Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しんぶんきじ 新聞記事 (明治年間)浮世絵事典
 ※(原文は漢字にルビ付き、本HPは煩雑を避け、半角カッコ(えかき)というかたちで適宜施した。    全角カッコ(三人とも二代目)は原文のもの。書名の全角カッコ『』は本HPのもの    また、創刊当初からしばらく原文には句読点がないが、本HPは全角スペースで句切りを入れた)  ☆ 明治十二年(1879)  ◯『読売新聞』(明治12年1月25日)   〝今年は松飾(まつかざり)をする者も多く 年礼の往復もはじまッたから 去年の暮 高畠藍泉(たかば    たけらんせん)さんが再興された日暮里の布袋をはじめ七福神詣でがはじまり 来る二十九日にハ軍談    師の燕林(えんりん)・貞吉(ていきち)・鱗慶(りんけい)また画工(えかき)の広重 その外が七福神の見    立(みたて)にて参詣に出かけ 別品(べツぴん)に琵琶を弾せるといふので 尾上菊五郎(おのへきくご    ろう)も見物かた/\出かけるとのうはさ〟    〈谷中の七福神巡りは、明治11年暮れ、戯作者の高畠藍泉が再興したとのこと。日暮里の布袋は修性院。講釈師は桃川     燕林・邑井貞吉・西尾麟慶(三人とも二代目)か。この広重は三代目〉    ◯『読売新聞』(明治12年10月3日)   〝高畠藍泉氏が艶筆を振はれた「巷説児手柏」といふ合巻が今度出板になりましたが 絵は芳年芳幾の両    氏にて仕立のよくなか/\面白い本であります〟  ☆ 明治十三年(1880)     ◯『読売新聞』(明治13年5月29日)   〝今年の吉原の灯籠の趣向は諸国名所絵合(えあわせ)といふ題で 景色は例の広重の筆にて人物が芳年     光我(くわうが) 雪浦(せつぽ) 国(くに)としの四人にて 画賛は諸大人の和歌 発句 狂歌 川柳で    あるといふ〟    ☆ 明治十四年(1881)  ◯『読売新聞』(明治14年1月11日)   〝転々堂主人が著述にて 芳年・芳幾合画(がふぐわ)の『梅柳春雨譚(うめやなぎはるさめばなし)』と     倉田藍江氏の編輯「近世烈婦伝(きんせいれツぷでん)」といふ美しい本が銀座二丁目の愛善社より出版    に成りました〟    〈転々堂主人は高畠藍泉(三世柳亭種彦・明治18年没)の別号。倉田藍江は高畠藍泉の門人。『梅柳春雨譚』(前編)     は明治13年12月刊。明治13年刊『近世烈婦伝』の画工は芳幾 表紙は吟光(本HP「版本年表」の「【明治前期】戯作     本書目」の項参照〉  ◯『読売新聞』(明治14年8月23日)   〝呉服橋外の柳屋にて 去る廿日催した探古小集は寛政文化の頃 屋代弘賢・蜀山人・京伝・馬琴・掖斎    などが催した近世古物会に傚ひ 後の考証とする為に 陳列品も錯雑せぬ様に 毎月兼題を定め 本月    は浮世絵・押絵・人形・手遊び・根附類にて 惣計百八十余品ありし中に 勝れて奇とし妙と云ふべき    は 床に懸たる菱川師宣・天人採蓮の図(武川荷汀出品)は画幅中の第一等なり。次は英一蝶・女福緑    寿(佐藤栄中) 宮川長春・女能の図(渡辺守勝) 正徳寛文頃江戸大坂婦女髪飾巻物(竹蔭居)     鍬形紹真・江口の君(前田夏繁) 同筆・鶉(染谷) 北斎十二支内狗児(いぬころ)に日の出は洋画の    如く真に迫りて俗ならず愛すべき物なり(清水晴嵐)。    屏風も古雅にて面白かりしが 凉風を防ぐの器なれば 冬見る程の面白味はなかりし。    古代の大津絵廿余幅は何れも雅致ある中に 天狗と象の鼻引は殊に珍らし(四方梅彦)。    押絵には東福門院より千の宗旦に賜はりし小屏風ありしが 住吉具慶の下絵にて今日の押絵の如くなら    ねば 多くは尋常の絵なりと思ひて其の細工に目を注(と)めざりしは遺憾なり(風月堂清白)    人形は貞享頃の女人形と女の酒器は最も古し(竹内久一)。十二神の像(仮名垣魯文) 小児の角力    (大鬼三) 堂上行列人形の全備したるは珍らし(幸堂得知) 土人形にては古伊万利の唐子(太田万    吉) 古備前の老子(岸田吟光) 仁清作鬼女(服部杏圃) 根附けは俗に長立(ながだあ)といふ木彫    象牙合せて十六種はよく集めたりといふべし(竹内久一)。其外支那英仏の人形まで集められたるは実    に眼を驚かすべき事にて 其委しい処は近日に美々敷い目録が出板になるといふから 其時に御覧なさ    い。又後会は来九月第二の日曜日にて 出品の題は遊郭と劇場の書画器財類なり〟    〈前年の明治13年4月、文部省博物局は古美術の観賞会である観古美術会を開催していた。この探古小集はあるいはそ     の余波とでもいうべきものなのであろう。浮世絵は観古美術会同様すべて肉筆。菱川師宣・英一蝶・宮川長春・鍬形     紹真(北尾政美)・葛飾北斎も同様、その愛好する絵師に官民における相違はなかった。なおこの小集が倣ったという     「近世古物会」とは、文化八年(1811)、大田南畝や山東京伝などが中心になって行った「雲茶会」をいうのだろう。     またこの古物愛好会としては、文政七年(1824)から文政八年にかけて毎月一回開催された耽奇会も知られる。こちら     は江戸留守居や儒官や谷文晁といった身分の高い人々に交じって、曲亭馬琴・山崎美成・亀屋文宝などの民間の識者     も参加している〉     雲茶会(文化八年)  耽奇会(文政七~八年)  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『読売新聞』(明治15年4月1日)   〝今度画師の立斎広重が先師初代広重に由縁のある人々と謀り 同翁の碑を向島へ建てたにつき 同人が    会主にて来る十六日 同所請地秋葉神社前にて追善の書画会を催します〟  ◯『読売新聞』(明治15年11月10日)   〝来る十七十八の両日は 向島請地村の秋葉神社の大祭につき 画工松本芳延 同立斎広重 落語家の柳    亭燕枝が 社前へ忠臣蔵見立の飾物を奉納します 向島の芸人と芸妓(げいしゃ)中にて俄躍(にはか)を    催す由〟  ◯『読売新聞』(明治15年12月6日)   〝今度小林清親氏が画かれた三十二相の中「泣上戸の相」「つんぼの相」抔をはじめ十二相の図を神田須    田町の絵双紙店原方より出版せり〟  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『読売新聞』(明治16年2月15日)   〝小林清親氏が画かれたる「三十二相」の画は 今度全紙出来せしが 遠見・ちか眼・しびれ抔をはじめ    何れも真に迫り殊に彫刻摺りとも美麗なるので大層評判が宜いとのこと〟  ◯『読売新聞』(明治16年4月1日)   〝反圃(たんぼ)の狸と云へば 諸君が御承知の画工(ゑし) 松本芳延氏等が世話人にて 明後三日より二    十日まで 向島秋葉神社の臨時祭を行ふにつき 東京(とうけい)の諸講中は勿論 不二講・消防組一同・    俳優・講釈師・落語家・芸妓その他吉原・根津の貸座敷等より奉納の神旗が凡そ三百本程も建ち 手踊    ・俄・茶番抔の催しも有るといふ〟   ◯『読売新聞』(明治16年4月5日)   〝日本橋室町の滑稽堂より出版した三枚摺の錦絵は 昨年芳年が絵画共進会へ出品した 保昌が月下に笛    を吹く図を縮図したものにて見事な出来で有ります〟  ◯『読売新聞』(明治16年05月10日)   〝芝愛宕町三丁目の伊沢菊太郎が出版せし「一人息子に嫁八人」といふ二枚つゞきの猥褻の錦絵は昨日其    筋より発行を禁止せられました〟  ◯『読売新聞』(明治16年7月11日)   〝此ほど室町の滑稽堂より大蘇芳年が筆を揮ひし「隅田川梅若丸」の古事の三枚続きが出板したり 錫箔    ピカピカの否味(いやみ)なく 彫摺ともによく出来ました〟    ☆ 明治十七年(1884)  ◯『読売新聞』(明治17年3月11日)   〝出版 今度日本橋通三丁の小林鐵次郎方より出版に成つた『絵入日本外史』(初編上下二冊)は鮮斎永濯    の画にて 書入は松村春輔氏の編輯なり〟  ◯『読売新聞』(明治17年5月1日)   〝錦絵 今度日本橋室町三丁目書肆滑稽堂より 大坂軍記の内「家康日本号鎗傷の図」三枚つゞき(芳年    筆)神田須田町原方より「忠盛御堂法師を捕ふる図」三枚つゞき(清親筆)が出版になり 又南鍋町一    丁目寄留小林方より「角力勝負一覧表」が出版になりました〟    〈滑稽堂は「月百姿」の版元・秋山武右衛門〉  ◯『読売新聞』(明治17年5月16日)   〝第二回絵画共進会私評    (前略)お茶席の図を岡本貞春が画かれたるは則ち御用品 中井芳滝氏(前回胴印)の京都婦人は何かな    しうつくし 其うち尺(ものさし)を持ちたるお内儀の眼つきがちと強さうに見えたり 此お顔つきでは    子供衆の教育もさぞ行届きたる事成べしと感心せり 木下広信氏(前回褒状)の桜の枝を担ぎたる若人は    何とやらん狂乱めきたり 柴田小蘭女氏の玩具(おもちや)は大津絵派とでもいひたく ざッとして雅な    り 伊藤静斎氏の遊女高尾は元禄人形に習ひてかゝれたるにや 着物の模様も拠りどころありて面白し    石塚寧斎氏の王昭君は遙かに明画の趣きあれども 其隔つ事遠し 氏は嘉永時代の武人と聞しに 木刀    に換へて画筆(ゑふで)を揮はれしに合せては 至極柔和に出来たり 松本(ママ)周延(前回褒状)の若殿様    鳥合せの図は御用品 梶田英洲氏の紫式部は歌川派とあれども お玉が池より流れ出たるがごとし 歌    川豊宣氏の木曾願書は着色の手際大いによし 帰命頂礼云々(しか/\)の文字を紙になづまず真直(ま    ッすぐ)に書れたるは遺憾なり 料紙にならひて斜めに書たらばよからん 雨舎(あまやど)りは時世に    後れずして面白し 浮世絵師はかくこそありけれ 松本芳延氏の大入道の影法師は 地図の書かけのや    うにてあまり妙ならず 和賀霞舟氏の桂昌院殿は 何か拠りどころのあるかはしらねど真容とはおもは    れず〟  ◯『読売新聞』(明治17年6月15日)   〝書画会 来る二十二日 柳橋の万八楼にて 仮名垣熊太郎氏が会主となり 新居披露の書画会を催され    る由にて 当日は暁斎(けうさい)翁が 席上にて千疋蛙(かはづ)の珍画を画れるといふ〟  ◯『読売新聞』(明治17年12月14日)   〝暁斎の烏 猩々暁斎氏の墨画の烏を 同氏の弟子英国人ゼーコンデル氏が 本国に送りしに 同々にて    最も賞美し 此の図を百枚認めて送ッて呉れとの注文が来たので 暁斎は毎日築地の外国館へ通ひ 絹    地へ揮毫し 昨日残らず認め終ッたといふ〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯『読売新聞』(明治18年3月13日)   〝新書出板 日本橋長谷川町菱花堂より『絵本三国志』小冊(大蘇芳年画) 同室町三丁目滑稽堂より    『糸桜春蝶奇縁』の第三編及び第四編 通り三丁目加藤書肆より『禁賊美譚釜が淵の由来』一冊及び    『大日本名将鑑』一冊(銅版密画)〟    〈〔目録DB〕は『糸桜春蝶奇縁』曲亭馬琴作・一笑斎房種綴・画 初二編安政1年刊 三四編同4年刊とする。それと     この明治18年版との関係は不明。『禁賊美譚釜が淵の由来』は不明。この銅版の『大日本名将鑑』は不明〉  ◯『読売新聞』(明治18年3月17日)   〝書画小集 浮世絵師立斎広重氏は来る二十日 住居に近き大代地の名倉にて書画の雅筵を開かれます〟  ◯『読売新聞』(明治18年5月23日)   〝吾妻錦画   瀧泉居士    頃日古き錦絵類が好事の外国人へ売行くとて 紅絵細絵といふの類は格外に価高く其品も少なくなりし    とか 夫に付きて思ふに浮世絵といふ名の卑しきが為めに 人も今までは捨て顧みざりしが 其時其世    の風俗を知らんには是に超たるものなければ 心あらん人は保存し置かれたく願ふなり もと錦絵は女    子供の弄び物なれど 総ての板摺の業は此の錦絵の世に行はるゝにつれて進歩改良したりと云はんも不    可なきほどにて 江戸名物の一つなれば 此後ちとても此業をます/\進め 錦絵は安政万延に至りて    極まり 明治の世に尽きたりと云はせたく無きものなり 偖(さて)此の錦絵といふものは何時頃より世    に行はれしかと云ふに 彩色摺の絵は元禄より先には見えず 『江戸真砂六帖』に元禄八年元祖市川段    十郎鍾馗に扮す 其容(かたち)を画き刻んで町に売る価銭五文と有り 此頃の物は丹にて彩どり又は紅    一色の色ざしなり 正徳享保の頃は奥村政信(文角又は芳月堂丹鳥斎などゝ号す)盛りに三枚続きの細    絵を出し 彩色は紅と萌黄(もえぎ)のみにて 三夕 和歌三神など名づけ 遊女若衆の風俗を写す 然    し未だ錦といふ字を付くべき者なかりしが 此の政信の絵のよく行はれし為め 紛らはしき名を付けた    る贋版多く売りを競ふより いろ/\工夫して彩色も増し 明和の頃 鈴木春信の出す小形の美人絵は    較(やゝ)錦の字に近しといふべし(北村信節の『嬉遊笑覧』には 曲亭馬琴の説とて 錦絵は明和二年    の頃唐山(もろこし)の彩色摺に習ひて 板木師金六といふ者 板摺(はんすり)何某(なにがし)と語らひ    て初めて四五遍の彩色摺を製し出せりと載せたり)天明の頃は勝川春章始めて歌舞伎役者の似顔を画き    大いに世に行はれ東都(あづま)錦絵と名あるに至れり 夫より続いて北川歌麿 歌川豊国等の上手出て    絵も追々と美事になり 二世(せ)豊国(実は三世) 国芳に至りて 此道の美を極め 殊に豊国は世に行    はれ 板元にも魚栄(うおえい)などといふ好事の者ありて 極彩色奉書摺の美を極めし事は 人の知る    所なれば委しく云はずもあらん 斯(か)く此の業は凡そ二百年間に斯くまで進歩せしものなれば 今の    人は此の緒(あと)を継ぎ 錦絵は明治の世に至りて滅びたりと云はれ玉はぬやう注意あれかし〟    〈明治十八年の頃はまだ月岡芳年・鮮斎永濯・河鍋暁斎・歌川国周などが健在で、錦絵にかぎらず、合巻などの版本、     そして新メディアともいうべき新聞などにも進出して、旺盛な需要の応えていた時期であったが、瀧泉居士の目には     既にして衰頽の兆しが見えていたというべきなのであろう〉  ◯『読売新聞』(明治18年7月22日)   〝石版画の団扇 今度銀座三丁目の太盛堂より 俳優芸妓おいらん等のうち 美しいのを撰みて彩(いろ)    ざしの石版画にして 団扇が出来て 書生連は大受〟  ◯『読売新聞』(明治18年9月2日)   〝錦絵帖 絵画共進会へ「三代将軍幼時の図」を出して評判のよかッた楊州(ママ)周延が筆の「月雪花見立    一枚絵」は通り三丁目の丸鉄の版にて彫摺ともに精巧を極め 四十八枚出版したが 是を奇麗な帖に仕    立て今度同家で売出したは遠国の土産などには至極よい物であります〟  ◯『読売新聞』(明治18年9月26日)   〝改良錦絵 東都(あづま)錦絵と称して東京名物の一つなる錦絵も 漸々(おひ/\)衰へ行くを歎き 曾    て本紙雑談にて 其改良保持を謀らねばならぬ事を述べたるが 右営業者のうちにも此事に早くより    心を付けられたる人ありしと見え 深川西森下町の松井氏は 芳年の快筆を奉書摺にして出板し 大い    に精巧を極めたれど 其図様の中には余り好ましからぬも有るは 遺憾(のこりをし)と思ひしに 今度    両国吉川町の松木平吉氏は 画工清親とはかりて 今古誠画浮世絵類考として二枚続きの錦絵を三組出    板されしが 其うち前九年合戦の図は 有名なる国学者黒川真頼氏の検閲を経たるものなれば 鎧の縅    毛弓矢打物の類まで 聊か誤ちなく古き絵巻を見る心地す 山内一豊の図に跛(ちんば)を知らせたる    細川忠興の内室の衣紋に綿の入りしの見ゆるなど 画工の心を用ふること 其図柄の実伝に依りて教育    の一助となるは 誠に感ずべし また同家にては本日の広告の部に有る如く 孝子貞婦忠勇慈善の人々    の図様小伝を 江湖好画家の指命に拠りて 続々出板し東都錦絵の光りを 昔にまして輝かさんと謀    られる由なり〟    〈表題「古今誠画/浮世絵類考」〉  ◯『読売新聞』(明治18年11月28日)   〝改良錦絵 東都錦絵の名に背かじと 錦絵出版改良に熱心の両国吉川町の松木平吉方より今度出版した    「三国志」の桃園に義を結ぶの三枚続きは 小林清親の筆にして 桃林はチト梅林と間違ひはせぬかと    思ふやうなれど 関羽の如きは 横浜関帝廟の僧を真写せしものにて 骨法器具とも真に迫り 殊に彫    摺とも施工の精行の錦絵なり〟    〈表題は「三国誌桃園之図」〉  ◯『読売新聞』(明治18年11月28日)   〝月の百姿 此ほど室町三丁目の滑稽堂より月の百姿といふ大錦絵百番続の内 五番を出板せしが 名に    聞えたる芳年が一世の筆を揮ひたるなれば 何れも上出来にて彫摺ともに東錦絵の名に背かぬものなり〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯「今日新聞」三八〇号付録(明治19年1月2日)   (「ふりかな新聞画工之部」)   〝東京 大蘇芳年  同  落合芳幾  同  小林清親  同  尾形月耕    同  稲野年恒  同  新井芳宗  同  生田芳春  同  歌川豊宣    京都 歌川国峰  大阪 歌川国松  同左 後藤芳峰  高知 藤原信一  ◯『読売新聞』(明治19年1月12日)   〝月百姿 芳年の筆にて室町三丁目の滑稽堂より出版する「月百姿」の大錦絵は先に五番売出して 大き    に評判よく 今度また稲葉山の間道を登る図 孝女冬川へ身を投げる図等五番出板せしが いづれも図    様陋(いや)しからず 彫摺とも上等なれば 錦絵好は跡の続いて出るを待ち詫びる程だといふ〟  ◯『読売新聞』(明治19年1月20日)   〝錦絵 芳年が奇想を写し出す「月百姿」の大錦絵三番は 例の室町の滑稽堂より 又奉書上等摺 竪二    枚続きのお七の図は 深川西森下町の松井より いづれも此ほど出板したり〟    〈「月百姿」は好評が続く。「お七の図」(表題「松竹梅湯嶋掛額」)はいわゆる「竪二枚続」シリーズの一つで板元は松井栄吉〉  ◯『読売新聞』(明治19年1月20日)   〝現時五十四情 本銀町二丁目の錦絵問屋沢村屋清吉方より兼て出版の「現時五十四情」は 此程残らず    全備せしが 其図柄の艶麗にして且つ彩色(いろどり)の美事なる 遠国の遣ひ物などには最もよき錦絵    で有ります〟    〈「現時五十四情」は豊原国周画 明治17年から1-54号まで 沢村屋(武川)清吉の出版〉  ◯『読売新聞』(明治19年3月13日)   〝錦絵 此ほど今川橋の沢村屋より 猩々暁斎が筆を揮ひし義士の図が二枚 また馬喰町の綱島より芳年    の宮本武蔵試合の図が二枚続きが出版になりました〟    〈暁斎画の表題は「元禄日本(やまと)錦」 芳年の二枚続は表題が「武蔵塚原試合図」で「新撰東錦絵」シリーズの一つ〉  ◯『読売新聞』(明治19年4月8日)   〝芳年錦絵 今度二本橋室町三丁目滑稽堂より芳年「月百姿」のうち竹生島 源氏夕がほ 月のかつらの    三枚 また馬喰町二丁目綱島方よりは同じく「神明相撲喧嘩」の二枚続きが出板したり〟  ◯『読売新聞』(明治19年4月14日)   〝錦絵 今度本銀町二丁目武川清吉方より 惺々暁斎の画(か)いた義士討入の図六枚 並に深川西森下町    の松井方より芳年の画いた豹子頭林冲山神廟の図竪二枚続き(奉書摺り)が出板になりたり〟  ◯『読売新聞』(明治19年4月23日)   〝芳年錦絵 今度馬喰町二丁目綱島方より 芳年が書いた「おさめ遊女を学ぶ図」と題する美麗の錦絵    (二枚続き)を出板せり〟  ◯『読売新聞』(明治19年5月6日)   〝書籍錦絵 (前略)室町三丁目滑稽堂より芳年「月百姿」の中 卒塔婆小町 山木の館 廓の月の三枚    が出板せり〟  ◯『読売新聞』(明治19年5月15日)   〝第七回観古美術会品評    浮世画といへばいやしきものゝやうに 人はおとしめいへども さるいやしき物にはあらず 中昔より    今の世に至るまで 貴賤上下の風俗をしらんには 風致あり高尚なりとて水墨の山水 川渡りの布袋     何の用をかなす 文字しらぬ児童の教草には 気韻あり品位高しとて四君子や柿本の人丸 何の益があ    る 爰に慶長以来の浮世画数十種の展列を見て大に感ずる所あり 依て画工の略伝を付し其年暦を徴し    聊か賛助の微意を表す      古画の遊女  着色    元和寛永頃の画にして浮世又平の風あり 而して又平よりは拙(つたな)し これを以て浮世の始めに展    列されたる尤もよし 評者按ずるに 此次に菱川師宣の画なくては順序を失するがごとし いかなる訳    にて師宣を省かれしや 考へ得ずといへども 師宣及び其門弟まで一幅もなきは 此順序の一大欠典と    いふべし      英一蝶 小町踊の図  着色    此小町踊の事は柳亭種彦が『還魂紙料』に委しく論(あげつら)へり 其中に中古風俗志を引て曰く 昔    は七月六日頃より小町躍といふ事はやりて 七八歳ごろの女子 紅絹(もみ)の裂(きれ)金入などにて鉢    巻をさせ 下髪頭に造花(つくりばな)をかざり 色美しき手襷(たすき)をかけて達(だて)なる染もやう    を着せ 団扇太鼓に房のつきたるを持せ 四五人も召使ふほどの町人の娘は肩車に乗せ 乳母抱守(だ    きもり)等つきそひて 日傘をさゝせ云々(しか/\) これによく符合せり    英一蝶 姓は藤原 名は信香 俗称を多賀助之進 又次右衛門といふ 始め狩野安信門人となり 剃髪    して潮湖と号し 翠簑翁北翁等 其他数名あり 元禄十一年四十七歳の時 事故ありて八丈島に配流せ    られ 宝永六年九月赦あひて帰る 享保九年正月十三日没す 年七十三 法名英受院一蝶日意      宮川長春 大森彦七鬼女を負ふ図 着色    長春は尾張の国宮川村の産にして土佐の門人なりといふ 寛保二年正月元旦画く所の自画の像の落款に    六十一歳とある由記せれば 宝永正徳の頃の人なるべし 后(のち)事故ありて流罪せられしと云 按る    に今尾張の国に宮川といふ村なし 尚考ふべし      西川祐信 美人納涼の図 着色    祐信 姓は藤原 俗称を右京といふ 自得斎 又文華堂と号す 京師の人にて画法を狩野永納に学ぶ     西京祇園の社に絵馬は延享元甲子年五月 七十四歳筆とあれば 凡そ長春と同時の人なるべし      古画角力の図 着色    考ふる所なし〟    〈以上、すべて若井兼三郞の出品〉    ◯『読売新聞』(明治19年5月16日)   〝第七回観古美術会品評 全号続き      鳥居清重 俳優の図 着色    清重は鳥居清信の門人にして 殊に市川団十郎を画くに長じたる由なり 然らば爰に展観する処の団十    郎の絵は清重が得意の作なるべし 讃あり曰く     今こゝに団十郎や鬼は外 晋子ノ句 望ニ任テ柏莚誌ス      奥村政信 女万歳の図 着色    政信は俗称を本屋源六といひ 芳月堂 又丹鳥斎と号す 享保頃の人なり      勝川春章 美人の図 三幅 着色    春章は俗称を祐助といひ 旭朗井又酉爾と号す この頃に至り彩色の摺物漸次精巧に至り 遂に吾妻錦    絵の一大産物となれり 寛政四年十二月八日没す      喜多川哥麿 窪俊満合作 遊女の図 淡彩    歌麿は俗称を勇助といひ 紫屋(しおく)と号す 始め狩野家の画を学びしが 後鳥山石燕の門に入り     終に一家をなす 哥麿生涯役者をかゝず 曾て曰く 芝居は人の愛観する所にて人各(おのお)の贔屓の    役者あり 是を画きて我名を売らんとするは拙なき業ならずやと 其見識あるを想ふべし 近時又洋客    争ッて歌麿が錦絵を購求せしより 一時大に騰貴せりといふ 寛政四年十二月八日没(ママ)    俊満は始め春満といひ 俗称を易兵衛といふ 左筆なりし故に 尚左堂と号す 狂歌をよみ 又戯作に    も長ず、隠名を南陀迦紫蘭と号す 山東京伝・宿屋飯盛その他数十名の狂歌の賛あり      鳥居清朗(せいらう) 遊女の図 着色    清信門人なるべけれども未だ其伝をしらず      葛飾北斎 清少納言の図 着色    北斎は本所の産にして 通称を鉄五郎といふ 辰政 雷斗 画狂人 雷信 錦袋舎等の数号あり 始め    勝川春章の門に入りて春朗といふ 曾て明画の法を以て浮世画を工夫し 終に一大事をなす 嘉永二酉    年四月十三日没す 年九十 法名南牕院守誉北斎居士      魚屋北渓 調布(たつくり)の図 着色    北渓 名は辰行 通称を初五郎といひ 栱斎(こうさい)又葵園と号す 北斎門人中の一人なり     以上、浮世絵十三幅は若井氏の出品なり 付言畢〟  ◯『読売新聞』(明治19年6月3日)   〝錦絵 今度琴平町の本阿弥巳之吉方より 応斎年方が画いた「伏姫富山」の錦絵(三枚)を出板せり〟  ◯『読売新聞』(明治19年6月4日)   〝錦絵 今度通り三丁目小林鉄二郎方より 芳年が画いた武者無頼のうち 仁田(にたんの)四郎 怪童丸    源三位頼政 平忠盛の四枚 並に周延が画いた東絵昼夜競のうち 伊賀の局 楠正行 加藤清正 室の    津遊女の四枚 また通一丁目大倉孫兵衛方よりは 例の日本史略図会のうち 菅公行平 清少納言小式    部 義貞高貞の妻 義元および川中島の四枚を出板したり〟    〈「芳年武者无類」大蘇芳年画・「東絵昼夜競」楊洲周延画、以上小林鉄次郎板。「日本史略図会」安達吟光画、大倉孫兵衛板〉  ◯『読売新聞』(明治19年6月8日)   〝錦絵 今度通り三丁目小林鉄二郎方より 芳年が画いた二枚続き 大塔宮並(び)に土蜘蛛の二種と 周    延東絵昼夜競のうち 浅茅が原 大江山 雨乞ひ 玉藻の四種が出板になりたり〟  ◯『読売新聞』(明治19年7月11日)   〝錦絵 今度馬喰町二丁目綱島方より 芳年が画いた「田宮坊太郎」の二枚絵が出版に成りたり〟    〈「田宮坊太郎」二枚続は「新撰東錦絵」シリーズの一つ〉  ◯『読売新聞』(明治19年10月15日)   〝錦絵月百姿 芳年氏が画(ゑがき)たる錦絵月百姿のうち 銀河月(牽牛織姫)垣間見の月(かほよ御前)    高倉月(長谷部信連)の三枚は新板にして 例の室町滑稽堂より出版せり〟  ◯『読売新聞』(明治19年11月30日)   〝絵双紙組合 府下の彫画製造販売者が協議して 横山町三丁目辻岡文助外八名が総代となり 同業組合    規約の事を其筋へ願ひ出しが 昨日許可になりしゆゑ 事務所を通り三丁目へ設立されるといふ〟  ☆ 明治二十年(1887)  ◯『読売新聞』(明治20年4月19日)   〝錦絵 英和対訳大日本功名略といふ奉書摺の大錦絵を 通三丁目の丸鉄より売出したるが 鮮斎永濯の    筆にて重盛が義平と戦ふの図よく出来たり 室町滑稽堂よりは芳年の月百姿のうち 熊坂 赤染衛門    義貞の三枚が出板したり〟    〈「英和対訳大日本功名略」永濯画・丸鉄(小林鉄次郎)板〉  ◯『読売新聞』(明治20年9月13日)   〝最近出版書『暁斎画談』    画名天下に聞えたる河鍋暁斎翁は 三歳はじめて蛙の写生をなせしより 今年五十八歳まで刻苦勉強実    物を写し 古画を摸し 画の為に狂(きゃう)したる人といふも可なる(酒に狂するは別として)ほどな    れば 外国人も慕ふて 弟子の礼を執るに至る 誠に名誉の事なり 今ま同氏の画談並(び)に同氏の奇    行をば 門人梅亭叟が集め 尚ほ同氏が是までの丹精になりし古画等を刻して内外篇四冊として発売せ    られたり 此書ありて翁の伎倆ます/\世に顕はるべし〟  ◯『読売新聞』(明治20年10月26日)   〝月百姿 室町の滑稽堂より 芳年の『月百姿』のうち 前田玄以 深見自休 淮水の月の大錦絵三番が    売出しになりたり〟  ◯『読売新聞』(明治20年11月17日)   〝上等錦絵 吾妻錦絵の名に耻ぢぬ上等錦絵数番を出した 深川森下の絵草紙屋 松井栄吉は浅草茅町一    丁目へ移転せしが 今度芳年翁が筆を揮ひし「魯智深五台山を騒がす図」と「戸隠山鬼女退治」の竪二    枚続きの大錦絵を出版したり〟    〈「竪二枚」シリーズ〉  ◯『読売新聞』(明治20年11月18日)   〝錦絵 今度本所二つ目通り橋南の地本問屋小林新吉方にて 新板発売の三枚続錦絵は 鹿鳴館婦人慈善    会に貴婦人出店の図にて 図柄の新しく美しきのみならず 時候に適ひし出板なり〟    〈「於鹿鳴館 貴武人慈善会之図」三枚続 楊洲周延画〉  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『読売新聞』(明治21年3月29日)   〝美術展覧会 日本美術協会(旧龍池会)にては 来月十日より開会する 美術展覧会の計画に付き 上    野公園内華族会館に 各部委員の惣集会を開き 会事を協議せし由 曾て前回の観古美術会にては 古    物品のあるに任せ 混乱して陳列したりしが 本年よりは成るべく画工作人等の小伝解説等を附し 年    代順序をたてゝ陳列し 美術学的の研究上に有益ならん事を注意せらるゝ由 実に斯く有たき事なり〟    〈これまでの展覧会は一定の方針もなく漫然と陳列していたようである〉  ◯『読売新聞』(明治21年3月29日)   〝錦絵改良に熱心の両国の大黒屋より大達剣山の二枚 室町の滑稽堂より芳年の「月百姿」のうち 頼政    かくや姫 子路の三枚を売出したり いづれも上出来なり〟    〈大黒屋(松木平吉)板の「大達・剣山」は相撲絵。画工は歌川国明二代か〉  ◯『読売新聞』(明治21年5月16日)   〝美術展覧会私評 第廿一回(古物品)    (前略)松平直徳君の宮川長春の源氏絵初音と若菜の小屏風も 筆法繊勁着色鮮麗なり 浮世絵師と高    雅にしていふべからざる品位を備ふる事かくのごとし 近代の浮世画者流と日を同じうして語るべから    ず(後略)〟〈他に狩野派・土佐派、若沖・応挙などの記事あり〉  ◯『読売新聞』(明治21年5月31日)   〝大石真虎の伝 第三回 饗庭篁村    (前略)大石真虎は『百人一首一夕話』の挿絵にても人の知る上手なれど 小成に安んぜず図案の新し    くして正しからんことを考へ 常に我が書く画が我が気に入らず書ては 破りて捨つること多かりしと    江戸に行はれずして京都へ上り 或日比叡山に上りしが 古戦記録類に山法師が事を企つる條に 袈裟    を以て頭面(かしら)を包むことあり 我れ法師武者など画かん折には知らで協(かな)はぬ事なりと(袈    裟包みに関する記事あり 省略)進み登りて其事を乞へども 法師等は其の状(さま)のいやしきと 年    の若きを見て嘲り笑ひ 汝ぢ何者なればさる鳥滸(おこ)の事は云ふぞ 袈裟包みの事を聞て何にかする    といふ 僕(やつがれ)は尾張の国の者にて画匠(ゑのたくみ)なりと答ふれど 衆徒は承引(うけひか)ず    汝は絵師といふ人柄ならず 仕過(しすご)しの抜参りか 勘当の伯母便りならんといよ/\嘲る 法師    として左様に人を罵り玉ふは何事ぞ 疑ひ玉はゞ絵を書て見せ申さんといへば 夫は面白い いざ書け    画をよくせば包みやうを教へんと 紙筆を出し与へたれば 真虎は快よく筆を揮ひたるに 衆徒はいた    く先の言(ことば)を謝して 望みの如く袈裟にて覆面(ふくめん)する事を教へたりと(後年名古屋へ帰    り もとの師たりし渡邊清に逢ひ 世の絵師皆な 袈裟覆面(づゝみ)の事を知らず 角(かく)頭巾被り    しやうに書く事の可笑さよ 今その仕やうを君に伝授せんと 二人の法師を画きて委しく教へたりとぞ)    此旅の次手(ついで)にやありけん 長崎まで至り同地にしばらく止(とどま)りしが 絵を業とせしか    又は絵は売ぞして幇間の如きことして餬口せしか 同地にありての日記の如きものあれど みだりがは    しき節多ければ爰に略す また大坂に遊び後に安芸の厳島へ渡り 大連(おほむらじ)の古印を納めし事    あり 厳島絵馬鑑の表紙裏を書しも かゝる因(ちなみ)ありてなるべし 名古屋に帰へりまた大坂に出    (い)でなど 常住の所なかりしは此人の一癖ならん    大坂にありしころ(幇間をせしといふ頃か)吉田屋に蔵する夕霧の文を美しく板に摺りて 発句など添    へ百五十回忌の追福として 雅客(みやび)たちにおくる者あり 真虎おもへらく 夕霧のみ追福の業あ    りて 其沙汰伊左衛門に及ばざるは不公平なり 男権拡張の為め(などゝ筋張つた事は其頃は云はず)    我伊左衛門の追福を営まんと 青中といふ悪紙へ自画と追善の句を摺りて配りしが いと面白しと 愛    (めで)たる人もありしと     曲亭馬琴の『蓑笠雨談』に「七月晦日大坂下寺町 浄国寺へ夕霧が墓見にゆけり(中略)花岳芳春信     の六字を刻し 両の脇には延宝六戊午正月六日 俗名あふぎや夕ぎりと 彫入云々」とあるによりて     算ふれば百五十回忌は文政十年にあたれり 真虎このとき三十六歳なり〟   〝美術展覧会私評(第廿五回古物品)    頃日陳列せられたる浮世絵数十幅のうち 本多忠敬君の西行と江口の君の横物は俗ならずして品位あり    これにつゞきては 若井兼(かね)三郞氏の奥村政信の女万歳 北尾重政の美人炬燵にあたる図なり 勝    川春章の花下傾城と 黒川新三郎氏の同筆の御殿女中とは 少しく筆意の異なるがごとく見ゆるは 遊    女と上﨟との品格あれば自然の事なるべし    若井氏の喜多川哥麿の背面の傾城は淡彩にして 運筆軽く同筆の扇面に夏の婦人も亦同じ趣きなり     哥麿門人月麿の美人は落款に      文化元甲子春三月未□喜多川一流倭画司筆        喜久麿改  正名 月麿図□□      とありて讃は 世の中にたえて美人のなかりせばをとこ心のゝどけからまし      種彦戯題(けだい)とあり      葛飾北斎の清少納言は亀田鵬斎(ぼうさい)の讃あり      林下風流壓風流 香爐峯雪捲簾看 一編施簒無人続 自許騒情千古難  鵬斎老人題     窪俊満の大原女は蜀山人の讃あり      黒木めせめせ/\くろぎさゝをめせこくもうすくもきこしめせ/\       これは何がしの門院の御歌をなん 蜀山人書     歌川国長の雪中傾城は莱翁の讃あり       仏は法を売 祖師は仏をうり 末世の僧は祖師を沽(うる) 汝は五尺のからだをもッて 一切衆       生の煩悩をさます 色即是空々即是色 柳はみどり花は紅のいろ/\ぞ      池の面によな/\月はかよへどもこゝろもとめずかげもとゞめず        古稀復重酔中戯墨 印          其他同筆の夏の美人 哥川の祖豊春の傾城 池田英泉の花下傾城 蹄斎北馬の布さらし(ママ) 魚屋北渓    の稲苅(ママ) 勝川春亭の子供遊び等 何れも着色鮮美なるが 中にも哥川国貞(后二(ママ)世豊国)の田    舎源氏の双幅最も艶麗なり 以上数幅は若井氏の出品なり    林次郎八氏の扇子は 菱川師宣の美人 英一蝶の鬼 西川祐信の秋郊美人 歌川国貞の鞘当 同筆傾城    の道中 同筆傾城読書 同筆の美人 狩野素川の傾城の道中等也 尚評すべき珍器名品寡少ならずとい    へども 既に閉場なるを以て謹んで爰に筆を拭ひ 数回恩読の厚誼を謝す(閉場の式詞でもあるまい)〟    〈『明治廿一年美術展覧会出品目録』では、魚屋北渓「婦女晒布図」・蹄斎北馬「穫稲図」となっている〉  ◯『読売新聞』(明治21年8月30日)   〝錦絵の買入 横浜居留地の米国人ヘンケー氏は 文化文政頃迄の我国の錦絵一万枚を 本国の依頼にて    買い集めんとて 昨今頻りに奔走し 其道の者をして 買ひ入るゝ由なるが その価(あたひ)は一枚五    十銭より一円五十銭位にて 歌麿・豊国等の風俗絵を好むといふ〟  ◯『読売新聞』(明治21年10月27日)   〝是真翁の訓語(おしへ) 柴田是真翁は近ごろ微恙に罹られ矍鑠たる気力は減ぜねど 八十二歳の高齢な    れば 養生最も肝要なりと 医者は当分絵を書く事と 酒を呑む事を禁じたり 翁にとりては此の禁は    最も堪へがたきものにて 我年来右の手に筆を持たねば 必ず左の手に盃を持つ 絵と酒が即ち我性命    なり 是を禁(と)めては死ぬの優れるに如かざるなりと かたられたりと 我日(あるひ)見舞に来たる    門弟を集め 真斎は子なれど道につきては同じく弟子なり 我れ八十余歳まで随分骨を折りたれども     まだ心に満足せず 古人に対して恥づる所あり 御身等(おんみら)一層勉強して 彼人(あのひと)の師    匠は是真といふもので有りしと云はれて呉れよ 是真の弟子に云々(これ/\)の弟子の者ありしと云は    るゝにて終る莫(なか)れ 医師の詞に病は重からずといへど 百まで生きても先は知れたものなり 此    詞長く忘れ玉ふなと 機嫌よげに語りたりと 一芸に秀(ひい)づる者の詞 まことに味ひありといふべ    し 宜(むべ)なり 翁の門に子息の外 応真 泰真 竹真 島女其他の高手を出だせしことや〟    ◯『読売新聞』(明治21年11月28日)   〝月百姿 今度室町三丁目の滑稽堂より芳年筆の月百姿のうち「南海の月(観世音)」「世尊寺の月(少将    義孝)」「賤が嶽の月(秀吉)」の三番を売出せり〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『読売新聞』(明治22年5月8日)   〝錦絵売出し 日本橋区室町三丁目の滑稽堂より 芳年筆「藤に鯉」三枚物 周延筆「吾妻橋」「吾妻園」    「春景」三枚物を出版せしが 相替らず鮮明美麗なり〟  ◯『読売新聞』(明治22年6月29日)   〝摺物の錦絵 日本橋区室町三丁目の滑稽堂秋山武右衛門(ぶえもん)方にて 此度中村座にて出来た団洲    自筆の不動の像に 同人の肖像を国周が書き錦絵として売出たり〟  ◯『読売新聞』(明治22年9月17日)   〝井上探景氏逝く 画工小林清親の門人にて出藍の誉ありし井上探景氏【二十年(ママ)】は去十四日病死せ    り〟  ◯『読売新聞』(明治22年12月31日)   〝歌麿に錦絵 名人歌麿の錦絵が海外人の賞賛を受けて陸続輸出し 従ッて其価格の騰貴する趣きは 曽    (かつ)て聞及びしが 近頃仏国巴里(パリ)に於て 傾城瀬川の図を石版に興(おこ)し 着色の古ぼけた    る所までも 摸写し此程見本数枚を我国へ送りたりといふ〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『読売新聞』(明治23年3月24日)   〝西京黼黻(ほふつ)生に答ふ    喜多川歌麿の伝  梅花道人    通称勇助 号を紫屋と称し 江戸の産なり 始は通油町の絵双紙問屋蔦屋重三郎方に寓居なし居りしが    後に神田久右衛門町に住み 又馬喰町三丁目などに移れり 歌麿は天質剛腹なる男なれど 伎倆は鳥山    石燕の門に出でゝ 別に一旗幟(きしき)を樹(た)て 画名海内に轟き渡り 終に清人(しんひと)にまで    其筆を喜ばるゝに至れり 浮世絵にとりて一の誉といふべし 歌麿又鈴木春信と見識を同じうし 終生    歌舞伎役者の姿絵を描かざりしとぞ 明和の頃 師石燕中村喜代三郞狂言の似顔を描きて 浅草観音の    堂に納めしより 浮世絵の風次第に芝居の方(かた)に奔(は)せ 役者の似顔を描くこと大に流行し 世    間の嗜好も亦其一途(いっと)に有りしかば 歌麿常に其子弟に語て曰く 近頃似顔絵とて役者の肖像を    もてはやし 絵師も亦それをのみ一向(ひとすら)に絵(ゑが)くやうに成りたれど 吾は大和絵師なり    焉(いずく)んぞ世間の嗜好に阿(おもね)り 李園子弟の賤像を描き不義の利を貪(むさぼ)らんや 畢竟    世の青(あを)絵師ども伎倆鈍く 名を挙ぐるの手段なきまゝ なべての人の眼(まなこ)になれし役者絵    を描き 其余光を借りて僅(わづか)に虚名を衒(てら)ふ有様 例へば屎蝿が千里の馬の尾に宿りて 指    方(さすかた)に到ると同じく耻べきの話、沙汰の限りなり云々(しか/\) 以て歌麿の性質を知るべし    さてこそ其頃市川八百蔵 一世一代の狂言にお半長右衛門を勤めし時 桂川の似顔絵 買はざるを耻づ    るまの評判となりしに 歌麿はことさら時好に反対を示し 唯尋常の美人絵にてお半長右衛門通行(み    ちゆき)の錦絵を画きて出せしに 却(かへっ)て似顔絵よりは高評を得るに至れり(此時の絵の賛に其    頃の浮世絵師を罵りて 群蟻(ぐんぎ)の如しといへり 其絵今希(まれ)に見る事ありとぞ)歌麿は役者    絵を描かざるかはり 当時に有名なる美人の姿絵を多く発市(はっし)せり 即ち浅草の水茶屋難波屋の    お菊、瘡守おせん、お今、おふぢ、お北、など即ち是なり 其筆蹟挿絵となりて今に存するもの枚挙す    べからざるうち     吉原年中行事、絵本百千鳥、絵本虫撰(えらみ)、絵本駿河舞 など最も人の知るところなり    殊に吉原年中行事は時好に投じて流行せり 或日のこと一九来りて四方山(よもやま)の話の末 談たま    /\年中行事のことに及びし時 一九は文章の作りうざま面白ければ斯(か)くまで売れるに至りしなり    と鼻蠢(うごめ)かせば 歌麿は面(つら)ふくらし 否(いな)とよ 挿絵の意匠なくば 文何ほど巧みな    りとて決して売れまじと 互ひに取って歩を譲らず 終に絶交して頼まず頼まれぬ間柄となりしとぞ    晩年に至り 絵本太閤記の図を出だし幕府の忌諱(きゐ)に触れ 其後ちも亦た絵の事にて囹圄(れいご)    に繫がれしが 放(はな)たるゝ間の無く 寛政四年十二月八日(ママ)没せり 没するの前数日 絵双紙問    屋 迭(たがひ)に歌麿死期の近よりしを察し 各自に錦絵の板下を頼みに来り 一時は紙に身体を埋め    らるゝほどとなりしとぞ〟    〈黼黻生は不明。梅花道人とは中西梅花(慶応2年(1866)-明治31年(1898)か〉  ◯『読売新聞』(明治23年3月26日)   〝西京黼黻(ほふつ)生に答ふ    宮川長春の伝  梅花道人    尾張の国宮川村の人(宮川村何郡に属するや詳(つまびらか)ならず 始め土佐家の学びて其画風を究め    後に岩佐又兵衛の筆意を喜び 彼是折衷して別に一格を開き 正徳年間 江戸に出で(按ずるに正徳年    間は長春三十余才に当る 道人の知己某氏 嘗て語つて曰く 予或家に於て 寛保二年正月元旦 長春    試筆に画きし自画像に六十一才と落款せし物を見たり云々 今其話に原(もとづ)き逆算すれば 長春は    天和元年の誕生なり)両国広小路に住し多く浮世絵を画きて出せしに 元より名手のことなれば 忽ち    時好に投じて声価を博し 師宣以来の丹青家なりとて 画名一時に騒しかりし 子孫に至り宮川を改め    て 勝宮川とし又宮川とせり 何故に其氏(うじ)を変じたるかについて 爰に一條の物語あり    寛延二年の頃とか 幕府其祖廟なる日光修復のことありて 絵画一切は総べて八町堀同心町住絵師狩野    春加に命ぜらる 春加又此下請を芝新堀町に住せし浮世絵師宮川長春に為(な)さしめたり(案ずるに長    春の住居とせしは 其頃既に長春は六十才の高齢なれば 両国の住居は其子に譲り 自身は隠居せしも    のならん)然るに其賃銀は出来(しゅったい)の上 日光表(おもて)にて払ふべきの約束なれば 長春の    男某(なにがし)弟子数人を引連れて日光に赴き 日限までに仕事を終り いざ勘定となると 春加事を    左右(さいう)に托して払ひ渡さず 其年は空しく暮れて 翌寛延三年十二月廿九日となり 今日は大晦    日(おほつもごり)のことなれば 是非にもと 長春自身に春加の宅に罷越し 払方を迫りしより さし    もつれと成り 長春は其場に居合せし春加の弟子大勢に打据(すゑ)られくゝ(ママ)されて 裏の塵塚に捨    てられたり、斯(かゝ)るべしとは夢にも知らぬ長春の宅にては 帰宅の遅きより 年の暮のことなれば    若しやと按じて 両国に住せし男某迎(むかひ)に赴けば此始末なり、おのれやれにくき奴原(やつばら)    其場去らずにもと思ひし無念を堪らへ 一先(ひとまづ)は父を扶(たす)けて帰宅の上 覚悟定だめて     春加の宅に躍り込み 主人春加は勿論のこと門弟三人まで斬り殺して 怨みを晴し直ちに奉行所に出訴    せしかば とりたゞしの上 長春の男は死罪、長春は流刑 斬り殺されし春加の宅は欠所となりしとい    ふ また是非もなき世の有様にこそ〟    勝川春英の伝    磯田氏治郎兵衛の男 明和五年某の月某の日を以て新和泉町新道の家に生る 天資後素の事を好み 勝    川春章の門に入りて浮世絵を学び 傍ら狩野土佐に出入して 竟に一家の旗幟を立たり 其晩年の筆作    に至りては 殆ど師春章も企て及ばざるところなりといふ 寛政享和の頃より役者似顔絵其他絵本錦絵    を多く出し 又操り芝居の看板を描きて 自然一流の筆意を残し 猶一種の狂画を書きて 世に九徳風    と称せられたり 九徳は英(ママ)の別号九徳斎に因みて呼しなり 英又北斎と同じく画才に長じ 他人の    描き能はざるもの 古来未だ嘗て在らざる奇図を作るに巧(たくみ)を究めし人にて 忠臣蔵十一段続の    屏風或ひは火事場にて火消人足の働く絵巻物を造りしなど 実に結構の奇、意匠の妙、見る者をして驚    かしめたりとぞ 今英の事につき一の奇話あり 其事文政八年石川雅望が撰べる同人の伝 牛島長命寺    の碑に委しければ左に掲げぬ    (前略)翁(春英を指す)本性すなほにて、飾ることをいみきらひて、いづこへゆくも、けのふくのま     ゝにて出ぬ、かくてはみぐるし、かさねては麗しき衣きて来玉へと、あそびがいふをきゝ、後の日ま     たかしこに至りぬ、出あへるものうゝ(ママ)ちたふれて笑ふことかぎりなし、翁さるがくの女の装束、     ことにきら/\しきを打きて、まめだちおりて、みづからはおかしとも思はぬげにてぞありける、或     時日頃をすぐして家に帰り来て、とのかたに立ゐて、いかに春英のやどりはこれかと高やかにいふを、     妻おどろきて戸ひきあけて入れつ、何とて今の程きは/\しくはのたまへるといへば、日を経て帰り     きたれば 若し此家あだし人ものにやなりぬらん、さては案内せではあしからんと思ひて、左はいひ     たるなりといらへき。すべて翁のしはざ顧長康の風ありと皆人はいひけり(以下略す)〟  ◯『読売新聞』(明治23年3月27日)   ◇寄書  梅花道人    答へなかればならぬ義理を負ひしより 道人編輯の片手間に黼黻(ほふつ)生に与ふる浮世絵師の伝、碌    に引用書をも繙かず 大方はおぼろげなる記憶をたどりて 杜撰をも顧みず書きつらね 心ひそかに危    ぶみをりしに 案の如く根岸の朗月亭主人より 北斎の伝についての誤謬を態々(わざ/\)正して寄せ    られたり 近頃は美術熱盛んになりて 殊に浮世絵は一般の注意を呼起すやうになりたれど 如何にせ    ん古来の習慣により 浮世絵師を賤しみてか その伝記といふべきは彼の写本として数人の手に成りし    『浮世絵類考』あるのみ 時に其道に遊ぶ者が西洋人に先人の歴史を尋ね問はれて 口含(ごも)ること    あるは大に耻づるところなるのみか 東洋の一大美術国として誇る其鼻に対しても 申し訳け無き次第    なればと 偖(さ)てこそ一個人の黼黻生に答ふるものを附録中寄書の欄内には掲げしなり 世間若し浮    世絵師につき面白き話の或ひは後進を誘導するに足るものあらば 朗月亭主人にならひ御寄送を煩らは    し度(たく)候〟       ◇葛飾北斎の伝に就て  朗月亭主人    貴社新聞四千五百八十号附録に 梅花道人が起稿されたる葛飾北斎の伝は 英一蝶の伝に次で西京黼黻    生に答へらるゝ趣きなるが 記事其宜きを得て 一見北斎が生涯の行事を知るに足る 然れども主人は    隴を得て蜀を望むとかいふ如く 今少し御精撰を願ひたかりし 蓋し道人が該伝を起稿さるゝや 聞見    に博かりしは勿論なるべけれども 主人が拝見する所にては 重(おも)に『新増浮世絵類考』及び『戯    作六家撰(附録)』の二書に拠られしものゝ如し 同書は久敷坊間に行はれつるをもて 其記す所もさ    まで珍らしと思はず 且写本にて伝はれるを以て誤字等も少からず 近頃誰人にや校正を加へ 二書及    び『戯作者小伝』を合して活字になしつる由なるが 是又誤りなしとは言ひ難かるべし 然れども北斎    の伝に於ては 別に引き用ふべき書少なければ 是等の書を引用するは宜しけれども 何となく靴を隔    てゝ痒きを爬(か)くの心地ぞせらる 斯く言ふものゝ 主人とて聞見に狭きをもて 道人が記されつる    ものを難ずるに非ず 嘗て聞見せし所に就て聊か蛇足を添へんと存ずるなり    該伝に或説を挙げて 北斎の父なる中島伊勢は吉良家の家人小林平八郎の孫なるをもて 北斎に義士の    絵なき由は 主人嘗て友人清水晴風氏より聞し事ありし 晴風氏の家翁は壮年画を好まれ 北斎の家に    出入せし折 北斎より右の趣きを直ちに聞し事ありしと 又友人安川玉成氏も 北斎の孫なりと言ひ居    れる深尾北為斎(当時本所中の郷横川町に居れり)より同様のことを聞きしとて語られし されば平八    郎の裔なる事は相違なかるべしと思ふなり    北斎幼名時太郎後に鐵二郎と改めし由は該伝に記す所なるが 晩に鉄蔵と改めしにや 豊亭芥子が筆記    及び『広益諸家人名録』二編に記したり    該伝に 北斎初め古人俵屋宗理の名跡を継ぎ 二代目菱川宗理と為(な)りし由を記されたれど こは絵    類考の誤りを正されずして 其侭引用されしなるべし 菱川と名乗しは三代目の宗理にして 北斎は矢    張り俵屋を名乗しなり 三代目宗理は該伝にも記されし如く 北斎が最初の門人にして初め宗二といひ    しなり 通称を橋本庄兵衛といひ 後に二代目北斎辰政と名乗り 浅草山谷に住し狂歌摺物の画に巧み    なりしといふ    北斎に数号ありし事は該伝にも記されたるが 主人が聞見せし処にては 初め二代目宗理たりし時は群    馬亭の別号あり 北斎辰政雷斗と改めてより 其本所の産なるをもて葛飾を姓の如くにし 又画狂人の    別号を用ひたり(此号没年迄用ゆ)文化の中頃 北斎辰政を三代目宗理に譲り 雷斗を女婿柳川重信に    譲りて錦袋舎戴斗雷震(該伝に雷信とありしは恐らくは誤り)と改めたり 前北斎戴斗と書す 後に又    為一と号せり 天保の末年戴斗の名を門人北泉に譲り前北斎為一と書す 又卍老人と称せしなり    北斎没年 該伝には嘉永二年四月十三日と記されたれども 其墓には嘉永二年四月十八日と記しあれば    十八日かた宜しきかと思ふ 又法名も南照院言誉北斎信士とあれど 是又墓面に記せし南総院奇誉北斎    信士とあるぞ宜しかるべし 其辞世の俳句に「ひと魂で行く気散じや夏の原」とは誰も知れる事ながら    事の序でに記さんのみ    北斎嘗て市川白猿(五代目団十郎 戯名花道のつらね 文化三年十月晦日没す)を悼むの詠あり 左に    記す       いにしへ一切経を取得たるは三蔵法師 今台遊法子と戒名もいとたふとし      念仏の百首をよいて西遊記 孫悟空にもまさる白猿    北斎は至って掃除嫌ひにて 家内に塵芥の堆積すれば 其掃除せんよりは居を転ずるをもて 生涯に凡    そ五十余ヶ所も転居せしとぞ 故に其頃の諸家人名録にも居所不定と記すに至れり 斎藤月岑が『翟巣    漫筆』に北斎が事を記せるを見るに 翁は平生布団を敷置て 眠り出づれば昼にても其侭に臥し 屋中    の掃除をせず 末女栄といへるも是に同じく 食事をなすも飯器を洗はず 其侭にして置ける程なりし    とぞ(主人云 此栄女といへるは始め画工南沢(なんたく)なる者の妻なりしが 後離縁して父の許にあ    り 画をなして板本を多く画きしとか)又同書に 翁が家に本尊なしとて 法華経なれば或人祖師の像    を購ひて得させしが 安置の所なしとて 古き春慶塗の重箱を釘もて柱へ打付け 其中に安置せしとぞ    平生の行ひ斯の如し云々と記したり 翁が無頓着なるおして知るべし 北斎門人夥しく一々之を記す能    はざるを以て 今其著名なる者を挙ぐれば    二代目北斎辰政(乃ち三代目宗理なり)    二代目戴斗(始め北泉と号せり 通称は近藤伴右衛門 豊岡藩なり 麹町平川町に住す)    柳川重信雷斗(鈴木氏なり絵類考に志賀理斎の男とするは誤りなるべし 理斎の男は二代目の重信にし     て 始め重山といひ初代重信の門人なり 通称を谷城季三太といひし)    柳々居辰斎(名を政之といひ通称を満納半二といふ 通り新石町に住せり)    蹄斎北馬(一号駿々亭といへり 通称は有坂五郎八 浅草三筋町に住す)    雷洲(一号文華軒といへり 名は尚義 通称を安田茂平といふ 四谷大木戸に住せり 後に銅版の蘭画     を能す)    葵岡北渓(名を辰行といひ 通称を岩窪金右衛門といふ 赤坂桐畑に住せり)    閑々楼北嵩(又蘭斎と号す 島氏なり 神田明神下に住す 後に唐画を能くして東居と号せり)  ◯『読売新聞』(明治23年8月20日)   〝観音の額は福助の行列なり 浅草観音の堂にかけ列(つら)ねたる額は 何れも古名工の手になりて 殆    んど絶世のものと称せられしもの多く 就中(とりわけ)豊信国貞の大画 最も世に名高かりしが 或人    は之を評して 皆福助の行列なりと云ひ 却って国照の画ける力士の額を以て 真の画なりと賞めけれ    ば 聞く人皆其妄を難じて 之を狂人なりと嘲りぬ 然るに此頃 或る画学生ありて 私(ひそ)かに思    ふ所あり 態々(わざ/\)狂人に就て 福助の行列云々(しか/\)の所以を問ひたるは 決して其画を    批難したるに非ず 世人は知らずや 夫(か)の額面の画は 下より遙かに見る時は 如何にも立派の名    画なれ共(ども) 近づきて細かに之を視る時は 皆横巾広くして 頭のみ大く福助の行列と異る処なき    を 夫の国貞画ける一ッ家の婆の側に頬杖突ける観音の堂と顔とは 其間三寸余の距(へだたり)ありて    之に近づき視る時は 真に笑止の画き様なるが如く 皆割合に随ひて横巾広く仕上げあれば 誠に福助    の行列と云ふの外なきなり 之に反して国照の力士は専ら謹心を旨とし 土俵の砂の如(ごとく)は石灰    に砂を交ぜ 之を膠(どうさ)の上にふるひかけたる程なれば 画に於て更に一点の批難すべき所なきも    額面を画くの注意なかりしゆゑ 高所に掲げて毫も引立たず 折角なる土俵の砂も 鼠色の絵の具をな    すりたりとしか見えざるこそ気の毒なれ 国貞婆の額を画くに当りては 則ち否(しか)らず 彼注意周    到なるが故に 予め雨戸三枚を並べて 額面の雛形を作り 之れに下画して 二階の屋根へ掲げ 下よ    り見上げて 名画と見らるゝまでに直し始めて筆を下したりと云へば 福助の行列を画きて能く此名画    を示せるなり 誠に感服の至りなり 拙者が是等の名画をさして 福助の行列なりと云ひしは 全く近    間にて見たる時の事を云ひたるのみ云々(しか/\)と かくて画学生大に感服して其場を立ち去りたる    が 其后観音の額を掃除するに当りて 心ある画工請て 之を一覧せしに 果して或る人の言(こと)の    如く 皆福助の行列に彷彿たりしと云ふ〟    〈浅草寺観音堂の額「福助の行列」および国照の力士像・国貞の「一ッ家の婆」の図不明〉  ◯『読売新聞』(明治23年10月17日)   〝国輝大に奮激す    真正の画伯は大画に巧みなりとは 数年以来画家社会に流行せる通語なるが 近頃パノラマ我国に輸入    してよりは 此の議論愈々(いよ/\)勢ひを加へ 浮世絵師共は大いに先輩の大画を穿鑿するよしなり    初代国輝と云ふは旧幕臣にて 本名を太田金次郎と呼び 名人二代豊国の一弟子にて 神田明神へ捧げ    たる神田祭の大額を画きて其の名世に高かりしが 不幸にして狂気したれば 師匠豊国は亀戸なる曲物    (まげもの)屋の伜山田金次郎を迎へて其の後を嗣がしめ 之を二代目国輝となしたるに 此の人また画    (ゑ)に巧みにして 浅草観音・亀戸天神へ力士の大額を捧げ 其の名先代に譲らざりしが 両人(りや    うにん)物古(ぶつこ)の後 深川霊岸町の岡田藤四郎其の後を承け三代目国輝となる 即ち現時の国輝    なり 此の人年若(としわか)なれ共 頗(すこぶ)る先代の気風を学び 嘗(かつ)て日蓮法力の図を画き    て 堀の内妙法寺へ納めしが 当時大画熱左(さ)まで激(はげし)からざりし為 敢(あへ)て其の巧拙を    言ふものなかりしも 近頃絵師の穿鑿に依りて 漸(やうや)く発見するところなりしに 其の出来先代    先々代に比して大いに劣等なり 然れども古来の絵師三代続きて 公衆の目に晒すべき大画をゑがきた    るは 此の国輝の外(ほか)またある事なしと噂さるゝ付 当代国輝は地にも入り度(た)き程耻(は)ぢ入    りて 其の后(のち)は大いに技芸を励み来たる 十二月十二日は代々の師・名人豊国の廿七回忌に相当    するを以て 此時までに一世一代の大画をゑがきて 会稽の耻辱を雪(すゝ)がんと 今より一心に準備    し居りとぞ〟    ◯『読売新聞』(明治23年10月27日)   〝東錦画天覧に入る 近頃畏こくも大内なる宮内省より 東錦絵の御注文しば/\同業者に達する趣きに    て 此程通り三丁目の錦絵商頭取小林鉄次郎方へ 宮内省より鑑札が下り 日々出版の新錦絵を納むる    といふ〟  ◯『読売新聞』(明治23年11月30日)   〝押絵の景況    押絵の顔ハ一切画工国政の担当にて 夏秋の頃にありてハ 其(その)書き代(しろ)平均一個一厘五毛位    なるも 冬の初めより年の暮に至りてハ 上物即ち顔の長(た)け一寸より一寸五分までのもの一個に付    き三匁乃至(ないし)五匁なり。然るに今年ハ其の景気殊に悪(あし)く 目下の所にて一個漸く二匁なり    と云ふ〟   〝歌川派画工の専門    歌川派の画工にて 板下絵のみに関係し居(を)るもの 其の数数多(あまた)あれ共 目下一派の得意を    出(いだ)して その名世に聞えたるものを挙ぐれば 武者絵芳年 似顔国周 官女周延 押絵は    国政 手遊画(おもちやゑ)は国利 新聞さし絵は年英 名所画は吟光 類似油絵清親 見世物看板絵    は芳盛 芝居看板画清満 年中行事絵勝月 団扇絵玉英と限りたるが如しとなり〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『読売新聞』(明治24年1月5日)   〝錦絵の略史 東錦絵と称するものは 江戸開府以来の名産にて 今は大絵一種に止ゞまれども 昔に    遡りて穿鑿する時は 其の種類蓋し三四にして足らざるが如し 則ち最初は正紙(まさがみ)を三つ切    り(丈一尺三寸巾六寸五分許(ばかり))にしたりしも 歌麿の代に至り正紙二つ切りとなり 槙町豊    国の代に及びては 其種類殊に多く 合絵(あはせゑ 駿河半紙位のもの)と云ふあり 中絵(ちう    ゑ 丈九寸五分巾七寸余)と云ふあり 長丈(ながたけ 大絵より稍や小なり)と云ふあり 長延    (ながのべ 巾二尺六七寸長四寸余)と云ふあり 大柱(おほはしら 長二尺六七寸巾九寸位)と云    ふもありしが 今は廃り 昔古物家の有に属して 大絵(おほゑ 長一尺二寸五寸巾八寸五分位)の    み大に行はれ 竹付(ちくふ) 替り絵(かはりゑ)の新趣向もあれど 皆中古の大柱に及ばず また俳    優絵(やくしやゑ)の如きも 已前は丸立絵(まるたちゑ)・半立絵・中身(ちうみ)・大首(おほくび)の    四種ありしも 今は中身一種となりしが 其の実已前の半立ちと同物なり 然れども其の価格と売れ    口の様子はさしてかはりなく 上絵は物価の安き昔 百文に六枚の割合を以て考ふれば 今猶ほさし    たる相違なく 其の売れ口は人形町通には上物 日本橋通(品川より本郷に至る)には下物 下谷浅    草其の他には中下取り交ぜて専売の区域を画したる事 奇々妙々にして 古今不変なりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治24年1月26日)   〝浮世絵師の困難    俳優の似顔を画けるもの 国周を始め何れも 古術を市川団六に問ひ合せて写し来りしが 同優は旧蠟    より肺病に罹り 本月四日死去したるに付 一同大いに困難し居れりと云ふ 尤も同優の師匠市川九蔵    は斯かる事にも精しきゆゑ 以来九蔵自ら其の問に応ずるに至れば 却って画工の幸福なりとも云へり〟  ◯『読売新聞』(明治24年4月29日)   〝洲崎より米蔵 栄三郞への引幕    洲崎の幇間 芸妓等は今回米蔵 栄三郞の両人へ引幕を贈る由にて其画模様は芳年の揮毫なりといふ〟  ◯『読売新聞』(明治24年5月8日)   ◇上野戦争の実況   〝来る十五日は彰義隊の勇士が上野に戦死せし命日にて 幕府に縁故ある人々は心ばかりの法会を営み     画工歌川国輝は当時の実況を画がかんとて 此程其の模様併(なら)びに戦死者の位置等を調べしが 従    来の絵画に写せる所とは大いに相違する処あり ソモ此時の戦ひは朝の五ッ時より始まり 夕の八ッ時    に終り 冥濛たる雨中に火の手上りて 下谷仲町(以下 延焼町名続く 略)彰義隊の死人は三橋前六    阿弥陀前に三人(以下 場所と死者数続く 略)山王台は死人の山を築きしなど云ひ伝ふるは大いなる    誤りなりしと〟〈この国輝は三代目〉   ◇画工は総じて移転(ひきこし)好きか    中古の画聖とも云ふべき北斎翁はとかく移転好きにて 生涯の内に百余ヶ所へ住居をかへたるよしなる    が 今の豊原国周もまた頗る移転好きにて 既に八十五度まで転宅せり されば同人の一生には移転の    数 必らず百四十五度に及ぶべしと〟  ◯『読売新聞』(明治24年6月10日)   〝東錦絵面目を改めんとす 東錦絵の高名なるにも拘らず 近頃は其色摺に白粉(たうのつち)を混交して    一時のはえを貪る為め 忽ち変色するの憂(うれひ)あり 故に如何なる画伯の絵とても 後来参考とし    て 永く之を貽(のこ)さんは 覚束なしなど嘆く者多かりし由は 予(かね)て聞く所なるが 今回浅草    駒形町の児玉又七筆彩色の法を工風し 初代広重の絵巻物を発行する事となし 漸次進んで武者絵俳優    絵にまで此法を及ばさんとする趣なれば 年余ならずして東錦絵は大に其面目を改むべし〟    〈「白粉」とは唐の土=鉛白〉  ◯『読売新聞』(明治24年7月16日)   〝錦絵出版 今度浅草駒形町の大橋堂より初代広重筆の五十三次名所図会中 水口・鞠子・原・興津の五    枚と日本橋室町の滑稽堂より 芳年筆月百姿中 調布里(たつくりさと)の月、つきの発明(宝蔵院)    雪後の暁月(小林平太郎)の三枚出板せり〟  ◯『読売新聞』(明治24年7月20日)   〝巣鴨の里に諸人梅画を憐む    当世浮世絵師の泰斗と仰(あふが)れたる芳年翁は 近頃病を得て神心常ならず 本月十二日已(や)むな    く巣鴨の瘋癲病院に入院したり 嗚呼 翁(おう)如何なる不幸乎(か) 曾て雁行せる暁斎 永濯の先輩    が喝采の間に 花の都を辞して冥土に返れるにも拘らず 翁独り止まりて 生きながら巣鴨の鉄窓房裡    に埋(うづも)れたり 翁は今院中に在りて頻(しきり)に乱筆を揮ひ 多く梅花を画きて 自(みつか)ら    閑日月を送る 翁が意は測るべからず 雨漏る賤が伏屋にも 猶寝ながらにして月は見るべきに 月の    影さへ見えぬ小暗き小房に梅花を画くは 坐(そゞろ)に菅公の昔しを懐(おも)はしむるものありとて     人毎(ごと)に之を憐れむとなり〟  ◯『読売新聞』(明治24年7月27日)   〝豊原国周飄然と去って行く所を知らず    芳年と対して浮世絵師の二柱と囃されたる豊原国周翁は 奇行多き人にて 五十余年間に八十七回居を    転じたるが如きは 何人も知る所の事実なり 翁が八十五回目の居(浅草小島町)に在りし時 門人外    山周政なるもの師に事(つか)ふること最も篤し 後翁深川冬木町に転じ また去って下谷金杉村に転寓    したるが 数日前何思ひけん 匇々(そう/\)行李を整へ家財を挙げて周政に与へ 予之より天下を周    遊す 汝また憂ふる勿(なか)れと 飄然去って行く所をしらず〟  ◯『読売新聞』(明治24年8月2日)   〝五十三次の錦絵(初代広重筆)は例の浅草駒形の児玉又七方より発売せり 今回は桑名・新居・由井・    沼津・石薬師・関の六枚にして 筆力の妙は更にも云はず 印刷また美事なり〟    〈これは竪版の「五十三次名所図会」。余白に「原板は蔦屋吉蔵 求板大橋堂」(大橋堂は児玉又七の屋号)とあるか     ら、児玉又七が蔦屋からこの板株を購入して板木を入手したのである。なお蔦屋板は安政二年の出板〉  ◯『読売新聞』(明治24年8月12日)   〝芳年の月百姿の中 蝉丸 芭蕉 水木辰之助の三枚を発売せり 板元は日本橋区室町三丁目の滑稽堂〟  ◯『読売新聞』(明治24年8月20日)   〝浮世絵研究会起らんとす    近来の絵双紙は大抵豊国一門の占領する所となりしが 昨今に至り初代広重の遺墨世に珍重され 富士    三十六景 名所六玉川の如きは再び上梓されんとするに至り 価格も亦甚だ高しとて 豊国一門の画工    中には 私(ひそか)に其の技量の衰へしを嘆息し 大いに絵画研究の方法を設けんと計画しつゝあり〟    〈明治版「富士三十六景」の版元は児玉又七。原板はやはり蔦屋吉蔵板で安政六年(1859)の出版。「名所六玉川」は井上吉     次郎版「諸国六玉川」か。こちらの原版は丸九(丸屋久四郎)板で安政四年の出版〉  ◯『読売新聞』(明治24年9月21日)   〝富士三十六景    浅草駒形町の児玉又七方にては 先きに初代広重筆の五十三次を再刷して 大いに好評を博したりしが    今度は同じく広重の丹精に成る富士三十六景を刊行する由にて 此程本牧・御茶の水・鴻の台・小金井    ・三浦海上の五枚を売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治24年10月26日)   〝瓢軍談五十四場    国芳の門下に在りて 雷名を博したるは古人一英斎芳艶(はうゑん)なり 此人の画(ゑ)のさまは 当時    五月人形に類すとの評判ありしが 筆法着色大いに見る所あり 就中(なかんづ)く大部の揮毫を好みて    能く後生の画工を驚かしむ 今回馬喰町の沢氏 其の筆になれる太閤記五十四場(当時源氏五十四帖)    に做(なら)ひてものしたるなりと)を引起して梓に上(のぼ)せ 来春の売物を兼ねて海外人の嗜好如何    (いかん)を試むると云ふ〟    〈「瓢軍談五十四場」の板元は蔦屋吉蔵で文久三年~元治元年(1863-64)の出版。沢氏の「太閤記五十四場」は未確認〉  ◯『読売新聞』(明治24年10月28日)   〝富士三十六景    例の浅草駒形町児玉又七方より 初代広重筆の富士三十六景中、上総鹿野山・武蔵多摩川・武蔵越が谷    在・東都駿河町・伊勢二見が浦の五番を此頃売出せり〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『読売新聞』(明治25年1月8日)   〝近江八景    初代一立斎広重の妙筆に成る近江八景(八枚)は浅草駒形町四十二番地児玉又七方より売出せり〟    ◯『読売新聞』(明治25年2月3日)   〝歌川派の出品    歌川派の張本たる豊原国周、歌川周延の二氏は米国大博覧会の出品として 我国博覧会長の嘱託を受け    国周翁は天保時代に於ける墨堤観花の図(絹地にて長さ三尺巾四尺五寸)周延は貴人観花の図(前同断)    なるが 予て注文もあれば 墨堤観花の如きは 肌脱ぎ、酔漢抔(など)の不体裁は成るべく避け 諸侯    の奥方姫君等の高尚なる図案を顕はす都合なりと 尤も時代の注文あるによりて染料物(ゑのぐ)は総て    舶来品を用ひざる趣きに聞く〟  ◯『読売新聞』(明治25年2月11日)   ◇絵画流行の変動    近頃歌川派の古画頻りに流行し 歌麿の筆に成れるものは略画・板刻ものとも売れ足よく 続々再板を    目論むものさへ多かりしが 其流行の根元を尋ぬれば 昨年一昨年の頃に当りて 仏国巴里の美術家が    日本美術の参考品として 歌麿の画(ゑ)を出板したるが為めなりと云ふ 然れ共我国の画工は其実(じ    つ)歌麿が画体の野卑に傾くを厭ひて 却って石川豊信、歌川(ママ)春山若しくは鳥居清長等(ら)の墨跡    を賞翫し 欧州美術家をして歌麿の上に尚ほ高雅の絵画ある事を知らしめんなど言ふ者さへあればにや    何時の間にか世の嗜好変はり 古画家の間には此の豊信、春山、清長等の絵画に価値(ねうち)を置きて    売買する事となり 宝暦板の如きは一枚二十五銭の相場を有(たも)ちて 客への売値は五十銭以上に及    ぶと云ふ されば此先歌麿に次で世に出でんものは 此三人の墨跡にて大いに絵画好尚の進歩を来した    りと云ふべけれ〟    〈歌麿は歌川派にあらず。歌川春山は勝川の誤り。「宝暦板」とあるが該当するのは石川豊信くらいか〉   ◇富岳集と源氏紅葉賀の錦絵    楊州周延の筆に成る富岳集の中 英雄之遠征、竹取物語、不忍の夕陽の三枚並に源氏紅葉賀之夕陽(三    枚続き)は何れも美事の出来にて 日本橋通三丁目の小林方より発売せり〟  ◯『読売新聞』(明治25年3月19日)   〝江戸四十八景    初代広重筆の「選出江戸四十八景」の中、猿若町夜の景、愛宕下藪小路、筋違(すぢかひ)内(うち)八ッ    小路、浅草川首尾の松、羽田の弁天、両国の花火、深川木場等の八枚を 浅草駒形町四十二番地の児玉    又七方より発売せり〟  ◯『読売新聞』(明治25年3月24日)   〝錦絵と石版画     此程神田通新石町の原田方より 女達磨(狭山老人筆)、日本橋区新右衛門町の能沢方より 過般歌舞    伎座にて評判を取りし 塩原多助が庚申塚にて馬に別れを惜しむ図の石版画、同区米沢町三丁目の山田    方より川上座新演劇百種の内 即ち目下市村座にて演劇中なる備後三郞の錦絵(三枚続)を出版せり〟  ◯『読売新聞』(明治25年4月24日)   〝三代豊国の建碑    浮世絵師にて歌川豊国を名乗るもの前後三人あり 初代は槙町豊国にて此流の上手なりしが 名人の名    は却って二代目豊国に奪はれたり 三代目は柳島豊国とて伎倆先代に及ばざる所あるも 滑稽非凡にし    てまた能く門人を仕立て 国周、芳年、国政、国輝、国利以下数十人は皆この門より出づ 然れ共豊国    中風にかゝり 明治十三年を以て死去し 家族或ひは他へ嫁し 又は死去したれば今回重(おも)なる門    人が相談を遂げ 其の十三回忌を機として 向島へ一つの碑を建つる由〟    〈ここにいう二代目豊国とは現在いうところの三代目(初代国貞)。明治13年に死亡したのを三代目とするが、実際は四     代目豊国(二代国貞)。国周、国政、国輝、国利等は三代目豊国(初代)の門人で、芳年は国芳の門人。それを四代目か     ら出たように記すのは誤り〉  ◯『読売新聞』(明治25年5月22日)   〝芳年の「月百姿」完成す    明治十八年より引続き 日本橋区室町三丁目秋山方より出版したる芳年翁の月百姿は 此程漸く完成を    告げたり 元来画家が此(かく)の如き大業を成し遂げたるは 実に稀なることにて 文久年間 豊国が    似顔大全百一番を完成せし以来の大功なり〟  ◯『読売新聞』(明治25年6月11日)   ◇大蘇芳年翁逝く   〝彼の浮世絵を以て有名なる月岡芳年翁は 昨年来精神病の気味にて入院なりしも 近頃は大いに快方に    付き 先頃より向両国藤代町三番地の自宅に於て 猶ほ加療中の処 一昨九日午前十時 他の病魔に襲    はれ五十四歳を一期(ご)として遂に遠逝したる由〟   ◇画工大いに代議士を罵る   〝富士山の裏手に小西行長と渾名さるゝ代議士あり 場所柄とて山家流の兵法に精しく 殊に一身の進退    には抜目なき上手なれど 文学美術と来ては盲目も同様なりとか 先頃行長殿首尾能く議員に当選して    一家喜び合へる折柄 東京の画工歌川国政の訪問してけるに 名さへ国政とは幸先好し 何がな我が為    に目出度もの書てよと頼まれける 国政早速承諾はせしものゝ まさか日の出に鶴も古めかしければと    暫く考へしが 軈(やが)て筆執りて 大巾の絹地へ布袋和尚を画き 我ながら善くかきたりと 鼻うご    めかせば 一同却って不平顔 此の目出度き場合に坊主を画くとは 縁起わろしと苦り切って難ずるに    流石の国政も当惑したれど 先づ一と通り弁じて見んと 襟掻き合せて布袋の講釈を始め 漸く佳境に    入る折柄 座に居る者国政を暫時(しばし)押止め 此の面白き講釈聞き逃してなるものか 早く裏の太    郎作 新家の次郎兵衛を呼んで来いと騒ぎ立ちて 村中の一家親類残りなく呼び集めて サア先生跡を    聞して下されと頼みて 二三十分が程有難い講釈を聴聞し 一同初めて成程と悟り さて/\目出度い    和尚さまよと 早速其の画を神棚へ上げ 此の辺でめで度きものと云へば 先づ日の出に鶴か松竹梅の    みと思ひし故 誠に失礼したりと 一同頭を下げて罪を詫び 猶ほ酒肴を勧めし上 今一つ何か画がゝ    れたしと乞はるゝに 国政前に懲りたれば 今度は一番大喝采を得んものと筆を振るって 武田信玄の    像を画がきたるに 一同又々立腹し こゝなたわけものめが 天井天下並びなき信玄公を画きをって    勿体ない 畳の上へ置く事もならぬに と罵り立つれば 重ね/\の事に国政も呆れて閉口せしが ど    の道筆一本で旅の出来る我なり 此処(ここ)ばかり日は照らず 怒らば怒れと 暇乞ひして帰る分の事    なり 好し/\思ひ切って 信玄の歴史を語り 其の非を鳴らして 日頃妄信する甲斐の愚民共を警醒    し呉れんと 口角沫を飛ばして信玄が不孝の罪を挙げ 猶ほ其の奸雄の証拠を列挙して 頭ごなしに悪    口を叩き 苟(いやし)くも一国の代議士たるものが 信玄が如き小英雄を崇拝して 其の画像を畳の上    に置くも勿体ないなどゝは 度量の狭き眼界の小なる話にもならぬ大阿房といふべしと 威丈高になっ    て罵り飛ばし 飄然杖を携へて影は雲水の間に隠れぬ〟    〈ここに云う国政は四代目の梅堂国政〉  ◯『読売新聞』(明治25年6月13日)   〝故大蘇芳年翁の逸話    此程長逝されたる画伯大蘇芳年翁は通称を月岡米次郎と云ふ 一勇斎国芳が晩年の門人なり 後年泰斗    北斎、菊地容斎の画風を慕ひて稍(や)や新軸を顕はす 今其長逝さるゝに方(あた)って 既往の逸話を    略記すれば左の如し     翁青年の頃に在って頗るきをい肌を好む 或る時急ぎの画を嘱されて 筆を下すに偶々警鐘出火を報    ずるあり 翁即ち筆を投じ倉皇(本HP大あわてで)は組の纏を振り出でゝ之を救ふ 画を品して筆勢常に    快活なるはまた故なきに非ず     翁が肉筆の世に存するもの極めて多からず 大作として世に知られたるは 西新井大師堂の火事場の    額 上野東照宮の三国史桃原の額の二物のみ     然れ共板刻のとして 堀江町に団扇の画をかき初めてより 以来其種類続々として世に顕はれ 何れ    も好評を博したるが 就中(とりわけ)「魁題百撰相」(之は上野の戦争あるに方(あたり)て 時の勇士    を画がきたる者にて 輪王寺の宮を護良親王に見立てし類 都合百枚)「末広五十三次」(長州征伐を    画がけるもの)「明治年間記事」「大日本武将名鑑」「三十六怪撰」「月百姿」等にて 何れも画工の    亀鑑として持て囃さる     明治十五年 絵画共進会の開設あるに方って「藤原保昌月下吹笛の図」は 或ひは北斎・容斎及び油    画の折衷画に等しとの評あるも又頗る傑作にして 袴垂保輔の体格を起草するに方っては 住居の座敷    に大鏡を掲げ自ら裸体となりて 種々なる体状を映じ其善きものを撰びて画けるなりと     翁門人を教ゆる(に)甚だ懇切なり 然れ共翁束脩を受くるに方って 予め一言す 曰く 人若し画に    衣食せんと期すれば初めより学ばざるに如(し)かず 画を鬻(ひさ)ぐは只錬磨の余徳に過ぎずと 而し    て其熱心なるを撰びて入門を許す 門人出藍の者多きまた故ある哉〟  ◯『読売新聞』(明治25年6月22日)   ◇大蘇芳年の像    浮世画を以て有名なりし故芳年翁の像は 門弟年景子の筆に成りて室町三丁目の秋山方より発売せり〟   ◇芳年の錦絵  大橋微笑    東京(とうけい)土産第一の品 東錦絵といへる物 美は則ち美なりといへども 品位至てひくきをもて     従来鄙(いやし)みし物なるが 近頃に至ては中々に然(しか)らず 有職故実等も正く 天晴一箇の美術    とはなれり さて此に至りし理由は 誰人の力なりやといふに 即ち此頃物故したる 芳年翁実に其人    なり 一体是迄の錦絵といふは たゞ彩色の鮮(せん)のみを主とし 児女の玩具に過ぎざりしが 芳年    中年より大いに志を興し 遂に此の進歩を致して少年教育の上に於て 大いに助けあるに至らしめしも    の 真(しん)に翁の力に非ずして何ぞや 然(しか)して其小伝等は 載(のせ)て過日の新聞にあれども     既に物故せしと聞くからには 其遺筆を求めんとする者 亦必ず出で来(きた)るべし 因(よつ)て今之    を嘉(よみ)する余り 其中年以後の出来にて 最も評判よかりし物及び其板元を識して 聊(いささ)か    地方の諸君に示さん    先づ一枚絵にしては     和漢百物語 (築地大金)   英名組討図会(馬喰町森治)     英名廿八衆句(芝錦盛堂)   近世侠義伝 (南伝馬伊勢喜)     魁題百撰相 (浅草大橋堂)  東錦浮世稿談(芝増田屋)     一魁随筆  (新橋政田屋)  護普動葵  (三番町下野屋)     大日本名将鑑(塗師町船津)  古今女鑑  (通り一大倉)     本朝二十四功(銀座津田)   近世名誉新談(人形町具足屋)     芳年武者部類(通り三森鉄)  同漫画   (同左)     三十六怪撰 (銀座佐々木)  月百姿   (室町秋山)    二枚物にしては     新撰錦絵  (馬喰町綱島)  竪続錦絵  (深川松井)    三枚続きにしては     日本史略図絵(通り三丸鉄)  徳川年間記事(通り一大倉)    其他有名の物には     曽我五郎裸馬に乗る図(乗物町福田) 牛若五條の橋(須賀町森元)     壇浦合戦      (柳原船津)  大坂冬陣  (通り三丸鉄)     藤原保昌      (室町秋山)  田舎源氏  (同左)     謙信琵琶を聴く図  (通り三丸鉄) 五代将軍  (室町秋山)    外猶女画に於ては     見立多以尽(大伝馬井上)  美人三十二相(馬喰町綱島)    此内最も心を尽せしは「月の百姿」なりけるが 百枚全く出(い)で尽くすと 同時に其身も消失せたる    は 誠に惜むべき事なりし されど其門人等 皆一箇の名手なるが 中にも年方子の如きに至りては     殆ど出藍ともいふべきなれば 世人其新板を待(まツ)て可なり〟  ◯『読売新聞』(明治25年7月10日)   〝西洋人が本邦の古画に於ける嗜好    俳優の似顔をもて米櫃にせる歌川派の画工中豊国三代の画きたる似顔絵が 古今独歩の価あるに引き換    へ 西洋人は更に之を珍重せずとの事なり 其(そ)は見世物の引札なるべしとの観察をもて 一図(づ)    に排斥するに由るなり 故に西洋人との売買を家業にする者 其の内の口上絵又は追善絵をぬきて 是    れこそ日本大名の絵なりと名づけて 纔(わづか)にはめ込むとなり 斯(か)く歌川派の名人が精神こめ    て画がきたる特色あるものが 声価を落としたるに反して 画工自身すら嘔吐の間に画きたる醜怪の春    画は殊に西洋人の好む所となり 当時名もなき画工の手に成れるものすら 非常の高価を有(たも)てる    に付 何時(いつ)しか豊国三代・応挙・北斎又は又平などの春画 何(いづ)れよりか湧て出て 百枚続    き五十枚続きの大板もの 一巻五六百円に売れ行くとは 驚き入たる話なり 豊国とて応挙とて北斎と    て将(は)た又平とて 多少さる画は書きたらんも 斯く夥しく品の出んは不思議の至り 恐くは何者か    偽筆を試むるに由るなるべしとて 心ある画工は古人の名誉の為めに太(いた)く嘆けり〟  ◯『読売新聞』(明治25年7月12日)   〝日光勝景の錦絵    日光は本邦第一の勝区なり 而して之を錦絵に画きたる者なきは最も遺憾なりしが 今年日本橋室町三    丁目の秋山方にて発行する「日光勝景」は 画工綾岡氏が意匠を凝して揮毫せらるるものにて 百枚を    以て完結とする由 已に発行したるは磁石岩・山菅蛇橋・鉢石町の三枚にして 一見其境に遊ぶの感を    起さしむ〟〈「日光勝景」綾岡有真画・秋山武右衛門板〉    ◯『読売新聞』(明治25年7月14日)   〝二世芳年    先頃死去したる大蘇芳年の門人中水野年方子が推されて 今度二世芳年の号を継ぐ事となりしと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治25年7月14日)   〝広重筆江戸四十八景 の内逆井の渡し・三つまたわかれの淵・御厩河岸の三葉は 浅草駒形町四十二番    地児玉又七より発売せり〟  ◯『読売新聞』(明治25年7月14日)   〝歌川豊国の碑    歌川の流を汲む豊国門下の画工は追々世を去りて 現今存生の者は国周・国政・国利・国鶴・国松・国    光・国輝(三代)・国峯・国直・国麿(二代)外数名にて 貞秀・国麿(初代)・国輝(二代)・国久    ・国玉・国明・国清・国孝・国為・国瀧・豊宣等の如きは皆故人となりて 二代三代豊国の建碑を企つ    る者さへ絶へんとする有様なれば 今回国周・国政・国利の三人が発起者となり、三代豊国の娘なる歌    川歌女(本所の金満家野口久敬妻)を助け 同窓を鼓舞して向島なる木母寺境内へ大いなる碑を立つる    となり 尤も其の表面には「二世三世豊国之碑」と記し 側に二世豊国(名人豊国と云ふ)の辞世「一    向(ひたすら)に弥陀へ任せし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏」と云ふ一句を刻む筈なりと〟  ◯『読売新聞』(明治25年9月16日)   ◇外人古押絵を買込む    近頃押絵の大下落を来して 羽子板額面又は掛物等の押絵を作れる者頻りに困却し 昨冬の如きは断然    之を廃して 他の業に移れる者さへありしが 昨今東京・横浜・神戸・大坂等に押絵の騰貴せる摸様見    えて 当業者は遠く肥後・日向の地方に之を求むとは実に驚くべきの浮沈なり 然れ共是等当業者の求    めつゝある押絵は 既に東京の押絵師が匕(さぢ)を投げたるものにあらで 少(すくな)くも五十年以前    の古る押絵なり 元来押絵は浮世絵四川(せんママ)の画工が出だせる一種の新美術にて 同流の画工は皆    押絵の着け方をも教訓し 現に之を作りて業とする画工もある程なれば 其の下絵は勿論面相に至りて    は 一々画工自身の筆を下す所たる事 古今毫末の差ある事なし されば五十年前の古押絵には 豊国    ・北斎・歌麿等の大家が自から筆を下せしものありて 其の趣味却って絵画にまさる所あれば 商売に    ぬけ目なき横浜・神戸の仏国人は 頻りに手を廻して此古押絵を買入るゝに 夫れと心附かぬ本邦人は    無暗に之を売り払ふより 最初一枚一円程の押絵 今は二十銭前後に下落したれば 此弱身に附け込む    商人 扨こそ九州地方にまで手を延ばして之を求むるなりと 北斎・歌麿の絵は一枚何十円の高価を有    し 其板刻せるものまた甚だ廉ならざれば 其手に成れる所の古押絵は少くも十円内外の実価なるべし    と云ふ〟   ◇錦絵    村上義光芋瀬に錦旗を奪ひ返す三枚続に図は 年方の筆にて美事に出来なり 此頃日本橋区室町の秋山    方より発行せり〟  ◯『読売新聞』(明治25年10月10日)   〝錦絵 日本橋区室町滑稽堂の出版「撰雪六々談」は今般「蝦夷の信仰・妙法の奇瑞・黄金の盛徳」都合    三葉を発行せり〟    〈画工は一松斎宗芳二代、8月刊行開始、翌26年4月まで24枚出版〉  ◯『読売新聞』(明治25年10月16日)   〝掘出し物(四百廿六円)    (かつては五百石以上も領せし元旗本の森川某、今は零落して日々の生活もままならぬ身の上)    去る六月頃より中風症に罹り いと難儀に陥りし折から小遣ひの足しにもと 妻のお何が曾て亡き母の    記念(かたみ)として保存し置きたる 百年以前の古(ふる)錦絵二百余枚と絵本二冊を屑屋に売らんとせ    しに 屑屋は之を見て五銭に買はんと云ふを 今一銭買ひてよとて 値段の押問答を為し居る所へ 近    所の者が来合せ 古錦絵は此頃神田の吉沢といふ家で高く買ふとの広告が新聞に見たれば 其処に遣っ    て御覧なさいとの話を聞き 右の絵本類を持参して見せたるに 錦絵二百廿枚と絵本二冊 四百廿六円    に買取るとの事に 妻は夢かとばかり打喜び宙を飛んで家に帰り 病み臥す良人にも其事を話して 直    様(すぐさま)之を売払ひ 医療の手当も充分にする事を得て 一家愁眉を開きたると〟    〈この吉沢とは、翌明治26年『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編)を出版した浮世絵商。本HP「浮世絵事典【う】」の     「浮世絵の相場」の明治25年の項『早稲田文学』に同じ挿話が載っている。巷間ではよほど話題になったものと見える〉  ◯『読売新聞』(明治25年11月2日)   〝三十六佳撰    例の年方筆の三十六佳撰の中 侍女(宝徳年間)琴しらべ(弘化頃)ひさぎ女(文安頃)の三枚は日本    橋室町三丁目の秋山方より出版せり〟    〈「三十六佳撰」は古今の婦人風俗集。明治24年から26年にかけて36枚出版〉  ◯『読売新聞』(明治25年11月3日)   〝東京(とうけい)絵画学校は 今度従三位五條為栄子(いえいし)が日本絵具不振を憂ひ 有志者と謀(は    かっ)て 江戸見坂上旧土岐邸に設置したるものなり 校長は子爵自ら之を任じ 瀧和亭・小林清親・    窪田米僊・跡見玉枝・川崎千虎・本田錦吉郎・川邊花陵等の諸子を聘し 嘱托教授となして 五日を期    し開校式を挙行するといふ〟    〈五條為栄(ためしげ)は子爵〉  ◯『読売新聞』(明治25年11月8日)   〝浮世絵展覧会    浮世絵の好事家を以て知られたる 浅草駒形町の小林文七氏は 従来浮世絵を好み 明治初年より今日    迄廿余年間 古代浮世絵を集めて楽しみとし 時には欧米人に販売して只管(ひたすら)斯道の盛んなる    を企図せしが 欧米人にも殊の外気受け好く 今日迄海外に輸出せる数も甚だ夥多なる由にて 外人の    嗜好益々増加し 中にも古代の美人画は最も高価に売行きあり 又本邦人中にも近来之を珍重する者    頗る増加せしに付 今回更に之を拡張せんと思(おも)立ちて 古代浮世絵買入所を各所に設け 今日迄    蒐集したる 岩佐又平より一立斎広重の時代に至る迄の画数百点を 展覧せしめんとし 自ら発起人と    なりて 来る十二十三の両日を卜し 上野松源楼に於て浮世絵展覧会を催し 縦覧無料にて広く数千枚    の招待券を発したりといふ〟  ◯『読売新聞』(明治25年11月14日)   〝古代浮世絵展覧会    浮世絵また逸品なきにあらず 邦人の嗜好は云ふまでもなく 外国人は殊に之を愛して 肉筆は固より    絵草紙錦絵の類に至るまで賞翫するは 人の知る所なり されば長く之を保存して後の妙手を待つは    今日にありとて 浅草区駒形町の書林小林文七は一昨・昨の両日間 上野広小路松源楼に於て 古代浮    世絵展覧会を開設したるが 出品は浮世又平時代より初代広重・一勇斎国芳の頃までを 年の新古に順    うて陳列したり 其重なるは浮世正蔵(まさとし)筆(ふで)(男女舞の図三幅対)・岩佐派筆(美人花    篭の立幅)・浮世義勝筆(遊女一立)・浮世又平筆(角力)・鳥居清信筆(七草五郎)・菱川師政筆    (遊女)・宮川長春筆(三美人納涼)・奥村政信筆(矢の根五郎)・磯田湖龍斎(美人見立鷺烏)等を    始め 鳥居清朗・歌川豊春・喜多川歌麿・葛飾北斎外一百余画と板物数十点 楼上六室に掲げたり 就    中(とりわけ)床の正面に掛けられし 老松に獅子と全身登龍の大立二幅(北斎筆)は一際目立ちて 観    客の目を惹きたり 当日来観者は早朝より陸続詰め懸け 頗る盛会にてありし〟  ◯『読売新聞』(明治25年12月19日)   〝歌川派の十元祖    此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折 同派の画工中 世に元祖と称せらるゝものを    数(かぞへ)て 碑の裏に彫まんとし いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と    いふにハあらねど 其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧絵の元祖  歌川国次    猪口絵 元祖 歌川国得     刺子半纏同  同 国麿    はめ絵  同 同 国清     びら絵 同  同 国幸    輸出扇面絵同 同 国久・国孝     新聞挿絵同  同 芳幾    かはり絵 同 同 芳ふじ     さがし絵同  同 国益    道具絵  同 同 国利    以上十人の内 芳幾・国利を除くの外 何れも故人をなりたるが中にも 国久・国孝両人が合同して絵    がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして 頻りに欧米人の賞賛を受け 今    尚其遺物の花鳥絵行はるゝも 前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて 海外の商売する者ハ太(い    た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『読売新聞』(明治26年1月12日)   〝墨堤観桜の図    閣龍(コロンブス)世界大博覧会出品の絵画中 最も面倒にして又最も手数のかゝりたる浮世絵「墨堤観桜の    図」(画工豊原国周)は 今や中橋和泉町の紳商新井半十郎氏が非凡の義気に仍って 首尾よく竣功の    期に近づけりと云ふ〟    〈閣龍(コロンブス)世界大博覧会とはシカゴ万博をいう〉  ◯『読売新聞』(明治26年3月14日)   〝年方子の筆になる「三十六佳撰」の内 正保頃の婦人(洗髪)享保頃の婦人(遊山)上代の婦人(眺月)    の錦絵を例の日本橋区室町の秋山方より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治26年4月28日)   〝外国人が浮世錦絵の嗜好に付て    近頃浮世絵大に騰貴し 歌麿・広重・豊国(以上二人は初代に限る)等の筆に成れるもの 一枚十円内    外の価格を持つに至りたり 之に付き或る人は云ふ 外人が是等錦絵を好みて 却つて肉筆を喜ばざる    は 先年肉筆ものゝ暴騰せる以来 往々偽筆もの顕はれ 数々(しば/\)外人を欺きたるに由り 乃ち    欺くべからざる板刻物を買込むに至りたるなりと 斯くと聞くより狡猾なる商人は 又密かに錦絵の偽    物を作りて売出したるに 是亦(これまた)強(あなが)ち廃物にはならず一枚十銭内外に売れ行く 代り    に正真の名画は漸次低落して今は一枚三円前後となる 之を差引勘定する時は 結句我に利益ありと得    意顔するは大(だい)なる誤りにて 外人の見る所は大(おほ)いに是等猾商の見る所と異なれる趣きなり    抑(そ)も外人が板刻に錦絵を愛するは 一枚三箇の美術を具へたるに由るものにて 即ち絵画彫刻着色    の三種は 大いに西洋美術家の参考とするに足ればなり されば其偽物も彫刻着色の二ッ尚ほ価十銭を    過当とせずして 外人の買入るゝ事なれば 差引勘定は結句彼等に大利ありて 数(かず)稍(や)や少な    き真物の下落は取りも直さず 我が損失に当る訳なりとぞ いつもながら日本猾商の失敗笑ふに堪たり〟    〈外人の肉筆への関心を失ったのは偽筆の横行にあるとする。それで人気が古錦絵へと移っていき、一時は一枚十円も     するものが現れるなど価格の高騰をみた。すると便乗するものがあって、今度は古錦絵の偽物を一枚十銭ほどで売り     さばく業者が登場した。いわゆる複製版画である。外人は錦絵の彫りと摺りの技術にも価値を認めるから、複製にも     興味示した。その結果何が起こったかというと、古錦絵相場の下落である。十円していたものが三円前後にまで落ち     込んだ。業者は儲けて得意顔だが、偽物が真正のものの価値を貶める、これこそ我が国の損失ではないかと、記者は     いうのである〉  ◯『読売新聞』(明治26年4月30日)   〝錦絵 芳宗子筆 撰雪六六談の内 大雪中の単騎(福島)奇術の鍋蓋、天目山(勝頼)の美麗なる錦絵    を例の日本橋区室町三丁目の滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治26年5月23日)   〝日光勝景の錦絵    綾岡子の筆に成る「東照宮表門」「霧降瀧」「東照宮祭典行列の内 猿 末社神掛面」三枚の美麗なる錦    絵を例の日本橋室町 松(ママ)山滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治26年5月29日)   〝歌丸(うたまるママ)の浮世絵益々輸出す    先年来古書画の海外に輸出する物 殊の外多く 就中(とりわけ)歌丸の浮世画は最も声価を博したるに    より 続々輸出する者多く 今は偽物さへ熾(さか)んに輸出するに至りたるが 明治七八年の頃 古仏    像の画幅大いに海外に声価を博したるより 続々偽物現はれ之が輸出を為して巨利を博せし者多く 遂    に信用失墜して 当今は殆ど輸出の形跡なしと云ふ前例もある事ゆゑ 当業者中 心ある者は憂慮し居    と云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治26年5月29日)   〝醜画の種本    近時浮世絵の流行するに付て 種々なる秘物をせぐり出し 其昔御殿女中の玉手箱とやら云へるをさへ    発(あば)きて 法外の利を貪る輩あり 是に於て稍(や)や達筆の画工は 大抵古人の筆法に似せたる醜    画をものするに 其潤筆は通常絵画の五七層倍に及ぶとなり 此の事たる 実に忌はしき事にて 心あ    るものゝ等しく眉を顰むる所なるが 昔の大家も亦斯(かゝ)る陋筆(ろうひつ)を玩(もてあそ)びしもの    にや 往々其筆に成れる醜画の本物顕(あらは)れ 中には数十巻の大作もあり 殊に其状況をやさしき    和文に写したる一物にて『穴かしこ(ママ)』とか云ふ秘書は 最もよく書れたり 之は東北の或る鴻儒都    に在りし頃 見もし聞きもしたる所を弾劾的にものして 去る方へ呈したる他見禁制物なりしに いつ    か洩れ知る 今の画工其文の意匠を仮りて画に写し 密かに其道の商人へ鬻(ひさ)ぐの計画ありとは     驚き入りたる仕打といふべく 何とか此等の出版を厳重に取締まるの法はなきか〟    〈「秘物」とは春画春本のいうだろう。『穴かしこ(ママ)』とあるが、会津の国学者・沢田名垂(木がくれのおきな)の『あ     なをかし(阿奈遠可志)』の誤記か。なお『あなをかし』は艶本だが「近代書誌・近代画像データベース」の画像に絵は     見当たらない〉  ◯『読売新聞』(明治26年7月26日)   〝丹鳥斎の浮世絵    元禄の師宣に次いで画名を知れたるは享保の奥村政信なり 其吉原遊興の図併(ならび)に男女遊戯の図    十六葉は 元墨絵なりしを今度紅絵(あかゑ)として 下谷徒士町(かちまち)一丁目三番地 浮世絵商吉    田金兵衛より発売したり 世人歌麿を尚(たっと)ぶの目を一歩進めて玩味すべし〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月4日)   〝美術展覧会の参考古画    目下上野に開設中なる秋期美術展覧会(中略)小林文七氏出品の北斎・岩佐・師宣・春水・後満(のち    まろママ)等に美人画は 実に浮世絵中の逸物なり(中略)侯爵黒田長成氏の出品 菱川師宣東遊興の図    (中略)得難き品なり〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月14日)   〝三升合姿及び撰雪六六談    三升合姿と題して年英の筆に成る助六・五郎・光秀の三枚は京橋・尾張町佐々木豊吉方より 又芳宗子    の撰雪六六談の中 六朔貢(加賀中将)法語松(一休)籠城の馬肉(加藤清正)の三葉は日本橋区室町    の滑稽堂より発売せり〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月19日)   〝美人花競べの錦絵 月耕子が斬新なる意匠と巧妙なる丹精に成りたる美人花競べの中 山吹・藤姫・牡    丹笠の三枚出づ 発売所は芝区神明前三島町二番地武川利三郎方〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月24日)   〝三十六佳撰 売出の画工年方子の麗筆に成る三十六佳撰の中 汐干(文化)茶酌女(宝暦)花見(文政)    の三枚は例の日本橋室町三丁目の秋山武右衛門より発売す〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月29日)   〝肖貌(にがほ)の錦絵 明治座初舞台に登る狂言不動霊験之場の肖貌絵 角太夫(左団次)不動明王(団    十郎)祐天(小団次)は国周の画なり 発売所は日本橋室町滑稽堂〟  ◯『読売新聞』(明治26年11月7日)   〝歌川豊国翁の碑    画伯を以て全国鳴りし故歌川豊国翁記念の為め 目下田楽鶴年氏が彫刻中なる石碑は長(たけ)五尺巾二    尺余のものにして 国貞・国周両氏の筆になれる翁の像を刻せり碑は 来月初句頃には彫刻済となり    亀井戸天神境内に据ゑ付くる筈なりと〟  ◯『読売新聞』(明治26年11月13日)   〝歌川豊国の碑    歌川豊国の碑を亀戸公園内に建つる由は前号に記したるが 右碑面には二代目名人豊国と三代目柳島豊    国との肖像を刻み 其側に一句を添へたり 即ち其肖像は豊原国周・豊斎国貞の合画 発句は梅堂にて    「幹はみな老を忘れて梅の花」と云ふ句なるよし〟〈梅堂は豊斎国貞の雅号〉  ◯『読売新聞』(明治26年11月15日)   〝団洲百種出んとす    尾上菊五郎 先頃梅幸百種と云ふを撰びて 之を豊原国周に写さしめ 画上に俳人の句を附して錦絵と    なしたるに 之を聞く市川団十郎負けぬ気になり 日本帝国の俳優中に在て 指を第一に屈するもの    此の団十郎を措いて其れ誰ぞや 菊五郎如きに後れを取つては 先祖へ対しても面目なし 好し/\我    れも之より団洲百種出版して 名誉を百代の後に伝へんと 自身国周を尋ねて之を相談し 菊五郎が支    出したる画料の二倍を払ふて 頗る立派に之を画かせる事に約束し 且つ曰く 己(お)れには少し望み    があるから 出来たら見本の草稿を見せて呉れとあるに 国周も承諾し八百屋お七外二枚を図して 団    十郎へ送りたれば 同優大いに喜びて之を諸名家へ持ち廻り 黒田清隆・長三洲等の諸氏へ頼みて こ    れへ字句を題せしめ 且つ女形の画には岩藤・八汐などいふ悪人を避て 温和忠実なるものを撰び 此    には宮中の女官に和歌を乞ふ考えなりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治26年12月19日)   〝古代錦絵 盃寿五六(さかづきすごろく)    浅草千束村二丁目の松井方より売出したる双六は 師宣・又平・春潮・歌麿・北斎等 名ある古代浮世    絵家の美人画を蒐めたるものなり〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『読売新聞』(明治27年1月12日)   〝牛若丸と伊勢三郞は日本橋室町の滑稽堂より売出せり 年方子の丹精に係る三枚続きの錦絵にて至極に    て至極の上出来〟  ◯『読売新聞』(明治27年1月14日)   〝日本名女咄の内 中将姫(二枚) 都藍仙(二枚)は周延子の筆にて彩色も殊によし 発売所は日本橋区本    銀町三丁目の武川清吉方〟  ◯『読売新聞』(明治27年1月13日)   〝北斎の画ける大蛇(おろち)の屏風    北斎翁は信州高井郡小布施駅高井鴻山(儒者)といへる名家に暫く身を寄せたる当時 主人の懇望によ    り精神を凝らすて八枚折の屏風に一頭の大蛇を揮毫したるよしにて 其の形貌着色の妙なる 一目真に    活けるが如く 其の丈(た)け殆んど六間有余に及び 実に翁の作中天下一品とも称すべき 世に有名の    ものなり 故に好事家は此事を聞き及び 曾て東京(とうけい)等よりも同家に杖を曳き 親しく観覧を    請ひたるものも多き趣きなるが 此頃故ありて同郡須坂町の郵便電信局長たる 同地の豪家小布施三十    郎氏の手に移れり 尚其他小布施駅の祥雲寺の有(いう)たる 翁の作富士越の龍及び観音の像の二品も    是亦小布施氏の所有なりしを以て 氏は此(かく)の如き稀有の珍品を 片田舎に秘め置くも あたら惜    しきものとて 此度(たび)氏の母初子が東京見物に出京の序(つひで)之を所持し来り 神田表神保町の    旭楼に投宿し 本月十六七日頃迄 何人にても観覧に供するよし 孰(いづ)れも珍品なれば 蓋し美術    家の参考の資(し)となすに足らん〟  ◯『読売新聞』(明治27年1月20日)   〝錦絵日本名女咄 の内「伊勢大輔」(二枚続)は日本橋本銀(ほんしろがね)町二丁目の武川清吉方より売    出し前者に劣らぬ出来なり〟〈「日本名女咄」は楊洲周延画〉  ◯『読売新聞』(明治27年1月22日)   〝日本名女咄(東錦絵)は日本橋本銀町二丁目の武川清吉方より続々発行するものにて 筆者は改進新聞    の画家楊州(ママ)周延なるが 此ほど発行したるは「正成(まさしげ)の妻正行(まさつら)の死を止(とど)    むる図」外に「清水上野守の妻大勇力の図」にて 孰(いづ)れも二枚続彩色鮮明のものなり〟  ◯『読売新聞』(明治27年2月8日)   〝錦絵日本名女咄 日本橋本銀町二丁目の武川清吉方より更科・横笛何れも二枚続きの最(い)と美麗なる    錦絵を売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年2月9日)   〝日光勝景の錦絵の内 大猷院仁王門・裏見瀧・男体山の三葉は綾岡子の筆にて鮮妍の錦絵なり 売捌所    は例の日本橋室町滑稽堂方〟  ◯『読売新聞』(明治27年2月21日)   〝名誉十八番(東錦絵) 年英子の意匠になる錦絵 鉢の木(二枚)女楠(おんなくすのき)(二葉)は着色共    に巧妙なり されど女楠の中正切腹の処は今一工夫ありたきものなり 発売所は日本橋室町の滑稽堂方〟  ◯『読売新聞』(明治27年3月4日)   〝新板錦絵 国周子の意匠に係る義経千本桜(三枚続) 権十郎(義経)・団十郎(川越太郎)・米蔵(静御前)    及び明治座新狂言 俳優侠客伝(三枚続) 米蔵(高砂太夫)・猿之助(鳶頭)・左団次(要四郎)等を日本橋    室町の滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年3月10日)   〝大婚式の錦絵 大婚式祝典の図及び青山観兵式の図は何れも三枚続きの美麗なる錦絵なり 発売所は京    橋銀座一丁目十七番地 関口政次郎方〟〈関口板は未見〉  ◯『読売新聞』(明治27年3月11日)   〝大婚式の錦絵 桜田御出門青山観兵式へ御臨幸の図は艶麗なる三枚続きの錦絵なり 発売所は京橋銀座    一丁目玉明堂〟〈玉明堂は10日記事の関口政次郎〉  ◯『読売新聞』(明治27年3月17日)   〝日本名女咄(東錦絵)園女・京都芸妓竹松・勝頼室の三葉は二枚続きの艶麗なる錦絵なり 発売所は日    本橋本銀町の武川清吉方〟  ◯『読売新聞』(明治27年5月4日)   〝錦絵 教訓画讃の内 姨捨山之図及び名誉十八番のうち左甚五郎・景清 何れも清妍なる錦絵にして出    来栄え殊によし 発売所は日本橋区室町三丁目滑稽堂〟    〈「教訓画讃 姨捨山之図」未見。「名誉十八番」は右田年英画〉    ◯『読売新聞』(明治27年5月26日)   〝日本名女咄(東錦絵)の内 春日の局(二枚)・大石主税の許嫁於浪(二枚)・梶原源太の妻(二枚)は周延    子の丹精になる婉麗の錦絵なり 発売所は日本橋本銀町の武川清吉方〟  ◯『読売新聞』(明治27年6月5日)   〝日蓮上人と杵屋六左衛門 金風子が縮写せし日蓮上人の真影錦絵は日本橋室町滑稽堂より 十三代目杵    屋六左衛門六代目芳村伊十郎 歌舞伎座大薩摩の錦絵は神田裏神保町小林方より出版せり〟    〈滑稽堂板「日蓮上人」は未見。小林鉄次郎板の表題は「歌舞伎座 日蓮記龍ノ口 大薩摩 長唄 六代目芳村伊十郎 三絃     十三代目杵屋六左衛門」画工は無署名〉  ◯『読売新聞』(明治27年6月18日)   〝墓跡考  山口豊山子    一立斎広重 浅草北松山町 禅宗南昌山東岳寺 総卵塔の中にあり 碑の高さ三尺余り 上に丸に花菱    の紋所あり 正面に四名の法名並びに没年等を彫りたり 広重の法名は     顕巧院徳翁立斎信士 安政五戊午年九月六日    と記し 台石に田中氏と彫りたり 広重は通称安藤徳太郎 後十右衛門 又徳兵衛と改む 八代洲河岸    定火消組同心にて 同組与力岡島武右衛門(素岡又林斎)に狩野家の画法を学び 又歌川豊広の門に入    り浮世絵を画く 後大鋸町に転居し 弘化三年常盤町に移り 嘉永二年の夏 中橋狩野新道に卜居す    東海道五十三次 都名所 又安政三年より江戸名所百景を始め 諸地の景色を画て大いに名高し 享年    六十六にて没す 辞世は「東路へ筆を残して旅の空西のみくにの名所を見ん」二世広重之を石に彫り    明治十五年四月 向島秋葉の社内に建てゝ永く記念とす〟  ◯『読売新聞』(明治27年7月25日)   〝錦絵堀川夜襲(ようちの)図は年英子の丹精に成る筆勢着色共に巧なり 売捌は例の日本橋室町の滑稽堂〟    〈標題は「堀川御所夜襲之図」三枚続〉  ◯『読売新聞』(明治27年8月1日)   〝錦絵速刊の計画    錦絵出版は先づ之を板刻印刷し内務省へ届け出(い)で一週日を経て発売することなるが 日清事件起り    てよりは各々其発売を急ぐ為め 何分一週間が待ち遠なりとて 京城小戦の模様の如きは存外早く売り    出したり され共斯(か)くては禁止などゝ云ふ危険計られずとて 其筋へ出願の上 墨刷にて届け出で    拒否の速決を乞ひて 出来早々売出す事にせんと協議中なり 又銅山を以て有名なる某豪商は之に肩を    入れて一雑誌の付録として錦絵を発売するの計画あるよし〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月9日)   〝日清戦争の錦絵 大鳥公使兵を率ひて参内 豊島海戦 成歓劇戦の三図は何れも三枚続の勇壮なる錦絵    にて国周子の筆に成り横山町三丁目辻岡方より発売す〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月12日)   〝日清事件の錦絵 豊島近海に於る日清開戦の錦絵は日本橋区吉川町松木平吉方より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月14日)   〝絵草紙問屋(とひや)の軍費献金    日清開戦以来 其戦況の錦絵に上るもの数十種に及び 都下幾多の錦絵問屋 多きは十種少きも一二種    を出版せしに 其売れ方頗るよく 中には七千五百枚(三十盃)を売尽したるもありて 其利益夥しく    此先尚ほ何程の利益を見るも 知れざる程なるより 日本橋区横山町の辻文始め二三有力の問屋は 此    際戦争絵双紙の純益金を 悉く軍費の内へ献納せんと 目下各同業者へ相談中なりと云ふ 因みに記す    錦絵は総て四百枚乃至五百枚を売れば出板費用を償(つぐの)ひ得るに付 既に出版し及び出版せんとし    て着手中の分を合す時は 其純益少くも一万円に及ぶべく 此に今後出版するものゝ純益を算すれば    十万円以上に及ぶも知るべからず 而して問屋は其純益を悉く献金するも 板木は全く儲けとなり 我    軍凱旋の後 帰郷の兵士へ売る所の錦絵にて十二分の利益ある見込みなりと〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月18日)   ◇吾妻錦絵   〝日清事件に関する錦絵の出版日も猶足らざる如くなるが 此程又々成歓襲撃和軍大捷(年方筆)及び成    歓激戦(清親筆)の両国を売出したり 板元は前者は日本橋区室町三丁目の秋山、後者は同区吉川町    の松木方なり〟    〈水野年方「大日本帝国万々歳/成歓襲撃和軍大捷之図」・小林清親「成歓ニ於テ日清激戦/我兵大勝図」か〉   ◇朝鮮政府改革の錦絵   〝韓廷改革を施し閔族処罰の図は横山町三丁目辻岡方より発売す〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月25日)   〝新板吾嬬錦絵 此ほど又々日本橋区横山町三丁目の辻岡方より 松崎大尉軍功を顕す図 及び日本兵大    勝利祝宴を開く図(孰れも三枚続)を出版せり また東錦絵揚(ママ)斎延一の筆に成れる 我軍威海衛を    攻撃するの図 及び陸軍牙山全勝凱旋の図は孰れも三枚続として 日本橋区馬喰町二丁目の綱島方より    発売せり〟〈「松崎大尉軍功を顕す図」「日本兵大勝利祝宴を開く図」は楊洲周延画〉  ◯『読売新聞』(明治27年8月27日)   〝おもかげ 日清戦争の錦絵に就て  実相居士    絵画彫刻の如き有形美術の目的はつとめて事物の実相真体を描写するにあり 敢へて詩歌小説の如く猥    (みだ)りに想像を弄(もてあそ)びて事実を過(あやま)るべからず。近来絵双紙店より際物(きはもの)と    して売出せる日清交戦の吾嬬(あづま)錦絵なるものを見るに 其実際を過ること実に甚だし 固より此    等を物せる画家は未だ実地の戦場を踏んで実際を目撃したることなければ 敢へて之に誤謬なきを期す    るは固より困難にして 又望むべからざる事なり と雖(いへ)ども 彼等支那兵が其服装に於て或ひは    夏時に冬服を着し 其武器に於て或ひは三国志時代の刀鎗を用(もち)ゆるが如き例を始めとし 其他海    陸に於ける戦闘の様など 余り想像に過ぎて 吾人は一見実に噴飯に堪へざるものあり 而して此等は    小学の児童さへいと見易き疵瑕(しか)なるべし 吾人は常に支那の画家が時情に暗くして 日清戦争画    の牽強付会 事実を誤るの甚だしきを笑ひしが 顧みて現時の東錦画の画家の時情に通ぜざると 亦彼    等を同様なるを見るに至りては 自失せざらんと欲するも得ざるなり これ一些事に過ぎずと雖ども     之を大にしては東洋の美術国たる日本の為めに 之を小にしては美術家の為めに 外人の嗤笑(しせう)    を蒙(かうむ)らんことを恐れ 聊(いささ)か注意の為めに一言す〟  ◯『読売新聞』(明治27年8月28日)   〝日清戦争の錦絵 此程又々日本橋区本銀町二丁目井上方より 清親の「清兵自ら広乙号を焼て遁走する    図」及び小国延(ママ)「朝鮮京城之小戦」と題する二版を発行せり〟〈小国延(ママ)は小国政が正しい〉  ◯『読売新聞』(明治27年8月29日)   〝錦絵画工の蒙を笑ふ  砲兵の一卒    貴社新聞「おもかげ」に実相居士なる人 日清交戦の東錦絵につき云々の説をなして 画家の注意を促    (うなが)せり 是れ余の大に然りとする所なり 斯かる不注意は単(ひと)り美術家の面目に関するのみ    ならず 又我国の面目に関す 而して彼等際物絵師の時情に暗きは清国軍隊の武器服装に限らず 実に    我が日本帝国の軍隊が戦時に於ける武器服装の一班をだに知らざるなり 今爰に二三の例を挙げんか    「整々行進」にすべき処を「五行行進」になせるあり、兵卒は肩に村田銃の着剣を担ふと雖ども 腰に    は十三年式の歩兵刀を佩(は)かずして 鞘長き軍刀をぶらさげるあり、歩兵にして長靴を穿つものあれ    ば 将校に非ずして絨(ぢう)脚絆を着け 近衛兵ならざるに赤色の帽を冠(か)ぶるあり 其他戦時軍式    に違(たが)へるもの 一々数ふるに遑(いとま)なく 我々軍人の目より見るときは抱腹絶倒の外なし     よし以上の間違ひは甚だしき不都合なしとするも 第一に我が帝国軍隊の面目を穢すものと思はるゝは    野山砲の形状なり 彼等絵師は九段招魂社なる大村銅像の周囲にならべある三十年前の大砲を見て 今    日も矢張り斯かる大砲を使用するかと思ひしものか 錦絵写真版等の多くは元込(もとごめ)にあらずし    て先込(さきごめ)なり、東西の列国に後れを取らず新式の武器を使用せし日本軍隊をして 斯かる旧式    砲を用ゐしむ 余は之を一見して憤慨に堪へざると同時に 絵師の思想の甚だ幼稚にして軍事に昧(く    ら)きを憐れむ 世の絵師達よ 若(も)し実相居士が支那人の剣戟武装に付 云々(しか/\)の説を肯    首(かうしゆ)すれば 余が此注意は一層肯首して可なり〟    〈「元込・先込」とは砲弾の装填方式の名称で、前者は新しく後者は旧式。日本の軍隊は常に最新のものを使用する、と     ころが錦絵をみればその多くが旧式であり、帝国の砲兵の一卒氏にはこれが看過できなかった。8月27日記事の実相     居士やこの砲兵の一卒が、画中の誤りを錦絵の板下絵師の責任に帰するのは、旧来の絵師を西洋の近代画家同様のも     のとして捉えるところから生ずる見解なのであろう。明治も三十年代になると新旧こもごもというか、板元(出版人)     の求めに応じて画く旧来の浮世絵師がいる一方で、つまり図案考案者の指示に従って画く絵師がいる一方で、作画を     画家個人の自発的な行為として捉える西洋伝来の新しい視点もまた定着しつつあったのである〉    ◯『読売新聞』(明治27年8月30日)   〝大鳥公使韓廷談判の錦絵は日本橋馬喰町二丁目の綱島亀吉方より発売せり〟〈楊洲周延画〉  ◯『読売新聞』(明治27年9月12日)   〝錦絵 清親筆安城渡進撃の錦絵頗る見事なり 発売所は日本橋吉川町松木平吉方〟  ◯『読売新聞』(明治27年9月16日)   ◇解三升結柏(とけてみますむすびがしは)   〝此程日本橋区室町三丁目の秋山方より『解三升結柏』と題する国周の筆に成る団十郎と九蔵の和解に因    める錦絵を出版したり〟   ◇錦絵   〝秋香子の筆に成る成歓大激戦の錦絵は頗る上出来なり 発売所は京橋区銀座一丁目の関口政治郎方〟    〈富田秋香か〉   ◇九蔵に告ぐ 不党生 〈◎は不明文字〉   〝某画工あり 九蔵を李鴻章に見立てたる東錦絵をものせり 九蔵之を見て喜ばず 直ちに其発売中止を    ◎談せしむ 余ら之を聞きて実に優が誤解の甚しきと 且つ彼が狭量なるを笑はずんばあらず 抑(そ    もそ)も彼は何の理由とする所ありて 画工の見立てに憤懣せしか 思ふに李鴻章が目下我日本の仇敵    たる清国の首領たるを以て 一は優が敵愾の心と 一は国民の名誉とを重んじて之を耻辱となし 遂に    斯かる処置に及びしものならん    吁(あゝ)優は誤解せり 画工は以為(おもへ)らく 李鴻章は当時日清交戦の舞台に於ける大達者なり     今彼を劇中の人物となさんには 我が優人をして真正に彼を活現し得べきものは 団洲あり菊五郎あり    左団次あり川上音次郎ありと雖(いへど)も 未だ以て適役となすに足らずと 是に於てか 画工は遂に    優を以て彼に見立てしなり 吾人は 優が技量劇的李鴻章を演ずるに適任せるや否やは問ふ所に非らず    と雖も 優は優人の資格として兎に角東洋の大達者を演ずるに適役と見立てられしを栄とし 却つて画    工に向つて感謝せざるべからず 俳優常に普通人の資格を以て劇を演ぜんとせば 恐らくは悪形(あく    がた)に扮するものは一人も無かるべし 去れど美術の舞台は其人物を活現して 充分の優技を振ふに    あれば 敢へて其劇的人物に対して恩怨なく親疎なし、優よ少しく敵愾の心を劇壇に及ぼさずして 其    眼光を大にし高野師直を演ずるも 畢竟同一にして差別なきを悟り 更に一歩を進め 日清劇を企て此    の大達者に扮して麗活なる優技を振へ〟    〈この市川九蔵は三代目。李鴻章役については不明。この9月、春木座にて「日本大勝利」が上演されているが、あるいは     この時のものか。錦絵は未見。なお、岡本綺堂の『明治演劇年表』明治27年の項に、2月新富座にて「忠臣蔵」が上演さ     れた際、九蔵は師直・由良之助・勘平の三役を演じて評判をとったとある。上記記事の「高野師直云々」はそれを踏ま     えるのであろう。要するに記者は師直を演ずる気持で李鴻章を演ぜよというのである〉  ◯『読売新聞』(明治27年9月26日)   〝戦争絵 海軍将校等征清の戦略を論ずる錦絵は年方筆にて 発売所は京橋銀座一丁目の関口政次郎 朝    鮮貴顕の石版絵(朝鮮国王・大院君・閩王妃の三肖像)は岡村政子筆にて発売所は京橋北槙町鳳林館。大    元帥◎下の御肖像を始め伊藤総理・大島少将並びに朝鮮国王支那皇帝等 日清韓三国の貴顕肖像の石版    画は日本橋材木町一丁目の中島石松方より発売。年方の意匠に成る平壌激戦大勝の錦絵は 至極上出来    なり 発売所は日本橋室町の滑稽堂なり。成歓駅に分捕りたる ◎聶憑魏の旗及び朝鮮婦人上衣等数十    種の写真は神田小川町の博文堂より売出せり 刷色鮮明〟  ◯『読売新聞』(明治27年9月27日)   〝戦争絵 我兵平壌占領の錦絵は日本橋横山町三丁目の辻岡より発売す〟〈楊洲周延画〉  ◯『読売新聞』(明治27年10月10日)   〝百撰百笑(東錦絵) 清親子の筆に成る「李鴻章の大頭痛・わが支那兵士・ちゃん/\の肝潰し」三葉の    滑稽画は骨皮道人の賛あり 時節柄至極面白き錦絵なり 発売所は日本橋吉川町大黒屋方〟  ◯『読売新聞』(明治27年10月12日)   〝錦絵 我兵平壌を陥れし錦絵を浅草神吉町の伊藤伊三郞〟〈画工不明〉  ◯『読売新聞』(明治27年10月25日)   〝掩撃鏖殺平壌略取の錦絵 年方子の意匠に成る九枚続つゞきの同図は我兵の突貫、清兵敗走の有様 実況を見る    が如き想ひあり 売捌所は日本橋区横山町の辻岡文助方〟  ◯『読売新聞』(明治27年10月30日)   〝錦絵 秋香(しうかう)筆 海洋島沖日艦大勝の絵(三枚続)は京橋銀座一丁目関口政次郎方より発売せり〟    〈富田秋香画〉  ◯『読売新聞』(明治27年11月5日)   〝百撰百笑(錦絵)「踏潰しの状(さま)」「人間の皮剥」「御負将」の三葉は日本橋吉川町の松木平吉方よ    り売出せり〟〈小林清親画〉  ◯『読売新聞』(明治27年11月12日)   〝戦争絵 玄武門兵士先登の錦絵(米作筆)は日本橋本町二丁目の井上吉次郎方より 我艦隊黄海に清艦    を撃沈する(清親筆)の錦絵は両国吉川町の松木平吉方よりいづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年11月12日)   〝戦争絵 玄武門兵士先登の錦絵(米作筆)は日本橋本町二丁目の井上吉次郎方より 我艦隊黄海に清艦    を撃沈する(清親筆)の錦絵は両国吉川町の松木平吉方よりいづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年11月14日)   〝戦争絵 落武者、第二軍金州城攻撃の図(石版画)二枚は京橋南鍋町三丁目の文栄堂より 平壌の凱旋    (錦絵)は日本橋吉川町の松木平吉より 霊鷹高千穂艦檣頭に止まる図は神田塗師町の凌雲書閣より    赤城艦長坂本少佐奮戦の錦絵(年方筆)は日本橋室町滑稽堂よりいづれも売出せり〟    〈「平壌の凱旋」画工未詳〉  ◯『読売新聞』(明治27年11月17日)   〝戦争絵 黄海沖に於ける清艦撃沈の錦絵(耕濤筆)は日本橋吉川町の松木平吉形より 野砲兵九連城幕    営攻撃の錦絵(清親筆)は日本橋本町井上吉次郎方より いづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年11月29日)   〝戦争絵 百撰百笑(地獄大繁昌・御注進々々・龍宮の騒ぎ)錦絵は清親の筆 発売所は日本橋吉川町松    本平吉、鳳凰城陥落敵兵潰走の錦絵(年方筆)日本橋室町の滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月2日)   ◇錦絵  玄武門先登原田重吉氏の錦絵(年方筆)は日本橋室町滑稽堂より売出せり〟   ◇戦争絵 鳳凰城占領民政庁、旅順口攻撃の石版絵は京橋南鍋町文栄堂より、原田重吉玄武門乗越(永年    筆)の錦絵は日本橋室町滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月6日)   〝戦争絵 黄海大捷に錦絵(第一図より四図まで何れも三枚続)は清親の筆になる上出来のものなり 発    売所は両国吉川町の大黒屋方〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月9日)   〝戦争絵 年方子の筆なる九連城攻撃より占領に至るまでの錦絵(九枚続)は彩色精麗頗る上出来のもの    なり 発売所は日本橋横山町の辻岡文助方〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月12日)   〝戦争絵 斥候川崎軍曹錦絵は京橋銀座一丁目関口政次郎より売出せり〟〈水野年方画か〉  ◯『読売新聞』(明治27年12月24日)   ◇戦争絵 玄武門を開くの錦絵は日本橋横山町の辻岡方より売出せり〟〈画工未確認〉   ◇百撰百笑(東錦絵)清方の筆になる 奉天府の荷厄介・退将の泣別れ・日兵の一撚りの三枚 発売所は日本橋吉    川町大黒屋〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月29日)   〝戦争絵 玄武門開門者原田重吉氏図(年方筆)金州大激戦の図(秋香筆)は何れも三枚続きの美麗なる    錦絵なり 発売所は京橋銀座一丁目関口政次郎方〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『読売新聞』(明治28年1月10日)   〝戦争絵 玄武門の原田重吉氏、安城渡の松崎大尉、第二軍金州上陸、赤城艦大劇戦、鳳凰城占領の五種    は清親の筆にして 発売所は日本橋堀江町吉田直吉方、同じく清親の筆にて我艦隊大連湾砲撃の錦絵五    枚続きは日本橋吉川町松木平吉方より発売〟  ◯『読売新聞』(明治28年1月12日)   〝戦争絵 第二軍金州城占領(米作筆)の三枚続きの錦絵は日本橋本町井上吉次郎方より 海城占領、山    縣・大山・山地・桂・野津・伊東・樺山坂本・福島・乃木等陸海軍将校の肖像(石版画)は京橋南鍋町    の文栄堂より孰れも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年1月19日)   〝戦争絵 白神喇叭手の錦絵(年英筆)は日本橋横山町辻岡文助方より 大和尚山先登者伊藤少尉の錦絵    (年方筆)は京橋銀座一丁目関口政次郎方よりいづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月6日)   〝戦争絵 我軍栄城湾上陸の三枚続き錦絵(清親筆)及び百撰百笑の内「逃げ支度」「清代限り」「首ッ引」三葉    は清親子の筆に成り 骨皮道人の賛ある滑稽画なり 発売所は日本橋吉川町の松木平吉方〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月17日)   〝戦争絵 梨子園奮戦の錦絵(年英筆)は日本橋横山町の辻岡文助方より 我艦隊威梅衛敵艦を沈む錦絵    (永年筆)は日本橋室町滑稽堂よりいづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月18日)   〝月耕随筆(錦絵)の内 目録・相撲・関の戸の三枚は月耕子の意匠に成る清妍美麗なる錦絵なり 発売    所は芝宇田川町の武川利三郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月22日)   〝戦争絵 工兵小野口徳治郎綿火薬を以て金州城門破壊の錦絵(年方筆)は日本橋室町滑稽堂より 又日    本勲章鏡の図(年章筆)は京橋出雲町水田浅次郎方より 百撰百笑のうち長足の進歩・清兵の冷かされ    ・厚い面の皮(清親筆)の三枚は日本橋吉川町の松木平吉方より いづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月23日)   〝戦争絵 我水雷艇風雨に乗じ威海衛防材破壊の図、我艦隊暴風雨を冒して威海衛を攻撃するの図(石版    画)は頗る上出来のものなり 発売所は京橋南鍋町文栄堂方 又海陸軍高名鑑の内 富岡歩兵中佐風雪    を冒して指揮す、川崎軍曹大同江を渡る、乃木少将の錦絵及び威海衛進撃配置の錦絵はいづれも清親筆    にて出来栄え殊によし 売捌きは日本橋本町井上吉次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年2月27日)   〝旅順口攻撃より陥落に至るまで(九枚続)の錦絵 即ち我軍奮闘勇戦の光景を年英子が画きたるものに    して頗る上出来なり 発売所は日本橋横山町の辻岡文助方〟  ◯『読売新聞』(明治28年3月21日)   〝陸海軍人高名鑑(錦絵)池田砲兵大尉、安満・今田両少佐会合、桂第三師団長の三枚は清親筆になる上    出来の錦絵、発売所日本橋本町井上吉次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年4月1日)   〝百撰百笑の内『清狂言の降伏』『自業自得』『向ふ処に敵なし』の三枚及び我軍劉公島占領の錦絵はい    づれも清親筆に成る 例に依つて美事なり 発売所は日本橋吉川町松木平吉方〟  ◯『読売新聞』(明治28年4月4日)   〝威海衛鹿角嘴砲台攻撃の錦絵は清親子の筆に成る、発売所は神田裏神保町の宝山堂〟  ◯『読売新聞』(明治28年4月5日)   〝百撰百笑 「支那人形」「漢兵の切腹」「大兵降」の三枚は清親の筆に成り 骨皮道人の賛あり 発売    所は日本橋吉川町松木平吉〟  ◯『読売新聞』(明治28年4月27日)   〝戦争絵 日本橋室町の滑稽堂より売出したる『丁汝昌於自宅自殺』の錦絵は年方子の意匠になる上出来    のものなり〟  ◯『読売新聞』(明治28年4月28日)   〝戦争絵 『征清軍休戦野営の夢』三枚続きの錦絵は真生(まふ)子の筆 又『陸海軍人高名鑑』の内「真    野九号水雷艇長」「伊東連合艦隊司令長官」「樋口第六師団大隊長」の三葉は清親子の筆に成り いづ    れも美麗なり 発売所は日本橋本町二丁目井上吉次郎〟〈真生は清親の別号〉  ◯『読売新聞』(明治28年5月1日)   〝戦争絵 樋口第六師団大隊長豚児を抱きて大雪を冒し奮戦の錦絵は年方子の筆に成る美麗のものなり     発売所は京橋銀座一丁目関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年5月11日)   〝戦争絵 百撰百笑の内『支那土産』『三途川の大混雑』『北京の摘草』三枚の滑稽画は清親子筆 『大    寺将軍百尺崖襲撃』の錦絵は月耕子の筆に成り 共に美麗也 発売所は日本橋吉川町の松木平吉〟  ◯『読売新聞』(明治28年5月21日)   〝戦争絵 樋口大尉清民の遺児を抱いて進撃するの錦絵は月耕子の筆になる 発売所は日本橋吉川町の松    木平吉方〟  ◯『読売新聞』(明治28年5月28日)   〝戦争絵 遼河の左岸に十一名の将校集り 戦勝を賀す錦絵は(月耕筆)京橋銀座一丁目の関口政次郎方    より 百撰百笑の内「患吁と愁傷」「是は澎湖島」「臆病神」の(清親筆)三枚は日本橋吉川町の松木    平吉よりいづれも売出せり〟     ◯『読売新聞』(明治28年6月27日)   〝戦争絵 『青木参謀休戦使として清軍に赴く』の錦絵は年方子の筆に成る 発売所は日本橋室町秋山滑    稽堂なり〟  ◯『読売新聞』(明治28年6月30日)   〝戦争絵 佐藤大佐聯隊旗を杖ついて突貫するの錦絵は月耕子筆に成る清妍のものなり 発売所は京橋銀    座一丁目関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年7月11日)   〝錦絵 年方子の筆成る『美人観吉野園花菖蒲』の三枚続きは清妍艶麗のものなり 発売所は日本橋区室    町三丁目の滑稽堂方 『大元帥陛下御進幸凱旋門御通輦』の錦絵は月耕子の筆 発売所は京橋銀座一丁    目関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年7月12日)   〝錦絵 「澎湖島に於て粟田大尉刀を振るって賊漢を惨殺するの図」は年方子の意匠になる上出来のもの    発売所は日本橋室町三丁目の秋山滑稽堂方〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月6日)   〝滑稽倭日史記(やまとにしき)(東錦絵) 日清戦役を面白く滑稽絵に編みし其うちの三枚を日本橋室町    滑稽堂より売出せり 清妍美麗にしてしかも意匠の斬新なる 思はず人をして噴飯せしむ〟    〈署名は「晒落斎芳幾〔しやらく〕印」〉  ◯『読売新聞』(明治28年8月10日)   〝滑稽倭日史記(東錦絵) 芳幾子の筆にて日清戦争に因みたる滑稽画総て三枚 筆勢軽妙一見人をして    抱腹せしむ 発売所は日本橋室町の滑稽堂也〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月17日)   〝錦絵 周延子の意匠に成る『幼年の戯れ』の図は美麗なる三枚続き 発売所は京橋銀座一丁目関口政次    郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月22日)   〝錦絵 鎮遠号縦覧の錦絵は日本橋本町二丁目井上吉次郎より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月25日)   〝錦絵 『鎮遠縦覧』の錦絵(月耕子筆)は芝神明前 宇田川町の竹川堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月28日)   〝滑稽倭日史記(東錦絵)    日清役を仕組みたる滑稽画の続ゞき三枚を日本橋室町の滑稽堂より売出す 画工は例の芳幾子にて意匠    の斬新なる益(ます/\)出て益妙なり〟  ◯『読売新聞』(明治28年8月31日)   〝錦絵 『鎮遠縦覧』の錦絵は月耕子の筆に成る三枚続きの美麗なるものなり 発売所は京橋銀座一丁目    の関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年9月5日)   〝百撰百笑(錦絵)『二奥の到来』『新日本の開拓』『目録』の三葉は例によつて骨皮道人の賛ありて     中々面白し 発売所は日本橋吉川町の松木平吉〟  ◯『読売新聞』(明治28年9月10日)   〝錦絵 『徳川時代の貴婦人』の図は周延子の意匠になる清妍艶麗の錦絵なり 発売所神田鍛冶町長谷川    常二郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年9月11日)   〝戦争絵「台湾新竹附近土賊掃攘」の錦絵(清親子筆)は日本橋区本町二丁目の井上吉次郎方より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年9月18日)   〝陸海軍人高名鑑(錦絵)大井軍曹 田中石松 横田安治の三枚は清親筆に成る錦絵なり 発売所は日本    橋区本町二丁目井上吉次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年10月6日)   〝肖㒵(にかほ)の錦絵 明治座新狂言の「錣引」及び「熊谷陣屋之場」各三枚続き 肖㒵錦絵は国周子筆    に成りて日本橋室町滑稽堂より発売せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年10月9日)   〝戦争絵 勇兵田中石松の三枚続き錦絵は奉書摺にて 画工は年方子の意匠に成る上出来のものなり 発    売所は京橋銀座一丁目の関口政治郎方 台湾太姑陥草賊抵抗の錦絵は三枚続きにて清親子の筆に成り     日本橋本町の井上吉次郎方より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治28年10月12日)   〝美術育英会浮世絵展覧会    美術育英会にては此度有楽町なる三井集会所に於て 浮世絵展覧会を開き 来観人は同会頭蜂須賀侯爵    を始め五百四十余名ありしと 浮世絵出品二百五十五点の中 黒田侯爵所有 菱川師宣筆・浮世絵人物    巻物 津軽伯爵所有 岩佐又兵衛筆・浮世人物三幅対等は殊に逸品なりしよし 又本会より懸賞せし電    気灯装飾図案は二十四通の出品ありて 投票審査の結果 雪月花の図(藤井忠弘)に二等賞金七円を贈    りたりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治28年10月14日)   〝流行錦絵の評判  不倒生    三十男の髭面が阿房のやうに廃れる法もあれ、好事(ものずき)なればこそ、こゝやかしこの絵双紙屋の    店頭に、或時は三四分、長きは二十分間も立見せし甲斐に、いで/\流行錦絵を簡略(てみじか)に評判    せん。    丁度秋の空模様の如く、かはり易きは錦絵の流行ぞかし。昔日までは、絵の巧拙に拘らず、錦絵の世界    は、戦争もの独占の有様なりしが、今日は其の絵(ゑ)頓(とみ)に勢力を失して、年英、月耕など三四尤    (すぐ)れたるを除きては、大概(おほかた)は店の後段に退けらるゝか、或は下積となれり。唯(ただ)清    親の滑稽画「百撰百笑」のみは、可笑(をか)しき徳にや、未だ流行の寵(ちよう)衰へず。かゝる所に、    是迄戦争絵に圧(お)されて、一時は全く顔色なかりし、当世風俗尽し、役者の似顔絵、美人、武者等の    しな/\、立田川紅葉の錦絵、今こそ戦争ものに代りて、これ見よがし絵双紙屋の店頭に色を争ひはじ    めたり。    中にも当世美人姿絵は、流行絵の中心にて、殺伐たる戦争ものゝ流行に飽きて、今や此の温柔なる美形    に移る、まことに反動の作用といふべし。美人すがたの主(おも)なるを挙(あぐ)れば、豊原国周の「東    (あづま)古風女(ぢよ)」(?)、小林清親の「四季の遊び」、共に流行に流行に投じたる作なれども、前    者は似顔絵の名人、後者は滑稽画の妙手、むしろ女風俗は長所にあらず。此の際ひとり楊洲周延の三枚    つゞき、一枚刷、流行錦絵の過半を占めて、他(た)は殆ど顔色なきの有様、されど最初に出でし茶の湯、    三曲合奏等(とう)は、昔の節用集、今の日用百科全書中のもの、余りに平凡に過ぎたりといはんか、稍    (やゝ)精神乏しけれども「千代田の大奥」「東源氏宮詣(あづまげんじみやまうで)の図」などは、流石    (さすが)に上品にして、徳川時代御殿風の状態を想起せしむるに足る。三枚つゞきにて一寸風がはりな    のは年景(としあき)が夢裡なり。これ芳年が「三十二相」中の「あつたかさう」に胚胎せるもの、彼れ    は町家(ちやうか)後家の風俗、これは嫁期(かき)漸(やうや)く熟したる令嬢、彼れは古(いにしへ)、こ    れは今(いま)、おの/\時代を異(こと)にすといへども、共に其の痴態を写すや同じ筆法にいづ。こゝ    に西洋の画風を折衷し、従来の浮世絵風を脱(はな)れ、別に一機軸を出せるは月耕の「美人花くらべ」    なり。気品頗(すこぶ)る高雅、おのづから仙骨を有す。此の派の人か、耕濤(かうたう)の「古代風俗」    元禄踊の図も流行もの鮮麗洒落(せんれいしやらく)の筆、然(しか)れども此の派(は)一体に愛嬌乏しき    は又一短所なり。是等(これら)さへ既に流行に後れんとする傾向ありて 今流行の最(さい)はそれ国周    の「明治座狂言草摺引の図」なるべし。団十郎の景清、左団次の美保のや、半身の三枚つゞき、両雄肘    を張(はつ)て絵双紙屋狭き勢ひ立派/\といふの外(ほか)なし。是も一時なるべく、今後当分はなほ美    人流行すべし。さて其の風俗を卜するに、今日芳年の如き大胆家を出(いだ)す余地なければ、先(まづ)    は甚(はなはだ)しき淫靡には陥らざるべく、矢張り品のよき月耕の「婦人風俗尽」さては年方の「三十    六佳撰」の類、漸々新粧を凝らして現るべけれど、唯全身ものよりは、半身ものゝ注意をひき易く見栄    (みばえ)あるには如(し)かず。似顔絵の如(ごと)きは、固(もとよ)り時に応じて品を変(か)ゆるのみ。    序(ついで)ながら国周が団洲(だんしう)の河内山も近作なり。此の外見漏らしたるは他日拾ふことゝす    べし。まづは錦絵の評判これぎり/\〟    豊原国周画「東古風」 三枚続 板元不明    小林清親画「四季遊び」三枚続 武川清吉板    楊洲周延画「茶の湯」 三枚続 森本順三郎板 「三曲合奏」未見         「千代田大奥」三枚続 福田初次郎板    「東源氏宮詣之図」三枚続は梅堂小国政画か    中沢年景画「夢裡」三枚続 未見    尾形月耕画「美人花競」武川利三郎板    大倉耕涛画「古代風俗 元禄踊里之図」三枚続 長谷川寿美板    豊原国周画「明治座狂言草摺引の図」三枚続 「錣引」の誤りか    尾形月耕画「婦人風俗尽」佐々木豊吉  ◯『読売新聞』(明治28年11月1日)   〝肖㒵の錦絵 新富座にて目下興行の新狂言なる「板倉の場」「押上堤殺の場」並びに歌舞伎座十一月狂    言「暫」「宮内局」の諸肖貌(にがほ)はいづれも三枚続きにて国周子の筆に成り 頗る美麗の錦絵なり    発売所は日本橋室町の滑稽堂方〟  ◯『読売新聞』(明治28年12月16日)   〝百撰百笑(東絵)「兵士の帰村」「細君の歓迎」「開化振」の三枚は清親子筆に成り 骨皮道人の賛あ    る滑稽絵なり 発売所は日本橋吉川町松木平吉〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『読売新聞』(明治29年1月9日)   〝花美人名所合(吾婦錦)    「美人雪中に臥龍梅を見る図」は三枚続にて月耕の筆に成り発売所へ日本橋吉川町の松木平吉方〟  ◯『読売新聞』(明治29年1月28日)   〝清親子の消息    滑稽漫画を以て世に知られたる小林清親子は 頃日(このごろ)来歴史画の事に就いて感ずる所あり 潜    思して 日本古代の武器即ち弓・槍・剣・甲冑・旗幟(きし)及び馬具等 総て一般戦陣用のものにつき    其模形・標本・沿革・古式等を考査し 今や既に真影流剣法の全貌を摸写し尽したりといふ 尚(なほ)    子(し)は絵画・彫刻・刺繍(ぬひとり)など一般意匠の事につき 専心苦慮し居るとぞ〟  ◯『読売新聞』(明治29年2月1日)   〝戦争絵の末路    日清戦争の錦絵は牙山・平壌・大孤山沖等のもの 初めに売れ口よく 昨年までに出版せしもの 都下    にて三千余種に及び 最も能く売れたるものは十万以上を摺立てたり 然るに中比以後は版元 売り先    を急ぎて早きを競へるが為め 前版を改訂し端書きを改めて売り出したるより 買手も夫と心附きて    売れ口俄かに止まり 米国行のものまで直段悉く下落し 中には積戻されんとするもありしより 版元    等は大に困却し 折角初めに儲けし利益も形なしになれる有様なりと云ふ〟    〈明治27年7月の開戦以来約3000余種もの戦争絵が出版され、最も売れたものは10万枚にも及んだらしい。この当時銅版     も石版普及していたが、投入出来る画工の数や、素早く大量に生産するという面では、依然として木版が断然優位に     あったことを、この記事は物語る。ただ出版を急ぐあまり、前版の焼き直しなどに走るなどしたため、粗製濫造、飽     きられてたちまち勢いを失ってしまったようだ〉  ◯『読売新聞』(明治29年4月10日)   〝日本橋室町の滑稽堂より 小児風俗の図 茶の湯・手踊・汐干狩の三枚並びに日光勝景三枚の美麗なる    錦絵を売出せり〟    〈「子供風俗」宮川春汀(漁民)画。「日光勝景」綾岡有真画、明治29年3月出版は「東照宮一ノ鳥居 五重塔」「化灯籠」     もう一図は未詳〉  ◯『読売新聞』(明治29年4月7-8日)   ◇画家小国政の奇癖(七日)   〝小(こ)国政は歌川派の奇人と知られたる梅堂国政の子にて、日清戦争絵数百番を出してより名声頓に高    まり、其師国周翁も、我がなき後に歌川派の遺鉢を伝ふべき者は小国政を置て他に望ある人物もなしと    て、常に之を励ましけるが、性来奇癖に富みて身持兎角放埒なれば、昨年来戦争画にて儲けたる千円近    くの金は大方遊里に使果して、国周翁の食客となりけるが、以為(おもへら)く、我名を画壇に挙たるは    全く戦争絵なれば、戦死軍人の精霊及び画祖の菩提を弔はんとて、髪を剃りこぼち鼠の衣に朴歯の下駄    を穿き、錫杖をつき笠をかぶりて、諸所の霊場を巡り、豊信、豊国抔(など)の墓へも参詣せり。頃しも    去年の葉月の中半、雨は車軸と降頻る中を、法師姿の小(せう)国政、只独り吾妻橋を浅草の方へと打渡    けるに、両杖に縋りたる老人、ずぶ濡れなりて難儀の体なるを見て、いと不憫に思ひ、若干(いくら)か    恵みや遣らんと懐を探りたれど、一文の持合せも無(なか)りければ、其の住所を問しに、待乳山の先な    る木賃宿に泊り居れりと答ふ。奇癖ある小国政は夫より直に我が父の家へ赴き、残りの衣類を質ひ入れ    て、之を背負ひ、夜に入りて待乳山の先なる木賃宿と云ふを的(あて)に尋ね行しも、夜の事とて知れざ    れば、画工仲間の野口橘園といへるが、当時衣食に窮して投宿せる木賃宿の浅草町に在るを便りて問合    すれば、橘園は小国政が法師姿に風呂敷包背負たるを見て、必定(やつぱり)女ゆゑ失策(しくじり)ての    欠落ちと思ひ、兎に角こゝへ泊りて一ト思案すべしと、親切に言ふもをかしく、実は云々(しかじか)と    事情を語り、此米銭は其老人へ恵まん為めに携へ来りたる訳ゆゑ、共々宿を調べてくれまじきやと頼め    ば、橘園、之は面白し先々(まづまづ)これへと奥座敷へ上げしはよけれど、木賃宿の事とて大なる蚊帳    の内には、六部巡礼など鮨をつけたる如く枕を並べて打伏せる状(さま)、画にもかゝれぬ風情なり〟   ◇画家小国政の奇癖(八日)   〝小国政の物語を聞たるにや、蚊帳の内より七十才ばかりの老婆ノソ/\と這出で、御出家様には何地(い    づち)へお越しなされまするか、婆は西国巡礼のものでござりますると、憐れみを乞ふが如き風情なるに、    イヤ私(わし)は出家ではない画工(えかき)じやが、実は仔細ありて此米銭をさ(一字欠「る」か)老人へ恵    まんと態々(わざわざ)携へ来りたれど、夜分にて宿所も見当らず、明日と云つても探すに面倒なれば、    御前をその老人と思ひて進じませうと、件の米と銭とを与ふれば、婆は太(いた)く打喜び、就てはこれ    まで緒所の寺抔より賜りし品は一々帳面へ扣へ居りますれば、御面倒ながらこれへ御記しを願ひまする    と、差出す帳面を見れば、表は観音経を貼りて、中には某所某寺白米何合銭何程と明細に記載しあり。    小国政つく/\見終りて、老婆が丹精の程に感じけるが、さりとて僅かばかりの米銭を業々(げふ/\)    しく書記さんは人の見る目も恥かしと、婆に向ひ、私は文字かく事が下手なれば、其代りに絵をかいて    進じませると、カンテラの燈火(ともしび)かきたてゝ、蜜柑の古箱を机にかへ、禿筆(ちびふで)おつ取    り、夫(か)の帳面へ大黒天をかきけるに、傍(かたはら)より橘園が、此先生は絵の名人にて、其かゝれ    し絵一枚三円には大丈夫売れると聞て、老婆忽ち欲心を起し、お序(ついで)ながら、何卒七福人をおか    き下されとねだるに、ヨシ/\と容易(たやす)く受け込み、夜半までかゝり、蚤蚊に責められつゝ漸く    書き上げ、夜の明け方になりて帰りしが、夫より一ヶ月(二字不明)て浅草観音前を通りかゝれば、後よ    りモシ/\(一字不明「和」か)尚さまと呼ぶものあるに、何人かとふり返れば、木賃宿にて逢ひし巡礼の    老婆なり。厚く此間の礼を述れば、小国政、何と思ひしか、終に老婆を伴ひて父の家へ連行き、風呂に    入て飯を食せ、また何程かの銭を与へ、様々待遇(もてなし)て返しけるに、両親始め人々は、小国政が    益々狂気の振舞(ふるまひ)に驚きたりと、斯(かか)る気性の小国政、師匠の家の食客も永くは続かず、    さりとて家にも落着かねば、勘当同様の姿となりて、寄る辺なき浪々の有様を、兼て懇意なる日本橋新    乗物町の鰻屋尾張屋の主人が、之を聞き其見込ある腕前を見抜き、此程我もとへ引取り、四畳半ばかり    なる裏手の隠居所を貸し与へて、此画壇の鳳雛(ほうすう)を養ひ居れりとなん〟  ◯『読売新聞』(明治29年5月7日)   〝絵双紙屋の困難    東錦絵は去秋来 売先俄に詰まり 役者絵の如きは辛ふじて一盃(二百枚)を捌く程なれば 二盃以後    は摺を簡略にし価格を下げて田舎廻しとし 僅かに原板(もといた)を利する位が関の山なり 之に反し    て板木の原板は木材の騰貴せるに随ひ 従前墨摺板一枚十五銭のものは廿五銭に、色摺板一枚十銭乃至    十三銭のもの十八銭に上りたれば 摺工の方にても工銀を上げ 従前一枚一銭のものを一銭五厘に(但    し三枚ものは二銭五厘)に直上げしたり されば絵双紙屋は愈々(いよ/\)困難する余り 終に粗末の    品を製出するの止むを得ざるに至りたるなりとぞ 江戸名物の行く末こそ覚束なけれ〟  ◯『読売新聞』(明治29年5月9日)   ◇日本橋吉川町松木平吉方より 今回「時代鑑」(周延筆)内「慶長」「天保」「明治」の風俗絵を売出    せり〟〈「時代かゞみ」〉   ◇日本橋本銀町武川清吉方より「花模様」(清親筆)うち「天明高尾」の錦絵は蜀山人の賛ありて頗る上    出来なり〟  ◯『読売新聞』(明治29年6月29日)   〝昨今の錦絵    東錦絵は日清戦争に止めを刺して 是ほど捌けしこと古来稀なりといへるが 其余波今も猶残りて 年    方・年英・月耕などの筆になる京城談判より講和談判に至るまで 五十組に仕組みて画帖となせしもの    地方は勿論 遠く海外へも輸出するもの多しとぞ 代価は凡そ三円五十銭乃至四円なり 是等に次で目    下盛んに売行ものは 此程完尾となりたる「千代田の大奥」と題して 旧幕時代大奥に於ける年中行事    を始め女風俗を写したる周延の筆に係るものなり 周延は歌川風の流を酌みて 新聞記事などよりは    錦絵として見る方(かた) 一種高尚優美の姿ありて西洋人などの好み一方ならず 板元は此の再摺に忙    はしくして 他を顧みるに遑(いとま)あらざるほどなりといへり 定価は三枚七銭五厘 四十番ありて    之を組みて折本とするもの殊によし、此他「千代田の大奥」に擬へて矢張周延の筆になる「徳川時代貴    婦人」といへるあり 同じく奥女中の行儀作法を画きしものにて 三枚七銭五厘にて売行よろし、宮川    春汀の筆になる「子供遊」といへる奉書一枚もの四銭 同「子供風俗」政摺一枚もの(二銭五厘)等ま    た売口宜し     月耕物の「花美人名所合」は最早四番まで出でしが 是れ又目下盛んに売れ行くものにして 奉書摺三    枚十二銭位なり、是と同じく清親の筆になる「花模様」といへる女ものあり 寛永元禄万治正保等時代    の女風俗にて六番まで出板せり 是れは三枚七銭五厘にて「時代鑑」といへる周延の筆になる古代と明    治と女風俗を対写せしものと共に評判宜し    折本類は清親、周延、月耕、年方等のもの多く 時としては「月耕随筆」(四十八枚)年方筆「三十六    歌仙」、月耕筆「五十四帖」「歴史図会俤源氏」などを一部に揃ふものあり    旬ものは政摺(まさずり)(伊予より産出する奉書に類して稍劣れるもの)の切組灯籠にして 小一枚五    厘 大は三枚六銭に至り 官吏商工何れを問はず 消暑の材料として切り組み取り合はして 一個の灯    籠を作り 黄昏火を点じて打水冷(すゞ)しき処などの置くは至極妙なり 其図は多く新狂言にして 昨    年十一月より現今に至るもの多し 即ち助六、左馬之助、地震加藤、五右衛門、狐忠信、道成寺、猿廻    し、文覚、暫、等なり〟    「日清戦争画帖」五十組    〈三枚続きの五十組の総枚数は150枚、その代価が3円50銭~4円の間とすると、1枚当たりの平均は約2銭5厘〉    「千代田の大奥」(周延画)〈3枚7銭5厘=1枚2銭5厘〉    「徳川時代貴婦人」(周延画)〈3枚7銭5厘=1枚2銭5厘〉    「子供遊」(春汀画)〈奉書1枚4銭〉    「子供風俗」(春汀画)〈政摺1枚2銭5厘〉    (同じ紙面上に、政摺(まさずり)とは「伊予より産出する奉書に類して稍(やや)劣れるもの」とあり)    「花美人名所合」(月耕画)〈奉書1枚4銭〉    「花模様」(清親画)〈3枚7銭5厘=1枚2銭5厘〉    「切組灯籠」〈政摺 小1枚5厘・大1枚2銭〉    〈この頃の錦絵の小売り値段は奉書1枚4銭・3枚続12銭 政摺1枚2銭5厘・3枚続7銭5厘〉  ◯『読売新聞』(明治29年7月1日)   〝外国に於ける摸写錦絵    古代錦絵の好尚は近来頓に其度を高め 殊に外人の如き只管(ひたすら)珍物を漁らんとして 各絵双紙    屋を遍歴するもの多く 従って歌麿・師宣・一蝶・豊国・国芳・長春・北斎・祐信・清信・豊春等の筆    に係る人物風俗画の再板もの売行頗るよく 其出版に逐はるゝ位なりと云々 左すればにや遠く英米仏    独等に於ても各々其原本を摸写する事に勉むると見え 此程銀座一丁目の絵双紙店関口方に於て手に入    れし広重筆近江八景の内瀬田の夕照、北斎漫画、女大学画題等の図は何れも仏国に於て模造したるもの    にて 其精巧聊か原本と違はず 実に驚嘆の外なしと雖も 日本文字は稍困難のものと見え 絵画の割    には文字頗る拙なり 夫に次で驚くべきは 日清戦争の錦絵にして是亦近年稀なる売高にして 海外へ    の輸出非常なりしが 矢張り此程関口方にて 横浜二百五十四番ウオルス商会館主より 譲り受けたる    ものは独逸に於て摸写せしものにて 元図は秋香の筆に成れる海洋島沖日艦大勝の図なり 其精巧殆ん    ど我に劣らずと雖も 只前の如く日本文字の不格好なると且つ紙質異なるがため 彩色の光沢を失せる    は惜しむべしと〟  ◯『読売新聞』(明治29年8月2日)   ◇吾妻錦絵 時代鑑のうち「天保」「弘化」「嘉永」の風俗画を日本橋吉川町大黒屋より 子供風俗の中    「夕涼み」「花串」「お山のお山のおこんさん」の錦絵を同室町滑稽堂より 孰れも売出せり〟    〈「時代かゞみ」は楊洲周延画。「子供風俗」宮川春汀画〉   ◇錦絵画本 古き絵本又は古き郵便切手等を新橋南金六町河岸の吉沢商店へ持参せば 高価に買入るゝ由    にて 古錦絵も百年前後のものは下等にて一枚二三十銭より 上等ものは六七円以上のものあり 絵本    は美人画の彩色物などは一冊十円乃至六七十円に買入るゝ由〟   ◯『読売新聞』(明治29年8月17日)   〝小国政筆を擱して再び行者姿となる    歌川派将来の望ある梅堂小国政は 四五百番の日清戦争絵を 其半(なかば)女郎屋の二階で描き 勘定    書は大抵板元へ附け廻した程の剛の者なれば 遂には板元より愛素(あいそ)を尽かされ 豊原国周の食    客となりて、懺悔の為め法体となり澄ませり 然るに人形町通の旧家なる或具足屋の主人は 小国政が    気性の淡泊にして磊々落々たると筆勢の優に妙なるを愛して 今一とたび拾ひ上げて怪腕を揮はさんも    のと 私(ひそか)に小国政を招きて 何か大作をやる来はなきや 貴公が其気ならば及ばず乍(なが)ら    影身に為りて力を添ゆべしと云ふに 小国政も地獄で仏に逢ひたる心地で 二ッ返事で其れならば 其    昔名人豊国のものしたりてふ名物絵の顰(ひそみ)に倣ひ 当世美人一百番を描く事とし 乃ち人形町通    りなる鰻屋の隠居所を借受て 茲に還俗の新世帯を持つ事となりぬ 此の隠居所 間は狭くとも総べて    千家を気取りたる茶室の装構(かまへ) 小国政も茶の嗜みありて釜の一ッも持つ身なれば 当人の大満    足にて入りしものゝ 扨(さて)入り込みて見れば やれ此壁が気に入らぬ 彼の床が思はしからずとな    どゝ贅沢三昧 さりとて大工泥工(さくわん)を雇ふ程の手宛(てあて)もなかれば 持前の筆墨振り廻し    可惜(あたら)茶席を塗り散らして得々と坐りこみ 筆を啜りて百番の内六十番まで描き上げたり 具足    屋は絵画が出来上りし上は ここ一番一目を驚かさんとて 愈々(いよ/\)上木するまでは ツツとも    言はぬ秘密の約束を固め置き 小国政も成丈(なるたけ)外出せぬ積もりなりしが 此頃に至り思ひがけ    なき取沙汰は 端無く人形町通りへ広がりたり 其は家主尾張屋の娘何某が小国政に懸想せりと云ふ艶    聞なり 小国政は全くの濡衣思案の外の道とは云へ 穴隙(けつげき)を鑚(き)ったとあっては 此の小    国政が花川戸の兄貴へ申し訳がねー 夫れも己(お)れは男の切れ端 吹けば飛ぶやうな浮世絵末世の画    工だから よしとした所で窮(くる)しい時世話に成った尾張屋の娘に瑕(きず)が附いては気の毒千万    此上は明日とも云はず 今夜の内に此処(こゝ)を立退かふと 半(なかば)出来の美人絵四十番を懐にし    て具足屋へ出かけ 訳を話して三十円の前借(ぜんしやく)を申込めば 具足屋は烈火の如く立腹し 此    小僧奴 女を連れて欠落する了簡か 百番の絵も御前の名誉を考へたからの事 さういふ訳では十円の    金も貸すことは出来ぬ 美人絵の約束も只今限り取り消しなり言ひ放ち 色々の弁解も聞き入れねば    小国政も勃然(むつ)として 其の侭に立帰へり 金策の工風を廻らせども 是と云ふ名案も出でず 寧    (いっ)その事国周の食客(ゐさふらふ)と為つて 一時を凌がんとせしが 憐れや具足屋にては理不尽に    も小国政との約束を取消せしのみか 既に出来上りし美人絵六十番の落款を削り 余の四十番は国周に    書かせる事にしたりと聞き 小国政は大いに嘆息し 浮世絵師の見識下りたるは 今更云ふ迄もなけれ    ど 今日の今まで当代の長者と頼みし豊原国周が余(われ)の如き青年の糟粕を舐めり 恬として耻ぢざ    るに至つては 最早浮世絵の画工と肩を伍して世に立つの念なしと 断然意を決し二十四年の辛苦を泥    靴の如くに打捨て 尾張屋の隠居所を仕舞ひて 再び身を円髗白衣の行者姿にやつし 飄然去って師を    円山四条の大家に求め 諸派を研究して大いに為す所あらんと意気込み居れりとぞ〟    〈具足屋は人形町の板元・福田熊次郎。「穴隙を鑚る」とは男女が密通すること。「花川戸の兄貴」は国周〉  ◯『読売新聞』(明治29年9月21日)   〝風俗錦絵 日本橋本銀町武川清吉方より売出したる「花模様」のうち安永頃・慶長頃の風俗画はいづれ    も三枚続きにて頗る美麗のものなり〟〈小林清親画〉  ◯『読売新聞』(明治29年10月10日)   〝肖㒵(にがほ)錦絵 今度日本橋の滑稽堂より売出したる明治座新狂言の鬼一法眼・足柄山・中万字屋・    大蔵館・布引瀧場等の肖㒵絵は 孰れも三枚続きにて頗る美麗なり〟〈豊原国周筆〉  ◯『読売新聞』(明治29年11月15日)   〝時代錦絵 日本橋区吉川町二番地松本平吉方より出版せる「時代かゞみ」の内文化・文政・安政・天明    三時代の美人風俗絵は例の如く艶麗なり〟〈楊洲周延画〉  ◯『読売新聞』(明治29年11月21日)   〝茶湯錦絵 故南新二氏の考案に成りたる石州流茶の湯の一切の式を美麗なる錦絵にしたるもの 揮毫は    水野年方にして全幅十五番の内七番を例の滑稽堂より出版せり〟    〈「茶の湯日々草」の「種(図案)」を提供していたのが南新二。氏の戯作集『南新二軽妙集』(明治40年刊)所収の「南新二     小伝」によると、天保6年(1835)1月7日生、明治29年(1896)12月29日没・享年60。明治10年代から、東京日々・報知・     朝野等の各新聞を経て、この当時は『やまと新聞』の記者の由。氏の茶の湯に関する戯文は上掲戯作集に「茶の湯三     日稽古」というタイトルで載っている。「茶の湯日々草」における、板元の滑稽堂(秋山武右衛門)・戯作の南新二・画     工の年方の関係は、企画・立案・作画という江戸以来の分業体制がまだ機能していたことを物語るのであろう〉  ☆ 明治三十年(1897)    ◯『読売新聞』(明治30年1月7日)   〝絵画展覧    美術育英会にては美術上奨励の為め 来る十八日より廿六日迄 上野公園内日本美術協会列品館に於て    浮世絵歴史展覧会を開き 衆庶の縦覧に供する由にて 浮世絵歴代の絵画は小林文七氏が多年採集せし    ものなりと〟  ◯『読売新聞』(明治31年1月10日記事)   〝歌川派の話    江戸名物と知られたる歌川派の絵も追々衰微して 伎倆の稍や見るべきは国周一人のみ、若手にては国    周の門人周延少し売り出したれど 苦労人目には余り面白からぬよし、されば嵩谷に胚胎して歌麿に成    功したる錦画もこゝに至りて 殆んど滅期に近づきし様思はる、今は昔に遡りて妙手を古人にもとむれ    ば 其数殆んど枚挙に遑あらざれど 遺墨の今に保存せられたるものはいと稀なり、歌麿、豊春抔多く    名高きは扨置き 初代豊国以下の大作を挙ぐる時は概ね左の如し    初代豊国    軸にはさま/\あるべけれど 扁額として大なるは鎌倉八幡の尤物なり 図は野見の宿祢と当麻の蹴速    との相撲にて 天晴れ浮世絵の法則に通ひたるものゝ由なれど 惜しい哉 彩色脱落して総体太(いた)    く損じたり    二(ママ)代目豊国〈現在では三代目(初代国貞)とする〉    田舎源氏のさし絵は苦心して 名人豊国の名を得たれど 伎倆は初代に及ばず、其遺物として源氏五十    四帖の念入りもの 亀戸天神の拝殿に掲げられたれど いかにしけん近頃は見えず 今一ッの遺物なり    と伝ふるもの会津の某農家に在り 絹地四尺巾の大幅なり、絵は「酸吸(すゝひ)三笑」を美人に見立て    しものにて 娘、芸妓、遊女の姿美しく 孰れを釈迦 孰れを羅漢とも分き難し、太田南畝の題歌に      酸いといひ甘いと云ふも苦々し 只なまぐさきものとこそ知れ    とありて、豊国自身にも後世に至りて 書画孰れか贋物といはるゝの難あるべし と言ひ遺し置りとか    三代目豊国    之れは柳島豊国にて伎倆は二代目豊国の次なり、されど画論に長(た)けし人と見え 門下に連りしもの    皆其風あり、松平讃岐侯深く之を愛し玉ひし由にて 今も其遺墨は頼聡伯の邸に存す、其絵は二枚折の    屏風に後向の遊女と芸妓とをかきたるものにて 衣服の模様に地獄極楽をものしたるが見所なり、浮世    絵の肉筆にて之れ程念入りしものはなしといふ    又同派中の尤物歌川国芳は二代目豊国と時代を同うし 伎倆其上に在りしかど 一時人気を得ずして佐    渡の金堀りとなり 再び出府するに及んで俄に雷名を挙ぐ 当時豊国は本所五ッ目の渡船場株を持ち居    りし為め川柳の悪(にく)まれ口に      出しや張つて芳が邪魔だと渡守    とあり、稍(や)や名人豊国を凌駕せるを知るべし 遺物としては浅草寺の一ッ家の額其の他数多あり、    門人芳年また近比(ちかごろ)の上手なり は組の消防足並の大額はその遺物の一として 西新井の大師    に残れり 而して三代目豊国の活遺物共云ふべきは今代(こんだい)国周なり    国周は浮世絵かきにて 今の世に比肩するものなけれど 之を先輩に比ぶればいかにや 只其気性の面    白きは殆んど無類にて 稍や国芳の風ありとも云ふ 曾て誇りて云ふやう 北斎は生涯の内に八十三度    住居を替へたりと云へど 予は七十五才の今日までに百二度移転したり、仮令(たとへ)絵は下手なりと    も移転の数は予のかた北斎に勝れり云々    又二十四五年前 同人が浅草広小路の夜店を素見(ひやか)したるは いかゞはしき露店に坊主の老人草    双紙多く広げて売り居たれば 国周立寄りて其内より田舎源氏十冊程撰り出し、何程なるかと値段を問    へば 商人(あきうど)一朱と二百文なりと答ふ、国周乃公(おれ)は日本一の国周なり 一朱に負けよ、    と怒鳴りけるに商人声高に 乃公も日本一の石井清次郎なり 懸直(かけね)は言はず、と言ひ返したり    けり、国周は面白き男よと懐(ふところ)かいさぐりて、然らば日本一の国周が胆玉(きもたま)を見よや、    と八反の紙入に十三両余入りたるを 其侭投げ与へて夫(か)の草双紙を持ち去りたり、此の石井清次郎    と云ふは 浅草東三筋町の者にて気骨ある男なりしが 其紙入れをば開けても見ず 固く封印して仕舞    置きしに 旧臘に至り大病にかゞりて死したるが 臨終の時 不図(ふと)紙入の事を思ひ出で、此侭埋    らすも本意なしと 人もて之を国周へ返却しければ 国周も其意に感じ 清次郎追善の為めに 今や大    画をものしつゝありと云ふ、但し二十余年後に返されし紙入の中の金は 皆太政官紙幣にて使用するを    得ざれど 清次郎の遺物(かたみ)なればと大切に保存する事となせりと云ふ、尚此他周延が長州征伐の    際逃げまどひて腰をぬかせし事、国政が水源調べの事抔あれど興薄ければ略す〟    ◯『読売新聞』(明治30年1月20日)   〝浮世絵歴史展覧会    上野公園日本美術協会列品館に於て 一昨十八日より来る二十六日まで開会する該展覧会は 育英会員    小林文七氏の発起計画に成り 同氏が多年捜羅蒐集せる浮世画数百点 即ち寛永より文政に至る二百三    十年間 又兵衛より広重に至る迄の間の画幅を 年月を逐ひ流派に沿ひ 成るべく歴史的に陳列して衆    庶の展覧に供するといふ 看過の際 浮世絵の沿革一派の興替(こうたい)並びに当時の風俗好尚等自    (おのづか)ら了然たるものあらん 今其陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品を列記すれば左    の如し    (第一番)又兵衛派筆 美人図 (第七番)菱川師宣筆 双美図 (第八十番)鈴木春信筆 軽重図    (第八十七番)湖龍文調春章合筆 あつさしらずの図 (第八十九番)勝川春章筆 柳蔭納涼の図    (第百七番)北尾重政筆 つみ草の図 (第百廿三番)歌川豊広筆 待美人の図    (第百五十四番)鳥山石燕筆 梅に鷹の図 (第百五十九番)喜多川歌麿筆 美人図    (第百六十一番)同筆 浮世絵師図 (第百七十四番)宗理筆 美人愛狗図    (第百八十番)葛飾北斎筆 花下美人図 (第百八十三番)筆 七夕図    (第百八十八番)筆 西王母図 (第百九十一番)筆 水禽図    (第二百一番)蹄斎北馬筆 今様小町・衣通姫・三の宮の三幅対〟    〈一幅100円~300余円の作品中、北斎が4点(宗理を北斎と見れば5点)。これに次ぐのは春章・歌麿の2点で、あとは1点     ずつ。北斎がやはり群を抜く。「番」は陳列番号〉  ◯『読売新聞』(明治30年1月21日)   〝浮世絵歴史展覧会(一) 巨浪生    本月十八日より同二十六日に至るまで 上野公園内の美術協会列品館に於て 美術育英会の催主となり    て開会せる浮世絵歴史展覧会は 小林文七氏が多年捜羅蒐集せる浮世絵中の優秀なるものを選抜し 時    代を以て云へば、寛永より文政に至る二百三十年間 人を以て云へば岩佐又兵衛より歌川広重に至る迄    の間の画図を 年月を逐ひ流派に沿ひて歴史的に陳列せる空前の一展覧会にして 余は又私(ひそか)に    其絶後ならざらんことを祈るものなり    輓近欧米人の我浮世絵を知るや 広く需め多く集め舶載して去る者日一日より多きに 邦人は澹然冷然    之を観ること雲煙の眼を過ぐるが如し 即ち往く/\将に迹を我国に絶ちて 美を彼に専らにするに至    らんか 海外客の大金を惜まず之を買収するは 独り好事の為のみにあらず 彼の商工業家並に美術家    は洵(まこと)に之を応用して 直ちに其意匠を学び或ひは其参考の材料とせるなり 例へば彼より輸入    する織物其他に日本模様多きは 一見して明白なる事実なり 去年一月の米国サン新聞は記して曰く     欧州及び米国の近代美術の上に 日本画家(浮世絵師を重(おも)に指す)が有せる緊要なる勢力は 恐    くは一般公衆の知らざる所ならんも 美術家は既に能く之を知れり 此勢力は啻(ただ)にホイツスラー    氏其他多くの仏国近代美術家の製作品に於て 其痕を認め得るのみならず 更に多くの近代書籍の挿絵    及び広告札に於て表はれぬと 然るに我が美術家商工業の或る者の近く得らるべき材料を顧みずして     遙かに彼の意匠其他を摸するに汲々たるは 豈(あ)に奇怪の一現象にあらずとせんや    私(ひそか)に思ふに 浮世絵は従来誤解せられたるに非ずやと 或者は論じて曰く 浮世絵は卑賤なり    浮世絵師は品格無し 高尚なる観念無し 其描く所は絃妓にあらずんば遊女 美少年にあらずんば遊冶    郎 紳士淑女の見るに堪へざるもの 而して画家の冀(こひねが)ふ所も亦児女子の玩賞を得るにありき    と 浮世絵の画題に以上の如きもの多きは 能く人の知る所なり 然れども浮世絵の画題は必ずしも是    等に限りたるに非ず 雄豪なる者清楚なるもの 必ずしも皆無なりとせんや 所謂紳士淑女の見るに堪    ふるものを以て 絵画を判ぜんとする者あらば 偶(たま/\)以て其人の昧者たるを表し 観る所少な    くして論ずる所多きは 偶以て其人の独断に富めるを表するに過ぎざるなり〟〈昧者は愚者〉    ◯『読売新聞』(明治30年1月23日)   〝浮世絵歴史展覧会(三) 巨浪生    欧人の所謂平民派と称する浮世絵の開祖を岩佐又兵衛とす 世には又兵衛の有無をさへ論ずる人あるほ    どなれば 其画の稀少なるは勿論なるべけれども 本会に於て之を見るを得ざるは最も遺憾とすべし    但し本会の売品場にて鬻(ひさ)げる写真中に又兵衛が二枚折屏風を見るを得たるこそ せめてもの心遣    りなれ 第一番より第六番まで又兵衛派筆の中 第一の美人図尤も又兵衛の筆意を伝へたりと云ふべき    か 最後の麗妹戯狗図見劣りのせらるゝは是非の無し 誠に又兵衛が土佐より出でて創意せし浮世絵は    其以後凡そ四十年間箕裘(きゝう)を継ぐに足る人無かりしなり〈「箕裘」とは業を継ぐこと〉    書籍に挿絵するの術は此頃に発明せられたるならんも 一度(たび)菱川師宣の縫箔業より起って身を斯    業(しげふ)に投ずるや 一枚刷の版絵を出し 時としては大津絵の如く 丹青の絵具を用ゐて 彩色を    施こすことありき 師宣の名は独り是にて高きのみならず 又肉筆の画家としても著(いちじる)しかり    き 英一蝶が四季絵の跋にも「わかゝりし時 あだしあだ浪の寄辺に迷ひ 時雨朝がへりのまばゆきを    厭はざる頃(ころほ)ひ 岩佐菱川が上たらんとおもひて」とあるにて 其大抵は推すに足れり 師宣は    初め又兵衛が筆意に傚ひしも 縫箔を業とせしが故か 衣服の模様には 殊に鋭き彩色を用ゐ 紅白の    色の先づ人目映ずる快色を出しぬ 版絵に於ては後景を充たすに別に意を用ゐざりしが如し    師宣に於て浮世絵は第二の名手を得 浮世絵の一派は他の日本画より画然分離し 弟子中新(あらた)に    一派を起す者をも生じたり 会場に陳列せる師宣の筆合せて四点 就中(なかんづく)双美図、楓林弾絃    図、殊に佳作と見受けられぬ 第十一採花の図は師宣が長男師房の筆なり 師継が小町図は師の草子洗    の図と 師秀が帳中小酌図は師が帳中宴楽図と意匠を同(おなじ)ふせり 独り師平の醒酔図と師政の痴    鐘鬼図の滑稽を交へたるは可笑し    第廿杉村正高の結髪図は近世女風俗考に載せたる宮川長春が伽羅止の図と意匠同じ 此彼に傚へるか     彼此に傚へるが 正高は師宣と同時代の人なれ共 其伝明ならず 石川流宣は師宣門人か 長幼各美の    図は佳作なり〟  ◯『読売新聞』(明治30年1月25日)   〝浮世絵師追考(一) 如来    目下美術育英会員小林文七氏が発起にかゝる我国浮世絵の歴史展覧会開期中なるを幸ひ、本会に関する    精細なる批評は之を巨浪生に譲り、予は之より近代浮世絵師の事蹟にして、未だ汎(ひろ)く世間に伝は    らざる者につき、聊(いさゝ)か見聞のまゝを左に述べんとす。      葛飾為斎(かつしかゐさい)    葛飾為斎の事は飯島虚心が葛飾北斎伝に少しく之を記せるのみ、其他は浮世絵類考増補をはじめ、関場    某が浮世絵編年史にも之を載せず。    為斎は北斎晩年の門人也、文政四年を以て江戸本所生れ、明治十三年を以て横浜に死す、享年六十、北    斎伝に曰く     為斎、清水氏、俗称宗次、酔桜軒と号す、向島に住し、又浅草蔵前に住せり、明治の初年錦絵を画く     云々    其浅草蔵前に在るや、赤貧洗ふが如く、自ら扇面短冊などに画きて、之を鬻(ひさ)ぎ、僅かに糊口を凌    ぎけり。されども其画気韻生動、能く師の骨髄を学び得て、運筆着色等亦少(いさ)さかも異ならず。若    し北斎の画と為斎の画きしものを対照せんには、其何れか師の手に成りて、何れか為斎の筆になりしや    を甄別(けんべつ)する能はざる程なり。実に為斎の北斎に於けるは、猶源漪の応挙に於けるが如く、其    筆は優に師の塁(るい)を摩(ま)せんとするの勢いなりき。    〈「甄別」は明確に見分けること。「累を摩す」は肩をならべるの意味〉    然るに横浜開港の当時、一商賈あり。偶(たまた)ま為斎をして得意の画を画かしめて、之を外人に鬻ぎ    しに大いに喝采を博せしかば、遂に為斎を傭聘して、専ら之に従はしめ、扇面に短冊に愈(いよ/\)海    外輸出の販路を開きたり。是れ実に我国浮世絵の海外に輸出されし嚆矢にして、序いで北斎漫画など続    々彼の地に渡りて、茲に益(ます/\)我が浮世絵に対する外人観賞の眼(まなこ)を高めしめたり。而し    て其画の北斎と似たりしがため、外人には全く北斎のと誤られし事もあるべく、その内国に拡まらずし    て、海外にのみ渡りしがため、世人には少かも賞せられずして空しく終りしと雖も、其の功は実に今に    没すべからざるものといふべし。其死せし時、彼の商賈は莫大の利潤を得て豪華の身となりしも、皆為    斎のためなりとて、葬式万端凡て厚く之を弔ひけり。板本に絵本花鳥細画式といへるあり。当時最も世    に行はる。煙草入の金物、根付、蒔絵印籠などの細画の参考には極めて適切のものたり〟      一英斎芳艶(いちえいさいほうえん)    芳艶は一勇斎国芳門人也。始め一栄斎と号し、後一英斎と改む。俗称満吉、本町二丁目駕籠屋の悴にし    て、草双紙、看板画は云ふに及ばず、中錦より大錦画を画き、殊に彩色に於ては最も妙を極む。弘化年    中一度、師匠国芳より構はれしも直に許されたり。嘉永の末年、二世豊国門人たりし貞重改名一雄斎国    輝と競争し、共に一枚摺墨仕立ての刺繍の下絵を画く。当時芳艶の兒雷也、国輝の狐忠信とて世間に喧    伝せしが、今は両工共に去りて、忠信、兒雷也の像の空しく老人の背後にかすかに残れるを見るのみ。    慶応二年五月九日の事なり、当時の町奉行池田播磨守より異国へ絵師十人をして各一枚宛(づゝ)画かし    む。其選に当りしは     芳艶・芳年・芳幾(現存)・芳員・芳虎・貞秀・国貞・国周(現存)・国輝(◯◯国輝)・立祥(二世広重)    の十名にて、当時現存する者は僅かに芳幾、国周の両工のみ、而して当時此の十美人画中、好評なりし    は芳艶芳年の両名にて、特に芳艶は最も出群なりしと〟    〈弘化年中「師匠国芳より構はれしも直に許されたり」とある。何が原因かわからないが、一度は破門あるいは出入り禁     止になっていたようだ。「共に刺繍の下絵を画く」、これは「空しく老人の背後にかすかに残れる」とあるから彫り物     (刺青)の下絵(図案)をいうのだろう。「町奉行池田播磨守より異国へ(云々)」とは、1867年のパリ万博に出品するため     に幕府が浮世絵師を召集したことをいう。芳艶の作品が出色だったとあるから相当の腕前であったに相違ない〉  ◯『読売新聞』(明治30年1月26日)   〝浮世絵歴史展覧会の日延と外人の評    上野に開会中なる浮世絵歴史展覧会は今廿六日を以て閉会の予定なりしが 意外の好評にして絵画彫刻    職工の最も模範となるべ(ママ)のものなれば 此等の者をして充分縦覧せしむる目的を以て 来(きたる)    二月十日迄延期開会する事に決せり 又頃日同会を参観せし欧米美術家が 陳列絵画錦絵等に就て 夫    々批評せるを聞くに其大意は左の如し    <仏人ヂユンー氏>     岩佐又兵衛の画は世に稀なるを以て暫く措いて評せず 菱川師宣の筆は柔にして験簡 其人物は態容     優饒 能く心意の寛裕を現はし 人をして当時盛満の風を慕はしむ    <仏人アビラン氏>     鈴木春信の絵は専ら当世の風俗を写し活動を描いて俗ならず 粉彩を施して鄙(いやし)からず 皮相     は淡(たん)なるが如くにして精神は濃(じやう)なり 実に気韻清秀 人をして塵外に在るの想(おも     ひ)あらしむ    <英人アーネスト・ハールト氏>     葛飾北斎の画く処は神社仏閣宮殿楼台より山水花卉に至る迄 悉(ことごと)く真に迫り 又狂画を善     くせり 其想像の豊富なる 日常の光景は言ふに及ばず 宇宙の実景を画くにも 常に同情真実精密     の三者を具備せる事 他人の及ばざる処なり 北斎の絵画世界の天才として尊敬せらるゝも又宜(む     べ)ならずや〟    ◯『読売新聞』(明治30年1月27日)   〝浮世絵歴史展覧会欧米人の批評    目下上野に開会せし同会陳列の浮世絵に付 二三欧米美術家の批評は前号に其大要を報ぜしが 尚其後    米仏四家の批評せし処の反訳(ほんやく)を得たれば 之を左に捧ぐ    <仏人ゴンス氏>     骨法の建なる意気の迫れる点線 挙げて神に入れるもの 勝川春章に若(し)くはなし 嘗て一筆斎文     調に倣ひ共に舞台扇を写す 文調をして愕然たらしめ 又北尾重政と美人合を作るや 重政をして暗     に己(おのれ)が運筆の硬きを覚らしめきと云ふ 春章なかりせば浮世絵は風采に乏しきものたるの誹     りを免れざりしならん 春章は真に浮世絵界の一英傑なり    <仏人ゴンクール氏>     凡そ人物の画にして老幼其齢に適し 剛柔其性に合ふもの極めて稀なり 而して温柔の態を写すに至     りては 古来画家の最も難しとする処 其之(これ)を能くするもの独りワツトーあるのみ 予(よ)喜     多川歌麿の画を観るに 其所謂(いはゆる)難しとする所を能くせり 即ち婦女の動作を写すに自在な     るが如き是なり 歌麿が描く所は毎(つね)に同一の婦人と雖も 之が動作を現はすに至りては 百画     百態活動の趣きを異にし 温和の性従順の風画図に溢(あふ)るゝの感あり 予一たび歌麿の画を嗜み     しより 他の美人画を観る毎(ごと)に 恰も針にて止めたる蝴蝶を観るの感なき能(あた)はず    <米人フレデリツク、ダブリユー、グーギン氏>     版絵には驚嘆すべき意匠の優秀なるものあると同時に 着色の極めて美麗なるものあり 鳥居清満      第三の着色木版を用ひ創(はじ)めてより 諸名家相競(きそふ)て斯術(しじゆつ)の考案工夫を凝らし     其駿々たる技巧の進歩は遂に後年の隆盛を来し 意匠の優雅着色の豊富は 亦木版術の完美なるは      鳥居清長及び同時代の名家に至て其極に達せり 漸く年を経るに従ひ 是等名家を刺激せし創作力消     磨し去って 徒(いたづらに)に末技の繊巧を衒ふ弊風を生じたるも 北斎広重の天才に依りて暫時復     興の盛況を呈しぬ    <仏人ヒユルチー氏>     葛飾北斎の画は癖最も甚し 然れども一旦其妙趣を会得するに至りては観る事 愈々(いよ/\)久し     うして愈々感嘆に堪へざるものあり 予(よ)徧(あまね)く古来の画を見るに 意匠富達にして運筆自     在なるはリユーバンスの右に出づるものなく 而して森羅万象を筆頭に懸(か)け 縦横画界に馳聘す     る者は独り北斎あるのみ〟        ◯『読売新聞』(明治30年1月27日)   〝浮世絵師追考(二)如来    一猛斎芳虎    江戸の人、俗称辰五郎、錦朝楼と号す、中橋松川待ちに住し、国芳居付の門人にして、一世芳宗につい    での名手たり、能く師の風を帯びて武者絵最も多く、又合巻に俳優の似顔などあり、行筆雄勁佳麗 其    当時に称せられしも、国芳没後十三回忌に当たり、故あり同門に却けられて後は只孟斎と号して出板の    錦絵多し    一鵬斎芳藤    西村氏、俗称藤(とう)太郎、同じく国芳門人にして、弘化年中の人なり、武者絵、切組絵多く、特に手    遊屋の姉さま人形の衣装の如き、色彩の配合、模様の塩梅など極めて精巧緻密にして、最も其妙を極め    たり。故に一時世に伝称して手遊芳藤といふ    一旭斎芳秀    はじめ国芳門人なりしが、後菊地容斎の門に入りて小磯雪窓と号す、極めて古物癖ありし人にて、珍重    の源平時代の腹巻を藏せり、容斎が浅草御うまやの喜三太の額を画きし時は、実に此の腹巻を借りて写    生したりし也    一桂斎芳延    松本氏、俗称次郎、国芳晩年の門人也、陶器画を能くし、錦絵風を以て武者、浮世人物等を陶器い画き    しは、近年此の芳延を以て嚆矢と為す    玉蘭斎貞秀    橋本氏、俗称釜次郎、深川安宅町に死し、五雲亭と号す。歌川国貞門人中最も硬骨の人にして、また最    も出藍の名手たり、著はす所の書多く、中本の挿絵亦尠くなしと為(な)さず、其師国貞の二世豊国(実    は三世なり、二世は俗称源藏、一世豊国の後家に入夫し、本郷春木町に住す、二代目豊国の名にて太平    五節句の画三枚続十五番あり)と改めしや、門人亦みな之に傚ふて改名するものありしが、貞秀独り其    師改名の不倫なるを憤り、依然貞秀と号して終はりしといふ     按ずるに国貞国芳と共に時を同じふして雁行し、国芳は軍陣名称勇士奮闘の状を画き、国貞 は閨房美     人仕女婉淑の像を写し、名を斉(ひとし)ふして世に称せられしが、国貞の二世豊国と改めしや、国芳     は之をいやしみて、再び之と交はらす、是時より更らに歌川を名のらずして単に一勇斎国芳と号して、     盛んに其筆を揮へり、其頃国貞豊国の世評宜(よろ)しからざりしは、彼の「歌川をうたがはしくも名     のりえて、二世の豊国にせ(偽)の豊国」といふ狂句にても知らるべく、尚誰人の口ずさみにか      心なく葭に竿さすわたし守     とあり、葭とは国芳、わたし守とは豊国の事をいひしなるべし。其後一立斎広重の仲裁にて両人和睦     し、 其の記念にとて画きしは 広重国芳豊国三名合筆の 彼の有名なる東海道五十三次の画なり。     渡辺崋山は一度国芳の門に入りて学ぶ所あり、三遊亭円朝亦幼少の時 国芳に就いて浮世絵を稽古せ     しといふ事を耳にせり、如何〟    ◯『読売新聞』(明治30年2月15日)   〝浮世絵師追考(三)如来     岩佐又兵衛    (又兵衛の事蹟をめぐって、近松門左衛門の浄瑠璃『傾城反魂香』の吃の叉平や大津又平などを、岩佐     又兵衛とする諸説を紹介する。その上で、記者如来は「未だ其の確乎なるものあらず」とこれらを疑     問視する)    偶(たまた)ま米僊画伯(注1)を其居に訪ふ、談又兵衛の事に及ぶや、画伯は曾(かつ)て北越漫遊中 越    前松平家旧臣某の所蔵に係る岩佐又兵衛の伝及び其自画の肖像といふを 謄写し置かれしものを出し示    され、且つ曰く、此の伝と雖も未だ確認すべからざるものと雖も、然れども其家紋の丸に二ッ引(注2)    なるは 大いに注意すべき処なるべし云々、今之を左に録して、敢へて世間博雅の君子に問ふ。      岩佐又兵衛勝以(初代)    岩佐又兵衛は、荒木摂津守村重の末子なり、村重、織田信長に仕へて軍功あり、摂津太守と為(な)り伊    丹城に居る、後、信長の命に叛きしかば、信長父子攻城数年、村重敗れて去り、尼崎に奔(はし)つて自    殺す、此時又兵衛僅かに二歳(天正七年)乳母之を懐いて、京師本願寺中に潜居し、姓を岩佐と改む、    蓋し外戚の姓に由る也、長ずるに及んで信雄に仕ふ、性頗る丹青に耽(ふけ)り、余力あれば則ち学んで    筆を釈(お)かず、遂に妙手と為る、新たに前人未だ図せざる体を摸写し、好んて世態風流の状を画き、    別に一家を為す、世に之を称して浮世又兵衛といふ、信雄亡びし後、漂泊して越前福井に寓居せしが、    その名弥(いよい)よ籍甚、家光公の台聴に達し、召されて武城に到る(当時の木原木工允の書翰今に伝    はる)適(たまた)ま千代姫君の尾州光友公(家康孫)へ釐降(りこう)するの時に際し、又兵衛をして其    装具を画かしむ、発するに向つて福井の忠昌公(秀康二男、実に越前松平家の三世也)深く之を惜み、    家を挈(たづさ)へて去るを許さず、独り武城に淹留する年あり、又兵衛老て茲(ここ)に病みしが、自ら    其像を図し遠く寄せて 之を故郷の妻子に与ふ、慶安三庚寅の年六月廿三日 遂に武城に卒す 云々     岩佐源兵衛勝重(二代)    勝重は又兵衛の嫡子也、父の業を継いで家声を堕さず、光通公(忠昌公嫡子、越前松平家四世也)月俸    を賜ふ、寛文中福井城鶴之間及び杉戸を画く、延宝元年癸丑二月二十日卒す〟    (注1)久保田米僊 (注2)丸に二ッ引は岩佐氏の家紋  ◯『読売新聞』(明治30年2月15日)   〝暁斎翁遺墨の衝立    本郷湯島の天神社拝殿に置きある龍虎の図の衝立は 故猩々河鍋暁斎翁の筆にして 筆力勇健雲起り風    生ずるの勢ひあり 美術家の同社に参詣するもの 常に之れに注目し 中には数百金をかげて懇望する    ものもありとかや 然るに此衝立の裏面は年来白紙の侭にして 甚だ体裁悪しかりしかば 氏子中種々    評議の上 裏の絵を 暁斎氏の遺児暁雲氏と暁翠女史とに嘱し 暁雲氏は巌上に鷲の図を 暁翠女史は    瀑布の図を 夫々揮毫し 此程既に落成したりといふ 尚ほ暁雲氏の鷲は 氏が信州戸隠山中にて得し    実物を写生せしものなりとぞ 兎に角一双の衝立に父子兄妹揃つて毫を揮ひしこと 不思議の縁にこそ〟  ◯『読売新聞』(明治30年11月7日)   〝能楽錦絵 能楽善知鳥(うとう)・靱猿・養老の錦絵は 今度両国吉川町大黒屋松木平吉方にて印刷発売    せり〟〈「能楽図会」月岡耕漁画〉  ◯『読売新聞』(明治30年11月29日)   〝故大蘇芳年翁の碑石建設    近世浮世絵師の泰斗と称せらるゝ故大蘇芳年翁の門人相図り 翁の碑石を都下に建設せんとし 事務所    を日本橋区室町三丁目九番地私山方に設けて専ら計画中の由なるが 此程左の報告書を翁と縁故ある向    へ発したりとぞ      大蘇芳年翁石碑建設報告     明三十一年は先師大蘇芳年翁七回忌に相当す 現今在京の社中一同協議の上 来春三月を卜し墨堤百     花園に一基の石碑を建て 先師の名を千載不朽に垂れ 聊か多年薫陶の恩に酬いんとす 今や◎◎の     事務着々歩を進めたりと雖も 先師逝きてより茲に六年星霜を閲する事尠少ならざれば 其間同門の     諸子或いは故山に帰り 或いは異邦に漫遊し音信永く絶えて其所在の明瞭ならざる者無きに非ず 是     等諸子に対し 一々建碑の挙ある事を報知するの術なきは最も遺憾とする所なり 又先師の知己朋友     にして社中の者とは未だ一面の識を得ざるはあり 是亦通知の道を得ず 後に至つて此挙を知り◎金     応募に◎れたるを歎するが如き事あらば主導者の不本意 実に◎より大いなるは莫し 故に◎◎を草     して印刷に附し 其意の在る所を報告する事斯の如し 冀くは大方の君子 此挙を賛◎給はんには      前述の意を採つて 其至らざるを恕し 筆紙の労を吝まずして 速やかに一報あらん事を望む                             故大蘇芳年社中敬白〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『読売新聞』(明治31年1月10日)   〝歌川派の話    江戸名物と知られたる歌川派の絵も追々衰微して 伎倆の稍や見るべきは国周一人のみ、若手にては国    周の門人周延少し売り出したれど 苦労人目には余り面白からぬよし、されば嵩谷に胚胎して歌麿に成    功したる錦画もこゝに至りて 殆んど滅期に近づきし様思はる、今は昔に遡りて妙手を古人にもとむれ    ば 其数殆んど枚挙に遑あらざれど 遺墨の今に保存せられたるものはいと稀なり、歌麿、豊春抔多く    名高きは扨置き 初代豊国以下の大作を挙ぐる時は概ね左の如し    初代豊国    軸にはさま/\あるべけれど 扁額として大なるは鎌倉八幡の尤物なり 図は野見の宿祢と当麻の蹴速    との相撲にて 天晴れ浮世絵の法則に通ひたるものゝ由なれど 惜しい哉 彩色脱落して総体太(いた)    く損じたり    二(ママ)代目豊国〈現在では三代目(初代国貞)とする〉    田舎源氏のさし絵は苦心して 名人豊国の名を得たれど 伎倆は初代に及ばず、其遺物として源氏五十    四帖の念入りもの 亀戸天神の拝殿に掲げられたれど いかにしけん近頃は見えず 今一ッの遺物なり    と伝ふるもの会津の某農家に在り 絹地四尺巾の大幅なり、絵は「酸吸(すゝひ)三笑」を美人に見立て    しものにて 娘、芸妓、遊女の姿美しく 孰れを釈迦 孰れを羅漢とも分き難し、太田南畝の題歌に      酸いといひ甘いと云ふも苦々し 只なまぐさきものとこそ知れ    とありて、豊国自身にも後世に至りて 書画孰れか贋物といはるゝの難あるべし と言ひ遺し置りとか    三代目豊国    之れは柳島豊国にて伎倆は二代目豊国の次なり、されど画論に長(た)けし人と見え 門下に連りしもの    皆其風あり、松平讃岐侯深く之を愛し玉ひし由にて 今も其遺墨は頼聡伯の邸に存す、其絵は二枚折の    屏風に後向の遊女と芸妓とをかきたるものにて 衣服の模様に地獄極楽をものしたるが見所なり、浮世    絵の肉筆にて之れ程念入りしものはなしといふ    又同派中の尤物歌川国芳は二代目豊国と時代を同うし 伎倆其上に在りしかど 一時人気を得ずして佐    渡の金堀りとなり 再び出府するに及んで俄に雷名を挙ぐ 当時豊国は本所五ッ目の渡船場株を持ち居    りし為め川柳の悪(にく)まれ口に      出しや張つて芳が邪魔だと渡守    とあり、稍(や)や名人豊国を凌駕せるを知るべし 遺物としては浅草寺の一ッ家の額其の他数多あり、    門人芳年また近比(ちかごろ)の上手なり は組の消防足並の大額はその遺物の一として 西新井の大師    に残れり 而して三代目豊国の活遺物共云ふべきは今代(こんだい)国周なり    国周は浮世絵かきにて 今の世に比肩するものなけれど 之を先輩に比ぶればいかにや 只其気性の面    白きは殆んど無類にて 稍や国芳の風ありとも云ふ 曾て誇りて云ふやう 北斎は生涯の内に八十三度    住居を替へたりと云へど 予は七十五才の今日までに百二度移転したり、仮令(たとへ)絵は下手なりと    も移転の数は予のかた北斎に勝れり云々    又二十四五年前 同人が浅草広小路の夜店を素見(ひやか)したるは いかゞはしき露店に坊主の老人草    双紙多く広げて売り居たれば 国周立寄りて其内より田舎源氏十冊程撰り出し、何程なるかと値段を問    へば 商人(あきうど)一朱と二百文なりと答ふ、国周乃公(おれ)は日本一の国周なり 一朱に負けよ、    と怒鳴りけるに商人声高に 乃公も日本一の石井清次郎なり 懸直(かけね)は言はず、と言ひ返したり    けり、国周は面白き男よと懐(ふところ)かいさぐりて、然らば日本一の国周が胆玉(きもたま)を見よや、    と八反の紙入に十三両余入りたるを 其侭投げ与へて夫(か)の草双紙を持ち去りたり、此の石井清次郎    と云ふは 浅草東三筋町の者にて気骨ある男なりしが 其紙入れをば開けても見ず 固く封印して仕舞    置きしに 旧臘に至り大病にかゞりて死したるが 臨終の時 不図(ふと)紙入の事を思ひ出で、此侭埋    らすも本意なしと 人もて之を国周へ返却しければ 国周も其意に感じ 清次郎追善の為めに 今や大    画をものしつゝありと云ふ、但し二十余年後に返されし紙入の中の金は 皆太政官紙幣にて使用するを    得ざれど 清次郎の遺物(かたみ)なればと大切に保存する事となせりと云ふ、尚此他周延が長州征伐の    際逃げまどひて腰をぬかせし事、国政が水源調べの事抔あれど興薄ければ略す〟  ◯『読売新聞』(明治31年3月3日)   〝浮世絵師芳年翁の碑    浮世絵の泰斗故大蘇芳年翁の碑を向島花屋敷に建つる計画あり 同門下出身の画家及び賛成の人々 奔    走中なりしが 愈々岡倉東京美術学校長の尽力にて 二條侯爵碑文を草し 小杉榲邨氏これを揮勒毫し     碑面の彫刻に着手せし由にて 来る四月廿五日には其落成式を挙行するよし 其碑文は左の如し       月岡芳年翁之碑     絵画は写生を以て本旨とすれど 写意ならざるべからず 其意を得ざるときは 精神乏く見るに足ら     ざるなり 漆絵の写意ははやく巨勢家二三氏間に新機軸を出して 当時に賞せられき 近き頃も称誉     せられ 諸流の達者少しとせざるが中に 芳年ぬしは天保十年 江戸新橋丸屋町に生れ 通称を米次     郎とよび 父を吉岡兵部といふ 後に故ありて ぬし月岡氏を襲ぐ 甫めて十一歳 一勇斎国芳の門     に入り十八歳 始て錦絵の筆を振ふ 斯道の先輩その筆の凡ならざるを称せりと 明治初年の頃 感     ずる所有て暫くその版本を謝絶す この間困苦ほど/\いふべからざるに至る 其心敢て関せず た     ゞ古を師として むかしの名匠の筆意及び写生法を専らに鑑みて怠らず 如此するもの両三年漸くに     して かの井伊閣老遭難の図を作て出版す こゝに於て画風一変 大に世人の眼を驚かし ほしいま     ゝに其名を博す さればぬしの揮毫を得むと欲するもの多く 各新聞数紙挿画の如き ぬしの筆を加     ふるものを以て 栄としたりき これいはゆる写意を得たるものといはむか ぬし居常門生に謂へら     く 余や猶壮なり 古名家の遺績を見るごとに 余が未熟を責む 今十数年を経過せば 世にのこす     べきものあらむと なほ坐右其粉本を供し 寐ても枕辺にこれを具しておこたらず 実に斯道に精神     を尽す そもそも力めたりといふべし     惜しい哉 天 ぬしに年を仮さず 明治二十五年六月九日 不帰の客となる 時に年五十四     ぬし別号おほし 始め玉桜といひ 又一魁斎 後年重病に罹りて 其命旦夕に迫りしも 幸に全癒す     故に改めて大蘇といふ 最晩年にいたり咀華亭また子英とも号せり 世間に行はるゝ 出版物枚挙に     遑あらざれど 其著きものは百撰想・日本名将鑑・日本歴史図会・新撰東錦絵・芳年漫画・芳年略画     ・芳年無者無類・三十二相・三十六怪撰・月百姿などの類なりといふ     ことしぬしのために在世の概略をかゝげ 石に勒して後代にしめさむとすることかくの如し       明治三十年十二月  正三位公爵二條基弘題字 印〟  ◯『読売新聞』(明治31年4月16日)   〝浮世絵展覧会の開場    蓬枢閣の小林文七氏の催しに係る同会は 昨日より上野新坂下伊香保温泉に於て開場せしが、陳列室は    一号より六号迄に区別し 古来名匠の手に成れる真蹟及び刻本二百五十余種を陳列し 米人フェノロサ    氏に請ひ 其品評を翻訳し大いに尽力する所あり 殊に浮世絵の開祖とする岩佐又兵衛が慶長、元和、    万治頃専ら揮毫せるものを始めとし 続いて菱川師宣、古山師重、菱川師房、師継、英一蝶、宮川長春、    猿(ママ)月堂、常行、常正、春水、清春鳥居信(ママ)、清倍、清重、清忠、清長、歌麿、政信、北斎を初め    安政二年の広重に至る迄 年代を追って出陳せるが 何れも優美艶麗の美人画多く 目先変りて頗る見    栄あり 就中優等の品を掲ぐれば左の如し     又兵衛派筆  美人図   常正筆   男女遊戯図・酒宴図  鳥居清信板物 貴紳騎馬図     鳥居清信板物 浴後美人図 古山師政筆 遊宴図        西村重長筆  唐人行列図     湖龍斎板物  雪中美人図 歌川豊信筆 美少年望梅図     窪俊満板物  双美図     歌川豊広筆  女万歳図  石燕・歌麿・春町合筆 鍾馗美人図     奥村政信筆    美人愛猫の図・同筆板物 張果郎図・同筆 演傀儡戯図     北斎筆(宗理時代) 士女賞花図・同筆 美人漁樵図     広重板物     永代雪景図・同筆 日本堤図等〟  ◯『読売新聞』(明治31年4月22日)   〝浮世絵展覧会優逸品    上野新坂の伊香保温泉に於て開会中の同展覧会出品中百円以上の優等品に付 フェノロサ氏の概評を掲    げんに 北斎筆(宗理時代)「士女賞花図」一幅(価五百円)は享和三年頃の作 署名なしと雖も 此    優麗なる画は最も好く北斎が過渡期を代表し 余は未だ之に比して更に優麗なるものを知らず、同筆    (画狂人)「美人漁樵図」(価三百円 文化二年頃)本図の着色容貌は通例北斎として知らるゝものに    類すれども 此は唯北斎が文化風の発端にして 当菱川宗理の筆影を有するは岩石に依りて証すべく、    同筆書継二枚「屏風」(価三百円 文化四年頃)此等は北斎が大画工なるを証し 宗理風は尚類するも    漸く純粋なる北斎風に変じたり 梅樹に於ける鳥の重厚桜花を挿める鉢の繊麗云ふ計りなし 鳥井(ママ)    清長筆「花下美人図」(価二百五十円 寛政元年頃)、此の図筆は他の画家と異なりて豊饒、波状の筆    勢を有し 困難なる彩彩料即ち朱の用法は本図に於て実に驚くべきものあり、窪俊満筆「老翁賞雪・擣    衣・美人捧島台」三幅対(価三百年 寛政七年)、勝川春英筆「美人立桟橋図」(価百七十五円 寛政    七年)、歌川豊信筆「美少年、美人望海図」(価百七十五円 安永四年頃)、春潮筆板物「秋日郊行図」    三枚続き(価百八十円)、石燕・歌麿・春町合筆「鍾馗美人図」(価二百年 寛政五年頃)、猿(ママ)月    堂板物「美人図」(価二百円 正徳四年頃)、菱川師宣板物「草摺引」(価二百円 延宝年代)、此外    板物、肉筆にて一品百円以上百五十円迄のもの四五十点、百円以下十円迄の品は実に数百点あり〟    ◯『読売新聞』(明治31年8月8日)   ◇俗文学者と浮世絵画家    浮世絵と俗文学とは、一つの地に生(の)び立たる紅白の花なり。さるほどに、俗文学者にして浮世絵の    心得ありしものありしとゝもに、浮世絵画家にして俗文学の嗜みありしもの多かり、試みにこれを挙ぐ    れば左のごとし      近藤清春(金平本の作者兼画家)      歌川国信(作名 志満山人)      池田英泉(同  一筆斎可候)      八島定岡(同  岳亭春信)      葛飾北斎(同  時太郎可候)      重田秋艃(同  十返舎一九)      北尾政演(同  山東京伝)    そのほか、恋川春町、富川吟雪、感和亭鬼武、墨川亭雪麿紫色主暁鐘成、速水春曙暁斎などあり。    これらの人々は、いづれにも、おなじ名を用ゐたり〟    〈一九の画名、重田姓はよいとして「秋艃」は不審。文化10年刊『狂歌関東百題集』の挿絵に「十返舎一九画」と「蜂房秋     艃画」の署名があり、一九と秋艃は別人である。また、紫色主(塩屋艶二・陀々羅大尽)は寛政末から享和にかけての     黄表紙や洒落本に戯作者名として見かけるものの、画名としては未確認〉   ◇日本画会と浮世絵    ことし、忍が岡の青葉隠れに咲きそめし、日本画会の花のいろ/\、あるがなかにもわきてめでたきは、    浮世絵の製作にこそありけれ。年方、永洗、華村、芳宗等諸氏の製作は、小説もしくは新聞の挿絵にて    こそ見たりしが、かゝる公会の場にて(しかも、版刻に附せぬ肉筆のを)見るを得たりしは、この会を    もてはじめとす。こは、同会の発起者に、浮世絵画家のまじれるにもよるならめど、これまでになかり    し各展覧会の欠を補ひて、浮世絵といふものを世に紹介したるは、この会の巧(てがら)なりといふとも、    恐らくはわが言葉を過ぎたりといふものあらざらむ〟  ◯『読売新聞』(明治31年10月22日)   〝能楽の錦絵 日本橋吉川町松木平吉方より発売せる耕漁の筆 能楽錦絵の内 草子洗小町・阿漕・姥捨    の三板を出せり 例に依つて美し〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『読売新聞』(明治32年1月23日)   〝浮世絵師の遺物    芳年の没後 浮世絵の声価 地に堕ちて 他流諸派の後(しりへ)に瞠若(だうぢやく)たるものあり 国    周豊斎の気焰を以てするも 終に及ぶ能(あた)はず、此頃斯流の大久保彦左衛門と云はるゝ山村国利    嘆息して人に語りて曰く    浮世絵師は自家の歴史をだに知らざる程となりたれば 最早末路中の末路に陥りたり、先頃も或る浮世    絵師が永代国歳と此山村国利とを間違へ 菊川(きくせん)を菊川(きくがわ)と云ふ苗字の如くに誤    り言ひたる事あり、故人の為めに気の毒千万と言はざるを得ず、而して従来の浮世絵師が遺物は 今如    何なるものゝ見るに足るべきやと言はゞ 殆んど言ふに忍びざるものあり 今記憶に随つて其五六を掲    ぐれば    国歳 は達磨凧の絵を遺せり、此人絵は上手なれども名聞を好まず 本所表町に住ゐて麻屋善兵衛方へ       出入り 生涯達磨凧をかきて暮したれば 今も麻善の達磨とて 看板ものとなれり、又国歳の住       ゐし所に 達磨横町の名ある程なれど 後深川佐賀町に移りて自ら永代国歳と名乗る    国次 は銀座一丁目に居り 凧の武者絵をかき創(はじ)め    国広 は扇凧を工風し又菅(すが)凧を拵えて上野広小路の売物となす 今の風船球の如くなりしも 近       頃は余り行はれず    国郷 は百眼(まなこ)より思付きて目鬘(めかつら)を拵へ よし藤之を完成して今日に至る    国虎 之は今の国虎に非ず 二代豊国の代筆したる上手なるが 此男は五月の鯉を工風す、今のとは柄       少し異(かは)りたれ共 先づ紙製の鯉の創造者と云べし    国里 は板返しの案出者〟  ◯『読売新聞』(明治32年8月6日)   〝能楽図絵 例の耕漁子の筆にて江口・氷室・盛久・碇潜・第六天、狂言に苞山伏の六番を出す 例の奉    書摺の錦絵にて両国大平の版なり〟  ◯『読売新聞』(明治32年11月23日)   〝新富座冬興行の錦絵 翫太郎の伊左衛門、喜知六の夕霧・同由良之助、団八の判官及び升六、梅助の梅    王桜丸三枚の似顔画を芳幾子の筆にて 日本橋長谷川町の福田初次郎方より売出せり〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『読売新聞』(明治33年2月26日)   〝北斎雑記  傅彩子    北斎画展覧会 上野に開かる。竊(ひそか)に思へらく、わが博識にして万能なる文学界の諸氏は、この    浮世絵界の天才に関して、必ず何等か語る所あるべしと。余は、この希望を抱いて諸氏の卓見を聴かん    とを期せり。しかれども、この希望は、遂に画餅に期せり。展覧会終るといへども、新聞雑誌のこれに    関する研究を載録するもの稀に、たゞ『太陽』の時文記者が、その土井晩翠に与ふる書中、少しくこれ    を言ひ及ぼせるあるのみ、文壇に題目を与ふと称せらるゝこの人も、遂にこれを採択することなくして    已みたり。あゝ、北斎は果してかくの如く文家諸氏の研究を値(あたひ)せざるものなるか。否々、北斎    は、これに関して言を立て得るほど、美術史の智識に於て豊富ならざる也。      富豪者の恥辱    余は、まづ小林文七がその展覧会を開きたるを賞す。文七がこれを開くの目的、もとより利を射るにあ    り、且つ、その陳列品中、間々偽物を混ずるありといへども、これを公展して衆人の縦覧を許したるは    遂に称せざるべからず。『日本美術』の記者いふ     我輩も入場して見たが 中々立派なものが有つて 自分の北斎に対する知識が広うなつた様に覚え     た。誠に結構な思ひ付の善い展覧会である     我輩は世の富豪家に向つて色々注文したいことがあるが、先づ第一に美術館を建てゝ貰ひたいので     ある     何も独りで楽しんで居るには及ぶまいよ、我々は貧乏人であるから 名画を集める事などは夢にも     出来ないから 僅かに博物館などで研究することしか出来ないで 誠に情けない有様である     富豪家が四五人も同盟して大美術館を設立し 自分達所持の分は勿論の事、其他日本に散乱して居     る 古美術を輯めたならば、何程立派な完全な美術館が出来るであろうか    これ余と感を同じうするもの。世の富豪者、何ぞ奮つてその秘物を公示し、以て益を美術学徒に与へ    ざる。新平民あがりの文七をして名をなさむ、これ豈卿等の恥辱にあらずや。      北斎伝の精確なるもの    北斎伝の最も精確なるは、飯島虚心氏の著『葛飾北斎伝』なり。これ外人某の氏に嘱して編述せしめた    るもの。当時北斎熱の欧州に旺盛なる、某資を惜まず、氏に許すに一葉一円の原稿料と莫大の旅費とを    以てし、氏をしてこの未曾有の好著を出すを得せしめたるなり。あゝ、我刻の文学界は、異邦人の資を    仰ぐにあらずんば、以て好著を出す能はざるか。本邦の素封家たるもの、某に対して◎色なきを得るか、    如何。      欧人は悉く賞賛者にあらず    欧人を以て悉く北斎の賞賛者となすは過(あやま)てり。北斎が郷人に侮蔑せられて異邦人に喧伝せられ    たるは事実なり。然れども、喧伝するもの、必しも賞賛するものにあらず。欧人中、リード、ゴンスの    如きは、口を極めて賞揚すといへども、アンデルソン、アルコツク、デユシツト等は、むしろデザイナ    ルとして称するに過ぎず。況んや、今日北斎の声価ほゞ定り、復た曩日の言を再びするものなきに於て    をや    展覧会の陳列中、最も多きは北斎時代の作也、これに次ぐは宗理時代の作也、而して春朗時代の作に至    つては、殆どあることなし。それ北斎時代の作は『富嶽百景』『北斎漫画』等の刻本によりて知るを得    (う)、しかれども春朗時代の作は、親しく其襯画に接せざれば知ること能はず、世の見んと欲するは、    北斎時代の作にあらずして、むしろ春朗時代の作にあり。文七すでに宗理時代を陳ねて春朗時代に及ば    ず。これこれを有せざるに由るか、抑もまた他に故あるか〟  ◯『読売新聞』(明治33年3月3日)   〝置錦絵雛人形 浅草猿屋町十二番地 長島巳之助方より発売する置錦絵人形は 紙製の内裏雛にて 頗    る軽便なるものなるが 時節柄売行よしと〟  ◯『読売新聞』(明治33年9月27日)   〝大江戸芝居年中行事の錦絵 南伝馬町の長谷川絵双紙店より 先年より引続き題号の如き錦絵刊行し来    りしが 今廿五番揃ひたる折 恰(あたか)も今度の明治座興行の寿(ことぶき)狂言に演ずる古例なども    あるよりして 今回更に再板して発売したり〟    『大江戸しばゐねんぢうぎやうじ』二十五番 鳥居清貞・吟光画 長谷川寿美出版 明治30年1-9月刊  ◯『読売新聞』(明治33年10月7日)   〝暁斎伝に就て    局外閑人は猩々暁斎の伝記を調べて 既に十数巻の稿を脱し居る由なるが 之に就てさる老画家の語る    ところを聞くに、暁斎と云ふ男は独り画が奇抜なばかりでなく 気性も亦奇抜であつた。或年の春 雨    降(あめふり)上句(あげく)で道の太く泥濘(ぬか)つた時 暁斎ぼんやり日本橋の仲通りを歩いて居ると    向ふから榛原(はいばら)の今の隠居(中村直次郎)が忙しさうにやつて来た。暁斎何と思つたか、これは    /\と泥濘(ぬかるみ)の真中へぴたりと坐つて両手を突いて挨拶したから、隠居は驚くまいことか ま    ご/\して居る内、暁斎は軈(やが)て起きあがつて其泥だらけの手を すぐ前の古着店に吊してある立    派な小袖で拭いたから堪らない、番頭は怒って 此狂人(きちがひ)爺(おやぢ)めと 突然(いきなり)飛    下りて頭をポカ/\擲(なぐ)つたので、隠居も見るに見かね十何円と云ふ金を出して 其小袖を買ひ取    る事にすると、暁斎奴(め)莞爾(にこ/\)しながら、之は有難い膏薬代は負けてやるぞと 後を向いて    舌を出して、すぐにその小袖を羽織つて家へ帰へつたとのことで、流石の隠居も弱つたといふ。併し暁    斎は随分榛原の店を肥してゐるから 隠居も今では之を昔話の一ッとして喜んでゐるさうだ云々。不知    (しらず)閑人を補ひ得るや否や〟    〈局外閑人は飯島虚心の号〉  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『読売新聞』(明治34年2月15日)   〝写樂の雲母絵  局外閑人    写樂の雲母絵(きらゑ)は、俳優(やくしや)の似顔絵にして、其の余白の所へ、雲母を摺りこみたるも    のなり、この雲母あるが為めに、似顔うきあがりて、真なるが如し、これ即ち写樂が発明にして、一    機軸を出だせるなり、其の似顔は、他の画工の画く所と大に異なり、真を写すを旨とし、当時の名優    五代白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、仲蔵、富十郎、広治、助五郎、鬼治の徒を半身に画き出だせり、    中に就き、中村富十郎の似顔最も世人の珍賞する所なり、富十郎が眼の小にして、口尖り、頬出でた    るさま、又額の皺、頬の黒子(ほくろ)までも画きて、遺す所なし、実に女形としての面貌には、醜く    けれど、画中自から愛嬌ありて、名優の名優たる態度を失はざるなり、富十郎が動作極めて柔軟にし    て、其の技、巧妙なりしかば、当時の人呼びてぐにや富といひ、大に賞美せしとぞ    従来俳優似顔絵は、欧米人の嗜まざる所にして、嘗てこれを購(あがな)ふ者あらざりけり、唯写樂が    雲母絵の似顔に至りては、皆争ふてこれを購ふ、故をもて、其の価甚だ貴(たつと)し、十余年前まで    は、一枚一円二円位にして、得られしが、今は十四五円の価となり、しかもこれを得る甚だ難し、曩    (さき)に奸商あり、この雲母絵を再刻し、ふるびをつけて売り出だし、一時巨利を得たりしが、絵の    具の色、雲母おきさま等、古への如くなる能はず、具眼者は、一目して、其の真偽を鑑別すること難    からざるなり、されど其のふるびをつけたる手際、頗る巧にして浮世絵売買を専業とせる者と雖も、    一時惑はされて買ひ入れたるものありといふ、一説に浮世絵にふるびをつけるには、煤を解きて薄く    画面に引くなりと、又竈の前につるしおきて、燻(くすぶ)らすなりと、果して然るや否や知らざれど    も、浮世絵のみならず、近来奸商贋物を製するの巧なること、実に驚くべし    雲母絵は、写樂の発明にして、当時大に行はれたるものと見えて、英山、栄之、豊国の徒、亦これを    学びて画き、俳優似顔をかゝずと自称せる、歌麿、北斎の徒といへども、亦これに倣ひ、風俗美人画    を画きたり、浮世絵類考 写樂の條に、歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまり真を画かんとて、あら    ぬさまを書きなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止むとあり、按(あんずる)に、写樂が似    顔の雲母絵は、蓋し長く世に行はれざりしならん、されど其の発明の雲母を用ゐて余白を埋(うづ)む    ることは、伝へて世に行はれしなり、即ち北斎、歌麿、豊国の徒の画く所、これなり、しかして今日    写樂の雲母絵のみ行はるゝものは、これ其の発明者たる故をもてならん    写楽は、斎藤氏、俗称十郎兵衛、一に八郎兵衛、東洲斎と号す、阿州侯に仕へし能役者なり、其の節    詳(つまびらか)ならざれども、浮世絵を善くし、最も俳優似顔絵に長ぜり、風俗美人画および読本、    草双紙等を画きたるを見ず、亡友楢崎氏、嘗て五世白猿の肖顔(にがほ)を画きたる狂歌の摺物を蔵せ    しことありき、写樂の没年詳ならざれども、蓋し文化年間なるべし、今其の年齢、墳墓等を知るを得    ざるは遺憾なり〟    〈評者・局外閑人(飯島虚心)は写樂画の雲母摺に専ら焦点を当てている〉  ◯『読売新聞』(明治34年2月25日)   〝歌川広重の錦絵山水  局外閑人    文化九年九月 徳太郎、画道大いに進みたるをもて、師名広字を譲られ、歌川氏を称するを得て 歌川    広重といふ、これ十七歳の時なり、其の免許状は、伝へて其の家にありしが、今清水晴風氏の有となる、    奉書紙の半切に、元祖歌川豊春同豊広印として、あとに門人広重としるし、文化九年九月吉日とあるの    み、従来浮世絵師が、其の門人に免許状を与へ、其の名に一字を譲ることは、稀にこれあることにて、    容易に与ふるものにあらざるなり、広重が十七歳にして免許状を得たるは、実に古来稀なる所なり、こ    れ其の腕力の幼より非凡なりしを知るに足るなり    文政三年、東里山人作の草双紙『音曲情の糸道』三冊(岩戸板)を画く、これ蓋し広重が草双紙の初筆    なるべし、これよりさき風俗美人の錦絵等これありしならんか、今詳ならず    同十年、江南亭唐立作の草双紙『筆綾三筋継棹』六冊を画く、此の頃其の師豊広と共に草筆の墨画即ち    貼雑絵を画く多し    同十二年、豊広没す、広重これより独立して師に就かず、一説に豊広の没後、南宗画家の大岡雲峯に就    き、画法を学びたりといふ(按(あんずる)に、明治十五年三世広重が一世の法会を執行し、一碑を向島    秋葉社前に建てし時の報條に、師の傍らにある、僅かにして年甫十六のおり、師の先立ぬればといへる    は、誤りなり、広重が免許状を得たるは、文化九年にして、十七歳の時なり、この時より文政十二年、    其の間は、十八年なり、師の傍らにある僅かといふべからず、疎漏も亦甚だしからずや)    天保の初年、広重幕府の内命を奉じ、京師に至り、八朔御馬進献の式を拝観し、細かに其の図を画き、    江戸に帰りて上(たてまつ)る、三世広重の話に、此の時一世始めて東海道を往来し、駅々の真景を写す    の志を起こせりと、蓋し然らん(按に、御馬進献は、年々八朔、幕府より馬を朝廷に進献する古例なり、    黒川真頼氏の説に、幕府より御馬を献上せしことは、建武年中行事、京師将軍年中行事にも見えず、蓋    し徳川氏幕府を開きし頃より始まりしならんといふ、北村季文が幕府年中行事歌合に、廿五番、左、馬    御進献、久堅の雲の上まで行ものは 秋の月毛のこまにぞありける、注に、御馬進献は、馬屋の中の駒    を撰ばれ、八月朔日に在京の大番頭を御使にて、内裏へまゐらせらるゝ事なり、これ等は古(いにしへ)    の)駒牽きのなごりにや さふらふらんとあり、一説に、広重の京師に到るや其の名詳(つまびらか)な    らざれども、四條家の人に就き、画法を学びたりといふ、山水画中筆意往々四條家に似たる所あれば、    蓋し然らん〟    〈徳太郎が文化9年9月に広重を名乗ったこと、また広重が「御馬進献」に従行して東海道を往還したという記事は、飯島     虚心の『歌川列伝』(明治27年著)にも出ているので、局外閑人もそれに拠ったものと思われる。免許状については、     虚心は三代広重(明治27年3月没)のもとで実見したのであろう。ただ東海道の往還については、虚心はこれを三代広     重の談として伝えるのみで、確認できるようなものは示していない〉  ☆ 明治三十五年(1902)     ◯『読売新聞』(明治35年1月18日)   〝落合芳幾氏 国芳門下の手腕家として 新聞挿画を祖道したる同翁の為に東京大坂の同門生が集り 各    自の揮毫を寄せて 浮世絵会といふを催すべき協議中のよし〟    ◯『読売新聞』(明治35年8月26日)   〝千種の花 例の滑稽堂より池田輝方筆にて標題(みだし)の如き十二ヶ月行事に因みたる十二葉の錦絵を    発売せるが 至極美麗の出来なり〟  ◯『読売新聞』(明治35年10月19日)   〝古代の浮世絵(昨今の相場)    欧米の各国にて我が浮世絵錦絵等を蒐集して愛翫するは、早や久しき以前より始まりし事なるが、今も    引続きて浮世又兵衛、菱川師宣、魚屋北渓等の画は常に高値を保ちて、年々の輸出極めて多く、年毎に    品物は減少して、益す高価となるのみなれば、其輸出店鋪数件は皆其買入に困難を来し、今は注文あり    ても輸出する品なきに至れる程にて 先頃新潟県人某といへるが、神田の某店鋪へ奥村政信、鳥居清信、    懐月堂安慶の美人画三葉を持来りて売却せしが、其取引値段は三葉にて金二百なりしが、これに依つて    も如何に其代価の騰貴せしかは想像するに難からず、尚目下弘く浮世絵を蒐集して所蔵せるは、末松    男等最も熱心家と聞え、同男の所蔵中には肉筆の画も多く、文学上の参考に屈強の品々もありとぞ〟  ◯『読売新聞』(明治35年12月26日)   〝狐拳双六 京橋区南伝馬町錦絵問屋長谷川より標題(みだし)の如き珍案の双六を発売せり〟    〈「狐拳双六」署名「梅堂筆」(四代?歌川国政)長谷川寿美版〉  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯『読売新聞』(明治36年2月2日)   〝明治座新狂言の錦絵 日本橋区東仲通り木村豊吉方より版行したる同座狂言の錦絵は 一番目の矢口の    と大切の獅子を歌川豊斎の筆にてなりたるものなり〟  ◯『読売新聞』(明治36年9月6日)   〝独逸に於ける日本画の出版    先日独逸ライプチヒのハイルセン会社にては 日本の浮世絵の目録を作り 我国へも送り越しぬ。この    目録に由れば 春信・北斎・棋園・文晁など十数名の絵画を美麗に刷出し 説明をも加へて売捌(さば)    けるなり〟  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯『読売新聞』(明治39年5月7日)   〝京都博物館の風俗画陳列    京都博物館は四五の両月間特に風俗画を蒐集して展覧せしめつゝあり 其概況を報ぜんに(中略)    平民的浮世絵は 其元祖と称せらるゝ岩佐又兵衛作の伝説あるもの一点あり 則ち     花下遊戯図二曲屏風 田中勘兵衛氏蔵    余は未だ又兵衛の真蹟なるものを見しことなければ 元より其の真偽を判ずること能はざるが 此図は    三味線を弾きつゝある美人を主景とし 側らに書状を認めんとする美人あり 侍女三人其の間を補綴す    美人の顔は面長にして吾々には余り美人と見えざるも 眼つき口もと頗る表情的にして 決して画美を    損せず 衣裳等の彩色に至りては 精緻濃艶にして老手たるを知るべし    〈「余」とはこの記事の書いてる「藍水」。文末参照〉    江戸日本絵師の先鋒たる師宣筆には左の出品あり     (一)「観花舞踏図」 一幅 神田喜左衛門氏蔵     (二)「四季風俗図」 二巻 益田◎氏蔵     (三)「北楼及劇場図」一巻 東京博物館蔵    此等皆彼が傑作といふを得べく、其人物は克(よ)く元禄時代の鷹揚迫らざる風を写し 色彩の艶麗にし    て卑俗の風なぎ 頗る賞すべし    次に宮川長春作には     (一)「風俗小倉山図」一幅 藤田◎三郞氏蔵     (二)「士女舞踏図」 一幅 三越呉服店蔵     (三)「四季風俗図」 一巻 同上    (一)は女にも見まほしき元禄若衆を主景とし 遙かに雲間に山荘と美人とを望ましめ 布置配合妙とい    ふべし。(二)(三)の如きも恐らく全力を傾注したる作ならん    浮世絵も明和以後、勝川春章、関清長、北尾重政、喜多川歌麿等輩出するに及んで全盛時代と称するを    得ん。彼等は元禄以降社会豪侈の風を代表するものにして 其絵画は克く当時の社会の裏面を反射せり。    春章作には     (一)「花下遊女図」 一幅 東京美術学校蔵     (二)「花下美人柳下」双幅 同上    (一)は墨図にして巧に美人を描き出し 琴棋書画の筆法を見るべし (二)は双幅共に美なり艶なり 而    して 未だ浮薄に陥らざるを多とすべし 流石に妙手に負(そむ)かざるなり。    此外に鳥居清信・歌麿等の作(原画はあれど)等もあらば 浮世絵の歴史を研究するに一層便りよかり    しならんに。        京阪画家の作品は多からず 僅かに     月岡雪鼎作「舞妓図」(「又平に仿(なら)ふ」とあり)伊吹義八郎氏蔵     田中訥言作「無礼講図」上野理一郎氏蔵    に過ぎず。就中(なかんづく)訥言のは 巧に人物の姿態を描写し 自ら一家の風を成せるを見る。    其他     歌川豊春作「松風村雨」 三幅対  村山龍平氏蔵     日置吉家作「士女遊楽図」屏風一双 田中勘兵衛氏蔵    共に佳作なり。    逸品といふべきは     鍬形蕙斎(北尾政美)作「職人尽絵詞」三巻 東京博物館蔵    滑稽百出 鳥羽僧正の再来といふべく 加ふるに山東京伝・四方赤良・手柄岡持の詞書ありて 錦上花    を添ふるものといふべく 彼が越前侯に仕へし時、其著作の発売を差止めし気骨は 稜々として紙面に    顕はるゝを見る。    「酒飯論」一巻(筆者不明・知恩寺蔵)「病草紙」(筆者不明・原本光長画寂蓮詞・田中子爵蔵)等も    古雅愛すべく 浮世絵史上の好参考品なり     (中略)    浮世絵の発達も版刻術の進歩と相伴ひたるものなり。されば一室に豊国・歌麿・北斎・広重以下の版画    を陳列して参考に供へられたるは大いに可(よ)し。丹絵より一進して二度摺三度摺の彩色となり 遂に    江戸絵の完全なるものを製出するに至りし。    変遷進歩の跡、概見するを得べし、唯説明書の簡にして、詳らかなざるを惜しむのみ。是等の多数は俳    優の似顔か或ひは娼婦の嬌態を描きて時好に投じ 遂に士君子に歯(よはひ)せざるものとなりしも、若    し之を高尚優美に指導せば 一種の装飾画として 頗る価値あるものなりしならん。聞く江戸絵も時好    の変遷より明治以後次第に廃れ 職工も多く転業するに至りしが 近来版画は小説其他の挿絵に用ひら    れ 一方にはかの真美大観の如き出版物あるより 漸く復興の運びに向へりとぞ。宜(むべ)なる哉 外    人の賞賛を博し需要次第い多きや(藍水生)   ◯『読売新聞』(明治39年10月17日)   〝妙齢なる閨秀画家    現代の閨秀家中に於て 近時其名を知られし榊原焦園女史といふあり 今その経歴を聞くに     女史の履歴    焦園は雅号にして 本名は榊原百合子といひ 北豊島郡日暮里村元金杉二百六十六番地に父母と共に住    み 今正に十九歳なり 女史は去る三十五年中 麹町富士見小学校を卒業し 直ちに矢島楫子女史の女    子学院に入学し 専ら普通学を修め居りしも 性来の絵心はこの少女をして 夫れに按んぜしめず 旁    ら水野年方画伯の門に入り只管(ひたすら)浮世絵を学びぬ     一家の絵画狂    女史が絵画を専攻するに至りし動機は 全く榊原一家族が絵画狂なるに起因するものゝ如く 父は浩逸    氏(五十三)と云ひ 現に岩倉鉄道学校に幹事を為し 母はあや子(四十三)とて其中に女史を長女に    弟妹五人あるが 一家挙(こぞつ)て絵画を好み 浩逸氏の如き中々の眼識ありと云ふ 其の血を稟(う)    けたる女史は 小学生当時既に「姉様絵」を描くに妙を得、殆ど天稟の才とも見るべきものあり 卒業    後ます/\絵画の趣味を深くしたれば 其の長所に向つて発展せしめんと 遂に年方画伯の門に入るに    至りしなり     始めて世に出づ    爾後 女子学院は退学し 専ら絵画を研究し居りしが 一昨年の春 始めて美術院派の展覧会、秋季の    美術協会等に出品し二等賞牌を得、而(し)かも当時の審査員たる雅邦・玉章・広業・華邨・年方の諸氏    をして再審査をなし 深き賛辞を得るに至りしが 抑もその発芽にして これ実に十八歳なりき     女子の平生    専ら写生のみに心を用ひ 隙さへあれば一室に籠りて筆硯を親しみ 又は古今の美術書を研究し 旁ら    女子として必要なる裁縫も修めつゝ 将来天晴閨秀画家の月桂冠を被らんと 専念攻究しゐれど決して    今時のハイカラ臭き事はなく、廂(ひさし)髪などに嘗て結ひしことなく 何時も高島田にて 一見商家    の娘さん式なりと     女史の将来    女史の将来については大いに聞くべきものあり 師匠年方氏の紹介にて 更らに鈴木華邨画伯につき     動物と草木の研究に心を委ね居れりと 然れども女史は絵画を以て社会に立ち 之れにて独立せんとす    る心はなしと云ふ     父母の意見    婦人にして多少芸術を修むると 忽ち独立するなどゝ云ふは そは大の間違ひなり 婦人と生れたから    は 何処までも婦人のたるの義務を社会に尽くすべく 若し斯かる婦人にして独身を云々などは以ての    外なり 然(さ)れど絵が出来るからとて 他の事を放棄するに至るは猶更なりと語りしよし〟   ☆ 明治四十年(1907)  ◯『読売新聞』(明治40年2月5日)   〝奇妙な職業    古絵買 古浮世絵や錦絵が高価で欧米へ売れ行くより 日を逐ふて騰貴し 歌麿とか祐信とか春章とか    の上物になると 木版ものの錦絵でさへ 一組が百円以上にも売れ 猶ほ漆絵と称する珍物になると     一枚三百円から五百円までもするなり 是れを買ひ出さんと 地方まで探し廻る仲買とも云ふべき者あ    り、上等の絵を甘く探し出せば 随分多額の利益を得られるので 眼を皿にして駈け歩く由なるが 彼    等が地方にて堀出しもの多き季節は 桃に節句前後にて雛祭の道具など取り出すとき 古錦絵も雛と共    に飾りあるを探り出して 金轡で買ひ占め 問屋に売るが例なるより 旧三月が書入れなりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治40年4月8日)   〝水野年方氏逝く    浮世絵の泰斗として芳名を轟かした応斎年方水野粂次郎(四十三)は 二月の末頃から悪性の脳病に冒    され 爾来引き籠もつて静養中 去月二十八日突然卒倒し それが原因(もと)となつて◎◎の状態に陥    り 直ちに大学病院に入院して 青山博士の治療を受けつゝあつたが 俄に病(やまひ)革(あらた)まり    昨日午後一時 黄泉の客となられたは 斯界の為めに惜みても余りある事だ 記者が今細君より親しく    聞く処を報ぜんに     難行苦行    氏は慶応二年一月廿日 神田の紺屋町に生れ 十四の時 柴崎桜藤の門に遊び 研鑽に努め 二十歳に    至つて 柴田芳重に知られ同人の塾生となつた。芳重は奇人と言はれ 誠に磊落放縦な人で 家計の事    などは少しも顧みないといふ風であつたから 氏は何も彼も一人で引受けなければならない身の上とな    り 非常に苦労をした。何時でも絵を稽古する時間が足りない為め 朝早く起き夜は暁に至る頃迄も     筆を取つたといふことである     芳年門下の秀才    其の後月岡芳年の辱遇を得て 弟子となつたが 生前熱心な質(たち)であつたので 其の書振りも日一    日と上達し 三十歳の時は優に大家の称があつた位で 緻密の筆到には何時でも芳年翁の賞讃を得てゐ    た     三名画    氏の書かれた絵画のうち 世間から名画と讃へられたるものは数多いが 仲にも最も持て囃されたのは    「養老の孝子」「武人」「佐藤唯信」の三幅で 「佐藤唯信」の如きは畏くも 陛下の御手許にあると    のことだ     厳格の人    家庭に於ける平家は非常に洒落(しやらく)な人のやうに見ゆるが、其洒落のうちに何時でも 厳格の気    風が仄(ほの)見えてゐた そして苟且(かりそめ)にも絵画の事になると 形容を直(ただ)して筆を取ら    なければ物語りもしない。又大久保の千福寺にある恩師芳年翁の墓には香花(こうげ)を絶(たや)した事    なく、且つ師翁が没されし時の如きも非常な困難ありしも 氏が殆んど一身に引受けて始末してゐた     美しは臨終    昨朝危篤となつたので 数多の門下生は我も我もと病院に集つた すると氏は目を見開いて 一々見廻    し 完爾と笑むで眠りについたが これが永の離別であつた。葬式は明九日 浅草松葉町の貞源寺で営    み 遺骸は谷中の墓地に葬る筈である〟      ☆ 明治四十一年(1908)  ◯『読売新聞』(明治41年5月13日)   〝歌川派墳墓保存の計画    浮世絵派の諸大家の後裔は 概ね断絶したるも独り歌川派のみ隆盛を極めたる傾きありしが 今は歳月    の久しきに渡り 其祖先の墳墓は或ひは頽廃し 寺院は移転する等にて 墓標さへ跡を止めざるものを    歎き 歌川国峰氏は諸画伯の賛助を求め 歌川派墳墓保存の計画を立て 来月は画会を開き 之れが費    用に充つる由なり 歌川派代々の墓にて直ちに保存に着手するものは     豊春(歌川院豊春日要、文化十(ママ)年正月十二日没 七十八)浅草菊屋橋本立寺に在りしも 先頃雑        司ヶ谷教立寺に移す     初代豊国(得妙院実彩麗毫信士、文化(ママ)八年正月七日没 五十七)芝三田聖坂功運寺     二代(ママ)豊国(豊国院貞庄(ママ)画仙居士 元治元年十二月十五日没 七十九)亀戸光明寺     豊広(彩(ママ)秀信士 文政十一年五月廿三日没 五十六)芝西久保専光寺に在りしが 今は其跡なし     広重(顕功院徳翁立斎居士、安政五年九月六日没 六十二)浅草松山町東岳寺     国芳(深修法山(ママ)信士、文久元年三月五日没 六十五)浅草高原(ママ)町大仙寺〟  ◯『読売新聞』(明治41年7月5日)   〝芸苑時論  石井柏亭    博物館に新しく陳列された絵画があると聞いて行って見た(中略)   ◇師宣の画が幾点かある、其真偽等に至つては我々のよく弁じ得る処でない。中に非常な濃彩の「美人」    が一幅ある。着物はたしか赤で模様が精細に写されて居る。「両国橋」の図は橋が天に上つて、其下を    くゞる舩の中の人が人形のやうに小さくなつた処など、そゞろに滑稽の感を催して来る。単彩の「遊女    禿」は如何にも師宣風の描きぶりである。形も師宣式に相違ないが、筆力が少し鈍い様に感じられる。    併し或ひはこんなものであらうか   ◇菱川派の画が一時大いに行はれたことは、西鶴や八文字屋のものに何ぞと云ふと「菱川の画」と云ふこ    とが出て来るによつても察せられる。今度出て居る「四季風俗図」の絵巻なども 矢張菱川の流れを汲    んだものである。其共同浴を写した一部などは さながら当時の風俗を観る様で仲々面白い。往来に灯    籠が立つて居て、松風呂と書いた暖簾をかゝげて なまめいた湯女が人を招いて居る様子から、風呂場    の欄干(てすり)に凭(よ)り 或ひは流板(ながし)に横(よこた)はつて 女に洗はせて居る人、小児を盥    (たらひ)に入れて湯を使はせて居る女まで、如何にも寛(ゆつく)りした当時の風俗が偲ばれる。   ◇胸を拡げて雪の肌を露(あら)はし、袖香炉をふところにして居る宮川長亀の「婦女」や、奥村政信の    「小倉山荘」や肉太の線に濃厚な色を包んだ長陽堂の「遊女」や、宮川長春の「御奥風俗」や、皆美し    い装飾画的の画であるが、最も奇抜に感じたのは 梅祐軒勝信の「遊女」である。大きな菊の模様のあ    る赤い着物に 歌留多の裙模様をつけた黒い裲襠(しかけ)を羽織つた立姿であるが、素朴なおつとりし    た描き口で面白い作であると思ふ   ◇鍬形稽斎の名も高き「近世職人尽絵図」が出て居る。実に旨いものだ。敬服せざるを得ない。例へは呉    服屋の店先などでも、眼鏡をかけて柄を見て居る坊主、反物を袖の所へ附けて 似合ふかどうかと見て    居る男、小児を背に凭られながら地合を触れて見るお袋、放して柄を眺める女、算盤を顎にして居る手    代、平蜘蛛のやうになつて帰り行く武士に辞宜する手代など、よく個々の趣きを捉へて千変万化の態を    尽して居る。誇張は固よりある、併しそれは條理のある誇張で、毎(つね)に要処に施されて居るもので    ある。現今の漫画の要もなきに頭や手足を大きくして居るのとは事が違ふ    此絵巻は「七十一番職人尽歌合」などの倣つたのか、人物の傍に添へた。言葉などには当時のとはまる    で違ふ雅言を用ひて居る。板木師の処に「板下薄墨なるいとおぼつかな」と書き、人形師の処に「今は    膠の加減六づかしき時にて候」と書いたなどは其一例である。兎に角我々は日本の大なる漫画家として    古くは鳥羽僧正と光長とを挙げ、近く此鍬形蕙斎を推さゞるを得ない。蕙斎の漫画はまことに上品であ    る。悪落(あくおち)もなくゝすぐりもなく、鋭敏なる観察と軽妙なる略筆と云ふ二つの利器を具(そな)    へて居る。実際社会の鋭い観察がなければ 漫画の生命はなくなってしまふ。今何々パツク滑稽何々と    云ふ様なものが濫出するけれど、一として画の上に此鋭い観察を示して居るものはない。宜しく過去の    の大家の作例に鑑みて奮励すべきである(六月廿五日)〟    ☆ 明治四十二年(1909)  ☆ 明治四十三年(1910)  ◯『読売新聞』(明治43年4月10日)   〝古代浮世絵展覧会    小林文七氏の発企で九、十両日 木挽町万安に開いた古代浮世絵展覧会は 原六郎氏の珍蔵と称する勝    以筆「伊勢物語」の一幅より立斎広重に至る約二百五六十年間の時代名画を陳列した。    勝以の画題は「伊勢物語」の一とあり 京洛の「貴人が輿で花見」をして居る所で 画面に点出された    数十の人は 孰れも桜かざして今日も暮らしつの悠長な姿が見える 勝以と岩佐又兵衛は別人だと云つ    て居た人がある。    次席の野口立圃の「男舞」奥村政信の「美人」 次で懐月堂安慶(ママ)筆の「美人」之は又驚くべき端厳    美妙の相が顕はれて居る     浮世絵の全盛期と称する明和時代の宮川長春は 今より百五六十年前であるが 此辺迄は孰れも写生乍    (なが)ら「写生に囚はれ」て居ない 其の「遊女」の画の如き 他人の窺ひ得ぬ妙がある    次の春章に至ると 既に明かに時代の中に没入して神逸の気が乏しい     歌麿以前の英慶子の「初代中村富十郎の女道成寺」は確かに逸品だ     歌麿が墨絵の「遊君」に「西行もまだ見ぬ花の廓かな」といふ京伝の賛は 稀品(まれもの)ではあるが    長春以前の物に比べては顔色が無い    鳥文斎栄之の「蛍狩の美人」になると繊巧ではあるが 文化文政頃の「淫靡な時代世相」が自づから其    画面に顕はれて居る 時代相を現はすといふ点から言つたら矢張り傑作だろうとテ    北斎物の自画像は淋し気に陳(なら)べられてあるが 豪邁の気自づから窺はれる    豊国、豊広の江戸趣味は 安政頃の華やかな気風が 其画面に兎に角見えて居た     要するに古代画で 其時々の人情を見せるとならば 画の前に暦年を 作家の名と共に添へて欲しい〟      ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『読売新聞』(明治44年5月18日)   〝木版業者の新福音    日本の木版色摺は、近来欧州到る処で非常な好評を博し ことに製版業の溯源地ともいふべき独逸のラ    イプチヒあたりでは、其の手芸及び製版学校で、広重・北斎などの版画によつて、盛んに日本木版を研    究し、巴里ルーブル博物館の画家イザツク氏の如きも、熱心に修得して、木版色刷の順序などに就いて、    我々日本人に十分の説明を求める迄に進んで居る。蓋し日本の木版印刷は、西洋のすべての印刷法より    は、遙かに美術的価値があるとの観念が、一般に欧人の脳裡に浸み渡つたからで、巴里、独逸あたりで    は、今後自国の絵画を従来の三色版及び其の他の方法によらずに、日本木版によりて研麗優美に印刷し    たいものと、自ら研鑽刻苦して居るばかりでなく、此の業に熟練なる日本の木版家傭聘に苦心して居る    との事だ(田島志一氏談片)〟  ◯『読売新聞』(明治44年10月2日)   〝歌川若菜女史 滞英中の同女史は加藤大使其他の援助に依り 去二月自作の浮世絵展覧会を開催して    好評を博せしが 来十一月中旬 倫敦出発 帰朝の途に就く由〟