挿絵年表(明治 単行本) 挿絵年表(明治 雑誌)
口絵年表(明治 単行本) 口絵年表(明治 雑誌)
☆ 明治二十二年(1889)
◯『都の花』2-8 金港堂(2月)(本HP「挿絵年表(明治 雑誌・シリーズ)」明治22年参照)
〝此等小説の為め挿画を引受尽力せられし絵かきの隊長連は左の通り。亦た以て此等絵ばかりを諸君が御
覧になるも我国絵画美術の一端を知らることあるべし
惺々暁斎 鮮斎永濯 渡辺省亭 松本楓湖 河辺御楯 鈴木華邨 月岡芳年
五姓田芳柳 松岡緑芽 尾形月耕 武内桂舟 後藤魚洲 小林清親〟
〈これは文芸誌『都の花』(金港堂・明治21年創刊)を彩る挿絵画家の紹介である。「此等小説」とは山田美妙や幸田露伴
など新進作家の小説をさしている。これらの画家は『都の花』に限らなかった。同二十年四月創刊の文芸誌『新著百種』
(吉岡書籍店)にしても、芳年・緑芽・省亭・年方・桂舟・楓湖・永濯等、やはり同様の顔ぶれである。またこちらの執
筆陣も、尾崎紅葉・石橋思案など新たに頭角を現しつつある作家だった。これまで浮世絵界は、読本・合巻といった新
ジャンルが誕生するたびにその挿絵をことごとく担ってきた。京伝・馬琴・種彦等の挿絵を担ったのは、北斎・国貞・
英泉等、浮世絵製作システム圏内で生まれ育った浮世絵師たちである。しかし明治の今、洋画に転じた芳柳を除けば、
ここには芳年とその弟子・年方がいるのみだ。おそらく、明治の新しい文芸の挿絵を担える人材は、もはや浮世絵界に
はほとんどいない、とこれまた新興の出版元、金港堂・原亮三郎の目には見えたのであろうと思う〉
☆ 明治二十九年(1896)
◯『早稲田文学』第18p157「彙報」(明治29年(1896)10月1日刊)
(本文改行なし、本HPが施した。また読点を若干おぎなった)
〝小説の挿画は作者の筆にて悉し難き所を補ひ、作中の人物及び事柄を有形に現はし、読者の目を悦ばし
むると共に、一層感動を深からしむるが本旨なるべし、然るに、近頃は殆ど見世物の招牌に等しく、極
彩色の口絵は、客を釣る店肆が商略の方便たるが主たるに似たり、されば、作中の事柄と全く無関係の
も、往々見受けらる、此等は一方より云へば弊なれども、粗末なる挿絵を以て満足せる往年のに比して
は、兎に角、著き進歩には相違なし、
今記臆に探ぐりて、過去二十年間、小説の挿画(口絵も含む)が奈何の変遷を経て、今日に到れるかを
見ん、今精神の取調べをなすの遑なければ、只大体の趨勢を窺はんに、
仮に第一期を明治十年前後に据ゑ、仮名垣魯文、山々亭有人(採菊)、高畠藍泉等が全盛時代より起算
せんに、当時は、例へば魯文が『鳥追阿松』某が『五月雨日記』など云ふ、漢字まじりに傍訓を附せる
一種の草双紙流行し、之れに国周等が筆に成れる似顔絵の口絵挿絵を加へたり、いづれもいと粗末なる
ものなりき、彼の魯文、芳幾提携の時代も此の前後なり、
〈合巻『鳥追阿松海上新話』久保田彦作・仮名垣魯文著 周延画 錦栄堂(大倉孫兵衛)版 明治11年刊。
合巻『五月雨日記』花笠文京著 芳年画 絵入自由出版社 明治16年刊〉
さて新聞雑誌等の小説に挿絵を加ふること盛んになりて、やう/\挿絵に一変革を来たし、引続いて芳
年、永濯(少しおくれて)月耕、国松、吟光等の名、作者の名と共に現はれそめたり、魯文、藍泉、染
崎延房、松村操諸氏の著の頻出せしころなり、而して当時は尚幼稚なる木版時代なりき、
〈仮名垣魯文・山々亭有人(条野採菊)・高畠藍泉(転々堂主人・三世柳亭種彦)・染崎延房(二世為永春水)・松村操(春
輔)いづれも明治十年代まで活躍して戯作者。以上いずれも木版挿絵〉
其の後明治十七八年頃、矢野龍渓氏が『経国美談』出でゝ、広く愛読せらるゝに及び、泰西の文学趣味
の輸入と共に、小説の挿絵にも一変革を来たし、是れより石版画時代となりぬ、
坪内逍遥訳『慨世士伝』、牛山鶴堂『梅蕾余薫』、井上勤訳『三十五日間空中旅行』『狐の裁判』など、
いづれも石版画也、藤田鳴鶴訳『繋思談』、尾崎学堂著『新日本』、末広鉄腸著『雪中梅』『花間鶯』、
服部誠一訳『二十世紀』など皆此の系統に属す、
〈石版挿絵『経国美談』明治16-7年刊・『慨世士伝』同18年刊・『梅蕾余薫』同19-20年刊・『三十五日間空中旅行』同17
年刊・『狐の裁判』同17年刊・『繋思談』同18年刊・『新日本』同20年刊・『雪中梅』同19年刊・『花間鶯』20-21年刊
・『第二十世紀』同19-21。翻訳物かいわゆる政治小説〉
石版時代に少し先立ちて、織田純一郎氏訳『花柳春話』其の他銅版を用ひたるものありて、石版時代ま
で一隅には尚行はれたり、木版画の如きも当時尤も流行せる予約出版の翻刻物には用ひられ、兎屋本ま
た之れを挿入し、木版は石版画全盛期みの衰へたるにあらず、亜鉛版画の如きも石版と相並びて一側に
は稍々用ひられたれど、勢力を得るに至らず、今吾人の記臆せるは僅々に過ぎず、関直彦氏訳『春鶯囀』
などは其の一例なり、小説以外にて云へば『団々珍聞』尤も之れを用ふるを得意とせり、斯く銅版画、
亜鉛版画なども多少は小説に用ひられたりきと雖も、石版画の如く特に一時期を劃するに足るものにあ
らざれば、之れを石版時代に含めて見るを穏当とす。
按ずるに、石版が浮世絵を圧倒して、小説壇に跋扈するに到れるは、従来の戯作者以外、即ち学者政治
家など云ふ方面より、小説に指を染めたる紳士の力に由れるが如し、此等の人々は、自家の品位を保た
んが為めに、在来の小説と同一視せらるゝを恐れ旗幟を明にする必要より、先づ浮世絵を擯けたると同
時に、此等の人々は、多く洋学を修め、洋画にも目馴れたれば、さてこそ石版画採用の機運をつくるに
至れるなれ、
〈『花柳春話』明治11年刊。兎屋本とは望月誠が出版した活版印刷本。前金で予約すると値引をしたり、景品を付き販売
をするなど特異な経営で有名だった(石塚純一論文「「うさぎ屋誠」考-明治初期のある出版人をめぐって」(比較文
化論叢・札幌大学文化学部紀要・2000年刊)『春鶯囀』明治17年刊。明治10年創刊の『団々珍聞』は時局風刺の戯画入
り週刊雑誌〉
春の舎主人、此の時期に際し『書生気質』『妹と背鏡』『内地雑居未来之夢』などを著はし、国峰、年
恒、吟光等の筆に成れる彩色摺の口絵、長原孝太郎、桂舟、金光諸氏の挿絵などを用ひ、読本風の木版
画復興を試みたれど、未だ勢力を得るに至らざりき、続いて須藤南翠『改進新聞』に拠り、『緑簑談』
などに文名嘖々たるに及び、周延南翠の為に描けるも別に花々敷ことなし、
〈春の舎主人は坪内逍遥。『書生気質』国峯・葛飾(為斎)・長原孝太郎・桂舟画 明治18-9年刊・『妹と背鏡』松斎吟光
画 同18-9刊・『内地雑居未来之夢』年恒画 明治19年刊。『改進新聞』は明治17年『開花新聞』(前身『有喜世新聞』)
を改題。南翠はその記者を経て小説を執筆。政治小説『緑簑談』は春陽堂版の挿絵豊宣画 明治19年刊(国立国会図書
館デジタルコレクション)「周延南翠の為に描ける」ものは未詳〉
明治二十年前後に及び日本画いたく声価を高め、古画珍襲の風の熾んなりしと共に、『国華』以下絵画
の雑誌の出づるもの尠なからず、是れ共に一度衰へたる木版画の彫刻及び摺りかた著しく進歩し、加ふ
るに青年浮世絵師等の筆も漸く練熟の域に進めり、
此の機(明治二十二三年頃)に乗じ、春陽堂主人、紅葉が『伽羅枕』以下の作を出版し、口絵に二十度
三十度の極彩色木版画を附するに到り、小説の挿絵はこゝに面目を一新し、復興の実を挙げ得たり、紅
葉及び春陽堂が功没すべからず、爾来春陽堂は勿論、博文館、嵩山堂、桃華堂などより出づる小説も殆
ど之れに傚はざるはなく、之れに彩筆を揮へるは省亭、桂舟、華村、蕉窓等の諸家なりき、紅葉著『冷
熱』の口絵は、実にこの木版極彩色画時代の絶頂を表せるものとも見るべし、
近頃春陽堂より『新小説』現れ、洋画家浅井忠、小山正太郎、岡村政子等諸氏の彩色入の挿画を(石版)
を採用して好評を博し、又同誌第三の口絵には永洗筆の彩色入写真版を添へたり、思ふに、小説の挿
画は今や一転機の機運に向へるものゝ如し、挿画の進歩は印刷術の進歩と伴ひて、此の好結果を見るに
到れりと云ふ、
〈『国華』は明治22年創刊。春陽堂の単行版『伽羅枕』(尾崎紅葉作 口絵 桂舟・素岳画)は明治24年刊。『冷熱』(口
絵永洗画)は明治29年刊。春陽堂の雑誌『新小説』は明治22年刊〉
因に、製本の変遷を一言せん、『花柳春話』『経国美談』時代にはボールの厚表紙をつかひ、其れより
一転して、金港堂より小説頻出せる頃は、白き薄表紙に、有合せの花紋輪郭を用ふるが一般の風となり
き、其頃出でたる二葉亭が『浮雲』、学海が『侠美人』、青萍が『谷間の姫百合』、嵯峨の舎が『涙の
谷』など釘装いづれも右の種類に属す、当時までは、小説は殆ど四六版に限れり、然るに紅葉山人が作、
春陽堂より続々あらはるゝに至り、口絵挿絵に意匠を凝らせたると共に、何時か本の大さも菊版にせら
れ、房々と色糸もて綴ぢ合はせするなどの華美(はで)なる流行も出でたり、然るに、今や水車版物の赤
本と其の表装混同せらるに至りたれば、何となく読者厭き気味あり、人気に投じて好評を博せんとせば、
書肆たるもの当に一工夫すべき時期にはあらぬか〟
〈二葉亭四迷著『浮雲』(初編、芳年画。二編、月耕画、三編,芳年画)は明治20-2年刊。依田学海著『侠美人』(月耕画)は同20
年刊。末松謙澄(青萍)訳『谷間の姫百合』(月耕画)は同21-3年刊)。『涙の谷』の著者は嵯峨の舎お室ではなく、天香外
史で同21年刊。以上金港堂〉
参考
◯『松蘿玉液』(正岡子規著・明治二十九年の随筆・岩波文庫)
〝小説雑誌の挿絵 として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり、其の喜ぶべき所似(ゆえん)多かれど、
第一、目先の変わりて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見
識無く高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒(と)が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を
解したる洋画家が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の中は之
を画く能はざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が
好敵手を得たる等を其主なるものとす〟
〈第三「学問見識無く高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒(と)」と第四「従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模
型外の中は之を画く能はざりし」は相関関係にある。明治の十年代に盛んに出た合巻挿絵の担当者、その多くは浮世絵
師であったが、彼らは戯作者の指図に従って、先人の考案になる「模型」を取っ替え引っ返え再利用するばかりで、作
品の意図を読み取る等、作品との関わりは一切持とうとしない。「梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白み
もなかった」とは、明治十年代の合巻挿絵に関する三田村鳶魚の言だが、新鮮味を求める大衆に、粉本のような「模型」
でしか応えることが出来ないのであれば、飽きられるのは当然である。(注1)
それにしても、明治の二、三十年代は、浮世絵師には分岐点であった。写生や有職故実・時代考証を通して「模型外」
のものが見えてきた芳年がいる一方で、「押絵の顔」を「平均一個一厘五毛」で請け負う梅堂国政もいた。(注2)
当時の浮世絵師が必ずしも、この両極端に分かれたというのではないが、自らの内的モチーフを原動力として画く絵師
と、依然として人の需めに応じて画く絵師と、別にいえば、後に日本画家と呼ばれる方向に進化していくグループと、
職人の世界にそのままとどまり続けるグループとに分かれ始めるのがこの時代だったのではあるまいか。正岡子規は明
治三十五年逝去〉
(注1)三田村鳶魚著「明治年代合巻の外観」岩波文庫『明治文学回想集』上)
(注2)『読売新聞』明治23年11月30日記事 浮世絵 新聞記事