◯『増訂武江年表』2p69(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政五年・1822)
〝春より葺屋町河岸において唐人踊の見世物を出す(カン/\踊と云ふ、踊の末に大なる蛇の作り物を遣
ふ)。世に行はれて両国深川等へも出す。諸人これを真似たり(再び云ふ、この踊は大坂より始まりた
るよし也。蛇を遣ふ事は「清俗紀聞」の図中に拠れるところなりと云ふ。
かん/\とてる日にそだつひる顔はつるつてとんと庭をはふ/\ 蜀山人
かん/\の氷も今朝は解そめてきはきで匂ふ窓の梅がえ 同
筠庭云ふ、かん/\踊り見世物、先づ一人出て棒をつかうことあり。次に蛇をつかひ次に踊りなり。
大坂にて見せたるなれど、其の地より始まりしにはあらず。此の時用ひたる胡弓は、竹にて作りたる
柄杓やうなる提琴にはあらず。木にて作りたるなり。胴は片面のみ皮をはりたるなり。摩(コス)るには
細竹に松脂を粉にしたるをふりかけて用ふ。馬尾を用ひたり(声云ふ、カン/\踊は長崎より始まれ
り)〟
◯『甲子夜話1』巻之九 p160(松浦静山著・文政五年(1822)記)
〝去年比よりかん/\踊と云て、小児の戯舞するありて、都下に周遍す。其章唐音(タウイン)を伝へたりと云
ことなり。坊間版刻して売弘む。今其図并歌謡を左に載す。
「かん/\のきうのれんす。きうはきうれんす。きうはきうれん/\。さんちよならへ。さァいほう。
にいくわんさん。いんひいたい/\。やんあァろ。めんこんほほらてしんかんさん。もへもんとはい
ゝ。ひいはう/\
「てつこうにいくはんさん。きんちうめしいなァ。ちうらい。ひやうつふほうしいらァさんぱァ。ちい
さいさんぱんひいちいさいもへもんとはいゝひいはう/\
然に壬午の春二月、市長停止の事を闔都に触る。是よりして止む。その文に曰。
一、唐人踊之儀、此度厳敷停止被仰付候に付、子供に至迄かん/\おどり哥抔決而申間鋪候。且辻商人、
飴売、壱枚摺、絵草子抔にも、右唐人并うた抔持流行候者有之ば、其所留置町所聞糺早早可訴出候事
右之通被仰渡候間、町内限り可相触候以上
後に聞けば、長崎にては古くありし事の由。其辞意は淫褻を極めたることなりとぞ。近頃崎の賤民、罪
ありてその地を放逐せられしもの、浪華に抵(イタ)り、活計に苦しみ、唐人のかん/\踊りと云ことをし
て、一時に人の笑楽となりしとかや。然れども左まで流行と云ほどのことは無りしが、いかなることに
や東都に伝へて、人々其趣意をも弁へず、猥りにもてはやして盛に流行し、遂に禁ぜられるゝに至れり。
又聞く。蛮人の来れるに因て〔三月恒例の紅毛来貢なり〕、淫詞、外国人の聞べきこと何かゞ憚べしと
て、市長この触を出せしと云〟
〈壬午は文政五年。オランダ人の江戸参府は例年三月に行われていた。江戸町奉行のかんかん踊りの禁止令は、猥褻な
歌詞をオランダ人に聞かせまいとして出されたというのである〉
◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪77(鼠渓著・安政三年(1856)序)
〝むかし茸屋町河岸に、かん/\踊りと云、唐人をどりの見世もの出しことあり。蛇ミ線 蛇の皮にて張
りし三味線のごときモノ またかゝる形のかねでこしらへしものを(図あり)たゝきたてゝはやす。
そのうた、
かん/\のふきうのれすきわきですさんしよならへさいほうにいかんさんいつひんたい/\やあァん
ろめんくかおはうてひいかんさん ハウハウトテツルツン/\とはやすなり。
踊り仕舞て 言葉 もゑもんとはぴいハウ/\と云。
又
てツかうにいかんさんきんちうめしいなあちうらいひようつほうつらあさんばちいさいさあんはひい
ちしさいハウトテツルツン
又朝貌はやりし頃なれば、
かん/\の垣根にからむ朝かほのとてつると/\はしたをハウ/\〟