☆ 延享元年(1744)
◯『放歌集』〔南畝〕②188(大田南畝著・文化九年(1812)四月記)
〝江戸芝神明前に江見屋元右衛門と云草子やあり。三代目上村吉右衛門といふもの、延享元年甲子三月十
四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色を梅酢にてときそめ、また板木の左に見当といふものをなして
一二遍ずりの見当とす。今にいたるまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、
又団扇に大文字屋□(ママ)の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘左衞門といふものに贈りしより、今の五
代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今その流
れをくみて源をたづね、末をみて本をわすれざる人々にあたふるものならし
くれないの色に梅酢をときそめて色をもかをもする人ぞする〟
☆ 文化八年(1811)
◯『一話一言 巻三十六』〔南畝〕⑭402(大田南畝・文化八年(1811)四月記)
〝錦絵の始め 燕石雑志
錦絵は明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの板摺何がしをかたらひ、板木に
見当をつくる事を工夫して、はじめて四五へんの彩色摺を製し出せしと、金六みづからいへり。かの金
六、文化元年七月身まかりぬ【燕石雑志にみゆ】〔【欄外。此説非ナリ、見当ハ延享元年江見屋上村吉
右衛門工夫也。故に今に見当ノコトヲ上村ト云】〕〟
〈『燕石雑志』は滝沢觧(曲亭馬琴)の雑録で文化八年正月の出版。この大田南畝の記事は「わがをる町」の項目にあ
る。二行割り書きの欄外注がいつのものか分からないが、金六の証言をそのまま載せた馬琴説を否定した〉
☆ 文化九年(1812)
◯『放歌集』〔南畝〕②188(大田南畝著・文化九年(1812)四月記)
〝江戸芝神明前に江見屋元右衛門と云草子やあり。三代目上村吉右衛門といふもの、延享元年甲子三月十
四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色を梅酢にてときそめ、また板木の左に見当といふものをなして
一二遍ずりの見当とす。今にいたるまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、
又団扇に大文字屋□(*ママ)の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘左衞門といふものに贈りしより、今の五
代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今その流
れをくみて源をたづね、末をみて本をわすれざる人々にあたふるものならし
くれないの色に梅酢をときそめて色をもかをもする人ぞする〟
☆ 文化十三年(1816)
◯「国書データベース」(文化十三年刊)
◇教育『子供早学問』巻末出版目録
「江戸錦絵之元祖 馬喰町 本問屋 江見屋吉右衛門板」