Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きくづくり 菊造り浮世絵事典
 ☆ 文化六年(1809)    ◯『街談文々集要』p148(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化六年(1809)記事「阿左布造菊」)   〝(文化六年)九月、阿左布の枝折【菊の番付、竹屋町/一枚ずり、福の内】    麻布雌狸穴 植木屋定五郎 帆かけ船    同所    早川源内庭  十五種【十三種/十三種】つぎわけ【薄紫御召道具/藤亀白八重霞】                 折鶴 白  紅葉の橋 紫白    相模橋向  植木屋彦八  【黄二十山/ウスカハ暫時】月に兎【白黄座アリ】孔雀 帆掛船 黄金岳    白金村   植木屋惣左衞門  亀 獅子 章魚    同報恩寺前 紅葉茶屋    麻布三軒屋 植木屋安五郎 富士 白 茄子 【形大キク】鷹    同所    仕立屋久蔵  車ハ作りものなり                 白波に日の出 紫御所車、屋根ト長柄ハ紫の花、折つる白    同所    植木屋    蘇鉄ニ小菊也、葉ハ釘なり                 雪の松 松の木ニて白菊を拵たる也、石灯籠 紫    外 笄橋  武島氏    花壇種類出来よろし    同所    松平左金吾殿隣 かいばや     花壇菊第一也ト云々       右己巳十月四日一見                 杏花園    四五年以前より麻布にて作り初めしより、年々種類多くなり、一両以来、所々にて作る如く(ママ)など巣    鴨辺にて作りたるハ、庸軒流の生花のすがたに作りたり、根〆など見事ニて、珍敷事共なり、され共大    菊其外共、麻布を始めとす。    文宝云、一昨年麻布にて見し大菊、高サ壱丈六尺あり〟    ☆ 文化九年(1812)     ◯『増訂武江年表』2p46(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文化九年・1812)   〝九月、巣鴨染井の植木屋にて、菊の花を以て人物鳥獣何くれとなく、色々の形を造りて諸人に見する。    江戸中の貴賤日毎に群集して見物しければ、年毎に盛になり、凡そ五十余箇所に及ぶ。文化十三年迄あ    りしが、夫れより後造物は止みたり(此の時「菊の番付案内記」、絵草紙類あまた印行せり、抱一上人、    植木屋何某が庭中の作り菊を譏りて、「見劣りし人のこころや造り菊」)〟    ◯『きゝのまにまに』〔未刊随筆〕⑥98(喜多村筠庭著・文化九年(1812)記事)   〝九月、染井にて菊之花にて色々作り物出来て、見物群集す、番付板行して売り、夫より六七年毎秋に作    りしが、植木屋共費多く益なけれバおのづから止たり〟    ◯『百戯述略』〔新燕石〕④233(斎藤月岑著・明治初年)   〝造り菊、普通の花壇の外、人物、其外菊花を以造り候義は、文化九申年中、巣鴨、染井栽木屋共、庭中    に造ち候が始にて、見物群集いたし候に付、其翌年よりは栽木屋に限らず製造いたし、巣鴨、染井、白    山、其外一般に造り申候、尤其頃は木戸銭申受候儀は無之、園中床几を出し、是に休候ものより茶代多    少共申受、或は座敷を貸候て、座料申受候も有之、夫より年々造り方相増候〟    ☆ 文化十年(1813)    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪160(蜂屋茂橘編・文化十年(1813)秋)   〝巣鴨の菊    今秋、巣鴨の郷花丁等が【三十六家】菊をもてさま/\の形状を作なし、菊見の道しるべとか、こと/    \しく綴り、乗木して、徧く街衢をひさぐ。是を見んとて、列侯士商、男女老少、かしこに猬集すると    聞。おさなきものにいざなはれて、予も、神無月廿日あまり二日といふに、其あたりに徘徊したり。い    かさま見る人蟻の如く、堵牆の如し。花をミれば、皆竹籠をもて、富士の山、淀の城、御所車、花車、    から子遊び、冠鶏、九尾の狐など、其余数々の造り物して、大小の菊の花や葉を色どりの如くに纏縛し    たる也。いたましき哉。かゝる佳色の質をもて、衆小人がために夭閼屈抑せられ、其の本性を遂げ獲ざ    らしむ。嗚呼、時の不肖に遭て其清質をくるしめ、縲絏の中に在といへども、其罪にあらず。そも/\    花丁の幸ハ花神の不幸ならめ。世人弁ぜず、戕賊をもて歓遊とす。蓋世態すべてかくの如きぞ、なげき    ても猶あまりありといひつべし。以上、東屋先生文化十年の秋作れる也〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥216(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝文化十年の秋、染井巣鴨植木屋にて、菊植たる侭にて、さま/\の形ちを造り、初めの内は手奇麗にて、    見ものにぞ有たるが、後には家根の上まで鉢植の菊を以、大造に不二山など作りたる故、見苦敷形など    出来て、初めの内のやうにはなし、最初は一本の菊に枝多、花も三百輪も附て、孔雀、鳳風など造る故、    見ものにぞ有けるゆへ、見物群集する程出たるよし、夫より家毎に茶見世を出し、茶を出しても、家数    四五十軒も右造りもの有る故、誰茶を呑ものなく、左迄茶代にもならぬ故、ひと年切りにて数多造る事    は止みけり、初めの内通りなからば、幾年も見物歓ぶべきに、不手際の品も有たる故、いまはさらにな    し〟    ☆ 文化十一年(1814)    ◯『明和誌』〔鼠璞〕中p203(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)   〝文化十一年の秋、巣鴨植木屋ども菊の花を寄、富士見西行、竜、虎、獅子の類を拵え、はなはだ見物く    んじゅす。番附を売るほどの大造の事なり。しかれども一年切にてなし〟    ◯『街談文々集要』p326(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化十一年(1814)記事「造菊看群参」)    〝当秋、鶏声ヶ窪より巣鴨・染井近辺の植木屋ニて、菊の造り物夥敷出来、都下は勿論、在方の者迄も見    物の群集、本郷追分より駒込の通り押合程の通行なり、此節巣鴨名産菊の栞と表題し、出版せり、此外、     是ハ小本ニて、菊見物の順路をしるし、造り菊の画を書入、その上ニ山東京伝はじめ戯作者連中の狂     歌発句を加ふ。    菊の番附、数板あり、江戸中売歩行、大評判なり    (以下、順路図、発句、山東京伝、式亭三馬、山東京山、七代目三升、立川談洲楼焉馬、徳亭三孝、     時雨庵、曲亭馬琴の狂歌、蜀山人の狂文狂歌「巣鴨の菊」あり、略)〟    〈『続日本随筆大成』別巻十「近世風俗見聞集10」に所収の「豊芥子日記」p417「第六菊看群参」と同文〉    ◯『塵塚談』〔燕石〕①295(小川顕道著・文化十一年成立)   〝巣鴨村植木屋菊の事、我等廿歳頃(宝暦初年)は、花壇長さ七八間或は十間程、巣鴨根生の四郎左衛門    は、拾二三間にて、みな/\中菊のみ造りし也、菊を愛る人多く好みもてあつかひてより、其変態百出    せり、文化初年の頃より、大造りといふ事始り、一本の菊花にて、富士山、屋根船、島台、帆かけ船、    衝立、開き扇、二見ヶ浦、岩に牡丹、獅子の類、其外種々の物を作れり、誠に樹芸の奇工を極む、文化    十年癸酉に、三十五軒にて造る、村中にて、百姓、商人も交り造れり、これが為に、遊観の人、東は鶏    声ヶ窪、西は大塚より往来、群集市をなせり、酒食の店数百軒出来、巣鴨村開けしよりの繁栄、一村の    潤となれり〟      ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・文化十一年(1814)記)   ◇巣鴨の菊作り p153   〝文化十一年九月    巣鴨辺ぇ菊の作り物五十二軒出来る也、大評判にて菊の番付出る也〟    〈天保十五年(弘化元年)の項目(『藤岡屋日記 第二巻』p447)に番付あり。以下に示す〉   〝島台  白山前  庄吉    屋形船  雞声ヶ窪 久兵衛    廿四孝 雞声窪  利兵衛   山水   新やしき 伊右衛門    錦帯橋 新やしき 忠兵衛   獅子   同    久治郎    二見潟 同    武助    唐子   すがも  金五郎    瀬多橋 御駕篭町 民蔵    くじら  同    治兵衛    一の谷 同    千太郎   浦島   同    平七    花出し 巣鴨   新助    狐の顔  同    長三郎    花だん 同    幸治郎   獅子   同    半平    大虎  同    佐太郎   舟に象  同    金左衞門    竜宮猿 同    藤右衛門  大江山  同    治郎吉    宝尽し 同    弥三郎   虎    同    弥左衞門    一の谷 同    治郎左衞門 初午   同    市郎兵衛    戻かご 同    熊二郎   黒木売  同    善蔵    獅子  同    四郎左衞門 万度   同    勝五郎    宇治川 同    金治郎   みの亀  同    市右衛門    富士  同    半三郎   鍵の額  同    八十治郎    虎   同    半治郎   樊噲   同    文治郎    網打  同    新二郎   鵺    同    庄五郎    道成寺 同    宗吉    島台   同    権左衞門    木菟  すがも  紋太郎   忠臣蔵  原町二丁目 清五郎    宝舟  同    十兵衛   鯛    同     八郎兵衛    鶴亀  同    藤治郎   みめぐり 仲町   八五郎    鎌輪ぬ 同    安五郎   鐘が渕  火の番丁 幸五郎    二見浦 同    鉄五郎   石山寺  同    亀五郎    角力  同    熊五郎   瓢簞   七軒丁  権之丞    函谷関 同    権八    唐崎   同    庄右衛門〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p443(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)   ◇巣鴨・染井の菊   〝天保十五秋九月    【巣鴨染井】菊番附順道記     狸腹つゞみ 白山社      菊の石台  小原町 繁蔵     奉納額   小原町 善二郎  瓢簞駒   いなり前 増右衛門     日蓮上人御難 巣鴨 霊感院  扇日の出  巣鴨下組 市左衞門     富士山   すがも 弥三郎  菊花壇   同所  鉄三郎     旭獅子   同四郎左衞門   三宝に御備 同長太郎     菊花壇   同卯之吉     菊花壇   染井  五三郎     竹沢の駒  染井  音右衛門 竹に虎   同源右衛門     菊花壇   同虎吉      蜃気楼   同由五郎     大象    同金五郎     二見ヶ浦  同粂蔵     鴛鴦    同富治郎     屋根舟   同金蔵     亀     妙義坂下 妙義亭 子供力持  殿中 喜兵衛     兎住吉踊  殿中 庄八    菊花壇   吉祥寺前 仙太郎    〆廿四ヶ所之所、十月始に霊感院菊は取払也、殿中庄八が続に、鹿と猿出来る也、    かいろも出来る也、小原町ぇ挑灯に釣鐘出来〟   〝菊見の道草  栗崎常喜作    天保十あまり五ッとせといふ年の菊月の末の頃、巣鴨の里染井あたりに菊の作ものくさ/\出来しとて、    貴賤袖打引て群れ行ける。(以下略)〟   〝(十月)此節巣鴨・染井之作菊、三十三年目にて出来致せし故に大評判にて、見物の群集引もきらず〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕③305(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化元年(天保十五年)・1844)    〝九月後下旬、巣鴨時之鐘霊感院ニて千部経説法興行へ為奉納、稲荷本堂左へ菊之作物、祖師宗門建立之    処、朝日を赤き菊、其外小菊ニて、祖師は面計り人形(二字空白)番并佐渡の難及蒙古破船之所、籏曼    荼羅、此三ヶ所、右手は花壇菊を作り、参詣之外見物群集、凡廿八九年以前、所々の造物菊ニて巣鴨繁    昌せしに立戻り、染井へかけ植木屋共追々作り、再び群集をなす、駒込ニ月ニ兎、植木屋庄八、同力持    人形、同所喜兵衛、妙義坂下、蓬莱の亀、水茶屋妙宜亭、屋形船、植木屋金蔵、染井、鴛鴦、花屋留次    郎、二見の浦、植木屋粂蔵、白象、同金五郎、大花壇、小右衛門、蜃気楼(一字空白)竹に虎、源右衛    門、羽子板ニ独楽、真次郎、大花壇、五三郎、巣鴨、花壇、卯之吉、三宝ニ備、長五郎、花壇、四郎左    衞門、富士、弥三郎、扇、市右衛門、花壇、鉄三郎、瓢簞に駒、増太郎、是を初として種々追々作り出    し、番附道案内板行出来〟      ◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (弘化元年・1844)   〝十月より、巣鴨染井菊の造り物再び始まる(文化よりこのかた花壇のみにて造物は絶えたりしが、今年、    巣鴨なる霊感院の会式の飾り物とて、宗祖の御難のさま蒙古退治の体など、菊花にて造りしより始まり、    植木や毎に菊の造り物をなして諸人に見せける。翌巳年よりは白山駒込根津谷中にいたる迄、植木屋な    らぬ家までもきそひて造りしかば、凡そ六十余軒に及べり。貴賤の見物日毎に群集し、猶年々に造りし    が、嘉永の今にいたりて少しおとろへたり)     筠庭云ふ、菊の番附次の年も九月売りあるく。数十ヶ所にて夥しき事なりと、見し人云ふ、形もの造     りしははんどに植ゑて宙につるし、又竹筒にさしなど、花の形色は見るに絶へずと云へり。左もある     べし〟    〈同じ斎藤月岑著『百戯述略』〔新燕石〕④233に同内容記事あり〉    ☆ 弘化二年(1845)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p554(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)   〝弘化二年秋の末、巣鴨・小石川・染井・駒込・千駄木・谷中辺、植木屋造り菊出来、見物之諸人群衆致    すなり     (出展作品名・句・制作者名からなる「乙巳秋菊百句合」は省略)    但し、追々に作り菊出来致し、根津・谷中・染井・駒込・巣鴨・小石川・白山辺、八十ヶ処余有之、番    附も数多出て一様ならず    十月朔日頃より初り、同廿九日に仕舞候よし。    去年よりも群集す也    向島ぇも作り菊出来る也、番附出る     (番付あり、省略)    此節、本町三丁目裏河岸(△の中に「二」の字の図)鱗二といへる薬種店の主、なぐさみに庭ぇ菊を植、    手入致し候処、菊殊の外によく相成、花檀に拵へ、凡百本余にて、丈ヶも延候故、近所よりも見物に参    り、夫より大評判となり、諸方より見物参り候に付、いや共言われず、鳶の者抔懸置て、諸人に見物致    させけるに付、大群集致し、往来ぇは食物等の商人迄出候程の処、見物之内にて足踏候とか何とか申、    公論致し、是が喧嘩となり騒動致せし故に、夫より見物を止て、菊を取払候なり      おとなしく見て翁草何故に     遅道       すむのすまぬのきくのきかぬの     菊の番付、九月十六日より売出し廿二軒、九月末には板元六十軒計也、向島の菊の番付四文とて売歩行    也、今年の菊、都合にては八十軒も出来之由、右番付も絵双紙懸り名主村田佐兵衛、浜野宇十郎へ願出、    割印出て板元百軒の命も出来しとの事成〟       ◯『増訂武江年表』2P106(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (弘化二年・1845)    〝九月、牛島所々栽木屋寺院等に菊の造り物出来る(筠庭云ふ、牛島菊の造りもの、出茶屋抔(ナド)しる    したる紙札張りたれども、噂ばかりなりし事あり)〟    ☆ 弘化三年(1846)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』③97(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)   ◇造り菊   〝九月下旬、根津・谷中・千駄木・染井・駒込・巣鴨辺ニ造菊出来致す也、当年ハ分てよく出来候ニて、    貴賤群集致す也       菊見廻り狂歌      年毎に作りし菊のかげとひて        なゝもゝとせの花をこそ見ん      天津空照日みじかに引かゑて        見ればよわいをのぶとこそ菊     (以下、造り菊四十番、細工人名及び狂歌は省略)     一番、道成寺人形  二番、静忠信    三番、坐頭米都辻君     四番、太神楽おかめ     五番、関の戸人形  六番、山姥金太郎  七番、富士山ニとな瀬・小菊 八番、女馬士雲助     九番、柳ニ道風   十番、天の岩戸  十一番、鴛鴦ニ金魚     十二番、松に日の出    十三番、とんぼ小蝶 十四番、酒樽ニ池の中ニ都鳥 十五番、酒樽ニたこ 十六番、福禄寿    十七番、日の出荒波ニ鷲  十八番、江口遊女白象 十九番、鯛      廿番、金魚    廿一番、笛吹童子牛 廿二番、瓢簞盃   廿三番、盃ニ大瓶      廿四番、祭万度子供人形    廿五番、司馬温公  廿六番、石山秋月  廿七番、しめに海老     廿八番、鶏    廿九番、牛     三十番、大江山   卅一番、海士綱引      卅二番、しやぼん玉売子供    卅三番、公家衆ニ牛 卅四番、相生松尉うば卅五番、きぬた打女     卅六番、半開扇    卅七番、富士    卅八番、大扇    卅九番、牛ニ小原女     四十番、鏡山尾上岩藤      数知らぬ咲てふ花の花くらべ        いろ吉原もはぢるばかりぞ      五百金千金かさねし菊の花なれバ        八百よろづとし作るとぞきく    右、九月廿四五日よりはじめて十月廿日頃ニ終るなり〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥339(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化三年・1846)   〝九月末より十月中旬迄、巣鴨染井根津造菊植木屋凡四拾軒程群集見物、其形作ニ至て常盤津浄瑠璃ニ題    し、根津及び中七面坂等、中にも料理茶屋玉屋は暖簾ニ菊花染、大江山と言文字を附ケ、此脇植木屋関    の戸ト言浄瑠璃人形、面ト双手は人形、衣類を菊花、其側に玉屋主ト成て、同大江山をかたどり、金太    郎山姥等を作る、染井巣鴨は思ひ/\の物を作る、中にも菊のみにて鶴を作りたるは手際と見ゆ、中々    くわしくは見尽しがたし〟    ☆ 弘化四年(1847)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p192(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   〝九月末、巣鴨、染井、根津、谷中、千駄木、駒込、殿中、其外共菊の番附    (市川団十郎人形、助六揚屋町の場、梅王丸・松王丸人形、八重垣姫・勝頼人形、殺生石に九尾狐等の     番付あり、省略)    菊現物、十月朔日初日にして、十一月五日仕舞なり〟    ◯『増訂武江年表』2p111(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「弘化四年(1847)」記事)   〝目黒茶屋菊造り物出来る〟        ◯『藤岡屋日記 第三巻』③245(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇目黒行人坂造り菊   〝九月廿八日より目黒行人坂より中町迄、造菊三十六軒出来之由、番付出ル、先荒増すハ    一 行人坂上、草刈小蔵ニおやう(ママ)人形     一 同下、蕎麦や、文覚上人荒行    一 同茶漬や 千本桜すしやお里・弥介    其外有之よし、初日廿七日、廿八日共雨天ニて人出ズ〟    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (嘉永二年・1849)   〝十月、目黒茶屋町酒肆(シユシ)茶店の園中に、菊の花を以て人物其の外の造り物出来て、行客の足を停む。    また牛御前境内長命寺にも、菊の造りもの花壇等出来たり〟    ☆ 嘉永五年(1852)      ◯『増訂武江年表』2p127(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (嘉永五年・1852)   〝〔無補〕十月、山田屋某、浅草寺奥山粟島社の後に園地を拓き、菊を植えて遊覧に供す、見物多し。茶    店を出し餅を売る〟   〝九月、千駄木の辺、菊の造物六軒程出来る。染井巣鴨は花壇のみなり〟    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯『増訂武江年表』2p139(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (安政元年・1854)   〝九月、千駄木の辺、菊の造物六軒程出来る。染井巣鴨は花壇のみなり〟    ☆ 安政三年(1858)    ◯『増訂武江年表』2p157(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (安政三年・1856)   〝浅草奥山に於いて、大輪の菊花八十余種を集めて看せ物とする由。其の打ち四海の月といへるが差渡(サ    シワタシ)一尺六寸、日本一勢龍西王母といへるが同じく一尺五寸、其の外一尺四寸より九寸の名目をあら    はし、九月の末より報帖(ヒキフダ)を配りしが、十月の始め場を開きてより行きて見るに、花の大きさ漸    く四、五寸に過ぎず。花にあてたる紙の大きさ一尺余りもあるべし。見物各欺かれたり。それ故か催主    の名をあらはさゞりし〟    ☆ 文久元年(万延二年・1861)      ◯『増訂武江年表』2p182・185(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (文久元年・1861)   〝九月、団子坂藪下辺菊の造物は、忠臣蔵狂言の人形なり〟   〝今年も根津千駄木藪下の辺、菊の造物多く出来て日々遊観の人多し。巣鴨染井の造菊は、前巻にいへる    如く文化九年の秋より始まり、江城の尊卑日毎に群行してこれを賞しける頃、先考に誘はれてこのわた    見めぐらひしも、明治戊寅の年に及びてはや六十七年の昔となりぬ。夫より後も大かた年々にこれを造    りて此の里の名物とはなりぬ。然るに、造り菊は鄙俗の物として見ざる人あれど、此の時節丹楓(カエデ)    の佳境を繹(タズネ)るの外に花なき頃にして、東京の中央より道を阻つる事も遠からざれば此の辺に徘徊    し、団子坂に名を得し河漏麪(ソバヤ)に一樽を傾け、はるかの野径を眺望し、或ひは此の辺の拍戸(リヨウリヤ)    に酔を催し、衆人とゝもに連牆の芸花園(ウエキヤ)に入り、庭中をながめ、菊の花壇盆種の草木多かるを賞    し、一日逍遙して夕照の斜(ナナメ)なるを惜しむ輩も鮮(スクナ)からず。真にこれ仲秋の一楽事なり〟    ☆ 文久二年(1862)      ◯『増訂武江年表』2p187(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (文久二年・1862)   〝十月、巣鴨駒込千駄木辺、菊の造物出来る(里見八犬士、二十四孝其の外なり)〟    ☆ 明治三年(1870)    ◯『増訂武江年表』2p236(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (明治三年・1870)   〝九月、巣鴨菊の造り物、十三箇所程出来る〟    ☆ 明治四年(1871)    ◯『増訂武江年表』2p241(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (明治四年・1871)   〝九月、染井巣鴨団子坂、菊の造物あり〟  ◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(70/98コマ)   〝九月 菊見    天保以降は菊人形を造り飾り見物を呼ぶこと絶へて止みにけり、唯花壇菊は益々念を入れて美事に造り    たり、染井千駄木辺なる将軍家御用の植木師、諸侯方御出入の庭園師は、屋敷地所も殊の外手広く、木    石等もいみじき名品多く、庭樹の手入も全く行き届きける園中に、花壇菊の培養をなし、金銭に関せぬ    技倆を示して、仕立てたる花にて、其の美事なること目を驚かせたり、されば好みて菊花を愛する客に    は閑静にして賞するに堪へたり〟  ◯『彗星 江戸生活研究』第三年(1928)八月号   (国立国会図書館デジタルコレクション)(70/98コマ)   〝江戸菊細工の変遷(下)    (前略)安政三年に至り、植梅巣鴨より団子坂に移転し、当時森田座五月狂言忠臣蔵 頗る世評のよか    りしかば、其当り場を菊細工となしたりしに、当時の人気に叶ひ見物陸続絶ず、此好景気を聞きて団子    坂へ移転せる植木屋多かりしかば、巣鴨は是が為に終に廃絶して、団子坂へ其月桂冠を譲るに至れり、    然れどもその幸運は長からず、世は次第に騒がしくなりて、悠々として菊見る人も少なかりしがため、    維新前後中絶するに至りしが、明治八年に至り再興し、維持費として初めて木戸銭を徴収すると共に、    当時演劇の当り狂言によりて趣向をなし、木偶(にんぎょう)の如きも都下一流の細工師に嘱して造らし    めしより、年々の季節に見物群集して東京の一名物となれり、然るに明治四十三年に至り、両国国技館    其他に於て、新時代の要求に応じて趣向せる菊細工を興行せしより、団子坂は為に大打撃を受け、翌年    に至りては各家業を転ずる中、ひとり種半殊死して孤城を固守せしも、大勢如何ともすべからず、大正    と改元せらるゝと共に終に廃業して、江戸以来の一名物を失ひしは惜しむべし〟    〈菊半は団子坂の園芸業者。菊人形で名高い。明治20-30年代が全盛とされる〉