☆ 文政四年(1821)
◯『増訂武江年表』2p67(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政四年・1821)
〝六月、長崎より百児斉亜(ハルシヤ)国の産駱駝二頭を渡す、閏八月九日より西両国広小路に出して見世物と
す(蛮名カメエル又トロメテリスと云ふとぞ。予、此の時真物(シンブツ)を看て、「和漢三才図会」橘守
国等が絵本にあらはす所の虚なる事を知る。背に肉峯ありて鞍のごとしといへる説によりて、二つの肉
峯を画けり、肉峯は一つにしてしかも高し。足は三つの節ありて三つに折る。高さ九尺長二間、牡八歳
牝七歳といへり。後に北国へ牽き行きて見せ物とせしが、寒気にふれて斃れたりと聞えり。堤它山とい
ふ人「駱駝考」一巻を著はし梓に行へり)
くびは鶴背中は亀の甲に似て千秋らくだ万歳らくだ 加茂季鷹
三十二銅にて見せしかば、
押あふて見るより見ぬがらくだらふ百のおあしが三つにをれては 村田了阿
筠庭云ふ、此の見世物出てより後、物の大にして鈍なるやうなるをらくだと云ふ、その詞今にのこれ
り。又雑木を焼きたる堅からぬ大なる炭を名附けて、らくだ炭と云ひて行はれしが、当嘉永四年の春
は此の炭稀なり。此の頃人用ゐざる故出さぬ成るべし〟
〈駱駝の江戸見世物とは文政七年の事。「閏八月」は文政七年のことであるから、この六月の同年のものである。斎藤
月岑はどうして文政四年にしたのだろうか。下記『甲子夜話』をみると、文政四年長崎に舶来して、そのまま江戸に
も来るのではとの噂がたったようであるし、翌五年三月には両国に人造駱駝の見世物が出ているから、それらと混同
したのかもしれない〉
☆ 文政五年(1821)
◯『甲子夜話 1』(松浦静山著・文政五年(1821)記)
◇「巻之八」p136
〝去年、蘭舶、駱駝を載て崎に来る。夫より此獣東都に来るべしやなど人々云しが、遂に来らず。先年某
侯の邸に集会せしとき、画工某その図を予に示す。今旧紙の中より見出したれば左にしるす。図に小記
を添て曰。享和三癸亥七月長崎沖へ渡来のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乗組の船積乗せ候馬
の図なり。前足は三節のよし、爪迄は毛の内になり、高さ九尺長さ三間と云。その船交易を請(コヒ)たる
が、禁制の国なればとて允(ユル)されずして還されけり。これ正しく駱駝なるべし。此度にて再度の渡来
なり〟
〈「去年」とは文政四年のこと。享和三年(1803)七月、アメリカ船が積んでいた二瘤駱駝の図あり。画工名はなし〉
◇「巻之九」p163
〝この三月両国橋を渡んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに看版を出す。駱駝の貌なり。又板刻して其
状を刷印して売る。曰、亜刺比亜(アラビア)国中、墨加(メカ)之産にして、丈九尺五寸、長さ一丈五尺、足
三つに折るゝ。予、乃(スナハチ)人をもて問しむるに、答ふ。これは去年長崎に渡来の駱駝の体にして、真
物はやがて御当地に来るなりと言たり。因て明日人を遣し視せ使むるに、作り物にて有けるが、その状
を図して帰る。図を視るに恐くは真を摸して造るものならじ。『漢書』西域伝の師古の註に云ふ所は、
脊の上肉鞍隆高封土の若し。俗封牛と呼ぶ。或いは曰く、駝の状馬に似て、頭羊に似る。長項垂耳、蒼
褐黄紫の数色有りと。然るにこの駝形には肉鞍隆高の体もなく、その形も板刻の云ふ所と合はず。前冊
に駝のことを云しがそれ是ならん〟
〈「前冊」とは「巻之八」の記事中のこと、つまり享和三年、アメリカ船が積んでいた駱駝の模写図のことをいうので
あろう。実際の駱駝が江戸の見世物として出るのは文政七年のことであるが、文政五年には早くも駱駝の細工物が見
世物として出たのである。もっともその細工には瘤(『漢書』記事の云う「脊の上肉鞍隆高」)がないから、松浦静
山は享和三年の模図を「是ならん」としたのである〉
☆ 文政七年(1824)
◯『甲子夜話4』巻之五十三 p73(松浦静山著・文政七年(1824)記)
〝今年〔文政甲申〕駱駝、長崎よりこの都に来れり。両国橋向の広地に見せ者にして、人群湊して観る。
此獣この四年辛巳六月、阿蘭陀の舶来にして、ハルシヤ国の産と云。然れば、第九巻に記せし去年長崎
に渡来せしと云し者、是なり。これは亜刺比亜(アラビヤ)国中墨加(メツカ)の産と云しが孰れなるか。又駝に
種類ありて、此度のは独峰駝おと云者なり。去れば前の造り物の駝は全くその形なり。又八巻に駝は享
和三年亥七月なる由。アメリカ人に舶来なれど、これは上陸せず還さる〟
◯『藤岡屋日記 第一巻』p343(藤岡屋由蔵・文政七年(1824)記)
〝文政七甲申秋
(両国橋西広小路に於て駱駝の見世物)去年紅毛国より長崎表ぇ持渡候也、おだやかにして、喰物、大
根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷群集すなり〟
「駱駝之図」 国安画 ・ 山東京山撰(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
〈この「駱駝之図」には〝文政四年辛巳六月阿蘭陀人持渡駱駝之図〟とあって、長崎への渡来は文政四年。画中に〝文
政七甲酉年閏八月上旬より江戸大に流行〟の朱書きがある。また「古典籍総合データベース」には国安画・江南亭唐
立撰の「駱駝之図」もあり、こちらの朱書きには〝文政七年庚申年初秋江戸に来り壬八月より両国に於て見せもの〟
とある〉
◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨130(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)
(文政七年・1824)
〝駱駝はハルシヤ(百尓西亜)国の産なるよし、文政四辛巳年六月、阿蘭陀人長崎へ持渡、同未年六月下
旬より、難波新地に於いて諸人に見せ物とし、同申年五月頃江戸に下だし、両国橋・横山町広小路にて
是を見する、子一日戯に是をみる、其形真ならずといへ共、左に図する如し、肉峯相並びて、鞍の形を
なすといへるは非也、其毛なみ牛に似て、色又赤牛といふものに似たり、又牛の香あり、鈍獣也、牡の
方前足太く、眉毛かまつ毛か、多く黒き毛生て、眼中をわかたず、笛太鼓にておかしく拍子を取、是を
もて進退す、説に此獣交易にならざる故、蘭人丸山の遊女にくれたりしを、やましとか云者の手に渡り
たるとかや、(以下略)〟
☆ 天保四年(1833)
◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨130(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)
(天保四年・1833)
〝天保四巳年春の末、駆舵を再度両国広小路にて見する、此度一疋なり、共模様前の如し、八月なかば市
谷八幡宮地内へ持参りて見する、
一たび山師の手に落て 日々見物多し 却て野飼の時を思ふ 食ず貧駱駝
駱駝の評判近来頻なり 錦絵却て役の者新に勝る 異国の畜生何ぞ怪むに足らん
世間限り無し背虫の人 半可山人【俗称植木大八三郎、享和文化間、太(ママ)田蜀山人南甫(ママ)老人に類
す】〟
☆ 文久二年(1862)
◯『増訂武江年表』2p187(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(文久二年・1862)
〝正月、両国橋西詰に駱駝と号して見せ物出づ。真の駱駝には非ずとぞ〟
☆ 文久三年(1863)
◯『増訂武江年表』2p193(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(文久三年・1863)
〝二月、両国橋西詰にて駱駝を見せものとす。天保に渡りしよりちいさし〟