Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ うたくに 歌国    ◯『浮世絵師伝』p7(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌国    【生】安永六年(1777)  【歿】文政十年二月十九日-五十一    【画系】蘆国門人?    【作画期】文化末    大阪島之内油町二丁目に生る、俗称武助、浜松歌国といひて狂言作者なり、南水漫遊其他の著あり、文    化十一年より同十三年までに役者錦絵を画きたれば、しばらくこゝに採録す、墓所大阪谷町筋天龍寺。    (黒田源次氏著『上方絵一覧』参考)〟    ☆ うたしげ 歌重(歌川広重参照)    ◯『浮世絵師伝』p7(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌重    初代広重の狂歌名、又団扇絵に「歌重戯筆」とし、納札に「東海堂歌重」とせり、蓋し(歌)川広(重)    を略称したるものならむ。後に三代広重これを襲用せり〟    ☆ うたまさ 歌政(牧墨僊参照)    ◯『浮世絵師伝』p8(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌政  牧墨僊の前名(墨僊参照)〟    ☆ うたまさ 歌政 二代    ◯『浮世絵師伝』p8(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌政 二代    【生】天明七年(1787)   【歿】元治元年(1864)六月廿九日-七十八    【画系】初代歌政(墨僊)門人【作画期】文化~天保    名古屋藩士、沼田氏、名は政民、字に士彜、俗称半左衛門、月斎又は凌雲と号す、文化元年大御番組と    なり、禄百五十石を食む、代官町水道先筋西南角に住せり(名古屋市史学芸篇第四項に拠る)。    文化年間師の旧名歌政を継いで其の二代目となる、又其の頃北斎の名古屋に遊びし際、彼は北斎に就て    学ぶ所ありしが、それより文政天保を経て漸次浮世絵に遠ざかり、張月樵・山本梅逸等に就て専ら南画    の風を学び、よく一家を成すに至りしが、嘉永六年断然画壇を退き、余生を風流韻事に托したりき。北    斎の名古屋滞在中に画きし『伝心画鏡』の奥附に、校合門人、月光亭墨僊・戴璪・北鷹・月斎歌政とあ    り、其他彼の挿画本としては『絵本今川状』二册(文政八年版)あり。墓所名古屋禅寺町含笑寺(禅宗)、    法名拮往院凌雲月斎居士。    因に、彼と月斎峨眉丸とを同一人とする説あれども、疑ふべき点甚だ多し(峨眉丸の項参照)〟    ☆ うたまさ 歌政 三代    ◯『浮世絵師伝』p8(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌政 三代    【生】          【歿】慶応頃    【画系】二代歌政門人   【作画期】天保~慶応    名古屋の人、埴原氏、俗称宮内、後ち次郎右衛門と改む、別号月斎、名古屋藩士たり〟    ☆ うたまろ 歌麿    ◯『浮世絵師伝』p8(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌麿    【生】宝暦三年(1753)  【歿】文化三年(1806)九月二十日-五十四    【画系】鳥山石燕門人   【作画期】安永五~文化三    源姓、北川(後に喜多川とも書せり)氏、名は信実、幼称市太郎、後に勇助と称し、更に勇記と改む、    一説に拠れば、武州川越の産にして、早く父を失ひ、少年時代に母と共に江戸に来りしものならむと云、    夙に石燕に師事して出藍の譽れあり、画名を豊章といひしが、天明二年頃より歌麿と改め、旧名は僅か    に印章などに用ゐたり、別に石要、木燕、燕岱斎、紫屋と号す、又狂歌名を筆の綾丸といへり。    初め忍ケ岡に住せしが、曾て通油町(天明三年九月、吉原五十間道より移る)なる版元蔦屋重三郎方に    寄寓せしこともあり、後ち神田久右衛門町、馬喰町三丁目、神田弁慶橋等に転居す。彼の果して処女作    と認むべきものは不明なれど、安永五年(廿四歳)十月出版の「市川五粒名殘り惣役者発句集」と題す    る一枚摺に市川海老藏(四代目団十郎)の肖像を描き「北川豊章書」と落款せり、それに次ぎて、安永    七年十一月、五代目市川団十郎の「荒川太郎まけず」に扮したる「暫ノ図」(細絵)あり、されば、其    の頃既に作品を発表しつゝありし事を知るべし。次で安永八年には、黄表紙『都見物太郎』及び洒落本    『女鬼産(オキミヤゲ)』の挿画あり、同九年には、黄表紙『芸者呼子鳥』、同『恋の浮橋」等ありて、彼    の画風の未だ定型を成さゞる時代の好作例を示せり。爾後、天明年間に入るに及んで、漸次其の特徴を    現はし、それより寛政四五年頃に至りて技巧益々円熟の域に進み、其の前後に亘りて数多の傑作を出し    たりき。今試みに彼が作品の一斑を示せば左の如し。     絵本の重なるものとしては、     絵本時津風    一册(天明二年版) 絵木江戸爵(スズメ)  三册(同六年)     和歌夷      一册(同六年)   絵本詞の花      二册(同七年)     絵本虫撰(ムシエラミ) 二册(同八年)   絵本譬喩節(タトヘノフシ) 三册(同九年)     絵本狂月望    一册(寛政元年)  汐干のつと      一册(同元年?)     百千鳥狂歌合   二册(同二年?)  絵本普賢像      一册(同二年)     絵本銀世界    一册(同二年)   絵本歌まくら     一册(同初年頃)     絵本吾妻遊    三册(同二年)   絵本駿河舞      三册(同二年)     絵本四季の花   二册(同十三年)  吉原青楼年中行事   二册(享和四年)    等なるが、就中『絵本虫撰』及び『汐干のつと』に於ける写生の努力と、『絵本歌まくら』に於ける描    写の精緻とは、流石に彼が真面目を窺ふに足るものなり。    次に錦絵のうち最も優秀の作として挙ぐれば左の如きものなり。     四季造花之色香       風流花の香遊        青楼爾和嘉鹿島踊続        青楼仁和嘉女芸者部      (以上天明前半期の作)     役者六家選(細絵三枚)   小伊勢屋おちゑ(雲母地)  富木豊雛(雲母地)        難波屋おきた(雲母地)   歌撰戀の部(雲母地)    婦女人相十品(雲母地)     婦人相学十体(雲母地)     (以上寛政前半期の作)     美人裁縫の図(黄地三枚続) 青楼十二時(同十二枚)   娘日時計(同十二枚)     北国五色墨(同五枚)    錦織歌麿形新摸樣(同三枚) 五人美人愛敬競(正銘歌麿)     青楼七小町(同)      高名美人六家撰       六玉川     婦人泊り客之図(三枚続)  台所美人(二枚続)     鮑取り(三枚続)     両国橋上橋下納涼之図(六枚揃) 逢身八契        実競色の美名家見     婦人手業拾二工       婦人手業撰競     (以上寛政後半期の作)     男女魚釣の図其他(長判)  婦人相学拾体(再題)     (以上享和年間の作)    尚ほ右の外にも佳作尠からざるべし。    彼が錦絵に於ける技巧の優れたる点は、一々指摘するに遑なけれども、其の寛政前半期の作に見ゆる雲    母の応用及同時期の作たる細絵両面摺(「難波屋おきた」「高島おひさ」の二図)の如きは、正に特筆    すべきものなりとす。当時江戸の水茶屋女として評判高かりしおきた、おひさ其他の二三人は、天性の    美貌を以て人氣を呼びしものなるべけれど、一面彼れが錦絵に描かれて、弥が上に世評を高めしことは    論を俟たず、其の点、先に春信の好画題となりし笠森お仙及び柳屋お藤と比儔するものなり。げに彼が    女性観は徹底的にして、些細の動作を写せしものにも無限の情調を漾はしむる所あり、正に「美人画の    天才」の名実共に相備はれるものと謂ふべし。    但し、この天才歌麿も、ひそかに先輩春信を畏敬せしものゝ如く、彼が寛政中期の作たる黄地大判錦絵、    男女虚無僧姿の図には、傍書に故人春信図と明記せり(口絵第四十一図参照)。以上、絵本、錦絵等の    外、黄表紙二十余種、洒落本数種にも挿画し、また小咄本などの挿画もありて、頗る多種多樣の図に富    み、尚ほ数多の肉筆画の遺存せるもあり、殊に春宵秘戯の絵本類に至りては、彼の面目躍如たるものあ    れど、遺憾乍ら茲に詳録の自由を有せず。    彼れが作画上に於ける自負心の強かりし事は、曾て其の作品に附刻せる彼れの告白に由つて明かなる所    なり、曰く「人まねきらい、しきうつしなし、自力画師歌麿が筆に」云々、又曰く、「予が画くお半長    右衛門は、悪癖をにせたる似づら絵にはあらず」云々、と自ら高く標榜し、暗に他を蔑視せる傾きあり    しが如し。又、かの『【吉原青楼】年中行事』に就て、作者十返舎一九と功を争ひしが如き、自己の芸    術に就いて相譲らざりし彼の態度を想見するに足れり。    彼は、文化元年「太閤洛東五妻遊観」(三枚続)を画きて罪せられ、入牢及び手鎖の刑を受け、大いに    心身に打撃を蒙りしにや、其後幾年ならずして遂に他界せり、法名、秋円了教信士、浅草北松山町なる    専光寺(浄土宗)に葬る。    門人二代目恋川春町、彼の後を襲ひて二代目歌麿を名乗りしかども、その技到底彼に及ぶべくもあらず、    血統亦彼れ一代にして絶えたり、然れども彼が芸術上の生命は不朽にして、夙に海外にまで其の名を称    へられ、幾多の著述に依つて殆ど全世界に喧伝せられつゝあり。    曾て其が墓域の將に不明に終らむとせしを、(故)武田信賢氏の捜訪によつて其の跡を確認され、次に    (故)橋口五葉氏と星野日子四郎氏との首唱を以て有志を募り、其が墓碑再建の挙は全うせられたりき、    これ大正六年十月の事に属す。(本稿亦両氏の研究より得る所甚だ多し)      (歌麿の肖像あり。「栄之六十歳筆」(大英博物館藏))〟    ☆ うたまろ 歌麿 二代    ◯『浮世絵師伝』p11(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌麿 二代    【生】           【歿】    【画系】初代歌麿門人    【作画期】文化    喜多川を称す、俗称鉄五郎、別号梅雅堂、居所馬喰町一丁目。初め恋川春町に就て戯作を学び、恋川幸    町と云ひて黄表紙五六種を作りたり(自天明七年、至寛政七年)、師の歿後二代目春町を襲名し、文化    年間にも二三の草双紙を作れり、それより前、初代歌麿の門に入りて画を学びしが、画名は戯作名と同    じく春町を称せしものゝ如し。然るに、文化三年九月、初代歌麿の歿するや、彼は間も無く二代歌麿を    名乘り、画風師の晩年に酷似せる美人画の錦絵を数多出だせり。茲に不審なるは、初代歌麿門下に於て    は、彼よりも早く入門し、且つ彼よりも技倆の優れし者もありしなるべきに、儕輩を抜きて彼が師名を    継ぎしは、其の間何等かの事情の潜在せしにはあらずやと謂ふべき一事なり。いま『新増補浮世絵類考』    系譜の部には「馬喰町ニ住ス、二世恋川春町卜云人也、書ヲ能ス、故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也、錦絵アレ    ドモ拙キ方、文化ヨリ天保ノ頃ノ人、俗称北川鉄五郎」とし、また『戯作者略伝』二世恋川春町の絛に    は「下谷坂本町に住居と聞けり、文寿堂書房なりし頃の話に、貴家の剃髪して隠居し賜へりともいひ、    又医師なりともいふ、何れ歟是ならん、故春町が門人にて、恋川幸町といひけるよし自らいへりとぞ」    と記せり。彼が二代歌麿としての作画期は、文化三年以後同十三年までは確証あれど、それ以後は如何    なりしや不明なり。世間往々にして、初代晩年の作と彼が襲名当時の作とを混同せる場合あれど、これ    を区別する方法は、其が錦絵に附刻せる検印に拠りて、例へば「寅九」即ち文化三年九月を境界として、    それ以前のものを初代以後のものを二代と認める事、検印無きものは、画風落款等を比較して、類似点    の如何によつて兩者を区別することも難きにあらざるべし。(口絵第四十二図は、「辰六」即ち文化五    年六月の検印を有するものなり)    尚ほ、二代目春町作としての草双紙は、文政三年以後天保二年までに、二十種近くのものあり、此の春    町は果して、彼と同一人なりや否や、未だ確証を得ざれども、若し同一人なりとせば、天保二年まで在    世の一証とすべし〟    ☆ うたまろ 歌麿(栄文参照)    ◯『浮世絵師伝』p11(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌麿 別人    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    肉筆美人画に「栄文菅原利信」の落款及び「喜多川」「自成一家」の両印を有するものと、肉筆の美人    画に「喜多川歌麿筆」(印文同前)の落款を附せるものとあり、これによりて、栄文(栄之門人)なる    者、別に「歌麿」を自称せしことを証するに足れり。但し、其が作画年代は文化末期なるべければ、或    は二代歌麿に続いて歌麿を襲名せし者なるやも知るべからず、藤懸静也氏は曾てこれを「三代歌麿」と    して紹介されし事あり(『浮世絵之研究』第十八号参照)、然れども、襲名の如何は未詳なれば、こゝ    には仮りに「別人歌麿」として収載し、後の考証を俟つことゝすべし。(栄文の項参照)〟    ☆ うたやま 歌山    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歌山    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    石川氏、画風喜多川派に近し〟    ☆ うちまさ 内政    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝内政    【生】           【歿】    【画系】重政門人か     【作画期】明和    春信風の男女舟乗の図(柱絵)あり〟    ☆ うんが 雲峨    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝雲峨    【生】           【歿】明治十八年(1885)七月    【画系】北斎門人      【作画期】嘉永~明治    東京麹町番町辺に住す〟    ☆ うめくに 梅国    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、豊川を証す、四季亭・壽曉堂と号す、役者絵あり〟    ☆ うめさだ 梅貞    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅貞    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    大阪の人、国貞風の美人画あり〟    ☆ うめひで 梅英    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅英(ヒデ)    【生】           【歿】    【画系】芳梅門人      【作画期】明治    大阪の人〟    ☆ うめまろ 梅麿    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅麿     【生】           【歿】    【画系】雪麿門人      【作画期】文化~天保    喜多川(また柳川)を称す、小山氏、俗称平吉、後ち平七と改む、墨春亭・春廼舎・梅舎等の号あり、    戯作をよくす。尚ほ、文化年間の作と認むべき肉筆「女万歳」の図に、「應需試筆、字米麿」と落款せ    り、恐らくは梅麿と同一人なるべし〟    ☆ うめゆき 梅雪    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝梅雪    【生】           【歿】    【画系】中島芳梅門人    【作画期】明治    大阪の人、岩井氏、俗称梅次郎、後ち伊予宇和島に行きて料理店を開きしと云〟    ☆ うんちょう 雲蝶    ◯『浮世絵師伝』p12(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝雲蝶    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    肉筆遊女文を持つの図あり、画風春扇に似たり〟