Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えま(へんがく) 絵馬(扁額)浮世絵事典
 ☆ 貞享四年(1687)    ◯『男色大鑑』巻五・五 井原西鶴作・貞享四年(1687)   〝玉村吉弥が情にて、命捨し人数をしらず、江戸中寺社の絵馬に、吉弥面影を乗掛に、坊主小兵衛が馬子    の所、是を見てさへ恋にしづみ、今に世がたりとはなりぬ〟    〈小学館の『日本古典文学全集』の『井原西鶴集(2)』の巻末「『男色大鑑』登場役者一覧」によると、玉村吉弥は万     治~寛文年間(1658-73)の役者で、晩年江戸に移って女役から立役になったと伝えられ、延宝初年には姿を消してい     るとある〉  ◯『江戸鹿子』(藤田理兵衛著 貞享四年(1687)刊)〔国書DB〕   ◇絵馬屋   〝大坂屋 浅草かや町一丁目  太田屋 同左〟  ◯『江戸惣鹿子名所大全』巻の六(藤田理兵衛著・菱川師宣画 元禄三年(1690)三月刊)   (『江戸叢書』巻四 国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇絵馬屋   〝大坂屋 浅草かや町一丁目  太田屋 同左〟  ☆ 宝永年間(1701~1710)  ◯『譚海』巻之五 津村正恭著 寛政七年自跋(国書刊行会本 大正六年刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝金龍山浅草寺境内 弥惣左衛門稲荷の社頭に、宝永年中奉納せし絵馬あり、菱川某の絵にて境(ママ)町芝    居の図をゑがきたり、其頃の芝居の体今見るが如し、三階の桟敷あり、戯者の風俗も甚だ古質なるもの    也、此外に宝永の絵馬社頭に多し、めづらしき観物也、力士二人碁を囲みたる体にて、甚だ勇猛にみゆ、    側に少人麻上下にて傍観の体をゑがけり、駒形若者中奉納としるし在り(云々)〟    〈浅草寺境内の絵馬、図柄は中村座芝居図と力士の囲碁対局図。力士の方も浮世絵師の手になるものと思われる〉  ☆ 年次未詳  ◯「菱川師宣画譜」(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十二年七月(1909)刊)   (『浮世絵鑑』第一巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)   ※半角(~)は本HPの注記   ◇菱川師宣   (宮武外骨が引く梅風子著『浮世絵師系伝』記事の抄録)   〝(安房)元名村大福山日本寺(山号鋸山)に堀川夜討 絵馬 師宣画 一枚    隣村吉浜村神明社前 夜討曽我 絵馬 師宣画 一枚〟    〈千葉鋸山の日本寺と鋸南町の吉浜神社。いずれも師宣の生地・安房安田村に近い寺社だが、果たして誰がどのような     ゆかりがあって寄進したのだろうか〉  ☆ 宝暦四年(1754)  ◯「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬」(上・下 木村捨三著『集古』所収 昭和十六年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』辛巳(1-2 176-7)より収録)   ◇上「奈良西大寺愛染明王開帳時の奉納物」   「矢之根五郎絵馬」高さ六尺 幅三尺八寸 縁幅二寸一分   (額の右端)「江戸境町中村座」 (同左端)「宝暦四甲戌四月」   (同下方)「画工鳥居清信〔清信〕印」   (裏面)「当寺愛染明王 武州江府本所回向院ニ而/開帳二之室高淳出情ニ而開帳有之候節江戸/田所町    田所平蔵依信心 万事被致世話勿論/狂言座中村勘三郎芝居相勤候市川海老蔵/右開帳狂言に仕組当寺    愛染尊之御形チニ現シ/分身矢根五郎ニ罷成愛染尊開帳之儀見物之/大勢江弘メ海老蔵儀茂依信心開帳    中参詣相詰/依之矢根五郎絵馬田所平蔵以取次ヲ勘三郎/小札場大木戸之者共より奉納仕候       宝暦四年戌載 六月吉辰日〟   〝(この絵馬の画工鳥居清信について)初代清信は享保十四年七月廿八日に没してゐるから、この絵馬を    かいたのは、当然後の清信でなければならぬ。(二代清信の)没年を宝暦二年とすると、今回西大寺で    見いだした絵馬の作成時(宝暦四年甲戌四月)と矛盾する〟   ◇下「法成寺過去帳に見ゆる鳥居派の人々」   〝宝暦二年以後の清信落款の版画は、同六年秋、中村座「菅原伝授手習鑑」市川海老蔵の菅相丞(雷神)と、    同十年十一月、市村座「梅紅葉伊達大関」四代市川団十郎の国妙(暫)の細絵二枚が、歌舞伎図説第八編    に出てゐる。さうすると宝暦四年に画いた西大寺の絵馬といひ、黒本から見た水谷氏説といひ(上にあ    り)、この役者絵といひ、何れも宝暦二年以後にも清信なるものが存在してゐたことが証せらる。(た    だ、諸書の鳥居派系図や鳥居家の法成寺過去帳等に照会してみたが、この宝暦四年の清信と目される人    物を見いだすことができなかった。したがって今後の研究に期待したいとしている)    元来鳥居家は絵馬を画くを以て本業としてゐたのではあるまいか、また清元は貞享四年に俳優を志して    大坂から下つたのでなく、寧ろ絵馬かきとして江戸に来たのではあるまいか。    元禄五年版の『三合集覧』に「江戸之分 絵馬 浅草橋【かや丁二丁目】大坂や 同所太田や」とある。    殊に大坂屋とあるにおいて、これらの業者は大抵上方を出自としてゐることが合考され、牽て大坂出身    の清元が何を希望して東下したかも連想されるのである。    しかして清元の子清信も、父の業を受継いで絵馬を書いたことは、式亭三馬の日記『式亭雑記』文化八    年四月朔日に、雑司谷鬼子母神境内の稲荷祠で見た二朱判吉兵衛所納の絵馬に「正徳六歳丙申五月五日    絵師鳥居清信」とあつてその見取図も出てをり、山形県米沢市某社の草摺引の絵馬に「享保八癸卯大九    月吉祥日、米沢町木島氏」と記せる鳥居風のものが『日本画大成』に載つてゐる。次に千葉県那古観音    堂の草摺引の絵馬には「享保十年四月十五日、武州江戸本船町島津屋四郎兵衛」とあり、前記の米沢某    社のものより、上作の鳥居風の絵馬である。また清信の落款を有するものに、福島県守山町田村神社の    大江山酒呑童子の絵馬があるなど、これを証して余りある。    要するに局限された大きさの中に、巧みに人物を配し、しかも高所にかゝげて衆目を牽くを本旨とする    絵馬は、その描線も自らして剛健に、その表情もまた誇張されねばならぬ。さうした骨法を会得してゐ    る清元が、共通の目的を有する芝居絵看板にも執筆したことは、寧ろ当然の帰結であると言はねばなら    む。それが清信に伝はり、その傍ら版画にも従事し、遂に菱川氏に代つて町絵師の領袖となり、庄二郎    の清倍をはじめ、庄三郞、五郎兵衛等を羽翼として、本業の絵馬(既製品もあつたらう)から、所謂副業    の芝居看板、役者絵、小説挿絵にまで及んだものであらう。殊に宝暦に入つては、看板の数も多くなり、    且つ形も大きく、その上に番附、絵草紙、せりふ廻し、ほめ言葉、唄本等々の多数に上り、その顔見世    直前の如きは、切迫した日時の間に沢山の画稿を作らねばならぬ多忙さであり、その間に新春の黒本、    青本、役者絵にも執筆するなどの全盛期であつたので、昔からの家業であつた絵馬屋とは、段々縁遠く    ならうとする際に、前掲の西大寺矢之根五郎絵馬が存在してゐることは、たゞに芝居絵として観賞しべ    きのみならず、過去帳の記載と思ひ合せて、浮世絵師の社会生活を知る重要資料といふべきであらう〟  ☆ 天明三年(1803)  ◯『江戸時代文化』第一巻第二号 昭和二年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「口絵解説」三村清三郞    目黒成就院(蛸薬師)絵馬「碇に蛸」北尾重政画 願主 勝俣言珍 天明三年九月奉納〟  ☆ 天明七年(1807)  ◯『江戸芝居年代記』〔未刊随筆〕⑪239(著者未詳 天明七年記)   (同年十一月、桐座顔見世興行『三ヶ荘◎花嫁』記事)〈◎は口+幽〉   〝今年顔見世、当座役者付を額にいたし、鳥居清長筆に而、浅草観音と薬研堀不動へ奉納いたし候〟  ☆ 寛政八年(1796)  ◯「司馬江漢の愛宕山奉納扁額」『若樹随筆』巻八 林若樹著 p223   〝相州鎌倉七里浜図 「西洋画士 東都 江漢司馬峻描写[Kookan](サイン)」    寛政丙辰夏六月廿四日〟  ☆ 寛政九年(1797)  ◯『桐の島台』(八文字屋自笑作 流行斎画 八文字屋八左衛門板 寛政九年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝神社仏閣奉納之分 願主 嵐三五郎    安永五年申九月吉日  江戸 王子稲荷大明神 千本桜道行出半(?)の絵馬  鳥居清満画    安永八年亥十月吉祥日 京  安井金比羅   信仰記役割の画馬     鳥居秀満画〟  ☆ 寛政十一年(1796)  ◯『西洋画談』巻末〔大成Ⅰ]⑫489(司馬江漢著 寛政十一年序)   (巻末「春波楼蔵版目録」)   〝「司馬江漢の絵馬」    一 東都芝愛宕山左の方に相州七里浜の額一面掛る 〈寛政八年、愛宕山に奉納されたもの〉    一 同 芝神明宮の左方に鉄炮洲より芝浦を望むの額一面掛る    一 京都祇園社内の神楽場に駿州薩陀富士の額一面掛る    一 大阪生玉本地堂の正面に和蘭人物及び七里浜額一面掛る    一 予州宇和島和霊明神社に播州舞子が浜の額一面掛る     右先生西洋法を以て図するものなり       寛政己未秋七月佳節      司馬江漢門人誌〟     〈己未は寛政11年。これまで江漢が西洋画法で画いた奉納額のリスト〉  ☆ 文化二年(1805)  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇歌川豊春(下24/110コマ)   〝文化二年豊春は押上春慶寺の普賢堂の額を画く、其図は日蓮上人龍の口遭難の所なり〟    (『読売』紙上局外閑人記事)  ☆ 文化七年(1810)  ◯『江戸時代文化』第一巻第二号 昭和二年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「口絵解説」三村清三郞     目黒成就院(蛸薬師)絵馬「矢の根五郎」鳥居清長筆 願主 しんば和泉屋半治郎 文化七年六月奉納〟  ☆ 文化八年(1811)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(式亭三馬記)   (四月一日、式亭三馬実見記)    氷川明神本社 小石川      額「曽我五郎と朝比奈三郎の草摺引」宗之画 享保四年、小石川七軒町奉納      三馬曰く「画法、頗る鳥居家の大和絵に似たり」    護国寺本堂 音羽      三馬曰く「四尺四面ばかりの額あり、遠目にはわきがたけれど、大和絵師菱川吉兵衛師宣が流儀と           覚ゆ」    鬼子母神本堂 雑司谷      額「草摺曳」奧村政信筆    同境内稲荷社               額「丹前狂言」元祖鳥居清信筆 正徳五年五月五日、中村吉兵衛奉納  ☆ 文化十二年(1815)  ◯『遊歴雑記』二編下(『江戸叢書』巻の四所収)   (国立国会図書館デジタルコレクション) 169/309コマ   〝雑司か谷鬼子母神の古絵馬    さくらの枝に鐘懸りて白拍子の立烏帽子をいたゞき、右に中啓を持てながむる絵馬あり    画は勝春、発句は中村富十郎自筆にしたゝめ捧げしと見ゆ      咲くからは龍頭にとゝけ山さくら 慶子拝書    右龍頭にとゞけといひしは、慶子その頃通(ママ)成寺の処作の当らん事を心願して捧げしと見ゆ〟    〈初代中村富十郎の『京鹿子娘道成寺』の踊り。「勝春」が落款なのだろうが、不明。勝川春章ならぴったりなのだが〉  ☆ 文政元年(1818)  ◯『紅梅集』〔南畝〕②348(文政一年七月下旬詠)  〝江島岩本院新居の額に辰斎の桜の画あり   蓬莱に桜をゑがく寿も江の島台の花にこそみれ  同じく紅葉のゑに  夕日影させるかた瀬の村紅葉みなくれなゐにうつしゑの島〟    〈南畝が相州江の島に立ち寄ったのは文化元年七月二十六日頃、長崎に赴任中であった。この時詩を賦しているが、辰     斎の奉納額には触れていない。それとも帰路の文化二年十一月十七日頃一見したのであろうか、しかしこれも記述は     ない。この時以外南畝が江の島に行った形跡はない。この狂歌の前後に配された狂歌は文政元年七月のものである。     奉納される前に絵を見て詠んだものか。いずれにせよ辰斎の作画時期は未詳〉  ☆ 文政二・四年(1819・1821)  ◯『扁額軌範』初・二編(合川珉和 北川春成模写・速水春暁斎編・袋屋佐七版 文政二年・同四年序)   (『扁額軌範』は清水寺と祇園社の絵馬を合川珉和と北川春成が模写したもの)    扁額軌範(合川珉和 北川春成模写 速水春暁斎編)(国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 天保三年(1832)    ◯『続諸家人物志』「画家部」〔人名録〕③183(青柳文蔵編・天保三年一月刊)   〝高嵩谷    名ハ一雄、一ニ屠龍翁ト号シ、嵩谷ト称ス。江戸ノ人。嵩之ノ門人ナリ。當時青藍ノ称アリ。尤山水ニ    長ジ、濃淡墨自ラ五色ヲ具フルガ如ク、甚ダ逸致アリ。中年ノ後、我邦ノ武者ノ図ニ刻意シテ、其画ヲ    求ル人至テ多シ。故ニ神社仏閣額匾ノ類極テ多シ。文化元年歳六十余ニシテ歿ス。楽只斎画譜、屠龍百    富士図ナドアラワス〟    〈寺社の扁額には嵩谷の武者絵が好まれたようだ。とりわけ天明七年(1787)、浅草観音堂に奉納された「頼政猪早太鵺     退治の図(源三位頼政鵺退治)」が有名〉  ☆ 天保四年(1833)  ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「堤等琳」の項 ③319   〝堤等琳 号深川斎、江戸ノ産也、叙法橋    二代目等琳の門人なり、雪舟十三世の画裔と称す、一家の画風、骨法を自立して、雪舟流の町画工を興    せしは、元祖等琳を以て祖とす、安永、天明の比より、此画風市中に行れて、幟画、祭礼の絵灯籠は、    此画風をよしとす、当時の等琳は、画風、筆力勝れて、妙手なり、摺物・団扇・交張の板刻あり、仍て    此に列す、筆の達者、尋常の板刻画師と時を同して論じがたし、浅草寺に韓信の額あり秋月と云し比、    三代目等琳に改名せし時の筆なり、今猶存す、雪舟の画法には不似異りといへども、彩色、骨法、一派    の筆力を以て、三代ともに名高し、画く所の筆意、墨色の濃淡、絶妙比類なき画法なり、末、京、大坂    に此画風を学ぶものなし、門人あまたあり、絵馬屋職人、幟画職人、提灯屋職人、総て画を用る職分の    者、皆此門人となりて画法を学ぶ者多し、門人深遠幽微の画法を得てせず、筆の達者を見せんとして、    師の筆意の妙処を失ふ者多く、其流儀を乱せり、世に此画法をのみ、町絵と賤めて、職画と云は嘆かは    しき事なり、雪山は貝細工等種々の奇巧を造りて見物させし事有、【大坂下り中川五兵衛、籠細工ノ後    ナリ】諸堂社の彩色も、多く此人の請負にて出来せし所有、【堀ノ内妙法寺、ドブ店祖師堂、玉姫稲荷、    其他多ク見ユ】近世の一豪傑なり〟    〈江戸市中の寺社には絵馬が、また祭礼・開帳等の野外行事には幟絵・燈籠絵・提灯絵などが付きものであったが、堤     流はそれらの作画を専ら担っていたようである〉  ☆ 安政二年(1855)  ◯『浮世絵』第七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「思ひ出すまゝ」可阿弥(21/25コマ)   〝(浅草観音堂奉納額 国芳画「一ッ家」)    浅草観音堂に奉額した国芳の一ッ家の額は、安政二年の春、新吉原の遊女屋岡本楼の主人から頼まれて    描いたもので、娘を菱川風に、観世音の化身は仏画に依つて、扨老婆は洋画を折衷した写生でやった、    あの老婆が娘の顎を上げて居る腕は故人落合芳幾の腕を写生したと云ふ、其れから観世音は右の手で頬    杖をついて居るが あの手が頬へぴたりと附いて居なくつて 二寸斗(ばか)り放れて居ておかしいと思    つたが今度梁の上へ納めたのを再び見に居たら、ちつとも手の放れて居ないように見へた、吾々には分    らないがこれが高い所へ上げる画法なんだそうだ、この色彩(いろざし)は同人の高弟で 彩色斗りやつ    て居た初代一松斎芳宗で、此人は国芳の始めての門葉で、互いに苦労をしあつた中なので 常に同人を    呼ぶのにも松さん/\と立てて居た〟  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (鳥山石燕の項)   〝小石川氷川社に樊会門破、湯島に草摺引、雑司谷鬼子母神に大森彦七等の額あり〟    〈「草摺引き」は月岑編『武江扁額集』本HP「浮世絵事典」【ふ】参照〉  ☆ 文久二年(1862)    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (『武江扁額集』は、江戸の神社仏閣の額堂に掲げられた扁額(横額)を、斎藤月岑が自ら摸写したもの.    本HP「斎藤月岑関係」に所収)      武江扁額集 斎藤月岑編(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 明治十六年(1883)  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「戊寅第四」(『集古会誌』昭和十三年第四号)   〝湯島天神の額堂に、明治十六年四月春木座興行に市川右団次が演じた天拝山の絵馬がある、左方に椽に    「古今稀成大入春木座帳元阪野久次郎」款記に「鳥井長八筆男清忠修復」とあるが、原画が紙本である    ため 今はそれすら破損して更に修理を要する程になつてゐる 物は新らしいが 神社の方でも保存法    を講じてもらひたいものである〟    〈この清忠は四代目。鳥居長八は清忠の父の清貞(明治34年没)。清貞が明治16年に画いた絵馬の修復を、実子の清忠が     おこなったのだが、その時期は不明〉  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「読売新聞」(明治23年10月17日付)   〝国輝大いに奮激す    真正の画伯は大画に巧みなりとは 数年以来画家社会に流行せる通語なるが 近頃パノラマ我国に輸入    してよりは 此の議論愈々(いよ/\)勢ひを加へ 浮世絵師共は大いに先輩の大画を穿鑿するよしなり    初代国輝と云ふは旧幕臣にて 本名を太田金次郎と呼び 名人二代豊国の一弟子にて 神田明神へ捧げ    たる神田祭の大額を画きて其の名世に高かりしが 不幸にして狂気したれば 師匠豊国は亀戸なる曲物    (まげもの)屋の伜山田金次郎を迎へて其の後を嗣がしめ 之を二代目国輝となしたるに 此の人また画    (ゑ)に巧みにして 浅草観音・亀戸天神へ力士の大額を捧げ 其の名先代に譲らざりしが 両人(りや    うにん)物古(ぶつこ)の後 深川霊岸町の岡田藤四郎其の後を承け三代目国輝となる 即ち現時の国輝    なり 此の人年若(としわか)なれ共 頗(すこぶ)る先代の気風を学び 嘗(かつ)て日蓮法力の図を画き    て 堀の内妙法寺へ納めしが 当時大画熱左(さ)まで激(はげし)からざりし為 敢(あへ)て其の巧拙を    言ふものなかりしも 近頃絵師の穿鑿に依りて 漸(やうや)く発見するところなりしに 其の出来先代    先々代に比して大いに劣等なり 然れども古来の絵師三代続きて 公衆の目に晒すべき大画をゑがきた    るは 此の国輝の外(ほか)またある事なしと噂さるゝ付 当代国輝は地にも入り度(た)き程耻(は)ぢ入    りて 其の后(のち)は大いに技芸を励み来たる 十二月十二日は代々の師・名人豊国の廿七回忌に相当    するを以て 此時までに一世一代の大画をゑがきて 会稽の耻辱を雪(すゝ)がんと 今より一心に準備    し〟  ◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国輝 二代 慶応三年一月、陣幕久五郎の土俵入を画きし絵馬 浅草寺に現存せり〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』明治30年(1897)2月15日記事)   〝暁斎翁遺墨の衝立    本郷湯島の天神社拝殿に置きある龍虎の図の衝立は 故猩々河鍋暁斎翁の筆にして 筆力勇健雲起り風    生ずるの勢ひあり 美術家の同社に参詣するもの 常に之れに注目し 中には数百金をかげて懇望する    ものもありとかや 然るに此衝立の裏面は年来白紙の侭にして 甚だ体裁悪しかりしかば 氏子中種々    評議の上 裏の絵を 暁斎氏の遺児暁雲氏と暁翠女史とに嘱し 暁雲氏は巌上に鷲の図を 暁翠女史は    瀑布の図を 夫々揮毫し 此程既に落成したりといふ 尚ほ暁雲氏の鷲は 氏が信州戸隠山中にて得し    実物を写生せしものなりとぞ 兎に角一双の衝立に父子兄妹揃つて毫を揮ひしこと 不思議の縁にこそ〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『東都絵馬鑑』山内生編 明治三十三年(1900)刊   (深川不動尊・神田明神・亀戸天神・鬼子母神・三囲神社・牛島神社・王子稲荷の絵馬)
   東都絵馬鑑 山内生編(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五(1926)年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝日高屋絵馬 158/162    『浅草寺志』によれば、昔は浅草見附門外茅町辺まで浅草寺の領域にて、茅町一丁目に大きな門があつ    て其門番の日高屋治郎左衛門と云ふ人 傍ら絵馬を商うた趣きが記されてゐる、何しろ此家は頼朝時代    からの旧家にて 猶今日迄連綿として続き、其時代の遺物なども宝蔵しある趣きである(『江戸名物詩    初編』方外道人著「日高屋絵馬」(狂詩)あり、省略。上掲参照)梶原景季は右府(源実朝)の命により     観音堂収繕の奉行として茲に出張し、此絵馬屋を宿所といしたと云ひ伝へられてゐる。     日高屋の自慢梶原様御用 (文政)     梶原は絵馬屋が内が旅宿也(文化)     梶原様の誂えと絵馬屋云ひ(寛政)     絵馬は出来たかと番場の忠太来る(天保)     矢筈の紋の上下を絵馬屋持ち(文化)     げじ/\を絵馬屋決して殺させず(文政)    など皆梶原との関係を云へる句にて、忠太は梶原の家来、矢筈は梶原の定紋、蚰蜒(ゲジ/\)は梶原の    異名にて、又一名梶原蟲などゝ称し人のいやがる蟲であるが、日高屋だけは其恩義に感じて決して殺し    たりなにかせぬとの義である      観音につゞきおれだと絵馬屋云ひ(文化)     一つ家の時分からさと絵馬屋いひ(文化)     一つ家の婆々ァも絵馬屋知つてゐる(文化)    例の石の枕で有名なる一つ家の鬼婆などは至極懇意であつたと意張る程、夫程古い家柄でる〟  ◯『浮世絵』第六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一筆斎文調の絵馬」(5/25コマ)   〝角筈十二社(そう)にある文調の絵馬は中々佳い出来である 巾六尺、丈五尺位で 市村亀蔵・大谷鬼次    ・尾上民蔵、中山富三郞等 八人斗り描いてある、社殿を昇つて内側の左側に納つて居るが 今の保存    法をよくしないと 段々絵の具が剥落しそうで剣呑で仕方がない〟    〈角筈十二社とは角筈村の熊野十二所権現社〉   ◇「カット代り」山兵衛著(12/25コマ)   〝藍川員正恭の随筆『譚海』巻之三に    「金龍山浅草寺境内 弥惣左衛門稲荷の社頭に 宝永年中奉納せし絵馬あり 菱川某の絵にて堺町芝居     の図をゑがきたり 其頃の芝居の体 今見るが如し 三階の桟敷なり 戯者の風俗も甚だ古質なるも     の也 此外に宝永の頃の絵馬社頭に多し 珍識観物也 又同所二王門外に地主の稲荷といふあり 是     にも元禄年中の絵馬あり 力士二人碁を囲みたる体にて 甚だ勇猛に見ゆ 側に小人麻上下にて傍観     の体を画がけり 駒形若者中奉納としるしあり云々」    菱川の絵馬 他にもありしが浅草のは多分焼失せしことならんか惜しむべし〟  ◯(『浮世絵』第八号 所収(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 上」相見香雨楼著   〝押上春慶寺の普賢堂の扁額     鳥居清満筆 五代目坂東彦三郞 大星由良之助図     歌川豊春画 日蓮上人龍口御難の図 竪五尺余 幅二間ほど 金地に極彩色          普賢像 巾六尺位〟   〈豊春画「日蓮上人龍口御難の図」の由来について、当時(大正三年)の住職が相見香雨に語った内容〉    「此の豊春の額は、寛政二年谷津会助といふものの寄進に係るものであるが、安政二年の地震に、天     井と共に墜落して、画面がいたく損したが為め 暁雲斎意信といふに、之が補修を托したのである、     而して もと豊春の落款もあつたのであるが、補修の際に意信はもとの落款の上へ金箔をおいて      今度は自分に名を入れた、額の裏にも何だか書いてあります」   〈この補修について、相見は次のように断ずる〉   〝妄りにもとの落款を塗抹して、補修した者が勝手に自己の名を入れるといふは、故人に対して無礼の罪軽    ろからず、よし暁雲斎が全然之をかき改めたとしても、その事由を記しおくべきものなり、此の落款いか    にも心なき業にして、惜みても尚あまりあるこどである〟  ◯『浮世絵』第十一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「雪光斎清元に就いて」兼子伴雨(15/25コマ)    〝 金龍山浅草寺の本堂に掲ぐる、関羽雲長の扁額がある。即ち本堂の左り、魚がしの大提灯に対して右    の方にあたる中央の欄間に懸けられたものが、それである。     筆者雪光斎清元と云ふ人は、鳥居派の画家で、按ずるに清元の画号は、鳥居派の初代清信の父の画号    である、雪光斎清元はこの画号の二代目を襲名した人で、清峰の清満門下とも云ひ、また清長の門弟で    あるとも云ふ。要するに天明文化年中に渡つた画家である。通称は三甫助、或は三郞助とも云ふ。浮世    絵類考には住所を逸して居るが、同派の社中からは小梅の三(みい)さん、と呼ばれて居たと云ふ処から    断案を下せば、本所小梅村の一隅に住居した事は明瞭である。而(そう)してなほ住所を立証すべき材料    としては、向島牛の御前の額殿に、同じ鳥居風で描ける矢の根五郎の額面が、今に保存されて居るなぞ、    愈々清元とは縁故の深い土地である事が想像される。    (古来、関羽像は額を頭巾で覆う図柄とされてきたが、清元は頭巾をかぶらない束髪(つかねかみ)で画     いた。ところが図を見た一老翁がいうには「関羽は生来前髪が非常に短かつた人なので、三軍を叱咤     する場合、大いに自身の威厳を傷つけると云ふので、常に頭巾を借りて前額を蔽ふて居たと伝へられ     る。(中略) 恐らくは其の古事を知らぬ、画家の猿智恵であらう」と云つて大笑いした)     之を後で立聞いた清元は、己の浅学寡聞なるをも顧みず 奇想放逸に奔つた構図の罪を悔ひ、それよ    り鬱々として楽しまなかつたが、終に病を得て没したと云ふ、行年は詳らかならぬが、此の額に自書し    た年齢の七十二歳とあるから之を享年と見ることも出来やう〟  ◯『浮世絵』第十二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「司馬江漢の奉納額」林若樹   〈浅草寺および芝愛宕山など諸寺社奉納絵馬に関する記事は省略。上掲文化六年の項参照〉   〝江漢の諸社寺に油絵額を奉納したること、一つに売名手段より出たるならんが、当時諸社寺に額を掲ぐ    るといふことは容易なることにあらず、就中浅草観音の如き四時参拝人の跡を絶たざる霊場に至つては、    奉納額に附属して納入する金員も少額にあらず、恐らく数十金 現今の価格に換算して千金に近き失費    ならん、然しながら一旦こゝに掲げられ衆目を惹きて評判となれば、無名の士と雖(いへ)ど一躍大家の    班に列して 得るところは失ふところを補ふて余りあること 恰も文部省の展覧会に入選し、且つ受賞    の栄冠を得たるが如き有様ならん、中には全く信仰心の発現に基くものなきにしもあらずと雖ど多くは    かくの如き事情のもとに維新前の奉納額は盛行せしなるべし〟    〈浅草寺のような名所に奉納するには大金が必要であった。しかし、これによって評判が上がれば十分にその見返りは     期待できたのである〉  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本昭和六年(1931)刊・底本1996年岩波文庫本)   〝永濯画伯はことに絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています〟  ◯「郷土三題」三村竹清著(「江戸時代文化」一ノ二 昭和二年三月)   (『三村竹清集九』日本書誌学大系23-(9)・青裳堂・昭和62年刊)   〝鳥居清長の絵馬    此の絵馬は目黒不動手前なる不老山成就院に在り。ここは蛸薬師とて名高き寺なり。思ふに同じ天台宗    なる京三条永福寺蛸薬師と同仏なるべし。(中略)此の絵馬の外に天明三年九月は勝俣言珍の納めし北    尾重政かきし碇に蛸の絵馬もあり。今も蛸を画きし小絵馬を納むる人多し。此の絵馬は桐の板極彩色に    かきしものにて、もと散銭函の上のかたに掲げたりしを、後に内陣へ移すとき、落剥しかゝりし絵の具    をはらひ落としたりとぞ。裏に文化七午歳六月とあり。清長は回向院の過去帳に文化十四年十一月四日    四十二歳にて没せしとある由なれば 其三十五歳の筆なること知るべし。願主しんば和泉屋半治郎とあ    り(裏には和泉屋忠兵衛、半治郎)、新場は清長の同閭なれば如何なる縁りか知らまほし。矢の根五郎    の狂言は幕府御研師正月研初の式に擬したるものゝ由。清長の絵馬は此の外に御府内新高野山にふたつ    蝶々のかたかきし大絵馬ありと覚う。癸亥の大震には都下有名の絵馬たとへば牛御前北斎の牛頭天王、    神田明神蕙斎の江戸一覧図及び容斎の重盛諌言図等の如き尤品を亡ひしは、返す/\も惜しむべき事な    りと、研究会幹部の方に申したるに、さらばとて先づ此絵馬を写照して載せられし喜ばしき事なり〟  ◯「金龍山景物百詩」(二)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和六年(1931)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』辛未(4) 9-10/13コマ)より収録)   (※ 返り点と送り仮名は省略)   〝猿若狂言額      寛文四年辰六月吉日奉懸     狂言彫刻額 猿若勘三郎 奉納市村座 寛文年月詳   〝鬼女額      柴田是真筆、五代目音羽屋の納むる所     羅生門鬼女 音羽屋於箱 額倩是真筆 奉懸大士堂〟〈「倩」は「雇(やと)う」と同義〉   〝猩々乱舞額      高嵩渓筆、此図世間に其の便面を議(そし)る者有り     猩々乱舞図 彩色凝其美 或拠看人眼 非難時入耳〟    〈便面とは顔を隠すもの、この場合は扇〉   〝頼政射鵺額      屠竜翁高嵩谷筆、江戸三井家の納むる所、此画意とする処と称(かな)はず、数回描を改め、      歳を踰(こ)えて始て成ると云ふ     射鵺源三位 屠龍描額存 図成数回改 応見苦心痕〟   〝予譲刺衣額   北嶺江貫筆     旨哉評者説 予譲写来驍 一見雖悲壮 刺通画力消〟   〝韓信出跨下額  堤雪館筆     筆先無創意 依様画胡盧 弗見感心処 莫違韓信図〟〈「胡盧」は物笑い〉  ◯「金龍山景物百詩」(三)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和七年(1932)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬申(1) 9/16コマ)より収録)   (※ 返り点と送り仮名は省略)   〝堀川夜襲額   菊地容斎筆     容斎精故実 弓手見工夫 御厩喜三太 堀川夜襲図〟   〝一ツ家額    歌川国芳筆     国芳毫達者 錦絵世多伝 傑作孤家額 使看者慄然〟  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「戊寅第二」(『集古会誌』昭和十三年第二号)   〝王子稲荷社の額堂は大破甚しく屋根朽ちて大穴があいてゐるが、絵馬の中に「天保庚子春日、大雲峯写    時歳七十有六」とある極彩色の牡丹に孔雀の図や、「寿香亭泉目吉守一筆」とある源三位鵺退治の絵な    どが、所謂風餐雨触に任せてゐるのが惜むべきである〟    〈天保庚子は十一年、大雲峯は大岡雲峰〉   ◇「戊寅第四」(『集古会誌』昭和十三年第四号)   〝湯島天神の額堂に、明治十六年四月春木座興行に市川右団次が演じた天拝山の絵馬がある、左方に椽に    「古今稀成大入春木座帳元阪野久次郎」款記に「鳥井長八筆男清忠修復」とあるが、原画が紙本である    ため 今はそれすら破損して更に修理を要する程になつてゐる 物は新らしいが 神社の方でも保存法    を講じてもらひたいものである〟    〈この清忠は四代目。鳥居長八は清忠の父の清貞(明治34年没)。清貞が明治16年に画いた絵馬の修復を、実子の清忠が     おこなったのであるが、その時期は不明〉