☆ 明和八年(1771)
◯『半日閑話』巻十二〔南畝〕⑪352(大田南畝著・明和八年六月十六日明記)
〝三又築出新地
(六月)十六日、三又富永町となる。
大橋三又の川中築出し新地出来る。御舟蔵前の土をさらひて是を築く
【欄外。寛政元年酉十二月より堀立、翌戌三月迄、旧ノごとく大川とナル。御手伝、秋元摂津守、阿部伊
予守】〟
☆ 安永四年(1775)
◯『増訂武江年表』1p194(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(安永四年・1775)
〝大川中洲築立地へ家居建て続き、町名を三股富永町と号し、川辺に葦簀囲ひの茶店をかけ並べ、夏月納
涼殊に繁く、絃歌昼夜に喧(カシマ)し
六如庵詩鈔、中津泛舟
繁華休説湧金門 行楽此中難具論 烟暖四時花世界 月清万頃水乾坤
垂楊岸岸楼台出 遊舫人人歌笑喧 輪却杭州縁底事 恨無蘇白闢詩源
中津納涼、同伊藤士善
日落江天闌署収 趁凉軽舸向中洲 燈棚夾岸花相映 螮蝀臥波橋欲浮
鳳管数声風嫋嫋 星河一帯水悠悠 銀嬰倒尽人難酔 白紵携帰満袂秋
中津漫興
十里清湖鏡裡天 繁華悩客動留連 鴛鴦沙外芙蓉雨 楊柳橋頭翡翠烟
秪見黄金争買笑 誰知白髪暗催年 笙歌眼底鎮長満 自是来舟非去船〟
☆ 天明四年(1784)
◯『通詩選』〔南畝〕①441(四方山人作・天明四年刊)
〝三江(サンコウ)花火の夜 浮楽興
三又の引潮海に連なつて平らかなり 両国の見物(ミセモノ)日と共に傾く
花火波に随ふ千万両 何れの処の遊山か大名の如き
三絃(サミセン)囀々として酒宴を遶(メグ)り 風虎の尾を吹いて又雷(イナビカリ)に似たり
酔裏流星飛ぶことを覚へず 十二桃灯(チヤウチン)看れども見へず
花火一色金銀を費やす 皎々たり白玉の孤月輪
今晩何人か花火を見る 花火何れの年か初めて人を慰む
枝豆喰ひ食ひ已むこと窮まり無し 本熟れ年々総て相似たり
知らず新地何人か楽しむ 但(タダ)見る茶屋に梯子を掛けることを
南鐐一片去つて悠々 青銅二本憂へに勝(タ)へず
誰が家ぞ今夜船州の子 何れの処の拳酒(ケンザケ)ぞ四季庵
上(アガ)るべき生簀の客徘徊 楽庵の卓子台(シツポクダイ)に向かふなるべし
樽三が包丁割(キザ)めと尽きず 角屋の勘定払へども還た来たる
此時相笑ふて相聞かず 願はくは芸者を逐つて転んで君を抱(イダ)かん
玉屋長く飛んで光滅せず 鎰(カギ)屋の空鎖(ジヤウ)闇自ずから分かる
昨夜御袋落花を夢(ユメ)む 憐れむべし今晩家に還へらざることを
通人質を流して去つて尽きんと欲す 土蔵の落城復た西斜めなり
身代貧々として皆無に隠れ 吉原品川限りなき途(ミチ)
更に猪牙に乗りて幾人か去る 花火情を動かすして燃株(モエグイ)に附く〟
〈『唐詩選』張若虚の詩「春行花月夜」を下敷きにしたパロディー。三味線に嬌声、花火に歓声。活気に満ちた天明の
三又新地(中洲)も、寛政に入るや否や雲散霧消、まさに一瞬の夢のような喧噪賑わいであった。生け簀料理の四季
庵、卓袱(シッポク)料理の楽庵。樽三(タルサブ)は、当時深川州崎の料亭・望汰蘭(ボーダラ)の主人である升屋宗助(祝阿弥)
と並び称せられる料理人。(但し樽三は天明二年没)角屋(スミヤ)も中洲を代表する料亭〉
☆ 寛政元年(1789)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕(水野為長著)
◇上⑧412(寛政元年閏六月記)
〝大橋、中州當年は甚淋しき由。四季庵、すみやの外に一間料理茶屋御座候計にて、其外は皆々明店に相
成り、河岸通りの茶屋も所まだらに御座候て、茶屋の女娘などもばゞあ抔出居り候由。先達て隠売女差
置候に付、当時も隠し売女御ざ候やと、大家共疑付候て、少しも生れ付相応なる女抔御ざ候へば、とや
かく申候に付、拠んどころ無く自分の娘などをも皆々奉公に差出し候に付、親子難儀仕、且料理茶屋向
皆々戸を立、相仕廻、水茶屋計にて親子暮し候へ共、客はなし地代は一坪一両二分にて、中々取続出来
兼申すべきと相歎候よし。御時節で世上がしつかりと也、売女博奕もなしとおもへば、又々難義いたし
候ものも多くこれ有り、中洲抔は先年の売女が引付に成り、大屋共も疑を起し、夜中も三四度ヅヽも中
洲を廻りありき候由。右辺に住みなし居候もの大に困り候由〟
◇下⑨59(寛政元年十一月記)
〝中州引払に付、町奉行へ中洲町人共呼ばれ候て、一坪に付金壹分ヅヽ引払料下され候よし。貳千四五百
両も出候よし。御時節がら故、か様成る有がたい事も有とさた仕候よし。
屋根ぶねも屋形もなくて御用船、チリツテやんでつちちんをとる。イニ チリツテヤンデツチツンデ行〟
◯『きゝのまにまに』〔未刊随筆〕⑥52(喜多村筠庭著・寛政元年(1789)記事)
〝十月、川々御普請、三股富永町住居之者共へ引料被下置、引払被仰付、秋元但馬守殿御手伝、翌年五月
頃にいたり元の水面となる、此中洲賑ひし頃は地獄と云て売女あり、其頃吉原町より仮宅なども有て繁
昌せし也〟
☆ 寛政二年(1790)
◯『親子草』〔新燕石〕①58(喜田順有著・寛政九年閏七月望日序)
〝中洲全盛の事
明和九年辰年、御伝馬役大伝馬町名主・馬込勘解由企てにて、新大橋の際三ッ俣の所より、酒井修理大
夫殿屋敷の際小橋の辺の川中に出洲之有り、これを俗に中洲といふ。修理大夫殿やしき西の方入堀の角
より、新大橋の方ぇ、表通長サ二百壱間、裏の方にて百七拾三間、奥行西の方にて七拾五間、東の方に
て弐拾八間の処埋立候て、新地出来、是を中洲三ッ俣富永町と云う、地面堅候為とて、水茶屋、豆蔵等
出る、中にも、彼の松川鶴市出て、大芝居にもおとるまじき程見物之有り候、程無く家居も建続き、わ
けて夏気は夜のにぎやかさ、河岸通りへは葭簀張の水茶屋出来、掛け行燈は軒をならべ、遊興を催し候
ものは、水茶屋にて酒肴など取り寄せ、後には女芸者など数多出来申候、扨、建てつゞく家々は、先づ
河岸通りの方には、往来の道巾十間程もあけ、料理茶屋、或は留守居茶屋抔二階屋に出来、前の河岸に
は、よしず張の茶見世、表通りは商人家建続き、西の方の河岸通りには、舟宿、湯屋など出来、中にも、
大橋の方の角に、四季庵といふ茶屋至て綺麗にて、籞(イケス)に鯉鱸を囲ひ、夏気は折ふし大名衆へ借し
切にて、紫の幕などを打ち、遊興之有り候事、折々見懸け申し候、夜分は、茶屋々々にて二階下へ掛け
行燈などともし、分て中川より舟にて見候風景、誠に日本一の夜の涼と、皆人風聞いたし候、殊に、新
吉原類焼にて、此中洲に仮宅を出し、大群集致し候、人を押し分け候て歩行いたし候、然しながら、冬
気は至てさみしく候、右鶴市、身ぶり珍識く候に付、殊の外繁昌にて、三蔵、茶平などゝいふ相手之有
り、夜も九ッ過迄も致し候由、帰り抔には、箱桃燈を燈し、非人の様にては之無く候、少いかゞの子細
之有り候哉、暫く繁花の所へも出ず、山の手辺を遍(ヘ)廻り申候、右鶴市事は、森田勘弥座にて中村富
十郎申候は、鶴市と申し候非人、身振りこわ色致し、人のくせを呑み込み能く致し申し候。あれは名人
にて御座候間、見て遣はされ候へかし、何卒と存じ候ても其の儀無きよしを、舞台にて披露いたし候程
の者にて、其の比甚だもてはやし候、又、水茶屋数多出来、女芸者なども入込候に付ては、隠し売女を
いたし候、号て地獄といふ、素人のやうにもてなし、殊の外流行のよし。右露顕に及び、召し捕られ候
に付、夫より分てさみしく相成る。其比稲荷の初午の行燈に、
地獄とはいへど中洲に遊ぶ茶屋
といふ句あり。近来地ごくと言し初也。然る処、寛政二戌年、家作取り払い仰せ付られ、上の御入用を
以て、右埋め立て候地所、元の如くの川となり(以下略)〟
〈中洲の埋立地を三ッ俣富永町と称したのが、明和八年(1771)六月十六日。竣工は、翌安永元年(1772)十二月十八日〉
◯『江戸図説』大橋方長著 寛政十一年(1799)再書
(国書データベース)(118/889コマ)
〝廃三俣新地 中津ともいふ
明和辰年 酒井家前通り河岸を埋立 安永四未年全く築成り 家居建つゞき 町銘三股富永丁ととなへ
夏月涼の比 至て賑ひ其繁昌いはんかたなし 天明五巳の夏 又築出さる 然るに寛政二戌年 元の海
地と成 同時に両国つゞき新地其外とも 新規の地替 以前の姿とはなりぬ
明和八卯より寛政元酉迄十九年が間也 翌戌年二月の比迄に、元の如く大川となる 御船蔵前の土を
浚へ これを築かる 安永六丁酉の夏より繁昌せり
安永元壬辰年 馬込勘解由願之 三股新地築立御用懸 御目付河野吉十郎安嗣 九千六百七十七坪六
分 三股富永丁と号す 茶や九千【疑十歟】三軒立
寛政元己酉年冬、大河浚に付、元の如く堀之河となる 御手伝 立花左近将監 阿部伊勢守 秋元但馬
守殿被仰付候 此土を仮はしを懸 深川へ運せ 霊運院其外え置候
傍示杭 大橋三股築立地/明和八卯年六月十六日
秋元但馬守/阿部伊勢守 大橋三股新地堀立御手伝/寛政酉年十二月 新大橋〟
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥36(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝両国橋の下三ツ股と云所、今安藤対馬守殿前へ、安永年中川中へ新地を築出して,中洲の涼と云て、江
戸一の遊山所なり、此所の料理茶屋又は素人見世に、隠売女為呼客を取たる故、夏冬ともに大繁昌せり、
其売女の事を地獄と異名を申ける、凡一万坪有之哉、天明年中大川筋出水の砌、水行悪しく川上筋満水
落兼たる事故、一時に取崩と成けり、或宗匠の句に、
冬は啼く夏はなかずの涼み哉
此所の売女は誠の隠しものにて、たばこや或は糸針迄も売内へ、彼女呼て客をとりけり、その取払の土
を大橋向新寺と申、深川霊運院とぞ中ける、此土にて築建たる寺と申ける、誠の新寺なる哉、古へより
有たる寺に有之哉、委敷は知らず〟
◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪385(蜂屋椎園記)
〝中州図説
江戸見聞録ニ所載、中州ノ図説
貞雄云、三派、安永の初の比より、筑出しんの新地となり、今ハ茶屋多繁花の地となれる。後世ノ及て
ハ、いにしへの三派の地形を知る人も希ニなんと、新古の図を爰ニ追補す
明和八年辛卯 六月十六日傍示杭
(杭の図)【大橋三股 築立地/明和八卯年六月十六日】
御船蔵前の土を浚てこれを築て、名付て三叉富永町といふ。
安政六年丁酉の夏比より繁昌せり
寛政元年己酉十二月 傍示杭たり 秋元摂津守
阿部伊勢守
(杭の図)【大橋三股新地掘立御手◎/寛政元酉年十二月】
明和八年卯より寛政元年酉まで、十九年の間なり。翌戌年三月の比までに、もとのごとく大川となる
安永元壬酉年、馬込勘ヶ由願之三股新地築立御用懸御目付、河野吉十郎安嗣、九千六百七十七坪六分
号三股富永町、茶屋九十三軒建。寛政元己酉年冬大河浚ニ付、如元堀之河となる、御手伝、立花右近
将監、阿部伊勢守、秋元但馬守被仰付、此土を仮橋をかけ、深川へ運、霊運院其外置候由
蜀山翁随筆奴凧ニ云、夏の頃、枝豆をありきながら喰ふハ、明和の頃、三ツ股ニ築出しの新地出来し
時より也。誰やらが句ニ
冬ハなく夏ハなかずの涼哉
椿軒先生【内山伝蔵】の狂歌ニ
大橋のある上に又かけたかとなくやなかずにゆくほとゝす
此地を三ツ叉富永町と名づく。深川の名主の持なりき、わづかに十五年にして、元の如くの川となれ
り。朱楽管江【山崎氏】著す所の大抵御覧と云小本ニ委し。これ中洲の実録也〟
◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「中津富永町の賑わい」(24/34コマ)
〝中津富永町のさまは 今の蘆生(おい)たる一面に 築地にて中に径街いく小路もあり 安藤河岸の方よ
り橋三ッ程懸渡して河辺皆茶屋料理やなり そのうち東南の角に四季庵といふ料理家 殊に繁昌し誘客
最もおほし 夏は軒ごとに提灯をてらし 千舟河岸を競ひ 遠望殊に美麗にて寔(まこと)に一夜千金の
一廓ともいふべき地也 されど霜枯と成つては寒気甚しくて更に遊客の足たえ 一島寂寞たる地となれ
り こゝにおひて富永町の名も空敷(むなしく)忽ち廃地となりて 又元の芳原とは成にたりと人皆いふ
冬はなき夏はなかすのすゞみかな〟