Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しょがかい 書画会(襲名披露等)浮世絵事典
 ☆ 寛政四年(1792)    ◯「識語集」〔南畝〕⑲710(寛政四年一月十七日明記)   〝「二水七画画巻」    (巻首)近世所謂書画会従此始也。文化庚午孟夏 遠桜山人。    (巻末)右柳橋万屋宴集、画人席上所題、集以為巻。時寛政四年壬子春正月十七日也。杏花園〟    〈巻首は文化庚午七年四月の書入れ。料亭での書画会の始りは、寛政四年正月十七日、谷文晁の柳橋万屋の書画会だと     南畝は言う。柳橋万屋とは万屋八郎兵衛経営の万八楼、明治まで存続する料亭・貸座敷である〉    ◯『近世名家書画談』二編六巻[3](雲烟子著・天保十五年(1844)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)10/32コマ   〝近世江戸書画会原始幷落款    杏花園主人 近世書画会に宴集する処の画を巻となし 表名二水七画と題し 序に其人名を記し 跋に    所名時日を記す 左の如し      画人七名 芙蓉 梅渓 幹々 舜瑛 文晁 南湖 紫山     近世所謂書画会者 従此始也 文化庚午孟夏 遠桜散人     (梅) 鈴木氏 落款「芙蓉画」  (竹)鏑木氏 落款「梅渓写」     (山水)文晁妻 落款「幹々」   (竹)谷氏女志夫子 粲堂妻 落款「舜瑛」     (山水)谷氏  落款「壬子正月筆於席上 文晁」     (払子)春木  落款「南湖」   (蓮)宗氏紫石子     右柳橋萬屋宴集 画人席上所題 集以為巻。時寛政四年壬子春正月十七日也。杏花園〟  ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥124(曲亭馬琴著・文政二年二月記)   〝寛政四年夏五月のころ、両国万八楼に於て、書画会を興行せしに、来会するもの百七八十人に及び、当    日の収納三十金に近し【是日、書肆鶴屋、蔦屋、酒食の東道したりき】〟〈「東道」とは世話役のこと〉  ☆ 寛政年間(1789~1800)     ◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政年間・1789~1800)   〝酒楼に於いて書画会を催す事此の頃始まる(近頃印行の「名家書画談」に、書画会は寛政の頃、鎌倉の    僧雲熙といふものより始まりしよしいへり)    ☆ 享和二年(1802)    ◯『南南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳374(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   〝(平亭主人)毛義と号して、享和二年の春三月二十五日、百川にて書画会を催ほしゝとき、歌川豊国と    松露庵雨什として、式亭三馬をたのみて、さる人の世話をしておきし、筆島といふ芸者をつれて来たり    しとて、自寛と呉橋がおほきに立腹して、爾が父に小言をいひしを、圭斎と敬義として中へはひり、漸    の事にて芸者をば、別室へおひやりし事、爾はすこしはおぼえあるべし。又其ときに金杉の親玉と、矢    の倉の先生と、根岸の大人と、三人がでられしとて、書家の牛山が、曲阿と鶴陵のふたりにいへるには、    さて/\けふは珍らしき事かな、儒者の書画会に出席されしはとて、其時分はめづらしきまゝにはなし    ゝが、僅の間にふうぞく替りて、近頃の書画会には、一会にても儒者の出ぬといふ事はたえてなし〟    〈初めて書画会に芸者を入れたのは享和二年という。これに立腹したのが国学者の三島自寛と書家の荒木呉橋。これを     圭斎(南画家・大西圭斎)と敬義(書家・中井敬義)が取りなして、当時の売れっ子芸者である筆島を別室に隔離し、     なんとかその場を収めたという。これをみると、書画会において芸者を呼ぶことに抵抗感を持つ人がまだいたのであ     る。またその時、金杉の親玉(亀田鵬斎)と矢の倉の先生(江湖詩社を結んだ市河寛斎)と根岸の大人(享和二年当     時はまだ根岸に住んでいないが酒井抱一のことか)の三人が同席していた、これに書家の香月牛山が、画家・清水曲     阿と鶴陵(未詳)に書画会に儒者の参加は珍しいと話したというのである。享和年間では儒者の参加は稀なことであ     ったようだ。毛義は畑銀鶏の字(アザナ)〉    ☆ 文化初年(1804~)    ◯『南南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳374(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   〝書画会に芸妓のいづるといふ事は近頃の頃なり。寛政より享和のころ迄は、此事あまりなかりしが、文    化の初めより、そろ/\と初まり。文政年中にいたりては(以下、文政年間記事参照)〟    ☆ 文化三年(1806)    ◯『増訂武江年表』2p35(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文化三年・1806)   〝十月の頃より、菅原洞斎書画会展覧の会を催す。落款を隠し銘々鑑定を小紙に記し、筒にこめて後にひ    らく〟〈これは鑑定主体の展覧会〉  ☆ 文化七年(1810)    ◯『千紅万紫』〔南畝〕②235(文化七年四月詠)   〝浅草並木巴屋にて蜂房の画会あり     さしてゆくはちはみつ蜂みつ巴むらがれあそぶ蜂房の会〟    〈蜂房秋艃は吉見八太郎。大田南畝の次姉が嫁いだ吉見佐吉の本家の四代目である〉    ◯『一簾春雨』〔南畝〕⑩505(文化七年四月の蜂房の画会用に配られたチラシと思われる)   〝蜂房絵会のちらし    絵の事は素人を後にし、黒人を前にすとかいへれど、同じ硯の海に摺り流す墨田川の辺、高殿の名も巴    かきたる筆の軸とりて、諸人の心ゆくばかり絵かき花むすびの戯も、いつしか並木の青葉にかはる卯月    のころ、四方の人/\来りつどひて給はんことをねぎたいまつるになん〟    〈南畝は姉の縁者の蜂房の画会を言祝いだのである〉  ☆ 文化八年(1811)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①67(式亭三馬記)   〝辛未三月十二日、両国ばし向尾上町中村屋平吉方にて書画会、会主三馬。晴天にて、その日は諸君籠を    枉られ、存外の盛会なりし     前日よりの世話役       中ばしまき町 歌川豊国・同居 同国満・本所五ッ目 同国貞      京橋銀座 山東京伝・中ばしまき町 同 京山       弁慶ばし(すり物師)松村辰右衛門 ・附木店  (同左)   山本長兵衛      堀江町 (うちはや)いせや孫四郎 ・浅草大代地(すりもの師)信濃や長蔵      芝 口 (さうしや)江見や庄蔵  ・馬喰町  (板木師)  小泉新八      田所町 (はんもと)鶴屋金助   ・堀江町  (同左)   いがや勘右衛門 肴札役      十軒店 (同上)  西村屋源六 男源蔵 膳札役        其他略之     当日世話役      扇面亭(馬喰町肴店に住す扇屋伝四郎が事也、会席にて、扇子、唐紙、短冊等を商ふ人)      本や勘兵衛(銀座 つる金の御舎弟也)      西宮平兵衛       源兵衛(塩川岸、せんや様御舎弟)・万蔵(浅草板木師)・金蔵(浅草愚弟)・扇面亭より雇人二      人・徳亭三孝 (小石川戸埼町 いづみや勘右衛門) ・益亭三友  (二丁目藤の丸同居)      古今亭三鳥(浅くさ田原町三丁目)  ・三川や吉兵衛(薬種屋)      三亭五蘭 (柳はし船宿の裏)    ・大六(三馬同居)      平蔵(小伝馬町山丁め 鶴金せり商人)・藤吉(同所 鶴喜せり商人)        其他あまたあり、略之      当日、上ミ下着用の世話人は       大六、三孝、三友、三鳥、五蘭、西村源蔵、〆六人也、三馬共七人     毛氈、硯の類は、扇面亭より損料にて貸す事也、至極便利にてよし、草履番人、酒番人とも、扇面亭     より雇ひ人、甚だ事馴たる者どもなり、絵の具一式、国貞子より賜物、門人二人にて、絵の具ときた     る故、事を闕ず〟    ◯『増訂武江年表』2p43(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文化八年・1811)   〝音曲踊の名弘め、活花、書画会等の儀御触あり〟    ☆ 文政三年(1820)  ◯『戯作六家撰』②69(岩本活東子編・安政三年成立)   (文政三年三月上旬の記事)   〝栄之翁の書画会ありける時、隅田の桜のかた画たるに 三馬    隅田堤老木も時におくれずといつもお若い花の顔ばせ    狂歌堂真顔翁、傍におはしけるが、我も流行にはおくれじとて、文晁翁が蝶のかた画きたる扇に 真顔     今はやる人のかきたる絵扇は蝶々静に腰へさしこめ    猶おのれにも歌よめとありければ、ことばの下に 三馬     今はやる蝶々静とよまれては急に趣向もこりや又なしかい    時は文政の三とせ弥生のはじめつかたなりき 式亭書〟    〈当時「てふてふしづかにさしこめ」という囃子入りの唄が流行したという記事が、上記の前段にある。また、大田南     畝『半日閑話』巻八によれば、文政三年二月「いつも御わかひ」という詞が流行ったという。鳥文斎栄之の書画会の     席上、谷文晁、式亭三馬による流行を踏まえた即興のやりとりであった〉  ☆ 文政十年(1827)  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」三月廿二日 ①73   〝画工国貞来ル。右ハ、国貞忰孝貞名弘書画会、来る(ムシ二字不明)日万八にて催候よし、すり物持参。    宗伯罷出、挨拶いたし、廿七日ハ無(ムシ二字不明)ムキ有之ニ付、出席いたしがたき旨、断おく〟    〈歌川国貞の忰、孝貞の名弘書画会は文政十(1827)年3月27日、両国柳橋万八楼での開催であった。同日の日記によると、     馬琴と宗伯父子は出席せず、祝儀のみ届けている〉  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」四月十四日 ①73   〝文宝来ル。本月廿四日、両国柳橋河内や半次郎方ニて剃髪、幷ニ剃髪弘メ会興行のすり物・扇子等、持    参。(中略)廿四日はさし合有之、出席いたしがたき旨断おく〟    〈亀屋文宝、蜀山人二世。25日の日記によると。馬琴は祝儀を届けている〉  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十一年戊子日記」二月廿二日 ①272   〝嶋岡権六来ル。白扇二本持参。当月廿七日、浮世小路百川ニて、書画会いたし候ニよつて也。右同人、    去年九月より、駒込御書院組やしきへ転宅。養子和田鋭之助同居のよし也〟    〈嶋岡権六は『滝沢家訪問往来人名簿』に〝神田橋通り 近藤淡路守殿ニて ひっこう書〟とある。後の岡山鳥。二十     七日、馬琴の嫡子宗伯が参加した〉  ☆ 文政十一年(1828)  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十一年戊子日記」四月十二日 ①298   〝鶴屋喜右衛門、西村与八・蓬莱山人、同道来ル。右は蓬莱山人、立川焉馬と改号、為披露、来ル廿一    日両国柳橋河半ニて書画会催候由〟    〈河半は河内屋半次郎。広重画『江戸高名会亭尽』に書画会の様子が画かれ、寺門静軒の『江戸繁昌記』初編「書画会」     にも〝多くは柳橋街の万八・河半の二楼を以てす〟とされている。この蓬莱山人は二世。いつもなら嫡子宗伯が出席     するところだが、体調不良ということもあってか、女婿の清右衛門を名代として出席させている〉  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十一年戊子日記」十月二日 ①411   〝狂歌堂真顔・六樹園飯盛、二条家より俳諧哥宗匠免許・烏装束等、被下之。并ニ、真顔社中、万象亭ハ    准宗匠、其餘三四人、宗匠格とやらんニ被定候ニ付、御太刀代・銀馬代等進じ、先月下旬両国大のし富    八楼ニて、六樹園宗匠弘会有之。真顔ハ亀戸天神別当所ニて、同断、会有之。真顔ニてハ各装束をつけ、    楽を奏し、もの/\しかりしよし。蜀山物がたり也。尤珍説といふべし。此ごろ了阿が落頌の狂歌に、    アヽラようらましや宗匠なりの翁たちめんばこありと思ふばかりに、これも蜀山の話也〟    〈狂歌師の真顔と飯盛が二条家より俳諧歌の宗匠免許を貰い受け、その弘めの会をそれぞれ行った。村田了阿の「落頌     の狂歌」なるものは、それを当て込んだようだ。それによると、それが狂歌師にふさわしいものかどうかは別として、     どうやら儀式能とされる「翁」の持つものものしい雰囲気の中でとり行われたらしい。ところで、この話を馬琴に持     ち込んだ蜀山(亀屋文宝)は、天明狂歌の総帥四方赤良(大田南畝・蜀山人)ゆかりの人で、南畝公認の偽筆を執っ     た人でもあるのだが、赤良直系の弟子とでもいうべき真顔と飯盛が、たはれ歌とか戯れ歌とか呼びならわしてきた狂     歌に対して、二条家のお墨付きをもらうといった挙に出たことをどう思ったのであろうか〉  ☆ 文政十一年(1828)  ◯『馬琴日記』第二巻「文政十二年己丑日記」三月十七日 ②55   〝芝片門前画工豊広来ル。四月十一日、両国大のしニて書画会興行のよし。右会ぶれちらし印刻、持参。    予、対面〟    〈四月十一日の日記には豊広の書画会の記事なし。あるいは三月二十一日の大火の余波でもあろうか〉  ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯『南南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳374(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   〝(書画会に芸妓のいづるといふ事、文化初年ころより始まり)文政年中にいたりては、甚敷事になり、    今にては書画会やら、芸者会やら、かつてわからぬやうになりしゆゑ、此莚につらなるものも、書く事    よりは飲むことに心を用ひ、遂に酒雅会となりし事、さて/\苦々敷事にあらずや。それのみならず、    若者頭などよりの進物を丈長にかきて、席上にはり出し、あるひは蒸籠を門前へつませ、又は籤にて種    々のものをとらせなどするは、中直りの席やら、富のつき日やら、わからぬやうにて。田舎などにては、    その噂をきゝて肝をつぶせしよし〟     ◯『嬉遊笑覧』巻五上「宴会」p563(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝近来書画会所々の料理茶屋に於て催すこと、四時絶ることなく盛りに行はる。其卑俗なること、御法度    のはな会とて小歌上るりをどり子供の名弘めに異ならず。年中行事にかゝつらひて興行をなす者は菊池    五山大窪天民が輩なり。馬喰町の扇面亭など、もと狂歌会の催主占正が輩をたのみ扇を売に出しが、書    画にも出はじめ其会になれて、此会催す者は必扇面亭五山を頼みて催さねばならやうになりたり〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥141(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝文政の頃より書画会多く、近年に至りて愈盛に行はる、是又花会にほとしき事、世に文人といはるゝ者、    是に加はりて恥る事をしらず、馬喰町扇面亭といふ者あり、諸家発会又書画会に出て、扇面を售り、其    会の事に狎れて、五山と同じく、会を催さむとする者は、先此者共に頼みて催す事也、文晁は自己は会    をせず、又人の会にも出ざれども、目録をば遣はせしとぞ、年々多分の失費成るべし〟    〈扇面亭は文化十二年(1815)『諸家人名録』を編輯して以来、書画会を取り仕切るようになった扇面亭伝四郎。五山は     『五山堂詩話』で漢詩ブームを主導した菊池五山〉  ☆ 天保二年(1831)  ◯『馬琴日記』第二巻p482(天保二年十一月十二日記)   〝未知人、六樹園旧連と見え、何がし初風といふ者来ル、両国大のし楼にて、狂歌興行ニ付、出席願ひ候    よしにて、箱入小猪口壱・ちらし一枚差添、持参。取次おミちへ渡し、帰去。右ちらしに、西来居士追    福と有之。いづれも不知人也〟    〈馬琴は知人の紹介のない未知の人には面会しない。長男の嫁のみち(路)をもって取次に出したのである〉  ☆ 天保三年(1832)  ◯『馬琴日記』第三巻p36(天保三年二月十六日記)   〝画工歌川広重来ル。廿三日、両国柳橋大のし富八楼にて、書画会いたし候よしニて、右すり物一枚持参。    口上申述、帰去〟    〈二月二十三日、馬琴がこの書画会に出席した形跡はない〉  ◯『馬琴日記』第三p225(天保三年十月廿六日記)   〝東条文左衛門来ル。右ハ、老母七十賀筵、来十一月三日、於両国柳橋河内や半次郎楼ニて、書画会興行    の会ぶれ也〟    〈儒者東条琴台の書画会。馬琴・宗伯の父子とも体調不良等で出席できず。女婿に祝儀を持たせ遣わす〉     ☆ 天保四年(1833)     ◯『【銀雞一睡】南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳358(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)    ( )は本HPの注   「連月廿五日於平亭書画会諸先生入来之図」歌川貞廣画    〈天保四~五年頃、畑銀鶏は毎月廿五日、書画会を主催していた。以下はその参加者。本文の「発端」に「天保四とせ、     ころは九月(中略)両国柳橋辺の書画会に趣きしに」とあるので、そのときの参加者かもしれない)   〝岩井紫若(七代目岩井半四郎)・市川白猿(七代目市川団十郎)・文雪先醒(未詳)・可中先醒(画家大村可中)    歌川国直(浮世絵師)歌川国平(浮世絵師)・梅月先醒(未詳)・令裁先醒(未詳)・立兆先醒(画家酒巻立兆)    松嵐先醒(詩家鈴木松嵐?)・花笠魯助(戯作者花笠文京)・鐵鶏(画家畑鉄鶏、銀鶏の子)・轍外先醒(未詳)    雲渓先生(画家村田雲渓)・豊明先醒(未詳)・抱儀先生(俳人守村抱儀)・稼堂先醒(儒者成島稼堂)    焉馬先醒(戯作者烏亭焉馬二世)・雲山先生(詩家宮沢雲山?)・鶏雨先醒(未詳)〟       〝会主銀鶏(畑銀鶏、平亭主人、字毛義)・梅翁先醒(未詳)・万年橋先生(未詳)・筋違親玉(国学者小山田与清?)    琴台先生(儒者東条琴台)・山鳥先醒(戯作者岡山鳥)・竹谷先生(画家依田竹谷)・樸々先生(未詳)    英泉大人(浮世絵師渓斎英泉)〟       〝政徳先生(未詳)・江山先生(詩家大窪詩仏)・櫟斎先醒(本草家阿部櫟斎)・五山先生(詩家菊池五山)    四妍先生(未詳)・大内先醒(儒者大内玉江?)・薫烈先生(未詳)・北峰先生(随筆家山崎美成)    南溟先生(画家春木南溟)・劽斎先醒(篆刻家堀劽斎?)・方外先醒(未詳)・杏所先生(画家立原杏所)    城南先醒(未詳)・常行軒先生(未詳)・研斎先醒(書家中西研斎)・五車亭大人(狂歌師五車亭亀山)    楽水先醒(未詳)・緑陰先生(詩家山本緑陰)・文雄先醒(歌人井上文雄?)    雪麿大人(浮世絵師、戯作者墨川亭雪麿)・梅子先醒(未詳)    〈『馬琴書翰集成』第4巻、天保6年11月10日付小津桂窓宛書翰に「銀鶏『一睡南柯夢』」に関する記事あり、そこに     は「与清を尊信して、筋違親玉としるせしハいかゞ」とあるから、小山田(高田)与清を擬えたものと、馬琴は受け     取ったようだ。なお、作者の銀鶏が「先醒」「先生」とかき分けたことについても「一笑に不堪候」と嘲笑する〉  ☆ 天保七年(1836)    ◯『江戸名物詩』初編 方外道人狂詩 天保七年刊(国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝扇面亭書画扇  両国横山町肴店     文晁武清米庵の筆  五山詩仏緑陰の詩    年々の仕込書画新  扇面売り初む発会時〟    〈扇面亭は文化十二年(1815)『諸家人名録』を編輯して以来、江戸の書画会を取り仕切るようになった扇面亭伝四郎。     年々の発会時に、扇面仕立ての谷文晁・喜多武清の画や市川米庵の書、菊池五山・大窪詩仏・山本緑陰の詩などを初     売りしたようである〉   〝万八書画会   浅草平右衛門町 柳橋北角    万八楼上書画の会    晴雨に拘らず御来臨    先生席上に皆毫を揮ふ  帳面頻りに付く収納の金  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈撰者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝会初    書画詩人けふもつどひて世の用はかくこと多き春の初会    題にかへ子の日の小まつ野のわかなとかくひかるゝ人の詠(よみ)ぞめ    めでたしといはふてちらす題すりに大のしとせしけふの詠初    一とせのこと葉の花を咲せんと心の種をおろすうた人    かつしかの梅さく春の柳はしうたよみ鳥もづどふよみ初〟    〈両国柳橋の大のしは河内屋・万八楼とならぶ書画会の晴れ舞台〉  ☆ 嘉永元年(1848)  ◯『馬琴日記』第四巻 p347(嘉永元年四月廿五日付)   〝関社中書家佐野硯山来ル。右は此度関銕蔵画(ママ)総会催有之、主君土屋殿ぇ憚り有之候ニて、硯山を催    主ニいたし、当月廿九日、両国柳橋河内屋ニて、書画会興行致候間、太郎ニ出席致呉候様、おみちニ申    置、書画扇壱対・会触ちらし一枚差置、帰去〟    ☆ 明治以降(1868~)  ◯『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 植竹新出版 明治二十年(1887)   (国立国会図書館デジタルコレクション」( )は原文の読み仮名   〝暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる(門人梅亭鵞叟篇)    明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉(三河屋)方に於て、俳人其角堂雨雀    なる者、書画会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連(のみなかま)なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝    早くから書画の会莚に臨みしに、会主も頗(すこぶ)る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前    より、早(はや)盃を廻らし徳利の底を叩いて飲始めければ、人集り群々(むれむれ)を以て宴を開く頃    には既に三升余の酒を傾けたる故、暁斎氏は酔て泥の如くなると雖(いへど)も、氏に酒気あるは龍の    雲を得たるが如く、虎の風に遇(あへ)るに似たれば、身体(からだ)も愚弱(くにや)/\にて座に堪ら    れぬ程なれど、筆を持てば益(ます/\)活発にて奇々妙々なる物を書(かき)出(いだ)すを、人々興じ、    一扇書(かけ)ば茶碗を差し、一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲    (のん)だか七升飲だか、氏は鬼灯(ほうづき)提灯(てうちん)の如くになれども、筆を揮ひて屈せざり、    折りから傍らにて高声(かうせい)に噺(はな)す者あり、今日王子辺へ参りたるに、外国人一騎乗切り    にて来(きた)ると、茶屋の者出(いで)むかへ、今日は御一人なるかと問(とふ)と、馬鹿(ばか)を両人    召し連しよし答へたりと云(いふ)が耳に入り、彼等に笑(わらは)して遣(やら)んと思ひ、足長島(あ    しながじま)の人物に二人(にゝん)して沓(くつ)を履(はか)せ居(ゐ)る体を画き、又手長島(てながじ    ま)の人物が大仏の鼻毛を抜(ぬき)とる様(さま)を画きたりしに、画体(ぐわてい)高貴(かうき)の人    を嘲弄(てふろう)せしものと認(みとめ)られ、其座に於て官吏に捕えられしかば、席上の混雑騒動は    図に顕(あら)はせし如くなり、然れども此とき酔(ゑい)いよ/\甚(はなは)だ敷(しき)に至り、目は    動かせども、四辺(あたり)朦朧(もうろう)雲霧(くもきり)の中の如くにして、物の何たるを見分る事    能(あた)はず、口は開けども舌廻らざれば詞(ことば)を出(いだ)す事能はず、只(たゞ)踊りの身振り    して引かれ往き、終(つひ)に獄舎に下されたり、斯(かく)て漸く翌朝に至り酔(ゑい)醒(さめ)、その    事を聞て千悔万愧(せんくわいばんき)すれども詮業(せんすべ)なければ、只恐縮の外無かりし、同月    十五日、御呼出(おんよびいだ)しに成て、右の御糾(おんたゞ)し有たれども、何事を御尋ねあるも、    更に覚えなければ、他の御答は為(な)し難き由を述(のべ)、其日は御下(おんさげ)となり、再度(ふ    たゝび)禁錮させられたりしが、翌年正月三十日に至り、漸(やうや)く官の放免を請(うけ)て、晴天    白日を見る事を得たれば、忘れざる内にと思ひ、牢獄中の有様を図して我が二三の子弟に示し、且    (かつ)我が酒狂に乗ずるの戒めにも為さばやとて、書置たりことの物有しかば、其侭(そのまゝ)に出    して牢獄の中の苦しき様を記すに文章を以て贅せず、此二三の画図に附(つい)て見て、後世の戒めと    もならば氏が本懐ならんのみ〟  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「五 最大隆盛期」p36   〝書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが、広重は席上画に長じ頗る妙所があつたので、    文人墨客も敬意を払ひ同等の交際を結んだと云ふにも、其の人格の高かったことも知れよう。又当時浮    世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話し    てゐた〟〈泉竜亭是正は明治十年代前半の合巻作者〉    ◯『絵本江戸風俗往来』p74(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「三月」)   〝書画会    書画会は当時の詩文家・書画家の催す所にて、会場は大概両国橋のこなた、柳橋際なる万八楼をあてた    り。この会は半年前よりの準備にて、案内を諸所へ配布す。文墨(ボク)の諸彦(ケン)、座上の揮毫ありて、    誰彼の別なく求めに応じ、扇面、画箋・唐紙・白紙へ文を染む。会主・先生は勿論、補助の士も、同じ    く麻上下の礼服なり。来賓には諸侯の隠居、旗本の老士、僧侶・医師及び諸士なり。酒宴の場は芸者い    でて席を周旋す。来賓盛んになる頃は、楼上相押合う程なり。また座敷毎に書画の展覧あり。この会の    催しも、春・秋両季にあり。時候のよきを利せしものなりとす。     書画会は、文士・書家・画家の即席揮毫即売会。賛助出演の揮毫もあり、手許不如意を救うためにも     催された。芸人の名びろめなどとともに三月が多い。万八楼は万屋八右衛門経営の大料亭〟
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