Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ おせん おふじ お仙 お藤 浮世絵事典
 ☆ 明和六~七年(1769~70)  ◯『半日閑話』〔南畝〕(大田南畝記)   ◇「浅草寺開帳・浅草名物」明和六年二月記 ⑪337   〝十八日より金竜山浅草寺観音開帳(奥山の名物)    銀杏娘【本竹屋仁平次娘、名はお藤、開帳半より出つ。熊谷いなり前いてうの木の下の楊枝屋娘なり】〟    〈『武江年表』によると、浅草寺の開帳は四月十八日から〉      ◇「笠森お仙、お藤」同年三月記 ⑪339   〝谷中笠森稲荷地内お千(十八歳)美也とて皆人見に行。家名は鎰屋五兵衛也、錦絵一枚絵、絵草紙、双    六、よみ売等にいづる。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形に作りて奉納す。【明和    五年五月堺町にて中島三甫藏がせりふに云、采女が原に若紫、笠森いなりに水茶やお千と。是より評判    有、其秋七月森田座にて中村松江おせんと成る】    浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤も又評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺    町おそで、一枚絵に出る。     童謡〽なんぼ笠森おせんでも、いてう娘にかなやしよまい【実は笠森の方美なり】どうりでかぼちや        が唐茄子だ、といふ詞はやる〟      ◇「とんだ茶釜」明和七年(1770)二月記 ⑪341   〝此頃、とんだ茶がまが薬罐と化たと云ことばはやる    按に、笠森いなり水茶屋のおせん他に走りて、跡に老父居るゆへのたはぶれ事とかや〟    〈笠森お仙も明和七年には稲荷の茶屋から姿を消したようだ〉     ◯「飴売土平伝」(舳羅山人(大田南畝)作・明和六年春序・『小説土平伝』所収)〔南畝〕①377   〝美人の天井より落て茶屋の中に坐するを見る。年十六七ばかり。髪は紵糸(シユス)の如く、顔は瓜犀(ウリ    ザネ)の如し。翠の黛(マユ)朱(アカ)き唇、長き櫛低き屐(ゲタ)、雅素(スガホ)の色紅粉(ベニヲシロヒ)に汚(ケガ)    さるゝを嫌ひ、美目(メモト)の艶(シホ)往来を流眄(ナガシメ)にす。将に去らんとして去り難し。閑かに托子    (チヤダイ)の茶を供(ハコ)び、解けんとして解けず、寛(ユル)く博多帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様(ゴテン    フウ)を圧(マカ)し、衣(キモノ)の著(キコナシ)や小町が立姿かと疑ふ。十目の視る所十手の指さす所、一たび顧    れば人の足を駐(トド)め、再び顧れば人の腰を閃(ヌカ)す。之を望むに儼然たり。硝子(ビイドロ)を倒懸    (サカサニツル)が如し。実に神仙中の人なり〟    〈この美人は笠守稲荷境内のお仙である〉      ◯「お仙お藤優劣の弁并序」(舳羅山人(大田南畝)作・明和六年春序)   (『小説土平伝』風来山人(平賀源内)明和六年四月序)〔南畝〕①384   〝銀杏稲荷、笠森稲荷に問ふて曰く「蓋し聞く、君が地にお仙といふ者の有りと。吾が家のお藤に孰与    (イヅレ)ぞ」笠森の神曰く「鎰家(カギヤ)の女(ムスメ)お仙は其の字(ナ)天の生(ナセル)麗質地物の上品、琢(ミ    ガ)かずして潔(キレイ)に、容(カタチ)つくらずして美なり。釵梳(クシカウガイ)の長きを戴(サ)さず、脂粉(ベニ    オシロイ)の装ひを仮らず。謂つ(ママ)ゝべし、真物示真(シヤウノモノヲシヤウデミセル)と。是に於て江都八百八坊(ヤテウ)、    芝から神田に至るまで、佳人(ヨイコ)佳人と歌ひ、お仙お仙と称(ハヤ)す。衆人(オホゼイ)津液(ヨダレ)を流(タ    ラ)し、牛に随(ヒ)かれて善光寺に至(マイ)り、登子(コシカケ)に鼻毛を長(ノバ)して、大象も能く繋著(ツナガ)    見る。一椀(イツフク)一銭の価(アタイ)を増し、九年面壁の臀(シリ)を腐(クサ)らす。餻(ダンゴ)を買へども其の    価(ネ)を問はず、茶を食(クラ)へども其の味(アジハヒ)を知らず。茫然として張望(ミトルル)こと、お仙が顔に    有神会(マツリノワタルガ)如し。加之(シカノミナラズ)門前市を成し、細道場を塞(フサ)げば、雑踏(オシアヒ)蹂躙(ヘシ    アヒ)、先の者(カタ)前に相ひ代はる。比舎(キンジヨ)の円団(ダンゴ)化して餅(ヤキモチ)と為り、不言の桃李自    づから蹊を成す。錦画(ニシキエ)俚歌(ヨミウリ)双陸(スゴロク)稗史(ヱゾウシ)に論亡し。肥大(オタフク)お仙名代(ナ    ダイ)を仮り、飯田町の開帳に木偶(ニンギヤウ)に作る、皆な是れお仙を慕ふに非ずや。未だお藤を慕ふこ    とを聞かず」銀杏の神囅然として哈(アザワラ)つて曰く「汝谷中の僻処(ホトリ)に長(ヒトトナリ)、団埴(ツチダン    ゴ)薯藷(イモ)田楽の味を分シメルト雖も、吾(オラガ)浅草の大なることを知らざるなり。夫れ楊枝舗(シヤウジヤ)    は観音堂の後ろ銀杏の樹の下に在り。小舗(ハコミセ)軒を連らね楊枝棚に満てり。鳩飛んで豆を啄(ヒロ)ひ、    魚池に躍る。源水が陀螺(コマ)、小六が気毬(マリ)。遊山覧物(ケンブツ)貴賤上下、刀の削撃(サヤアテ)攘(ハリ)    臂(ヒジ)摩(スリ)、袖を連ね幕を成し、銭を投げて雨を成す。盈滔(エイトウ)盈滔として櫛の歯を比(ヒ)くが    如し。然れども衆人を勾引(ヒキツケ)て、比隣(キンジヨ)を照らす者はお藤なり。人目を避(シノ)ぶの袖巾(ソデ    ヅキン)。人心(ウハキ)も今は真(ホン)に為り、本(ホン)の柳屋の名に愛でゝ、孰れ菖蒲の歌を憶ふ芒(ススキ)花    (ホ)に吐(イ)で、錐袋を脱す。鷹の羽の章(モン)壁に画き、銀杏の葉庭に布(シ)けり。二十には尚を足らず、    二八には頗る余り有り。鬢を緩(イダ)せば仮髻(カツラ)の如く、粉(オシロヒ)を傅(ツ)くれば人勝(ヒナ)の如し。    象牙を楴(クシ)と為し、白銀(ギン)を簪と為す。眉黛(マミエ)淡く掃つて口朱(クチベニ)未だ乾かず。腰支(コシ    ツキ)楊枝の細きを束ね、衣裳に文蛤(フシ)の香(ニホヒ)を惹(トド)む。雑劇(キヤウゲン)趣を写し、錦画世に伝    ふ。春信も幾たびか筆を投げ、文調も面(カホ)を肖(ニ)せ難し。童謡に所謂、如玉◎子(タマノヤウナルキムスメ)と    は、其れ此れ之れを謂ふか。お仙が若(ゴト)きは未(イマダシ)なり」二神の答問(イザコザ)晷(ヒ)を移つし    て止まず。王子の稲荷其の由を聞き、颯(サツ)と仏帳(ミトチヤウ)を開けて曰く「止(シバラク)止(シバラク)、関    八州の総司(ソウツカサ)正一位の甲第(オヤダマ)王子の稲荷大明神が一番貰つて之を論ぜん。夫れ容貌(キリヤウ)    の美(ヨキ)と伝誦(ヒヤウバン)の論(サタ)とは、人心面の如し、馬を鹿とし鷺を烏とし、剃刀を鈍(ニブシ)と為    し研槌(スリコギ)を利(ト)しと為す。猶を新五左の国風を誇(ホ)め、放屁(ヘツヒリジュシヤ)の唐山(カラ)を慕(ウラ    ヤ)むがごとし。且つ夫れ天地の間、物(モノ)孤立(ヒトリタタ)ず。男女貴賤神儒仏老、花に楓(モミジ)に餅に    酒に、編(カタカタ)ならず倚(カタヨ)らず、老父孫の中庸にして、一を挙げて百を廃するは伴当君(バントウドノ)    の失計(ソロバンチガヒ)なり。柔克く剛を制して益(トク)を見る。名を好めば飾(リキミ)多く、利を好めば怨み    多し。慳人(シワンオウ)は乞丐(コジキ)の魂に似たりと雖も、窮鬼(ビンボウガミ)も亦正直の首に宿る。鑿空(イ    キスギ)は則ち当世の怜悧(リコウ)、質素(リチギ)は則ち痴呆(バカ)の隠名(カラナ)。上(ノボ)つて高慢なるもの    は自負(ウヌボレ)と為り、下(クダ)つて軽薄なるものは儇子(サルヂエ)と為る。其の中間に生ずるものは両    可(ハンカ)と為る。飲んで典衣(シチヲヲク)ものは遊棍(クモスケ)と為り、遊んで金を擲(ツカ)ふものは嫖客(フウライ    モノ)と為る。其の一つ穴に陥るものは花子(コジキ)と為る。千変万化臨機応変、道大いに横裂けして人と    誰れにか適従せん。嵩山房梓(シ)の黄表(キビヤウシ)は丈阿戯作の稗史よりも多く、小田原議(ヒヤウデウ)の    見識は銀杏和尚が街談(ツジダンギ)にも減(オトレリ)、尺も短き所有り寸も長き所有り。弘法も誤字(フデノア    ヤマリ)、愚者も一得、何ぞ必ずしも飯鍫(シヤクシ)を以て規矩(デウギ)とせんや。聖人の道一竜一蛇、時の    宜(ヨ)きに随つて其の道同からず。因らず碍(サハ)らず、相ひ為めに謀らず。豈啻(タダ)笠森と銀杏のみ    ならんや。然りと雖も浅草は則ち繁華の地、南は蔵前に通じ、北は吉原に接す。楊枝舗の美なるは昔よ    りして然かり。笠森は則ち是に異なり、上野の後ろ谷中の隅(ハテ)、日暮(ヒグラシ)贍(ニギヤカナリ)と雖も、    唯春夏の交(アヒダ)耳(ノミ)。然るに伝誦(ヒヤウバン)千里に走り、容貌(キリヤウ)一時に名あり。吾れ阿好(ヒイキ    ブン)に非ずと雖も、容貌(キリヤウ)伝誦皆な一等を進むべし。且つ先輩なり、美なり雄なり。お藤が雌たる    知んぬべきのみ」是れ優劣の弁なり。言ひ終つて神は則ち去(アガラセタマフ)。二神唯して退く〟    〈浅草の銀杏稲荷が楊枝屋お藤の美を称え、谷中の笠森稲荷がお仙を美を称えて、いずれも譲らない。そこへ関八州の     稲荷の親玉、王子稲荷が登場して決着をつけた。お仙を「雄」お藤を「雌」として雌雄を決し、お仙に軍配をあげた〉     ◯『江戸評判娘揃』(海月菴無骨・明和六年七月序)〔『洒落本大成』第四巻所収〕   〝道を急ひで、笠森にて日暮(クラシ)ぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲(モフケ)をさせしも、此娘の連のと    くならんと(云々)〟   〝壺入のはつむかしは 去年の春信からおもひつかれた大和絵の仕出し茶〟   〝去年の春信から又ぐつと評判つゐてたれしらぬものはござりませぬ〟    〈笠森稲荷の鎰(カギ)屋おせんを茶の初昔に擬えた戯文。去年とあるから明和五年から評判が出てたようだ。それを春     信が真新しい多色摺りの技術を使って錦絵にするやいなや、なお一層の評判を呼び起こし、この頃では誰知らぬもの     なき天下の美女となっていた〉     ◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年(1770)刊)   (新日本古典藉総合データベース画像)   ◇江戸の繁華   〝東都(とうど)の曲    (前後省略)    鍵屋の於千(おせん)処々に響き    柳屋於藤(おふじ)日々に栄(さか)ふ〟   ◇浅草楊枝屋 お藤   〝金龍山に遊んで吉原を懐(おも)ふ    塔は高し山門の側ら         鳩は衆(をほ)し本堂の前    口を開いて絵馬を望(なが)め     緡(さし)を解いて塞銭(さいせん)擲(なげう)つ    誰か知らん銀杏(いてう)の下(もと)  人は群がる揚枝(やうじ)鄽(みせ)    花に似たり於藤(をふぢ)が質(すがた) 山に漲(みなぎ)る参詣の涎(よだれ)    想像(おもいやる)北国の楽しみ    羨(うらや)み見る馬道の辺(ほと)り    観音罟(あみ)に懸かつて後      此の地幾年(いくばくのとし)をか経たる〟   ◇柳屋お藤   〝柳屋於藤に贈る    名は高し銀杏(いちやう)女(むすめ)  正に是れ娘の親瑶(おやだま)    指は楊枝と与に細く         姿は錦画に勝(まさ)つて嬌(うるわ)し   ◇笠森お仙   〝笠森の美女を詠ず    参詣群集(ぐんじゆ)す笠森辺(ほと)り  始め見る正真の弁財天    老若拝んで飲む一杯の茗(ちや)     花より団子の是於千〟   〝山下美人の賦    中華(もろこし)の楊貴妃は  陳奮翰(ちんぷんかん)の中(うち)に生まれて    未だ粋と称するに足らず   又何んぞ吾が町(てう)の意気地を知らんや    信(まこと)に美なりと雖も吾が相識(ちかづき)に非ざれば 只毛唐人の掛直かと疑ふ    山下の壮年婦(としま)は美人の正札附と謂つべきなり     謹んで其の源を問へば    容(かたち)を加茂川に曝して  心を吉原に磨き    風流を八文字に尽くし    名を細見に輝かす    色香共に備わつて 顔(かんばせ)上野の桜を欺く    評判天下に響いて      争つて茗香(はなが)を慕ふ     或ひは葦簀(よしず)を穿(うが)つて窺(うかが)ひ 或ひは分けて肩を押し望(なが)む    見得房(みえばう)の茶銭は緡(さし)を解かず 馴染みの君子は一角を擲(なげう)つ    和尚は寺を開いて大黒を拼(ふりす)て 春信は筆を捨てゝ天人かと怪しむ    一たび唇を動かせば 坐中の雲突(うんつく)解けて水飴の如し    一たび笑ひを含めば 往来の貧公総べて腰を抜かす    老若の鼻毛は麹町の瓶縄(つるべなわ)より長し    縦然(たとへ)万金を積んで君が手づから茶を求めんと欲すと雖も    後世誰か再び此の幸いを得ること有らんや     是れ飛んだ茶釜に匪ずんば 則ち誰か其飛んだ茶釜ならん〟  ◯『増訂武江年表』1p186(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (明和年間・1764~1771)   〝谷中笠森稲荷境内の茶屋鍵屋おせん、浅草奥山銀杏木の下楊枝店柳屋のおふぢ、美女の聞えあり(春信    の錦絵に多く画けり)〟    ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   〝美しい顔で近所の茶が売れず〟「明8義3」明和8【川柳】注「客をとられる」    〈春信の錦絵で人気はいやがうえにも〉  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝歌林文苑    天人 笠森於千/影迎 冨士屋於ふじ〟    〈鈴木春信が描いた谷中笠森稲荷の美女お仙はわかるが、富士屋おふじがよく分からない。明和の当時、お仙に匹敵す     る美女としては浅草の楊枝屋・柳屋のお藤が有名だが、この富士屋のおふじが同一人物かどうか分からない。いずれ     にしろ、この見立ては、お仙は天女で、おふじは影迎(向)すなわち神仏の化身というのであろう〉  ◯『野辺夕露』(坂田篁蔭諸遠著・明治二十五年(1892)成立)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝笠森おせん墓    四谷鮫ヶ橋、一向宗正見寺【当寺四十三年中/音羽へ移転す】に在り、おせんは明和安永の頃、谷中笠    森稲荷境内水茶屋の娘にて美人の名し、当時此かぎ屋のおせんと浅草奧山楊枝見世柳屋のおふぢの両人    の画、春信画がきて、世に行はれたり、後に幕府御広敷番を勤めて二百俵賜りし倉地儀左衛門の妻とな    り、御賄役【百俵】を勤めし倉地一郎といふは此おせんが生む所の子也、おせんが夫なる儀左衛門が曽    父は紀州の人にて将軍公に従ひ江戸に来り、享保三年七月十一日、病て死す、正見寺に葬(る)、法号覚    ◎院といふ、又は明和二年三月廿二日死し、同寺に葬り、心光院と謚れり〟  ◯『墓所一覧表』(山口豊山編 成立年未詳)※(収録の最終没年は大正五年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝笠森お仙  文政十年正月二十六日 東中野 正見寺 源◯院妙心大姉          正見寺はもと四谷鮫が橋に在りしが後爰に移す也〟  ◯『名家墓所襍録』化蝶菴編 成立年未詳   〝柳屋おふじ 寛政十年一月二十二日 浅草 今戸 長昌寺 浅草奥山楊子屋の女〟  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝中野区 正見寺(昭和通一ノ一六)真宗本願寺派(旧四谷鮫が橋)    笠森お仙 明和の頃、谷中笠守稲荷の境内に茶店を出し、美人の聞え高く、鈴木春信描くところの三美    人の一人なり。文政十年一月二十九日没、深教院釈妙心大姉〟