☆ 享保十九年(1734)
◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫476(菊岡沾凉著・享保十九年刊)
〝大津絵
又平と云人書はじめ也。土佐光信の弟子といへり。大谷、池の側辺にて画く。追分絵(オヒワケヱ)とも云〟
☆ 明和五年(1768)
◯『根無草』後編四之巻(風来山人作・明和五年刊)
〝住なれし都を離れ、うき数々に大津のまちのわび住居、弓馬の道は廻り遠く、外に営むべき業なけれ
ば、絵の事は先素人ながら、つい出来易き所の名物、げほうのあたまへ階子(はしご)掛ても、我身の
上の下り坂、主持ぬ身の一徳と、浮世は軽き瓢箪で、押さへる鯰のぬらりくらり、犬のくわへて引き
あるく、先士(ざとう)の坊の褌さへ、しまりなき世渡の、いつ果べき事にしもあらず〟
☆ 文化十年(1813)
◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮409(岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成)
〝大津絵の仏像
元禄四年芭蕉粟津の無名庵にありし時、正月四日に
大津絵の筆のはじめは何仏(ナニホトケ)
かく口ずさめるにて思ふに、古(イニシヘ)は仏像を画くを専(モハラ)とせしを知るべし。当時(コノコロ)は大津絵
の仏(ホトケ)を持仏に掛る者おほくありしゆゑに、おのづから仏絵(ブツヱ)のかたおこなはれ、戯画(タハレ
タルヱ)はかたはらになせしなるべし。さればこそ、当時(ソノカミ)左のごとき句どもありけれ。
〔俳諧日本国〕元禄十六年印本、杏花園蔵本
前句 暮てほつ/\薪(タキギ)割家(ワルイヘ)
附句 追分の絵仏(エブツ)に後世を打任せ 土山 林
前句不知 大津絵に廻向してゆく鉢たゝき 一雕
〔本朝諸士百家記〕【宝永五年印本】巻之八に、大坂長町七丁目に団扇屋善三郎といふ者あり。此者の
裏店に鼠関(ソクワン)とかやいへる七十有余の老法師あり。(中略)間半(マナカ)ばかりの棚を釣て、大津絵
の三尊をかけ、一首の讃に、
絵にかくも木にきざめるも弥陀は弥陀未来のことはかつてたのまぬ
又享保十一年、竹田出雲が作せし伊勢平氏年々鑑といふ浄瑠璃に、大津絵の十三仏といふことも見えた
れば、宝永の比までもかの仏絵を用ひ、享保の比までも世に散在せしものなるべけれど、今はたえて見
ることなし。たま/\或人の蔵せるを摸(ウツ)して左にあらはせり。但(タダシ)今も大津に仏絵なきにはあ
らざれども、昔のとはいたくたがへり。
(芝峯軒所蔵「大津絵仏像縮図」(喜多)武清縮図・尚志堂所蔵「同三尊来迎仏」(縮写絵師名読めず)の二図あり)
因に云、〔一代男〕【天和二年印本、詞花堂蔵本】巻之三に、寺泊の傀儡(クグツ)の家のさまをいへる
条に、「屏風の押絵を見れば、花かたげて吉野参りの人形、板木押しの弘法大師、鼠の嫁入、鎌倉団
右衛門、多聞庄左衛門が連奴(ツレヤツコ)、これみな大津追分にてかきしものぞかし。見るに都なつかし
く思ふ云々(シカジカ)」。かゝれば天和の比は戯子(ヤクシヤ)絵をもかきしなるべし。
又〔五ヶ濃津の草紙〕【刻板の年号詳(ツバラ)ならずといへども、案るに、天和、貞享の比なるべし】
巻之四に、「竜虎梅竹(リヤウコバイチク)左字(ヒダリモジ)に書たる枕屏風追分絵の奴(ヤツコ)が、露の命を君に
くれべいと、赤き丹にて書たる所を見て云々」とあり。是等(コレラ)を按(オモフ)に、今に昔を失はざるも
のは大津絵なり。【仏絵のみ昔を失ふ】。ぬり笠きたる女の藤の花かたげたるも古きふりなり。塗笠
の条を考ふべし。【又うぶ著(ギ)の箔紋、くひぞめ椀の鶴亀、羽子板のとのさま、かみさまの絵も、
昔をうしなはず】〟
〈京伝の考証によると、大津絵(追分絵)の古くは「仏絵」を専らとしていた。現在(文化年間)では絶えて久しいが、
享保の頃までは出回っていたらしい。そのかわり「かたはら」に描いていた奴や藤娘のような「戯画」の方が、天和
年間あたりから「仏絵」に代わって大津絵を代表するもののごとくになっていったようである〉
☆ 文政元年(1818/07/)
◯『紅梅集』〔南畝集〕②346(蜀山人・文政元年(1818)七月詠)
〝大津絵
大津絵のむかしはうき世又兵衛が名におふ筆ときゝはさみけれ
小袋のひとつあまれば大津絵の筆たて傘にくゝりつけたり〟
◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p406(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)
〝大津絵は伝へていふ、岩佐又兵衛が画き始たりとて、それが子孫めかして又平久吉などゝ落款したる画
も有、たしかならぬこと也。其画法は信貴山玉蔵院に明兆が地蔵〈艹+廾=菩薩〉の絵を絵表具にして
十戒図をかきたるは、海北忠左衛門藤原某とかあり。これ今の大津絵にひとし。清水寺の額に頼政が怪
鳥を射たる図はこの海北忠左衛門が筆なり。寛永十二年乙亥六月吉日と識したり。また画者の名はしら
ず、奴の番椒を肴にして酒を大杯にて飲むところをかきたる上のかたに当時の小歌を書たるは、正しく
光広卿の書なりと云【古きすまふの絵に此絵の画法なるあり】。鬼の念仏ひさごもてなまづ押る図等の
ことは雑考の中にいひたり〔似我蜂物語〕に、上町の友達共、より合て初心連歌の会をして遊はむとて、
先(マツ)床には大津粟田口の道にて売(ウル)天神の御影をひつはり、竹の筒に花を生(け)、かはらけに抹
香をふすべける。〔松の落葉 三〕大津追分画踊の唱歌あり。其内に「猫が三味ひく酒のむ奴あたご参
りに袖を牽れた云々〈「愛宕参り」の割書あり。略〉こゝのゑ元より仏像を宗として其の外は旁にかき
たる物にはあらず。仏像は田舎人の求るために書初しを、後には買ふ者もあらざれば、おのづから書ず
なりたるこそ【今も追分にて仏絵を売れども常の仏画を彩色したる也】。其かみ此絵の外に今の一枚絵
のやうなる物もなければ、此を童の手遊にせしなり。〔傾城返魂香〕といふ浄るりに、浮世又平大津に
住て絵をかきたる由を作れり。是に依て其説ます/\広がりぬ。〔一代男【天和二年】〕いづもさき寺
泊りの処、屏風引まはして有けるおしゑを見れば、花かたげて吉原参の人形板木おしの弘法大師ねづみ
のよめ入鎌倉団左衛門他門庄右衛門がつれやつこ、此みな大津の追分にてかきし物ぞかしとあり。〔賢
女心化粧 三〕池の側針屋花かたけたおやまゑなどかく人を隣り合せ云々〟
☆ 嘉永四年(1851)
◯『濡燕稲妻草紙』三編(一猛斎芳虎画 玉川亭調布作 山田屋庄兵衛板 嘉永四年刊)
(東海道五十三次 大津駅之図)
本家 大津絵『濡燕稲妻草紙』三編上冊扉(国書データベース)
☆ 明治以前
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
(追分絵)
1 座頭のふどしを犬が追分絵〟 「花紋日」享保14【雑】
2 うれしがる・おぢに貰ふた甥わけ絵「都どり」元文6【雑】
注「大津絵」
〈1の座頭の褌を咥える犬は代表的な大津絵の題材。2は叔父(おじ)のお土産追(おい)分絵。叔父と甥の駄洒落〉
(大津絵)
1 大津絵は奴の部屋の女房共〟 「たみの笠」 元禄13【雑】
2 馬と鹿大津絵さへ書分る〟 「へらず口」 享保19【雑】
3 大津絵のよく出来たのはうれ残り 「川柳万句合」宝暦13【雑】
注「追分絵」
〈1・2の槍持ち奴と馬は大津絵の代表的は画題だが句意は不明。3は素人画のようなもののほうがよく売れる
だろうといううがち〉
4 殿よりも奴を誉る大津絵師 「早苗歌」元文4【雑】注「画題」
〈大津絵師にとって画題の奴は「さまさま」である〉
5 大津絵のやうに王昭君を書き「柳多留11-22」安永5【川柳】注「醜く」
〈前漢の絶世の美女。彼女から賄賂が無かったため、宮廷画家・毛延寿はさなから大津絵のように彼女を醜く画
いたのだろうと穿ったのである〉
6 大津絵は上手か下手か知れぬ也「柳多留50-2」文化8【川柳】
7 大津絵は百鬼夜行で思い付 「柳多留93-27」文政10【川柳】
8 大津から道連れ鬼と福禄寿 「柳多留141-20」天保6【川柳】
〈鬼と福禄寿の大津絵を土産として持ち帰ったのである〉
9 鬼の年仏の功もなく母夜泣き「成之居士追善絵」明治23【続雑】注「夜泣きの呪い」
〈大津絵の「鬼の念仏」は子供の夜泣き止めの護符〉
◯『梧園画話』(細川潤次郎 明治十七年(1884)四月刊)
(国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)(48/76コマ)
〝大津画
其の何人から始まるかを知らず 大津駅を以て名を得て 一つに追分画と称す 画仏像多し 又雑画有
り 相伝ふ 昔飛騨山中に髪僧有り 人呼びて毛坊主と為す 主に耕◎を業とす 隣人死すれば則ち経
を誦して之を葬る 其の崇信する所の者 石仏 大津絵 閻魔王 及び観音有り 俱に古画なり 近時
大津人 仏像及び雑画を板に刻み 彩を施し 刷印して之を売る 果然 則ち 其の由来する所遠し
或いは浮世又平より始むと謂ふ 本朝文鑑等の書に見ゆ 又謂ふ 別に又平なる者有り 大津又平と称
す 即ち始めて此の画を作す者なりと 未だ是否を知らず〟
(◎「椎」の下に「木」)
◯『東洋絵画叢誌』第五集・明治十八年二月刊(復刻「近代美術雑誌叢書」3・ゆまに書房・1991刊)
〝大津絵
此絵は何頃より始まりたるか其年度を詳にせざれども、江州大津に狂画を売るものあり。浮世又平とも
呼ぶ。好色一代男(天和年中の印本)に、大津追分に種々の戯画を売ることを載す。元禄四年正月、芭
蕉桃青翁が粟津の庵にて「大津絵の筆のはじめは何仏」に吟じたる事あれば、此頃のものと見ゆ。古き
鎗持の絵に、八十八歳又平久吉(ヒサヨシ)と落款あるもあれば、天和年中より今少し古くありしならむ。世
に藤娘・夜叉念仏・鎗持奴の三幅対の狂画あり。其寓意を解けば左の如し
藤娘の解
紅顔細腰窈窕たるも、齢は行水と倶に過ぎ、終に卒塔婆小町の如く老衰するときは、誰か忌嫌せざらむ
や。容貌妍麗の特(ママ恃?)みなきは、花の盛りの如く凋落の時に至れば、顧る人もなく、寧ろ荊釵蓬髪
なりと雖も、心裏の貞操こそ真の美人なれと云ふ諷意なり。
古歌に さかりぞと見る目も共に行水のしばしとまらぬふぢ浪の花
夜叉念仏の解
心裏邪曲にして、念仏三昧する人を刺撃する所の寓意にして、表面には殊勝の形容をするも、心意邪悪
なれば神仏何ぞ之を加護せむ。寧ろ身を墨染に装飾せずとも、心裏正直ならむことを望むと云(ふ)諷意
なり。
古歌に まことなき姿ばかりは墨染のこゝろの鬼はあらはれにけり
鎗持奴の解
微々たる小身にして君主の威権を藉るものを刺撃する所bの寓意にして、其下風の人に対するときは、
臂を張らし白眼に見下し、却て上に向へば巧言謟諛を以て鬚の塵を掃ひ、人は鳥毛の一文奴たらんより
は寧ろ野に在りて農耕を務むるこそ大手振毛の人ならめとの諷意なり
古歌に ふる人もふらるゝ人も人は人こゝろとり毛の末にわかるゝ〟
◯『明治東京逸聞史』②p131(明治三十七年(1904)記事)
〝大津絵〈本之話(三村竹清著)〉
昭和五年に発行された三村竹清の「本之話」の中に、次のような一話が出ている。
明治三十七年一月九日に、青柳で開いた集古会に、浅草の釈迦六が、大津絵の三尊仏を出品した。会
が果ててから、それを入札にしたところが、先々代の村幸が、大はずれで八円十銭で落札した。そうし
たら釈迦六が気の毒がって、そんなにならなくッてもいいんだと、五円で手離した。そうしたことがあ
る。近頃の大津絵の三尊仏を主に、外のものも併せた十点を、或好事家が望んで、二千円で買取ったと
いう噂である。話半分に聞いても千円である。今昔の感に堪えない〟
◯『明治東京逸聞史』②p176(明治三十八年(1905)記事)
〝「今様大津絵」〈絵葉書趣味〉
この年七月、日本絵葉書編「絵葉書趣味」という一書が版になっている。絵葉書の流行は、かような
単行本までも生むに至った。巻末に同会発行の絵葉書の広告を載せて居り、その中に浅井忠の「今様大
津絵六枚 十五銭」とあるのなど、大いに注目を惹くものがある。そして本文の中に、泉鏡花の絵葉書
談というが出ているが、鏡花は右の今様大津絵を、面白いといって褒めている。古い大津絵の面白さを、
浅井などという人は、早くも認めているのが面白いし、その浅井の大津絵を、鏡花が認めているのも面
白い〟
◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(上79/110コマ)
〝(大津絵節歌詞)
外法梯子剃り、雷錨で太鼓を釣上る、お若衆が鷹を据え、ぬり笠お山は藤娘、座頭の褌を犬わん/\吠
へてびつくり仰天し、遽てゝ杖をふり上る、荒気の鬼も発起して鉦撞木、瓢箪鯰をおさへましよ、奴の
槍持、鐘弁慶、矢の根の五郎〟
◯「集古会」第百五十回 大正十四年(1925)三月(『集古』乙丑第三号 大正14年4月刊)
◇課題 大津絵
山内神斧(出品者)大津絵美人 一幅 /中判大津絵 五枚 塔・大黒・鳩・鶏・猫と鼠
加賀翠渓(出品者)大津絵美人 一幅
山中笑 (出品者)大津絵鬼の酒盛 一幅
上羽貞幸(出品者)鬼の念仏 一枚
林若樹 (出品者)
大津絵三尊仏 一枚 元禄頃 /若衆提菖蒲図 一軸 元禄頃
藤若衆図 一幅 享保頃 /若衆図 一幅 宝永頃
猿に瓢箪図 一幅 /鷹匠若衆図 一幅
雷公釣太鼓図 一幅 /鬼の念仏図 一幅
鬼の念仏 一幅 /弁慶図 一幅 /座頭図 一幅 /外方図 一幅
大津絵中判 廿一枚 天明より安政迄
大津絵合 文久元年 小色紙大津絵に橋場わたし、玉松園琴住の狂歌合を
藤廼屋柚鷹の判したるもの
狂歌画本大津みやげ 一冊 白縁斎梅好狂歌 安永九年刊 稀書複製会本
追分絵 一冊 珍舎編 宝永六年序 稀書複製会本
三浦おいろ(出品者)
鐘供養法大津絵 肉筆 一冊 河竹戯作
所作事大津絵 肉筆 一冊 勝諺蔵作
狂歌大津絵 一冊 雑誌『月とスツポンチ』明治十二年九月五日第四十二号
大津絵試筆狂歌 画入 一冊 狂歌東街道所載 安永九年庚子
大津絵滑稽はかき 一葉
三村清三郞(出品者)
大津絵鍾馗 一幅 /大津絵鬼の念仏 一幅 表具もとのまゝ
大津絵為朝 一幅 /大津絵藤娘 一幅
大津絵外法大黒 一幅 /大津絵弁慶 一幅〟