Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ にしきえ 錦絵浮世絵事典
 ☆ 明和二年(1765)    ◯『仮寝の夢 上』〔百花苑〕⑦57(諏訪頼武著・文政四年(1821)序)   〝錦絵之事    今の錦画ハ明和の初、大小の摺物殊外流行、次第ニ板行種々色をまじへ、大惣ニなり、牛込御旗本大久    保甚四郎俳名巨川、牛込揚場阿部八之進砂鶏、此両人専ら頭取ニて、組合を分ケ大小取替会所々に有之、    後ハ湯島茶屋などをかり大会有之候。一両年ニて相止。右之板行を書林共求メ、夫より錦絵を摺、大廻    に相成候事〟    〈鈴木春信の吾妻錦絵はこの巨川や砂鶏らの大小摺物(絵暦)交換会から生まれて来た。明和二年(1765)のことである〉    ☆ 明和八年(1771)  ◯『俳諧名物鑑』月 反故斎果然編 明和八年序(『俳諧時津風』の改題増補本)   (国書データベース)    錦絵 柳さくら画く御江戸のにしき哉 待賈堂果玉〟    (挿絵に『舞台扇子(ママ)』『役者未(ママ)広鏡』の版本)    〈春章・文調画『舞台扇』は明和7年刊。『役者末広鏡』は未詳〉  ☆ 明和九年(1772)    ◯『難波噺』〔百花苑〕⑭111(池田正樹著・明和九年(1772)十月記)   (大坂滞在記事)   〝東都、浪華の似たるをよする 錦画 割昆布 右綺麗なるをいふ〟    〈大坂人は綺麗なものの代表として、地元の割昆布に対して江戸の錦絵を配した〉    ☆ 安永五年(1776)    ◯『稗史提要』p350(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成立)   (安永五年(1776)正月刊の草双紙「時評」)   〝にしき絵風といへるは、明和の初より書出せし鈴木春信が吾妻にしき絵の事なり。是まで吾妻にしき絵    の風を草双しには画く事なかりしを、春町はじめて稗史に画き出してより、後は鳥居の絵までも、此風    にうつれり〟    〈恋川春信作画、草双紙(黄表紙)の初作は『金々先生栄花夢』で、前年の安永四年の刊行〉    ☆ 天明三年(1783)  ◯『傾情智恵鑑』洒落本(雲楽山人作 志水ゑん十序・うた麿跋 蔦屋十三郎 天明三年刊)   (国書データベース)(11/33コマ)   〝空を四角に見る裏店でも 己が高慢の心一這にて 買て北尾や春章か在がごとく心を動かす錦絵を 二    枚屏風のびんぼうかくしに張附て毎日/\詠し とんと吾妻の女の風俗に惚れて居る折ふし(以下略)〟    〈庶民の長屋住まいでも、貧乏隠しと装飾とを兼ねて、北尾重政や勝川春章の女錦絵を二枚屏風に貼るなどしてい     たようである〉  ☆ 寛政四年(1792)    ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧15(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝錦絵は享保十四年象来りし時、長崎より象遺ひ権平次と云者、江戸土産とて長崎摺錦絵持参したるが、    紅あひ黄の三色摺にて有し、夫より元文頃に至り、漸々江戸にて仕覚たる也、然共甚不手ぎわ成、段々    と是も結構にはなりぬ〟    ☆ 寛政七年(1795)    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥61(松平定信・寛政七年(1795)記)   〝寛政七年の頃より、錦画てふ画、又はうちはの画などに、ものゝ名又は謡歌などを隠語のやうに画もて    かきし事行はれそめけり。南部の盲暦のたぐひにしたるものなり〟     ◯ 九月晦日〔『江戸町触集成』第十巻 p45(触書番号10266)〕   〝先達て取調候絵双紙問屋之内、番ひ(ツカヒ)絵并板木共今日取集、当人為立合、絵并双紙分水腐致、板木    分削落相渡候、先相済候得共、右ハ度々被仰渡も有之、猶以厳敷相咎候も可在之儀ニ候間、急度相心得、    此上右躰之絵類聊ニても仕出し取扱等致間敷候、且又婦人絵之内、尾籠之躰を画候絵柄も在之、是迚も    追々致増長候てハ御咎可在御座義ニ付、已来右躰之絵柄仕出并取扱申間敷候、此分先達て改置候分、今    日反古ニいたし銘々相渡候事    右之外錦絵之分、先年より追々高情(ママ)ニ相成、直段相増候間、錦絵壱枚廿銭已上之品摺立有之分、其    外所持之分画数銘々書出置、其数限売払、此上売直段壱枚十六文十八文已上之品致無用候様、相心得候    様可申付候    右之通申談候間、右両様共御承知之上、猶又御心付御取計ひ、廿銭已上有来画数御組合限為御書出、其    品限売払候段御聞届可被成候                      寛政七年卯九月晦日〟    〈触書に「錦絵」という言葉が登場するのは、これが初めてと思われる。一枚絵という言葉は寛政二年の触書から使わ     れている。(本HP「浮世絵事典」「一枚絵」の項参照)「錦絵」は広く流通していたと思うのだが、なぜ町奉行が     使用してこなかったのか不思議である。ともあれ、触書の内容をみると、一つは先般没収した「番ひ絵」(枕絵・春     画)の処分方法。絵と双紙は水に漬けてダメにしたうえ、板木は削り落し。二つ目は「婦人絵之内尾籠之躰を画候絵     柄」の方。これは裁断でもしたのか紙屑にした。(ただこの文言、今でいう美人画のうちの猥褻な絵柄という意味で     あろうが、枕絵でないとすればどのような美人画を指すのでのであろうか、よく分からない)これも今後取り扱わな     いよう釘をさしている。もっとも寛政十二年八月の触書をみると、「男女たわむれ居候体之一枚絵見世売等ニ致、如     何ニ付差留候所今以同様之品売出、不埒之至ニ候」という条があるから、依然として出回っていたのである。三つめ     は錦絵の小売り値段に関するもの。一枚の二十文以上の錦絵は在庫限り、今後は一枚十六文から十八文までの値段設     定とし、それ以上は無用だとした。この寛政の値段設定は天保の改革の時に再び持ち出される〉    ☆ 享和元年(1801)    ◯「(大田南畝)書簡14」〔南畝〕⑲31(嫡子定吉宛?・八月五日付・大坂宿舎差し出し)   〝旅館中之義理有之、贈答に困り申候。錦絵、団扇、東遊などにて俗人の義理を防ぎ候。当暮は絵草紙取    よせ可申、左様思召可被下候〟    〈錦絵・絵草紙(黄表紙や絵本をいうか)が江戸土産として重宝がられたのである〉  ☆ 文化年間(1804-17)  ◯「世上流行」大坂(『摂陽奇観』巻45『浪速叢書』第5所収)   〝江戸産物店  江戸色のし紙  江戸歯磨  役者似顔の摺もの    錦絵の日傘  せんべい店ニにしきえのあんどう〟  ☆ 天保三年(1832)  ◯『馬琴日記』巻三p166(天保三年八月八日付)   〝鶴屋喜右衛門代嘉兵衛(『傾城水滸伝』の初校正の刷りを持参)小児へ手みやげ、にしき画五枚持参〟    〈絵柄がよく分からない〉  ☆ 天保四年(1833)    ◯『馬琴日記』巻三p321(天保四年二月三日付)   〝(隣家の奉公人)明日帰国いたし候ニ付、みやげ物にしき画求めしにより、われら名を申、馬喰町草紙    屋ニてかひ取候へバ下直之よし、(隣家の母)さしづし罷越、存之外下直にかひ取候よし、申之。右に    しき絵持参、風聴いたし、小児方へ煎餅一袋持参いたし候よし〟    ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸末期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝錦絵    いく度かもみぢのはけに時雨してそれから染る秋のにしき絵    古郷へかへるみやげにせばやとてかぶもめでたき江戸のにしき絵    いく度もすり合してむらさきの色わけてよき萩のにしき絵    うつくしく書たる江戸のにしき絵はこれもむさしの国貞の筆    さく花のにしきゑをみて田舎人はじめて春のこゝちするらん    美しくすりたるいろは大江戸の袖みやげなる萩のにしきゑ    似顔なる団十郎のすぢくまも紅の上手な江戸のにしき絵    石にたつ矢の根五郎は乕の住(む)唐土までもわたるにしき絵    遊女のすがたうつして美しき色を商ふにしき絵問屋    わざをぎの所作のにしきゑさいしきもあるは七へん十二へんすり    おもしろき芝居役者のにしき絵も色とる板の七へんげなる    むさしのに染る千草の錦絵もうりぬるはてはしられざりけり    家つとにもてかへるさへ中々にたゝまくおしき花のにしき絵    うかれ女の顔うつくしき錦絵もしわのよるをばいとふなりけり    手弱女のまゆねの柳さくら色都にはぢぬあづまにしき絵    職人の袖からげても色とりのいくへんかする萩のにしき絵    狂言の世話と時代をふたなみにならべてひさく錦絵の見世    大江戸の自慢もさぞなむらさきのぼかしの衣のめだつにしき絵(画賛)    〈江戸の錦絵 吾妻錦絵 国貞 遊女 役者絵〉  ◯ 錦絵 狂歌(『浮世絵』第参拾貳(32)号 大正七年(1918)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(17/26コマ)   〝錦絵のいろ/\そまるもみぢ葉は故郷へかざる江戸みやげかも 蹄斎北馬〟    〈出典不明〉  ☆ 天保十三年(1842)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇錦絵禁制、町触 p276   〝六月四日 町触    錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕    入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、    狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義    ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、    児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻(包    ?)も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。      但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候〟     ◇色摺り回数制限 p302   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    〈寛政の改革のときは摺り数の制限はなかった〉    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之三十「傘・履」⑤27   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝文政頃、京坂製小児日傘    芝居俳優肖像等の錦絵三枚を張り、その余は浅黄紙張りとして、専ら女児の日傘とす。長柄にあらず、    小形なり。男児は用ひず〟  ☆ 天保~嘉永  ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥356(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化五年(嘉永元年)1848)   〝錦絵欲といふ獣名つけ、杭につなぐ、此絵、先年土蜘蛛の絵、水野越州、矢部駿河等の事をひゆせしに    なぞらへ、当時青山野州をかたどるといつて多く売たり〟    〈天保十四年刊行の国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は、この『事々録』を書き留めている幕臣の目には、水野越前守     忠邦とそれに対立して憤死を余儀なくされた矢部駿河守等の事を譬喩的に画いたものとして、捉えられていたのであ     る。国芳は、そのような想像も可能なように意図的に画いていることは明白である。さて、この弘化五年の「錦絵欲」     という名の獣とされる青山野州は、老中青山下野守忠良であろう。ただ、なぜ「錦絵欲」という獣に見なされ、しか     も杭につながているのかがよく分からない〉  ☆ 明治以前  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 出しかけた錦絵を買ふ浅黄うら「明7義6」明和7【川柳】     〈江戸参勤の田舎侍が江戸土産に買うのであろうが、出しかけたの意味がよく分からない〉   2 錦絵は鳥居をこした書て出る「安1智3」安永1【川柳】     〈明和二年に誕生した錦絵は鳥居派を凌駕〉   3 錦絵と墨絵と行者持て出る 「柳樽23-3」寛政1【川柳】     〈「錦絵と墨絵」には俗と雅のイメージがあるが修行者との関係未詳〉   4 錦絵をはって屏風を安くする「天8-12・5」天明8【川柳】     〈屏風の破れを錦絵を貼って安く仕上げたということか〉   5 錦絵と並ぶ女房の美しさ 「柳多留50-12」文化8【柳多留】     〈この錦絵は遊女の喩え〉   6 錦絵の姿は母の癪の種  「柳多留65-27」文化11【柳多留】   7 大錦娵と娘の絵難坊   「柳多留92-11」文政10【川柳】     〈絵難坊は絵の欠点をあげつらう人。娵と娘が役者絵の役者でひと揉めするのであろう〉   8 錦絵の跡へ墨絵の奥家老 「柳多留96-5」文政10【柳多留】     〈この錦絵は美人の奥女中たちか〉   9 錦絵は寐ぼけた色でお茶を引「柳多留111-36」天保1【柳多留】     〈客のない遊女〉   10 身替りの首古板の大錦    「柳多留118-1」天保3 【柳多留】   11 錦絵をびっしょり濡らす花の雨「柳多留121丙17」天保4【柳多留】   12 錦絵を見て涙ぐむ越の母   「柳多留122-27」 天保4【柳多留】     〈やむを得ぬ事情で娘を吉原に出した越後の母〉   13 錦絵の女房鳥羽絵に成る亭主 「柳多留164-5」天保9-11【柳多留】     〈美人の女房を持つと、亭主は手足の細長い鳥羽絵のような体になると〉   14 江戸土産車長持などへ張り(明和年間【江戸名物】)     注「車長持とは事変に際して引き出すに便利な様に底に車を附けてある長持ちである」     〈明和年間の句だが、江戸からの帰りに長持に貼ったのは錦絵か、紅摺絵か……〉   15 錦絵は故郷へ飾る江戸土産(天保年間【江戸名物】)     〈文字通り錦絵を持参しての帰郷である〉  ◯『開板指針』(国立国会図書館蔵)所収   (書物の検閲に関する幕府側の幕末記録)   〝明和二年の此 唐の彩色ずりに習て 板木師金六と云(ふ)もの 板木へ目当(ママ)をつける事を工夫して    初て制出す 天保十三年壬寅年八月 錦絵遊女其外の絵・役者絵等 堅被制禁 同十五弘化元年と改元    の頃よりそろ/\女の絵はじまりし也〟    〈水野忠邦の老中罷免は天保14年(1843)閏9月、同15年12月改元、弘化2年頃から美人画が出回り始めたようである〉  ☆ 慶応年間(1865-68)  ◯「私の幼かりし頃」淡島寒月著(『錦絵』第二号 大正六年五月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p390)   〝私の幼い頃、あの芳年やなどの血のりの附いたような錦絵の流行った時代!その当時はあの薩長土や徳    川のドサクサ騒ぎを子供に見立てて描いた錦絵が数百番も出来ていた。そしてそれが皆二枚続や三枚続    で、着物の模様やなにかで、それが何を暗示しているかが誰れにもよく分ったものだ、仮令(たとえ)ば    薩摩は例の飛白(かすり)、長州は沢潟(おもだか)、土佐は確か土の字の模様であったと思う。その中に    は色々の大名が喧嘩をしているのもあった。その頃の絵が今でもよく展覧会などでチョイチョイ見掛け    る。    それより少し前のことだったが、本の口絵などの色気を禁じたことがあった、それは墨と藍とを混合し    たような異様な色合であった、私の兄が「今度本の口絵の色が変った」といわれたことがあるが、それ    もよほど幼い時だから記憶が全く薄らいだ。    なにしろ戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた、普通の    絵では人気を惹かないので、あの『金花七変化』という草双紙鍋島の猫騒動の小森半之丞がトンビ合羽    を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企ての如き、清    親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出版されて、頗る売れたものである。役者絵は国周で独    占され、芳年は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵としては出さずに、『安愚楽鍋』    『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀の作物挿絵やその他『イソップ物語』の    挿絵が大評判であった。    それから後には、明治天皇奠都の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵師の生活状態は随分    悲惨であった、芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非常な窮境であった、    そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世で売っていた、であるから一流以下は全く仕事がな    い状態で苦しかったことが明かになる。    私なぞが錦絵でよく買ったのは、やはり役者絵であった、権十郎(九代目団十郎)、田之助、彦三郞な    どを盛んに集めた。そしてその錦絵は三枚読き大抵一朱で、一枚絵天保銭で二枚位、よほど上等な奉書    紙ででも使ったのでなければ二朱なんていうのはなかった。    また錦絵の続き物──五十三次だとか纏尽しなぞを堪えず人形町の具足屋から出版した。その具足屋は    今のねずみ屋(花車屋)の隣にあった。まあ新版のよいのは具足屋か両国の大黒屋かといわれたもので    ある。    今では錦絵で大騒ぎであるが、その頃歌麿や写楽のような古い物は、大道の露店で売っていたが誰れも    顧みなかった。私は浅草茅町の須原屋と砂糖屋の間に夜るばかり店を出していた、俗に坊主と呼んだ男    から写楽や歌麿などのものを唯の一枚一銭で沢山買って来て、私が明治十二年に馬喰町(バクロチョウ)の家    を廃業した時くずやへ二束三文で売ったことがある。それが今日非常の高価なものになったとは実に変    れば変るものだと思っている。    しかし錦絵の古い時代の物を観ると、何ともいえぬ味があるものでその時代の有様を知るには、この錦    絵をおいては外にその時代を目前に観ることはできぬと思うのである。    京伝(キョウデン)の『骨董集(コットウシュウ)』や、柳亭種彦(リュウテイタネヒコ)の『用捨箱(ヨウシャバコ)』、または『還魂紙    料(カンコンシリョウ)』等にもこの錦絵からどんなに考証を得て居るかもしれないのである。どうしてもその時    代を窺うには、これを外にしてよい材料は得られぬと思う。ですから今日の画工も今の時代の浮世絵を    後ちの者に遺(ノコ)して置てもらいたいと思う。尤(モット)も写真というものがあるからという人があろうが、    写真は写真で錦絵の如き木版の味は見ることが出きぬので絵師がちょっとした事にも心を用いて、たと    えば鏡に顔をうつして居る処とか、猫をからかって居る手つきとか、種々の小さな処に苦心の跡がある。    その苦心を筆で軽くあらわすを刀でうまく彫り行くような彫師の苦心、これをまた摺師がうまく彩色を    あしらって行く、幾人かの労力が一致した面白みは写真では見られぬことと思う。古い錦絵の日本のほ    こりとともに今に錦絵も後世の誇りとしたいのである〟    〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ、幼い頃というと慶応年間(1965-7)にあたる。「血まみれ」芳年の「血みど     ろ」絵「英名二十八衆句」(芳幾との合作)が流行ったのは慶応2~3年(1866-7)の頃、また「薩長土や徳川のドサクサ     騒ぎを子供に見立てて描いた錦絵」とは戊辰戦争に取材した「子供遊び」(広重三代ほか)シリーズで、慶応4年(186     8)刊。合巻の口絵の色合いが変わったのは文久末~元治元年の頃か。『金花七変化』の「トンビ合羽を着て、洋傘を     持っているような挿絵」とは31編(仮名垣魯文作・歌川豊国四代)の挿絵で、これは明治3年(1870)刊。清親のいわゆ     る光線画「東京名所図」が大黒屋松木平吉から刊行されたのは明治9年(1876)から。仮名垣魯文作・一蕙斎芳幾画の     『西洋道中膝栗毛』は明治3年、そして『安愚楽鍋』は明治4年の刊行である。暁斎画『イソップ物語』(『通俗伊蘇     普物語』)は明治6年刊。幕府瓦解直後、浮世絵師の生活状態は実に悲惨であったという、ただ「国芳の晩年なぞ非常     な窮境であった」の記述は、国芳は文久元年没(1861)であるから時系列上不自然である。役者絵についていうと、九     代目市川団十郎が河原崎権十郎を名乗っていたのは明治2年3月まであるから、梵雲庵がよく買ったというのはやはり     慶応年間のようだ。なお沢村田之助は三代目、坂東彦三郎は五代目である。役者絵は天保銭が二枚の由、上掲の凧記     事に「二百文即ち天保銭二枚位」とあるから、役者絵一枚は200文。そしてその三枚続が1朱とある。さてこの1朱、     当時の銭相場が不安定で1朱が何文に相当するのかよく分からないので、取りあえず機械的に3倍してみると600文と     いうことになる。(なおネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、元治元年(1864)は1両=16朱=6716文、これで換     算すると1朱=420文となる。慶応元~二年の銭相場は不明だが、慶応三年は1両=16朱=8164~8432文、これの平均を取     って1両=8313文とすると、1朱は520文となる。ところで明治4年の「新貨幣条例」以降、新旧通貨の交換レートでは     1銭=100文と定められたが、額面100文の天保銭は1銭ではなく8厘(0.8銭)の通用と定められた。これには天保銭の実     質価値が80文でしかなかったという実勢が反映している。そうすると幕末の役者絵一枚の値段は実質的には200文で     はなく160文くらいということになる〉   注『金花七変化』合巻 鶴亭秀賀作・国貞二世画 1~26編 万延1年-慶応4年(1860-68)刊・27編 明治2年(1869)刊              仮名垣魯文作・国貞二世(豊国)画 28~31編 明治3年(1870) 刊    『西洋道中膝栗毛』滑稽本 仮名垣魯文作・一蕙斎芳幾画 1~11編 明治3年~同5年(1872)刊    『安愚楽鍋』滑稽本    仮名垣魯文作・一蕙斎芳幾画 1~2編 明治4年(1871)    『イソップ物語』(『通俗伊蘇普物語』)6巻6冊 藤沢梅南・榊篁邨・惺々暁斎画 明治6年(1873)刊    『骨董集』 山東京伝著 文化11~12年(1814~15)刊    『還魂紙料』柳亭種彦著 文政9年(1826)刊 『用捨箱』柳亭種彦著 天保12年(1841)刊      「金花七変化」挿絵〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉  ☆ 明治初年(1877頃)    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③186(浅野梅堂著・明治初年記)   〝錦画ト云一枚摺ノ画、安永頃ヨリ次第ニ鮮麗ニナリ、当時ニ至テ極レリ。金銀泥ヲ用ヒ、紅紫ニテ纐纈    ノ濃淡ヲ摺ワケタルナド、筆ニハ及ヌ手際ナリ。歌舞伎役者ノ似顔ト云モノハ柳文調ヨリ始リ、柱カク    シノ女絵ハ、湖龍斎ト云モノカキ始ム。歌川一龍斎ヨリ豊春、豊広、豊国トツヾキテ、国貞ニ至リテ巧    妙タグヰ無、国貞ノ筆ハ絹地エガキヲロシタルモノ実二精彩、土佐ノ古キ名手ニ抗衡スべシ。広重ト云    モノ、景勝ヲ画ニ妙ニシテ「江戸百景」(傍注「」の四字原本ナシ)五十三駅ノ景、其陀(ママ他?)多ク    摺出セリ〟    ☆ 明治三年(1870)  ◯『増訂武江年表』2p231(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (明治三年・1870)   〝吉原町娼楼に於いて遊女の踊はやる。錦絵に多く印行せり〟   〝此の頃、伊予奉書の八枚切の錦絵を板行售ひけるが、嬰児これを好んで求むるより次第に新版出来る〟  ☆ 明治十年(1877)    ◯「明治十年前後の書店配置図 日本橋から芝まで」浅野文三郎著   (『明治初年より二十年間 図書と雑誌』洗心堂書塾・昭和十二年刊)   〝通壱丁目の角が瀬戸物店、続いて大倉書店、萬孫絵双紙、いつも店先は錦絵の見物で一ぱい。絵双紙に    見とれて懐中を抜かれて青くなる人もあつた〟  ☆ 明治十一年(1878)  ◯『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯 内国勧業博覧会事務局 明治十一年六月刊   (『明治前期産業発達史資料」第七集)※(カタカナ)は本文のルビ。(ひらがな)の読みは本HPのもの    〝錦絵     天正年間、荒木村ノ人又兵衛ナル者、好テ世上ノ風俗ヲ写セシヨリ、浮世絵ノ名称始メテ起レリ。而シ    テ寛永年間迄ハ都テ墨刷ナリシガ、延宝天和ノ頃ニ至リ、菱川吉兵衛微(すこ)シク丹緑青黄等ノ顔料ヲ    用フ。元禄以来俳優ノ容貌ヲ描ク者アリト雖ドモ、方今ノ如ク其真相ヲ肖摸スルニ非ズシテ、僅ニ打扮    略形ノミヲ写セリ。享保ノ初年ニ紅絵及ビ漆絵ナル者アリ。紅絵ハ臙脂(ベニ)ヲ粧点シ、漆絵ハ墨上ニ    膠ヲ塗リ、或ハ金泥ヲ抹ス。因テ亦之ヲ泥絵ト云フ。明和二年、新ニ合版(アワセハン)ノ法ヲ発明シ、着色    全ク備ハル。則チ現ニ流行スル所ノ錦絵是レナリ〟   〝錦絵ハ鈴木春信ノ創製スル所ナリ。当時初春ニ五刷(ゴヘンスリ)六刷ノ大小暦画、大ニ流行セシヲ以テ、春    信之ニ因リ、新ニ各種ノ錦絵ヲ作レリ。其人口ニ膾炙セルモノハ阿仙【谷中笠森稲荷祠前ノ鍵屋ト称ス    ル茶肆ノ女】及阿◎阿藤【浅草地方ノ柳屋ト称スル歯木舗ノ女】ノ画ナリ。蓋シ春信平生気節ヲ負ヒ、    曽テ俳優ノ容貌描カズト云フ〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯「読売新聞」(明治18年5月23日付)   〝吾妻錦画   瀧泉居士    頃日古き錦絵類が好事の外国人へ売行くとて 紅絵細絵といふの類は格外に価高く其品も少なくなりし    とか 夫に付きて思ふに浮世絵といふ名の卑しきが為めに 人も今までは捨て顧みざりしが 其時其世    の風俗を知らんには是に超たるものなければ 心あらん人は保存し置かれたく願ふなり もと錦絵は女    子供の弄び物なれど 総ての板摺の業は此の錦絵の世に行はるゝにつれて進歩改良したりと云はんも不    可なきほどにて 江戸名物の一つなれば 此後ちとても此業をます/\進め 錦絵は安政万延に至りて    極まり 明治の世に尽きたりと云はせたく無きものなり 偖(さて)此の錦絵といふものは何時頃より世    に行はれしかと云ふに 彩色摺の絵は元禄より先には見えず 『江戸真砂六帖』に元禄八年元祖市川段    十郎鍾馗に扮す 其容(かたち)を画き刻んで町に売る価銭五文と有り 此頃の物は丹にて彩どり又は紅    一色の色ざしなり 正徳享保の頃は奥村政信(文角又は芳月堂丹鳥斎などゝ号す)盛りに三枚続きの細    絵を出し 彩色は紅と萌黄(もえぎ)のみにて 三夕 和歌三神など名づけ 遊女若衆の風俗を写す 然    し未だ錦といふ字を付くべき者なかりしが 此の政信の絵のよく行はれし為め 紛らはしき名を付けた    る贋版多く売りを競ふより いろ/\工夫して彩色も増し 明和の頃 鈴木春信の出す小形の美人絵は    較(やゝ)錦の字に近しといふべし(北村信節の嬉遊笑覧には 曲亭馬琴の説とて 錦絵は明和二年の頃    唐山(もろこし)の彩色摺に習ひて 板木師金六といふ者 板摺(はんすり)何某(なにがし)と語らひて初    めて四五遍の彩色摺を製し出せりと載せたり)天明の頃は勝川春章始めて歌舞伎役者の似顔を画き 大    いに世に行はれ東都(あづま)錦絵と名あるに至れり 夫より続いて北川歌麿 歌川豊国等の上手出て     絵も追々と美事になり 二世(せ)豊国(実は三世) 国芳に至りて 此道の美を極め 殊に豊国は世に行    はれ 板元にも魚栄(うおえい)などといふ好事の者ありて 極彩色奉書摺の美を極めし事は 人の知る    所なれば委しく云はずもあらん 斯(か)く此の業は凡そ二百年間に斯くまで進歩せしものなれば 今の    人は此の緒(あと)を継ぎ 錦絵は明治の世に至りて滅びたりと云はれ玉はぬやう注意あれかし〟    〈明治十八年の頃はまだ月岡芳年・鮮斎永濯・河鍋暁斎・歌川国周などが健在で、錦絵にかぎらず、合巻などの版本、     そして新メディアともいうべき新聞などにも進出して、旺盛な需要の応えていた時期であったが、瀧泉居士の目には     既にして衰頽の兆しが見えていたというべきなのであろう〉  ☆ 明治二十年(1887)  ◯『東京府工芸品共進会品評報告』山崎楽編 敬業書院 明治二十年十月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第六類(各種絵画)品評」   〝錦絵ノ中ニテ山口次郎出品ノ徳川家十五代ノ図ハ将軍ノ方ハ小林清親ノ筆ニナリ 奥方ノ方ハ橋本周延    ノ筆ニナリ 共ニ趣アリ 林吉蔵出品ノ近世名婦人ノ図及勝木勝蔵出品ノ上野桜花観遊ノ図ハ共ニ意匠    拙ニシテ品格ニ乏シ 佐々木豊吉出品ノ女礼式ノ図ハ精工ナラズ 小林鉄次郎出品ノ月岡芳年ノ筆ニナ    リタル二枚物ノ図及小林永濯ノ筆ニナリタル一枚物ハ何レモ彫刻紙質摺刷共申分ナク甚ダ精工ナリ 是    等ハ出品中ノ翹楚ト云フベシ 同人出品ノ雪月花昼夜競ノ図ハ橋本周延ノ筆ニナリ 只錦絵ノ真面目ヲ    表スル迄ニシテ別ニ見ル所ナシ 外ニ二枚物ノ部ハ画帖ニ仕立ツル時ハ少シク輸出ノ望ミアリ(中略)    木村嘉平出品ノ円山応挙ノ筆ニナリタル河原瞿麦ニ鶺鴒ノ図河鍋暁斎ノ筆ニナリタル鷲ニ猿ノ図及虎ノ    図ハ寧ロ彫刻ノ精工ヲ示ス為メノ出品トモ云ベシ〟(26/48コマ)   〝錦絵ハ元禄八年色合セ板ノ発明ニ始マリ 爾後漸ク世人ノ愛玩ヲ得テ遂ニ東都ノ第一ノ名産タルニ至レ    リ 而シテ一枚ニ能ク二十種ヨリ四五十種マデノ色数配合シテ格色ノ間 分毫ノ間隙ナキ様摺刷スルノ    手際ハ欧米人ノ常ニ驚嘆スル所ナレバ 此際益々之ヲ改良スルニ於テハ 将来海外ニ販路ヲ拡張セルコ    ト期シテ待ツベシ〟(27/48コマ)    〈「元禄八年色合セ板ノ発明」とは何に拠った見解なのであろうか〉  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『美術園』第三号「雑報」明治22年3月   〝錦絵流行の変遷     往時より田舎地方までも江戸絵と持囃され、東京名物の一に数へらるゝ錦絵の内、最も売捌(うりさば    け)口の多きハ俳優(やくしや)の似顔及び名所図等なりしが、近頃開明の世勢に伴ふてか、大に従前と    異り宮中宴会又ハ観兵式等の図流行し、就中(なかんづく)洋装婦人の宴讌(えんゑん)の図などハ田舎向    の注文多くして、似顔絵名所図等ハ甚僅(きん)少なり、又一枚摺の花鳥絵近来非常の流行にて、続々海    外へ輸出するに付てハ、各絵草紙問屋(とひや)ハ中々の熱心にて、画工を選(えら)み彫刻に注意し、従    前(これまで)板版に桜木を用ひしも、黄揚(つげ)の小口に改め、石版画と競争を試み居るの勢(いきほ    ひ)なり、右花鳥画の輸出年々増加する為、海外輸出品の漆器陶器の摸様に迄も影響を及ぼしたりと〟    〈浮世絵の題材が明治になってから変化しつつある様子を伝える記事。従来の役者似顔絵や名所絵より、洋式の風俗     絵や花鳥画の類に注文が多く舞い込むという。前者は田舎よりの、後者は海外からの引き合いが強かったようだ〉  ◯「木版彩色摺沿革略考」自恃庵主人(高橋健三)著(『国華』第三号・明治二十二年十二月刊)   〝明治維新以来、彩色摺の術は石版銅版術のため一時衰退に傾き、其職工の如き、多くは其業を失ひしが、    近年稍々回復の気運に向へり。是れ蓋し欧洲主義の輸入により、他の諸事物と均しく一時風潮の擺揺(は    いよう)に漏れざりしが為なれども、其今日の気運に復せるは、元来木板彩色摺の本邦特有にして、石版    銅版の及ぶべくもあらざるが為なり。然れども、方今の彩色摺は維新以前に於けるごとく、今尚ほ殆ど    錦画の占有に属するを以て、未だ絵画再出の実を示す能はざるなり。是を以て今日彩色摺の改良を行は    んには、其絵画に対する本領を審に割定し、其摸擬の一術たる所以を明かにし、以て其完全を記するを    要す。偶々国華は本邦美術の保存、奨励、鑑賞及改良を計るの一機関として此事の実行をも計るべし。    即ち国華の毎号に掲ぐる彩色摺挿画は、一には此計画の結果なり。試験なり。故に之を既往の彩色摺に    視れば決して其比を見ざる所なれども、其完全を期せんには、前途仍ほ改良すべきもの尠しとせざるな    り。木板摺沿革を略叙するに当り、聊か国華彩色摺挿画の一目的を附記すと云爾〟  ◯「国華創立の自恃、天心両先生の当時と名工を偲ぶ」辰井梅吉著(『国華』第六百号・昭和十五年十一月刊)   〝国華複製の古美術木版色摺は、これをその原画と比するとき、真に迫り少しも遜色なき定評を博したる    所以は、複製に当たり写真術を応用して、原画を整色乾版に縮写し、その現像せる印画の膜を版木に張    り、彫刻することに成功したるためにして、これまた両先生の考案に依る国華創刊当時に於ては、錦絵    は衰退せりと雖も未だ今日の如く絶滅に至らざりしため、市に隠れたる名工を求め、色摺師として田村    鉄之助氏、彫工として三井長寿、飯山良助の両氏を採ることを得て、国家の特色とする精巧なる木版の    色刷に成功するに至ったのである〟  ☆ 明治二十三年(1890)    ※( )の読みおよび句読点は本HPが施した  ◯「東錦絵」『絵画叢誌』43巻 東洋絵画会事務所 明治23年刊   〝東錦絵 錦絵の尤も売れ口悪しきは夏の最中より秋先きに至る三ヶ月にして、十月より景気を生じ、翌    年五月に至て衰ふるを習ひとす。さるを此頃の景況を大体より見れば、将来益々衰微するの兆あり。其    は深き原因あるにあらず。元来東錦絵の声誉を世に擅(ほしいまま)にするは、他の得て模擬すべからざ    る一種の妙趣を存するに因る。然るに近来の東錦絵は一般に軽薄に流れ、第三回博覧会に於いても美術    部に編入の栄を得たるに抅らず、出品者は僅かに五六名に止り、而かも美術館に陳列せられたるものは    二名に過ぎず、他はみな工芸部に陳列せられたる如きも、畢竟品位の卑下なるが為なり。    古は錦絵の版元を営むは株を持てる十七軒に限りしも、維新後誰人にても出版するの自由を得、版元も    増し今日にては二百四十余軒の組合となり、営業の手広になりしは喜ばしきことなれど、それにともな    ふて流弊生じぬ。    さて東錦絵は慶応四年より明治四年頃おまでは非常の盛況を呈せしに、明治五年六年に至て一時に衰へ、    都下の絵草紙店は幾(ほとん)ど地を払つて尽んとせしを、明治九年より漸く景気を回復し、十四年頃ま    では再び大繁昌の世となり、未だ曽て一たびも錦絵を買入れたることなき地方まで争て多くの錦絵を買    入れたり。然るに都下錦絵営業者は眼前の利欲に眩惑し、只管(ひたすら)田舎向きの安物を製し、絵様    は如何にあるとも彩色は如何にあるとも頓着せず。金銀箔の如きもマガヒの洋箔或は錫ハクを用ひ、一    時を瞞過するの風行はれ、其弊今日に至りて極りたるなり。    錦絵の本色は当時の風俗状態を失はざる様写し出すにあり。譬へば元禄時代の人物を写さんとせば、髪    の結び様衣裳の着ざまより配色の適否を考合せ、当時の風俗を示すに足るべきものたらざる可らず。是    れ真の絵好きが玩(もてあそ)びて楽む所以にして、歴史画人物画を言はず趣味ありて風教に補益あるも    のなり。然るに今日の錦絵は徒らに新奇を衒ひ軽薄に流れ、一寸見には美麗の様なれど固(もとも)と彩    色も其当を得ず、図様も択ぶ所を失し見るに足るべきもの少なし。錦絵業の衰頽したるも此に職由する    なり。此衰頽を挽回せんと欲せば宜しく真の東錦絵を出版すべし。それには彼の文部省編輯の小学読本    の如きは、最も広く世に行はれ而て屈強の画題に富むものなれば、其中に就き歴史画なり人物画なり適    宜の画題を選び出して出版するときは、幾万の新華客を得るのみならず、延(ひい)て国家の風教を補益    するの利あるべし云々、郵便報知新聞に見えたり〟  ◯『日本商業雑誌』創刊号(博文館・明治二十三年十月刊)   〝東錦絵の如きも目下益々衰退の凶兆を現はし、営業者中暗に愁眉を顰むるものあり〟   〝明治十四五年以来の東錦絵ハ一般に軽薄に流れ、目先きの利欲に幻惑し、只管田舎向きの安物を製し、    絵様は如何にあるとも、彩色は如何にあるとも、頓着せず。金銀箔の如きもマガヒの洋箔或は錫箔を用    ひ、一時を瞞過するの風行われ、其弊今日に至極度に達せしかば、扠コソ前記の如き沈衰の形況を現は    したるなり〟〈『明治版画史』(岩切信一郎著・吉川弘文館・2009年刊)より〉  ◯『読売新聞』(明治23年10月27日)   〝東錦画天覧に入る 近頃畏こくも大内なる宮内省より 東錦絵の御注文しば/\同業者に達する趣きに    て 此程通り三丁目の錦絵商頭取小林鉄次郎方へ 宮内省より鑑札が下り 日々出版の新錦絵を納むる    といふ〟  ☆ 明治二十四年(1891)    ◯『読売新聞』(明治24年1月5日)   〝錦絵の略史 東錦絵と称するものは 江戸開府以来の名産にて 今は大絵一種に止ゞまれども 昔に    遡りて穿鑿する時は 其の種類蓋し三四にして足らざるが如し 則ち最初は正紙(まさがみ)を三つ切    り(丈一尺三寸巾六寸五分許(ばかり))にしたりしも 歌麿の代に至り正紙二つ切りとなり 槙町豊    国の代に及びては 其種類殊に多く 合絵(あはせゑ 駿河半紙位のもの)と云ふあり 中絵(ちう    ゑ 丈九寸五分巾七寸余)と云ふあり 長丈(ながたけ 大絵より稍や小なり)と云ふあり 長延    (ながのべ 巾二尺六七寸長四寸余)と云ふあり 大柱(おほはしら 長二尺六七寸巾九寸位)と云    ふもありしが 今は廃り 昔古物家の有に属して 大絵(おほゑ 長一尺二寸五寸巾八寸五分位)の    み大に行はれ 竹付(ちくふ) 替り絵(かはりゑ)の新趣向もあれど 皆中古の大柱に及ばず また俳    優絵(やくしやゑ)の如きも 已前は丸立絵(まるたちゑ)・半立絵・中身(ちうみ)・大首(おほくび)の    四種ありしも 今は中身一種となりしが 其の実已前の半立ちと同物なり 然れども其の価格と売れ    口の様子はさしてかはりなく 上絵は物価の安き昔 百文に六枚の割合を以て考ふれば 今猶ほさし    たる相違なく 其の売れ口は人形町通には上物 日本橋通(品川より本郷に至る)には下物 下谷浅    草其の他には中下取り交ぜて専売の区域を画したる事 奇々妙々にして 古今不変なりと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治24年6月10日)   〝東錦絵面目を改めんとす 東錦絵の高名なるにも拘らず 近頃は其色摺に白粉(たうのつち)を混交して    一時のはえを貪る為め 忽ち変色するの憂(うれひ)あり 故に如何なる画伯の絵とても 後来参考とし    て 永く之を貽(のこ)さんは 覚束なしなど嘆く者多かりし由は 予(かね)て聞く所なるが 今回浅草    駒形町の児玉又七筆彩色の法を工風し 初代広重の絵巻物を発行する事となし 漸次進んで武者絵俳優    絵にまで此法を及ばさんとする趣なれば 年余ならずして東錦絵は大に其面目を改むべし〟    〈「白粉」とは唐の土=鉛白〉  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p22(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝錦絵の取扱方    凡て錦絵には裏打ちを成すべからず。もし裏打ちをなすときは、品により二割乃至(ナイシ)五割方、価を    落とすことあり。    キズ、モメ、手ズレ等ある錦絵に手入をなすべからず、価を増さんとして却って廉価となることあり。    何ほどススケ甚だしき錦絵にても之れを洗わずして、其の侭(ママ)になし置くべし。洗ひし物は廉価なり。    日本にては古来よりの習慣にて、絵画を巻くには、必ず絵の表を内に巻込むも、是れは絵の表面に小皺    を生じ、宜しからず。故に、錦絵類を送るには、絵の表を外へ巻き、一番上へ白紙を巻て送るを良しと    す〟  ◯「読売新聞」(明治28年10月14日記事)   〝流行錦絵の評判  不倒生    三十男の髭面が阿房のやうに廃れる法もあれ、好事(ものずき)なればこそ、こゝやかしこの絵双紙屋の    店頭に、或時は三四分、長きは二十分間も立見せし甲斐に、いで/\流行錦絵を簡略(てみじか)に評判    せん。    丁度秋の空模様の如く、かはり易きは錦絵の流行ぞかし。昔日までは、絵の巧拙に拘らず、錦絵の世界    は、戦争もの独占の有様なりしが、今日は其の絵(ゑ)頓(とみ)に勢力を失して、年英、月耕など三四尤    (すぐ)れたるを除きては、大概(おほかた)は店の後段に退けらるゝか、或は下積となれり。唯(ただ)清    親の滑稽画「百撰百笑」のみは、可笑(をか)しき徳にや、未だ流行の寵(ちよう)衰へず。かゝる所に、    是迄戦争絵に圧(お)されて、一時は全く顔色なかりし、当世風俗尽し、役者の似顔絵、美人、武者等の    しな/\、立田川紅葉の錦絵、今こそ戦争ものに代りて、これ見よがし絵双紙屋の店頭に色を争ひはじ    めたり。    中にも当世美人姿絵は、流行絵の中心にて、殺伐たる戦争ものゝ流行に飽きて、今や此の温柔なる美形    に移る、まことに反動の作用といふべし。美人すがたの主(おも)なるを挙(あぐ)れば、豊原国周の「東    (あづま)古風女(ぢよ)」(?)、小林清親の「四季の遊び」、共に流行に流行に投じたる作なれども、前    者は似顔絵の名人、後者は滑稽画の妙手、むしろ女風俗は長所にあらず。此の際ひとり楊洲周延の三枚    つゞき、一枚刷、流行錦絵の過半を占めて、他(た)は殆ど顔色なきの有様、されど最初に出でし茶の湯、    三曲合奏等(とう)は、昔の節用集、今の日用百科全書中のもの、余りに平凡に過ぎたりといはんか、稍    (やゝ)精神乏しけれども「千代田の大奥」「東源氏宮詣(あづまげんじみやまうで)の図」などは、流石    (さすが)に上品にして、徳川時代御殿風の状態を想起せしむるに足る。三枚つゞきにて一寸風がはりな    のは年景(としあき)が夢裡なり。これ芳年が「三十二相」中の「あつたかさう」に胚胎せるもの、彼れ    は町家(ちやうか)後家の風俗、これは嫁期(かき)漸(やうや)く熟したる令嬢、彼れは古(いにしへ)、こ    れは今(いま)、おの/\時代を異(こと)にすといへども、共に其の痴態を写すや同じ筆法にいづ。こゝ    に西洋の画風を折衷し、従来の浮世絵風を脱(はな)れ、別に一機軸を出せるは月耕の「美人花くらべ」    なり。気品頗(すこぶ)る高雅、おのづから仙骨を有す。此の派の人か、耕濤(かうたう)の「古代風俗」    元禄踊の図も流行もの鮮麗洒落(せんれいしやらく)の筆、然(しか)れども此の派(は)一体に愛嬌乏しき    は又一短所なり。是等(これら)さへ既に流行に後れんとする傾向ありて 今流行の最(さい)はそれ国周    の「明治座狂言草摺引の図」なるべし。団十郎の景清、左団次の美保のや、半身の三枚つゞき、両雄肘    を張(はつ)て絵双紙屋狭き勢ひ立派/\といふの外(ほか)なし。是も一時なるべく、今後当分はなほ美    人流行すべし。さて其の風俗を卜するに、今日芳年の如き大胆家を出(いだ)す余地なければ、先(まづ)    は甚(はなはだ)しき淫靡には陥らざるべく、矢張り品のよき月耕の「婦人風俗尽」さては年方の「三十    六佳撰」の類、漸々新粧を凝らして現るべけれど、唯全身ものよりは、半身ものゝ注意をひき易く見栄    (みばえ)あるには如(し)かず。似顔絵の如(ごと)きは、固(もとよ)り時に応じて品を変(か)ゆるのみ。    序(ついで)ながら国周が団洲(だんしう)の河内山も近作なり。此の外見漏らしたるは他日拾ふことゝす    べし。まづは錦絵の評判これぎり/\〟    豊原国周画「東古風」 三枚続 板元不明    小林清親画「四季遊び」三枚続 武川清吉板    楊洲周延画「茶の湯」 三枚続 森本順三郎板 「三曲合奏」未見         「千代田大奥」三枚続 福田初次郎板    「東源氏宮詣之図」三枚続は梅堂小国政画か    中沢年景画「夢裡」三枚続 未見    尾形月耕画「美人花競」武川利三郎板    大倉耕涛画「古代風俗 元禄踊里之図」三枚続 長谷川寿美板    豊原国周画「明治座狂言草摺引の図」三枚続 「錣引」の誤りか    尾形月耕画「婦人風俗尽」佐々木豊吉  ☆ 明治三十年(1897)代     ◯『読売新聞』記事1月27日記事   (小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   〝浮世絵歴史展覧会の外人の評    米人フレデリツク、ダブリユー、グーギン氏    版絵には驚嘆すべき意匠の優秀なるものあると同時に 着色の極めて美麗なるものあり 鳥居清満 第    三の着色木版を用ひ創(はじ)めてより 諸名家相競(きそふ)て斯術(しじゆつ)の考案工夫を凝らし 其    駿々たる技巧の進歩は遂に後年の隆盛を来し 意匠の優雅着色の豊富は 亦木版術の完美なるは 鳥居    清長及び同時代の名家に至て其極に達せり 漸く年を経るに従ひ 是等名家を刺激せし創作力消磨し去    って 徒(いたづらに)に末技の繊巧を衒ふ弊風を生じたるも 北斎広重の天才に依りて暫時復興の盛況    を呈しぬ〟  ◯『明治版画史』p166 岩切信一郎著・吉川弘文館・2009年刊   〝(一枚ものの製作)版元が錦絵の「安価な値段(たとえば売値二銭)に執着したために、高価な版画を    作ることなど思いよらず、むしろ一枚にかかるコストを下げることに傾き、顔料や紙質を落とし、より    大量に作ろうとして安易に油性インキの使用や機械刷りを行った。結果的には版画の質の低下を招くこ    とになった。優美な木版の味わいは、けばけばしい色に塗り込められてしまい繊細さを失う自滅の道を    歩むことになる。いわば、錦絵が民衆のための安価な絵であることに固執したことが命取りとなったの    であった〟  ☆ 大正三年(1914)  ◯「錦絵と寄席」(微笑小史著 『集古』所収 大正三年)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』甲寅(4) 5-6/14コマ)より収録)   〝東錦絵と一口にいふ程にて 実に錦絵は東都の名物、否我邦の名物なるが 近頃は余り流行せぬ事 惜    しむべし、其人無きなるか 否其昔より遙に優り 彫師摺師も皆揃ひて居るに 世を驚ろかす物出でざ    るは如何、我幼時は全く錦絵の最盛時にて 今度何の新板が出たりと言ふと直ぐ買ひに行くと云(ふ)有    様なりし 其くせ余り名人が居りにしも非ず 国芳は最早世を去り 武者にては芳虎・芳幾・貞秀、風    景に広重、役者に国周などなりし、其頃我家に定吉と云僕居りしが、もと絵双紙屋の番頭せし者にて     頗る其道に精(くはし)く、我錦絵を買はんと云時には 其頃そろ/\売出したる芳年のみを勧めて買は    しめ 是が今に大層になりますといひしが 果して間もなく芳年の名高く揚り ついに錦絵界の大改革    を為せしはよけれど、其代りに画工はズツと高尚に為りて 余り錦絵に筆を取らず、絵草紙屋の方は亦    潤筆を惜(し)み、俗悪窮まる石版画を耻かし気もなく店頭にぶらさげ居るは、豈江戸児の面汚しに非ず    や(以下、寄席の記事 略)〟    〈この文は大正三年のものではあるが、内容は「其頃そろ/\売出したる芳年」などとあるところを見ると、明治初年     の頃の様子をいうのだろう〉