Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いちまいえ 一枚絵浮世絵事典
 ☆ 延宝~天和(1673~1683)    ◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮376(岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成)   (「臙脂絵売(べにゑうり」の項)   〝按ずるに、板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引、土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入り。    芝居の絵は坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時(ソノコロ)は丹(タン)緑青(ロクシヤウ)などにてま    だらに彩色したり。菱川師宣(ヒシカワモロノブ)、古山師重(フルヤマモロシゲ)等、これを画けり。(中略)    〔近代世事談〕【享保十九年板】云、「浅草御門同朋町何某といふ者、板行の浮世絵役者絵を紅彩色に    て、享保のはじめ比よりこれを売。幼童の翫びとして、京師、大坂諸国にいたる。これ又江戸一ッの産    となりて江戸絵といふ」とあれば、左に摸(ウツ)し出すは、享保の比の紅絵売の図なるべし。(中略)〟    (「瞭雲斎蔵」の「臙脂絵売図」あり。【これは享保のころの一枚摺の板行絵なり】の割り書きあり。     図柄は、「吉原」「風流紅彩色姿絵」の文字がある箱を背負い、女の姿絵を棒に吊り下げて売り歩く     若衆。「吉原」とあるから遊女の姿絵である)    〈享保頃の一枚絵売り(この場合は紅絵売り)の姿である。ここでいう「一枚絵」とは、組物(複数枚で作品を構成する)     の中の一枚という意味ではなく、一枚で完結したものをいうのだろう。俳諧に擬えると、絵巻や組物が百韻・歌仙で、     一枚絵は発句ということになろうか〉
    臙脂絵売(べにゑうり)(『骨董集』所収)  ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」喜多村信節著   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝一枚絵は延宝天和の頃のものをみるに その紙美濃紙より大にて厚く武者絵を丹緑青黄土にて彩りたり    其外角力また遊女等の絵もあり 歌舞伎役者絵もあり 是は元禄頃より殊に多くなれり 丹と黄汁にて    色とる紅粉絵となりしは 醒斎云 享保のはじめ同朋町和泉屋権四郎といふもの 紅粉色の絵を売初め    是を紅粉絵といふ 夫より色々に工夫して墨のうへに膠(ニカハ)をぬり金泥などを用ひて 漆絵と云て大    に行はるといへり 其頃の前句付「ひかりかゞやく/\ 浮世絵にこの頃着せた黒小袖〟」     ☆ 享保六年(1721)     ◯『御触書寛保集成』p1017・触書番号2091・享保六年(1721)七月付   〝一 書物草紙之類是又新規ニ仕立候儀無用、但不叶事候ハヽ、奉行所え相伺候上可申付候、尤当分之儀     早速一枚絵等に令板行、商売可為無用候、    右之品々、有来物にても、最初ハ其仕形之品軽ク候ても段々仕方を替、花美をつくし潤色を加へ、甚費    なる儀に成候間、最初之質朴を用候様ニ可仕候、但御役筋之儀ニ付て之儀にてハ無之候、見せ物等之儀    ハ新規之事不致候てハ如何候間、此段ハ可為格別事〟    〈新規出版の禁止令である。この「草紙類」とは「八文字屋本」などの「浮世草子」をいうのであろうか。また当今の事     柄を直ちに板行する「一枚絵」とはどのようなものをいうのであろうか。山東京伝の『骨董集』(文化十年(1813)成る)     に〝板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引、土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入り。芝居の絵は坊主小兵衛     をゑがけるなど、其始なるべし〟というくだりがある。また享保の頃の一枚絵を売る若衆の図も引用されている。その     図の中に「風流紅彩色姿絵」「吉原」の文字が見え、若衆が棒に吊し売る絵柄も遊女になっている。触書にいう「一枚     絵」はこうした役者絵や遊女絵の一枚絵をいうのであろう。坊主小兵衛については本HP「浮世絵事典」の「ぼうずこ     へえ」参照〉     ☆ 延享三年(1746)     ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   〝延享二丑か三寅かの顔見せかと覚ゆ。市村座へは(「延享二年」の朱の添え書あり)吉沢あやめ初下り、    【中村富十郎と吉沢崎之助が兄なり】大根漬の狂言をしたり。上手なれ共評判どつとなし。楠が妻菊水    の紋にて、大名題は女楠よそほひ鑑と、あやめを立たる名題也。其時中村座へは嵐小六初下り也。これ    は芸はあやめより劣たれども、美しく評判もよかりき。【上手雛助が父也。後嵐三右衛門といふ】され    ども見巧者はあやめは上手、ころくはお下手といひけり。これも下手にはあらず。下りの顔見せ、女に    てしばらく也。請は栢莚にて浅黄頭巾の上へ冠をのせたりとか聞えし。小六着付は鶴菱にて暫の着附と    見えたり。掛素袍計にて扇に栢莚が筋ぐまの角前髪の顔を画きたるを、顔にあててにらむと云趣向也。    其頃の能案じといふなるべし。我其一枚絵を貰て持たりしが、漸彩色摺の初りたる時也。され共墨と紅    と草の汁と、三枚板にて所々食ひ違もありき。小六が野郎帽子の所は、紅と草の汁と重ねてすりて、紫    にこぢ付たる物なりき。奥村文角政信が絵かと覚ゆ。画の上に発句に、かほ見せや鶴の巣ごもり小六染    とあり〟    〈「江戸時代 江戸歌舞伎興行年表」(立命館大学アート・リサーチセンターの公開アーカイブズ)によると、「女楠     よそほひ鑑」は延享二年の顔見世。嵐小六の「女しばらく」は延享三年の顔見世(外題は『天地太平記』)とある。     したがって、奥村政信の三色を使った紅摺の役者絵は延享三年十一月の売り出しである。墨線に紅と草と紫の三色、     このうち紫は紅と草との重ね摺り、見当がうまくいかなかったのか「所々食ひ違」いもあったとある。「かほ見せや     鶴の巣ごもり小六染」とある一枚絵を見いだすことはできなかったが、翌年、延享四年の嵐小六を画いた奥村政信画     は残されているから、参考までのにとりあげておきたい〉
    「市村宇左衞門・嵐小六」 芳月堂正名奥村文角政信正筆     (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 寛延~宝暦~文化年間(1748~1817)    ◯『続飛鳥川』〔大成Ⅱ〕⑩25(著者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物、    元日に番附売、初狂言正月二日始る。番附代六文    一枚絵草紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり鳥居清信筆、其外奥村石川〟    〈正月早々、一枚絵草紙売りが売り歩いたものは、漆絵・浮絵・金平本・赤本・糊入ずり鳥居清信・奥村政信や石川豊信     の一枚絵や草双紙。この中の「糊入ずり鳥居清信」とは『塵塚談』に〝其頃(宝暦)迄は、一枚絵とて、役者を一人を、     糊入紙を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記すのみにて、     顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり〟とあるもので、糊入紙を三ッ切にした鳥居清信画の役者絵である〉  ☆ 宝暦十三年(1753)  ◯『根南志具佐』三之巻(風来山人作・宝暦十三年刊)   〝釣竿を買ふ親仁は、大公望が顔色を移シ、一枚絵を見る娘は、王昭君がおもむきに似たり〟    〈これは両国界隈の賑わいを描写したくだり。釣竿の買い求める大公望のような親仁もおれば、一枚絵を見る娘の中には     かの王昭君もかくやと思われるような美女もいるというのであろう。宝暦十三年の作品であるから、この一枚絵は錦絵     ではなく紅摺絵で、娘が手に取るのはおそらく役者絵であろう〉    ☆ 宝暦年間(1751~1763)    ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立)   〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の    額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍    敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者を一人を、糊入紙    を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記す    のみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も    似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、    角力取迄も似顔絵にしてうる事になれり〟    〈錦絵以前の役者絵の記事。役者似顔絵は鳥山石燕が浅草寺に奉納した額の肉筆絵から始まるという。板画の役者絵の方はま     だ似顔がなく、しかも糊入紙を三ッ切にした三四遍摺とあるから、紅摺絵である。それが一枚四文であった。なお、この中     村喜代三郎は初代で安永六年(1777)没。浮世草紙とは草双紙(黄表紙・合巻)か〉  ☆ 明和四年(1767)    ◯『寐惚先生文集』〔南畝〕①362(陳奮翰子角(大田南畝)著・明和四(1767)年九月刊)   〝一枚絵瀬川菊之丞が賛    曰是男其名与彼物  是を男なりと曰ふは其の名と彼の物となり    曰是女其顔与形貌  是を女なりと曰ふは其の顔と形貌(ナリフリ)となり    紋結綿戴紫帽子   結綿を紋にし紫帽子を戴く    為男為女者誰    男と為り女と為る者は誰(タ)そ    瀬川菊字路考    瀬川菊字(アザナ)は路考〟    〈この「一枚絵」は役者を画いた一枚の絵。役者は二代目瀬川菊之丞。絵師は不詳。宝暦十三年の風来山人作『根南志     具佐』によると、鳥居清信画の「菊之丞が絵姿」がその美貌・魅力を描いて評判であった。しかしそれは錦絵以前。     明和四年のこれは果たして錦絵だろうか〉    ☆ 明和五年(1768)    ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(手柄岡持(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   〝(吉原が初めて焼けた明和五年の前後の頃、江戸町の巴屋抱えの遊女・豊里に、太申という表徳をもつ    八丁堀の材木商がたいそう馴染んで、「太申」という篆字様の字を染め抜いた着物を贈って着させた。    加えて)一枚絵にも豊里が此染の小袖を着たる所をかゝせて出す【割注 春信の頃か】〟    〈この一枚絵は遊女絵。太申は豊里の姿を一枚絵にして配ったというのだろう〉    ☆ 明和六年(1769)    ◯『半日閑話 十二』〔南畝〕⑪337(大田南畝記・明和六年(1769)二月明記)   (「浅草寺開帳・浅草名物」の項)   〝参詣の男女雲のごとく、吉原より挑灯を献ず。【其図并に妓の名を板行にす】絵本浅草みやげ【浅草川    筋の図也】やつし御詠歌【楊枝屋大和茶屋、この女を三十三番とす】三品とも家に蔵す。絵草紙一まい    絵にあまた有〟    〈この「一まい絵」は「絵草紙」と対、つまり絵入り版本に対する一枚絵という意味である〉    ◯『小説土平伝』〔南畝〕①376(舳羅山人(南畝)作・春信画・風来山人序・明和六年四月序)   〝一枚画廃タレテ東錦画興り〟    〈この「一枚画」は紅摺絵の一枚絵〉    ☆ 明和八年(1771)    ◯『難波噺』十四巻〔百花苑〕(池田正樹著・大坂滞在記事)   ◇明和八年正月 ⑭60   〝此月一枚絵草双紙など売もの来らず。画は書肆にあれども、多くは江戸画にて大坂板は少し。草双紙は    当処に曽てなし。同十一日、唐の絵【石摺なり】一枚もとむ。異形成画なり。是は彼の地の一枚絵のよ    し也〟   ◇同年六月 ⑭70   〝一枚画は江戸絵とて賞翫すといへり。今當所にて商ふ画は皆江戸より廻るといへり。尤當地にても江戸    にて似せて板行を摺れども画ハよからず〟    ☆ 天明四年(1784)    ◯『年始御礼帳』黄表紙(四方赤良作・千代女画・天明四年刊)   〝へたてつる年一枚絵草双紙あけてめでたき空の青本 朱楽漢江〟   〝錦画 雲楽斎    あらたまのとしの初の一まい絵二枚屏風にはるのいへづと〟    〈一枚絵や草双紙(青本=黄表紙)は江戸の正月を彩る風物詩になっている。家への手みやげに買い求め、二枚屏風に     張り交ぜて楽しんだのである。下出の二枚屏風の画像には「清長画」の署名が見える。「風俗東之錦」のような絵柄     である〉
    張り交ぜ絵 千代女画(東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫)    ☆ 天明年間(1781~1788)  ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古    板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程    なるや予不知〟    〈「今」は「序」の天保二年頃と思われる〉  ☆ 寛政二年(1790)    ◯『江戸町触集成』第九巻 p68・触書番号9624(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)   (寛政二年十一月十九日付触書)   〝書物之義は前々より厳敷申渡候所、何日と無猥ニ相成候ニ付、此度書物屋共壱枚絵草双紙問屋共改    之義申渡、且壱枚絵双紙問屋共是迄行事無之ニ付、以来両人ツゝ行事相定候様申渡候処、右書物屋共之    外ニ貸本屋世利本屋と唱書物類商売致候者有之、壱枚絵草紙問屋之外ニ同様之商売致し候者有之趣ニ候    間、前書之書物屋共草双紙屋共此度申触候趣相心得、以来新板之書物同断草双紙壱枚絵之類取扱候節    は、書物屋共草双紙屋之内行事共其品差出、改請候上売買致、猥成義無之様可致候、尤素人より壱    枚絵草双紙時々雑説等板行致候ヲ買取売買致候義、堅致間敷候、若相背候者有之候ハゝ急度可申付候右    之通不洩様可被相触候〟    〈御触書に草双紙と一枚絵が登場するのは、この寛政二年が初出であろう。町奉行の視野に地本問屋の制作する草双紙     と一枚絵が検閲の対象として入ってきたのである。草双紙(この時代は黄表紙)や一枚絵(冊子でない錦絵等の浮世     絵)が、幕府公権力にとって、もはや無視できない存在になってきたといえよう。ともあれ今後は問屋から二人の行     事を出して、自主的な検閲制度を敷くよう命じられたのである〉    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱437~447(大田南畝著・寛政十二年(1800)五月以前成)    〝一枚絵【紅絵共江戸絵共云】    草双紙【赤本、唐紙表紙、青本】〟    〈南畝は現在の「紅摺絵」を〝紅絵〟と呼ぶ。したがってここの「一枚絵」の解釈は【紅摺絵共江戸絵共云】となる。     「一枚絵」という呼称には「紅摺絵」「江戸絵」のイメージが相当強いようだ。おそらく延享から宝暦年間にかけて     「一枚絵」といえば、単なる一枚の絵というだけでなく、江戸土産の「紅摺絵」を思い浮かべたのであろう。もちろ     んこの「一枚絵」に一枚の絵という意味が無いというのではない。冒頭目録は次に「草双紙」を配している。基本的     にはやはり赤本・青本など版本に対する「一枚絵」であり、また組み物・絵本に対する「一枚絵」の意味なのである。     それでもなおかつ「一枚絵」を「浮世絵・大和絵・漆絵・草双紙・吾妻錦絵・役者似顔・摺物絵」などと並べて独立     項としたのは、江戸固有の「一枚絵」という意識が強烈にあったからではないか。これについては次の『おしてるの     記』が参考になろう〉    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥120(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝正月元日より一枚絵草紙抔、寛政中頃迄は売歩行しが、其後此商人不来哉〟    ☆ 享和元年(1801)    ◯『おしてるの記』〔南畝〕⑰209(大田南畝記・享和元年(1801))   〝一枚絵、紙煙草入少し計り土産ものに持参可然事〟    〈『おしてるの記』は、享和元年三月十一日から始まる大坂銅座勤務にあたって、南畝が前任者から引き継いだ公務上     の申送り、心得の写しである。この時代は既に錦絵。やはり紅摺絵であれ錦絵であれ「一枚絵」は江戸固有の産物な     のである〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯『放歌集』〔南畝〕②174(文化八年(1811)十二月賦)   〝 題古一枚絵    北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才    風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈吉原の遊女を画いたこの「古一枚絵」、奥村・鳥居の「紅彩色」とあるから「紅絵」であろう〉
  〈以上まとめてみると、南畝の「一枚絵」は、版本の「絵双紙」や「絵本」と対になった一枚の絵という意味を踏まえな    がら、それを超えて「丹絵」「紅摺絵」「錦絵」による役者・美人画のイメージの方が強い。単に一枚の絵という普通    名詞的な意味以上に、江戸の産物という意味合いが強いのである。この点、山東京伝も同様で、黄表紙『御存商売物』    (天明二年(1782)刊)では「一枚絵」が「青本」(現在の黄表紙)とともに江戸を代表するものとして登場する〉
   ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝やう/\文化度より、卦算廻しといふ画始りぬ、声のどかに一枚絵双紙と売来るも次第にうせたり、此    一枚絵といふは他図にて賞する江戸錦絵にて、吾が父常に物語られしは後世恐るべきは天明安永の頃は、    錦絵の板に彫るに下絵の如く役者の目の下なんとうすく色どるを、ボカシいふ事奇工のさまざま出たれ    ども是を彫る事あたはず、是をすりわくる業を知らずといひしが、今はボカシのみかは白粉さへ其まゝ    すりわけ、髪に面部の高低までも彫分摺わくる、奇工妙手の出来たりといはれき、天明の頃は勝川春英、    北川政信(ママ)、春章が輩、役者絵、女絵、風景を書て賞せられしが、寛改の末より歌川豊国専ら歌舞妓    役者の肖像に妙を得て、松本幸四郎か市川高麗威、助高屋高助か市川八百識、坂本三津五郎か蓑助の頃、    瀬川菊之丞か市川男女丞、岩井牛四郎か久米三郎のむかし中村のしほ、嵐昔八、片岡仁左衛門、物いふ    がごとし、舞台顔を絵かきて豊図が筆を振ひし跡を、国政又是につぎ、半に写楽とい絵師の別風を書き    顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける〟    〈「卦算廻しといふ画」は未詳。錦絵出現以降、一枚絵の彫り摺りの技法は長足の進歩を遂げたようである。北川政信     は未詳。役者の似顔絵は明和以来の勝川派より、寛政から登場してきた豊国、国政等歌川派の方が「物いふがごとし」     でずっと刺激的であったようだ。写楽はよく顔立ちのよく写し取ったものの「艶色を破るにいたりて役者にいまれけ     る」役者としての色艶を破壊したとして役者たちから嫌われたいうのである〉    ☆ 文政十三年(天保元年・1830)  ◯『嬉遊笑覧』(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇巻三「書画」上 196/302コマ   〝一枚絵は延宝天和の頃のものをみるに、その紙美濃紙より大にて厚く、武者絵を丹緑青黄土にて彩りた    り、其外角力また遊女等野絵もあり、歌舞伎役者絵もあり、是は元禄頃より殊に多くなれり、丹と黄汁    にて色どる紅粉絵となりしは 醒斎云 享保のはじめ 同朋町和泉屋権四郎といふもの紅粉の絵を売初    め是を紅絵といふ 夫より色々に工夫して墨のうへに膠(ニカハ)をぬり金泥などを用ひて漆絵と云て、    大に行はるといへり、其頃の前句付 ひかりかゞやく浮世絵にこの頃着せた黒小袖(曲亭云)錦絵は明    和二年の頃 唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふ者、板すり某をかたらひ、版木に見当を付る    ことを工夫して、初めて四五遍の彩色摺を製し出せしが、程なく所々に摺り出すことになりぬと金六語    れり、明和已前はみな筆にて彩色したり、これを丹絵といひ又紅摺といへり【彼金六は文化元年七月没    すと云り】(以下略)〟  ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』(『続浮世絵類考』)〔燕石〕③276(池田義信(渓斎英泉)編・天保四年成立)   (「吾妻錦絵考」)   〝東都第一の名産として、他郷の者江戸より帰るには、江戸絵と云て必ず是を求る事となれり。世俗之を    一枚絵といふ。先に山東醒世翁曰、延宝、天和の比の一枚絵といふ物を蔵せる人ありて、みるに、西の    内といふ紙一枚ほどの大きさありて、おほくは武者絵にて、丹、緑、青、黄土をもて、ところまだらに    色どり、大津絵の今少し不手ぎはなる物なり。画はみな上古の土佐風にて甚よし。画者の名はしるさず。    もとより歌舞伎役者遊女の類ひの姿をかゝず。元禄のはじめより、役者の姿をかきはじむ。丹と桷とい    ふもので色どれり。江戸真砂子六十帖に云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、その容を画き刻    て街に売る。価銭五文、是より役者一枚絵と称するもの数種を刻すと云れり〟    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④312   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝一枚画すなはち錦絵、あるひは江戸絵と云ふ物、伊予正(イヨマサ)と云ひ、紙半枚摺りなり。美人等十三五    編摺の物一枚、価三十二銭ばかり。役者肖像等、わづかに粗なるもの、一枚二十四銭なり〟      〈「一枚絵」という言葉には、組み物に対する一枚絵という意味の他に、江戸絵あるいは錦絵という、江戸固有の絵と     いうニュアンスも含まれているのである〉  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 一枚絵草双紙売春の声 「五万才」4 文化1【雑】注「浮世絵一枚摺」     〈錦絵と黄表紙の売り声は江戸正月の風物詩〉   2 母の目に涙娘も一まい絵「柳樽74」文政4【続雑】注「遊女の似顔絵」     〈我が娘、錦絵に画かれるほどの遊女になったとはいえ……〉   3 一枚絵天窓(あたま)の方で綱渡り「柳樽153-1」天保9-11【川柳】     〈絵草紙屋の店頭光景、錦絵は上から糸で吊り下げて売っていた〉   4 壱まひ絵かいどりを着た人だかり「明元義3」明和1【川柳】注「御殿女中」     〈外出した御殿女中たちを惹きつける一枚絵は役者絵か〉   5 壱まひ絵はつて座敷をやすくする「天5智3」天明5【川柳】注「破れの補修に」     〈客を迎え入れる座敷も破れに一枚絵を貼っては安く見られる〉   6  壱まひ絵へがしてもらふ子供客 「明2義3」【川柳】注「土産に」     〈その座敷の一枚絵を剥がして子供客の土産にしたのである〉