☆ 天明元年(1781)
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥48(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
(天明元年記事)
〝下総小金一月寺本尊、本所一ッ目弁天祠にて開帳、到着の時、数多の虚無僧二行に列り来る、見物多く
つゞきて参詣群集す〟
☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯『兎園小説拾遺』〔大成Ⅱ〕⑤137(著作堂主人(曲亭馬琴)編・文政十三年記事)
〝一月寺開帳御咎遠慮聞書
文政十三庚寅年春、浅草観音境内にて、下総国小金村一月寺本尊開帳の節、似せ虚無僧にて召し捕られ
候人々の由、衣服改名住所等尋、差返置候者〈以下、氏名のみ。役職等は省略〉
筧 伝五郎 静山 日野吉十郎 秋山 名不知 貞学 中田鍬五朗 晋隣
召連候者〈以下、氏名のみ。役職等は省略〉
三浦雄五郎 陰樹 渡辺勝之助 巳道 加藤半五郎 晋風 福原小三郎 貞友
磯部勝次郎 竹寿
一月寺は遠慮逼塞、開帳場浅草念仏堂戸しめ、御目見以下のものは、右つれられてそれ/\へあづけら
るゝ、九月中旬にいたりてもなほ、落着の事聞えずと云、当時の落首、
小金より大金まうけに来たれども一日ぎりであとは御無用
似せ虚無僧の錦絵三番出る。馬喰町森屋治兵衛板元也。草紙改名主より売留申付絶板〟
〈似せ虚無僧の錦絵、三種ほど版元森屋治兵衛から売り出されたが、絵草紙改(アラタメ)掛(カカリ)の名主より、売買禁止と
絶版を命じられた〉
◯『近世風俗史(一)』(『守貞謾稿』)巻之七「雑業」①315
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝虚無僧(江戸の虚無僧の図版あり)
こもそうと音読す。故にあるひは菰僧と云ふか。普化(フケ)禅師を祖とす。故に普化僧とも云ふ。あるひ
は梵論寺(ボロンジ)とも、またぼろ/\とも云ふ。京師に出るは、明暗寺の部下か。江戸の出る者は、下
総小金村一月寺(イチガツジ)の部(ベ)にて、浅草に一月寺の役所と云ふあり。(中略)
三都虚無僧の扮、大同小異あり。頭に天蓋(テンガイ)と号す編笠をかむり、尺八と云ふ笛を吹く。袈裟を
掛けて法衣を着せず。藍あるひは鼠色の服を着くす。粗なるは綿服多く、稀に美服を着すもあり。三都
かくのごときなり。
けだし京坂は平絎(ヒラグケ)の男帯を前に巻き結びにし、三衣袋(サンエブクロ)を首にかけ、施米・施銭をこ
れに納む。帯の背に尺八の空囊(カラブクロ)を挟み垂れ、別に袋に納めたる尺八を刀の如く腰にさし、五枚
重ねの草履をはく。
また江戸は三衣袋を掛けず、空囊を挟まず、別笛を腰にすは同上なり。衣服もまた上に同じといへども、
裾ふき多く、綿厚く、女服のごとくし、また女用のごとき緋ぢりめんの長襦半を着す多し。丸絎の帯を
前に大形に結び、黒漆の下駄をはく。また美なる者は、京坂は三衣袋・尺八袋二つとも同製繍(ヌイ)を用
ひ、善美を尽くし、他これに准ず。江戸は尺八一つを繍あるひは唐織にし、衣服および襦半を美にす。
かくのごときは、市民の富者あるひは武家の蕩郎(トウロウ)等なり。
旅行には藍の綿服に脚半甲掛に草履をはき、平絎帯前結び、三衣袋をかけず、尺八一口を持ち一口を腰
にさし、柳合利(ヤナギゴウリ)の横二尺ばかりなるを、浅木(黄)もめんの風呂敷に包み、これを負ふ。天
蓋、あるひはかむり、あるひは風呂敷包みの上に置く。
江戸の虚無僧、文政・天保頃、はなはだ昌(サカ)んにして美服の僧多く。また普通粗服の者も多く。大略
嘉永・安政頃よりか。美粗ともにこれを見ること、はなはだ稀となる。慶応の今に至りては、廃絶のご
とくなれども、この宗の廃絶にはあらず。ただ修行に出る僧の稀なるのみ〟