Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ぱりばんこくはくらんかい パリ万国博覧会浮世絵事典
    〈1867(慶応三)年、パリにおいて万国博覧会が開催された。徳川幕府はフランス政府の要請に応じて日本の特産物を大量に    出品する。その中に浮世絵も含まれていた。その内訳は、日本の風俗・名所を画いた肉筆画百点、『江戸名所図絵』のよ    うな名所図絵や『北斎漫画』のような絵手本類の版本が二十八部、そして錦絵が五千五百枚となっている。そのほかに将    軍の名代として派遣された徳川昭武が個人用に持参した錦絵二百枚が確認されている。以下はそれらに関連する記事であ    る〉    ☆ 慶応二年・丙寅(1866)    ◯『徳川昭武滞欧記録』第二(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)   ◇慶応二年二月「四 (仏国博覧会)出品物取扱分担書」p222(「徳川民部大輔欧行一件付録 巻八」)   〝仏国博覧会之節、御差廻し可相成様、同国公使并御国産物取扱候レセッフより申立候品々、三手持分書    (前略)諸画類・画帖・画巻(中略)木板之書籍(中略)扇子・団扇・提灯(中略)地理図絵図面類    (中略)板摺道具・錦絵・絵本(前略)屏風・掛物(攻略)    右品々外国方取扱〟    〈慶応三年開催のパリ万国博覧会に出品するものについては、フランスの公使ロッシュとレセッフ(物産商か)の要請を     受けて、目付方(武器宮室服飾等を担当)と外国方(器用玩器虫獣皮唐類を担当)と勘定方(飯倉竹木金石陶器雑貨類     等担当)の三部局が収集を担当した。上掲は外国奉行が担当したもののうち書画に関するもののみ。もちろん奉行所が     直接収集に当たった訳ではない。町方の商人・浅草天王町の卯三郎(清水卯三郎、後の瑞穂屋)に請け負わせた。     (「一一 博覧会出品の件卯三郎及六左衛門よりの請書」p335)次項の「博覧会出品価帳一」はその浮世絵に関係す     る収集品のリスト〉    ◯『徳川昭武滞欧記録』第二(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)   ◇「博覧会出品価帳一」p154(「徳川民部大輔欧行一件付録 巻六」)    〈外国奉行収集の書籍のリストと仕入れ価格。但し浮世絵関係の書籍のみ収録。( )の著者・画工名は本HPの注〉   〝書籍之部                            一 江戸名所図絵 二拾冊 代金三両          (斎藤月岑著 長谷川雪旦画)    一 都名所図絵  拾一冊 代金二両永八拾三文三分   (秋里籬島著 竹原春朝斎画)    一 都林泉     六冊 代金三分          (秋里籬島著 西村中和等画)    一 花洛名所図絵  八冊 代金一両二分        (木村明啓著 松川半山画)〈『花洛名勝図絵』か〉    一 摂津名所図絵 拾二冊 代金一両二分永百六拾六文七分(秋里籬島著 竹原春朝斎画)    一 東海道名所図絵 六冊 代金一両永百六拾六文七分  (秋里籬島著 竹原春朝斎・北尾政美等画)    一 木曾名所図絵  七冊 代金一両永百文       (秋里籬島著 西村中和画)    一 大和名所図絵  七冊 代金一両永百文       (秋里籬島著 竹原春朝斎画)    一 河内名所図絵  六冊 代金二分永百六拾六文七分  (秋里籬島著 丹羽桃渓画)    一 和泉名所図絵  四冊 代金一分永二百拾六文七分  (秋里籬島著 竹原春朝斎画)    一 近江名所図絵  四冊 代金一分永百六拾六文七分  (秦石田・秋里籬島編 蔀関月・西村中和画)    一 東都歳時記   五冊 代金二分          (斎藤月岑著 長谷川雪旦画・松斎雪堤補画)    一 尾張名所図絵  七冊 代金一両一分永五拾文    (岡田啓・野口道直撰 小田切春江画)    一 播州名所図絵  五冊 代金一分永二百六拾六文七分 (村上石田著 中井藍江画)    一 利根川図志   六冊 代金二分          (赤松宗旦著 葛飾北斎二世等画)    一 成田名所図絵  五冊 代金二分永百六拾六文七分  (中路定俊著 長谷川雪提画)    一 山海名物図絵  五冊 代金一分永百六拾六文七分  (平瀬徹斎編 長谷川光信画)    一 山海名産図絵  五冊 代金一分永百五拾文     (蔀関月画)    一 国産考     八冊 代金一分永二百文      (大蔵永常著)    一 養蚕秘録    三冊 代永二百四拾一文七分    (上垣守国著 西村中和・速水春暁斎画)    (中略)    一 北斎漫画   拾四冊 代金一両一分永八拾三文三分 (葛飾北斎画)    一 北斎画譜    三冊 代金一分永四拾一文七分   (葛飾北斎画)    一 浮世画譜    三冊 代金一分永二拾五文     (初二編 渓斎英泉画・三編 立斎広重画)    一 万職図考    五冊 代金二分          (二代目葛飾戴斗画)    一 北斎画本    一冊 代永百二拾五文       (葛飾北斎画)    一 武蔵鐙     一冊 代永百二拾五文       (葛飾北斎画)    一 万象写真図絵  三冊 代金一分永三十三文三分   (歌川貞秀画)    一 花鳥山水    五冊 代金一分永五拾文      (葛飾北斎?葛飾為斎?)    一 為斎画式    二冊 代永百四拾一文七分     (葛飾為斎画)    一 后素画譜    一冊 代永七拾五文        (鷦巣居士画)    一 絵本錦之嚢   一冊 代永九拾一分七分      (渓斎英泉画)    一 絵本龍之部   一冊 代永九拾一文七分〟     (未詳)    〈この元価帳の作成年代は慶応二年と思われる。北斎の絵手本が圧倒的に多い。このリストアップは、上出のごとく「フ     ランスの公使ロッシュとレセッフ(貿易商人か)の要請を受けて」とあるから、フランス側の意向に沿ったものなので     あろう。「代永」の「永」は文久永寶の略であろう。文久永宝は4文銭。慶応元年の「増歩運用令」によると文久永寶     は8文、慶応四年(明治元年)には16文に通用とある。なおパリ万博での売値は『徳川昭武滞欧記録』第三(p504)     にフランス貨幣の価格で出ている。下掲参照〉    ◯『藤岡屋日記 第十三』(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記)   ◇仏国万国博覧会 ⑬436   〝慶応二寅年二月廿八日 町触      仏国博覧会ぇ可差送品書    男女、木綿又ハ絹手袋・足袋・襟巻・織物各種・麻絹・酒類・醤油・油類・茸菌陰食物類・烟草・茶・食    物ニ用る粉・餅数種・野菜もの・菓子之見本・留製之飲物・唐銅・水晶・不二石・紋石・瑪瑙石・其候堅    石各類・建物之雛形・紙之木各種・油製する木・木綿・柏之一旨(ママ)・并桑見本・木綿・日本産之穀之各    種・半故(ママ)麻・芋・菜種・栗・懐中物・烟草具・彫根付・団扇・男女化粧道具・鏡・駕籠類・人形・楽    器・楊弓・花(空白)・塗物各種・錦絵・下駄・雪駄類・飯道具・絵本・独楽・屏風・懸物・釣鐘・農具    ・画図・鋳物細工・画帖・画巻物等・象牙(空白)等之彫刻物・細工花面紙・絹地・木葉へ認し画・手記    等之書冊・木判之書籍・字印を記金(空白)之数書筒紙(以下略)〟     ◇春画 ⑬465   〝三月廿三日 町触     今日拙者共、北御番所ぇ御呼出し有之、罷出候処、今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮世    絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニても、    右絵御入用ニ付、売物ニ無之、所持之品ニても宜、御買上ニ相成候義ニは無之、御見本ニ御覧被成度候間、    早々取調、明後廿五日可差出旨被仰渡候間、御組合内其筋商売人手許御調、同日四ッ時、右品各様御代之    衆ぇ御為持、所持主名前御添、北御腰掛ぇ御差出可被成候、無之候ハヾ、其段同刻、御同所迄御報可被成    候。     三月廿三日                                 小口世話掛      右、古今異同を著述    夫、わらい本ハ春画と言て、戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候得共、若き男女是を見    る時ハ、淫心発動脳乱して悪心気ざす故ニ、此本余り錺り置、増長する時ニハ御取上ゲニ相成、御焼捨ニ    相成候、其品が、此度御用ニて御買上ゲニ相成、仏蘭西国ぇ送給ふ事、余りニ珍敷事なれバ、      母親の子に甘きゆへ可愛がり末ハ勘当する様になし〟    〈錦絵の収集を担当することになった外国奉行の依頼を請けて、江戸町奉行が浮世絵の供出を呼びかけた町触である。肉     筆・版画・版本を問わず、絵柄も美人画・風景画、加えて春画も可という間口の広い呼びかけであった。役所仕事であ     るから、収集品のリストは作成されたとは思うのだが、実際どの程度集まったものかよく分からない。ただ下掲慶応三     年二月付「博覧会出品目録書」によると、実際にパリに贈られた浮世絵関係については、『江戸名所図絵』や『北斎漫     画』のような版本類が合計28部、錦絵が5500枚と記載がある。しかし肉筆類については出品されたとは思うのだ     が、画題や画工名は分からない。また春画が実際に送られたかどうかについてもこの目録上からはよく分からない。な     お幕府(外国奉行)が浮世絵師に命じて画かせた肉筆浮世絵は別にあり、これについては絵柄や画工名が分かっている。     (下掲「四 浮世絵画帖の件上申書」参照)ここに云う肉筆は市中から調達したものである。ところでこの豊国は元治     元年に亡くなった三代目で初代国貞である(四代目豊国は明治三年頃二代目国貞が襲名した)〉    ◯『徳川昭武滞欧記録』第二(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)   ◇慶応二年四月二日「四 浮世絵画帖の件上申書」p415(「徳川民部大輔欧行一件付録 巻十三」)    (勘定奉行・外国奉行連名、町奉行および御細工頭への断書)   〝一 浮世絵画帖  三帖 但一帖五拾枚ッヽ    右(浮世絵画帳)は市中浮世絵師共に無之候ては出来不致趣に付、町奉行にて引請為相認、絵様之儀は私    共ぇ承り合候様、同奉行へ被仰渡被下度、仕立之儀は御細工所にて御出来相成仕候(後略)〟    〈当局は町方を使って上掲「錦絵」等を収集する一方、「草花之写真」と「浮世絵」とを(図様は下掲四月十九百付「覚     書」参照)御用絵師に画かせ、御細工所で画帖に仕立てる方針であった。ところが、御用絵師側の意向を受けたのであ     ろうか、御細工所からは「市中浮世絵師共に無之候ては出来不致」との申し入れがあった。そのため当局は、市中を管     轄する町奉行を通して浮世絵師に作画を依頼することになった。その結果、選抜された浮世絵師が下掲の十人である。     2021/03/25 一部修正〉        ◇慶応二年四月「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」p418(同上)    (パリ万国博覧会に出品する「浮世絵画帖」三帖(百五十枚)の画工に関して、町奉行・池田播磨守から     勘定奉行・小栗上総介等に宛てた文書)    〝浮世絵師重立候者名前     本町二丁目   孫兵衛地借 万吉事  芳艶     米沢町一丁目  重兵衛地借 幾二郎事 芳蔵(ママ)〈芳幾の誤り〉     上槙町会所屋敷 清助店   八十吉事 国周     南伝馬町壱丁目 平右衛門店 辰五郎事 芳虎     桶町二丁目   治郎兵衛店 米次郎事 芳年     瀧山町     国蔵店   鎮平事  立祥〈二代目広重〉     露月町     平蔵店   治郎吉事 芳員     深川御船蔵前町 吉郎兵衛店 兼次郎事 貞秀     亀戸町     家持    清太郎事 国貞〈二代目国貞〉     同町      久蔵店 国次郎方   国輝〟      〈芳艶は、この年慶応二年の六月二十二日に亡くなるので、この浮世絵が絶筆になろうか。町奉行池田播磨守は町年寄や     町名主に打診してこの十名を挙げたのであろう。なお下掲井上和雄著『浮世絵師伝』の記事には「慶応二年、幕府より     仏国博覧会へ出品の為め、浮世絵師十一人に命じて画帖を揮毫せしむ、其うち芳宗と彼(貞秀)とは、仲間の総代を勤     めたりき」とある。しかしこの文書に芳宗の名はない。残念ながら本HPは井上和雄が拠った史料を未だ確認し得てい     ない。さて担当の外国奉行が浮世絵師に依頼した浮世絵の図様は次の通り〉     ◇慶応二年四月四月十九日付「八 浮世絵引合覚書」p422(同上)    〈浮世絵の図様は次の通り〉   〝浮世絵画帖三帖之内     一帖は 但し五拾枚    一 官女    一 諸侯奥方   一 同娘     一 後室     一 年寄    一 中老    一 局      一 島田部屋子  一 児子部屋子  一 武家奥方    一 同娘    一 町家女房各様 一 同娘各様   一 機械武家妾  一 町屋妾    一 大原女   一 茶摘女    一 江戸芸者各様 一 京芸者各様  一 京舞子    一 踊り師匠  一 茶屋女    一 田舎娘    一 神子     一 京中居    一 甲(ママ)乙女 一 女音曲師匠  一 京女郎女様  一 江戸女郎各様 一 禿    一 京娘    一 鳥追     一 子守     一 尼      一 機械女    一 多門    一 下女     一 塩汲海士        一帖は 但し同断    一 正月年礼之図  一 三月雛祭之図 一 五月幟之図  一 七月棚機祭之図    一 九月重陽之図  一 向島花見之図 一 両国花火之図 一 同所納涼之図    一 浅草歳之市之図 一 花廓桜之図  一 同所灯籠之図 一 猿若街之図    一 山王神田祭礼  一 天王祭          一帖は 但し同断    一 上野   一 不忍池  一 増上寺   一 霞ヶ関   一 日本橋    一 亀井戸  一 同所萩寺 一 瀧の川   一 梅やしき  一 深川八幡    一 日暮里  一 柳島妙見 一 永代橋   一 目黒新富士 一 御殿山    一 洲崎弁天 一 飛鳥山  一 九段坂遠望 一 東橋    一 橋場    一 高輪   一 愛宕山  一 広尾原   一 綾瀬    一 十二社    一 王子稲荷 一 品川   一 真乳山   一 お茶の水  一 神田明神    一 花やしき 一 芝浦   一 池上    一 駿河町富士 一 佃島    一 湯島   一 根岸   一 小金井   一 目黒    一 鎧の渡し    一 海晏寺  一 洲崎汐干 一 堀之内   一 芝神明   一 道灌山遠望    右之類にて取捨いたし認方之儀御申渡之事    〈これらの「浮世絵」を上掲の浮世絵師に画かせ、取捨して画帖三帖に仕立てる予定であったが……)     ◇慶応二年四月廿五日付「九 浮世絵画帖の件 勘定奉行等より上申書」p425(同上)   〝(前略)三帖にては画数も多相成、急速出来かね可申哉奉存候間、一帖相減じ二帖御出来相成候様仕度、    右之段町奉行、御細工頭ぇ被仰渡可被下候、依之此段申上候 以上〟    〈そもそも画数が多い上に納期(五月末迄)との関係もあって結局二帖ということになった。文書十二~十五によると、     画材は「𥿻(絹)」。寸法は竪一尺五寸・横一尺八寸六分とある。無論肉筆である〉     ◇慶応二年五月十五日付「十五 浮世絵画帖の件博覧会掛引合覚書」p430(同上)   〝一 浮世絵画帖之儀は一枚毎に画工名印等認加候儀に候哉    一 人物并原色共是亦一枚毎に断書致し候儀に候哉〟    〈町奉行が博覧会掛りに伺いを立てていた。絵一枚ごとに落款を入れるのか、また人物や色に関する断書(これは上掲の     例でいうと「官女」といったコメントや色に関する説明のことであろう)は記入するのか。当局の回答は、落款可・断     書不要というものであった。こうした伺いが出たところをみると、あるいは町奉行や浮世絵師たちは、依頼された仕事     内容を、表現に重きをおいた作画ではなくて、市中風俗を外国に紹介するための作画、つまり資料作成のための作画だ     と受け取っていたのかもしれない。ともあれ七月、百枚の絵が御細工所に回され、裏打ち等がなされて、八月には仕立     が終わった〉     ◇慶応二年八月九日付「十八(浮世絵画帖の件)細工所より外国方への照会書」p433(同上)   〝一 浮世絵 百枚    但、肌うら染唐紙文七紙にて三へん裏打、増裏大美濃紙にて打立、鏡板木地椴、大美濃にて下張、半紙袋    張致し、画四方裁合張立、椽木地桧黒塗、煮黒〆椽〆鋲打立、煮黒〆釣釻二ヶ所縁下にて目貫にて留    右之通仕様取極可申哉、及御相談候、以上〟    〈鏡板・椽(ふち)木地・締め鋲・締め釣(吊)釻などの用語をみると、一点ずつ額仕立てにしたのである。下掲慶応三年二     月付「博覧会出品目録書」の「浮世絵額」とあるのがこれである〉  ◯「浮世絵師追考(一)」如来記(『読売新聞』明治30年(1897)1月25日記事)   〝慶応二年五月九日の事なり、当時の町奉行池田播磨守より異国へ絵師十人をして格一枚宛画かしむ。其選    に当りしは芳艶・芳年・芳幾(現存)・芳員・芳虎・貞秀・国貞・国周(現存)・国輝(◯◯国輝)・立祥(二    世広重)の十名にて、当時現存する者は僅に芳幾、国周の両工のみ、而して当時此の十美人画中、好評なり    しは芳艶芳年の両名にて、特に芳艶は最も出群なりしと〟    ☆ 慶応三年・丁卯(1867)    ◯『徳川昭武滞欧記録』第三(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)   ◇慶応三年二月付「博覧会出品目録書」p394「価附帳 貳」504・506    (外国奉行が収集した出品目録およびその売値)    ※(  )は売値。黒と朱書きがある場合は朱書きの方を採った。フはフラン・サはサンチュームの略   〝書籍之部    江戸名所図絵 二拾冊 (34フ29サ)  都名所図絵   拾一冊 (24フ13サ)    都林泉     六冊 (9フ32サ)   花洛名所図絵   八冊 (17フ64サ)    摂津名所図絵 拾二冊 (16フ21サ)  東海道名所図絵  六冊 (13フ95サ)    木曾名所図絵  七冊 (10フ69サ)  大和名所図絵   七冊 (13フ21サ)    河内名所図絵  六冊 (6フ48サ)   和泉名所図絵   四冊 (記載なし)    近江名所図絵  四冊 (記載なし)    東都歳時記    五冊 (6フ55サ)    尾張名所図絵  七冊 (15フ43サ)  播州名所図絵   五冊 (8フ96サ)    利根川図志   六冊 (6フ55サ)   成田名所図絵   五冊 (記載なし)     以上拾六部名所を記せる書    山海名物図絵  五冊 (記載なし)    山海名産図絵   五冊 (記載なし)    国産考     八冊 (記載なし)    養蚕秘録     三冊 (記載なし)    本草図絵    六冊 (8フ40サ)   山繭養法秘録   一冊 (記載なし)    (中略)    北斎漫画   拾四冊 (15フ80サ)  北斎画譜     三冊 (15フ24サ)    浮世画譜    三冊 (3フ6サ)    万職図考     五冊 (6フ50サ)    北斎画本    一冊 (記載なし)    武蔵鐙      一冊 (2フ39サ)    万象写真図絵  三冊 (記載なし)    花鳥山水     五冊 (記載なし)    為斎画式    二冊 (記載なし)    后素画譜     一冊 (1フ)    錦之嚢     一冊 (1フ3サ)    龍之部      一冊 (1フ3サ)     以上拾二部画式之書    〈以上の売値は「元価に三割八分七五を掛」たものの由である。(p409)以下は目録のみで売値は見あたらない〉    (中略)    図画之部    浮世絵額   一   同   同    同      同   同   同〟    〈上記のような「浮世絵額   一」の記述が以下続く。合計すると全部で百二個あり。この数は上掲浮世絵師たちに請     け負わせた「浮世絵画帖」の百図に相当するように思う。ただ、なぜ二個余分になるのかはっきりしない〉         (「商人共より差出候品目録書)〈清水卯三郎が収集した出品目録)   〝図画之部    八百九十六 一 錦絵  五百枚    八百九十七 一 同  同    八百九十八 一 同   同      八百九十九 一 同  同    九百    一 同   同      九百一   一 同  同    九百二   一 同   同      九百三   一 同  同    九百四   一 同   同      九百五   一 同  同    九百六   一 同   同〟    〈八百九十六から九百六は目録上の番号。五百枚づつ十一番あるから、錦絵の合計は五千五百枚。町方の商人が収集して     差し出したものである。上掲『藤岡屋日記』にある町触れから約一年、町触れの効果のほどはよく分からないが、また     期待した分量に達したのかもわからないが、ともかくパリ万博に向けて五千五百枚納品されたことは確かである〉    ◯『徳川昭武滞欧記録』第三(日本史藉協会叢書編・東京大学出版会)   ◇慶応三年十一月十九日付「二 雑品送付に関する一件書類」p174(「徳川民部大輔欧行一件付録 巻十九」)    (徳川昭武の欧州滞在中の御用品リスト、浮世絵関係のみ収録)   〝一 三都絵図 各拾  但、江戸 京 大坂 十充 代金三両永三十五文    一 錦絵   二百枚 但、源氏絵七十九枚 江戸名所絵三十枚 東海道絵五十五枚                  富士各(ママ)所絵三十六枚 代金一両三分永三百五十文〟   〈この二百枚は欧州滞在中の徳川昭武一行に向けて送られたものである。この時半紙三百帖・墨五挺・筆百本・扇子百本な    ども共に送られている。おそらく贈答用なのだろう。西洋人への挨拶がわりとして、これらが重宝したのだろう。前年日    本を発つ時にもこれらを持参していったものと思われるから追加注文なのかもしれない。なお、源氏絵七十九枚とは、柳    亭種彦作・歌川国貞画の大ベストセラー合巻『偐紫田舎源氏』に取材したいわゆる源氏絵ばかりであろうか、遊女絵も含    んだ美人画を「源氏絵」と総称したのではないだろうか。あとはすべて風景画。当時圧倒的な人気を誇っていた役者絵が    入っていない。当然西洋人の意見を参考にして選らんだものと思われるが、いったい誰がどのような基準で選んだのであ    ろうか。具体的な作品名や絵師名が伝わっていないのが惜しまれる〉      ◯『浮世絵』第十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵研究用年表(一)」慶応三年   〝此年仏国巴里にて開催したる万国博覧会へ、江戸歌川派の浮世絵師の筆に成れる絹地の画帖を出品す、其    図は美人画五十張、江戸名所画五十張、都合百張にていづれも極彩色の物なりしと云ふ、画者は左の十一    名なり     芳艶 三輪氏  芳幾 落合氏  芳貞 一葉斎  芳峰 武部氏     芳虎 笹本氏  芳年 月岡氏  国輝 岡田氏  国周 豊原氏     国貞 竹内氏  貞秀 橋本氏  立祥(三代広重)    此十一名中、芳艶は右の出品絵を描き了りし翌月、即ち慶応二年六月二十二日、享年四十五にて没せり、芳幾は明治三十    七年二月六日、享年五十四にて没し、国輝は明治七年に四十五、国周は同三十四年に六十七、国貞(二代目)は四世豊国と    改めて明治十三年七月二十日、五十八歳にて没せり、立祥(後藤重政)は明治二十年後まで生存せしと聞く〟    〈立祥は三代広重とあるが二代目。慶応二年の上掲「慶応二年四月「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」     の立祥の俗称鎮平より二代目と見た。(9月刊16号で二代と訂正)している。慶応二年の文書と比較すると、異同がある、     芳員のところが一葉斎芳貞となり、新たに芳峰が加わって十一名となった。この『浮世絵』記事は何に拠ったのであろ     うか。また絵師の総代を勤めたという芳宗の名も見当たらない〉  ◯『浮世絵師伝』(井上和雄編・昭和六年(1931)刊)   (「国立国会図書館デジタルコレクション」p75 所収)   〝(貞秀の項)慶応二年、幕府より仏国博覧会へ出品の為め、浮世絵師十一人に命じて画帖を揮毫せしむ、    其うち芳宗と彼とは、仲間の総代を勤めたりき〟    〈上掲慶応二年四月「七 浮世絵師の件町奉行より勘定奉行への照会書」に芳宗の名は見えない。キャリアからすれば芳     艶以下の五人より芳宗の方が長いし、彼らの兄弟子筋にもあたるから選抜されて当然であろうが、なぜかこの文書には     芳宗の名がない〉