☆ 安永五年(1776)
◯『半日閑話』巻十三〔南畝〕⑪396(大田南畝著・安永五年正月記)
〝すべて絵草紙、いにしへは唐紙表紙の金平本、又は土佐上るり本なりしが、享保の頃より鱗形屋にて萌
黄色の表紙にて、今の鳥居流の絵をかへて、一種の風を変ず。是を青本と云。予が家に三冊蔵め置けり。
そのうち萌黄変じて黄色の表紙となる。今黄色本をなお青本と呼は是よりのゆへ也。その年の新板を黄
色の表紙にして、その年過れば黒き表紙をつけて是をわかつ。是を黒本といふ〟
☆ 寛政五年(1783)
◯『【年始物申】どうれ百人一首』(鹿都部真顔編・歳旦狂歌集・寛政五年刊)
〝蔦唐丸
青本の春ハ来にけりひとはけに霞むゐなたの山東より〟
〈出版が寛政五年で、しかも山東とは明らかに京伝のことであるから、この「青本」は所謂「黄表紙」。青本は春の訪
れとともにやってくる。言祝ぎのお年玉でもあったのだ。「ゐなた」は未詳〉
☆ 享和二年(1802)
◯『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕
〝青本 白紙又は赤紙の画外題に、黄表紙をかけたる本をはじめて製す。是を青本といふ
同 絵師の名を草紙の終りへばかり出さずして、上中下の分ちなく、ゆきなりに名を誌す
画工 鳥居清秀、清重、富川吟雪、富川房信、田中益信、江戸絵と号して諸国のはやる
〈『式亭雑記』に「富川房信改め吟雪」とあり〉
同 奥(ママ)村重長、石川豊信の絵はやる。田中益信は草双紙の画作を著す
〈西村重長の誤記であろう。石川豊信は巻末の「昔より青本の画をかゝざる人の名」にあるから、この「画工」とは当
時評判の絵師という意味であろうか〉
作者 文字、通幸、和祥、丈阿、専ら双紙を作る。終に作者の名を出す事は此和祥より始まる〟
〝青本 鱗形屋山本の本、おびただしく売れる。一代記・敵討・武者絵本等にたまさかに序文有
〈鱗形屋孫兵衛・山本九右衛門は共に江戸の地本問屋〉
同 赤本、青本、黒本、三色の双紙ならび行はるゝ
画工 富川が絵の風は鳥居に似てすこしかはる
同 豆絵といふもの、富川、鳥居より始まる
作者 玉屋新兵衛、桶伏の本、草双紙の大当り〟
〈桶伏(遊郭の代金を払えない客に対する私刑。伏せた桶の中に入れて人目に晒す)の新兵衛に差し入れをする小女郎、
これを草双紙化したもののようであるが未詳〉
〝青本 赤本は此節絶ゆる。青本新板として黒本は古板と称す
同 青本に彩色摺の外題をはりて鱗形屋より始めて新板
画工 鳥居清満、同清経、同清長、北尾重政、いづれも同じ絵風にて、少しづつの変りあり
同 鳥居家の風、清経よりはじめて、少し当世に移る。此頃の書入文句に野暮なる洒落混る
作者 喜三二、通笑つくる。恋川春町一流の画を書出して、是より当世にうつる〟
〝青本 草双紙いよ/\洒落る事を専一とする。当世風体此時より始まる
袋入 袋入本始まる。茶表紙に細き外題。袋入にして青板とは別板なり
画工 柳(ママ)文調、役者似顔の元祖、勝川春章に続いて似顔画を書く
〈「春章に続いて似顔画を書く」とあるから、一筆斎文調の誤記であろう。次項もそうだが、「画工」とあるものの、
このあたりから、三馬は青本の画工というより、当時活躍した浮世絵師を取り上げているように思う〉
同 鈴木春信、湖龍斎、女絵の一枚絵一流なり。柱隠し女絵本はやる〟
〈三馬は別のところで「昔より青本の画をかゝざる人の名」を十三人の浮世絵師をあげているが、春信も湖龍斎もそれ
に入っている。従ってこの「画工」は、この青本当時の絵師として春信や湖龍斎をあげたものと思われる〉
〝青本 草双紙は大人の見るものと極まる
〈草双紙が大人の読み物となったのは、安永四年(1775)刊、恋川春町作の『金々先生栄花夢』とされる〉
画工 北尾、勝川の浮世絵はやる。春章を俗につぼといふ
同 歌川豊春、浮世絵に名あり。鳥居清長、当世風の女絵一流を書出す。世に清長風といふ
同 一流ある画工、おの/\の画のかき方、当世風にかはる
作者 芝全交が社中万象亭、双紙を作る。恋川春町画作。万象亭、全交、可笑味をおもにとる〟
〝青本 青本大当りを袋入に直す。表紙の白半丁に口のりをつけぬ事起る
画工 春好、続いて似顔絵を書出す。俗にこれを小つぼと称す。但し役者、角力也
同 蘭徳斎春道一たび絵の姿かはる。春朗同断。此頃の双紙は重政、清長、政よし、政のぶ、春町
作者 通笑、全交、喜三二、三和、春町、万象、杜芳、いづれも大当りある〟
〝青本 草双紙、だん/\と理屈におちる
画工 女絵の姿は清長に始まつて春潮に至り当世に変化する
同 彩色絵の遍数(ヘンカズ)、中古に倍す。江戸絵ます/\尊し
同 柱かくしの女絵は湖龍斎よりはやり出し清長に至つてます/\世に用ゆ
作者 森羅亭万宝、双紙を作す。烏亭焉馬久しく廃れたる落噺を再興す。談洲楼と号す〟
〝青本 青本の趣向甚だ高慢になる。袋入のあとを青本にすることはやる
画工 絵のかき方また/\当世に移る。北尾、勝川、歌川、おの/\その名高し
同 歌麿当時の女絵を新たに工夫する。北斎独流のの一派をたつる
同 豊国、役者似顔絵に名誉。歌麿の錦絵、北斎の摺物世に行はる
作者 いづれもめでたし/\。千秋万々歳〟
〝中古まで自画作をする人名
田中益信
恋川春町〟
〝画工名尽 【これは来草双紙板下を休の部】
鳥居 関 清長 勝川九徳斎春英
喜多川 歌麻呂(ママ) 北斎 辰政
北尾 政演 蕙斎 政美〟
〈「歌麻呂」は「うたまろ」としか読めないと思うのだが〉
〝昔より 青本の画をかゝざる人の名
奥村 鈴木春信 石川豊信 文調
湖龍斎 勝川春章 春好 春潮
春林 春山 春鶴 春常 勝川門人数多あり
歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし】〟
〈新版を青本仕立で売り、翌年になるとそれを黒本仕立にして売り出すといったことも行われていたから、同一作品で
も青本黒本両様のものがあるとされる。そのため今では「黒本・青本」と並び称することが多い。ただ三馬の「青本」
には、恋川春町の『金々先生栄花夢』(安永四年(1775)刊)以降、大人の読み物になったとされる所謂「黄表紙」作
品も含まれているので、その範囲は甚だ広い。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、鈴木春信・石
川豊信・文調・春鶴・歌川豊春の黄表紙は一点もない。しかしその他はそれぞれあり、西村重長は青本が四点(黄表
紙はなし)、以下すべて黄表紙で、湖龍斎は安永期三点、春章は安永期一点、春好は安永期二点、春潮は天明期七点、
春山は天明期三点、春林は天明期一点、春常は安永~天明期十四点である。三馬は何をもって「昔より青本をかゝざ
る人」としたのであろうか〉
☆ 天保五年(1834)
◯『近世物之本江戸作者部類』(蟹行散人(曲亭馬琴)著・天保五年正月成立)
(「赤本作者部」)
〝寛延宝暦より漸々に丹の価貴くなりしかば、代るに黄標紙をもてして、一巻を紙五枚と定め、全二巻を
十二文に鬻ぎ、三冊物を十八文に鬻ぎたり。そが中に古板の冊子には黒標紙をもてして、一巻の価五文
づゝ也。世にこれを臭草紙といふ。この冊子は書皮(ヒヤウシ)に至るまで、薄様の返魂紙(スキカヘシカミ)にて、
悪墨のにほひ有故に臭草紙の名を負したり。この比より画外題にして、赤き分高半紙を裁て、墨摺一遍
なりき。その作も新しきを旨としつ。舌切雀・猿蟹合戦などの童話を初として、或は太平記の抄録、説
経本の抄録など、春毎に種々出たり。価も黄表紙は新板一巻八文【三冊物十八分・三冊物廿四文】古板
は七文【二冊物十四文・三冊物廿一文】黒標紙は一巻六文【二冊物十二文・三冊物十八文】なりき。し
かるに、書賈は臭草紙の臭の字を忌て蒼(アヲ)といひけり。黄標紙なるを蒼と唱ること、理にかなはざる
やうなれども、宝暦以後は墨の臭気もあらず、世俗草冊子(クササウシ)とこゝろえたるもあれば、草の蒼々
たる義を取りて蒼と唱へ、黒標紙を黒といひけり。かくて明和の季よりくささうしの作に、滑稽を旨と
せしかば、大人君子も是をもてあそぶものあるにより、いよ/\世に行れて、画外題を四五遍の色摺に
したり。その中に殊にあたり作の新板は、大半紙二ッ切に摺りて、薄柿色の一重標紙をかけ、色すりの
袋入にして、三冊を一冊に合巻にして、価、或は五十文六十四文にも売りけり【こは天明中の事なり】。
かくて寛政の初より、くささうしの価又登りて、黄標紙は一巻十文【二冊物廿文・三冊物三十文】黒標
紙は一巻八文【二冊物十八文。三冊物廿四文】になりぬ。かくて文化の年より、これらの作のよろしき
ものを半紙に摺り、無地の厚標紙をかけて、袋入にしたるを上紙摺りと唱へて、京摂の書賈へ遣して、
彼処の貸本屋へ売らせ、こゝにても二三百部は春毎に売れたれども、価貴ければや、くささうしの一部
数千売れたるには似ざりき【上紙すりは三冊六冊を合本二冊三冊にして、価或は一匁より一匁五分の物
なり】(以下「合巻」の記事になる)〟