Top 『浮世絵師伝』 浮世絵文献資料館
ち 浮世絵師伝
☆ ちかくに 千歌国
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝千歌国
【生】 【歿】
【画系】よし国門人 【作画期】文政
大阪の人、寿宝堂と号す、役者絵あり〟
☆ ちかのぶ 千歌信
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝千歌信
【生】 【歿】
【画系】歌麿門人 【作画期】文化
一に千歌述とも書せり、美人画あり〟
☆ ちじまろ 千々麿
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝千々麿
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】文化
英山風の肉筆美人画あり〟
☆ ちかのぶ 周延
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周延
【生】天保九年(1838)八月八日 【歿】明治四十五年(1912)-七十五
【画系】国周門人 【作画期】文久~明治
越後の人、橋本氏、名は直義・揚洲と号す。初め国芳及び三代豊国に学び、暫く二代芳鶴(一鶴斎)を
名乗りしことあり。錦絵、団扇絵などに美人画の作多く、就中徳川大奥の風俗を描くことを得意とせり、
蓋し、彼は幕府の御家人なりし由なれば、大奥の風俗故実などを見聞する機会多かりしなるべし。其等
の外に、明治初期の種々なる風俗を画きたる錦絵もあり、また肉筆の美人画もありて、国周門下に於て
は技倆最も優れたりき。曾て明治十二年には外務省の命に依りて作画せしことあり、同十五年には絵画
共進会に出品して褒状を受く。彼が錦絵美人画のうち、明治三十年版の「真美人」と題する半身像三十
六図は、構図、彫摺最も傑出したるものなり。居所、明治十年乃至十三年頃には上野北大門町、同十七
年乃至二十四年頃には湯島天神町三丁目十一番地なりしが、後ち又他に転ず。晩年には某錦絵店の需め
に応じて、専ら古版画の模写(複製用)に没頭せしと聞けり〟
☆ ちかのぶ 親信
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝親信
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】正徳~享保
松野氏、伯照軒と号す、肉筆美人画あり、殊に彩色に巧みなり。一図の印文に「詮」としたるものあり、
親信の本名か或は字か〟
☆ ちかさと 周里
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周里
【生】 【歿】
【画系】国周門人 【作画期】明治
降幡氏、俗称敬次、一春斎と号す、明治初期の風俗を画きたる錦絵あり。中橋上槙町に住せり〟
☆ ちかしげ 周重
◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周重
【生】 【歿】
【画系】国周門人 【作画期】明治
守川氏、俗称音次郎、喜蝶楼また一梅斎と号す、浜町一丁目三番地に住せり。明治三年版『東京築地ホ
テル館上総海上遠景図』には「喜蝶楼周重画」とあり、其他役者似顔絵多し〟
☆ ちかはる 周春
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周春
【生】嘉永元年(1848)五月廿三日 【歿】
【画系】国周門人 【作画期】明治
豊原を称す、長谷川氏、俗称竹次郎、魁鴬斎・蕙洲と号す、役者似顔絵あり。金杉村に住せり〟
☆ ちかよし 周義
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周義
【生】 【歿】
【画系】国周門人 【作画期】明治
豊原を称す、鈴木氏、名はサト、居所、明治十一年版「天覧栄七曲合」には築地三丁目八番地とし、十
二年版の役者似顔絵には谷中清水町一番地とせり〟
☆ ちかまろ 周麿(暁斎参照)
◯『浮世絵師伝』p120
〝周麿 暁斎の初名〟
☆ ちかまろ 周麿
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝周麿
【生】 【歿】
【画系】国周門人 【作画期】明治
湯川氏、俗称嘉吉、浅草寺中誠心院上地町屋に住す〟
☆ ちくそう 竹窓
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝竹窓
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】天保
西崎氏、天保初期の英泉風の肉筆美人画あり〟
☆ ちくよう 竹葉
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝竹葉
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明治
長谷川氏、俗称勘之助、翠軒と号す。明治十年乃至二十年の錦絵「【東京名勝】開化真景」、其他輸出
絵などを描く、関口水道町五十七番地に住し、後ち浅草七軒町一番地に移る〟
☆ ちゅうわ 中和(「にしむら」でも収録した)
◯『浮世絵師伝』p144(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝西村中和
【生】 【歿】文政
【画系】 【作画期】寛政~文政
京都の人、梅渓とも号す、字(アザナ)は士達、法橋に叙せらる、屡々名所図会及び絵本類を画く、紀州
名所図会、木曾路名所図会、都林泉名所図会、絵本年代記、義経勲功記、楠正行戦功図会等の類なり、
彼れ文学の才ありて歌詩を善くす。秋里籬島編の木曾路名所図会七册(文化二年三月版)に西村中和の
挿絵は案内記の文章と比較して当時の駅路情景、神社仏閣の建物境内、祭礼、古跡、名所名産等を写実
して趣味深く挿図せり。
木曾路名所図会は京都より出発し中仙道を日本橋迄、また日本橋より行徳、八幡、神崎、鹿島、鹿取神
社へ参拜し筑波山を廻りて宇都宮、日光鉢石町、神橋、御宮、中禪寺、裏見の瀧へ廻り、日光街道を小
山田駅、栗橋、利根川、千住を経て浅草寺観音堂へ戻る。享和二年初夏より籬島と中和同伴して旅行し
た意味、跋文に記述してある。木曾街道中特殊の図は内裏舞御覧の図(太平楽の舞を)。山科…休息茶
屋の前を人足旅客茶屋女等十数人の動作を現はし。大津…舟着場へ上下する人々、荷揚人足。武佐…奥
石神社、鳥居本駅神教薬丸店、磨針(スリハリ)峠、長浜八幡宮、日本武尊居寤清水(ヰサメシミヅ)腰懸岩、
常盤の暮、南宮金山彦神社祭礼列式、長柄川鵜飼舟、鯉岩、臨川寺寝覚床、諏訪温泉、望月遠江寺城跡、
碓日嶺(ウスヒトウゲ)、熊谷直実古跡、大宮氷川神社、江戸御影堂の店等である〟
〈井上和雄は、この西村中和を、なぜか「ち」に入れず「に」で採っている〉
☆ ちょうき 長喜
◯『浮世絵師伝』p120(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長喜
【生】 【歿】
【画系】石燕門人 【作画期】寛政~文化
百川氏、栄松斎と号す、初め子興といひ、天明後半期中に長喜と改め、其の後寛政九年頃に至りて子興
に復し、享和二年春再び長喜に改めたりき。作品は、宝暦末頃石燕一派の俳書に挿画せしを始めとして、
寛政、享和中には、錦絵美人画及び黄表紙を数多画きたり、就中、寛政六年頃の作と認むベき雲母摺錦
絵の美人画中には、極めて優秀のものあり(口絵第三十九図参照)、画風穏健にして構想凡ならず、亦
以て石燕門下の一異材とするに足るべし。生歿年月は明かならざれども、文化五年正月発行の読み本
『【復讐古実】独搖新語』(熟睡亭編)に挿画せし以後、作品の発表絶無なるよりして、恐らくは文化
五六年頃に他界せしものならむと想像せらる、但し文政元年版『以代美満寿』(五代目団十郎十三囘忌
追善集)に「栄松斎長喜」の号を以て狂歌を一首詠じたり、これ果してこゝに掲ぐる長喜と同一人なら
むには延いて歿年月に影響せざるを得ず、併し乍ら、彼の歿後に其の襲名者(門人は一楽斎長松といふ)
ありしと解釈せば矛盾無きに似たり、姑く記して後考を俟つ〟
☆ ちょうしゅう 長秀(ながひで参照)
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長秀 ナの部〟
☆ ちょうき 長亀
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長亀
【生】 【歿】
【画系】長春門人 【作画期】寛保
宮川を称す、肉筆美人画あり〟
☆ ちょうしゅん 長春
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長春
【生】天和三年(1683) 【歿】宝暦三年(1753)十一月十三日-七十一
【画系】土佐某門人 【作画期】正徳~寛延
尾張国海西都宮川村の人、宮川を氏とす、俗称喜平次(一に長左衛門)、江戸芝田町に住せり、宮川派
の祖なり。宝暦元年故ありて罪せられ、新島に流さる。彼の作品は専ら肉筆画のみにして、画風は師宣
の特長を伝へ、元禄風俗の絵巻物、或は美人立姿の掛物など、いづれも極彩色にて気品豊かなるものな
り。(口絵第五図参照)〟
☆ ちょうしょう 長松
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長松
【生】 【歿】
【画系】長喜門人 【作画期】文化
一楽斎と号す〟
☆ ちょうようどう 長陽堂
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝長陽堂 懐月堂安知の別号。(安知の項参照)〟
☆ ちょうげつ 澄月
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝澄月
【生】 【歿】
【画系】春燈斎門人か 【作画期】万延~文久
京都の銅版画家、京都及び江戸名所の数図あり〟
☆ ちよじょ 千代女
◯『浮世絵師伝』p121(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝千代女
【生】 【歿】
【画系】歌麿門人或は妻 【作画期】寛政
其の名を聞くのみにして、未だ作品あるを知らず。寛政末頃に出版せし『絵本笑上戸』(春画)の序文
に、「麿内より松禄樣」としたる手紙を掲げ「扨は麿事よん処なき御方樣より誘はれ急に江のしま参け
い致しまゐらせ候に付御絵本のさいしき及ばずながらわたくしより改め差上まゐらせ候」また「夫の下
絵に妻のさいしき」云々としたるは、歌麿の戯れならむと思はるれど、或は其が妻(千代女と同一人か)
に画道の素養ありしものやも知るべからず、姑く記して後考を俟つ〟
☆ ちんちょう 珍重
◯『浮世絵師伝』p122(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝珍重
【生】延宝七年(1679) 【歿】宝暦四年(1754)七月廿二日-七十六
【画系】鳥居清信門人 【作画期】正徳~享保
武州埼玉郡川口村の人、本姓真中、太田氏、俗称弁五郎、羽川(ハメカハ)を画姓とし、名を元信と云ふ、
絵情斎と号せり、蓋し、享保七年版の『役者芸品定』江戸の巻の挿画に『絵情斎羽川珍重元信図』とあ
るを一証とすべし。其他彼の挿画には、享保五年版の『吉原丸鑑』、及び享保年間の赤本『大名御行列』
などあり。彼の版画は、僅かに大判墨摺の「まつの内のんこれ双六」、同じく「富士巻狩」、大判丹絵
の「遊女と禿」などを見るのみにして、現存するもの甚だ稀なり。作画期の如きも精確に知るを得ざれ
ど、恐らくは正徳より享保末期までは継続したりしものなるべし。墓所下谷池之端東円(或は淵とす)
寺、法名三同宜(一に宣とも、空とも)観居士、辞世「たましひのちり際も今一葉かな」。門人に沖信
・幸信等あり。因に、彼が父は諱を直知といひ、曲亭馬琴が祖父の叔父に当れりと、故を以て馬琴は其
の著『燕石襍志』に珍重伝を記し、尚ほ『烹雑の記』に前書の誤字を訂正せり〟