☆ 文化元年(享和四年・1804)
◯『街談文々集要』p(石塚豊芥子編・文化年間記事)
(文化元年(1804)「叶福助起原」)
〝当春より叶福助と号し、頭大きく背短かく、上下を着したる姿を人形に作り、張子又は土にて作り、壱
枚画に摺出し、其外いろ/\のものに准らへ、翫あそぶ事大ニ流行す、後には撫牛の如く、蒲団に乗せ
祭る時は、福徳ますとて、小キ宮に入、願ふ事一ッ成就すれば、蒲団を仕立て、上ル事也。其根元、何
といふ出る処を知らず、唯愚夫愚婦の心にも応ぜざる願立いたしけるこそうたてける、其節の落首に、
ことしよりよい事ばかりかさなりて心のまゝに叶福助〟
〝豊芥按に、此叶福助の人形の起りハ、新吉原京町弐丁目、妓楼大文字屋市兵衛、初メハ河岸見世にて、
追々仕出し、京町弐丁目ぇ移り、大娼家となりぬ、此先祖至て吝惜にて、日々の食物菜(サイ)の物も、下
直なるものを買置、夏の内は南瓜(ボブラ)多く買置、秋迄も総菜にものしけるゆへ、近辺の者、悪口に
唱歌を作り、〽こゝに京町大文じやの大かぼちや其名は市兵衛と申升ス、ほんに誠ニ猿まなこ、ヨイハ
イナ/\/\と、大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此の唱哥大評判になり、大文字屋ハます
/\大繁昌せり【此唱哥、板行ものして売、又踊り姿を紙作りうる也】此節の手遊屋、是ニもとづき、
大頭の人形に上下を着せ、叶福助と名号(ナヅケ)、何まれ願ひを懸け、利益のある時ハ布団ヲ拵え上る事
なり、又上野山下ぇ、頭大きなる男ニ柿色の上下を着せ【年頃十二三也し】叶福助ト云て見物物ニ出し
たり、是等はあたま大キゆへ、㒵を晒して利分を得たり、相良侯は撫牛を信じて出世ありしとて、世の
人是をまなぶ、此二点の玩び物ハ今に廃(スタ)ることなし〟
◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②72(柳川亭著・享和三年序)
〝叶福助といふ人形、其始山城の伏見にて焼出せし由、享和の頃に至りて江戸にて流行出し、焼物もあり、
張貫も多し、子供の持遊びにて夥敷売る也、然るに此人形を棚へ上置、朝夕膳を備へ信心すれば何事に
よらず、心願成就すると申して敬ひ尊む人あり、其謂を知る事はなし、すべてこれらの事は欲心より己
が心を闇まして迷ふ事多し、かへりみ思ふべし〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥108(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
〝叶福助と云人形出来て久敷行はる、この始は享和の末、文化の始め也〟