Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ こっけいどう 滑稽堂(秋山武右衛門)浮世絵事典
〔生年不明~明治33年(1900)〕
 ☆ 明治三十一年(1898)    ◯「月岡芳年翁之碑」明治三十一年五月 芳年七回忌 向島百花園に建立   〝芳年門人 滑稽堂秋山(現存)〟  ◯「東京一の絵双紙屋」室町の滑稽堂 江戸ッ子    (原典『実業世界 太平洋』第五巻二号「内外談叢」明治39年1月15日発行)    〈『浮世絵芸術』№146(「喜撰堂主人抜書き」神保侃司編 2003年発行)より転載〉   〝  江戸名物の名残     江戸絵と云へば、昔は江戸名物の冠たるもので、田舎への土産には欠くべからざる品と極つて居たか    ら、其の需要は常に多く、一町内に必らず一二軒の絵双紙店はあったものだが、時勢の変遷に伴って、    写真や石版絵と云ふ、文明式の物が流行し始めたのと、江戸絵即ち錦絵の原料が騰貴したので、価格が    田舎土産に敵せず、却て石版絵の方が錦絵其者より廉価となったのに基因し、絵双紙屋は大打撃を被り、    他へ転業する向が多く、似顔絵出版で有名であった人形町の具足屋すら、錦絵の出版を断念した位だか    ら、絵双紙屋は旧時と違って不景気で、先づ算盤の取れない営業となったのである。其の割の悪い営業    を継続し、目下盛んに錦絵の出版に従事して居るのは、両国広小路の大平と室町の滑稽堂の二軒だが、    大平は傍ら石版絵や雑誌類を鬻いで居るので、純粋の絵草紙屋と云ったら、室町の滑稽堂一軒であらう。    乃(そこ)で此の滑稽堂を東京一の絵双紙として紹介する事にした。      滑稽堂と月岡芳年     先代は滑稽堂五笑と云って故桂花園桂花の高足で、俳諧を能くした所から伝来の呉服業を廃め、桜井    と云った絵草紙店の跡を譲り受け、秋山と云ふ暖簾を掛けて絵草紙屋となったのだが、後に雅号の滑稽    堂と改め錦絵の出版に従事する様になった。が、元来俳人の事とて、他の錦絵出版業者の如く、利に走    らず衰頽の傾向ある錦絵の復興を図り、当時絵草紙屋仲間で人喰ひ馬と称された月岡芳年の如きも、素    人絵草紙屋の滑稽堂が薬籠中の人となって、専心版下を揮毫したのである。尤も画家の画料を騰貴させ    たのも矢張滑稽堂で、当時の画料は三番続きで五円であったのを、二倍の十円を給したと云ふ話だから、    芳年も自然滑稽堂の版下には全力を注いだのであろう。所で、滑稽堂が今の社会に知られる様になった    のは、第三回内国勧業博覧会を上野公園で開ひた時で、お抱への画工の芳年が市原野を絹地へ揮毫して、    之を出品したが、浮世絵としては非凡な作品で、斯界の呼び物となり、其の評判が喧し囂(かまびす)し    かった所から、滑稽堂は早くも之へ着目して縮写させ、錦絵として売出したが、非常な喝采を博した。    滑稽堂の作戦計画が見事に成功したのだ。      引幕を広告に利用す     何が偖(さ)て博覧会で評判の絵画が錦絵となったので、此の錦絵が予想外に売れ往き版木へ摩滅を来    し、彫直をして十数回印刷をした程であったが、新富座の森田勘弥は之を当込んで、浄瑠璃の上の巻と    なし、団十郎の保昌、菊五郎の袴垂と云ふ、名優揃ひで演じさせる事とした。其の下の巻が清親の百面    相であった所から、江戸ッ子肌の芳年と魚河岸生れの滑稽堂だから、芝居でするのを黙視して居ないで、    同座と俳優に宛て引幕を二枚贈った。一張は芳年が越後屋(三越呉服店)の二階、今の陳列場の所の座    敷で月と芒(すゝき)を揮毫し、他の一張は門人の芳宗が袴垂、芳景が肖像画で保昌を描き、之を対にし    て市原野の画面となる趣向、今日の広告幕の如く拙劣でなく、巧みに自然的の広告をしたから、滑稽堂    の名は弘まったが、百面相の出版元の名は知られずに仕舞った。万事機を見る事が早かったので、外国    行きの美術品として、月百姿や綾岡有真の日光名所絵の出版に着手した如きも、其の一例と見て可い。 「          百番続き出版の苦心     古来より百番続きの錦絵は稀に見る所で、例の初代広重の筆となった諸国名所百景、亦江戸名所百景    すら完尾せしや否やは、判然としないと云ふ位であるから、百番続きの出版は全盛期であった昔しさへ    難しかったに違ひない。其の不成功は資本の有無よりは、画工先生が続いて出る錦絵に飽きが来て、果    ては揮毫しない様になり、已(やむ)なく中止するのが多く、此の百番続きを成功させるには余程忍耐力    が強くなくては出来ない。滑稽堂の如きも「月百姿」の版下を督促するには毎日芳年が好んだ弁松の桶    弁当を手にして詰め掛け、奈何(どう)やら百番に纏めたものゝ、其の彩色の出来上らない中に、精神病    に罹り二三番を残したので、門人の年方と議(はか)って年方が師に代って彩色し、爰に「月百姿」の完    成を見るじ至ったのだが、其の苦心は一通りなかったと云ふ事だ。されば芳年と滑稽堂の関係は中々厚    く、芳年の死後に至っても建碑其他の事に、滑稽堂が門下生と共に全力した相である。      錦絵として無二の珍品     「月百姿」の意匠は実際芳年の脳髄(あたま)ばかりではなく、滑稽堂が師とした桂花園が黒幕となり、    下絵に意匠を凝(こら)したのだから雅俗百般に亘って、斬新な意匠の錦絵が時々出版となったのである。    当時博学強記と呼ばれた桂花園の意匠で、浮世絵師の泰斗を以て推されたる芳年の筆、学者と名人と相    投じた所へ、彫刻師、印刷師共に精通し、出版に着手したのだから、忽ち西洋人の眼にまで映じ、東洋    の美術品として時々需要される事となり、今日でも依然注文が絶えない。併し乍(ながら)日本固有の錦    絵としては此の「月百姿」が最後で目下の大家先生の揮毫されるのは彩色に、百遍九十遍も印刷を施す    のだから、寧ろ印刷師が彩色する様なもので、錦絵と云ふ画工の技倆は零となって居る。兎に角眠った    い顔で居同業者を覚醒させ百番続きの錦絵を真似る様に、斯界に興奮剤を与へたのは此の「月百姿」で    あらう。      一番の新柄が二年越     纔(わづか)に一番の錦絵を出版するに二年越しと云ったら、諸君は異な感じを起されるであらうが、    実際画工へ錦絵の版下を注文すると見て、流行(はやり)ッ子の画工だったら、チョックラチョイと揮毫    をしないから、此の版下が出来上って彫刻師へ廻し、刻り上に迄には先づ今年(こんねん)と見ねばなら    ぬ。それに印刷師の仕事も旧時(むかし)と違って、彩色(いろざし)も一番で、九十遍、百遍と云ふ緻密    の印刷だから、勢ひ印刷に時日を要し、容易には刷上らない。製造が総べて恁う云ふ按排(あんばい)に    手数の重なる上に、此の錦絵にも出版の季節があって、上等の錦絵は毎年四月に売出す事になって居る    から、出版に着手して売出す迄は足掛け二年となる勘定。それもこれも錦絵が潜上となって小児の玩弄    物(おもちゃ)ではなく、家庭の装飾品として大人の弄び、傍ら美術品と云ふ肩書に外国輸出が目的だか    ら、奈何(どう)しても出版に時日を要する様になるのだ。     元来錦絵の出版事業は際物師と云はれたものだが、今日は農家で山林を買ふと同じ様なもの、一時に    多額の黄金を投じ将来を慮(おもんぱ)かると云ふ傾向。先頃滑稽堂で出版した風俗画の『都の錦』は、    十二番続きで資本金を六百余円費(ついや)したと云ふ事であるが、恁うなると匆々(なか/\)に資本金    と取上げるのに困難で、永遠の営利を図ると云ふより外ない。併し乍ら有名の画工の揮毫した錦絵は、    却て古版の物は、所望者が殖ゑて来て、三枚続き一円内外の価格だから、上等の錦絵さへ出版したら、    刷本、又は版木が財産となって残るので、旧時の様に眼先の営業ではなくなって来たのである。      版木が絵双紙の財産     錦絵の版木は新板(あらいた)へ彫刻すると版木へ狂ひが出るので、之までは絵双紙屋の習慣として、    新板へは俳優の似顔を彫刻し、此板を削り直して上等物を彫刻すると云ふ方針であったが、似顔絵の粗    悪に流れたのと、写真の流行で、俳優の似顔絵は売口が皆無となり、此種の出版物は跡を絶つ様になっ    たから、今後の出版には新板を枯すと云ふ事になるだろうと、滑稽堂などでも心配して居るが事実新板    を枯すとしたら資本金も超過する。のみならず、古板を削り直した様に好い味が出ないと云って居る。    先ず恁んな按排だから版木は絵双紙屋の財産で、高い蔵敷を払っても保存して置く様になるのだが、上    等錦絵の版木は鄭重に扱ひ、自宅の文庫蔵へ貯蔵するには、墨板小口へは絹襤褸(ぼろ)を宛て保管して    居るのだ。併し此の板木が順番に稼いで往くのだから、絵双紙屋の為めには打出の小槌より、御利益が    あると滑稽堂では左様云って居た。            一枚売はお断り     莫大の資本を投じて新意匠の錦絵を出版すると、之を複写して、自家の出版物の材料としたがる、狡    猾の商人が多いので、図柄の好いのを抜かれて、高価な資本を卸して彼等の餌食となっては詰まらない    とて、上等絵の一枚売は断り、一組以外は売らぬ事に取り極めた。所で、滑稽堂で既成になって居る大    揃ひ物の錦絵は、芳年の『月百姿(つきすがた)』、年方の『三十六佳選』『都の春』『風俗十二月』、    年英の『名家十八番』『元禄美人揃』、芳宗の『武者六々家選』、周周の『新美人』、其の他宮川春汀、    年方門下の風俗画が数十番あって、目下(いま)では孰れも画帖に製本して販売する方針だから、店飾り    も他の絵双紙屋とは趣きが変って居る、それに未製品があって大揃ひとはなって居ないが、綾岡有真の    日光名所、久保田米僊の画日記など、完結したら滑稽堂の営業が一層発展する事であらう。      仲間での変屈家     恁う云ふ営業方針を採るから、当代の滑稽堂を、同業者間では変屈家と綽名して居るが、実際の所、    柄行きの好い錦絵のみ抜かれ、石版の団扇絵や略暦の材料にされては算盤が取れないから、滑稽堂では    何所(どこ)までも変屈家で押通して居る。それに一枚売を専務にしたら図柄の悪い絵は残り、大揃ひと    云ふ段になると、後家様が多く出来る。其の割りには売揚高も上らないので、之までの営業の方針を一    変し、総べて錦絵を制度に改めたから、紳士間の進物用、偖(さ)ては外国土産と云ふ、高等の客種とな    ったので、錦絵は従来の如く小児が相手でないから、旧時(むかし)より見たら売揚げ高が上って居ると    云ふ話だ。それに戦争沙汰も西の海へサラリとなった新年、大に戦後の経営か何かで、美術的の錦絵を    目下製造中だが、四月上旬になって二組程、大揃ひとして出版する予定だ相(そう)だ〟  ◯『明治東京逸聞史』②p201(明治三十九年(1906)記事)『東洋文庫』142   〝滑稽堂 〈太平洋三九・一・一五〉     同じく「東京一の絵双紙屋」と題して、室町の滑稽堂のことが書いてある。     先生の滑稽堂五笑は、俳諧を善くした。伝来の呉服商をやめ、絵双紙に転じて、錦絵の出版を始めた。    そして衰退期にあった錦絵の復興に力を尽した。月岡芳年などは、この滑稽堂の薬籠中の人となって、    専心版下を画いた。     当時の画料は、三番続きで五円だったのを、十円与えた。それで芳年は、滑稽堂の版下といえば、全    力を挙げてかかった。     第三回内国勧業博覧会が上野で開かれた時、芳年は「市原野」の保昌と袴垂との絹地に画いて、好評    を得た。滑稽堂では、更にそれを錦絵にして売出した。計画はまんまと当って、その錦絵がまた評判と    なって売れた。それを見た森田勘弥が、その「市原野」を浄瑠璃にし、団十郎の保昌に、菊五郎の袴垂    で上演した。その時滑稽堂では、新富座へ引幕二張を贈った。その二張の一つには、門人の芳宗、芳景    の二人が、袴垂と保昌とを画いた。そこでまたこれが滑稽堂の宣伝となった。     芳年の代表作の「月百姿」も滑稽堂の版で、昔から名所百景などというものはあったけれども、実際    には百枚は揃わなかったのに、滑稽堂では、「月百姿」の百枚を完成させることに骨を折り、芳年が好    んだ弁松の桶弁当を、主人自身で毎日芳年の家へ持参して督促し、やっとのことで、百枚を纏めた。と    はいうものの最後に残った二三枚は、芳年が精神的に罹ったために、彩色の出来ていなかったのを、門    人の年方に図り、年方が代ってそのことに当って、ついにこれを完成した。そこまで漕ぎつける主人の    苦心は、容易なことではなかったので、芳年の歿後には、更にその建碑のことその他に就いても、よく    世話をした。    「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の    背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月    百姿」の百番が成ったのではない〟    〈明治16年刊錦絵三枚続に「明治十五壬午年秋 絵画共進会出品画 藤原保昌月下弄笛図応需 大蘇芳年写」とあり。     「第三回内国勧業博覧会」は誤りで「内国絵画共進会」が正しい。『月百姿』は明治18年~24年刊〉