☆ 明和二年(1765)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①283(梧桐久儔著)
〝明和二年乙戌(ママ)(真先神明社境内に高辻大納言家長の所持する菅原道真象を勧請して江戸北野天満宮
とする)よし原よりも灯籠共外色色の奉納多かりける、其時中の町惣茶屋中、軒通りへ如図(上図)、
挑灯を提け錺り賑しかりける。此時五町遊女屋より仁和歌を出しける、此頃はにわかと云は狂言にあら
ず、踊にあらず、祭礼のねり物と違ひ、頓作の滑稽をむねとしける故、芸者などは夜具を紫ちりめんの
しごき帯にてかゞり、鏡立をうしろにかざり、羽のさいはいを鎗のごとくにかざり、小室ぶし【〔傍注〕
三川島より来る】」をうたひ、音頭をはやしける、【〔傍注〕此俄角町と覚へ天鵞絨にて牛を作る】江
戸町よりは一対の汐くみの練子、金ゑぼしかりぎぬにて出てたるなど、昼の事にて甚だ群集せり、其頃
は京町二丁目など大遊女屋多かりければ、天晴のにわか出たり、然りし後、明和五年の頃にか有けん、
二丁目四ツ目やといへる遊女屋より出火して、五町のこらず焼失せり、其後打つゞき明和九年二月目黒
よりの火事にて又々焼失し、外宅の間普請取いそぎ、大方棟上などいたしけるに、八月大風ありて悉く
ふき潰し、ほぞも折れ柱くだけて、漸立そろひよし原に帰るといへども、五町に古き遊女屋大方立つゞ
きがたく、家数すくなく成れり、故に其間には大そうなる仁和歌も出ざりける、こゝに茶屋の面々思ひ
付て先仲の町所々へ蒸籠をつみ、中村屋庄左衛門は太夫女郎と成、新艘禿【外に茶屋の若手出る事甚】
鎗手若いもの、亀の台の物、顔をくまどり、亀の顔として台をかぶり出る、是を仁和嘉とす、扨つき出
し披露として家々へ盃一ツつゝ配る、其上包に中村やうち庄山としるせり、共後新町にチイ坊といふ者
あり、かれ祭礼のだしを後の帯にさし太鼓の下へ車を付てひかせながら曲太鼓うちて笑はせける、二丁
目角蔦屋やらん、かつぎ屋台の上にて小キかぶろ菊慈童の所作踊り、色々珍敷芸尽し、芝居にあらず、
祭にあらず、仁和嘉は別に工夫ある事の由にて、趣向湧くが如く、年々新しき事のみ多かりき、しかし
此間はありし年も、又せざる年もありけるなり〟
☆ 明和年間(1764~1771)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥51(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝吉原俄の始めは、明和年中予二十三歳の時なり、最初は張抜の大天窓(アタマ)など冠りて、さま/\の異
形にして、男芸者踊歩行たるもの、今有る茶番狂言のごとし、見物の笑ひを歓たるものなるが、近比色
々様々工風をなし、祭礼同様しなして、古への俄の趣意はうしなひける〟
☆ 安永五年(1776)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①284(梧桐久儔著)
〝扨安永五年申仲秋より季秋まで又爾和加(ニワカ)の事を催し有ける。此たびは一統に花やかに粧ひ成れ
り、さりながら此とし江戸町二丁目は不出
(安永五年七月の俄番付、口上省略)【是俄番附のはじめ也】
哥 仙 江戸町【子供万度、いずれも仕丁白張にて供いたす、松葉や、黒主、業平、小町、少将】
紫のゆかりの色や萩桔梗
大江山 ふみも見ぬ山路もゆかし六ツの花
角 力【まつかねや 豊前太夫 禿惣太】
花なりや霜にもまけぬ名取り菊
琴 責 江戸町【佐介まんじや、直江重兵衛吉里 山茶花 あこや】
初雁の並ぶ琴柱や閨の花
愛の山 女げいしや
編笠の霞のうちや花の顔
五人男 江戸町 小見せ
さく花や五ツつれたる雁の文
逆 櫓 江戸町 松ばや内
櫓拍子もいさむみなとや波の花
獅 子 揚屋丁【女げいしや いち かよ 八重 なを】
七重八重衣紋うつくし富賀草
道成寺 伏見丁 家田屋娘兄弟
袖薫るいづれや菊の姉妹
唐 人 中の丁茶屋衆中子息
紫もさらさも萩の手柄かな
曽 我 京丁二丁目
蝶とりも匂ふや袖の花紅葉
胡 蝶 京丁二丁目 ビンガ古蝶の舞
蝶の舞ふ園や小春の花えらみ
万 度 あげや丁【女けいしや いね ちか ふさ さの】
目もあやに女郎またおとこへし
禿万歳 五十間道 河東節所作
蘭菊の袖もにほふや衣紋坂
橋弁慶 京丁【大もんじや内、義経、三国、弁慶、めなみ、友盛、いせ松 後 二藍香川】
秋草の七ツ道具を花見かな
三番叟 同
月花や葡萄を鈴に翁草 【此時能役者のねり子】
雀 躍 男芸者【男芸者中俄毎日/\あたらしき趣向を以て興し侍る〟
出来秋の心や花のむら雀
祇園ばやし 京丁【大もんじやみむろ其外内げいしゃ】
かさねたる扇も獅子や冬牡丹〟
〈俄番付の始まりは安永五年初秋(7月)〉
◯『半日閑話』〔南畝〕⑪400(大田南畝・安永五年(1776)八月記事)
〝吉原にて俄とへる戯大に流行す。中の丁に埒をゆひたり〟
◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永五年(1776)日記)
〝九月十四日、六半程過て祭り江戸町より来り、会所の前にて芸をなす。
第一番 家台 草摺引【若山はやし物 ○禿を競ひに仕立綱を引しむ ○此家台火炎玉やより出る
○五郎あさひな初みなかぶろなり】
ねり 頼光山入独武者四天王【皆禿なりなり、佐介万字より出る】○獅子舞【よりて出す】
○玉仙山万灯【十四五の芸者、仙女の粧にて持】○相の山【同断】
第二番 家台 琴責【重忠岩永上下、あこや琴を弾、みな禿 ○扇やより出る】
ねり 五人男【皆禿也】
第三番 相撲【相撲取二人行司一人 ○去年勘三㒵見の相撲の唄にて所作、禿也 ○松根や】
第四番 樋口逆櫓場【皆禿也、人形たて甚好、黒坊つかふ甚妙、とゞ舟頭をさし上拍子木 ○松場屋】〟
〈六義園の会所(客殿)での俄狂言。吉原の禿(かぶろ)や芸者を呼び寄せ、彼らが演じる「草摺引」等の狂言を見物
したのである。柳沢信鴻、隠居とはいえ、元大和郡山十五万石の藩主である、気軽に吉原の仲の町に出かけて見物と
いうわけにはいかないのであろう〉
☆ 安永六七年(1777~78)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①288(梧桐久儔著)
(安永六年の俄(仁和嘉))
〝(江戸町)二丁目が格別装ひ出す、七福神の宝船、七人の禿、大勢の人足、衣服、上を柿染にして腰よ
り下を花色波もやう、此衣服にて左右に立ならび、宝船を引くかたち船を見せたる趣向也〟
〝安永六七年頃歟
江戸町 五節句、心の駒、助六 松葉や、角力
正月 松かねや、角玉や、源いせや、根引の松、花の草摺
三月 みのや、万字や、鶏合もの、盃
五月 河内や、万度、花あやめ太平兜
七月 虫売【松ばや、扇や】虫売千草の色香
九月 やりおどり、奴丹前、禿菊奴丹前
二丁目 七福神、宝船人足一対の仕着せ
角 町 大津絵、気どりにわか
京 町 七小町、雀踊、よたかの所作、廿四孝、つゝら馬
新 町 獅子の曲、祭
仲の町 唐人ばやし
江戸町 川崎おんど【河東ぶし、揚屋町ゆふかう琴の師匠也】
二丁目 うしろ面【角町名主心牛、琴を弾て出たるも有り】
角 町 気どり仁和哥【京町四ッ目屋より釣台にはだか人形、初代のきよ衣】
揚や町 獅子まんど
中の町 唐船、唐人ばやし
京 町 松坂踊、大もんじやきぬた
京町二 猩々祭
松かねや 獅子 牡丹
まつばや 車引〟
〝今年九月坂部様西之丸御留守居に御役替
〈坂部明之の西丸留守居就任は安永七年なので、これに続く以下の記事も同年記事とみた〉
一、中の町茶やむすこ達、狐のよめいりは、御屋敷風に衣裳出たち顔もうつくしくして、口さき斗に狐
面を付たり
一、唐人は黒羽二重の羽折衣服一対にして、かたへ錦のゑりまき、唐人せうぞくを添たるのみ、大通人
の出たちにて、笛太こ三味せん
一、芸者の鹿島おどり、是も祭礼のかしまおどりと違ひ、鞠装束を着し、まことの言(コト)ふれのごと
くにて、都太夫は懐中に錦の袋入の宝剣のごとくのものを持て、それをおしいたゞき、鈴をふり、
色々の事を云〟
☆ 安永九年(1780)
◯『舛落咄』洒落本 北尾政演画 南陀加紫蘭作 安永九年序
(国書データベース)
〝俄祭の事
これは九郎介いなりのさいれいなり 九郎介いなりは元よしわらの辺にありしなり〟
☆ 天明元年(安永十年・1781)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①287(梧桐久儔著)
〝丑年安永十年か
江戸町 しのぶに蝶団の万度、大原女の姿はやしやたい
二丁目 万度管絃大コ琴笙紅葉の枝、鳥かぶと、冠に菊のかざし
角 町 獅子 女組、万度、玉の井 女組、松尽し 女芸者
京 町 万度ミスニ桧扇桜の造花、官女一ようにひのはかま
京 二 菊萩三重のカサボコみな一よう、住吉おどり、衣裳もやう雁に菊
(◯中に「大」の字の図様)初発禿俄
江戸町 汐くみ【萌黄のかり衣、金ゑぼし、汐桶を荷ひ、大勢揃ひ出る】
京 町 花見姿【ふり袖にて紫のやろうぼうし、藤の花をかつぐ】
新 町 なつとうゑぼし、素袍、長はかま、能役者の出立
右大もんじや元成覚へなり
江戸町 松ばや 六度の仁和歌
黒主、逆ろ、車引、川崎音頭、春駒、小原女の踊、しのぶ売、助六、河東ぶし
角玉屋 歌仙、矢根五郎、音頭、春駒
万 佐 琴ぜめ、与勘平、音頭、春駒
扇 宇 歌仙、頼光、鶏合、春駒〟
☆ 天明八年(1778)
◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩18(惰農子(大田南畝)著)
〝俄と茶番は似て非なるもの也。俄は大坂より始る。今曽我祭に役者のする、是俄なり。ナンダ/\と問
はれて、思ひ付の事をいふ是也。茶番は江戸より起る。もと楽屋の三階にて、茶番にあたりし役者、い
ろ/\の工夫思ひ付にて器物をいだせしを、茶番/\といひしより、いつとなく今の戯となれり。独り
狂言の身ぶりありて、その思ひ付によりて景物を出すを茶番といふ也。今専ら都下に盛也【大坂板に、
古今俄選と云ものあり。にわかの事を記せり】〔欄外。南水漫遊、又摂陽落穂集ともいふものにくはし〕〟
☆ 安永~天明期(1772~1788)
◯『塵塚談』〔燕石〕①286(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝吉原、毎秋八月に俄狂言の事、茶屋桐屋伊兵衛と云者あり、今現世せり、此者、歌舞伎役者の真似を好
り、安永、天明の頃にや、角町遊女屋中万字やといふ同気相求め、二三人寄合けるが、有時風と思ひ付
て、俄に狂言をこしらへ、中の町を往返しけるにより、彼等も乗が来て、夫より引続て二三日も、狂言
の趣向を、取替、引替して中の町を往返し、楽けり、これ俄狂言の始にて、段々増長し、毎秋の定例に
成りしと也〟
☆ 寛政三年(1791)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①290(梧桐久儔著)
〝寛政三年十月七日より新にわか出番付
獅 子 【きよ、ふさ、いろ、せん、ふき、みへ、そよ、かよ、ちか、ひやく、きせ、いわ、しま、
ふし、はや、きく】
唐 人 【梅亀、さよ、ゑい、鶴、久米、朝、みつ、ふみ、雛、虎、類、仲、花、せゐ、つね、ゆふ、
のへ、のぶ】
大和団子【みね、ちせ、りせ、あい、とし、まき、みや、さか】
はやし 常太夫、藤蔵、源蔵、かの
あわもち【とき、みな、さく、ちよ】
白 酒 【かく、かる、やを、とみ、なを、みき、ます、筆、みの、秀、この】
玉川きぬた【ひさ、しげ、もと、つな、とみ】
はやし 藤八、徳蔵、吉四郎、すま、かゞ
うしろめん らゐ、ぶん、はやし、藤吉、吉蔵、松蔵、泰蔵
和田酒もり たみ、いよ、河東ふし、蘭爾、文里、文二郎、文四郎
豊後獅子 よふ、まさ、はやし
すゞかけ女祭文 たい、かつ、いね、くま、すき、たま
はやし 出雲太夫 勝次郎 八十七
宝 船 【てる、くら、あや、しほ、てふ、やゑ、やま、たけ、つや、かゞ吉、ちゑ】
はやし方
雲のいとつちくものせい おつる、とり、もと、くに、後見 やま、いと、あさ
はやしかた
あだちが原 安五郎、嘉六、 沢富
まわりどうろう 源次、 藤十郎、彦兵衛
熊のすまう 利八、 舛太夫
はやし【仁和太夫、栄次】
女力持 藤四郎
くろん坊さんごじゆ取 同人
むけんのかね 泰介
此時分より禿にはかなしに、惣芸者中計の仁和嘉と成、年々絶ゆる事なく、秋の景物となれり〟
☆ 寛政八年(1796)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①290(梧桐久儔著)
〝寛政八年辰八月朔日より禿俄、晴天三十日、雨天続き候て九月廿一日に終る
江戸町 神馬引【此馬を鳥こへ明神へ納、右禿ねり子遊女や中】
草苅十人、びんさらさ〟
☆ 文化七年(1810)
◯『吉原春秋二度の景物』〔未刊随筆〕①291(梧桐久儔著)
〝文化七午八月禿仁和哥
花遊びくるわの曲水
赤つた 千とり 扇や よしの
大こくや やよひ 同 とめき
松坂や ゆかり 加賀や そめじ
かゝや みよの 小林や みどり
角町まつばや 小てふ
ゑびや やよひ つるや 文じ
秋の錦廓の七種
扇や たつた ゑちぜんや みねじ
玉弥 いそじ 角町松葉や にほひ
姿ゑひや かつら 同 すが梅
鶴や かしく
右之外男女芸者中 初後二度趣向
小唄浄瑠璃文句等別に記〟
☆ 弘化三年(1846)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p58(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)
〝六月、大坂新町俄之事、十余年目にて今年六月出来、名前左の通り
鍾馗 尾張屋紫 楓屋三ッ扇 牛若 伊勢屋照葉 芦川 千切屋玉川 江口 東扇屋緑木太夫
狐小鍛冶 よしや恋衣 魚籃観音 松屋三枡野 兎 尾張屋佐代鶴 東坡居士 槌屋花露太夫
蟻通宮守 折屋りう 神あそび 加賀屋旅鶴 春日龍神 東扇屋都路太夫 宗近 吉屋歌野 飛騨内匠
倉橋屋道里 貫之 折屋あき 舟弁慶 西応屋揚巻太夫
右新町太夫・天神・鹿恋・芸子等出る也
右之肖像画之上に其唄物を書附し、彩色摺出来、但立四寸、横壱尺程の紙也〟
☆ 弘化四年(1847)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p202(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)
〝十一月十五日より十九日迄五日之間、新吉原秋葉縁日後の俄番出る也
鉄棒二人 和泉屋のぶ 升見屋よし
獅子 若水屋みき 桐やくま まきやなつ まきやかま 升湊やしま 荻江あき 金子やせき
万屋ひで いせやとし
(以下「俄手遊び人形尽し」として、紙吹人形、豆人形等あり。また「鹿島の事触」「俄汐干狩」等の
演目が続く)
但し、右俄番附、不許売買、飛板也〟
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十二「娼家下」③357
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝(吉原)仲の町 俄狂言
俄とのみ下略して云ふなり。毎年八月朔日より晦日に至る。秋葉権現の祭祀に拠りてこれを行ふなり。
男女芸者、種々に扮し、男は芝居狂言に洒落を加へ、女は踊り所作の類を専らとし、各囃子方を備へこ
れを行ふ。男女各舞台を別にし、車ある小舞台数ヶを造り、仲の町両側を引き巡り、茶屋一戸ごとに一
狂言して次に往くと次の台を引き来たり。またこれを行ふ。女舞台、男舞台、相交へ引くなり。
(以下『塵塚談』の記事を載せる。略)〟
☆ 嘉永五年(1852)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p140(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇吉原にわか
〝八月朔日、新吉原町
如例年、今日より俄興行之処、今日漸々二番出来、六日に相揃、見分有之、九日迄有之候処に、十日大
嵐にて相休、夫より雨天勝にて、九月廿一日千秋楽也〟
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)後集 巻之二「雑劇補」⑤195
(喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝俄
にわか狂言の下略んり。京坂にて夏月諸神祭の夜、これをなして興ずること専らなり。
座敷にわかと云ふは、劇場用のかづら・衣服を用ふ。しかも紅粉は用ひず素顔なり。あるひは芝居狂言
を学び、あるひは種々の行を学び、ともに滑稽を専らとしたり。
また流しと云ふは、あるひは種々の扮を摸し、あるひは平服にぼてかづらを着し、一言の滑稽あるひは
諧謔をなして行き過ぐるを云ふ。またながしにも非ずして市店の需に応じ立ち止まりて、芝居の学びそ
の他種々の滑稽を行ふもあり。市店よりこれを需むるに「しやうもん/\」と云ふなり。所望々々と云
ふ訛なり。ぼてかづらと云は、紙の張ぬきかづら、男女種々の髷を造れり。
坐しきにわか以下、ともに始終滑稽洒落を旨とし、畢(オワ)りに落(オチ)と云ふことあり。特に一言の滑稽
をもつてす。流しには落なきもあり。たとへば、祭日雷鳴し忽ちに晴天となる時、鬼形に扮し一つの太
鼓を負ひ、腰をかがめ「ただ今はさぞおやかましうございませう」と毎戸にこれを報じ往くの類なり
にはか行燈図 路上ににわかする者必ず之を携ふ。路上の行、更に銭を乞ふに非ず。小民等の遊興に
するのみ。
(茶番の記事あり、略。茶番の項目参照)
右のにわか・茶番ともに小屋において銭を募り見せるもあり。座敷の興にするは自他の興なるのみ。ま
た大坂には近世、俄師と号し是を半業とする者あり。三、四年来江戸に下りて諸所によせに出て銭を募
る者あり〟