Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ よしじょ 芳女    ◯『浮世絵師伝』p205(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳女    【生】           【歿】    【画系】          【作意期】文久~明治    井草氏、国芳の次女、画を父に学ぶ。父の養嗣田口其英が妻となり、父の歿後、一勇斎・朝桜楼の号を    襲用す。一説に佐竹永海門人永喜に嫁し、和泉町に住す、永喜歿後売卜者鷲津一角に再縁して横浜に移    住せしと云へり〟    ☆ よしあき 芳明    ◯『浮世絵師伝』p205(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳明    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】弘化    歌川を称す〟    ☆ よしあき 芳秋    ◯『浮世絵師伝』p205(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳秋    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    京都の人、坂本氏、俗称鹿蔵〟    ☆ よしいく 芳幾    ◯『浮世絵師伝』p205(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳幾    【生】天保四年(1833)   【歿】明治卅七年(1904)二月六日-七十二    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、落合氏、俗称幾次郎、一蕙斎(後に蕙斎)・朝霞楼・晒落斎等の別号あり。浅草田町の引    手茶屋に生れ、初め父の意に従ひて質商某の家に仕へしが、性来浮世絵を好み、これを学ばむと欲する    の念止み難く、遂に父の同意を得て質商の家を辞し、国芳の門に入りて其の技を修むることゝはなれり、    研鑚の効空しからずして、同門中芳虎・芳年等と並び称せらるゝに至る、役者似顔絵及び美人画をよく    せり。明治七年十月より八年七月に亘りて、『東京日日新聞』と題する錦絵新聞を画きしが(外骨翁の    考証に拠る)、同八年某等と共同経営にて『東京絵入新聞』を創刊し、彼れ自ら挿画を揮毫せり、これ    新聞挿画の嚆矢なりといふ。居所、初め浅草諏訪町、後ち両国米沢町・新富町・銀座・新橋瀧山町等に    移転し、最後に本所太平町に居り其處にて病歿せり。     文久三年版『粹興奇人伝』より転載     (一恵斎芳幾の肖像画あり)    法名、従善院芳幾日雄居士、菩提所は浅草吉野町    の安盛寺、(日蓮宗)なりしが、同寺は明治の末に浅草清島町盛泰寺へ合併せられ、盛泰寺の墓地は市    外池袋字蟹ヶ窪にありて、彼の墓石も同處に移されたり〟    ☆ よしうめ 芳梅    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳梅    【生】文政二年(1819)   【歿】明治十二年(1879)-六十一    【画系】国芳門人      【作画期】天保~明治    歌川を称す、中島氏、俗称藤助、別号一鴬斎・夜梅楼、大阪堀江の人、夙に江戸に来たりて国芳の門に    入り、業を卒へて大阪に帰る、天保十二年には既に大阪版の役者絵を発表せり、門人芳滝其他数名あり〟    ☆ よしえい 芳栄    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳栄    【生】           【歿】明治二年(1869)    【画系}国芳門人      【作画期】    歌川を称す、一猫斎と号せり、外神田に住す〟    ☆ よしかげ 芳影    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳影    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称す〟    ☆ よしかげ 芳景    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳景    【生】           【歿】明治廿五年(1892)    【画系】国芳門人      【作画期】    歌川を称す、斎藤氏、俗称亀吉、横浜に住み、専ら輸出画を描く〟    ☆ よしかげ 芳景    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳景    【生】           【歿】    【画系】芳滝門人      【作画期】明治    大阪の人、東京に住す、後藤氏、俗称徳次郎、豊斎と号す〟    ☆ よしかず 芳員    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳員    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~文久    歌川を称す、俗称次郎吉(一に次郎兵衛)一寿斎、又、一川芳員と落款す、芝露月町に居住せり、異国    人物画をよくす〟    ☆ よしかた 芳形    ◯『浮世絵師伝』p206(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳形    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一震斎と号す〟    ☆ よしかつ 芳勝    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳勝    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】弘化~安政    歌川を称す、石渡氏、俗称庄助(或は勇助)、一秀斎(又は一勢斎)と号す。初め幕府用達の醤油商な    りしが、後ち廃業して浮世絵師となる、又浄瑠璃をよくし、芸名を清元千年太夫と云へり〟    ☆ よしかね 芳兼    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳兼    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】    歌川を称す。(田蝶の項參照)〟    ☆ よしきく 芳菊    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳菊    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】慶応~明治    歌川を称し、一秋斎と号す。団扇絵あり〟    ☆ よしきよ 芳清    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳清    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称す〟    ☆ よしきり 芳桐    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳桐    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】文久~明治    歌川を稱し、一鳳斎と号す〟    ☆ よしくに よし国    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝よし国    【生】           【歿】    【画系】蘆国門人      【作画期】文化~天保    大阪の人、高城(木)氏、豊川を称す、文化十年頃より役者絵を画き、初めは蘆麿(一に蘆丸)又は寿    好といひしが、文化十三年より「よし国」と改め、寿好堂と號せり。尚ほ「芳洲画」と落款せる例もあ    り、但し、文政末か天保の初め頃には「岡丈堂蘆丸」と号せしこともあり、居所博労町〟    ☆ よしくに 芳国    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳国    【生】安政二年       【歿】明治卅六年(1903)十一月二十日-四十九    【画系】芳梅門人      【作画期】明治    京都の人、野村氏、俗称与七、一陽亭・笑翁と号す、明治十八年版の「京阪名所図絵」と題する二十余    図は、彼が風景画方面の特色を見るに足るものなり、後ち専ら劇場の看板を画きたりき。居所京都寺町    通錦小路上ル西側、墓所東山西光寺〟    ☆ よしさだ 芳貞    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳貞    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~明治    歌川を称し、一葉斎と号す、馬喰町三丁目の駿河屋といふ旅宿の主なり〟    ☆ よしさと 芳里    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳里    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称し、一葉斎と号す〟    ☆ よしさと 芳郷(歌川清貞参照)    ◯『浮世絵師伝』p207(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳郷(サト)    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】安政    歌川を称す、後ち二代清満の門人となりて、清貞と改む。(清貞の項参照)〟    ☆ よしざね 芳真    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳真(サネ)    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称す〟    ☆ よししげ 芳重    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳重    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~安政    歌川を称し、一要斎と号す〟    ☆ よしたか 芳鷹    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳鷹    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称し、一峯斎と号す、花川戸に住せり〟    ☆ よしたき 芳滝    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳滝    【生】天保十二年(1841)二月廿二日 【歿】明治卅二年(1999)六月廿八日-五十九    【画系】芳梅門人          【作画期】文久~明治    大阪の人、中井氏(一に笹木氏)、俗称恒次郎、一養斎・一養亭・養水・寿栄堂・豊玉・里の家・阪田    舎居等の号あり、南本町二丁目に住し、後ち泉州堺に移住す、役者絵及び美人画を得意とせり。墓所は    堺南宗寺、法名は楽邦軒静芳居士といふ〟    ☆ よしたつ 芳龍(「ほうりゅう」で収録)    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳龍    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】延享    上柿氏、日本絵師を肩書とす、肉筆美人画あり〟    ☆ よしただ 芳忠    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳忠    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】    歌川を称す〟    ☆ よしたつ 芳辰    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳辰    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】明治    歌川を称し、一雷斎(或は一電斎)と号す〟    ☆ よしたに 芳谷    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳谷    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】安政~明治    歌川を称す〟    ☆ よしたま 芳玉    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳玉    【生】天保七年(1836)   【歿】明治三年(1870)-三十五    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称す、清水氏、名は玉、一耀斎(或は一輝斎)と号す、新材木町の床屋の娘なり、最も美人画に    長ず、後ち柴田是真に学びて専ら扇面の版下を描きしが、幾ばくもなく薙髪して画界を退きしと云ふ〟    ☆ よしため 芳為    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳爲    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一集斎と号す〟    ☆ よしちか 芳近    ◯『浮世絵師伝』p208(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳近    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称し、一速斎と号す。慶応四年(1868)五月、彰義隊に入りて戦死す〟    ☆ よしつな 芳綱    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳綱    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~慶応    歌川を称す、田辺氏、俗称清太郎、一登斎・一度斎の号あり、下槙町に住す、武者絵をよくせり〟    ☆ よしつや 芳艶    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳艶    【生】文政五年(1822)閏一月一日 【歿】慶応二年(1866)六月廿二日-四十五    【画系】国芳門人         【作画期】天保~慶応    本町二丁目の駕籠屋に生る。歌川を称す、甲胡氏、俗称万吉、一栄斎、後ち一英斎と改む。武者絵をよ    くせり。弘化年中故ありて師より破門せられしが、後ち間もなく許されたり。嘉永の末、一雄斎国輝と    競争して、刺青の下絵(大判錦絵)を描きしに、当時芳艶の児雷地、国輝の狐忠信とて世に持て囃され    しと云ふ。法名一英斎芳艶信士、谷中三崎町の妙延寺に葬る〟    ☆ よしつや 芳艶 二代    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳艶 二代    【生】           【歿】    【画系】初代芳艶門人    【作画期】明治    歌川を称す、箕輪氏、一英斎と号す、又別号を一仙舎其村と云へり。〟    ☆ よしつる 芳鶴    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳鶴    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~嘉永    歌川を称す、俗称長次郎、号一声斎、武者絵をよくす〟    ☆ よしつる 芳鶴 二代(周延(チカノブ)参照)    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳鶴 二代 周延の前号〟    ☆ よしてる 芳照    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳照    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    歌川を称し、一春斎と号す〟    ☆ よしとし 芳年    ◯『浮世絵師伝』p209(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳年    【生】天保十年(1839)三月十七日 【歿】明治廿五年(1892)六月九日-五十四    【画系】国芳門人         【作画期】安政~明治    彼が父の名に就ては、凡そ四つの説あり、即ち、吉岡兵部・同金三郎・同織三郎・月岡爲三郎等にして、    就中、金三郎は町医、爲三郎は幕府の御家人なりしと云ふ。芳年門下の一人山中古洞氏の説に拠れば、    彼が戸籍面には、吉岡織三郎次男とあれど、実は吉岡金三郎(後に兵部と改む)の次男なりとぞ。    彼の俗称は米次郎といひ、嘉永三年十二歳の時に国芳のもとに入門せしなり。玉桜楼・一魁斎・魁斎・    咀華亭等の別号あり。また明治五六年の頃に強度の神経衰弱に罹り、六年末には全快、其の時に「大蘇」    の号を用ゐ始む。夙に菊池容斎の画風を慕ひて、専ら歴史上の人物を画くことを得意とせり。又洋画を    折衷して新機軸を出だせし所尠からず、錦絵、草双紙などの外に新聞の挿画にも従事し、大いに技倆を    示して世の好評を博したりき。    錦絵の作は一々枚挙に遑あらざれども、著名なるものゝみを示せば左の如し。     ◯文治元年 平家の一門亡海中落入る図 三枚続(嘉永六年版、即ち芳年十五歳の作)     ◯一魁随筆 竪判数図(明治五年版)     ◯名所月四十八景 (同六年版)     ◯郵便報知新聞 竪判続刊(同七年版)    ◯会席別品競 堅判数図(同九年版)     ◯大日本名将鑑 五十一図(同十一年~十五年)◯見立たい侭 竪判数図(同十一年版)     ◯東京自慢十二ヶ月(同十三年版)      ◯月百姿 百枚(同十八年~廿四年版)     ◯風俗三十二相 (同廿一年版)(口絵第六十九図參照)     ◯文覚上人荒行 竪二枚続          ◯金太郎と鮭 同     ◯奥州安達ケ原 同             ◯田舎源氏道行 同     ◯藤下の鯉 三枚続(明治二十二年版)        居所、慶応元年当時には中橋に住し、翌二年には橘町二丁目に移り、次で明治初めには橘町に転ず、後    ち日吉町一番地に居りしが、明治十年三月、南金六町十四番地に移り、翌十一年九月にに丸屋町五番地    へ、十二年春再び南金六町へ、十六年四月、根津宮永町(内藤家の屋敷跡)へ、十八年三月には、浅草    須賀町二番地に家を購ひて五六年間居住せしが、其の家相の不祥なる事を聞きて、俄かに日本橋浜町に    新築せむと欲し、其の間本所亀沢町に仮寓せり、爾後屡々不幸を蒙りて、焦心苦慮の結果遂に精神に異    常を呈し、療養に手を尽せしも其の効著しからず、一旦病院を退きしが、幾ばくも無くして亀沢町の仮    寓に逝けり。法名を大蘇院釈芳年居士と云ひ、東大久保専福寺(抜け弁天)に葬る。門人数多ありしが    中に、年方・年恒・年英等最も著はる〟    ☆ よしとみ 芳富    ◯『浮世絵師伝』p210(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳富    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、萩原氏、初め一芸斎芳富と号したりしが、明治六年頃横浜に移住して芳洲と改む〟    ☆ よしとよ 芳豊 初代    ◯『浮世絵師伝』p210(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳豊    【生】天保元年(1830)   【歿】慶応二年(1866)四月廿四日-三十七    【画系】国芳門人      【作画期】安政~慶応    歌川を称す、福山氏、俗称兼吉、一龍斎と号す、上野三枚橋際旅館某が妾腹の子なり、初め三代豊国に    学びしが、幾ばくならずして出奔し国芳の門に入る、当時国芳は同門の国貞が三代豊国を名乗りしに就    て隙ありければ、新入の門人兼吉に対して故意に芳豊といふ画名を与へき、是れ豊国の頭字を国芳の下    に置きたる寓意なり、彼れ武者絵をよくし、後には凧絵をも描きしと云ふ。未だ妻を娶らず、大阪町の    寓居に歿す、法名豊山院遠往信士、墓所浅草菊屋橋際、日蓮宗正覚寺。(兼子伴両氏の研究に拠る)〟    ☆ よしとよ 芳豊 二代    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳豊 二代    【生】弘化元年(1844)十一月六日 【歿】    【画系】初代芳豊門人       【作画期】明治    歌川を称す、川守氏、俗称栄太郎、一毫斎と号す、三歳にして父を失ひ、幼時商家に雇はれしも、これ    を厭ひて再三家に帰り、只管画家たらむことを熱望せり、彼が母其の志の止むべからざるを覚り、遂に    初代芳艶のもとに入門せしむ、時に年十五、後ち芳虎・芳盛等の家に食客となり、転じて初代芳豊の門    人となる、師の遺言により慶応三年春二代芳豊を襲名せり、明治四十年前後には凧絵を画くことを専業    とす、居所浅草茅町。(兼子伴両氏の遺考に拠る)〟    ☆ よしとよ 芳豊 初代    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳豊 初代    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~慶応    大阪の人、歌川を称す、上原氏、俗称兵三、含粋亭・北砕舎・北粋・北酔・北翠・北水等の号あり。役    者絵及び芝居看板を画き、又、和歌をよくし、茶番狂言に巧みなり〟    ☆ よしとよ 芳豊 二代    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳豊 二代    【生】明治元年       【歿】    【画系】芳峯の男      【作画期】明治    大阪の人、武部氏、俗称豊次郎〟    ☆ よしとら 芳虎    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳虎    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~明治    歌川を称す、永島氏、俗称辰五郎、一猛斎・錦朝楼と号す、国芳歿後十三回忌に当り、故ありて同門に    却けられ、爾後別号を孟斎と改めしと云ふ。最も武者絵をよくし、俳優似顔の大首絵に傑作あり、明治    維新後は風俗画を描きて大いに行はれたり、居所初め長谷川町、後ち中橋松川町、更に神田区鍛冶町六    番地に移る〟    ☆ よしとり 芳鳥    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳鳥    【生】           【歿】    【画系】国芳の長女     【作画期】嘉永~文久    名は登鯉、一燕斎と号す。日本橋魚商茶屋伊之助に嫁し、夭死せり〟    ☆ よしなか 芳仲    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳仲    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】安政~明治    歌川を稱す〟    ☆ よしなお 芳直    ◯『浮世絵師伝』p211(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳直    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一盛斎と号す、下谷御徒士町に住せり〟    ☆ よしのぶ 芳信    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳信    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~文久    歌川を称し、一礼斎と号す。また文久元年版の「清国南京人」の図に、一慶斎芳信とあり、同一人か〟    ☆ よしのぶ 芳信    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳信    【生】           【歿】    【画系】国芳門人か     【作画期】天保~弘化    大阪の人、一瓢亭と号す、役者絵あり〟    ☆ よしのぶ 芳延    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳延    【生】天保九年(1838)十一月 【歿】明治二十三年(1890)八月十四日-五十三    【画系】国芳門人       【作画期】安政~明治    歌川を称す、松本氏、俗称弥三郎、一雲斎と号し後ち一侠斎と改む、狂歌を嗜み戯号を遊狸庵都逗美    といへり、蓋し常に狸に関するものを好みしが故なり、浅草田甫に居住せしが、後には狸汁の店を開    き、田甫の狸と綽号されたり。陶器に錦絵風の武者、浮世人物等を画くことは彼を以て嚆矢とすと云    ふ。法名松還院本誉芳延居士、本所中之郷原庭町の浄土宗長建寺に葬る〟    ☆ よしはる 芳春    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳春    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~明治    歌川を称す、生田氏、俗称幾三郎、一蜂斎・一梅斎・朝香楼と号す、初名を芳晴といへり。武者絵及    び明治初期の風俗を錦絵に画く。居所浅草茅町、後ち並本町に移り、明治十三年当時は栄久町に住せ    り〟    ☆ よしはる 芳晴    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳春    【生】           【歿】    【画系】芳梅門人      【作画期】明治    大阪の人、歌川を称す、藤井氏、俗称喜三郎〟    ☆ よしはる 芳晴    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳晴 芳春の前名〟    ☆ よしひこ 芳彦    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳彦    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】文久~明治    歌川を称す、一元斎と号す、俗称彦八〟    ☆ よしひさ 芳久    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳久    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一長斎と号す〟    ☆ よしひで 芳秀    ◯『浮世絵師伝』p212(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳秀    【生】天保三年(1832)一月一日 【歿】明治卅五年(1902)十二月十四日-七十一    【画系】国芳門人、後容斎に学ぶ 【作画期】嘉永~明治    本姓岡野、小磯前氏、幼少の頃より国芳の門に入り、師より一旭斎の号を与へらる、武者絵をよくせ    り、また美人画を画きし中に嘉永六年版の「両国やみ」と題する錦絵あり、文久年間菊池容斎に就て    歴史画を學び從前の画風を一變す、爾後画名を雪窓と改め、別號を紫衣堂また三樹園といへり、明治    維新後、戸籍上の必要(彼は次男たりし故を以て岡野氏を嗣がず)よりして、新たに小磯前(サキ)を    氏とす、蓋し平常奇石を愛し蒐集する所のもの室に充ちたり、其石の集まれること常陸大洗の磯前神    社に因みあればとて、斯くは名づけしなり、彼は奇石の外に古器物を愛玩し、所謂集古癖と奇人風の    性格を有しき。居所青山南町一丁目、晩年麻布霞町に転じ、同所に於て歿す、法名三樹園雪窓義徹居    士、府下千駄ヶ谷字原宿の龍岩寺(禅宗)に葬る。(此の項主として、芳秀の次女鈴子(市川雄三氏    夫人)さんの直話に據る)〟    ☆ よしひで 芳秀    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳秀    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    小林氏、俗称英次郎、浅草区新平右衛門町一番地に住す。明治十七年版のおもちや絵に此名あり〟    ☆ よしひろ 芳広    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳広    【生】天保九年(1838)五月四日 【歿】明治十七年(1884)四月十八日-四十七    【画系】国芳門人        【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、伊藤氏、俗称重兵衛、一張斎と号す、幼時より画を好み、十三歳にして国芳の門に入る、    嘉永四年(十四歳)山谷氏神の祭礼に町内の大行燈を描きしが、其の筆勢頗る非凡の趣ありしと云ふ〟    ☆ よしふさ 芳房    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳房    【生】天保八年(1837)   【歿】万延元年(1860)六月十日-二十四    【画系】国芳門人      【作画期】安政~万延    歌川を称し、一宝斎と号す、俗称大次郎、法名釈速入信士〟    ☆ よしふさ 芳英    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳英(フサ)    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~嘉永    歌川を称す、一桜斎また一春斎の号あり〟    ☆ よしふじ 芳藤    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳藤    【生】文政十一年(1828)  【歿】明治二十年(1887)-六十    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、西村氏、俗称藤太郎、一鵬斎と号す、武者絵及び組上げ燈籠、切組み絵其他、すべて小    児の手遊絵に長ぜしかば、世人渾名して「おもちや芳藤」と呼びなせり。初め本郷春木町に住みしが、    後ち浅草小島町に移る。又明治十六年及び二十年出版の錦絵に「西村芳藤画、画工、浅草国北三筋町    五十八番地、西村藤太郎」とあり〟    ☆ よしまさ 芳政    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳政    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保~安政    歌川を称す、三浦氏、俗称政次郎、一天斎、また静斎と号せり〟    ☆ よします 芳升    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳升    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】天保    歌川を称し、一猿斎と号す〟    ☆ よします 芳升    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳升    【生】           【歿】    【画系】芳梅門人      【作画期】明治    大阪の人、歌川を称す〟    ☆ よしまる 芳丸 初代    ◯『浮世絵師伝』p213(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳丸 初代    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一円斎と号す〟    ☆ よしまる 芳丸 二代    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳丸 二代    【生】弘化元年(1844)正月五日 【歿】明治四十年(1907)五月十九日-六十四    【画系】国芳門人        【作画期】文久~明治    歌川を称す、伊東氏、俗称鶴吉、一円斎と号す、父は玉屋新七といひ田所町の呉服上絵なり、彼は其    が長男にして、十五歳の時国芳の門人となり国芳の歿後三代清満に就て芝居看板の描法を習ひたり。    法名鶴寿院道仙信士、本所番場の妙光寺に葬る。(兼子伴両氏の研究に拠る)〟    ☆ よしみつ 芳満    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳満    【生】天保八年(1837)四月二十日 【歿】明治四十三年(1910)六月-七十四    【画系】国芳門人         【作画期】安政~明治    歌川を称す、犬飼氏、俗称平兵衛、一教斎と号す、父の業を守りて呉服の上絵職となる。墓所、駒込    東片町の禅宗養昌寺〟    ☆ よしみつ 芳光    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳光    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永    大阪の人、笹本氏、俗称嘉蔵〟    ☆ よしみね 芳峯    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳峯    【生】           【歿】    【画系】芳梅門人      【作画期】明治    大阪の人、歌川を称す、武部氏、俗称安兵衛、一梅斎・胡蝶楼・旭亭・玉亭と号す〟    ☆ よしむね 芳宗    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳宗    【生】文化十四年(1817)  【歿】明治十三年(1880)四月十七日-六十四    【画系】国芳門人      【作画期】天保末~文久    歌川を称す、父は大工職にして、林忠蔵と云ひしが、彼は鹿島氏を名乗れり、俗称松五郎。天保六年    十九歳の時、国芳の門に入り、間もなく画名芳宗及び一松斎の号を与へらる。彼の作品は甚だ少数に    して、錦繪絵三枚続のもの若干図あり、肉筆のうち「鞍馬山大僧正と牛若丸の図」は絵馬に画きて、    芝虎之門琴平神社へ奉納せしもの現存せり。殊に彩色に巧みなりしと云ふ。居所は銀座二丁目いろは    長屋、後ち金春新道に移る。彼の子女十一人のうち、しま女(嘉永四年生)は、新橋芸者若菜屋島次    として著聞し(『浮世絵志』第二十五号参照)、季子周次郎は、彼の歿後二代目芳宗を襲名せり〟    ☆ よしむね 芳宗 二代    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳宗 二代    【生】文久三年(1863)二月五日  現存    【画系】芳年門人        【作画期】明治~現代    歌川を称す、故ありて新井氏と名乗る、俗称周次郎、十三歳の時に芳年の門人となりて、初め画名を    年雪と云へり。明治十四年十一月一日、二代芳宗を襲名して、一松斎の号をも襲用せり、それ以前に    既に十五歳の時(明治十年)西南戦争の錦絵を画きしことあり、稍後に新聞挿画及び雑書の挿絵など    を揮毫す、新聞関係にては、殊に師の引立てを受くる所多かりき。錦絵の作は、明治二十五六年版の    「撰雪六々談」(二十四枚)最も著名なり。久しく芝増上寺地内に住す。(『浮世絵志』第二十六号    所載、大曲駒村氏の研究に拠る)〟    ☆ よしむら 芳村    ◯『浮世絵師伝』p214(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳村    【生】弘化三年(1846)九月  【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】文久~明治    歌川を称す、伊藤氏、静斎、蘭渓等の号あり、晩年、佐藤山斎に就て南蘋の画法を研究す、又、俳諧    を能くし、別号を歌舌といふ、下谷仲御徒町二丁目に住し、後ち坂本町に移る〟    ☆ よしもと 芳基    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳基    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~安政    歌川を称し、一停斎と号す〟    ☆ よしもり 芳盛    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳盛    【生】天保元年(1830)   【歿】明治十七年(1884)十月十日-五十五    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、三木氏(一に田口氏)、俗称作蔵、別号を一光斎・光斎・さくら坊など云へり、初め下    谷広小路に住し、後ち池ノ端茅町に移る、後年内務省十三等出仕を拜命せしが、職を辞して横浜に移    り同地根岸に住し、輸出向きの花鳥画などを描きたりき。    彼が歿時は、一に明治十八年十月五日とせり〟    ☆ よしもり 芳盛 二代    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳盛 二代    【生】安政元年(1854)四月 【歿】    【画系】初代芳盛門人    【作画期】明治    正木氏、俗称福松、慶応二年より初代芳盛の門に入りて初め盛政と号し、又芳盛斎国晴とも云ひしが、    明治十三年二月二代芳盛を襲名す、別号を一光斎と云へり、曾て浅草公園常盤座の看板を画きしとぞ。    居所下谷車坂町、後ち浅草千束町二丁目に移る〟    ☆ よしゆき 芳雪    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳雪    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~文久    歌川を称し、一嶺斎と号す、武者絵あり〟    ☆ よしゆき 芳雪    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芳雪    【生】天保六年(1835)   【歿】明治十二年(1879)-四十五    【画系】芳梅門人      【作画期】文久~明治    大阪の人、森氏、俗称米次郎、南粹・六花園・六花軒・蕙(ヨシ)雪等の号あり。明治五年版「銀座練    化石繁栄之図」には「浪花下り芳雪筆」と落款せり〟    ☆ よしきよ 善清    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝善清    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄~正徳    京都の人、大森氏、元禄十五年版の『しだれ柳』、正徳六年版の『新薄雪物語』を画く、また肉筆美    人画あり〟    ☆ よしくに 美国    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝美国    【生】           【歿】    【画系】北尾政美門人    【作画期】文政    北尾を称す〟    ☆ よしのぶ 美信    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝美信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦~明和    駒井氏、版画肉筆共に美人画をよくす、画風春信に似たれども其が門人にはあらざるべし〟    ☆ よしまさ 美政    ◯『浮世絵師伝』p215(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝美政    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    北尾を称す、天保四年版『相模紀行膝栗毛』金草鞋三ノ下〟    ☆ よしまさ 美政    ◯『浮世絵師伝』p216(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝美政    【生】文化四年(1807)   【歿】明治十四年(1881)八月十六日-七十五    【画系】沼田月斎門人    【作画期】    名古屋藩士、川崎氏、名は茂春、俗稱六之丞、略して六之ともいふ〟    ☆ よしまる 美丸    ◯『浮世絵師伝』p216(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝美丸 二代重政の前名。(二代重政の項參照)〟    ☆ よしまろ 可麿    ◯『浮世絵師伝』p216(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝可(ヨシ)麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人      【作画期】享和    喜多川を称す〟    ☆ よしとみ 吉富    ◯『浮世絵師伝』p216(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉富    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    文化五年九月の検印ある錦絵「【名物】山川白酒」と題する三枚続の人物画に、吉富筆とあり、画風    豊国の影響を受けたるものゝ如し〟    ☆ よしのぶ 吉信    ◯『浮世絵師伝』p216(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉信    【生】天文廿一年(1552)  【歿】寛永十七年(1640)-八十九    【画系】狩野派       【作画期】慶長~寛永    吉信は画家狩野氏の族なり、永徳の男、源三郎と称す、画を父に学びて之れを善くす、慶長年中の人    (大日本人名辞書)    川越町喜多院所蔵の職人絵尽屏風に関しては、「美術画報」四十四編巻三に藤懸静也氏が其画に対し    て見解を述べられて居る故、非常に参考となる故、一部分の要点を抜萃す。    「喜多院の職人尽絵は、実生活の有様を、そのまゝ忠実に描写しやうとするのであるから、近世芸術    の先駆者であり、且つその立派な花といふべきである。此の図はそれが絵画として特に面白いといふ    外に、筆者の着眼点の観るべきこと、図法及び色彩なども、その表現法に適当するやうに、苦心した    ること等に於て、近世芸術史上に、特殊の位置を占むべきものである。今、吾人は此の図の結構につ    いて、やゝ詳かに述べやうと思ふのである。さて、此の図は前記の如く、二十四図に二十五種の職人    を収めてあるが、その職人の種類は次のやうである。    即ち、佛師、傘師、革師、鎧師、經師、糸師、形置師、筆師、扇師、桧物師、研師、弓師、珠数師、    鍛冶師、機職師、刀師、矢作師、蒔絵師、向縢師、番匠師、畳師、桶師、縫箔師、染物師、藁細工師    等である。    乃で、此の図の特徴と認むべき点は、構図上甚だ複雑であつて、従来の歌仙画的職人尽の典型をもた    ぬことである。特に構図上の一特色としては、何れも屋内で、それぞれの生業に努力してゐることで    ある。そうしてかゝる有様を描写するには、筆者の眼を高き位置に定めて、俯瞰する態度に出で、天    井を省いて鴨居や隔ての襖などのみを描き、所謂家根抜きの法によるのが多いが、この図では実際の    眼の高さぐらゐで描寫し屋内の一部分のみを描くのであるけれども、少しも不自然なる形を用ひず、    家根全体を、正直に画き、霞を配して、屋根の全形を描いてゐる。(中略)    此の図の筆者に就いて一考しなければならない。先づ画面を検するに、壺形の印章が捺してあつて、    その文字は吉信と読まれるのである。寺伝によれば、当寺の蔵書印なりといふが、やはり筆者の印章    と見なければならない。さらば吉信とは如何なる人なりやといふに、恐らく、狩野昌庵なる者であら    うと思はれる、昌庵は、晩年薙髪した後の名で、もとは村井久左衛門と云ひ、又一に左門とも称した。    吉信は狩野之信初孫で、父を左門之季と云つた。此の人はもと京都に居つたのであるが、狩野派本家    の継嗣たるべき貞信が若くて歿したので、孝信の末子で探幽尚信等の弟である安信が、その跡を継ぐ    ことゝなつた際、吉信は、種々安信のことを世話する爲に江戸へ下り、万事について心附けて居つた。    後に京都に帰り、禁裡の御用を勤め、寛永十七年に享年八十九歳で歿したのである。」〟    ☆ よしのぶ 吉信    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    藤川氏、漆絵役者絵あり〟    ☆ よしのぶ 吉信    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    田村氏、漆絵役者絵あり〟    ☆ よしのぶ 吉信    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    本姓紀、藤井氏、寛政十一年、京都版『絵本頼朝一生記』に、紀吉信藤井とあり〟    ☆ よしまち 吉町    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉町    【生】           【歿】    【画系】恋川春町門人    【作画期】文化    恋川を称す〟    ☆ よしまろ 吉麿    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吉麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人か     【作画期】文化    肉筆美人画あり〟    ☆ よしまろ 蕙麿    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蕙(ヨシ)麿 二代重政の初名。(二代重政の項参照)〟    ☆ よしのぶ 義信    ◯『浮世絵師伝』p217(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝義信    【生】           【歿】    【画系】重長門人?     【作画期】延享~宝暦    山本氏、俗称平七郎、初め重春といひしが、後ち義信と改む、或は山本房信(富川吟雪)と何等かの    関係ありしものならむか。そが作品中、延享二年十一月、市川海老蔵(二代目団十郎)を題材とせし    漆絵に「山本平七郎重春筆」とあり、次に、寛延元年版の黒本『妖物甲陽軍』にも、「重春」の名を    以て挿画せしが、同四(宝暦元)年版の吉原細見邯鄲の里の口絵には「山本平七郎義信書」とす、こ    れに由れば、彼が改名は則ち寛延二三年頃ならむと推察せらるゝなり。爾後宝暦八年頃までに画きし    役者絵数図あり〟    ☆ よしゆき 義行    ◯『浮世絵師伝』p218(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝義行    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保末    画系未詳、「春、夏、秋、冬」と題する細漆絵あり〟    ☆ よの 世の    ◯『浮世絵師伝』p218(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝世の    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    歌川を称す、文化十二年版の団扇絵(菊に蝶の図)に「哥川世の画」と落款せり〟