Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 合巻(ごうかん)浮世絵事典
  ①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ④〔早大〕:「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕  ☆ 文化四年(1807)  ◯『無可有郷(ムカウキョウ)』〔百花苑〕⑦396(鈴木桃野著・天保頃)   〝文化四年なりお六櫛合巻の初なり。其明年ハ双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊広の輩    漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、春亭、興子、京伝、馬琴、豊国ハ元の如し〟    〈『於六櫛木曾仇討』山東京伝作・歌川豊国画・文化四年刊。『敵討双蝶々』京伝作・豊国画・文化五年刊。『吃又平     名画助刃』式亭三馬作・歌川国貞画・文化五年刊〉    ☆ 文化五年(1808)戊辰  ◯『おとぎものがたり』合巻(三馬作 西宮新六板 文化五年刊)④    〈『おとぎものがたり』は文化5年刊合巻『敵討宿六始』『鬼児島名誉仇討』『御堂詣未刻太鼓』を一本化したもの〉   〝(三馬の伏稟(こうじやう 口上)    春松軒のあるじ 草紙の合巻といふものを始めてよりこのかた、とし/\のさうしこと/\く合巻とな    りて 世におこなはるゝ事おびたゝし〟    〈三馬のいう春松軒(西宮新六)が始めたという合巻とは『雷太郎強悪物語』(豊国画・三馬作・文化三年刊)をいう〉    ◯『著作堂雑記』211/275(曲亭馬琴・文化五年(1808)記)   〝去る九月二十日【文化五年】蔦屋重三郎より文通之写      合巻作風心得之事    一 男女共兇悪の事    一 同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異之事    一 悪婦強力の事    一 女并幼年者盗賊筋の事    一 人の首抔飛廻り候事    一 葬礼の体    一 水腐の死骸    一 天災之事    一 異鳥異獣の図     右之外、蛇抔身体手足へ巻付居候類、一切【この間不明】、夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相    知れ候類、都て当時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之    趣仲ヶ間申合、以来右体の作出版致間敷旨取極置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候     九月二十日       蔦重      著作堂様〟    〈この蔦屋重三郎は二代目。絵入読本等の改め担当名主が地本問屋へ通達した合巻の禁忌事項である〉     ☆ 文化六年(1809)    ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化六年(1809)記事「時世為変化」)   〝(加藤曳尾庵の随筆『我衣』文化六年の記事を引く)    近年初春の草ぞうしも、敵討のミて、七八年已然の晒本一切なし、夫も南杣笑楚満人といへる者、敵打    の趣向を永々しく三冊物を六冊とせしより、此後沢山に売工ミにて、板元の欲心より、今年ハ九冊物、    十二冊とて合冊となしたるものばかり、価は弐百文の上なり、表紙の画ニ彩色をなす事、甚だ奇麗也〟
  〝(石塚豊芥子)因ニ云、文化七午とし新板、今とし秋売出せし京桜本町文酔トいふ草ぞうし十二冊を、    合巻二冊となし、錦絵表紙トせり、山東京伝工風して、此已後、外作者の双紙も皆錦画表紙とかハりし    なり〟    ☆ 文化七年(1810)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①61(式亭三馬・文化七年六月記)   〝去年の歳暮より此春へかけて、三十八文見せといふ商人、大に行はれり、小間物類しな/\をほしみせ    に並べ置、価をば三十八文に定めて商ふ事也。(中略)    ことし夏にいたりてもいまだ流行して、町々の辻々に、絶ず此見せあり、彼商人が呼び声にいはく、     なんでもかでも、よりどつて三十八文、あぶりこでも、かな網でも三十八文、ほうろくに茶ほうじ添     て三十八文、銀のかんざしに小まくらつけて三十八文、はじからはじまで、よりどつて三十八文、京     伝でも三馬でもよりどつて三十八文云々、    此、京伝でも三馬でもといへるを聞て、いぶかしさに立よりてみれば、三年このかた古板になりし絵ぞ    うし合巻の事也、此合巻ぞうしは、さうし問屋のばらし物を仕入置て、小間物問屋よりおろし売せり、    塩町ものと通称して、此たぐひの小間ものは、通塩町、又は油町抔の小間もの問屋よりおろすと云、     (中略)     【合巻とは五冊ものを一巻に合巻して売る也、されば、合巻の権輿は作者にて、予が工夫、板元にては    西宮が家に発る】文化三年の春発兌したる、雷太郎強悪物語十冊ものを、前後二編となして、合巻二冊    に分て売出しけるが、大に行はれて幸を得たり、さる程に、合巻は表紙外題の数も繁からず、製作も便    理なればとて、其翌年より、さうし問屋不残合巻となりて、ことし文化七年に至れども、今に合巻流行    す、相撲取おのが勝たる咄ばかりするに似たれど、合巻絵ぞうしを世に流行させしは、予が一生の誉と    思へば、老後の思い出いさぎよく侍り〟     ☆ 文化十四年(1817)      筆禍 合巻       処分内容 新版本没収       処分理由 華美・高価  ◯『金曾木』(遠桜主人(大田南畝)著 文化六年序 『大田南畝全集』⑩290)   (絵草紙(草双紙)記事の欄外注)   〝文化十四年丁丑の暮より、合巻物外題の色ずりよろしきを禁ぜられて、合巻物やむ。もとの草双紙の如    くなれども、半紙ずりにて、一冊十六文づゝにうりて、絵もやはり合巻物のごとし〟  ☆ 文政元年(1818)  ◯「馬琴雑記」(曲亭馬琴の鈴木牧之宛、文政元年十月二十八日付書簡・水野稔著『江戸小説論叢』所収)   〝近年くさざうし(今はかふくわんと唱申候)甚花美になり候処、昨年初春一枚絵せり売の小商人丸の内    御老中御屋敷おくへ、元直二百文二わり引ケの合巻にて候を六匁に売り候に付、慰みもの花美の上甚だ    高料なる事然るべからずと御沙汰有之、依之町御奉行より町年寄へ御下知有之、町年寄よりかゝりの肝    炙(ママ・煎)名主へ被申付、去年四月下旬、俄に小売先まで新板の合巻絵草紙類取上に相成り、会所へつ    きおき、売止メ被致候に付、板元小うりのもの共一同恐入、難儀至極に付、数度寄合いたし、かゝりの    名主へ多く「袖」の下を遣ひ、右之いろ外題をいろさし五へん限りにほり直し、売買仕度と奉願候て、    漸/\三月に至り願相済候へ共、時節おくれ候故一向に捌わろく、損の上に損をいたし候処、名主より、    已来は昔の草双紙の通り、五丁とぢ黄表紙にてうり候様被申付候に付、昔の草双紙之形にして当春うり    出し候へば、一向うれ不申、又々大に損をいたし候に付、二月に至り、問屋共亦復かゝりの衆へ「袖」    の下多くつかひ、合巻の古板うり残りの分は、外題のいろさし五へんにいたし、売買致候旨願候処、度    々いぢめられ、当年限りと申事にて、古板は合巻のまゝにてうり候へ共、新板ならねば捌わろく、多く    は田舎へ渡し候のみにて、損もなく得もなし。是ではならぬと、芝辺の板元、油町の行事板元を両人、    昼夜奔走いたし大ほねを折り、多く「袖」の下を遣ひ、漸/\絵草紙新板も合巻にてうり候様に願ひ候    へども、外題のいろさしはならぬと名主町年寄より被申付候故、外題いろさしなくては、さみしくてう    れぬは眼前也。依て外・仲間に拘はらず、右両人申合せ、亦復少々の進物いたし、四五両はつかひ候へ    共、薬の用ゐやう足らざるゆゑ叶ひ不申、両人も大に疲れ、手を引候は、四五日以前之事に御座候〟    〈「袖」の表記は原本で袖の図様のあるところという。文政元年、合巻の出版部数が激減する。それは前年文化十四年     の上記の一件が影を落としているとされる。同年の四月、華美・高価という廉で、新版絵草紙が没収となった。そこ     で板元たちは、外題を「いろさし五へん限り(彩色は摺五回以内)」となるよう彫り直すことにして許可を申請した。     これは通った。(原文に三月許可とあるのは「あるいは六月の誤りではないか」と水野稔氏いう)ところがこれが時     節はずれで、どうにも売れ行きが悪い。それに加えて、今後は昔と同様、黄表紙仕立てにせよとの通達が下りてきた。     仕方なく今年の正月はその通りにしたのだが、案の定一向に売れなかった。二月になって、板元たちは、合巻の古板     の在庫だけでも外題を「いろさし五へん限り」にして売り出したいと願い出た。これは許可は下りた。しかし新版で     ないからか、これもなかなかさばけない。それで窮した板元たちは、やはり合巻仕立ての新版を出したいと、名主を     通して運動してみた。だが当局の態度は依然として硬く、またもや「外題のいろさしならぬ」と撥ね付けられてしま     った。この一件、板元たちはその都度名主に袖の下を遣って粘り強く運動した。だがすべては徒労に終わったようだ。     それにしても、板元たちの合巻表紙へのこだわりは執拗である。当然これは読者層の欲求に見合ったものとみてよい     のであろう。つまり合巻の評判は、かなりの部分が表紙の出来映えにかかっていたのである。2013/10/03〉  ☆ 文政十年(1827)  ◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」七月七日 ①151   〝和田源七来ル。美玄香とやら売薬、弘メ候由ニて、合巻ニ書入被下候得と之頼也〟    〈この記事は馬琴病気のため嫡子宗伯が書き入れたもの。和田源七は名主。美玄香は「仙女香」の書き誤りか。広告として     載せるか否かは戯作者側の裁量に懸かっていたのであろうか。それとも馬琴は気難しい人なので、事前に了解をとってお     いたほうがよいという、版元側の配慮なのであろうか〉    ☆ 天保頃  ◯『無可有郷』下巻〔百花苑〕⑦396(詩瀑山人著・天保年間成稿)   〝予(詩瀑山人)稗史を好むこと飽食の如し。九歳の暮れより痘を患ふ。稀痘なり。其歳より稗史の合巻    といふもの初れり。【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。其明年ハ双蝶々、吃又平等数種出る。爰に    おゐて楚満人豊広の輩漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、春亭、興子、京伝、馬琴、豊国ハ元の如し】〟    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④307   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝赤本黒本    ある書に、寛政より天保年間までのことを云ひて、予幼少の比は、赤本黒本とて、表紙赤と黒とありて、    表題を黄紙(オウシ)に記し、頼光四天王そのほか、武者絵に少しの詞書(コトバガキ)ありしなり。後に黄表    紙になりて、花咲爺、舌切雀、狸兎土舟等の昔話に、勧善懲悪の文を加へ、童べの玩とせしに、夫より    京伝、馬琴、一九、三馬、鬼武など云ふ作者、種々の作意を草本より合巻(ゴウカン)に顕し、画も豊国、    北斎、重信など美を尽し、連年出板すること夥(オビタダ)しく、中には女童の悟り得がたき歌書漢文を取    り交じへ、作意も余り、愛情を含みすぎ、艶本に均しく、画も歳々の流行の風俗ゆへ、なまめきたる手    本に似たり。悪は罰し、善は幸することに見る人心を止めず、ただ愛情と画の風俗のみに心を止めて、    下賤の入らざる言句を覚へ、ただ永日の退屈を省くばかりにて、詮なきことにぞありける、云々。     (中略)    また柳亭種彦と云ふ人、文政十二年苛、『源氏物語』と擬して『偐紫田舎源氏』と題し、草冊子を著す。    すなはち前に云へる合巻、これなり。絵表紙、すべて十二、三遍摺り、その精製にして美なること未曾    有なり。近世の合巻、皆絵表紙なりといへども、この美密に及ばず。しかも表絵表紙、背黒漆紙なりし    を、『田舎源氏』は背も紋染紙を用ふ。これより草冊子また一変して、各々この製に倣ふ。(中略)    けだし毎紙精密の絵ありて、その畾子(ライシ)に書をかくこと、従来のごとし。画工は、歌川国貞、後に    豊国と改む。今、江戸一の浮世絵師なり。しかもこの冊子には、特に筆力を尽くし、従来の風よりは画    また一変せるに似たり。(中略)『田舎源氏』をもつて合巻の魁首(カイシュ)と云ふべし。かゝる不用の物    のみ特速に、年々大行となること、時勢推して知るべきなり。     (中略)    今製『田舎源氏』等、その他ともに合巻一紙二冊入、価銭大略百二十四文。毎冊各二十枚なり。二冊入    の表囊にも五、六編摺りの画を用ひたり〟  ☆ 明治十一年(1878)    ◯合巻「漢字仮名交じり文」漢字に「ふりがな」付   『小倉山青樹栄昔日新話』初編 泉竜亭是正作 桜斎房種画 小林板 ④画像   『鳥追阿松海上新話』  前編 久保田彦作作・陽洲周延画・大倉板 ①画像  ◯『鳥追阿松海上新話』前編三冊(久保田彦作作・陽洲周延画・大倉孫兵衛板・明治十一年刊)   〝価金十二銭五厘〟  ◯『近世会津軍記』二冊(小林鉄次郎作・年信画・小林鉄次郎板・明治十一年刊)   〝価六銭〟  ☆ 明治十二年(1879)  ◯『新門辰五郎游侠譚』二編 合巻(梅星爺乙彦作・生田芳春画・大川屋/大島屋板 明治十二年五月刊)④画像   (梅干叟乙彦叙)   〝草双紙を合巻と称(とな)ふるは 原(もと)五枚一冊を二冊合して一冊とし 四冊を上下二冊一帙に製し    たれば 爾(しか)いふなり 然(しか)るを方今(いま)の草双紙を 書肆(ふみや)は是亦(やつぱり)合巻    と称ふるは謂(いはれ)なし(注)又草双紙は其の昔 人情世態質素の頃 還魂紙(すきがへし)に 武佐    墨(むさずみ)もて摺りたる草紙なりければ 最(いと)臭かりしより 臭草紙(くさざうし)と 世に之を    称へしと歟(か) 些(ちと)下(くだ)さらぬ名義なりしを 文明の今日に至り 九枚三冊一帙の製本と做    (な)るを以て 之をこそ九三草紙(くさざうし)の称謂を得たれと云はまく耳(のみ)とばかりにして 陋    拙杜撰の余が是の綴る九三草紙は 少し時代の楔(たね)なれば 故(ふる)九三草紙と云はれやせん 遮    莫(さばれ)傍訓(ふりがな)新聞の続雑報(つゞきばなし)を再綴(またがき)なる世話狂言の新奇を競ふ    少壮編輯先生方には迚も及ばぬ梅干叟(ぢゞい) 今の世態(よぶり)はしら髪(が)天顖(あたま)を揆(か)    くも烏滸(をこ)なる所興(すさみ)にこそ〟    (注)この当時の合巻は一冊九丁からなり、これを明治式合巻と呼んでいる。また文体も変わって、従来の「ひらが     な文」から「漢字仮名交じり文」になり、漢字には当時の新聞にならって「ふりがな」を付けている)      ◇漢字に「ふりがな」付「漢字仮名交じり文」の合巻(文と絵一体型の整版本)    9年『徳川天一坊一代記』玉蘭斎貞秀画 橋本兼次郎訳 丸屋板       『慶安太平記』五雲亭貞秀画」橋本兼次郎訳 丸屋板    10年 未確認    11年『鳥追阿松海上新話』陽洲周延画 久保田彦作著・仮名垣魯文閲 大倉板      『日月星亨和政談』 梅堂国政画 松邨漁夫編  大倉板      『菊褈延命袋』   梅堂国政画 久保田彦作著 大倉板    12年『島田一郎梅雨日記』「桜斎房種画」芳川春涛閲・岡本起泉編 綱島亀吉他板 ①      『新門辰五郎游侠譚』(梅星爺乙彦作・生田芳春画  大川屋/大島屋板 ④      『高橋阿伝夜刃譚』 「守川周重画」仮名垣魯文補綴 辻岡文助板 『明治戯作集』所収      『格蘭氏伝倭文賞』 「鮮斎永濯画」仮名垣魯文著  辻岡文助板 ①      『今常盤布施譚』  「梅堂国政画」松林伯円著   伊勢庄板  ①      『鏡山錦栬葉』   「揚洲周延/梅堂国政画」武田交来編  大倉板 ①      『水錦隅田曙』   「梅堂国政画」伊東専三・前島和橋補綴 辻文板 ①  ◯『水錦隅田曙』初編(梅堂国政画 伊東専三著 辻岡屋文助板 明治十二年刊)   (国書データベース)⑤:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   (伊東専三自序)「出板御届 明治十二年五月八日」   〝此書は有喜世(うきよ)新聞第三百三拾号(本年二月二十五日)より、題を設け、章を重ねて説き続きし、    事は慶応の末年に発(おこ)り、本年の初めに畢(おは)る、いと長々しき物語も、第三百八十一号(本月    十九日)の紙面にて、大団円の局を結び、筆を閣(ママさしお)き吸煙(いつぷく)と、煙草薫らす其折しも、    金松堂の主個(あるじ)来りて、是を梓に彫(ちりば)めんと、乞はるゝ侭にいなみもせず、又禿(ちび)筆    を取直し、夫が題号もそのまゝに、水錦と名附ツゝ、例の無草(ぶつゝけ)稿に書き記し(以下略)〟    〈地本問屋の新聞利用は合巻の世界でも起こっていた。この『水錦隅田曙』は『有喜世新聞』連載小説を辻岡屋の依頼で     合巻化したもの〉   ◇この年、新聞の雑報や小説から合巻化された作品   「東京新聞」より    『東京奇聞(其名も高橋毒婦の小伝)』岡本勘造編 桜斎房種画 綱島亀吉版 ⑤「出板御届 明治十二年二月三日」    『島田一郎梅雨日記』岡本起泉編 桜斎房種画 綱島亀吉板 ⑤「出板御届 明治十二年六月三日」   「有喜世新聞」より    『綾重衣紋廼春秋』伊東専三著 梅堂国政画 辻岡屋文助板 ⑤「出板御届 明治十二年五月八日」    『水錦隅田曙』  伊東専三著 梅堂国政画 辻岡屋文助板 ⑤「出板御届 明治十二年五月八日」   「仮名読新聞」より    『高橋阿伝夜叉譚』仮名垣魯文著 守川周重画 辻岡屋文助板 ⑤「出板御届 明治十二年五月八日」  ◯『菊種延命袋』五編三冊(久保田彦作作・梅堂国政画・大倉孫兵衛板・明治十三年刊)   〝御届明治十二年九月一日(中略)代価十貳箋五厘〟  ☆ 明治十三年(1880)   ◇この年、新聞の雑報や小説から合巻化した作品   「東京新聞」より    『白菖阿繁顛末』楊洲周延画 岡本起泉綴 芳川春濤閲 綱島亀吉板 ⑤「御届明治十三年二月廿三日」   「いろは新聞」より    『名広沢辺萍』 楳堂国政画 京文舎文京著 辻岡文助板 ⑤「出板御届明治十三年二月十四日」    『金花胡蝶幻』 守川周重・国松補画 猫々道人(魯文)原稿 京文舎文京綴 堤吉兵衛板 ⑤「御届明治十三年五月」    『腕競心の三俣』楳堂国政画 川上鼠辺綴 辻岡文助板 ⑤「出板御届明治十三年四月九日」    ☆ 明治十四年(1881)   ◇この年、新聞の雑報や小説から合巻化した作品   「東京新聞」より    『幻阿竹噂廼聞書』桜斎房種画 岡本起泉綴 綱島亀吉板 ⑤「明治十四年一月六日刊」   「東京絵入新聞」より    『倭洋妾横浜美談』楊洲周延画 武田交来著 船津忠次郎板 ⑤「明治十四年一月序」  ☆ 明治十五年(1882)   ◇この年、新聞の雑報や小説から合巻化した作品   『有喜世新聞』連載小説より    『思案橋暁天奇聞』歌川国松画 岡本起泉著 辻岡文助 ⑤「御届明治十五年二月十八日」   ☆ 大正以降(1912~)  ◯「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上83)    〈鳶魚は従来の整版(木版)合巻を江戸式合巻と呼び、明治十五年から登場するという活版の合巻を東京式合巻と呼ん     で区別している〉   〝(東京式合巻)この頃の表紙は新聞の挿絵で鳴らした大蘇芳年が大に振った。(中略)清新闊達な芳年    の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派である。鮮斎永濯のもあったが上品    だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊州周延のは多々益(マスマ)    す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭くばかりあって生気が乏    しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった。やはり新聞の挿画を担当する人    々の方が、怜悧な往き方をするので際立って見えた。その代り芳年まがいを免かれぬ『絵入自由新聞』    の一松斎芳宗、『絵入朝野新聞』の香蝶楼豊宣、それにかかわらず一流を立てていたのに『絵入新聞』    の落合芳幾、『開花新聞』の歌川国松がある。尾形月耕は何新聞であったか思い出せないが異彩を放っ    ていた。東京式合巻は主として新聞画家から賑わされたといって宜しからろう〟