☆ 嘉永元年(1848)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(嘉永元(1848)年九月)
〝 嘉永元申年九月出板
右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事
抑建久四年、右大将頼朝卿富士之牧狩は、日本三大壮(挙脱カ)と世に云伝へ、其後代々の大将軍御狩有
し処ニ、御当代に至りては近き小金が原にて御鹿狩有之候処、来酉の年御鹿狩仰出され、去年中より広
き原中に大き成山二つ築立、此所へ御床机を居させ給ひ、三十里四方の猪鹿を追込せ、右の山より見お
ろし上覧有之との評判也、右ニ付、御鹿狩まがい、頼朝卿富士の牧狩之図三枚続き、馬喰町二丁目久助
店絵双紙渡世山口藤兵衛板元にて、画師貞秀ニて、右懸り名主村田佐兵衛へ改割印願候処、早速相済出
板致し、凡五千枚通も摺込、九月廿四日より江戸中を配り候処ニ、全く小金の図ニて富士山を遠く書て
筑波山と見せ、男躰女躰の形を少々ぎざ/\と付、又咄しの通りの原中に新しき出来山を築立、其ぐる
りに竹矢来を結廻し、猪鹿のたぐひを中ぇ追込ミ、右山の上に仮家を建て、此所より上覧之図、三枚続
ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり。然ルニ古来より富士の牧(巻)狩之図ニは、仁田四郎が
猛獣を仕留し処を正面ニ出し、脇に頼朝卿馬上ニて、口取ニ御所の五郎丸が大長刀を小脇ニかい込、赤
き頬がまへにてつゝ立居ざれバ、子供迄も是を富士の牧狩といわず、是ハいか程の名画にても向島の景
色と(を)書に、三めぐりの鳥居のあたまがなけれバ、諸人是を向島の景なりといわざるが如し。然ルニ
頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の秀(禿)が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向
にて百鬼夜行を書出して大評判を取、いやが上にも欲にハ留どもなき故に、とゞのつまりハ高橋も高見
ニて見物とは行ずしてからき目に逢ひ、これ当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふ
物でなければ売れぬ代世界、右之画の脇に正銘の富士の牧狩ニて、仁田の四郎猛獣なげ出せし極く勢ひ
のよき絵がつるして有ても、これは一向うれず、これ
(歌詞)二たんより三だんのよきが、一たんに勝利を得、外の問屋ハ四たんだ踏でくやしがるといへど
も、五だん故に割印いでず、山口にて六だんめにしゝ打たむくいも成らず、七の段の様に六ヶ敷事も
なく、すら/\と銭もふけ、七珍万宝は蔵之内に充満し、下着には八反八丈を差錺り、九だんと巻て
呑あかし、そんな十だんを言なとしやれ、山口の山が当りて、口に美食をあまんじ、くばりの丸やも
丸でもふけ、いつ迄も此通りに売れて、伊三郎とと(ママ)いる小金処が大金を設(儲)けしハ、これふじ
の幸ひならんか。
小金とはいへども大金設けしは
ふじに当りし山口のよさ
川柳点に
富士を筑波に書し故ニ
ふたつなき山を二つににせて書き
原中ニ新きに山出来けれバ
原中にこがねをかけてやまが出来
右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、
二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十
一月十日ニ右板木をけづらせけり。
あらためがむらだと人がわるくいゝ〟
〈この頃の落首に〝来年は小金が原で御鹿狩まづ手はじめに江戸でねこがり〟(『藤岡屋日記』三巻p223)という
のがある。これは、この頃また息を吹き返してきた深川両国などの岡場所に、天保十三年三月の摘発以来、久しぶり
に手入れ(猫狩り。猫とは岡場所の娼婦をさす)があったこと、そして、来年には将軍家慶が小金原で大がかりな鹿
狩りを催すという巷間の評判を取り上げて詠み込んだものである。その鹿狩りを当て込んだ錦絵「富士の裾野巻狩之
図」が九月二十四日出版された。今まで「富士の巻狩り」といえば、仁田四郎が猪に逆さに跨って仕留める図柄が定
番であった、しかし今は「兎角にむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中である。そこで「むつかしく」み
せるために一計を案じた。富士を大きく画いているものの、男体女体を小さくぎざ/\と画いて筑波に擬え、噂の通
り大きな築山を配したのである。この趣向が小金原の鹿狩りを連想させるのは当然で、板元山口屋藤兵衛の狙いは当
たった。しかしその評判が逆に心配の種になった。お上のお咎めもないのに、累が自分に及ぶことを恐れたのか、改
めの懸かり名主・村田佐兵衛は板木を削らせたのである。もっともこれはお上への恭順のポーズであって、商売とし
ては、その時点で十分過ぎるほどの利益はあげていた。三枚続き72文の8000組というから、売り上げは576000文にの
ぼる。ネット上の「江戸の通貨」等によると、嘉永元年頃は一両=6500文位とのこと。これで換算すると、576000文
は約89両に相当する。九月二十四日売り出し、板木を削ったのが十一月十日。約二ヶ月足らずで89両の売り上げがあ
ったのだ。2010/3/17訂正〉
「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画 (早稲田大学・古典籍総合データベース)
☆ 嘉永二年(1849)
◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
◇小金原鹿狩り p331
〝三月十八日、昨夜九ッ時之御供揃にて、小金原ぇ為鹿狩被為成〟
〈嘉永元年九月、貞秀画「富士の裾野巻狩之図」参照。p245〉
◇三月、小金原鹿狩り p451
〝嘉永元年申年江戸咄
(上略)
牧狩絵図の山が当り、小金処か大金もふけ、太閤吉野ゝ花見の図、先年出せし其時ハ、板元咎めを受し
よし、此度出板改なく、障りもなけれバ売れもせず〟