Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝      ☆ たいいつ 戴一    ◯『浮世絵師伝』p116(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴一    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文政〟    ☆ たいが 戴雅    ◯『浮世絵師伝』p116(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴雅    【生】           【歿】    【画系)北斎門人      【作画期】文政    肉筆画あり〟    ☆ たくがく 戴岳    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝載岳    【生】           【没】    【画系】北斎門人      【作画期】文政~天保    渓斎・雲鶴等の号あり〟    ☆ たいしん 戴辰    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴辰    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文政    肉筆画あり〟    ☆ たいそう 戴璪    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴璪    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文化~文政    名古屋の人、文化十五年版『伝心画鏡』(北斎)の校合者中に此名あり〟    ☆ たいと 戴斗(葛飾北斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴斗 北斎の前名〟    ☆ たいと 戴斗 二代    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴斗 二代    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文政~嘉永    葛飾を称す、姓は藤原、近藤氏、名は文雄、俗称伴右衛門、豊岡藩士にして上野山下に住み、後ち麹町    平河町に移る、初め斗円楼北泉と号せしが、文政二年より師の号戴斗を襲用せり、また別号を洞庭舎・    昇山・玄龍斎・米華斎・米華道人といふ、画風の師に酷似せること、同門中北渓を除くの外、恐らく彼    の右に出づる者はあらざるべし、故に彼の作品を以て往々北斎の作と混同するが如き例尠しとせず。彼    は又、篆書に習熟したりしと見え、其が作品中画面の一部に装飾的に篆書を配したるもの多し。彼の作    品中「張交ぜ」と称する錦絵あり、其の内「月夜の山水」、「鯉」の二図は佳作として世に知らる、絵    本類は大略次の如し。『戴斗画譜』・『花鳥画伝』・『武者鏡』・『英雄図会』・『二十四孝図会』・    『小紋雛形』・『万職図考』・『絵本通俗三国志』(読み本)。一説に二代戴斗を以て、吉原仲ノ町の    引手茶屋の主人亀屋喜三郎とするは、二代北斎の事を誤り伝へたるものなるべし。(二代北斎の項参照)〟    ☆ たいすけ 戴輔    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝戴輔    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文政    竹柴氏〟    ☆ たかひろ 孝広    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝孝広    【生】           【歿】    【画系】三代豊国門人    【作画期】安政    安政七年版「芝居舞台絵」(三枚続)の幕に此の落款あり〟    ☆ たきはる 瀧春    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝瀧春    【生】           【歿】    【画系】勝川派か      【作画期】寛政    細判役者絵あり〟    ☆ たくみ 内匠    ◯『浮世絵師伝』p117(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝内匠    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】承応    花田氏、西鶴の『男色大鑑』巻五に「承応元年秋の夜云々、浮世絵の名人花田内匠といへる者美筆を尽    しける云々」とあり、或は仮作の人名か〟    ☆ たけまろ 竹麿    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝竹麿    【生】           【歿】    【画系】歌麿門人      【作画期】享和~文化    喜多川を称す、軽筠堂竹丸とも云へり。歌麿画『【吉原青楼】年中行事』(享和四年版)の奥に、門人    として名を連ねたり〟    ☆ たちょう 田蝶    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝田蝶    【生】天保三年(1832)九月廿三日 【歿】明治十五年(1882)一月廿五日-五十一    【画系】国芳門人         【作画期】安政~明治    本姓里見、明治四年竹内氏と改む、幼名小八、後ち四世善次郎を襲名す、家は上総屋と称し、代々提燈    傘職を以て渡世とせり、彼は家業の関係よりして画を学ばむと欲し、十余歳の頃国芳の門に入る、即ち    師より芳兼と名づけられ、一好斎・一隣斎・玉水斎・万字斎・万字楼など数号あり、其が居所淺草田町    一丁目にありしに因みて田蝶と称し梅月と号しき、彼が最も得意とせしは、かの納札(千社札)の意匠    にして、芳兼としての錦絵よりも著名なり。居所両三度移動し、最後に淺草寿町二十八番地に自宅を構    へ、其処にて歿す、法名疎影庵釈白芳居士、浅草松清町東本願寺地中善照寺に葬る。遺子一男一女あり、    男は即ち竹内久一といひ後に彫刻を以て名を知られし人なり。(本稿は、雑誌福永版『浮世絵』第四号    所載、大曲駒村氏の「田蝶梅月」に拠る)〟    ☆ たつじょ 辰女    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝辰女    【生】           【歿】    【画系】北斎の女      【作画期】文政    葛飾氏、肉筆美人画あり、画風戴斗時代の北斎に酷似せり〟    ☆ たつのぶ 辰宣(ときのぶ参照)    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝辰宣 トキノブと訓む、故に「ト」の部に編入せり〟    ☆ たねかず 種員    ◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝種員    【生】           【歿】    【画系】房種門人      【作画期】明治    新聞の挿画あり〟    ☆ たねはる きよかわ 清川 種春    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝種春    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】嘉永~文久    清川を称す、徳田氏、別号一興斎。嘉永より文久年間に亘りて芝居絵番附を画けり〟    ☆ たまくに 玉国    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝玉国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人か    【作画期】文政    大阪の人、春松堂と号す、役者絵あり、居所今橋〟    ☆ たみくに 多美国 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝多美国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人か    【作画期】文政~天保    大阪の人、好画堂と号す、役者絵あり〟    ☆ たんけい 探景    ◯『浮世絵師伝』p118(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝探景    【生】元治元年(1864)   【歿】明治廿二年(1889)九月十四日-二十六    【画系】清親門人      【作画期】明治    井上氏、名は安治、俗称安次郎、浅草区並本町に住す、彼は少年の頃より清親の画を見て心から慕つて    門弟となり、天才的の手腕を版元から認められ、処女作として(十七歳)浅草橋夕景、明治十三年福田    版にて、画面に記せし落款は井上安次、欄外の届出では小林清親と記載しあり、次で代官町・新吉原夜    桜景・枕橋の図・淺草橋雨中景・蛎殻町川岸の図・富士見渡し之図・銀座商店夜景・京橋観業場之景・    霊岸島高橋之景、以上明治十五年迄の作、京橋松田之景及び新富座景は明治十七年作、松田之景迄は井    上安治とし、新富座景より井上探景と落款せり。(口絵第七十一図参照)     尚三枚続の新吉原繁栄の図は自信ある作の由、其外中判及び四ツ切(小判)の東京真画名所図解は百三    十図以上、其内清親の大錦より縮小して類似せるものは約四分の一にて、彼の写生に基きたるもの最も    多し、彼の終作としては皇城二重橋・吾妻橋・新吉原夜桜の景等、二十一年四月、教導立志基(歴史画)    の内、二十二年四月届のものあり。彼の遺族は解らず、たゞ清親のスケッチブックに遺る面影は、青白    き髪の毛を房々と初年風に分けたのが、よく似合ふ美しい若者であつたと、小林歌津子さんの筆記に載    せられたり〟    ☆ たんげつ 探月    ◯『浮世絵師伝』p119(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝探月    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】享和~文政    大阪の人、又探月斎とも号す、読本、草双紙等の挿絵あり〟
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