☆ 明和年間(1764~1771)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p194(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
◇明和頃
〝料理見世、深川二軒茶屋、洲崎ますや【安永九年当世見立三幅対ニ、広き江戸に類のなきもの、神奈川
の男子、洲崎枡や、麹町の小娘】ふきや町河岸打や、向じま太郎の類なり〟
☆ 寛政年間(1789~1800)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p204(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
◇寛政頃
〝料理茶や、寛政の頃より流行専らなるは、金波、二藤、田川や、なべ金、八百膳、平清、さくら井、夷
庵一名まつ本や、いづれも上品にして価高事限りなし〟
〝八百善など、一箇年の商ひ高二千両づゝありと云ふ〟(p194)
☆ 享和年間(1801~1803)
◯『増訂武江年表』2p29(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享和年間・1801~03)
〝山谷町八百屋善四郎が料理行はる。深川土橋平清、下谷龍泉寺町の駐春亭、文化年中より盛なり。
筠庭云ふ、料理は米沢町に大坂喜八とかいひしもの評判あり。又会席料理といふ事は、薬研堀に川口
忠七と云ふ者始む〟
☆ 文化年間(1814~1817)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p204(亀章撰・文政五年序)
〝料理茶や、寛政の頃より流行専らなるは、金波、二藤、田川や、なべ金、八百善、平清、さくら井、夷庵
一名まつ本や、いづれも上品にして価高事限なし〟
☆ 文政年間(1818~1829)
◯『増訂武江年表』2p79(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政年間・1818~1829)
〝白金(シロガネ)三鈷坂の山中庵、雑司谷の向耕亭は古き料理やなりしが、これも文政中に絶えたり〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝料理茶屋
いつも世は◯としなれや料理にもよく実も入りし秋の田川屋
夷庵さすが料理も生酔のはらにつりあふ鯛のうしほに
をり/\は肴あらしの下戸もまた軒端にさそふ雨のさくらゐ
世にしるき夷庵とて客もまたまつ社の神つれて来にけり
糸作り手ぎわも家の名に負てくる客おほき青柳が門
酒盛にこゝろの約?はいさめども客はちらさぬ花のさくら井
きひ小町うつくしつくのうたひ女をあげて花ある桜井の楼
春ならぬ四方に花なき冬の日もやはりにぎはふさくら井の見世
あざやかなさしみ盛にも皿鉢は古わたりをのみつかふ八百せん
角田川前に見なしてさしみ皿小金のなみのうてるたかどの
江戸の町凡は百八百善の料理に名までうれるはん昌
吉野葛よせて出ししさくら井につかふ料理のおくや尋ねん
八百善は八百よろづ代に名やたてん出す料理もうまし国にて
三ッものゝ平もよし野のうす葛に花くもりをもみするさくら井
会席の花の手ぎわやよし野◯いつもさかりをみするさくら井
待えてし月の今宵とまらう人のこがねの波をちらすたかどの
にぎはひはいつれも春の料理茶やあるは青柳あるはうめ川
舟よせて肴を乞へば金波楼うしほに浪をはこぶゆふ風
八まんの不二のふもとの二軒茶屋つかふ料理も魚のすばしり
三とせまであしたゝぬほど酔人は夷庵にて酒やくむらん
まれ人の神をまつりて膳夫もうつはきれいにいだすひら清
酔しれてまかれる客の松がえを即席によくためる青柳
大黒をわぎりにしたる料理ばんゑびす庵にはよき男なり
月雪に見あきた客の手元より花のこぼるゝすだのむさし屋
月雪を宿すなみ間のはつ松魚作るさしみも花のさくら井
春は猶かすみ二階や三階になまめくこゑも花のさくら井
〈田川屋 夷(ゑびす)庵 桜井 青柳 八百善 金波楼 梅川 二軒茶屋 平清 武蔵屋〉
☆ 参考史料
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之五「生業上」①208
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝料理茶屋 江戸にて名あるは
三谷の八百善。天保中、自宅に客することは止め、仕出のみを業とし、嘉永初より、再び自宅に客を請
ず。当戸を江戸第一とす。けだし、再行の後は先の盛に及ばず。これ先年別荘の焼けに諸器を亡し故也。
深川八幡前平清これに次ぐ。しかも文化比よりの店也。柳橋北の川長宅広からずと雖ども美食なり。
以下は同品なり。浅草大音寺前田川屋、駐春亭と云ふ。向島大七、今戸大七、橋場の川口、真崎の甲子
屋、小梅小倉庵。
柳橋の梅川、万八、亀清、中村屋等は家広く、食類精製に非ず。
橋場の柳屋、向島の武蔵屋近年亡たり。
市中に在るは、塩川岸百川、葭町桜井、茅場町伊世太、久保町清水楼、築地水月楼、甚左衛門町百尺楼、
同町豊田屋、樽新道翁庵。
追書。再び云ふ、江戸料理茶屋も先年は京坂と同様にて、今のごとく会席料理にはあらず。皆各余計
に出し、口取肴も硯蓋(スズリブタ)に多く積み、台にのせ、浜焼も全身の鯛を出せしなり。故に価も大
略一人分金一分ばかりを下らず。
〈会席料理の記事あり。略〉
八百善・平清・河長等の飯後段の茶にも菓子を出し、その他は飯後の茶に菓子これなし。
八百善以下三家、大略一人分銀十文目、その他は銀六、七、八匁なり。浴室を設け酒客を入れ、余肴
を折に納め、夜の帰路に用ひ流しの提灯を出すこと、毎戸しかり〟
☆ 幕末~明治
◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)
(『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p102)
〝(幕末)先ず「料理屋」では第一が代地の川長、次が深川の平清、山谷の八尾善、江戸では先ずこの三
軒としてあった。この外には堺町の百尺、東両国の青柳、柳橋の万八などは、集会も出来るような大き
な料理屋であった〟
◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「浴室付き料理屋」(23/34コマ)
〝寛政はじめの頃 三河島村に湯本と称せる料理や有【寛政三年発版『娼妓絹籭』といふ京伝が戯作本に
有】雑劇尾上松録が企にて家作を温泉のさまに造り 箱根の温泉より鏃匠を呼寄 即席の料理を出して
泉湯に浴せしめて かのゆもと細工を鬻ぐ 人々興がりて一過繁昌せしが 余りに辺鄙なれば終に廃絶
したり是江府の料理屋に浴室を造りし起原と覚ゆ 夫よりして廓中の見番大こくや初代庄六 仲の町の
茶屋伊勢屋吉蔵俳名一賀といへるものかたらひて 娼家田川やうち今の駐春亭を開き浴室を作らしむ
其後所々の撃鮮家皆湯殿補理(こしらへ)ることやうには成ぬるとぞ〟