Top               浮世絵文献資料館                浮世絵師総覧                 『浮世絵師之考』〔六樹園本・白楊文庫本〕        
       ※北小路 健著「浮世絵類考 論究・10」より(『萌春』207号・昭和47年刊)         文化五年(1805)八月三日、石川雅望(宿屋飯盛・六樹園)の稿成る         文政九年(1826)狂歌師・野四楼転写。         万延二年(1861)宮城県釜津田住の鈴安入手    ◯ 岩佐又兵衛      又兵衛父を荒木摂津守【名は村重】と云、信長公に仕へて軍功有り、公賞して摂津国を与ふ、後公の命に背きて      自殺ス、又兵衛時に二歳、乳母懐きて本願寺の子院に隠れ、母家の姓を仮りて岩佐と称す。成人の後、織田信雄      に仕へ、画図を好ミて一家をなす。能く当時の風俗を写すを以て、世人よびて浮世又兵衛と云。世に又平とよぶ      は誤りなり、画所預家に又兵衛略伝あり、藤貞幹好古日録に見ゆ、是世にいはゆる浮世絵のはじめなるべし、叉      大津絵も此人の書出せるなりと云    ◯ 菱川吉兵衛師宣      大和絵師又ハ日本絵師とも称す、江戸元祖一流大和絵の始、房州平群郡保田の産なり。和国百女【三冊/元禄八      年板】、月次の遊び【一冊/元禄四年板】、大和の大寄 一冊、恋のみなかみ 一冊、其外天和、貞享の頃板本      多し。       貞享四年板の江戸鹿子に         浮世絵師      菱川吉兵衛              堺町横丁 同吉左衛門       元禄二己年板の江戸図鑑に         浮世絵師              橘町   菱川吉兵衛師宣              同所   同 吉左衛門師房              長谷川丁 古山太郎兵衛師重                   石川伊左衛門俊之              通油町  杉村治兵衛正高              橘丁   菱川作之丞師永
      按ずるに、井沢長秀が俗説弁に国史を引て、大和画師ハ倭画師とて、みだりに称すべからざる事を述たり    ◯ 英一蝶      一蝶はもと多賀朝湖といふ絵師なり、姓は藤原、名は信香・和央・翠蓑翁・北窓翁・暁雲堂・牛麿の号あり、      呉服町一丁目新道に住せし頃、罪ありて元禄寅年十二月三宅島に流さる。時に四拾六なり、宝永六丑年九月御赦      免、江戸深川に住す。享保九辰年正月十三日没、七拾三、日本榎承教寺塔中顕乗院に葬る        辞世 まぎらかすうき世の業の色どりもありてや月の薄墨の空  一蝶
       英一蝶四季絵跋
     夫大和絵は、そのかみ土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより田家のふつゝかなるさま、岩木の      たゝずまひ、やり水のめいぼく、これにはじまりて末/\にながれ、予が如きつたなきまでこれをもとゝす、近      頃越前の産岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、世人浮世又平とあだ名す、久      しく世に翫ぶに、また房州の菱川師宣といふもの、江府に出て梓におこし、こぞって風流の目をよろこばしむ、      此道予が学ぶ所に非ずといへども、若かりし時、あだしあだ浪のよるべにまよひ、時雨朝がへりのまばゆきをい      とはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、はしなきうき名のねざしのこりて、はづかしの森の      しげきことぐさともなれり、さるが中にあたりて、謫居さすらへし事十とせにあまり、廿とせに近きを、ありが      たき御恵のめでたきもとの都にかへりきぬ。あるひとむかしの筆の四時のたわぶれ絵をふたゝび予に見す。其頃      は心たくましく、眼すゞろに、髪筋を千筋にわくることぐさも事たらざりけらし。しかし今の世のありさまにく      らぶれば、髪のほどゑりをこえず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなの絵姿とも思ふべからん。      蛍星うつりかはりて、此一巻を見る事、浦嶋が七世のむまごに逢へるためしにひきて、かつはよろこびをそふる      の心にす。これがために跋す。  英一蝶書      嵩谷がもとにこの絵跋ありしこと元木阿弥より聞しことあり、嵩谷は一蝶の門人にして、木阿弥はまた嵩谷の弟      子たり【画名 嵩松】    ◯ 鳥居氏      初代 鳥居庄兵衛清信 難波町              元禄十年板好色大福帳五冊の画者              四座歌舞伎看板画の名人にして、元禄・享保の頃の人なり
     鳥居清倍 子       同 清重 清重軒      同 清信 三男      同 清忠      同 清倍 初代庄兵衛ノ婿 同 清満 亀次郎      同 清長         同 清経 大次郎    同 清広 七之助      同 清峯         同 清政        同 清久      鳥居清長(ママ信)は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川の如き昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書かへしな      り、この後絵風さま/\に変化せしかども、江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事なり、清満、清倍、清経とも      一枚絵・草双紙をかけり、清長は俗称新助、近頃錦絵彩色の名手なり    ◯ 雛屋立圃【野々口親重、紅屋庄右衛門、松斎、松翁、如入斎】      中川喜雲作の草紙のさし絵を多くかけり、許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画を能くす、京童といふ名所記自画      なり云々、上り竹斎のさし絵も立圃なり、逍遙軒の門に入りて俳諧に詣(イタ)りふかし、おさな源氏・十帖源氏は      自作自画なり【寛文年中没】    ◯ 橘守国【享保の比の人】      これは町絵なれども、世のつねの浮世絵にあらず、世に伝る所の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、絵本写宝      袋などを見てしるべし    ◯ 近藤助五郎清春【正徳・享保の比の人】      赤本、金平本などにおほし    ◯ 奥村文角政信【芳月堂 丹鳥斎】  同 利信      江戸通油町本屋なり。朱の瓢箪印をおせり。浮絵多し    ◯ 西川祐信【自得斎 文華堂】      京都の住す。中興浮世絵の祖といふべし。絵本多し、中にも絵本倭比事すぐれたり    ◯ 西村重長【孫三郎 通油町地主なれども後に神田に出て本屋となる 仙花堂】      絵本ならびに役者一枚絵多し。宝暦六子年六月十二日没 六十四    ◯ 石川豊信【秀葩 六樹園宿屋飯盛の父 西村重長、後豊春門】      宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ぬかや七兵衛といひしもの也。一生倡門酒楼に遊ばず、しかるによく      男女の風俗を写せり、一枚絵多し。画本もあり、天明五巳年五月廿五日没、七拾五、浅草榧寺に葬す    ◯ 富川房信【丸屋山本九左衛門、吟雪、西村重長門人 大伝馬町三丁目双紙問屋】      一枚絵、草双紙などにあり。つたなきかたなり    ◯ 小松屋百亀【三右衛門、飯田町薬舗】      明和の頃の大小のすりものの画、多く小松屋のかけるなり。西川氏の筆意を学びて枕絵を多くかけり。肉蒲団、      ぬくめ夜着などの本あり    ◯ 鈴木春信      明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して、今に是を祖とす。是は其頃初春大小のすりもの大に流行して、五六      遍ずりはじめて出来せしより工夫して、今の錦絵とはなれり。春信一生歌舞伎役者の絵をかゝずしていはく、わ      れは大和絵師なり、何ぞ河原者のかたちをゑがくにたへんやと。其志かくの如し。明和六年の頃、湯嶋天神に泉      州石津笑姿開帳ありし時、二人の巫女みめよきをゑらびて舞しむ。名をお波、おみつといふ。又谷中笠森稲荷の      前なる茶店鍵屋の娘おせん、浅草楊枝屋柳屋仁兵衛が娘おふぢの絵をゑがきて出せしに、世の人大にもてはやせ      り    ◯ 宮川長春【宝永・正徳比の人】      尾州宮川村の産なれば姓とせりといふ、菱川風に画きて一家をなせり      同 春水【藤四郎、深川後に芳町住、長春門人 寛保の比の人】      同 薪水【本銀町四丁目住、同(長春門人)宝暦・明和の比の人】      ◯ 勝川春章【勝宮川・旭朗井】      明和の頃、歌舞伎役者の似顔をゑがきて大に行わる。五人男の画をはじめとす。其頃人形町林屋七右衛門といへ      る者の方に寓居して画名もなかりしかば、林屋の請取判に壺のうちに林といへる文字ありしをおしでとせり。人      よんで壺やといひ、弟子春好を小壺といひき。武者をもよく画きしなり。      同 春好 長谷川   同 春英 九徳斎   同 春朗【後の宗理 北斎なり】      同 春扇 春琳    同 春常       同 春紅      同 春亭 松高斎   同 春泉    ◯ 恋川春町【倉橋寿平 酒上不埒 鳥山石燕の門人】      自作の青本の絵あり、小石川春日町に居れる故、勝川春章の名を戯れにかれるなり、青本の作に罪を得て頓死せ      り、寛政元酉年七月七日没、四拾六、市谷浄覚寺に葬す    ◯ 北尾重政【紅翠斎、花藍、酔放逸人、俗名左助、大伝馬町後根岸住】      重政は近来錦絵の名手なり。男女風俗・武者絵に名あり、品ありて麗し、また書を能くし、刻板の字に巧なり       【七役早替】敵討記乎汝 三巻 〈六樹園作・酔放逸人画・文化五年刊〉      同 政演【京橋山東屋伝蔵、京伝なり、姓 岩瀬、拝田、葎斎、酔世老人・山東庵・身軽折助、重政門人】       しゃれ本・草双紙の戯作をもつて名高し      同 政美【俗名 三次郎・杉皐・蕙斎 重政門人】      落髪して浮世絵をやめ、一種の画をなし、紹真と改名す    ◯ 一筆斎文調【桑楊庵、頭光 亀井町住】      男女風俗、歌舞伎役者画ともにつたなきかたなり。されど二代目八百蔵の似顔を能くし、板下を多く画けり    ◯ 湖龍斎【両国橋広小路薬研堀住】      これまた文調の類なり、後には法橋となり浮世絵をかゝず    ◯ 歌川豊春【一竜斎、日本橋後赤坂住】      近来浮絵をにしき絵にかき出せり、宝暦の頃の浮絵にまされり
     同 豊広【一柳斎、芝片門前町住】      張交画【墨絵なり】を作る、小き一枚絵などかけり    ◯ 喜多川歌麿【勇助・豊章 神田弁慶橋久右衛門町住】      はじめ鳥山石燕門人にて、狩野家の画を学ぶ、のち男女の風俗を画きて、当時無双の名手なり、絵草紙屋蔦屋重      三郎方に寓居せしことあり      画本の類甚多し、中にも       狂歌入 絵本虫選  狂歌入 絵本駿河舞 の画本最も名高し      同 菊麿 門人   同 秀麿   同 千代女    ◯ 栄之【細田氏・鳥文斎 浜町住歟】      はじめ狩野栄川院門人にして、後みづから一派をなし、傾城の姿をうつして妙を得たり、錦絵画巻など多し      門人 栄理   同 栄昌    ◯ 歌川豊国【一陽斎、芳町後堀江町住 豊春門人】      当世の風俗をうつす事妙なり、歌舞伎役者の似顔をも能くかけり、墨と紫ばかりにて彩色の錦絵をかきはじむ。      彩色摺画本ほか草紙画あまたあり        岩井櫛粂野仇討 山東京伝作 七巻        白藤源太郎談  同     同    ◯ 国政【甚助 豊国門人】      これもまた歌舞伎役者の似顔をうつす事を能くす    ◯ 国貞【五渡亭 豊国門人】       【三国伝来墻壁之外】玉藻前竜宮物語 式亭三馬作 三巻〈文化五年刊〉    ◯ 写楽【東洲斎】      これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行      はれず、一両年にして止む    ◯ 窪俊満【尚左堂・南陀加紫蘭・一節千杖 亀井町住】      狂歌を能くし、狂歌すりんものゝ絵多し、左筆なり 重政門人       【弾手数多】空音本調子 【三巻・窪田俊満作 北尾門人三二郎画】〈黄表紙・安永九年刊〉       【思ひ付たり替つたり】五郎兵衛商売 【三巻・南陀伽紫蘭作 北尾政演画】〈同・天明二年刊〉    ◯ 宗理【春章門人なれども破門の後独歩し一流を立つと云】      これまた狂歌すりもの絵に名高し、浅草第六天神脇に住す。すべてすりものは、錦画に似ざるを貴ぶとぞ、初め      春朗・俵屋宗理の名をつぎて二代目を称したれど、寛政末の頃北斎と改む 【時太郎可候トモ 門人多し】    ◯ 歌舞伎堂艶鏡      役者似顔のみかきたれど、つたなければ半年斗にておこなわれず    ◯ 春潮      鳥居清長の筆意を能くにせたり。錦絵・草双紙多し       文化戊辰之歳中秋初三日認之畢  六樹園       右 文政九丙戌年卯月中旬写しおくもの也  野四郎主       于時万延二年求之 釜津田 鈴安