Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ おかばしょ 岡場所浮世絵事典
   ☆ 宝暦年間(1751~1763)     ◯『女大楽宝開』月岡雪鼎画〔国文学研究資料館「艶本資料データベース」〕   〝江戸 川庭通     つぼね 六寸 但し片しまい 六百文ヅヽ ちう夜 一貫二百文     同所のれん 一ト切 百文    同  深川     よび出し 一切 金一ぶ ちうや 金一両     げいこ  ちう夜 六枚    同  やぐらした     よび出し 一切七匁五分 ちうや 四枚    同  しんち     見せつき 拾匁 ちうや 二十匁    同  卅三げんだう     見せつき 拾二匁 七匁五分 但しミせニよつてちがひ有    同  しな川     見せつき 六百文 ちう夜 一貫二百文             同  はしむかひ     一切 四百文 ちう夜 八百文    同  こほり川     見せつき 十匁 七匁五分    同  高いなり社内     見せつき 四百文 ちう夜 八百文    同  あかぎ明神社内     よび出し 拾二匁 ちう夜 四枚    同  おとは町     ざしき持  六百文     まはり女郎 六匁      ちう夜 一貫二百文 ざしきなし    同  根津ごんげん     社内 四匁 ちう夜 拾匁    いろは茶や 四百文    千住 ひる六百文 よる六匁    けころばし 一切 三匁    ふなまんちう   はな 三拾文    夜たか      はな 廿四文    てうせんながや  はな 八分    さん田どうほう町 はや 五拾文    よしだ 一切 四百文 六百文 但しざう用とも〟    〈金一両=金四歩=銀六十匁=銭四千文(四貫)〉     ☆ 安永三年(1774)     ◯『婦美車紫◎(鹿+子)』浮世偏歴斎道郎苦(ドウラク)先生著(『洒落本大成』第六巻所収)    〈官許の吉原と四駅(品川・新宿・板橋・千住)の遊郭および岡場所(私娼街)をそれぞれ浄土に見立て、九品(上中     下の三品をさらにそれぞれ上中下に分ける)で分類したもの。「たて」は趣き、「印」は百文、「さわぎ」は音曲入     りの酒宴をいうか〉     〝九蓮品定   ◇上品上生之部【此部は吉原にはじまり、江北馬道におわる】    新吉原  直段付は細見にゆずる       此浄土、随分古風にしてうまみあり、ぼつとりと和(ヤハ)らかく、髪の風は派手ならず、外八文字       はむかしの風義あつておもしろし、五町廓の内に河岸つぼねありといへども部類をわかたず    馬 道  チヨンノマ一分       此浄土は物事しづかにて、人柄髪の風地娘といふたて、いたつて人目を忍び慎むゆへさわぎはな       らず      ◇上品中生之部【此部は江南の品川にはじまり、江東回向院前ニ終】    品川駅  十匁、七匁五分、七百文       此浄土は大てい吉原をまなぶ、しかしおよばざる事は外八文字、客を一人り寐させる事、茶屋を       御亭(ゴテイ)さんといわざる事、人がら尤(モツトモ)次(ツギ)也、其外なんすりんすの言葉づかひは大       かた違はず、八ッ山に大門をたてたし    一ッ目  チヨンノマ一分       此浄土は大方浅草馬道といふたて、髪の風人柄よし、此所はなかんづく人目をいとひ、遊びに尤       もむつかし、但し此所をば世人独(ヒトリ)茶やといふ    回向院前 チヨンの間、引はり       此浄土、人柄髪衣裳の着こなし一ッ目に違はず、尤もさわぎならず、但し世人此類(ヒトツメ)を呼ん       でヤマネコと云   ◇上品下生之部【此部は仲町にはじまり、江南氷川におわる】    深川仲町 昼夜四つ切 一切十二匁       此浄土は素人といふたて、甚だ花車(クワシヤ)風流を好しが、今は一向に衣裳髪の風伊達に成り、人       柄も尤もあまりよくなし、しかしさわぎ一事は爰にこす所なし    土 橋  右同断       此浄土は大方仲町におなじ、何れ甲乙なし、世間時花(ハヤリ)髪風は仲町土橋よりまづ始り、伊達       を専ら表とす    赤 城  昼夜四ツ切リ チヨンノ間 一分       此浄土、風義回向院前に同じ、髪の結様衣裳武家をまなぶ、あまりさわぎはならず、但し此所、       山ネコと云    麻布氷川 拾匁       此浄土、仲町土橋にならぶ、髪の風衣裳着こなし及ばず、其外あまり違はず          ◇中品上生之部【此部、深川表やぐらに初り、江西の行願寺に終る】       深川表櫓 昼夜四ッ切 七匁五分       此浄土、髪の風衣裳着こなし大がいは仲町を真似る、しかし人柄およばず、音曲さわぎは大がい       仲町におなじ    同 裏櫓 右同断       此浄土大てい表櫓のごとし、その外さわぎ同断    同 裾継 右同断       此浄土、裏櫓より少し次(ツギ)なり    四谷新宿 十匁、七匁五分       此浄土はやう/\今春成就し、芝品川三田あるひは深川所々より入込、いまだ風俗きわまらず、       大ていは品川をまなぶ、しかし人柄およばす       〈内藤新宿の見世開きは安永元年(1772)四月、享保三年(1718)の廃止以来、五十余年ぶりの再興である〉       芝神明地内 昼夜四ッ切 一切七匁五分       此浄土髪の風衣裳着こなし大方三ぐら(ママ、櫓か)を真似る、しかし人柄およばず、爰に新見世古       見世とあり、古見世の方よし    南品川駅  昼六印夜四印       此浄土は髪の風衣裳着こなし大がい本宿新宿を真似、はりつよし、しかし人柄不及、なんすりん       すの言葉づかい違はず、但し橋手前は甚だ吉(ヨシ)、向ふは少し次(ツギ)なり    牛込行願寺 昼夜四切り 一切七匁五分       此浄土は大かた赤城にならぶ、髪の風衣裳つきおなじ、人柄少し次なり   ◇中品中生之部【此部は江東深川佃に初り、江北上野山下におわる】    深川佃   昼夜四ッ切 引はり       此浄土は三櫓にならぶ、髪の結風衣裳の着こなしおよばず、其うへ座鋪にて時花(ハヤリ)歌をうた       ふ、人柄はよくなし    同新大橋  右同断       此浄土、三櫓を真似る、髪衣裳佃におなじ、しかし若いもの女客を引はるゆへ、米のくらいやす       し    深川新地  右同断       此浄土は佃に物ごと皆准(ジュン)ず、但し髪の結ひ風どこぞ安し、其うへ此所は分て時花歌をうた       ふ    深川石置場 昼夜四ッ切 引はり       此浄土、大がいは新地におなじ、衣裳髪あまりよくなし    八幡御旅所 右同断       此浄土、石場に違ひなし、但し人柄同前    築立新地  右同断       此浄土、漸々去春より成就す、髪衣裳新地におなじ、いまだしかと評なし    市ヶ谷八幡 昼夜四切 一切六印       此浄土、まへ/\は人柄よかりしが、今は下品なり、衣裳髪御旅に類すべし    三田同朋町 右同断 外に五印七印       此浄土は髪の風衣裳たいてい神明を真似る、人柄およばず    大根畠   右同断 外に四六       此浄土は前々は下品なりしが、去夏末より改り三田に類す、人柄はどこぞ安し、但しこゝに四六       見世あり、尤人がら次なり    浅草柳下  チヨンノ間 二印       此浄土はたいてい山下のるいなり、髪の風ひとがらおよばず、尤同朋町の上に置べきなれども、       きやくをじしんよぶ所安し    上野山下  チヨンノ間 二印       此浄土は素人めいて、ぼつとりとうまみあり、髪の風娘といふたて、しかし衣裳は綿ふくおゝし、       尤人がらは佃に類すべけれど、客をよぶゆへ安し、右柳下此類をケコロバシといふ   ◇中品下生之部【此部は江東三十三間堂に始り、江北千住に終る】     三十三間堂 昼六印 夜四印       此浄土は佃にならぶ、しかし髪の風衣裳着こなしおよばず、其うへはやり歌をよくうたふ故に人       柄ずつと安し、此処去八月中の嵐ゆへ破却してとうぶん休なり       〈『武江年表』によると「八月中の嵐」とは明和九年(安永元年・1772)の八月二日及び十七日の大暴風雨〉
    音羽町   四六       此浄土、髪の風衣裳大てい三間堂に類す、人柄下ひん也、そのうへはりつよく顔で人きるの風、       部屋もちのあるのもおかし、カノヤ中ジマヤサドヤこれらなり     深川町入船町 四六       此浄土、大てい三間堂にかわることなし、さして外に評なし、但し爰に昼六印夜六二三間あり、       人柄よつほどよし     市ヶ谷愛敬  右同断       此浄土、大がい音羽に類す、人柄は少しよき方     赤坂田町   右同断       此浄土、大ていは愛敬に類す、評外になし     三田新地  四六       此浄土、髪の風衣裳大がい赤坂に類すべし、評義さしてなし     谷中いろは 右同断       此浄土衣裳髪赤坂より少しよし、但しじしん客をよぶ処いたつて安し     麻布藪下  右同断       此浄土、三田新地に類す、外に評なし     板橋駅   右同断       此浄土、髪の風衣裳人柄ともに音羽を真似る、但し爰は言葉づかひ田舎めいておかしみ有り、但       し近きころ大ていよし     浅草どぶ店 四六       此浄土、髪衣裳何れ外に評なし、藪下に類す人柄同ぜん     世尊院門前 四六       此浄土、たいていどぶ店(タナ)におなじ外に評なし     根 津   四六       此浄土髪衣裳音羽に類せしが、近き頃は人柄衣裳下品也、但し評藪下におなじ     千住駅   四六       此浄土、髪衣裳は吉原の河岸を真似、たいてい高慢なる処也、しかし人がらはおよばず、尤も橋       手前ずつと人がら次也   ◇下品上生之部【此部は江北の朝鮮長屋に始り、江西の赤坂におわる】     朝鮮長屋  チヨンノ間コロリ       此浄土、髪の風衣裳着こなし、たいてい柳の下に類す、但しモウシ/\と呼所いたつて安し     音羽裏町  チヨンノ間コロリ       此浄土、髪衣裳ともに大見世をまなぶ、しかし人柄及ばず、モシモシとよぶ     品川三丁目 昼三夜二       此浄土、髪衣裳裏町に同じ、爰を世人テツキウと云ふ     万福寺門前 チヨンノ間半       此浄土、髪衣裳朝鮮に同じ、但し引くことなし     本郷【大根畠千坪】右同断       此浄土、髪の風衣裳甚だ下品なりしが、去秋改りしより大てい万福寺同前、まへ/\のごとく今       は引はらず     大橋六間堀 右同断       此浄土、髪の風衣裳大ていよし、よぶばかり引はらず     麻布市兵衛町 右同断       此浄土、大てい六間堀同前、よぶ事は甚し、長屋によりて引はる     赤坂田町  右同断       此浄土、髪衣裳ともに六間堀同前、但し長屋によりて引はる   ◇下品中生之部【此部は江東の安宅に始り、江西の鮫がはしにおわる】     安宅長屋  チヨンノマ五十       此浄土、大てい六間堀をまなぶ、但し衣裳人柄次也、よぶばかり引はらず     直助長屋  右同断       此浄土、大ていあたけ同前、引はらず     麻布藪下  右同断       此浄土、髪の風衣裳人柄評なし、淋しき時は引はる     浅草とぶ店 チヨンノマ半       此浄土、髪衣裳直助におなじ、人柄少し次なり、爰も折々引はる     本郷丸山  右同断       此浄土、髪衣類人柄どぶ店におなじ、此所引はる事甚し、きるもの御用心     三田同朋町 右同断       此浄土、髪衣類共にあたけに類す、人柄尤も同前也、引はらず、但し金平長屋高砂長屋念仏長屋       とあり、金平長屋よし     三田新地  右同断       此浄土、髪衣裳ともに丸山におなじ、但し引はらず     浅草堂前  右同断       此浄土、髪衣類人柄どぶ店におなじ、引く事はなし     深川綱打場 チヨンノマ半       此浄土、髪の風人柄大ていどぶ店に類す、引事勝れて甚し     四ッ谷鮫ヶ橋 右同断       此浄土、髪衣類まへ/\は能かりしが、今はずいぶんわろし、引はる事甚し、此所より廿四字の       きり売いづる、いわゆる牛込桜の馬場、槙河岸、加賀原、四ッ谷堀端、あたご下切通し、采女が       原、外桜田御堀端、京橋比丘尼橋をさかいて鮫ヶ橋の場所なり   ◇下品下生之部【此部は江南ぢく谷に始り、江東猪の堀に終る】     市谷ぢく谷 チヨンノ間半       此浄土は髪衣類人がら鮫ヶ橋におなじ、引はる事甚し御用心/\      【但し此所は谷町といふ、しかれども常中往還道あしく、いかなる日でりにもかはく事なし、しか       るがゆへにぢく谷の名あるか】     佃こんにゃく嶋 右同断       此浄土、やう/\ちかき比あらたまりしかど評なし、大てい綱打同前也     本所入江町 右同断       此浄土、衣類人柄ぢく谷に同じ、但し引事甚し、こゝに四六見世三四軒あり、わづか故略す、人       柄どぶ店に類す     吉田町   チヨンノマ半       此浄土、入江丁にかわる事なし、もしも通りかゝりつかまへらるゝと雷がなつてもはなさず、お       そろしき処也。こゝよりも切売いづる両国向薬研堀、柳原土堤、筋違橋、駿河台、護持院はら、       飯田町、石町河岸、四日市原、御堀ばた通、京橋びくに橋迄本店の場所也     吉岡町   右同断       此浄土、吉田町に替事なし、切売り同前に出る      【但し吉田町入江町此類を世人両口といふ】     音羽鼠坂  右同断       此浄土、さして評なし、吉岡町に類す、引はる     世尊院門前 右同断       此浄土、鼠坂にちがはず、引事甚し     品川鈴守  右同断       此浄土、去夏にやう/\成就しかど、評なし、但し鼠坂同前     井野堀   チヨンノマ三十二字       此浄土、髪の風衣裳着こなし人柄大てい大つへのごとし、其うへ達者成(ナリ)は少(スクナ)し病者多       し、但し船によくのる、夜みせは行徳河岸へはる、雨風の節は永久橋または永代橋の下へみせを       はる、此類三人八丁堀稲荷橋へいづる、世人是を名づけて船まんぢうとよぶ        〈以下は「九品」に入らなかったもの〉        新大橋袂  チヨンノマコロリ       此浄土の風俗、頭に黒き頭巾をいただき、衣裳は常のごとく、其かたち仏体也、モウシモウとよ       ぶことしきりなり     三嶋門前  チヨンノマコロリ       此浄土、新大橋の類、人柄衣類少々次也、世俗此類をマルタといふ、尤も此所大橋出ばり也、神       田大工町田町、多くはあたけ御船蔵前よりいづる〟     ☆ 寛政年間(1789~1800)     ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥123(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政中頃迄は隠売女所々有之、本所回向院前、牛込赤城社内、芝神明社内、是等は金猫銀猫とて、其外    本郷大根畑、深川清住町、芝田町、本所亀沢町、本郷丸山片町、此外所々有之候て、皆取払となりける、    其頃は下谷御橋左右表裏町とも、ケコロとて二百札の切売繁昌せし、是も同様御取払被仰付、今有所根    津門前、深川八幡門前、音羽観音門前、谷中感応寺門前、一ツめ弁天門前、是等は残りけり、其余は厳    敷御取払被仰付ける〟     ◯『一話一言』巻30〔南畝〕⑭165(大田南畝著・文化六年六月記)   〝享保以後根津護国寺、深川八幡、市谷八幡、牛込赤城、赤坂氷川等に遊女ありて、脂粉銭を上納せしが、    寛政の新政に尽く禁ぜられて、今は深川門前と護国寺門前にのみわづかにのこれり〟  ◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「岡場所」(30/34コマ)   〝 天明の末より寛政以来までに廃処となりたる売女屋    比丘尼【新大橋の向河岸今舟宿有所にて軒を並有 其風俗は切見世のごとく 只頭に浅黄頭巾をかぶり        ゐたり】    大橋 【今籾蔵の処は深川常盤町へ移る】    けころ【上野広小路にて銭見世】    銀猫 【本所回向院の前 是は南鐐一片の料なれば かくいふ俳優嵐龍蔵其頃の流行ものにて分銅の役        を付る故龍蔵見世と云】    蒟蒻島【霊岸島埋立地 今籾蔵の処】    中洲三俣富永町【大橋手前の寄洲築地】    根芋 【芝田町九町目の横町坂ノ上にて芝泉岳寺の方へ入る横町切見世】    舟まんぢう【箱崎永久橋際川中】    大根畑【本郷 こは幼稚にてよく覚えずとこそ】    土橋 【深川永代寺門前◎鮮家平清の並ニマ銀十二匁 見世一旦廃絶後一片の料に再興】    安宅 【御舟蔵前今茶店ある処】     此外は近く一時に廃所と成し地にて人皆知る事なれと記し置    表櫓 裏櫓 裙継 大新地 小新地 古石場 新石場 松井町 御旅所 常盤町 弁天 あひる    網打場 六尺長屋 長岡町 赤坂麦飯 三田三角 麻布市兵衛町 じく谷 鮫ヶ橋    (切見世)浅草堂前 音羽町 根津 谷中いろは やぶ下〟  ☆ 天保年間(1830~1843)     ◯『岡場所遊郭考』〔未刊随筆〕①19(石塚豊芥子著・天保十三年以降の稿本)    〈「当時」及び「今」とは天保年間(1830~)頃と思われる。切見世=局見世。四六見世は夜は400文、昼は600文。     「嫂」は銭の「文」と同義〉     ◇本所    弁天   本所一ッ目、当時繁昌地也         価金一両一歩、但シ昼三ッ夜二ッ         大和田 宮本 若松 千丸屋 かもよし         相模屋子供 田むら屋子供         酌取女、呼び出しあり    松井町  本所一ッ目、当時繁昌地也         価金二朱、昼三、夜二         大吉屋、大村田、金子屋 浜野屋    入江町  本所三ッ目、当時繁昌地也 四軒ト云、又鐘撞堂共云、四六    回向院前 当時なし         金猫十五匁、銀猫七匁五分    吉田町  当時繁昌也 吉田町吉岡町より江戸中処々え出る、是を夜鷹といふ 一ト切廿四文         当時切売場所 両国向、浅草御門内、堀田原、上野山下、石町河岸、御堀ばた         昔ありし場所 薬研堀、柳原土手、筋違橋、駿河台、護持院原、飯田町、四日市原                西福寺裏門前、京橋びくに橋      以上、天保十三年寅八月取払      ◇深川    仲町   七場所ノ随一         昼夜七十二匁、時ばさみ一切拾二匁、八ッに迎付、正月松の内仕舞六十目         尾花屋 梅本 山本 此三間料理茶屋         鶴屋 相模屋 西の宮 中島屋 丸平 難波屋 福田屋 かづさや 右子供屋    土橋   当時壱軒もなし、昔は仲町よりもはやりし場所なり、深見川ト云         料理茶屋 田丸屋 小川屋 ましや 江川屋 松葉屋 かぎや               上総屋 白木屋 仙国屋 金津屋 堂島屋 皆河屋 已上十二軒         子供屋  山田や 坂田屋 住吉屋 三河屋 伊豆屋 来元屋               福田屋 中野屋 新シ屋 下総屋 春木屋 已上十一軒     深川七場所の内、仲町土橋は一対で、甲乙もなく繁昌の地なりしが、土ばしは追々衰へ、予が覚へし     も四五軒もありしが今は一軒もなく絶けり、此所のかくなりしも、三十三間堂の妓楼のつぶれし故な     らんか    三十三間堂 当時なし    入船町  当時なし 四六見世             向土橋  当時繁昌         向土橋、佃新地、里俗ウミと云、永代寺門前海手蓬莱橋の向【俗ニガタクリバシト云】         当時昼夜一貫文、夜計金壱朱         たつや 大塚屋 かじまや 川口 湊屋 鶴岡屋 中むら         蓬莱橋向、酌取女あり、俗にあひるといふ アヒル長屋 一ト切百文    表・裏櫓 当時繁昌 永代寺門前山本町【里俗やぐら下】         昼夜五ッ切、金弐朱也、但し【昼三夜二】四ッ泊、一ッニ時はさみ、料理付二朱也             若松 山口 上田屋 東屋 出雲屋 ときはや    裾継   当時繁昌 価矢倉(ママ櫓)同断【或人云、天保十年己亥仕方替にて昼五寸ト改ト云々】         津の国屋 中むらや 田原屋     大新地       価十二匁 七匁五分         百歩楼 舟通楼【始五明ト云】大栄楼 大椿楼 稲本 伊勢本 二見屋 山本 中島屋    新石場  当時繁昌 価七匁五分         小紅屋 小松屋 亀屋 坂田屋 上総屋    古石場  当時繁昌 越中島ト云 価七匁五分    常盤町  当時繁昌 価金二朱 但昼三夜二         虎屋 とだや 豊本         当初始は新大橋にあり     安宅   当時なし 深川御船蔵前町【里俗あたけト唱申候】一ト切百嫂 文政年中取払    網打場  当時繁昌 安宅直助長家、両所なし         深川松村町ト云、局長家、切見世         安宅(深川御船蔵前町)当時なし         直助屋敷 価七匁五分 五十叟 今はなし 当所はいづれの地なるやいまだしれず    御旅   当時繁昌 八幡宮御旅所故、御たびと略語に云         価七匁五分 但昼三夜二         泉和屋 三春屋 関本 小玉屋 ふじたや    蒟蒻島  当時なし【本名霊岸島埋立地築立新地トモ云、明和の頃始て築立たり】         昼夜四ッ切 一ト切七匁五分         当地安永二巳年夏より始り、大に繁昌の地なりト云      以上、天保十三年寅八月取払、新吉原え入    三股中洲 安永元年築立、三叉富永町と号す、寛政元年元にもどしほり川となる         茶屋九十三軒         (茶屋、船宿、芸者名あり、全略)      ◇根津~板橋    根津    宝永三年より天保九年まで百三十余年永続す、天保十三年八月取払         (宮永町の妓楼名あり、略)    谷中いろは 天保十三年八月取払 谷中感応寺前新茶屋町(昔四十七軒あり、故にいろはという)    世尊院門前 当時なし 駒込千駄木     大根畑   当時なし 本郷新町家 七匁五分 四六見世 切見世千坪     丸山    当時なし 本郷 価五十嫂 切見世ばかり    板橋    昼夜四六 飯盛女 二十七軒の定め    白山    当時なし      ◇上野~浅草    山下    当時なし          山下稽古路(けころ  都合百七軒 一ト切二百文 泊ナシ     浅草溝店  長遠寺門前、経王寺蓮妙寺善慶寺、是等の門前地をすべてどぶ店とよぶ          大見世 四六 チヨンノ間半 五十嫂    浅草柳下  チヨンノ間二百文    万福寺門前 チヨンノ間五十嫂    浅草堂前  三十三間堂前。浅草新堀端本門跡より西の方 当時局見世ノ第一          天保十三年壬寅、店頭徳二郎驕奢ニ付御咎メ、同十四年、取払、跡乞胸移ル          一ト切二百文より泊り金二朱    朝鮮長屋  当時なし 浅草六尺屋鋪と云、チヨンノマコロリ    金竜門前  当時なし    三島門前  当時なし    浅草馬道  当時なし チヨンノマ金一歩    智楽院門前 当時なし    小塚原   当時繁昌の地なり 四六見世    千住    当時繁昌の地なり 四六見世    浅草広小路 当時なし      ◇市ヶ谷~新宿    音羽    護国寺門前 当時繁昌也 天保十三年八月取払          呼出し 七五          子供屋 紅屋 伊勢屋。 料理屋 住吉屋 三河屋 吉田屋。    鼠坂    護国寺門前 当時なし 寛政年中頃までありしと云          竃二軒【金魚増/ガチヤ金】局見世十軒    赤城    牛込 当時なし(安永頃)昼夜四ッ切【一ト切/チヨンノマ一分】    行願寺門前 牛込 今はなし 昼夜四ッ切 一ト切七匁五分          赤城行願寺とも山猫    ぢく谷   市ヶ谷谷町 当時繁昌也 五十嫂 天保十三年八月取払    愛敬稲荷  市ヶ谷 当時なし 昼夜四ッ切、昼六夜四    鮫ヶ橋   四ッ谷 当時繁昌 天保十三年八月取払    赤坂    大見世十軒 田町四丁目 同裏町四丁目          局見世【竃七十五軒/見世百二十七軒】田町五丁目 同裏町五丁目           当時繁昌 昼夜二ッ、四六、芸者金二朱也。天保十三年八月取払    赤坂氷川  田町五丁目 昼夜四ッ切、一ト切十匁 当時なし    新宿    甲州街道、当時江戸四駅第二繁昌地なり       ◇芝~品川    芝神明門前 当時なし 昼夜四ッ切 一ト切七匁五分    市兵衛町  麻布 当時繁昌 昔は五十嫂、当時百文、竃十三、玉数百四五十          天保十三年八月取払    麻布氷川  当時なし 昼夜四ッ切十匁    高稲荷   本名世継稲荷 五十嫂〈「当時なし」か〉    麻布藪下  当時繁昌 価四六    三田三角  当時繁昌 大見世金二朱、局見世一ト切百文 天保十三年八月取払    三田同朋町 今はなし 昼夜四ッ切、一切六百文。局見世、五十嫂    五光稲荷  寛政の頃まで 今はなし    ねいも   芝車町 当時なし 価四六      鈴ノ森   当時なし 局見世、五十嫂    品川    当時江戸四駅第一繁昌也          大見世十匁、中七匁五分、小五匁      ◇その他     躍子   (踊り子)橘町、難波町、村松町    船饅頭   深川井ノ堀より、行徳河岸、永久橋 永代橋 八丁堀稲荷橋へ出る          チヨンノ間三十二文    比丘尼   当時なし 丸太とも云う 上比丘尼は子比丘尼二人連れる    地獄    当時盛ん 金二朱也。此名昔より隠売女を差ていふか    引はり   本所三笠町吉田町より多く出る。又は地ものも交り出ると云々    (ヒツパリ)   天保五~六年頃、価一夜六百文~四百文。天保十年四月十二日召捕          此類昔よりあるは、永代橋、将監堀、かゝり船。                   本所竪川、横川、小名木川通り、かゝり船           是等へ売を提重又は洗濯女とも云々      ◇男色之部    芳町       湯島天神社地    芝神明門前 七軒町号    八丁堀代地 神田塗師町    此外宝暦明和ノ頃アリシ地所、当時断絶    平河天神前 赤城 浅草馬道 本所回向院前 英町 一ヶ谷八幡前     (男色細見『三の朝』(風来山人(平賀源内)作・明和五年刊)あり。略)     ◯『江戸町触集成』触書番号一三五五四(近世史料研究会編・塙書房)   (天保十三年三月十八日付の触書)(「而」は「て」に「江」は「ぇ」に直した)   〝端々料埋茶屋・水茶屋渡世致候もの之内、酌取女・茶汲女等年古く召抱置候もの共、近年猥ニ相成候趣    ニ相聞候、一体新吉原町々之外は、深川永代寺門前を始、都て隠売女ニ候は勿論之義ニ付、此度諸事御    改革之折柄、風俗ニ拘り候間、右場所々々此節速ニ不残取払可被仰付候処、格別之御宥恕を以、一統御    仕置、御咎等之不被及御沙汰、先ツ商売替之儀御免被成候間難有奉存、当八月迄之内、追々商売替致し、    正路之渡世を可致候、併抱女致し候料理茶屋、水茶屋之分、端々数多可有之候間、相対を以右女子共ハ    新吉原ぇ奉公住替差遺候義、并右渡世之ものとも吉原町之人別ニ加り、遊女屋商売いたし候義ハ勝手次    第之事二候、尤吉原町之ものも奉公人住替之儀申来候ハヾ、給金等ニ付不相当之取計いたす間敷、并引    越来候ものぇ及対談、遊女屋相始候を無謂差障候儀ハ無之様可致候、此上商売替不致、有来候場所ニて    隠売女渡世いたし候もの、且他場所ニ於いても、右同様之儀於有之ハ、夫々厳重ニ御仕置可申付、地主    は武士地、寺社門前地之無差別、其地面永代被召上、家主、名主も可被処厳科候間、兼て其旨を存、右    被仰出候趣厳重ニ可相守候〟    〈料理茶屋や水茶屋の私娼は八月迄に商売替えか吉原に行くか決断せよというのである。なお『続泰平年表』は上記の     触書に続いて)   〝此時芳町・湯島・八丁堀辺二有之少年・女形之男色を禁せらる〟    〈男色も禁じていた〉      ◯『著作堂雑記』(曲亭馬琴著・天保十三年(1842)記事)    (『落書類聚』中巻(鈴木棠三・岡田哲校訂・東京堂出版・昭和五十九年刊)所収)   〝江戸中岡場所と唱ふる隠し売女、皆停廃せらる。当寅八月迄に新吉原町へ引移りて渡世致候共、商買が    へ致候共致すべく被仰渡、此故に吉原へ引移る者、引移り得ざるものと皆其地とを引払ふといふ。深川    ・本所・根津・音羽町・赤坂・三田の三角切見世と唱ふる者迄、其地にて渡世致事ゆるされず。此故に    品川・新宿・板僑・千住の飯盛繁昌すといふ〟     〝天保十三年の春より、江戸中水茶屋・楊弓場に若き女を出し置事を禁ぜらる。又地獄と唱ふる隠し売女    等、又かこひ者といふ者、男二三人あるハ、是又隠し売支に准ぜられて、地獄と共に吉原町へ被遣て遊    女とせらる。同年八月上旬、其類の女子、又客と共に八十四人被召捕しと云風聞あり〟   ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②131(四壁菴茂蔦著・安政元年?)   〝岡場所御取潰    御老中水野越前守殿、御政道正敷、且果敢の気質にて、御先代より誤り来たる事ども、憚りなく改めら    れたり、むかしより岡場所と唱へ、御免のごとく、公然として遊女を抱へ、客を迎へし場所あまたあり    しを、一瞬の間に廃しせられたり、実に天下の美事にして、目ざましき事にこそ、        其場所概略     深川之内      土 橋  上 ・仲 町 上々 ・表 櫓 上 ・裏 櫓 中      すそつき 中 ・新石場 上  ・古石場 上 ・大新地 上      小新地  下  佃   局見世もあり下品     本所之内      御 旅  上 ・弁 天 上々 ・松井町 上 ・常盤町 上      入江町  局見世もあり下品  ・清水町 局見世もあり下品      鐘撞堂  局見世もあり下品     深 川 網内場 上品     音羽町 局見世もあり下品 ・赤 坂 麦めし 中     谷中いろは茶屋 上    ・根 津 局見世もあり中下    局見世計りの部     市谷愛敬稲荷 下  ・市谷ジク谷 下     麻布市兵衛町 上品 ・麻布藪下  中     浅草堂前   上品 ・鮫ヶ橋   下     深川網打場  上品     以前ありて今なきは     本所安宅   大橋びくに  三田三角     本郷大根畑  山下けころ  同金猫銀猫〟     ◯『種くばり』〔百花苑〕⑫155(高柴三雄著・天保十五年(1844)序)    〈「呼出し」は茶屋から迎えを受けて通う遊女。「伏玉」は妓楼(茶屋)に抱えられている遊女で客が来るのを待つ〉    〝(深川)    仲町  深川永代寺門前也        呼出し 昼夜五切   銀十弐匁   芸者男女共同之            一昼夜朝直共 銀七十弐匁     画上ニ用る所之櫛之背反り、光る一文字ヲ造りたるハ、深川ニのミ用る形なり。是を仕掛ト云。又婦     人の帯を丸く結びたるハ画工之杜撰成るべし。皆結び下ゲニする事也。故ニ帯を一丈弐尺を並ト而、     少肥肉あるハ一丈三尺余之長き帯を用とぞ。尤仲町斗りハ冬月は足袋を用、猶雨天ニハ子供屋より茶     屋尾花屋山本等え行ニ合羽を用ゆれ共、其上ニ腰帯を結バず、暑寒ニトモニ只羽織たる侭にて、褄を     取り、傘ハ廻之方ト呼ブ下男さし掛歩行なり。     凡二時を一ト切、都而迎を懸るハ何方も同じ乍、他ハ夜四ッよりハ朝迄を一ト切にて、是を四ッ明と     云。仲丁ニ限りて夜八ッ時ニ迎を懸て、八ッ迎と云。夜九ッより朝迄を一ト切として、是を九明とい     ふ。又売女を子供と呼び、男芸者を太夫と呼ハ諸所同じけれ共、女芸者を羽織と呼て、望るゝトキハ     売女と同く客を取るハ、是又仲町ニ限る也。近頃新地のミ三楼総て此所之風を学びて去る事あれど、     他ニてハ芸者の客を取るハ、厳敷禁ずる事也。表櫓ニてハ、客を取る芸者も稀ニハある事也。    新地  此地ハ深川越中嶋築出し新地也。        呼出し 昼夜五切   銀拾弐匁  芸者男女共同之            一昼夜朝直共 銀七拾弐匁             百歩楼、大栄楼、船通楼            昼夜四切   金二朱                 一昼夜朝直共 弐分弐朱             三好屋、中嶋屋    小新地 惣伏玉 四六    表櫓  呼出し 昼夜四切   金二朱   女芸者弐朱迎            一昼夜朝直共 弐分弐朱            横櫓  伏玉  四六    裾継  伏玉  四六 吉本、鷲尾屋 亀屋        伏玉  昼夜四切   金二朱   女芸者弐朱迎             俵屋、津の国    新石場 此地ハ深川越中嶋町定後屋鋪場所也        此辺之女風俗図ニ記して次ニ見へけり。遊様ニ口伝有る也        惣伏玉 昼夜四切    金二朱   女芸者弐朱迎            一昼夜朝直シ共 弐分弐朱ト     古石場 此地右同断なる地名なれ共、右家作新古故名ニ唱るとかや        惣伏玉 前と同断也    網打  此地ハ深川一色町之後ニて、四方共四ッ谷丸太ニて囲、内大三棟ニ分れてあり。次第外ニ三通        り也    あひる 此地ハ深川佃町を、里俗ニあひると唱る也。        惣伏玉 四六        同局見世 右同所、三十四竃ニ百人口見世ある也。此地ハ至てすなをからず。音羽鮫ヶばしニひとし。    常盤町 深川森下町之南        惣伏玉 昼夜四切    金弐朱   女芸者弐朱迎            一昼夜朝直シ共 金弐分弐朱        伏玉  四六 升屋、山本、三川屋    おたび 此地ハ深川御船蔵前町深川総徳寺元町之八幡宮之旅宿有故ニ、里俗ニ此所を御旅所と云也。        惣伏玉 昼夜四ッ切   金弐朱   女芸者弐朱迎             一昼夜朝直シ共 金弐分弐朱      (本所)    四軒   此地ハ本所入江町ニて古へ局見世斗の中ニ銭見世四軒有りしを、今以て名ニも呼べる也。今         ハ鐘撞堂下ニ五軒ニなり、惣四六ニして、至て遊よき所なり。    同局見世 右同所ニあり         半長屋 竃数十三 口数六十   北長屋  竃数十四 口数五十一         中長屋 竃数十七 口数五十六  六尺長屋 竃数十八 口数八十    弁天   本所八郎兵衛屋鋪本所道役清水氏拝借地也         呼出し 昼夜四切    金壱分   芸者衆             一昼夜朝直シ共 金壱両壱分    松井町  本所立川之南         惣伏玉 昼夜四切    金弐朱   女芸者弐朱迎             一昼夜朝直シ共 金弐分弐朱       (浅草)    堂前   此地ハ浅草新堀端龍光寺門前町也。里俗ニ堂前と唱るなり。女の風俗、吉原西河岸ニ同じく         也。至て玉揃ニして、泊り弐朱より下なし。切(に)限らず、路治四ッ限として、九ッ迄人         込ミ〆り堅し。客種地廻り人物ニて静かなる所也            店頭 徳兵衛  忰 徳治郎      此地ハ頃天保十三年三月十四日夜、一統ニケイドウ押入り、女分七拾余人ニ主人店頭迄召捕られ、      御懸り南御町奉行鳥居甲斐守様御白洲ニおゐて度々御吟味之上、隠売女ニ相成、店頭親子共入牢仰      付らる。同年十二月九日、一統女分親方叛人共迄御番所江呼出され、落着ニ相成候趣、左之通り。         龍光寺 十〆文過料        名主  十〆文過料        家主共        店頭  遠島        主人共 百日手鎖       (女房共、叱り置)        女郎共親元判人叛共、十〆文、五〆文、三〆文、段々過料仰付られ、女郎子供当日親元え下さ        れ候也。過料之義ハ来卯二月三日より三日之間ニ納候様仰渡され候なり                 (根津~音羽)    谷中   惣伏玉    根津   此地は権現様境内にて、至て美成る所ニして、春ハ花、夏ハ蛍、沢之辺より蛍涼ミ、秋ハ紅         葉之名所也。冬ハ又四方之木々ニ雪降る名所ニして、悉く四季共に遊々たる所なる也。         惣伏玉 昼夜二切  金弐朱                   四六    同局見世 右同所の上ニあり    音羽   呼出し 金弐朱  料理茶屋唱 住吉屋、紅屋、吉田屋                                 子供屋   伊勢屋、三川屋    同局見世 右同所ニある也。新道ニ直ニ見世を張、無体ニ客を引入、宜からず場所なる也。      (市ヶ谷)    ぢく谷  此地ハ本名市ヶ谷谷町ト云所也。里俗ニぢく谷ト唱る也。         局見世斗りニして女風俗よろしからず、次第ニ外々ノ通りなる也    鮫ヶ橋  此地ハ三ヶ所共局見世斗りニして、至て宜からず場所ニて、各々路治四ッ限りとして九ッ頃         〆切り。      (赤坂)    赤坂   此地ハ赤坂田町五丁目裏表ニ五軒宛十軒有り。此所里俗ニ麦飯と云也。惣四六にて、客を撰         む事三田とひとし、惣割床にて、芸者に付共金弐朱    同局見世 右同所ニあり。六棟ニ分れ、至て女風俗よろしからず。客をゑらまず、直段(に)限らず、    夜五ッより外ニて客を引込、無体にニ銭を取る也。                        市兵衛町 此地ハ右町(赤坂)之北裏之下ニ有之、今井と唱候地名也。入口東西有之。惣局見世斗りニ         して、江戸一之場所なり。         悉く万事美ニして、玉揃なる故、栄々繁昌之地故ニ、泊リ役金弐朱より少も引ず。路治夜五         ッ時限り、夫より来る客ハ路治番一人ヅヽ付、併行先迄送り届ケ也。近辺之若者、客ニ致さ         ず、多くハ地廻りと呼、朝夕入込居り候也                 店頭   紅屋金治郎跡                 少シ間 相模屋      (麻布~三田)    藪下   此地ハ麻布宮村町宮下町之所ニて、里俗ニ藪下と唱る也。         惣局見世斗りにて、古よりあるとかや。至て女風俗宜しからず。直段下直に楽しむ場所也。      此地ハ頃ハ天保十亥年四月十五日、芝久留米家之下部屋之者共遊びニ参り、少之口論より大間違      と成、同日昼八ッ時、右屋敷より凡五六十人程押出、切見世之左右前後より打こわし、大喧嘩と      成、其場夕方皆々抜身ニて屋敷江引取、其後公儀より御吟味と成、長家其侭商売止むなり。    新地   此地ハ芝寿命院上り地ニて、里俗三田三角と云也。古より有るとかや。         惣伏玉 昼夜三切 金弐朱 芸者弐朱也         此処至て広からずして、女風俗美ニて、悉く玉揃、惣割床ニて、客を撰む事見世先にて改         メ、送り茶屋無キ故、客種を寄る也。    同局見世 右同所に有り。前を四谷丸太ニて囲、後朝鮮矢来ニて囲、内大四棟ニ分れて、路地寄る四         ッ限り〆切、九ッ頃迄明てあり。泊り金弐朱、下不泊切客直段不定。見世入口、こふし戸         二重ニ〆り有り。印半天、地紺ニ丸ニ新之字を印也                                内藤新宿(地図のみ、記事なし)    小塚原町 惣四六    新吉原(地図・地名のみ、記事なし)    品川 (地図・地名のみ、記事なし)〟      ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『藤岡屋日記 第二巻』p460(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)   〝十一月廿七日、今晩より両国ぇ夜鷹五人初て出る也、大繁昌にして五十文宛なりとの評判也。尤出るに    は諸方ぇ付とゞけ百両も懸りしよしなり、其後采女が原ぇも出る也〟    〈弘化二年十月二日の記事にもこの夜鷹記事あり。参照のこと〉     ☆ 弘化二年(1845)     ◯『藤岡屋日記 第二巻』②509(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   〝東辻君花の名寄    抑辻傾城と申ハ、むかしよりやんごとなき方の忍びて出給ひしよし、故ニ京都ニてハ辻君と称し、大坂    にてハ惣嫁と唱ふ、江戸ハ夜鷹と云、是辻売女也、今ハ下賤のものゝ戯れ遊ぶ売女にして、古来より護    持院ヶ原・石町河岸床見世うしろ・数寄屋河岸・浅草御門内物干場明地・柳原床見世後ろ・下谷広小路    ・木挽町采女ケ原杯ハ如何之小家を拵へ置、夜分渡世致し候処、近年夜鷹女を抱置候者ハ本所吉田町・    鮫ケ橋・下谷山崎町ニも有之、右之女共江同居致居候男を差添、夫々へ出すなり、是をぎうと云也、壱    度ニて花代廿四文なり、然ル処ニ天保十三寅年中、市中端々料理茶屋・水茶屋名目ニて、隠し売女渡世    之者共、残らず吉原一廓ニ被仰付、外ニハ渡世替致し候処に、同十五辰年八九月頃より、誰存付候哉、    東両国広小路床見世後ぇ両三人、木挽町采女ケ原へ同断差出、夫より追々場所相増し候、暫く遠のき夜    鷹珍らしく候故、貴賎ニ限らず見物大群集致し候故、これが為ニ夜鷹蕎麦・茶めし・あんかけ豆腐・鮮    ・おでん・濁かん酒ニ至迄、大繁昌致し候故ニ、右夜鷹場所附細見を目論見、東辻君花の名寄と題号致    し、半紙二枚摺之細見番附を出板致し、本所辺・日本橋辺所々へ夜る/\出て、はし/\に於て古今珍    らしき鳥の出候次第を御ろふじろと、巨細に女の年・善悪・上品・中品・下品と品定メ致し売歩行候故    ニ、珍敷故大評判にて売れ致し候得共、巳三月下旬より売歩行鷹の細見、三日程売歩行候と絶板ニ相な    り候。      木刀の鞘両国で売はじめ      花ござは花の道中波銭の         六文字にてあゆむ辻君      顔と㒵見合す時の柏子木は         おりも夜たかと袖を引ケ四ツ      なじみ客跡見かへりの柳原         露の情になびく辻ぎみ      蛤もたこも中にハ有磯海の         浜の真砂の辻君のかづ      日毎ある中にもつらき辻君の         顔さらしなやらん(ママ)の月影〟     ◯『藤岡屋日記 第二巻』p558(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   〝十月二日夜より、深川八幡表門前、川向あひる居見世有よし、跡ぇさゝやかなる仮家を作りて、すわり    夜鷹と唱し、遊女七人出る也、花代百廿四文也、是切見世の真似故に居り夜鷹と唱し、勤は廿四文にて、    外に百文は客より相対にて貰ふ由、右久々にて出し故に珍らしく、殊之外繁昌致し、右場処賑ひて法会    之如く、諸人群集致す故に往来ぇは商人迄出る也、右に付、是にて故障も無之に於ては切見せに致し候    積り之処、惜しい哉、纔に三日にして、同四日表向之御沙汰は無之候得共、御仁政を以、内々取払申付    る也、四日昼八ッ時に取払也。    但、天保十三寅年三月御改正之後は、所々隠売女は厳敷御法度に相成候に付、弘化元辰年十一月廿七日、    初て本所吉田町増田屋千太郎と申者、両国橋へ夜鷹を五人出せし処、大繁昌にて五十文宛にて売る也、    此時の川柳に      太刀の鞘両国で売はじめ〟     ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩35(塵哉翁著・弘化二年(1845)記事)   〝辻君再興    天保丑の冬、世上に有来(アリキタ)りたる遊女共、悉く制禁ありて、皆吉原の中へ移さるゝによりて、辻君    も辻に立ことかたく止られて、夜鷹てふ烏の巣のよし田町も荒果ぬとや、今年弘化巳なる秋の初の頃、    いかにしけん願済たり迚(トテ)、両国橋の辺りをはじめ、有来りたる端々に出る事にぞなりぬ、御免のよ    たかとかや云触て、売初より賑ひ繁昌なりと、其中に築地采女が原に出るは、枕付と云物あるよし、秋    の末に深川の端に居(スワ)り、夜騰といへるもの出来たりと聞ぬ、こや是迄切見世(キリミセ)と唱へ、長屋と    呼、また鉄砲などゝ仇名せし、吉原に云局見世(ツボネミセ)の類のものも、同じころ止(ヤミ)たるを、再興の    手始ならんか、    説に、辻君は文治の乱に平氏亡て、官女共世渡のたづきなくして始りぬる由を、世俗に 云伝ふをもて、    願立たりと、辻君、立君、夜発(ヤホツ)、そうか、夜鷹、江戸にて云にや、    寛政の末享和の頃まで、船鰻頭(フナマンヂウ)と云しもの有、小き船に苫かけて河岸々々に漕寄つゝあやし    き声して客をよぶ辻君のたぐひにして、劣たるものとぞ、今は絶てきかず、    因に云、京摂に臭屋(クサヤ)、間短(ケンタン)、蹴倒(ケタホシ)など云は、前に曰、切見世・長屋の類か、寛享の    頃けころとて、茶屋女体の遊女ありし、けころは蹴ころばすの略にして、蹴倒に同じ、東叡山下広小路    抔(ナド)にありしは、とんだ茶釜と通名せし由、予稚(オサナキ)ころおばろに見たり、切見世遊女の一段よ    ろしき歟、    船鰻頭    舟は繋ぐ辻番の傍   値(アタエ)賤(ヤスシ)鼻落んと欲す    雛(シハ)は深し振袖の情 人を留ること更に幾度り    右は、明和七年梓行娯息斎狂詩集に見ゆ、因に記して笑証とす〟    〈天保丑年は天保十二年。三月に岡場所(私娼)禁止令。上出「触書」参照〉     ☆ 弘化三年(1846)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』③77(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)   〝新板伊予節葉うた    〽京で辻君大坂でそうか、江戸で夜鷹と夕化粧、〽いきは本所あだは両国、うかり/\とひやかせば、     爰に名高き御蔵前、ひと足渡しニ乗おくれ、〽夜たかの舟ときがつかず、あぶなさこわさきミわるく     さおゝいれ〟     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p105(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)       〝去午年(弘化三年)夏頃より今川橋へ夜鷹五人計出で、群集致す也。此頃は新シ橋・和泉橋辺へひつぱ    りと云歳間女出で、客に逢て相談を致し、宿ぇ連行、泊る也、つとめ金弐朱也、是地獄也。      地獄とはいへ共鬼はおらずして        迷ふ男を救ふ女菩薩〟     ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十二「娼家下」③364   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝岡場所    おかばしよと訓ず。江戸吉原のほか、非官許の遊女の地を俗に岡ばしよと云ふなり。天保十三年、官命    してこれを禁止す。三月、官命して八月晦日に仲町以下これを止め、尋(ツイ)で家居を壊(コボ)ち廃す。    その後、他業の者家居を造り、遊女今に至りて再行せず〟    〈この記事はいつの頃のものなのであろうか、「再行せず」とあるが、上出のように弘化元年ころから復活の兆しが見     えている〉