☆ 天明年間(1781~1788)
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②281(山東京山著)
〝北廓にて娼家の富饒なりしは、明和中には、大上総屋なり(中略)此大かづさやののち、世にきこえし
は、江戸町一丁目扇屋宇右衛門、墨河と号す、つまをいなげとて、夫婦とも、歌も書も千蔭門人にて、
天明中の成家なりき〈以下、抱えの遊女、初代花扇と滝川の挿話あり、省略、本HP花扇・滝川の項参照〉
〝水野【出羽守沼津】の家老土方縫殿之介、扇屋になじみて、猩々緋にてへりをとりたる七ツ蒲団をこし
らへてやりたる事、世上に口伝する程也けり、土方扇屋に遊と聞ば、諸家の留主居又はかの権門方など、
同じく扇屋に遊び、土方へ馳走の為、おり/\談合して、みせにをる遊女を残らず買ひ上げて、土方が
席を賑す、依て土方来る時は、おほかたみせは惣仕舞也。是扇屋の盛んなりし一端にて、又、天明年間
の今と異る国体を知るべし。
かゝるありさまなれば、其比名人の聞えありし後藤四郎兵衛光孝も、扇屋になじみありて通へり(中略)
此宇右衛門は墨河と号して智量ありて、家を起したれども、忰はおろかにて、扇の風しだいによわり、
文政の末にいたりて、つひに家亡べて、吉原を去りてのちは、いかになりゆきけん、此頃聞ば、扇屋の
娘四ツ谷新宿豊倉にてめしもりするよし、墨河の孫なるべし、天明の比は家内百人程にて、吉原にて娼
家の冠たりし家の孫むめ、飯盛のつとめをするは憐れむべき事ぞかし、墨河泉下に在りて血涕すべし〟
〈水野出羽守は田沼時代の老中、その家老の土方は天下の三介と称された名家老の一人。幕府御用達彫金師・後藤四郎
兵衛延乗(光孝)は天明四年没。天明期の扇屋は、当時の所謂権門勢家を客層としていたのである〉
〝娼家に楼号を付はじめしは五明楼なり【五明は扇の異名】扇屋の主人墨河は好事なりしゆゑ、楼号をも
つけし〟
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 あふぎやへ行くので唐詩せんならい「天5春2」天明5【柳多留】
〈唐詩選のような漢籍にも通じていなければ扇屋では恥をかかされる〉
2 見世売りはせぬ扇屋の扇なり「柳多留45-4」文化5【柳多留】
〈扇屋の花扇のような高級な遊女は張り見世はしない〉
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝吉原 扇やの骨とみえけりかんざしを十二本ほどよそふうかれ女〟