☆ 慶応四年(明治元年・1868)
◯『藤岡屋日記 第十五巻』p505(藤岡屋由蔵・慶応四年記)
◇戊辰戦争絵
〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之
此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、
三月廿八日御手入有之。
右品荒増之分
子供遊び 子取ろ/\ あわ手道化六歌仙〟
「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆 (東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図 (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
「道化六歌仙」二枚組・右図 左図 署名なし (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
〈二図ともに戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、子供たち
の着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。また遊び
を後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負っている
のが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬えたのであ
る。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。図の上
「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよく分か
らない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」とある。
「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手してい
るのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考えられ
る。ではもとの小売り値段はどれくらいだったのであろうか。
『藤岡屋日記 第十四巻』慶応三年の記録に「蕎麦屋も段々直上ゲ之上ニ、五拾文ニ相成候ニ付 十六が三十二になり
片付かず五十に成てまだこもり也」(p458)とある。天保の頃16文だった蕎麦がこの時期には50文にも値上がりし
たというのである。この天保の頃16文は一枚絵も同じ。天保十三年十一月晦日の通達には「売直段壱枚拾六文已上之品
可為無用」、つまり一枚16文以下にせよとある。一枚絵をそばを同列に論じられるかどうか心許ないが、今仮に準じて
みると、この頃は一枚絵も50文位ということになる。それが30万余の出回ったというのである。上記二図で30万という
ことでなく、戊辰戦争絵のような時世を題材とする一枚絵の総数をいうのであろうが、それにしても大量である。この
二図でいえば、発売が二月と三月、手入れが三月末、わずか一、二ヶ月である。さて売り上げを見積もってみよう。50
文が30万部で1500万文。これを明治二年(とはいえ翌年のこと)新政府が定めた1両=10貫文=10000文を、これまた
便宜上当てはめると、ちょうど1500両になる。30万という数にどれほどの信憑性があるか確かめるすべもないが、それ
にしても莫大な売り上げである。まして二枚組100文の売り物を官憲の手入れの後216文も出して求める人もいるのであ
る。摺り溜めていたものを隠し持っていて売るものにとってはボロ儲けである。時世を題材とするものは板木没収・過
料・江戸払い・財産没収などの危険と隣り合わせであるが、当たればこれだけの利得をもたらすのである。諷刺画は金
のなる木であった〉