作さんを発行主として、コレを発行し、芝居の筋書や、楽屋噺、役    者の評判記を書立て、随分売盛(ウレサカ)ったものです。日本紙の和綴雑誌で、芝居好きや芝居へ往かれな    い婦人連は、発行日を待兼ねて、まだか/\と催(セ)き立てたものです。通人の寄ってたかってする仕    事ですから、うまいものが出来ました。ソレから初春は、新版本をばお得意へ、封切本として貸します    が、コレも考えたもので、人情本の序文や初頁を出して置いて、あとを薄用紙(ウスヨウガミ)で封をして持    って参じます。貸料もお高く、二朱三朱の本なら、その三分の二を先取りで、「何しろお宅さまが、封    切りでございますから」と、大いに気を持たせ、初春ですから、高いと知りつつ借りた上に、手代に祝    儀を包んで出したものです。こうした封切本の水揚を、第一第二第三ぐらい、お得意さまで挊(カセ)がし    て置いて、第四番目ぐらいから、「封切(ミズアゲ)も済みましたから」と今度は安く貸すなどは、貸本    屋の虎の巻なんですが、今は貸本も亡びましたから、お話しいたします。     金座お住居は棟割長屋     『好文堂』には辻さんから引受けた『春画』なんかは、美本が沢山ありました。『好文堂』の主人が    亡くなって、後家さんになった時、西田伝助さんが周旋で、中上川あたりへ売込んで、かの方面へ散ば    ってしまったそうですが、今日では高価な本となってしまっていましょう、実に豊国あたりの大したも    のがあったと思われます。     金座の辻さんのことは、御存知でしょうが、浜町の金座に住んで、贅沢三昧に暮していたものの、お    住居(スマイ)は棟割長屋となっていて、その一角に居宅があり、ソレがこの上もない贅沢な室(ヘヤ)となっ    ていて、唐紙が謡の扇(金襴仕立)をベタ張にして、スキマがないといった風であったとやらいいます    が、私共の知っている辻さんの先代が、旧幕時代が全盛この上なかったというお話です〟    〈「歌舞伎新報」の創刊は明治十二年(1879)二月〉  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『読売新聞』明治15年5月27日付   〝四ッ谷鮫が橋一丁目の古道具屋鈴木佐太郎ハ、先ごろ四ッ谷の往来へ露店(ほしみせ)を出し、通りかゝ    ッた助倍(すけばい)書生に春画(わらひゑ)を売ッた科(とが)に依り、昨日東京(とうけい)軽罪裁判所に    て罰金二円申し付(つけ)られました〟    〈往来の露店の春画については、弘化四年の記事及び下掲の『梵雲庵雑話』参照。思い出したように時折取り締まりを     強化するものの、緩めばたちまち湧いて出るようである〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年7月10日記事)   〝西洋人が本邦の古画に於ける嗜好    俳優の似顔をもて米櫃にせる歌川派の画工中豊国三代の画きたる似顔絵が 古今独歩の価あるに引き換    へ 西洋人は更に之を珍重せずとの事なり 其(そ)は見世物の引札なるべしとの観察をもて 一図(づ)    に排斥するに由るなり 故に西洋人との売買を家業にする者 其の内の口上絵又は追善絵をぬきて 是    れこそ日本大名の絵なりと名づけて 纔(わづか)にはめ込むとなり 斯(か)く歌川派の名人が精神こめ    て画がきたる特色あるものが 声価を落としたるに反して 画工自身すら嘔吐の間に画きたる醜怪の春    画は殊に西洋人の好む所となり 当時名もなき画工の手に成れるものすら 非常の高価を有(たも)てる    に付 何時(いつ)しか豊国三代・応挙・北斎又は又平などの春画 何(いづ)れよりか湧て出て 百枚続    き五十枚続きの大板もの 一巻五六百円に売れ行くとは 驚き入たる話なり 豊国とて応挙とて北斎と    て将(は)た又平とて 多少さる画は書きたらんも 斯く夥しく品の出んは不思議の至り 恐くは何者か    偽筆を試むるに由るなるべしとて 心ある画工は古人の名誉の為めに太(いた)く嘆けり〟    〈西洋人には役者似顔絵が見世物の宣伝ビラ同様のものと見えていたようでたいそう不人気であった。それで画商たち     は僅かに口上絵と追善絵すなわち死絵を大名の肖像だとして捌いていたようである。それに反して春画のもてはやさ     れようは異様で、名も無き画工のものですら高値で取引されるから、豊国三代・応挙・北斎・又平などの春画はいう     までもない。しかし一方で「斯く夥しく品の出んは不思議の至り 恐くは何者か偽筆を試むるに由るなるべし」とい     ぶかしく思う識者もいたようである。このブームには当時から不審がつきまとっていたのである  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯「読売新聞」(明治26年5月29日記事)   〝醜画の種本    近時浮世絵の流行するに付て 種々なる秘物をせぐり出し 其昔御殿女中の玉手箱とやら云へるをさへ    発(あば)きて 法外の利を貪る輩あり 是に於て稍(や)や達筆の画工は 大抵古人の筆法に似せたる醜    画をものするに 其潤筆は通常絵画の五七層倍に及ぶとなり 此の事たる 実に忌はしき事にて 心あ    るものゝ等しく眉を顰むる所なるが 昔の大家も亦斯(かゝ)る陋筆(ろうひつ)を玩(もてあそ)びしもの    にや 往々其筆に成れる醜画の本物顕(あらは)れ 中には数十巻の大作もあり 殊に其状況をやさしき    和文に写したる一物にて『穴かしこ(ママ)』とか云ふ秘書は 最もよく書れたり 之は東北の或る鴻儒都    に在りし頃 見もし聞きもしたる所を弾劾的にものして 去る方へ呈したる他見禁制物なりしに いつ    か洩れ知る 今の画工其文の意匠を仮りて画に写し 密かに其道の商人へ鬻ぐの計画ありとは 驚き入    りたる仕打といふべく 何とか此等の出版を厳重に取締まるの法はなきか〟    〈「秘物」とは春画春本のいうだろう。『穴かしこ(ママ)』とあるが、会津の国学者・沢田名垂(木がくれのおきな)の『あ     なをかし(阿奈遠可志)』の誤記か。なお『あなをかし』は艶本だが「近代書誌・近代画像データベース」の画像に絵は     見当たらない〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『明治奇聞録』青木銀蔵編 エックス倶楽部 明治三十五年刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の振り仮名   〝二二九 河鍋暁斎、春画百種を描く(122/137コマ)    明治十一年の頃なりき、猩々暁斎、岩崎家よりの頼にて「春画百種」を描がくとて画料として五百円を    受取りしが、六年も間少しも筆を執らざるに、明治十六年に至り更に五百円を齎(もたら)して彼の画を    督促しけり、暁斎これより三日の間に五十枚たけを描き上げ、僅かに千円の画料にて百枚かゝんは割に    合はねば是丈けにて勘弁し玉へとて再び筆執る気色なきに、又も五百円を与へければ渋々に承諾して十    日ばかりに次の五十板(ママ)を画きぬ〟  ◯『梵雲庵雑話』淡島寒月著 岩波文庫本   ◇「江戸か東京か」(明治四十二年(1909)八月『趣味』第四巻第八号)    (幕末から明治初年にかけての両国の賑わい記事)   〝この辺のでん賭博というものは、数人寄って賽(サイ)を鼻(ハナ)っ張(パリ)が、田舎ものを釣りよせては巻    き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです〟     ◇「幕末時代の錦絵」(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝まだその頃は、大道で笑絵(ワライエ)を売ってもやかましくない時代でしたから、古本屋の店には幾らも晒    (サラ)されてありました。。浅草見附の際(キワ)に名代(ナダイ)のいくよ餅というのがありまして、その家    の前の井戸のわきに、古本見世(ミセ)を出していました店などには、能く見かけました。また賭博師があ    って、それを見による田舎者に銭をかけさして、野天ばくちをやって、結局田舎者の財布を空にさせた    ものです〟    〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ、維新当時(1868)は九才。春画は客引きの道具でもあったようだ〉  ◯『浮世絵』第一号 (浮世絵社 大正四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝江戸の錦絵店  小島烏水(p2-8)    錦絵の外に、草双紙は一ヶ月に、上下二冊ぐらゐ出るが、大概常得意に配つて、店頭へは、ほんの二三    冊ぐらゐしか置かない、奥女中向きの、秘画などになると、一番儲かるものであるが、さすがに小間物    屋などが、函の中へ、そつと忍ばせて、持つて往つたものだ〟    〈合巻は頒布先が決まっていたようで、店先には二三部くらいしか置かない、また、春画春本の場合は小間物屋などの     訪問販売業者を介して密かに売り捌いていたようだ〉  ◯『春城筆語』市島春城著 早稲田大学出版部 昭和三年刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝九一 春画 (213/221コマ)    風紀の取締が厳であるから、表面知れないが、春画を集める道楽は意外に多くある。古来画界の名人は    必ず此の方面に筆を弄して居るから、珍しい物が沢山ある。昔し大名で此の道楽をやつたものも相当に    あり、故人中上川彦次郞氏は此の道の数寄者として評判があつた。堅くるしい意外の人で、内々此の道    楽をやつてゐる人が少なくない〟    〈中上川彦次郞は明治の実業家、三井財閥、中興の祖と呼ばれる。福沢諭吉の甥〉  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   △「第一部 浮世絵の盛衰」「七 続き絵の出版」p50   〝春画は何れの時代でも風俗を壊乱するものとして禁じてある。彫刻の発達も摺方の精巧に成つたも、春    画の出版が盛んに成つた結果であるとさへ云れてゐても、夫れは公然に製出することの出釆ない秘密出    版であるから、画工が絵を描くも彫工が鉄筆を揮ふも、又摺工が鍛錬の乎腕に任せて、真情の追り来る    やうに色調の工夫をするも、皆犯罪行為に出てゐるのであつて、一朝曝露すれぱ重刑に処せられねば成    らぬのだから、総ての工賃は顔る高料で利潤の多いものでもあり、出版元の利益は莫大でもあるので、    其の製出の絶間はないけれども(云々)〟    〈天保三年(1832)、曲亭馬琴の小津桂窓宛書翰に次のようなくだりがある。「画工柳川重信、九月より十月迄、外の板     元に、いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画にのみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、     さし画半分ほど不出来」と、自作読本『開巻驚奇俠客伝』の挿絵(重信画)が後回しにされ、埒があかないことを歎い     ている。春画は工賃も高く利潤も多いから、版元以下・画工・彫り・摺りの諸職人ともども、何はともあれ最優先な     のである。(引用書翰は上掲天保三年の項『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-64 十二月八日 小津桂窓宛 ②279)〉      △「第三部 彫刻師」「一四 絵画彫刻の発展」p175   〝文化頃の人で浪華の北岡芦庵が『近世瑣談』の中に、浪華畸人として村上源右衛門といふふ男を推称し    て居る。源右衛門は祐信の『絵本常磐草』を彫つた彫工であつて、一滴の酒も飲ないで素行の修まらな    い、白痴染た困り者であつたが、貧之人を見ると直ぐ裸になつて着てゐる物を投げ与へ、褌一貫で往来    したなど奇行を舒し「されど此男小刀を持せては浪華に一流の英物なり、江戸にても其の右に出づる剞    劂師あるべくとも覚えず、はじめは業も拙く下平源と称されけるが、或時西川祐信春画を彫るに工夫    を凝し、何人も気のつかざる微妙の彫方を成して評判を取り、以来源右衛門と呼ぷ者なくボヾ源と異名    されたり、然れども其の業は忽ち三ケ津の劂師を凌ぎたれぱ、京大阪にある同じ仲間の者にて心ある職    人は、進んで春画を彫り手腕を磨きける者多く成行きたる由なり、春画をほるには賃銀も高く払へば、    暇の掛るとも身入能きものなれば、自然技を競ふに至りしならんかし云々」とあるに拠れぱ、は、大阪    では既に彫工の発展を春画に媒介されたやうに見えるのだ〟    〈北岡芦庵・『近世瑣談』ともに未確認。やむを得ず孫引きにした〉    (江戸における春画彫刻について)   〝寛政度の喜多川歌麿が盛んに描く頃から、春画の彫刻と云ふものが際立つて変つて来た。素摺ものと彩    色摺のものとの別なく、絵本類の彫刻とは撰を異にして、彫工の手腕一杯に伸して刀を揮つて居る跡は    確に見える。彩色は未だ濃厚なコツテリした摺方ではないが、摺込み方の巧妙をも現して居る。其の以    後に於ける北斎ものに至つては一層彫りも摺も精巧を極め、到底他の絵本類で見ることの出来ない彫刻    振を見せ、実に美術の神随が流露して驚くべきものがある。絵と彫と摺の三拍子揃うた板画としては、    春画を措いて他に求めることは不可能である。如何に立派であつても精妙であつても、大錦や絵本類に    は比べられない妙趣を有してあるは、競技の結果に成つたものであるからだ。各その業を競ふだけの報    酬を与へた製成品であるからだ。また国貞時代となつては、彩色に最も注意を払ひ、金銀箔などをも盛    に摺込むに至り、彫工も摺工も賃銀を莫大に支払はるゝので、彫刻の如きはます/\手腕を揮ひ、上等    物の春画本と云ば彫工の競技彫りであり、摺工の競技摺りであつたから、絢爛目を奪ふやうな、華美で    精巧なものが出来たのである。此の種のものに成ると文字彫の側でも彫つたが、絵彫の手腕自慢の職人    が頭彫り胴彫りの別なく、鉄筆を握つて名誉と実収との両天秤に掛けて競ふたので、板画の発達を見る    に至つたと断言するを憚らない。(中略)彫刻の発展に就て最も多い力を有するは、時勢の要妻求から    来た春画の流行が、一大原因を作つて居るのである〟  ◯『本の覚』(三村竹清著「本道楽」・昭和十四・五(1939-40)年)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「容斎の玉川住居」   〝菊池の家に容斎のかいたおそくつの絵があつた、多分一組十二枚あつたかと思ふ、略筆淡彩で品のいゝ    ものであつたそうだ、浅野侯に所望されたのを、たつて断つたら、写されるから借せとの事で、お貸し    申すと五百円届けて来た、ツイお金は調法なもので、段々減らしてしまひましたと一笑された〟
Top浮世絵師総覧浮世絵辞典