Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ とういつ 東一    ◯『浮世絵師伝』p124(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東一 北鵞の別号〟    ☆ とういつ 東一    ◯『浮世絵師伝』p124(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東一 眉山の別号〟    ☆ とううん 東雲    ◯『浮世絵師伝』p124(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東雲    【生            【歿】    【画系】          【作画期】文化    錦絵美人画あり、落款に会陽東雲とあれば、会津の人なるべし〟    ☆ とうえい 東栄    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東栄    【生】           【歿】    【画系】細田派       【作画期】文化    錦絵美人画あり〟    ☆ とうえんさい 東燕斎    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東燕斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛延    肉筆美人画あり〟    ☆ とうえんさい 東艶斎    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東艶斎 保信の別号〟    ☆ とうがく 東岳    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東岳    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安政    歌川風の肉筆美人画(墨田堤花見芸妓)あり、印文に「島岳」とす〟    ☆ とうきょ 東居    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東居    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】弘化~嘉永    京都の人、梅川氏、美人画錦絵あり〟    ☆ とうざん 東山    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東山    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】嘉永    晴雲斎と号す、人物画あり〟    ☆ とうし 東子    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東子    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    西川氏、文化六年版の草双紙『復讐大山二筋道』(谷峨作)の前編を画く、後編は北嵩画とあり〟    ☆ とうしゅう 東秀    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東秀    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】文化     美人画あり〟    ☆ とうせん 東穿    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東穿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    春信風美人画錦絵あり〟    ☆ とうなん 東南    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東南    【生】           【歿】    【画系】吉村周南門人    【作画期】天保~弘化    梅川氏、別に雪枝と号す、京都御幸町四條下ル町に住めり、弘化四年版の『皇都書画人名録』に「今樣    浮世和画、浪花周南先生門人」として出づ〟    ☆ とうはけん 東波軒    ◯『浮世絵師伝』p125(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東波軒    【生】           【歿】    【画系】師宣派       【作画期】元禄    元禄十三年版の『【野良】姿記評林』上巻第十六丁に(前略)風吹洞にうき世絵かいて鑓踊など彩色菱    川がながれ東波軒となんいゑる女中もの専ら此道をうれしがりけるとかや云々とあれど、未だ其の作品    を見ず〟    ☆ とうり とうり 東籬    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東籬    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛保    肉筆美人画あり〟    ☆ とうりゅうさい 東流斎    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝東流斎    【生】           【歿】    【画系】勝川派       【作画期】天明頃    細判役者絵あり〟    ☆ とうけい 桃渓    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝桃渓    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明~文化    大阪の人、丹羽氏、名は元国、靖中庵と号す。天明六年版『好言草』、寛政十年版『紙漉重宝記』、文    化十一年版『芝翫栗毛』等に挿画せり〟    ☆ とうせん 桃川    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝桃川    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享和    大阪の人、優遊斎と号す〟    ☆ とうせん 等川    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等川    【生】           【歿】    【画系】二代目等琳門人   【作画期】文化    堤氏、人物及び風景画摺物あり〟    ☆ とうじゃくし 藤若子    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝藤若子    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    京都服初の銅版画家、文化三年版『蘭療薬解』(広川、龍淵著)の扉絵一図を作る、居所錦小路。(黒    田源次氏著『上方絵一覧』に拠る)〟    ☆ とうすい 藤水    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝藤水    【生】           【歿】    【画系】珍重門人      【作画期】元文~寛延    羽川氏を称す、名は道信、浮絵朝鮮人の図(寛延二年版)あり。『浮世絵師系伝』には「珍重門人なり、    谷中感応寺の天井の龍と天人は此人の筆なり、珍重と同時に芝居絵本吉原細見記上るり本赤本等のさし    絵多く画きぬ」と記せり〟    ☆ とうめい 等明    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等明    【生】           【歿】    【画系】三代等琳門人    【作画期】文化~文政    堤を称す、南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘お栄を妻とせしが後之    を離縁す〟    ☆ とうりん 等琳    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等琳    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保~天明    堤氏、俗称孫二、聾等琳といふ、堤流の祖なり〟    ☆ とうりん 等琳 二代    ◯『浮世絵師伝』p126(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等琳 二代    【生】           【歿】    【画系】初代等琳門人    【作画期】寛政    堤を称す、月岡氏、俗称吟二、また諸岡氏、俗称千代松と云ふ説もありて一定せず、或は等琳の二代三    代を混同せしものにはあらざるか、猶考ふべし〟    ☆ とうりん 等琳 三代    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝等琳 三代    【生】           【歿】    【画系】初代等琳門人    【作画期】寛政~天保    堤を称す、月岡氏、俗称吟二(一説に二代の姓氏及び俗称とす)初め秋月と号し後雪山と改む、等琳は    画名にして字を雪館といふ、別に深川斎の号あり、蓋し当初深川に住せしが故ならむ、後浅草大代地に    移る、一説に常盤町或は米沢町河岸に移りしともいへり、自ら雪舟十三世の孫と称し、一派の画風を立    て、幟画、祭礼の行燈、摺物及び団扇絵(落款に「堤深川ぎんじ画」とせる例あり)等を描き、門人の    数夥しかりしと云ふ。後、法橋に叙せらる〟    ☆ とうちょう 桐鳥    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝桐鳥    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    天明四年及び同八年の絵暦美人画あり。画風豊春に似たり〟    ☆ とうん 吐雲    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝吐雲    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    錦絵美人画あり、画風清長に近し、一に「山吐雲」と落款せるは、其の姓氏の一字を冠したるものなる    べし〟    ☆ ときなり 時成    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝時成    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    風柳庵と号す、肉筆遊女の図あり、画風英山に似たり〟    ☆ ときのぶ 辰宣    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝辰宣    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】延享~宝暦    北尾氏、雪坑斎・仁翁と号す、大阪周防町に住せり、美人画をよくし、絵本数多あり。彼の落款中往々    「檀画」と傍書せるは、「擅画」の誤りにして、即ち「擅まゝに画く」の意なり、これ浮世絵の精神を    標榜したるものとして、注目に値すべき一事と謂ふべし〟    ☆ とくしん 徳真    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝徳真    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保頃    長春風の肉筆美人画あり〟    ☆ とさみつのり 土佐 光則    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝土佐光則 光則参照〟    ☆ としかた 年方    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年方    【生】慶応二年(1866)一月廿日 【歿】明治四十一年(1908)四月七日-四十三    【画系】芳年門人        【作画期】明治    水野氏、俗称粂三郎、応斎・蕉雪等の号あり。もと神田紺屋町なる左官職の家に生れ、幼時より画を好    み、夙に芳年の門人となりて専心浮世絵を学びし外、柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭等に就て得る所尠    からず。彼が新聞の挿画に一新記元を開きし事は、著名なる功績の一なるが、しかも門生を薫陶するに    宜しきを得たるは、延いて明治画壇に貢献する所多大なりしものと謂ふべし。現代画壇に一地歩を占む    る鏑木清方氏及び故人池田輝方・蕉園女史の如きは、彼が門下のうち錚々たる人々なり。彼が錦絵は風    俗画・戦争画等数多出版されしが、其中に明治十八年版『日本略史図会』三韓征伐の図(三枚続)には    「画工、神田区東紺屋町五番地、野中粂次郎」とせり。法名色雲院空誉年方居士、墓所浅草区松葉町貞    源寺〟    ☆ としつね 年恒    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年恒    【生】安政五年(1858)   【歿】明治四十年(1907)五月廿七日-五十    【画系】芳年門人      【作画期】明治    稲野氏、本姓武部、名は孝之、贏斎・北梅・可雅賤人の号あり、加賀の人、後大阪に住む、新聞挿絵を    以て名を得たりき。墓所大阪谷町口縄坂、太平寺、法名孝之院不昧年恒居士。彼の門人数多ありしが中    に、北野恒富・幡恒春等最も著はる〟    ☆ としのぶ    ◯『浮世絵師伝』p128(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年信    【生】安政四年(1857)   【歿】明治十九年(1886)    【画系】芳年門人      【作画期】明治    山崎氏、一に斎藤氏、俗称徳三郎、南斎・呉園・扶桑園・呑海等数号あり、後ち師(芳年)に憚る所あ    りて、年信を仙斎春香と改む。彼れ幼より画を好みしが、父の家計裕かならざりし爲め、十一歳の秋提    燈屋の小僧と成り、稲荷祭の神事行燈などを画くうち、偶然芳年に認められて其の門に入る、時に明治    三年(十四歳なり)、爾後師家に寄寓して修技に怠らざりしに明治十年故ありて師の許を出奔し、(十    年九月出版の西南戦争錦絵には淺草北富坂町三十二番地とあり其の前には駒形町二十五番地)関西地方    に赴き、諸新聞に挿画を執筆せしが、其の間一度東京に歸り、(十一年版の錦絵に蛎殻町三丁目とあり)    居ること久しからずして復た京都に赴き、遂に彼の地にて歿せしなり、其の生涯甚だ曲折に富み、奇聞    逸話亦一にして足らず、菩提所は京都新京極西光寺なれど墓石は現存せざる由〟    ☆ としのぶ 年信 二代    ◯『浮世絵師伝』p128(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年信 二代    【生】慶応二年(1866)   【歿】明治卅六年(1903)八月廿二日-卅八    【画系】芳年門人      【作画期】明治    丹波亀岡藩士白井勝承の男、名は勝沅(一に洗とせるは誤)、俗称信次郎、出でゝ田口氏を嗣ぐ、初め    修斎(また鮮中舎といふ)国梅と号したれば、或は四代豊国に学びしもの歟、後ち芳年の門人となりて、    年信の号を与へらる、明治二十三年大阪に赴きて、諸新聞の挿画を担当し、其の間森寛斎及び深田直城    に学ぶ所あり、三十一年東京に帰りて川端玉章の指授を受け、後ち日本画通信教授を開設す、三十六年    心臓病に罹り、芝金杉浜町の宅に逝く、曩に山崎年信あれば、乃ち彼を以て二代年信とす〟    ☆ としひさ 年久    ◯『浮世絵師伝』p128(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年久 耕漁の前名〟    ☆ としひで 年英    ◯『浮世絵師伝』p128(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年英    【生】文久二年(1862)   【歿】大正十四年(1925)-六十四    【画系】芳年門人      【作画期】明治~大正    右田氏、名は豊彦、俗称豊作、梧斎・晩翠楼・一頴斎等の号あり、豊後国北海部郡臼杵村の人にして後    東京に移る。錦絵及び新聞挿画等を描けり〟    ☆ としまさ 年昌    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年昌    【生】           【歿】    【画系】芳年門人      【作画期】明治    春斎と号す、其の姓甚だ浮世絵を好み、之を学ばむにも資に乏しければ正式に入門する能はず、遂に芳    年翁方へ車夫として住込み余暇を以て師の教へを受くることゝなれり、明治二十二年五月師家を辞して、    専ら錦絵を画きしが、後ち三代豊国門人国玉の養子となる〟    ☆ としまる 年丸    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年丸    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    歌川を称す〟    ☆ としみつ 年光(年峯参照)    ◯『浮世絵師伝』p139(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年光    【生】           【歿】    【画系】芳年門人      【作画期】明治    古林氏、名は栄成、進斎と号し、肩書に「日不見岡」としたり。西南戦争の錦絵を画き明治十四年頃に    は風俗画あり。神田猿樂町二丁目三番地に住す〟    ☆ としみね 年峯(年光参照)    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年峯    【生】           【歿】    【画系】芳年門人      【作画期】明治    古林氏、名は栄成、年光と同一人にして、年峰時代には京橋区銀座二丁目十番地に住す〟    ☆ としもと 年基    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年基    【生】           【歿】    【画系】芳年門人      【作画期】明治    大阪の人、鈴木氏、俗称雷之助、雷斎(後に蕾斎と改む)と号す。明治十年版「文武高名伝」数図、及    び「大日本名所写真」と題する風景画(中判二丁がけ)数図を画けり、画風清親を模倣せしものゝ如し。    大阪安堂寺橋通三丁目二十三番地に住す〟    ☆ としゆき 年雪(芳宗二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年雪 二代芳宗の前名〟    ☆ としくに 歳国    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝歳国 北雁の前名〟    ☆ としまろ 俊麿    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝俊麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人か     【作画期】文化〟    ☆ としちか 俊親    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝俊親    【生】           【歿】    【画系】菊池容斎門人    【作画期】明治    蒔田氏、歴史画の錦絵あり〟    ☆ としのぶ 俊信    ◯『浮世絵師伝』p129(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝俊信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    懐月堂風の肉筆美人画あり、享保初年頃の作にして落款に「武蔵里画嬋毫堂俊信図」とす〟    ☆ としのぶ 利信    ◯『浮世絵師伝』p130(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝利信    【生】           【歿】    【画系】政信門人      【作画期】享保~寛延    奥村氏、鶴月堂、文全と号す、美人画及び役者絵を巧みにし、享保八九年頃より寛保年間に亘りて、数    多の漆絵(紅絵)を発表せり。彼に就ては従来三種の説あり、即ち一は政信の子として、宝永六年に生    れ寛保三年に三十五歳を以て歿すといふ。説(米人フィツケ氏が某書に拠りしものか)、二は政信の弟    ならむとして、夭折を肯定したる説(落合直成氏)、三は政信の門人なるべしとして、元文或は寛保の    初め頃に歿せしかと云へる説(藤懸静也氏)なり。三説いづれも確証を有する所にはあらざれども、今    彼の作品と政信の作品とを比較せし結果によれば、第三の政信門人説を以て最も妥当と認むべきが如し。    但し、其が歿年に就てに、今少しく後年に延長するの要あり、そは寛延年間に、尚ほ彼が作品(青本)    の発表ありしを見ても知るべし。初め彼の細判漆絵(紅絵)は、版元より出版せしが、享保十三年に至    りて、彼の役者絵を奥村屋より出だすと同時に、従前の版元の或る特定の者を除くの外は、殆ど出版関    係を断ちしものゝ如く、其後は、専ら奥村屋によつて出版さるゝことゝなれり。一例として、享保十七    年春、市村座「松竹梅根元曾我」に於ける瀬川菊次郎の八百屋お七(お七五十年忌記念)の役を画きし    もの(口絵第十四図参照)を挙ぐれば、版元即ち奥村屋の家標たる瓢箪の印ありて、落款の肩書には    「東武大和画工」とせり、肩書は尚ほ他の図に「大和絵師」・「大和画工」或は「日本画工」とせる例    もあり。これ等の肩書は、皆政信に倣ひしものにして、画印には「奥邨」とせり。彼の細判漆絵(紅絵)    として、最後に近き寛保年間の作には、「【なつまやう/ねむあけ】三幅対」おどり子ふうなどゝ題す    るものあり。ついで延享年間の黒本『高砂十帰松』三册、寛延二年版の青本『【編木三八】疱瘡除』二    册、同じく寛延年間の青本『作(ダテ)奴化物退治』三册等を以て、彼の作は終れり。されば、それ以    後幾ばくもなくして他界せしものならむか。如上の作画年代より推考すれば、彼は政信門下に於ける最    初の入門者にして、其が技倆に於ても頗る優秀なる點あり。就中、彼が享保十年頃の作なる竪大判の漆    絵「八百屋お七対鏡の図』の如きは、彼が全作品中の代表的傑作と称するに足るものなり〟    ☆ とみのぶ 富信(国富参照)    ◯『浮世絵師伝』p130(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝富信    【生】           【歿】    【画系】二代豊国門人    【作画期】文政~嘉永    初め国富といひ、文政年間に富信と改む、別に花川亭と号せり〟    ☆ とみのぶ 富信    ◯『浮世絵師伝』p130(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝富信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦    宮川氏、宝暦年間の紅摺絵中村松江の女形細判に此の落款あり〟    ☆ とみゆき 富雪    ◯『浮世絵師伝』p130(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝富雪    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】嘉永    大阪の人、六花亭・千錦亭・緑華亭と号す、読本の挿絵あり〟    ☆ ともあき 友章    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝友章    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄    菱川を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ ともゆき 友雪    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝友雪 ユの部へ入る〟    ☆ とものぶ 友宣    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝友宣    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄    菱川を称す、肉筆美人画に「日本絵房国菱川友宣筆」と落款せり〟    ☆ ともふさ 友房    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝友房    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄    菱川を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ ともゆき 友幸    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝友幸    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和~安永    菱川氏、明和二年の絵暦に「友幸工」とせる例あり、安永年間には自画作の草双紙を出せりと云ふ〟    ☆ とものぶ 流宣    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝流(トモ)宣    【生】           【歿】    【画系】師宣風       【作画期】元禄~正徳    石川氏、名は俊之、俗称伊左衛門、画俳軒と号し、流船ともいひ、また河末軒流舟ともいへり。彼は文    才ありしと見え、自画作の好色本五六種あり、其他、江戸絵図などを画けり、概略左の如し。     ◯好色江戸紫(【流宣作・師重画/貞享三年版】) ◯江戸図鑑綱目(元禄二年)      ◯吉原大絵図(元禄二年)            ◯枝珊瑚珠(同三年)      ◯日本鹿子(同四年)              ◯大和耕作絵抄(元禄初頃)      ◯武道継穂の梅(元禄版)            ◯好色俗むらさき(同十一年)      ◯万国総界図(宝永五年)            ◯江戸案内巡見図鑑(同五年)      ◯吉原大黒舞(同六年)             ◯御江戸大絵図(正徳三年)     右のうち、元禄二年版の『江戸図鑑綱目』には、「版木下絵師」として、古山師重(次に浅草石川伊左    衛門俊之)・杉村正高・菱川師永等と共に彼の名を連ねたり。また『大和耕作絵抄』の奥附には「書画    筆工、大和絵師石河流宣図」とありて、本文の書風は相当の達筆なり。画風は師宣の影響を受けしこと    勿論なれど、門人なりしや否やは未詳なり。一に流宣と流舟とを別人とする説あれども、寶永五年版の    『万国総界図』に「画工石川氏俊之」として、下に「流舟」の印あるを以て、同一人たること明かなり。    尚ほ、彼が述作の『好色江戸紫』(貞享三年版)は、後ち享保元年に『武道江戸紫』と改題再版せり〟    ☆ とよあき 豊章(喜多川歌麿参照)    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊章 歌麿の別名〟    ☆ とよあき 豊章    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊章    【生】           【歿】    【画系】勝川派か      【作画期】寛政    細判役者絵あり〟    ☆ とよきよ 豊清    ◯『浮世絵師伝』p131(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊清    【生】           【歿】    【画系】石川豊信門人    【作画期】宝暦    宝暦年間の肉筆「柳下美人納涼之図」に、「日本絵、石川豊清」と落款せり、画風豊信に酷似し相当    優秀の技倆を示せり〟    ☆ とよきよ 豊清    ◯『浮世絵師伝』p132(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊清    【生】寛政十一年(1799)  【歿】文政三年(1820)-二十二    【画系】初代豊国門人    【作画期】文化    歌川を称す、豊広の子、俗称金蔵、初め俗称を以て画名とせしが、文化九年の春、豊春より「豊清」の    号を与へられたり。幼少より画才優れて、既に十二歳(文化七年)の時に画きし草双紙あり、又文化九    年頃の筆と覚しき『今樣美人娘合せ」といへる錦絵もあり、文政元年頃正月の摺物「四天王」と題する    七代目団十郎の似顏絵を画けり。其の技或は大成すべかりしなむも、未だ其の域に達せずして早世す〟    ☆ とよくに 豊国    ◯『浮世絵師伝』p132(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国    【生】明和六年(1769)   【歿】文政八年(1825)一月七日-五十七    【画系】豊春門人      【作画期】天明~文政    歌川を称し、一陽斎と号す、倉橋氏、俗称熊吉、後ち熊右衛門と改む。父は俗称を五郎兵衛といひ、宝    暦の頃より芝三島町に住し、木彫人形師として名手の聞へあり、豊国其の家に生れて、幼より画を好む    こと甚だしく、ひそかに画家たらむことを志望せしが、恰も同町には浮世絵の大家歌川豊春の住めりし    を以て、乃ち其が門下に入りて薫陶を受く。天明六年発行の黄表紙『無束話親玉』(新(ママ)森)羅亭万    象作)は、彼が草双紙に挿画せし最初のものなり、尋で翌七年の干支を有する中判錦絵の美人画あり、    されば彼が十八歳前後の頃、既に其の作品を発表せしものなる事を知るに足るべし。而して、初めは師    風に近き美人画を描きしが、漸次清長・歌麿等の特長を採り、寛政五六年頃に至りては、彼が技巧上に    非常の進境を示したりき。則ち其頃よりして、役者似顏絵に筆を染め、彼が出世作とも称すべき「役者    舞台之姿絵」(口絵第四十五図参照)数十枚の如きは、実に寛政六年より翌七年に亘りて発表せしもの    なり。固より、彼の役者絵は春英に多大の感化を受けしものなれども、しかも亦彼が天分に豊かなりし    事を認めざるべからず。寛政以後、享和を経て文化に入るや、彼が作品は美人画よりも役者絵を以て大    多数を占め、世人亦彼を目して似顔絵師と称するに至れり。然れども、其の数愈々多きを加ふるに従ひ、    其の技益々廃頽的傾向を生じ、徒らに時流に迎合して、芸術的向上を疎外せしが如き観なきにしもあら    ず、これ彼が爲めには悼むべきも、文化史的変遷を示したる点に於ては、寧ろ重視せらるべきものなり    とす。彼が未だ名を成さゞりし頃、芝の絵草紙問屋和泉屋市兵衛(略称泉市)に請ひて、初めて其が処    女作を発表せし事は、眈に諸書に記載する所なるが、そは要するに、彼と版元とが同町内に居住せしが    爲め、自然斯かる機縁を生ぜしものに外ならず。併し彼が斯界に名声を博し、且つ三島町より尾張町、    堀江町(或は芳町)、上横町等に転居せし後と雖も、尚ほ旧誼を重んじて、和泉屋の需めに対しては特    に厚く意を用ふる所ありしと云ふ。彼が、汗牛充棟も啻ならざる多数の作品中より、主要なる絵本のみ    を挙ぐれば左の如し。     ◯絵本匂扇子(寛政初頃)          ◯燕都乃見図(同七年)      ◯俳優卅六家撰集(国政と共画 寛政十一年) ◯増補戯子名所園舎(同十二年)      ◯役者三階興(同十三年)          ◯絵本時世粧(享和二年)      ◯俳優三十二相(同二年)          ◯役者此手柏(同三年)      ◯役者相貌(ニガホ)鏡(文化元年)      ◯役者似顏早稽古(同十二年)      ◯豊国年玉筆(文政十三年)    彼には一男一女あり、男は直次郎(豊年か)、女はきん(国花女(クニカメ))といひ、両人共多少画道に    たづさはりしが、直次郎は故ありて廃嫡となり、きんは後に他に嫁せり、乃ち門人豊重に他の女を配し    て夫婦養子とす、豊重は師の歿後間もなく二代豊国を襲名せり。彼が法名は得妙院実彩霊毫信士といひ、    三田聖坂弘運寺に葬れり。また、文政十一年八月門人等協力して、本所柳島妙見堂境内に一砕を建立し、    題して「豊国先生瘞」(四方真顔撰、山東京山書)といふ。碑背には門人等の連名あり、就中、国政・    国貞・国安・国丸・国直・国芳・国虎及び二代豊国等最も著名なり〟    ☆ とよくに 豊国 二代    ◯『浮世絵師伝』p133(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国 二代    【生】享和二年(1802)   【歿】    【画系】初代豊国門人    【作画期】文政~天保    歌川を称す、俗称源蔵、文政の初め頃初代豊国の門に入り、始め一龍斎豊重と号せしが、文政七年頃師    の家に夫婦養子となる、落款に「豊国伜豊重画」とせしは其頃の作なり、蓋し其が妻は豊春の血縁に当    れる者ならむか。次で翌八年師の歿後直ちに師家を継ぎ、同年三月二代目豊国を襲名したり、時に年二    十四。襲名以後は、一陽斎(文政十一年乃至同十二年)・一瑛斎(文政十一年頃)・後素亭(文政十一    年頃乃至天保五年頃)・満穂庵(天保四五年頃)等の別号あり。彼は若年にして早くも師家の名誉を一    身に担ふことゝなりしかば、これを同門中の一派の者等より羨望且つ嫉妬されしは、亦止むを得ざりし    なり。乃ち伝記に、彼は師の寡婦に入夫せりと云ひ、或は其の技拙劣にして見るに足らずなどゝ伝へし    は、全く中傷的捏造説にして、これ恐らくは、暗に彼と反対の位置に立ちし国貞一派の所爲なるべし。    事實、彼の画技に於けるや、伝ふるが如き拙劣なるものに非ず、美人画に、俳優絵に、また其他の作画    に、相当注目に値すべきものあり、其が錦絵の作は頗る多く、就中、彼が唯一の風景画たる「名勝八景」    (天保初期の作)の如きは、頗る出色の作なり。錦絵以外に尚ほ、肉筆美人画あり、草双紙の挿画あり、    其の技未だ衰へたりと思はれざるに、天保五六年以後は、全く彼の画蹟をとゞめず、これ或は諸書に伝    ふるが如く天保六年(十一月一日)に死せしものか、又は、一旦師家を去りて画界を追き、本郷春木町    に陶磁噐業を営みつゝ、尚ほ数年を生存せしものか、其の点甚だ不明瞭なれども、天保六年に五十九歳    なりしとする説は甚だ疑はしきものなり。依て、いま七戸吉三氏の数年来の研究に基き、彼の生年を享    和二年と認め、これを天保六年に当つれば三十四歳となる、而して歿年未詳といふ結論を以て至当なり    とすべし。因に、七戸氏の二代豊国に関する研究論文は、雑誌『浮世絵志』第八号乃至二十八号中に詳    述されたるものあり、本項亦主として氏が所論に拠る〟    ☆ とよくに 豊国 三代(歌川国貞参照)    ◯『浮世絵師伝』p134(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国 三代    【生】天明六年(1786)   【歿】元治元年(1864)十二月十五日-七十九    【画系】初代豊国門人    【作画期】文化~元治    歌川を称す、角田氏、俗称庄藏(後に肖造)、家を亀田屋と称す(父に庄兵衛といひ本所五ツ目の渡船    場を経営せしが、性俳諧を好みて五橋亭琴雷と号しき、天明七年歿)。彼は、幼少より画を好み、師無    くして既に画技の観るべきものありしが、初代豊国の門人となるに及んで、頓に技倆の進境を示したり。    初め画名を国貞といひ、一雄斎と號す、次で蜀山人の撰によりて五渡亭の号を用ゐたり、蓋し、五ツ目    の渡し場の意を含ませしものなり。後ち文政末期に至り、英一珪の門に入りて英一螮と号し、それ以後    別号を香蝶楼(楼を棲としたる例もあり)と改めたり、これ英一蝶の実名信香の「香」と、一蝶の「蝶」    を取りしものにして、乃ち彼が一蝶を追慕する所ありしが爲めなり。其他、月波楼・北梅戸・桃樹園・    富眺庵・富望山人・琴雷舎等の数号あり。既にして、本所五ツ目の旧宅を去り、亀戸天神の門前に移り    しが、天保十五(弘化元)年春、他の推薦と己が希望とによりて、先師の名を襲ぎ、二代目(実は三代)    豊国と改め、併せて一陽斎の号を用ふることゝなりしも、時には香蝶楼豊国或は国貞舎豊国などゝ落款    したりき。但し、彼が豊国の二代目を以て自任せしは、其の技倆に於て当然なりしと雖も、曩に公然二    代目を継承せし一瑛斎(又は後素亭)豊国の、既に故人(或は生存せしか)となりしを奇貨として、全    然之れを除外せしが如き態度に出でしは、多少彼の人格を疑はしむる一素因たらざるを得ず。当時、狂    歌師某(梅屋鶴寿か)彼が襲名を諷刺して曰く、「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国偽の豊    国」、弘化二年薙髪して俗称を肖造と改め、翌三年門人国政(三代)を女婿として二代目国貞を名乗ら    しめ、其の亀戸の家を譲りて、己は柳島に新宅を構へて隠居せり、富眺庵・富望山人の号は、即ち其の    家の位置、西南遙かに富士山を眺望し得たりしに因る。後ち文久二年七十七歳の記念として、画名の肩    書に「喜翁」の二字を用ゐ、老来尚ほ頻りに彩管を揮ひしが、遂に七十九歳を一期として他界せり。墓    所亀戸光明寺、法名を豊国院貞匠画僊士といふ。    彼が肖像を図せる錦絵に、そが辞世として絵へたる狂歌あり、一向に弥陀へまかせし氣の安さ只何事も    南無阿弥陀仏。彼には三女ありて男子無し、長女は即ち前記の如く門人国政(後ち四代豊国)に妻せ、    次女は早世し、三女に門人国久を迎へて、己が後を継がしめたり。彼の作画は、文化三年(二十一歳)    版の黄表紙『七福神屑籠』(一九作)を以て最初とし、次で文化五年四月、中村座の「近頃河原の達引」    に、中村歌右衛門(三代)の扮せし猿廻し與次郎の図を、永寿堂(西村屋与八)より出版せしは、彼が    錦絵に於ける初作なりと云ふ。それより毎年俳優の似顏絵を夥しく画き、自然歌舞伎の故実等にも精通    して、いよいよ名声を恣にせり。又、春宵秘戯図に独特の妙趣を示し、濃婉華麗まことに人目を驚かす    に足るものあり(此等の作品には不器用又平と落款せり)。尚ほ彼は文政十二年より天保十三年に亘り    て、柳亭種彦の『諺(ママ偐)紫田舎源氏』(三十八編迄)に挿画し、頗る世の好評を博せしかば、それ    に引続きて所謂源氏絵なるものを製作し、これ亦夥しき数に上りたり。彼は斯の如く巧みに時好に投ぜ    し結果、自然財政に余裕を生じ、従つて、風を望んで入門する者陸続たりしなり、然れども、芸術上に    於ては、年を逐つて堕落に傾き、たゞ徒らに、作品の数量を無制限に増大せしめたるのみなりき。併し、    彼が五渡亭国貞時代に於ける美人画中には、後年のそれに比して頗る芸術的価値に富めるものあり、近    時頻りに其が鑑賞熱を昂め、往々にして傑作と認めらるゝものを見出せり、例へば「星の霜当世風俗」    蚊とり美人(口絵第六十六図参照)の如きも其の一例なり。また彼が晩年の諸作中、彫摺等に最も深く    意を用ゐしものは、かの俳優大首似顏絵なり、そは万延元年に二十五図、文久二年に二図、同三年に三    十一図、元治元年に一図、慶応元年(歿後出版)に一図等、合計六十図にして、口絵第六十七図に挙げ    たる「嵐雛助」は、彼が七十八歳即ち文久三年の作なり。当時此種の大首似顏絵を、芳虎も若干図画き    しが、ついで明治初年には、更に国周の筆に成りしもの出でたり。(口絵第六十八図参照)〟    ☆ とよくに 豊国 四代    ◯『浮世絵師伝』p135(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国 四代    【生】文政六年       【歿】明治十三年七月廿日-五十八    【画系】三代豊国門人    【作画期】弘化~明治    歌川を称す、幼名政吉、後ち清太郎と改む、中川沿岸大島村の農家の生れなり(大正十五年三月号『新    小説』所載、樋口二葉氏の文に拠る)。始め三代豊国を名乗り、梅堂と号す、弘化三年師の女婿となり    て二代国貞の名を継ぐに及び、一寿斎・梅蝶楼と号し、明治三四年頃更に三代(実は四代)豊国となり    て、香蝶樓・一陽斎・宝来舎など号せり、師の亀戸の旧居に住す。墓所亀戸(天台宗)光明寺、法名を    三香院豊国寿貞信士といふ。〟    ☆ とよくに 豊国    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国 京都    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    天保初期頃の京都版「祇園神輿はらひねり物姿」と題する美人画(合羽摺彩色細絵)の数図に「豊国画」    と落款せるものあれど画風歌川派の特徴無し、恐らくは豊国偽称者の作なるべし。又、天保初期の肉筆    芸妓の図に「長谷川豊国筆」の落款ありて、印文に「稲香」とせり。画風英泉を模倣したるやうなれど、    口紅は緑なる故京都風にて本項の豊国と同一人なるべし〟    ☆ とよくま 豊熊    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊熊    【生】           【歿】    【画系】豊広の孫      【作画期】文政    歌川を称す、俗称熊吉、豊広の女某、嫁して生む所の子、即ち豊広の孫なり〟    ☆ とよしげ 豊重(歌川豊国二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊重 二代豊国の前名〟    ☆ とよしげ 豊重 二代(歌川国松参照)    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊重 二代    【生】           【歿】    【画系】          【作国期】明治初    歌川を称す、『浮世絵師系伝』に「明治四五年の頃二代目豊重と国名ある錦絵を見たりしが何人か知ら    ず」とありて、宮武氏朱書に「歌川国松」とす、即ち国松の前名なり〟    ☆ とよつる 豊寉(豊鶴)    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊寉    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政    千松亭と号す、英泉風の大顔美人画あり〟    ☆ とよとし 豊年    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊年    【生】           【歿】    【画系】二代豊国門人    【作画期】天保    初代豊国には一男一女ありて、男は直次郎と称し、画を学ばずして木版師となる、放蕩の爲め父より勘    当されたりとの説あり。此の直次郎と豊年とは恐らく同一人なるべく、而して、豊年は父の歿後二代豊    国門人となりて、天保初め頃には師の作品の一部に、小画を描きて「豊年」と落款せり(『浮世絵志』    第十三号所載、七戸吉三氏の研究に拠る)。然れども、画技大成せずして、廃筆或は早世せしものゝ如    し。また、天保十二年版の『閑窓瑣談』(鷦鷯貞高著)は国直の挿画なれども、初め某書の巻尾には豊    年の挿画として予告せり〟    ☆ とよなが 豊長    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊長    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】宝暦    天野氏、細判紅摺絵あり〟    ☆ とよのぶ 豊信    ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊信    【生】正徳元年(1711)   【歿】天明五年(1785)五月廿五日-七十五    【画系】重長門人      【作画期】享保~明和    石川氏、俗称孫三邨、〈日偏+旦〉篠堂・秀葩と号す、初め西村重信といひしは西村重長の門より出で    しが故なり。『浮世繪師系伝』及び其他の書に『豊信は美男にて有しかば糠屋の娘恋慕して恋聟となり    し人なりといふ』と伝へたる如く、彼は小伝馬町三丁目なる旅人宿糠屋に養子となりて、其家代々の俗    称七兵衛を襲名せり。但し、其の襲名年代は未だ確証無けれど、凡そ延享四年即ち彼が三十七歳の頃な    らむかと思はる、而して、それを動機として前名西村重信を石川豊信と改めたるものゝ如し。彼が重信    時代の作は、享保十六年(二十一歳)の細判漆絵(役者絵)以下、延享元年頃まで、主として細判のも    の多し、其の間、元文二年版『女今川錦の子宝』、同三年版『女用文章』などの挿絵を画きたり。つい    で延享四年頃の作と思はるゝ大判竪長の漆絵「桜下美人の図」に、初めて〈日偏+旦〉篠堂、石川秀葩    豊信図」といふ落款を見る、蓋し、豊信落款の最初に近き作例と謂ふべし。延享、寛延年間は、漆絵と    紅摺絵との過渡期なるが其当時の彼の作品にも亦、漆絵と紅摺絵との両種ありて、前者には幅広柱絵及    び普通の柱絵、後者には大判竪絵に美人画の優れたる作あり。漆絵及び紅摺絵の諸作中、殊に裸体及び    半裸体の図(口絵第十八図参照)は、彼の非凡なる技倆を窺ふに足るものなり。斯くて宝暦年間に入り    ては、紅摺の美人画・役者絵及び其他の諸図あり、就中珍らしき例としては、背色を木目摺にしたるも    の二図(「細見を繙く若衆と禿」竪絵・「市川海老蔵の暫と少年」横絵)遺存せり。また彼が筆に成れ    る絵本類は凡そ左の如し。     ◯絵本東の森(宝暦二年)  ◯絵本俚諺草(同二年)  ◯壮盛末摘花(同七年)      ◯絵本武者手綱(同七年)  ◯絵本花の緑(同十三年) ◯絵本江戸紫(明和二年)      ◯絵本飛武呂山       ◯絵本千代の春      ◯絵本兆合鑑      ◯四季御所桜    彼は「一生倡門酒楼に遊ばず然るに男女の風俗を写せり」云々と、写本『浮世絵類考』にあるが如く、    其の性質温厚にして、家庭も亦円満なりし事を想像せらる。されば画風も頗る穏健にして、絵本に於け    る特徴は西川祐信の影響を受けし点もあり、それ等は後進に感化を及ぼす所尠からず、就中、春信・重    政等は、宝暦後半期に於て、彼に負ふ所ありしものと察せらる。然るに、彼の明和三四年頃の作を見る    に、著るしく春信風の特徴を帯びたり、蓋し此の時期を以て、彼が版画製作の最後と見るを得ベし。こ    ゝに特筆すべきことは、彼が祖先及び後継者等の関係を、其が後裔の一人西山清太郎氏によつて詳述さ    れたる一事なり。それに拠れば、石川は豊信の実家の姓にして、糠屋に入聟となりし後も依然としてそ    れを名乗りし事、石川家の祖先は北條氏直に仕へし者にて、代々源氏なりし事、豊信の実父は享保元年    即ち彼が六歳の時に歿し逸母は他へ再嫁して宝暦九年に歿せし事、実兄は水戸屋権左街門と称せしが、    宝暦二年に歿し、其の妻は安永七年に歿せし事、養父(糠屋七兵衛)は宝暦七年即ち豊信の四十七歳の    時に歿せしが、家督はそれ以前に豊信が相続せし事、養母は明和二年に歿し、豊信の妻(糠屋の娘)は    寛政三年に歿せし事、実子は八人(男五人、女三人)ありしが、末子(後に石川雅望即ち六樹園以外の    者は皆早世せし事、実子雅望の妻の実家は中村姓にして、雅望の子清澄は石川姓を名乘らず、中村屋清    三郎と称せし事、清澄の子梅太郎は後に加藤七兵衛と改む、これ糠屋の旧姓に復せしものと解すべく、    然らば糠屋は加藤姓なりしと思はるゝ事、石川家の菩提所は下谷蓮華寺なりしが、後ち市外染井墓地附    近へ移転せし事、中村家の菩提所は四谷永昌寺なりしが、後ち市外下高井戸へ移転せし事、糠屋の菩提    所即ち豊信及び其の子孫を葬りし寺は、浅草黒船町正覚寺(俗称榧(カヤ)寺)地中哲相院なりしが、後    ち正覚寺に合併されし事、豊信の法名は泰誉覚翁居士といひ、其の妻は心誉智覚信女(俗名未詳)とい    へる事などを明かにされたり(『浮世絵志』第八号・第九号参照)因みに、重信・豊信同一人説は大阪    版『此花』第十四枝に載せたる宮武外骨氏の考証を参考せり〟    ☆ とよのぶ 豊信    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    歌川氏、豊春の兄なりといひ、又弟なりとの説あり、美人画をよくせしが、安永年間に夭死せりと云ふ〟    ☆ とよのぶ 豊信    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊信    【生】           【歿】享保十七年(1732)    【画系】          【作画期】享保    川村氏、京都の人、洛下亭と号し、自ら大和画工と称す、西川風の美人画あり、享保十六年版『朗詠狂    舞台』の挿絵を画く〟    ☆ とよのぶ 豊信    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊信    【生】           【歿】延享    【画系】          【作画期】    江戸の人、西川氏、菊水と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ とよのぶ 豊宣    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊宣    【生】安政六年(1859)十一月 【歿】明治十九年(1886)八月十日-廿八    【画系】二代国久の男     【作画期】明治    歌川を称す、勝田氏、俗称金太郎、三代豊国の孫に当れるを以て、香蝶楼・一陽斎等の号を襲用す、本    所亀戸町に住し、俳優似顔絵、美人画、武者絵、及び新聞雑書の挿画などを描きたり、明治十七年絵画    共進会に於て受賞す。弟あり、亦浮世絵師にして、画名を国峰といふ〟    ☆ とよはる 豊春    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊春    【生】享保二十年(1735)  【歿】文化十一年(1814)一月十二日-八十    【画系】石燕門人      【作画期】明和~文化    歌川氏、名は昌樹、俗称但馬屋庄次郎、後ち新右衛門と改む、一龍斎・潜龍斎・松爾楼等の号あり、歌    川派の祖なり。出生地は豊後国臼杵又は但馬国豊岡なりとの説あり、初め京都に出でゝ鶴沢探鯨に学び    しが、明和初期には既に江戸に移住せしものゝ如し。其が画系に就ては、西村重長門人・石川豊信門人    ・鳥山石燕門人等の諸説あれども、彼が肉筆美人画の一落款に「鳥山石燕豊房門人歌川豊春筆」とあり、    且つ画風に於ても石燕門人たることを首肯さるゝなり。彼が版画の初作らしきものに、明和五六年頃か    と思はるゝ二代沢村宗十郎(明和七年歿)の舞台姿の図(細判錦絵)あり、次で明和七八年頃の作には、    「琴棋書画」と題する四図(特大判)一組の美人画あり。それより安永年間に入りてに、専ら「浮絵」    の作に没頭し、江戸の各名勝風景の図及び外国風景の図等、相当多くの作に新機軸を出だす所あり(口    絵第三十二図参照)。天明六年十一月桐長桐座の顔見世番附と、寛政十年十一月中村座の顏見世書附と    は、特に彼が画きしものにして、後者には「絵師歌川新右衛門筆」の落款を用ゐたり、同時に芝居の絵    看板をも描きしとの説あれど如何にや。伝ふる所に由れば、寛政年間に日光霊廟補修の際、彼は徴せら    れて狩野某の配下に列し、自ら町絵師数人を率ゐて、殿堂其他の彩色に従事せしかば、当時斯界に其が    光栄を宣伝せられしと云ふ、これ即ち、彼の彩色の技に優れたりしを立証するに足るべきなり。彼が遺    弟等に依て建てられし記恩碑は、大正十二年震災前まで押上春慶寺の境内に存して、碑面には「歌川妙    歌」「二代目歌川豊春」等の名も見えたり。此の妙歌と云へるは、恐らくは彼が長女(清悟妙歌信女、    文化十一年一月七日歿)ならむとの説あり、然れども、画技には携はらざりしものゝ如し。又同寺内の    普賢堂には彼が遺筆に係れる「日蓮上人龍の口御難」の図額(安政四年、暁雲斎意信補修)を蔵しき    (大正十二年の大震災に記恩碑と共に焼失す)。住所は初め芝三島町、それより大阪町、田所町、中橋、    桧物町、赤坂田町等に転居せり。菩提所は浅草菊屋橋際の本立寺(日蓮宗)なりしが、同寺は、明治四    十年市外雑司ヶ谷字水久保へ移転せしかば、彼が墓石も今は其の地に在り(但し故ありて寺名を本教寺    と改む)、法名歌川院豊春日要信士。彼が門下には豊国・豊広の如き巨匠を出だし、其の末葉弥々絵え    て、其の流派今尚ほ絶えず、画系の盛んなること正に斯界に於ける代表的存在なり〟    ☆ とよはる 豊春 二代    ◯『浮世絵師伝』p139(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊春 二代    【生】           【歿】    【画系】初代豊春門人    【作画期】文化    歌川を称す、押上春慶寺に建てりし歌碑(初代豊春に対する記恩の)に豊国・豊広等と共に「二代目歌    川豊春」の名あり、按ずるに、初代豊春の女婿なるべし。又『浮世絵師系伝』に「後年豊春と名乗りし    者あり、文政の初め頃なりし、血脈の者は其後なし、京橋銀座二丁目新道に住せり」とある者、恐らく    は此の二代豊春ならむか〟    ☆ とよはる 豊春    ◯『浮世絵師伝』p140(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊春 水府    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    水戸の人、歌麿風の美人画、及び勝川風の大首役者絵あり、落款に「水府豊春画」とす〟    ☆ とよひさ 豊久    ◯『浮世絵師伝』p140(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊久    【生】           【歿】    【画系】豊春門人      【作画期】享和~文化    歌川を称す、別号梅花亭、堺町に住す、文化の頃組上燈籠絵を多く画きたり、また俳優似顔絵もあり〟    ☆ とよひさ 豊久 二代    ◯『浮世絵師伝』p140(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊久 二代    【生】           【歿】    【画系】初代豊久門人    【作画期】文政~天保    柳々斎と号す、天保頃の長唄稽古本の表紙絵を描く〟    ☆ とよひで 豊秀    ◯『浮世絵師伝』p140(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊秀    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    北川氏、一信亭・一流亭と号す、天保十年乃至同十四年頃に大阪版の役者絵を画く、画風芳梅などに似    たり〟    ☆ とよひろ 豊広    ◯『浮世絵師伝』p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊広    【生】安永二年(1773) 【歿】文政十一年(1828)五月廿三日-五十六    【画系】豊春門人    【作画期】天明~文政    歌川を称す、岡島氏、俗称藤次郎、一柳斎と号す、居所芝片門前町。彼と豊国とは、豊春門下の双壁に    して、両者一長一短殆ど伯仲の間にありしと雖も、習技の質実と画品の高尚なるとに於て、彼は豊国よ    りも稍優れたりしが如し。これ恐らくは、豊国の世才に長けて、頻りに時好に迎合し、所謂派手を競へ    るを見て慊らずとなしゝ結果、自然豊国と反対の方面に向つて、自己の特長を把持せしものならむと思    はる。彼の初期時代に画きしものゝ中に、「小佐川常世(二代)のおさん、沢村宗十郎(三代)の茂兵    衛」を図したる細絵あり、これ天明七年秋、中村座に出演せし両人の舞台姿にして、所伝の年齢に誤り    なくんば、即ち彼が十五歳の筆なり。其の後若干年の間、彼の版画の世に出でしもの多からざりしは、    按ふに、狩野派などの画風を習得し、やがて一家を成すの準備に余念なかりしが爲めにはあらざりしか。    寛政の半ば頃よりは、年々連続的に版画を発表し、且つ肉筆画にも優秀の作あり、そのうち、寛政末頃    に画きし大判竪二枚つぎ(掛物絵)に数図あり、中にも「河岸舟美人」の図(口絵第五十一図参照)は    最も傑れたり、尚ほ三枚続のものにも相当の優品あり。また黄表紙・合巻本・読本等の挿画を夥しく描    きしが中に、文化七年版の合巻本『一対男時花歌川』は、式亭三馬の作にして、前編は豊国、後編は彼    の画く所たり、蓋し、故ありて長人の確執久しかりしを、三馬それが爲めに融和を図らむとして、特に    此の書を綴り、斯くは両人に挿画を分担せしめしものなる由、恰も其の年(文化七)には、彼が一子金    藏(後に豊清)を豊国の許に入門せしめたる事実もあり、爾後両者間の関係親密となりしは疑ふべから    ざるが如し。彼の作品は、美人画に於ても風景画に於ても、一種もの静かなる詩想を有し、時には多少    の哀調をさへ帯びたり、それ等の点は、やがて門人広重にも感化を与へしものと察せらる。彼の歿年月    及び年齢に就て二三の異説あれども、姑く『名人忌辰録』に従ふことゝせり、菩提所は芝西久保専光寺    にして、法名は釈顕秀信士と云ふ。明治二十年四月、彼が六十囘忌に際し、三代広重の発起にて一碑を    向島長命寺に建てたり、碑面に辞世の狂歌を刻す、曰く「死んで行く地獄の沙汰は兎も角も跡の始末は    金次第なり」〟    ☆ とよふさ 豊房    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊房 石燕の名〟    ☆ とよまさ 豊雅    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊雅(マサ)    【生】           【歿】天明八年(1887)頃    【画系】          【作画期】明和~安永    石川氏、豊信の男歟、小供絵をよくす、明和年間出版の『新板目附絵』に「石川豊雅十四歳之画」とあ    り、安永八年版『絵本教訓種』も豊雅が筆なり。    前掲石川豊信の項に引用せし西山清太郎氏の記述に拠れば、豊信の子雅望(マサモチ)(六樹園・宿屋飯盛)    は、彩管にも親しみし事ありて、画号を蛾術斎といひし由。今按ずるに、本項の豊雅は雅望の少年時に    於ける画名には非ざりしか、若し然りとせば、彼は宝暦三年生~文政十三年歿-七十八歳なれば、其が    十四歳は明和三年に相当せり。猶考ふべし〟    ☆ とよまさ 豊政    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊政    【生】           【歿】    【画系】水府豊春門人    【作画期】文化    水戸の人、錦絵美人画あり、落款に「水府豊春葉豊政画」とす〟    ☆ とよまさ 豊政    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊政    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    月下園と号す、肉筆「雪中美人の図」に「壬辰(天保三年)仲秋月下園豊政写」と落款せり。水府豊政    とは別人なり〟    ☆ とよまる 豊丸(勝川春朗三代参照)    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊丸 叢を称す。三代春朗の前名〟    ☆ とよまる 豊円    ◯『浮世絵師伝』p141(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊円    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】弘化    歌川風、一揚斎と号す、三代目一陽斎豊国に擬したる者か、錦絵美人画あり〟    ☆ とよまろ 豊麿    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊麿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    琴風舎と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ とらい 斗雷    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝斗雷    【生】           【歿】    【画系】北斎門人?     【作画期】    雲戴子と号す、肉筆美人画あり〟    ☆ とらか 虎香    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝虎香    【生】           【歿】    【画系】芳虎門人      【作画期】慶応    一魁斎と号す〟    ☆ とらしげ 虎重    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝虎重    【生】           【歿】    【画系】芳虎門人      【作画期】慶応~明治    永島氏、俗称福太郎、孟斎・竹林舎等の号あり、神田紺屋町に住す、玩具絵の作多し〟    ☆ とろくさい 兎鹿斎    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝兎鹿斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    大阪の人か、中庵と号す、肉筆美人(山吹を持つ)画あり、画風雪鼎に似たり〟    ☆ どりゅうさい 土龍斎    ◯『浮世絵師伝』p142(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝土龍斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    安永五年版の落語本『売言葉』に、奴と化描の図を挿画して、此の落款を施せり、宮武氏の説に湖龍斎    の門人かとあり。(『此花』第二十枝参照)〟