◯『藤岡屋日記 第五巻』⑤65(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇まねき猫
〝嘉永五子年春 浅草観音猫の由来
浅草随神門内三社権現鳥居際へ老女出て、今戸焼の猫をならべて商ふ、是を丸〆猫共、招き猫共いふな
り、是は娼家・茶屋・其外音曲の席等は余多の客を招き寄候とて、是を求め信心致す也、又頼母子・取
退無尽等は壱人にて丸〆に致候とて是を信じ、又公事出入・貸借等も此猫を信ずる時は勝利となりて丸
〆に致し、又々難病の者、此猫を求め信心致し候説時は、膝行は腰が立て親の敵を討、盲人は眼が開き
目明しと致し、又は脚気症等よい/\にて歩行自由ならざる者も、此猫を信ずるがさいご忽ち両足ぴん
/\と致し、余り退屈だから昼飯に小田原迄初鰹を喰に参り候との評判にて、飛脚屋より京都へ三日限
の早飛脚を頼まれ、余多の貸銀を丸〆としたるとの風聞より、欲情の世界なれば、我も/\と福を招き
て丸〆/\。
丸〆に客も宝も招き猫浅草内でこれ矢大臣〟
◯『増訂武江年表』2p129(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(嘉永五年・1852)
〝浅草花川戸の辺に住める一老嫗、猫を畜(カイ)て愛しけるが、年老いて活業もすゝまず、貧にして他の
家に寄宿して余年を送らんとせし時、その猫に暇を与へなく/\他家へ趣きしが、其の夜の夢中にかの
猫告げていふ。我がかたちを造らしめて祭る時は、福徳自在ならしめんと教へければ、さめて後その如
くしてまつる。夫よりたつきを得てもとの家に住居しけるよし。他人此の噂を聞きて、次第にこの猫の
造り物を借りてまつるべきよしをいひふらしければ、世に行はれていくらともなく今戸焼と称する泥塑
の猫を造らしめ、これを貸す。かりたる人は蒲団をつくり、供物をそなへ、神仏の如く崇敬して、心願
成枇の後金銀其の外色々の物をそへて返す。其の鄽(ミセ)は浅草寺三社権現鳥后の傍にありて、此の猫
を求むる者夥し。此の事、児女輩といへども心ある人は用ひず。まして丈人の駭(オドロ)くべきにあら
ずといへども、此の頃は丈夫も竊(ヒソカ)にこの猫をかりて祈りけるもこれあるよしなりしが、四、五
年にして此の噂止みたり〟
◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩188(塵哉翁著・嘉永五年(1852)記事)
〝浅草の猫
(前略)去年(嘉永四年)の冬浅草寺の境内、隋身門の内に店を開きて猫(今戸焼)を売出すに、聞伝
へ言伝へて、請(ウケ)求(モトム)る者お猫さまと号して、初尾と唱へ、或は願望成就の神酒代備物代として、
奉納銭を置ぬ、子年(嘉永五年)の春に至りては、さま/\の小蒲団迄製し添て売るとなん、猶猫の大
小製作の麤密(ソミツ)、張子なども追々に増ぬらん
かゝる戯れ事は、多くは北廓(ホツカク)吉原町、猿若町などの遊所の者より流行(ハヤリ)出す事になん、売妓を
猫と唱へたる方言もあれば、なほよしとせん歟〟
◯「金龍山景物百詩」(四)(文久仙人戯稿 『集古』壬申(4)所収 昭和七年九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(7-8/13コマ)
〝招猫
迎福好縁起 土焼猫手招 今雖無売品 丸〆赤書腰
福を迎へる縁起好し 土焼き猫の手招き 今は売品に無しと雖も 丸〆赤く腰に書す〟
〈今戸焼きの土人形・丸〆猫(まるしめねこ=まるっとせしめる招き猫)。人形の腰に◯中に「〆」の字(丸〆)の赤色の
マークが付いている〉