☆ 天保十五年(弘化元年・1844)
筆禍「教訓三界図絵」大判三枚続・歌川貞重画 上州屋金蔵板
処分内容 町年寄の裁量により売買差し止め(禁止)
「教訓三界図会」には絶板の噂あり(『浮世の有様』下出参照)
処分理由 不明(浮説の流布か)
〈実際に売買禁止になったかどうか確認できていない〉
◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(「天保十五年(1844)冬記事」)
〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口
の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁
ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、
四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ
りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ
ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の
禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟
〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革
に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を
罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え
られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」
故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ
して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き
はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出
来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい
るのである。『事々録』に従えば、土蜘蛛はおそらく矢部駿河守の怨霊を擬えているものと思われる。その矢部が改
革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。
さて、今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならって「兎角ニむつかしかろと思ふ」(嘉永元年九月『藤岡屋日記 第
三巻』「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」の記事)錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三
界図絵」。「岩戸神楽」は「国貞改二代豊国画」の署名のある「岩戸神楽乃起顕」。つまり天保十五年四月、改名し
たばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続きの一勇斎国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、
町老(町年寄)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して高値で売られたようである〉
「教訓三界図絵」 歌川貞重画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
☆ 弘化二年(1845)
◯『浮世の有様』(著者不詳・弘化二年(1845)正月記)
〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p962
〝昨年江戸に於て、歌川貞重といへる者、判事物の錦絵を画きてこれを板行になして売出せしが、直に御
差留にて絶板をなりしと云、其絵の珍かなりとて、旧蝋(昨年十二月)中瑞といへる蘭学医が方へ江戸よ
り贈りくれしにぞ。諸人打集ひ首をかたむけ、種々様々にこれを考れども其訳知れがたしとて、或人予
に噂せし故、其絵を借り得てこれを見るに、教訓三界図絵といへることを絵の始に書記しぬ。其図は、
三枚の紙続にて天上、人間、地獄の有様にして、先天上には日中央に座して膝の上に左右の手にて剣を
持、其左右には衆星座を列(ママ)らね、其中にも筆を口にくはへて帳面を扣へし星有り、こは定て北斗星
にて彼仏家にいへる妙見なるものなるべし。其次には青き色にて角有て、かの鬼といへる者に書なせし
恣(ママ)の者、遠眼鏡にて雲間よりして下界を見ている所の図也。其次には大成火打鉄を画き大石を縄に
て釣り下げしを、三疋の鬼形なる者共大に精力をはげましてこれを打合す姿にして、火打鉄と稲と書記
有、これ天上の眼目と思はる。其次には大成壺に水を盛り、鳥兎等寄集ひて其水を杓に汲み簾に漉しぬ
る様を画く。こは雨を降らせぬる有様也。其次に雷すつくと立、手に碇を持、口を明て下を詠めぬる有
様也。こは太鼓を取落せし姿なるべし。又其次には風神と見へて、大成袋の中へ団扇にて風をあをぎ込
みぬる姿也。されどもこれも又勢ひなし。其中段は人間界にして、桜花盛んに開き、諸人大浮れに浮れ
つゝ余念なき有様也。其風景をみるに、隅田川の景色ならんかと思はる。其下は総て地獄の有様也。始
めに地獄の釜損じ、青赤の二鬼これを鋳かけし、其側に雌鬼子を背おひ前だれかけにて何か咄しせる様
子にして、青鬼のかたへには車団扇等有て建札ありて、其札に、釜そんじ候に付当分の内相休候牛頭、
と書記ぬ。其次には閻魔大王無詮方徒然なるゆへに、眠れるやうすにて倶生神と唱へぬる番頭役の二疋
も、一は筆紙を以て立て欠伸をし、一は眠りてたはひなく、見る目嚊鼻も獄門に掛りし姿ながらにつま
らぬ顔をなしぬる姿にて、其側に鬼の青きが常張の鏡曇りしを研ける姿を画て、其次に建札有、放生会
無用と書記しぬ。其次に三途川の姿の側らに脱衣をかけて虎皮のふんどしにしきしをなせる姿(二字虫
喰)青き鬼とつれ/\なる儘につまらぬ咄しなせるやうす也。鉄棒を引ずれる鬼の面をしかめて口を開
きしも、定て同し様の事なるべし。其側に剣山有りて建札有、じごくとが人の外登るべからずと書記せ
る有て、三枚の紙続なるに一枚毎に(長方形に「上金」の印)歌川貞重画と書記せり。たはむれにこれ
を判じ見るに、
天上の役の夫々の事を勤め居る中にて、稲妻の役別て血汗を流し神力を尽して大に働ける有様也。こ
は御改革につひて稲妻の如き厳令数々仰出されしが、多くは稲妻其勢ひ始めは至て烈しけれども、消
へて跡形もなくなれるが如くに、厳令も却て益なく跡戻りと成、又やめになりしなど有て、見苦しく、
聞も至ておかしくて御気の毒なりし事多かりしにぞ。後には下方にてもこれになれて、またか/\こ
れも大方跡戻りか左もなくば稲妻の如く消て形ちもなかるべしと、平気にして頓着なく、下方の者共
の居ぬること也と云有様を、花見に浮れし姿に画しものなるべし。左れども御趣意を守れる様に見せ
んとて、只男計にて女は六部一人の外にあらず。これらと教訓の文字と人々ゆだんすべからずくらひ
なる事にてちやらつかせしものなるべし。又雷も勢を大に振ひ放まま(恣?)に鳴り廻りしか、秘蔵
せし太鼓を取落し、これも口をあひてしみだれし姿にして、碇を持て大後悔せし姿と見ゆ、こは越州
がしくじりしためなるべし。かやうのことなるゆへ、人間の少々金銀に富みぬるもの共は、又稲妻か
かみなりか何れも光りなれども跡形なし、躍れ/\おどらにやそんじやおどらぬものはあほうなり、
チヤウ/\/\などいひてたはむれ遊びぬる姿なるべし。されども中人以上は如此なれども、下賤に
して其日暮しの働きをなして妻子を養へるもの共は、雇人少くして銭もうけする事なりがたきうへに、
諸色高直なるゆへ一統に暮しかねて飢渇に及びぬる有様を、地獄に比して画たるものにして、頼光の
土蜘蛛になやまされぬる絵よりも又々少しく心を用ひしものなるべし。されども一勇斎が腹を居へて
始て其図を板行せしと同日の論に非ず。其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしも
のなれば、遙におとりぬるものと云べし。何にもせよ恐れ入りし浮世の有様とはいふべきことならん
か。アヽ/\/\。孔丘の後世恐るべしと云ひしもかやうなることをいひ置しものならんか。アヽ/\
/\/\。(長方形に「上金」の印)【これにも定て子細有事なるべし】〟
〝〔頭書〕子供両人ありて一人は立ゑぼしに蛇の目紋を付たるを着す。此紋は加藤清正が紋にして上方と
違ひ、江戸にてはすかざる所の紋なり。今一人の小児は兜を着し、土居のかげより首計出して多くの
人々のうかれたはむれをなし余念なくばか/\しきを、密にうかがひ居る姿也。人々ゆだんすべから
ずと云へる有様をこれにもたせしものなるべし。又唐人の姿にてたばこをすいながら、ゆう/\とあ
ゆみぬるやうすに画しは、これにも定て心有て書入しものなるべし〟
〈この貞重画の売り出しは、前項『事々録』によれば、天保十五(1844)年冬である。この時点までの政局は次のように
動いた。天保十四年閏九月十二日、老中水野越前守忠邦罷免。翌天保十五年(弘化元年)六月二十一日、水野忠邦老
中再任。同年九月六日、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)罷免。この記者はこの動向を踏まえながら次のように判ず
る。
天上 雨あられの如く出された改革の厳令を稲妻に見立てて、なるほど当初は苛酷であったが、今は消えて跡形もな
いとする。
人間 花見に浮かれる市中の様子を画いて、歓迎の気分を表現している。すっかり文化文政の大御所時代に復したよ
うな気持になった者もいるのだろう。おそらく妖怪こと鳥居耀蔵罷免の報は町人を小躍りさせたに違いないの
である。しかし立て札には「人々油断すべからず」ある、なお警戒を解くわけにはいかないとする。(このあ
たり、水野の老中再任を踏まえているのかもしれない)
地獄 人間界の浮かれ気分は「少々金銀に富」んだ者たちの世界だとし、なお多くの者は「諸色高直」ゆえに暮らし
が立ちゆかず、飢渇に苦しんで、生き地獄のような有様だとする。
ところで、この記者は貞重の「教訓三界図絵」を「一勇斎が腹を居へて始て其図を板行せしと同日の論に非ず」とし、
前年天保十四年八月に出された国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」とは同列に論じられないとする。その理由は、貞重
画が「其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしものなれば」という。この「其節の御戴(ママ)許(御
裁許の誤記か)」とは、老中水野忠邦や町奉行鳥居耀蔵の罷免を指しているような気もするが、はっきりとは分から
ない。ともあれ、国芳の腹を据えた覚悟の上の出版と、一部に浮かれ気分の漂う中での出版では比較にならないとす
るのである。なお(長方形に「上金」の印)はこの「教訓三界図絵」の板元・上州屋金蔵の印である。2013/11/12追記〉