☆ 明和七~八年(1770-1)
◯『難波噺』〔百花苑〕(池田正樹著・大坂滞在記事)
◇明和七年正月 ⑭45
〝同七庚寅年正月。宝舟道中双六其外色々の双六有。右いづれも江戸に異也。草双紙は無之〟
◇明和八年正月 ⑭60
〝此月一枚絵草双紙など売るもの来らず。画は書肆にあれども、多くは江戸画にて大坂板は少なし。草双
紙は當處に曾てなし〟
〈この草双紙は黒本・青本をいうのであろうか〉
☆ 天明年間(1781~1788)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝草双紙、天明年中迄は、新作の本一冊八文にて、五枚宛綴たるもの、是を上下もの又三冊もの迚統き物
にして、尤祇は白漉の返し紙なり、表紙黄色の紙にて仕立たる物也、是を正月元日より、一枚草双紙と
て売来る、求め、子供への年玉物にしたる物也、今の草ぞうしは、何かこと/\敷致、害事も細かに長
々と書て、さま/\込入たる故、子供の慰にはならず、大人の持あつかふものなり、価も一冊一匁又一
匁五分などゝ有れば、子供の詠めものにならず、根本の訳をうしなひし事、此類近比は余多有りける〟
☆ 寛政二年(1790)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨77(水野為長著・寛政二年正月記)
〝草ぞふし、去年の如く当時の事を書候ハ無御ざ候へ共、道二の事抔を書候は御ざ候由。染返し大名島と
申草紙にハ、島の中へ梅鉢を書候由。とかく其様な事が書たいと見へたと申さたのよし〟
〈去年、当時の事を書いた草双紙とは、恋川春町作・北尾政美画『鸚鵡返文武二道』唐来参和作・栄松斎長喜画『天下
一面鏡梅鉢』などをいうのであろう。今年は道二こと中沢道二の心学に取材したものが多く出版された。道二は松平
定信の信頼もあって、諸侯から講演依頼があいついだ。「染返し大名島」とは、録山人信鮒作・栄松斎長喜画『染直
大名島』のこと〉
☆ 寛政九年(1797)
◯『楠正成軍慮智恵輪』(曲亭馬琴作・北尾重政画・寛政九年刊)
(国書データベース)
〝むかし/\の稗史(あかぼん)も、富川吟雪が画意終に跡なく、子供衆 がてんか/\の譃浪(くちあい)
も、作者丈阿が文法更にしる人稀也、難矣哉(かたひかな)世実(きまじめ)にして 栄(をち)をとらん事、
幼童もし赤本のあかぼんたる事をしらば、又馬鹿ものゝ馬鹿ものたる事をしらむ、十牒の冊子(そうし)
三文か智恵、何ぞ算用の合たる作といはんや、嗚嘑(ああ)実に然り。
丁巳春ながき日 馬琴識〟
☆ 享和二年(1802)
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①249(森山孝盛著・享和二年序)
〝古は子供の見覚る為に、楠一代記、義経一代記などとて、実を絵に書、或は鉢かづき、枯木に花咲ぢゝ、
猿蟹合戦、又は金平本などとて、勧善懲悪の本意を失はざりしに、今はしかるものは皆うせて、子ども
には分らぬ事をつゞりて、専ら大人の玩となれり〟
☆ 享和三年(1803)
◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②67(柳川亭著・享和三年序)
〝宝暦頃迄は一枚絵は皆糊入紙三ツ切にて、画がらも甚麁末也、草双紙といふは表紙赤し、故に今も赤本
といふ名残れり(明和二年の大小の会、および吾妻錦絵の記事あり。略)草双紙も其頃より種々の工夫
をめぐらして一体は童部の持遊び者なるを今にては児女の弁ゆべき事にはあらず、大人といふ共、和漢
の書籍に聞きもの又は文の道に賢くごも、流行におくれたる者にては全く解しがたき事と成たり〟
☆ 文化六年(1809)
◯『金曾木』〔南畝〕⑩290(遠桜主人(大田南畝)書・文化六年~七年記)
〝むかしは絵草子を青本【黄色表紙なり。享保の頃の表紙、萌黄色なりし故に此名ある歟】黒本【ことし
の新板を黒表紙にして出せり】赤本【丹表紙にて多くは一冊もの也】といひて、青本の価六文、黒本赤
本は五文也【宝暦の比、予が稚かりし時也】近比まで青本の事を価八文になり、十文になりしが、つゐ
に十二文になりて、昔の価に倍せり、近比まで青本の事を本屋仲間にて青/\とよびしが、此比前編後
編の作出来てより、合巻物とよぶ。価も次第に高くなりて、小児のみるべきものにあらず【欄外。文化
十四年丁丑の暮より、合巻物外題の色ずりよろしきを禁ぜられて、合巻物やむ。もとの草双紙の如くな
れども、半紙ずりにて、一冊十六文づゝにうりて、絵もやはり合巻物のごとし】〟
☆ 文政四年(1821)
◯『海録』二十巻(山崎美成著・文政三年~天保八年(1820-1837))
◇「合巻并読本」巻三
〝絵草子の画工、古は価百文にて一枚を画きしが、北尾重政より二匁とりし也、今は五百文位也、文字の
書入も一枚十文位也しが、今は中々左にてはあるまじ、彫刻料も一枚古は五百文也しが、今は一貫なり
と【尚左堂話】、此比坊間に行はるゞ、敵討のよみ本のさしゑ、北斎、豊国などの絵がけるは、一枚金
一歩二朱位也、作者へ料を以て謝礼せしも、近比まで五冊物にて五両づつ也しが、今は京伝、馬琴など
七両に至れり、十五両と迄なりしと云、古今の変之(これ)にてみるべし、昔は総て読本三百部程すりし
が、今は千も二千もする也、昔は画草子を青本といひ、今は前編後編ある故に、合巻物といふと也【辛
巳七の六之を抄す】〟
〈この記事は文政4年7月4日のもので、尚左堂は窪俊満で文政3年(1820)没。俊満はいう、画工の画料、昔は一枚100文
だったのが、北尾重政あたりから一枚2匁になり(1両=4歩=16朱=60匁=6500文の化政期の相場で仮に換算すると約220
文に相当)、それが現在では500文位だと。それが北斎・豊国クラスとなると、一枚金1歩2朱位(先の相場で計算する
と約2400文)で飛び抜けて高い。彫師の手間賃は昔一枚500文が今では一貫(1000文)。文字の書入とは筆耕のことだ
ろうか、これが昔は一枚10文で、現在の手間賃というと記載はないが比較でいうと二三倍にはなっているのだろう。
そして戯作者の稿料はというと、最近まで五冊物5両だったが、京伝・馬琴の人気作者となると、7両から15両に達す
る場合もあるのだという。読本の製本数も、無論評判高いものだろうが、昔の300部から1000~2000部へと大幅に増
産したらしい。ところで「昔は画草子を青本といひ、今は前編後編ある故に、合巻物といふ」という文面から判断する
に、山崎美成のいう昔とは、合巻が登場する以前の、文化4年頃より前を指すようだ〉
☆ 文政十一年(1828)
◯『御産池龍女利益』合巻(関亭伝笑作 北尾重政画 文政十一年刊)
(関亭伝笑自序)
〝草双紙大意
旧昔を尋るに草双帋に作者といふものなく 鳥居流の目の丸き武者に つよいやつだにげろ/\ とか
き入れて 子供の喚くを補ふ 其頃は外題も黄紙にて赤本(あかぼん)なり、黒本(くろぼん)あり 舌切
雀 鉢かつぎ 桃太郎の鬼が嶋 兎の手柄 花咲爺(はなさきぢゞ) 金平の化物退治はねん/\ころり
の伽もの語 其後赤き色紙に青き短冊外題の青本(あをぼん)あり 中昔 宝暦十庚辰年 丸小が板に丈
阿戯作と始めて作者の名を著はし たいのみそずで のみかけ山のかんがらす 大木(たいぼく)のはへ
ぎはでふといの根 ひきのやのどらやき なんと子供衆がてんか/\ などゞ書入れせしも はや昔
又明和のすゑ (◯に三鱗)の版より 外題を色摺にせしより めづらしき事に㕝(こと)におもひ 是
より青本流行して安永のはじめに桂子(けいし)作と名を入れしより 当世風をめかし 恋川春町 喜三
二 通笑 可笑 芝全交 京伝などの妙作出て 益々青本繁昌して 子供はそこ退け 女中方の手にふ
れ給ひ しかるに古人楚満人作の虚空太郎より前後の編を別(わか)つ 京伝作のお六櫛より口絵を
初めに出せしより 自づから行はる(以下省略)〟
〈前編『虚空太郎武者修業咄』後編『虚空太郎舎弟讐討』(南杣笑楚満人作 歌川豊広画 享和二年(1802)刊)。口絵『於
六櫛木曾仇討』(山東京伝作 歌川豊国画 文化四年(1807)刊)〉
☆ 天保二年(1831)
◯『今昔虚実録』歌川豊国二代画 桜川慈悲成作 西与板 天保二年刊(国書データベース)
(桜川慈悲成序)
〝先に人を笑はせたる青本の戯作者先生多くあり 芝には芝全交あり 予が師桜川杜芳あり 全交が長物
語 杜芳が夢茶修行押の強者(つよきもの) その頃は専ら戯作(けさく)して 腹の皮をよらせしも 今
はむかしとなりて 子供衆もその手はくはず されども今富川房信奥村政信の草本古物の流行するをた
ねとして 天明寛政の筋書を久しぶりにて戯言(けげん)せよと 馬喰町の主人の勧めにのつてはしり馬
のはしりかき 今を昔に染分手綱馬之丞様の御伽はなし 魚(とゝ)で飯(まんま)の二度おぼこと
哥川豊国五年前之画/文政十四年辛卯春発兌 芝ッ子の 桜川述〟
〈「馬喰町の主人」とは板元・西村屋与八。「富川房信奥村政信」は子供たちを興がらせる赤本黒本を、「芝全交・桜川杜芳」
は大人を興がらせる黄表紙を、それぞれ象徴するのだろう。版元は、赤本黒本の子供向けの世界を、「腹の皮をよらせ
し」黄表紙の作風で戯作するよう勧めたのである〉
☆ 天保五年(1834)
◯『近世物之本江戸作者部類』(蟹行散人(曲亭馬琴)著・天保五年正月成立)
(「赤本作者部」)
〝寛延宝暦より漸々に丹の価貴くなりしかば、代るに黄標紙をもてして、一巻を紙五枚と定め、全二巻を
十二文に鬻ぎ、三冊物を十八文に鬻ぎたり。そが中に古板の冊子には黒標紙をもてして、一巻の価五文
づゝ也。世にこれを臭草紙といふ。この冊子は書皮(ヒヤウシ)に至るまで、薄様の返魂紙(スキカヘシカミ)にて、
悪墨のにほひ有故に臭草紙の名を負したり。この比より画外題にして、赤き分高半紙を裁て、墨摺一遍
なりき。その作も新しきを旨としつ。舌切雀・猿蟹合戦などの童話を初として、或は太平記の抄録、説
経本の抄録など、春毎に種々出たり。価も黄表紙は新板一巻八文【三冊物十八分・三冊物廿四文】古板
は七文【二冊物十四文・三冊物廿一文】黒標紙は一巻六文【二冊物十二文・三冊物十八文】なりき。し
かるに、書賈は臭草紙の臭の字を忌て蒼(アヲ)といひけり。黄標紙なるを蒼と唱ること、理にかなはざる
やうなれども、宝暦以後は墨の臭気もあらず、世俗草冊子(クササウシ)とこゝろえたるもあれば、草の蒼々
たる義を取りて蒼と唱へ、黒標紙を黒といひけり。かくて明和の季よりくささうしの作に、滑稽を旨と
せしかば、大人君子も是をもてあそぶものあるにより、いよ/\世に行れて、画外題を四五遍の色摺に
したり。その中に殊にあたり作の新板は、大半紙二ッ切に摺りて、薄柿色の一重標紙をかけ、色すりの
袋入にして、三冊を一冊に合巻にして、価、或は五十文六十四文にも売りけり【こは天明中の事なり】。
かくて寛政の初より、くささうしの価又登りて、黄標紙は一巻十文【二冊物廿文・三冊物三十文】黒標
紙は一巻八文【二冊物十八文。三冊物廿四文】になりぬ。かくて文化の年より、これらの作のよろしき
ものを半紙に摺り、無地の厚標紙をかけて、袋入にしたるを上紙摺りと唱へて、京摂の書賈へ遣して、
彼処の貸本屋へ売らせ、こゝにても二三百部は春毎に売れたれども、価貴ければや、くささうしの一部
数千売れたるには似ざりき【上紙すりは三冊六冊を合本二冊三冊にして、価或は一匁より一匁五分の物
なり】(以下「合巻」の記事になる)〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝草双紙
封のまゝまだひからざる草双帋つぼみの梅にそへし年玉
降ながら霞めるけふはうるほひの草双帋にもえらむ春雨
むらさきの表帋もめだつ草双紙江戸の水をも聞す口上
貞柳のみどりの和子が手にふれてまだうら若き草双紙かな
絵双紙のはてはめでたし幾千世をいはふ鶴屋を板元にして
大なる株をわかちて大江戸にとし/\ふえる草双帋見世
古ふみの種よりめぐむ草双紙いだすも鶴屋蔦屋なりけり
書のしにわらひをみせて年玉におくれず春にもゆる草本
おもしろや芝居かゝりの草双し只だんまりの春雨のやど
下もえの黄表帋までも春されば芽出からるゝ草双紙かな
むさし野に打出す秋の草双紙つけし表紙も萩のにしき画
春雨にねよげな人の伽となるはまただうらわかき草双帋かな
草双帋表紙の梅の紅ずりはこと葉のはなの封切ぞよき
春の野もさくやすみれの草双紙ゆかりのかたの子らへ手土産
白帋の封をかけしは人の手にふれぬ雪間の草双帋かも〟
〈鶴屋・蔦屋は草双紙の板元。黄表紙・合巻は正月の景物〉
☆ 天保十三年(1842)以降
◯『江戸風俗総まくり』筆者未詳 天保十四年以降の記事(『江戸叢書』巻の八p29「草双紙と作者」)
〝草双紙は、元禄の頃迄は赤本黒表紙にて、鬼が島、猿蟹合戦の類を書て幼遊びにそなへしを、宝暦の初
あたり通笑、其碩、春町が輩少く作意して金口(ママ)先生栄花夢、親のかたきうてや腹づゝみの題号より
次第/\に好事にうつり、寛政度は全く戯作者の名をおこし喜三に(ママ)京伝、全交出て滑稽をつくし、
黄表紙の上にわすかに色絵の表紙をはり、黒きすき返しの紙に三冊を長きとし、蔦屋、鶴屋の新版春毎
に子供ではあらで、風流家の約束し興ずる事とは成り、既に京伝が名作の早染草より悪玉といへる通言
の後世へも残りける、因にいふ厳政の中にも人々公事を評するはくせにして、白川侯の頃春町が作に鸚
鵡返し文武の二道と題して、代は延喜の帝とし摂政を菅家とし、当世を比喩したるにおなじく、此頃芝
居役者を絵に書を禁じられ、武者絵多く国貞が書く中に四天王の宿直の蜘の絵は、又是越州の厳政をお
し移し執政の姿を謎としたるが流行するが如し、扨草双紙、文化の頃一変して紙も黒きをはぶき三冊を
一冊に合せ、表紙を錦絵とし前後篇をつき、是を合巻と唱へ是迄おかしき事、おろかなる業を書て、世
のたとへにも、草双紙にありそうなる事といひしを今ははや、序文も物識りめかし、和文漢文とりまぜ
馬琴、三馬、一九が手におちては、三馬、一九はおかしみもうせざりしも、馬琴専ら物語の如くつゞり、
水滸伝をかたどり作意する時、終に昔の田舎荘子、下手談義、古久手記より凧双紙しげ/\夜話となり
ては頗る文華を顕はせしに倣ひ、弓張月より八犬伝の長篇にうつり行くうち、柳亭種彦、戯場にくわし
く正本仕立の合巻は絵も歌舞伎役者とし作者も、芝居狂言をそのまゝにして長局婦女子の居ながら、戯
場をみるが如く、大に行はれ、それより年を過ぎて、はては偐紫(ニセムラサキ)と題し、彼の馬琴が通俗水滸
伝を偽すが如く、源氏六拾帖をけい事にして、和学を嗜なむ風流人には、其力をしらしめんとし、学ば
ざる婦女には、源氏の事跡をさとさんとする戯作なりしが、天保の役に皆々禁ぜられて物の費をはぶか
れき、洒落本といふ小冊は山東京伝が花廓の委き人情を尽せし物を、梅暮里谷峨二筋道より是も物語め
ら(ママ)し、つひに春川吾吉の人情本と唱へるは淫犯色情の甚しく、是はこれ実に鶴賀節の如く世に行は
るゝ時は、若きものに悪道を教るの基にて、きびしく禁ぜらるにもことはり也、爰に十遍一九が駅路の
滑稽膝栗毛は、宝暦度有りし小冊を引出し大に世に行はれたり、実にただわらひをとるの一つにて、是
ぞ戯作ともいふべく、一九が名の幸ひならずや、京伝はさま/\のをかしみをつくせしも、今はたゞ膝
栗毛のみ人耳にみつるは十遍舎の筆果報ならずや〟
〈「厳政の中にも人々公事を評するはくせにして」その例として、寛政の改革時の『鸚鵡返文武二道』(恋川春町作)と
天保改革時の「四天王の宿直の蜘の絵」すなわち国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」を挙げている。なお国芳の「土
蜘蛛」図は天保十四年の出版だから、この記事はそれ以降のものである〉
黄表紙『金々先生栄花夢』恋川春町作・画 安永5年(1776)刊
『親敵討腹鞁』 朋誠堂喜三二作 恋川春町画 安永6年(1777)刊
『心学早染艸』 山東京伝作 北尾政美画 寛政2年(1790)刊
『鸚鵡返文武二道』恋川春町作 北尾政美画 寛政1年(1789)刊
錦絵 「源頼光公館土蜘作妖怪図」三枚続 一勇斎国芳画 天保14(1843)年刊
滑稽本『田舎荘子』 佚斎樗山作 享保12年(1727)刊
談義本『当世下手談義』 静観房好阿作 宝暦2年(1752)刊
「古久手記より」 未詳
読本 『凩草紙』 森羅子作 北尾政美画 寛政4年(1792)刊
『繁野話』 近路行者作 画工未詳 明和3年(1766)刊
『椿説弓張月』 曲亭馬琴作 葛飾北斎画 文化4年~8年刊
『南総里見八犬伝』曲亭馬琴作 柳川重信他画 文化11年~天保13年(1814-1842)
合巻 『偐紫田舎源氏』 柳亭種彦作 歌川国貞画 文政12年~天保13年(1829-1842)
洒落本『傾城買二筋道』 梅暮里谷峨作 雪花画 寛政10年刊(1798)
※「春川吾吉の人情本」は春川五七の誤記と思われるが、五七に人情本の著作があるか不明
滑稽本『道中膝栗毛』 十返舎一九作・画 享和2年~文政5年(1822)刊
◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化三年(1846)成稿)
(『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「草双紙と作者」(19/306コマ)
〝又草双紙は、元禄の頃迄は赤本黒表紙にて、鬼が島、猿蟹合戦の類を書て 幼遊びにそなへしを、宝暦
の初あたり 通笑、其碩、春町が輩少く作意して金口(ママ)先生栄花夢、親のかたきうてうや、腹づゝみ
の題号より次第/\に好事にうつて、寛政度は全く戯作者の名をおこし 喜三に京伝、全交出で滑稽を
つくし、黄表紙の上にわづかに色絵の表紙をはり、黒きすき返しの紙に三冊を長きとし、蔦屋、鶴屋の
新版春毎に子供にはあらで、風流家の約束し興ずる事とは成り、既に京伝が名作の早染草より悪玉とい
へる通言の後世へも残りける
因にいふ厳政の中にも人々公事を評するはくせにして、白川侯の頃 春町が作に鸚鵡返し文武の二道と
題して、代は延喜の帝とし摂政を菅家とし、当世を比喩したるにおなじく、此頃芝居役者を絵に書に禁
じられ、武者絵多く国貞が書く中に 四天王の宿直の蜘の絵は、又是越州の厳政をおし移し執政の姿を
謎としたるが流行するが如し
扨草双紙、文化のころ一変して紙も黒きをはぶき三冊を一冊に合せ、表紙を錦絵とし前後篇をつぎ、是
を合巻と唱へ是迄おかしき事、おろかなる業を書て、世のたとへにも、草双紙にありさうなる事といひ
しを今ははや、序文の物識りめかし、和文漢文取まぜ馬琴、三馬、一九が手におちては、三馬、一九は
おかしみもうせざりしも、馬琴専ら物語の如くづゞり、水滸伝をかたどり作意する時、終に昔の田舎荘
子、下手談義、古久手記より凧双紙しげ/\夜話となりては頗る文華を顕はせしに倣ひ、弓張月より八
犬伝の長編にうつり行くうち、柳亭種彦、戯場にくわしく正本仕立の合巻は絵も歌舞伎役者とし作者も、
芝居狂言をそのまゝにして 長局婦女子の居ながら、劇場をいるが如く、大に行はれ、それより年を過
ぎて、はては偐紫(ニセムラサキ)と題し彼の馬琴が通俗水滸伝を偽すが如く、源氏六十帖をけい事にして、和
学を嗜なむ風流人には、其力をしらしめんとし 学ばざる婦女には、源氏の事跡をさとさんとする戯作
なりしが、天保の役に皆々禁ぜられて物の費をはぶかれき〟
〈「武者絵多く国貞が書く中に四天王の宿直の蜘の絵」の国貞は誤りで、一勇斎国芳画が正しい。タイトルは「源頼光公館
土蜘作妖怪図」(天保14年刊)。本HP、Top「著述」の「読む浮世絵「判じ物」(一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」参照〉
☆ 安政二年(1855)頃
◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③185(浅野梅堂著・明治初年記)
「草双紙」
〝初ハ赤本トイヽテ、赤キ表紙ニ白外題ヲハリテ、丈阿ナド云作者ノ名ヲバ出サズシテ、ナント子供衆合
点カ合点カト云書入セシモノ也。夫ヨリ黒本ニウツル。鳥居清信ナド云画工、芝全交、恋川春町ナド云
作者アリ。其後黄色ナル褾紙ニ赤紙又ハ白紙ニ彩色シタル画外題ヲ押テ、是ヲ青本、マタ黄表紙ナド唱
タリ。作者ハ唐来三和、通笑、可笑、喜三二、芝甘交ヨリ、三馬、京伝、馬琴ナドノ類、画工ハ鳥居清
秀、清重、富川吟雪、同房信、田中益信、石川豊信、北斎、辰政、北尾重政、喜多川歌暦、、勝川春章、
春潮、春林、春好、春常、春鶴、久川春英ニ至ル。是ヨリ馬琴ノ金瓶梅、種彦ノ田舎源氏ニ至テ、豊国、
国貞、英泉ノ画精繊ヲキワメ、表紙モ廿遍摺位ノ彩色ノ緻縟ヲ尽セシモノトナレリ。天保ノ末質素ノ制
アリテ、カヽルモノモ禁ゼラレ、墨ガキバカリノ画表帋ニテ、大学笑句ナド云草紙出来タリシガ、夫モ
ワヅカニ年バカリノウチニテ、田舎源氏ノ跡モ名ヲカへテ足利絹ト題シ、又朧月猫双紙、朝貌双紙、大
和文庫、大晦日曙双帋ナド云草紙イクラモ出来テ、繊麗ハ愈巧ヲツクセリ〟
〝草双紙ニ作者ノ名ヲ出スハ、和祥ハジメ也。喜三二ハ酒落タル事ヲ作リ、通笑八平常ノ事ノ穴サガシヲ
旨トス。近時三馬ノ浮世床、浮世風呂世態人情ノ酒落穴サガガシトモ尽セシモノニテ、岡山鳥ガ廿三夜
待卜云モノ、屋敷方ノコトヲウガテリ。一九ガ膝栗毛六十冊、実二滑稽ノ巨擘、人ヲシテ笑倒セシムト
云べシ〟
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 五月雨の寝間に萌出る草双紙 「媒口」元禄16【雑】
〈梅雨時になると、つれづれを慰めるためであろうか、草双紙が寝間に目に付くようになると〉
2 寝て居つて・つい草双紙夢になる「西国船」元禄15【雑】注「浮世草子」
〈読みながらウトウトしているとそれがそのまま夢の世界になると。編者はこの草双紙を浮世草子とする〉
3 論語より手巡しはやし草双紙「裏若葉」享保17【雑】
〈廻し読みの回転、草双紙が『論語』より断然速いというのである〉
4 草双紙あうばつぶさに申上 「柳多留10-6」安永4【川柳】注「絵解する」
t>〈「あうば」は阿姥か。老女が読み聞かせている光景のようだ〉
5 表紙まで真っ赤な啌(ママうそ)の草双紙「宝の帖」安永6【続雑】
〈安永六年の頃、草双紙といえば恋川春町以来の所謂黄表紙をいうのだが、この句は表紙が赤、すると赤本を
さすのだろう〉
6 大詰めに仙女も出づる草双紙「柳多留116-26」天保3【川柳】
〈仙女は仙女香という化粧水の広告、合巻の巻末等に頻出する〉
7 草双紙時平が顔は墨だらけ 「柳多留145-22」天保9【川柳】注「みな菅公贔屓」
〈合巻に藤原時平が登場するやその顔に墨をぬる。菅原道真を流罪に追いやった時平はそれほど嫌われていた〉
6 取かへて後前に見る草双紙 「から衣」天保12【雑】注「絵入本」
〈何巻にも及ぶ合巻を何人かで順番構わず廻し読みしている光景か〉
◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注
◇「草双紙の定価」p17(『版画礼賛』所収 大正十四年三月)
〝紙数五枚を以て一冊の基準とした赤本や黒本や青本(黄表紙の本名)は、宝暦、明和の頃は一冊六文の
割りで、安永、天明の頃は一冊八文、二冊もの十六文、三冊もの廿四文に騰貴した。古板の再刷は一冊
七文の割であつた。寛政六年には一冊十文の割りになり、文化初年には十二文の割りになつて、古への
倍価となつた。文化三年に式亭三馬が『雷太郎強悪物語』前後二篇を著はし、従来の草紙の五枚を一巻
とし、前後二冊になしたので、手数もかからず、便利のため翌年より皆之に倣つて草双紙の風が一変し
て了つた。之を『合巻』と呼ぶやうになつた。
合巻ものの全盛であつた文化六年には、表紙も美麗になり、価も一匁から一匁五分になつたといふ。
文化の十四年には、あまり手を尽した色刷を禁ぜられ、一冊十六文の割で売つたといふ〟
☆ 昭和元年(大正十五年・1926)
◯『春城随筆』(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十五年十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記
◇三四 草双紙(61/284コマ)
日本の小説は極めて古い時代から相当に発達して居たものであるが、しかし古代に於ては殆ど貴族の
間にのみ読まれたもので、民衆的に小説の読まれるやうになつたのは、ずッと下つて徳川期に入つてか
らのことだ。即ち版木といふものが盛んに行はれて、文章や挿絵を木版に彫つて広く一般に流布するや
うになつてからのことだ。其れ以前に於ては文章も絵も書いたものであるから、中々一般に及ぶ訳が無
く、先づ貴族階級に限られて其れが読まれたに過ぎなかつた。従つて其の小説が如何に傑作であつても、
低い階級に対しては殆ど何等の文化的勘化をも与へなかつたのは当然である。それが木版の作用に依り
広く一般民衆に及んで、女子供も小説を読むやうになつたのは、日本の文化史上に特筆すべきことゝ云
つてよい。
今茲に言はんとするのは特に草双紙についてゞであるが、是れは今いうた民衆的小説の最も熟した時
代の産物である。今日は草双紙の如きは殆ど高閣に束ねて見る人の無い。少しも漢字を交へずに、仮名
ばかりで、句読も切らず、虱のやうな小さな字を紙の全面に書き列ねたものを今読むのは、頗る面倒な
ことである。従つて若い人達には、殆んど草双紙を知らぬ者もあろう。が、徳川時代に於ては、此の草
双紙が種々なる著述家の手に依つて作られ、江戸は勿論、広く全国に行はれて、民衆的文芸として驚く
べき勢ひを有して居たのである。其の最も隆盛の時期を代表し、且つ草双紙の作者として最も有名であ
つたのは柳亭種彦である。種彦の草双紙には何人も知る田舎源氏を初め種々のものがあるが、此等の著
作は正に一世を風靡するの概があつた。当時曲亭馬琴は八犬伝其の他の大作に名声を馳せたが、どうも
一般の評判は馬琴に無くて寧ろ種彦にあつた。それで馬琴の本を出版し又は販売する書肆が時々馬琴に
向つていふには、先生もえらいや、世間では種彦先生の物を中々持囃して居る、畢竟種彦先生の作は書
き方が通俗的で、殊に艶つぽく、分りがよいからであらうと吹掛けた。独り書肆のみで無く、馬琴の友
人で、其の作の出る毎に批評したと云はれて居る殿村篠斎の如きも、頻りに種彦に感心して、あなたも
あれを余り度外に置いては可(い)かぬと注意した位である。そこで傲岸の馬琴は、ナニ俺にだつてあれ
位のことは出来ると、負けぬ気になつて非常に艶つぽいものを書いたのだ、例の美少年である。しかし
馬琴の持前の学問を衒ふ風はこゝにも附き纏うて、小説家の本領を離れ、兎(と)もすると長々しい考証
を担ぎ出すので、やはり一般の受けは種彦にあつた。
そこで草双紙に就て少しく考へて見ると、之れが其の当時に於てよくも工夫されたものだといふ事を
今更ながら感ずる。文体は必ずしも言文一致では無いが、殆んど其れに近いもので、全然漢字を用ゐず、
仮名のみで、極めて幼稚のものにも理解の出来るやうに書いてある点は、よほど民衆の味を持つて居る。
又草双紙の今一つの特長は、半ばは絵を以て目に訴へるといふ趣向で、各頁に亘つて絵が挿まれ、それ
を見れば大凡その意味が了解されるやうに工夫されてゐる。順々に紙を繰つてみると、次の頁は前の頁
と画面が直ちに接続する様に出来て居り、何百枚はぐつて見ても、其の経路が一目瞭然と分るやうに筋
を追うて描かれてある。斯様に何十冊、何百冊の長篇でも、初めから終り迄其れを飜(ひるがへ)して行
けば、文章を読まずとも略々其の大意が分る位に細密な絵を掲げてある有様は、ちやうど今日の活動写
真を見るやうな味ひがある。況んや其の本文の妙味に居つては、とても今の活動弁士の類では無い。固
より作者にもよるが、種彦の如きは、相当の学問もありながら、敢へてそれを振り廻はさず、極めて通
俗的で、しかも濃艶無比の文字を駆り、具(つぶ)さに世態人情の機微を穿つた点は、全く今日読んで見
ても三嘆の外は無い。あの位柔か味のある円転自在の文章は、古今の文学に於ても稀に見る所であると
思ふ。
草双紙の挿絵に就ては尚(な)ほ少しくいふ必要がある。当時の小説は絵に重きを置いた、勿論作者の
見識からいへば絵はお伴に過ぎぬと考へたのであらうが、一般の読者は先づ第一に絵を味(あぢは)つた
ものである。少なくとも絵が作者の言葉を非常に助け、ある意味に於ては文章以上の働きをしたのであ
る。当時は小説のみならず、一般に絵を入れることが大流行で、狂歌の本でも、俳諧の本でも、立派な
大家の絵が挿まれてあるものが少なくない。勿論狂歌の本ならば狂歌が本位で、絵はただ景物といふつ
もりであつたのだろうが、今日では基本を買ふ者は絵の為めに買ふので、肝腎の狂歌は寧ろ邪魔になる
位に考へてゐる、それだから当時北斎の如き、自分の技倆を信ずることの深い画家になると、中々作者
に負けて居らず、一体君の本の売れるのは文章の為めで無く、俺の絵の為めだなどゝ揚言して、屢々
(しば/\)作者と喧嘩したこともある位で、画家の鼻息が頗(すこぶ)る荒かつた。
実際、画家の威張るのも道理で、此の挿絵にうちては非常い骨の折れたものである。別けて草双紙に
於ては最も苦心を要し、一頁毎に連続した人物、或はその人物の行動を現はしてゆくといふことは、中
々容易の事で無かつた。それが動(やや)もすると何百頁、何千頁と追うてゆくのであるから、凡庸の画
家ではとても手に終(お)へない仕事である。種彦の如きは、田舎源氏の出版に当り、悉く自己の図案を
授けて、それに従つて描かしめた。田舎源氏はいふ迄も無く源氏物語に形どつてものであるが、併し時
代をずッと下げて室町時代としたものであるから、すべて衣服でも、調度でも、皆それ相応のもので無
ければならぬ。従つて普通の浮世絵師には一寸書けないことがあるので、種彦は非常に苦心して一々画
家に図案を授けたのである。全く田舎源氏が一般に受けたのは、第一に其の絵の極めて精妙であつた為
に相違ない。此の長編の小説について感ずることは、主人公の光氏がいかに美男子であるにしても、年
を取るにつれて段々老いてゆくのは当然である。厳密にいへば十頁も隔たれば其の顔に多少老けた所が
無くてはならない。更に何百頁も隔たればよほど年の寄つた面影が無くてはならぬのだが、挿まれた絵
を順順に見て行くと、チヤンと此の理窟に適つて居て、巻の進むに従つて段々光氏なり其の人々の顔容
に変化を来たし、明らかに年月の経過を現はして居る。是れは田舎源氏のみならず、挿絵に苦心した草
双紙はすべて同様だ。外人が日本の草双紙を見てあッと云つて感心するのはそこにある。
今になつて種彦を初め当時のすぐれた作者の遣り口を考へてみるに、其の頃として極めて新らしい行
き方をしたものと云へる。それは或る意味に於て今日西洋の作家の遣つて居る、或はそれに倣つて日本
のが遣つて居る所と甚だ近いものだ。馬琴流の堅苦しい文字などは用ゐずに、さら/\と仮名のみで綴
つてゆく点や、其の内容が人情本位であつて、特に濃厚な男女の関係を描き、きはどい処の描写も敢へ
て避けないて点や、又目に訴へる為めに連続的の絵を重ねて全くパノラマ式に事件の展開を示して行く
点などは如何にも新らしい試みであつて、特に其の絵を何百枚、何千枚と限りも無く重ねて行く如きこ
とは西洋にも余り類の無いことである。今日の活動写真は之れに似た趣(き)も見られるが、それが此の
時代に於て早くも行はれ、特に画中の人物が悉く活動して、巻の進むに従ひ年輩等も幾つ位とピツタリ
当て嵌る程度に描写して居るなど、寧ろ今日以上の点も無いでhあない。要するに此等の草双紙は其の
内容に於て、恋愛、性欲等人間の本能を主題とする今日の小説に比し、決して遜色の無い許りで無く、
其の挿入の絵画に於て、殆んど古今東西に例の無い趣向が凝されてある。さういふ草双紙が当時非常な
歓迎を受け、種彦等の作が一世風靡したのは決し偶然で無い〟