Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ しいつ 至一    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝至一    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    亀井氏、石版画をよくせり、明治十五年版小林清親の錦絵「東京日比谷観兵式図」(大錦三枚続)には    「亀井至一先生石版画ニナロウテ方円舎清親画」とあり、以て当時石版画に於ける彼の位置を察するに    足るべし。後ち明治二十五年「東海道名所」の図を石版に画く。明治十四年六月、松木平吉版の日光名    所小判二十枚の木版画は精密を尽したるものにて、大判にせば宜しからんと思はるるものあり。居所は    初め上野黒門町、其後不明〟    ☆ ししん 至信    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝至信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    肉筆美人画あり、画風駒井美信などに似たり〟    ☆ しれん 至連    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝至連    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    明和二年の摺物に「至連工」としたるものあり、其図の考案者なり〟    ☆ しゅうえい 秋栄    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋栄    【生】           【歿】    【画系】三代目等琳門人   【作画期】文化    堤氏、秋月等と合作の美人画摺物あり〟    ☆ しゅうげつ 秋月    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋月    【生】           【歿】    【画系】三代目等琳門人   【作画期】文化~文政    堤氏、初め等船といひ、それより秋月、後に雪村と改む〟    ☆ しゅうてい 秋亭    ◯『浮世絵師伝』p78(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋亭    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政    京都の人、文政初め頃の合羽摺役者絵あり〟    ☆ しゅうどう 秋童(円志参照)    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋童    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    闇牛斎と号し、安永九年版の黄表紙『銀世界豊年鉢木』を画く、其の画風稍勝川派の特徴を帯びたれば、    或は春童の門人ならむかと思はる、而して、秋童は恐らく円志の前名なるべし。(円志の項参照)〟    ☆ しゅうり 秋艃    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋艃    【生】           【歿】    【画系】北馬門人      【作画期】文化~天保    吉見氏、蜂房(画姓か)、蹄斎、また蹄亭と号す、文化七年版『梅ヶ枝物語』及び文政元年版『以代美    満寿』に挿画せり、又摺物及び肉筆美人画あり〟    ☆ しゅうりん 秋琳(勝川春扇参照)    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秋琳  勝川春扇の前名〟    ☆ しゅうげつ 秀月    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀月    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】明治    戸田氏、名は皓、望斎と号す、錦絵、新聞挿画あり、芝松松町四丁目十五番地に住す〟    ☆ しゅうこう 秀江    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀江    【生】           【歿】    【画系】鳥山石燕門人    【作画期】天明〟    ☆ しゅうさい 秀斎    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】慶応    暁斎風の狂画を巧みにせり、錦絵あり〟    ☆ しゅうは 秀葩(石川豊信参照)    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀葩  豊信(石川)を見よ〟    ☆ しゅうりん 秀隣    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝秀隣    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    大阪の人、鈴木氏、天明六年版『好言草』に挿画あり〟    ☆ しゅうすい 拾水    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝拾水    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和~天明    京都の人、下河辺氏、姓は藤原、名は行耿、紙川軒と号す、蓋し、洛西双丘の麓紙屋川畔に住みしを以    て此の号あり、画風祐信に倣ひたり、絵本及び絵入教訓本甚だ多し〟    ☆ しゅうちょう 舟調    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝舟調    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政~享和    玉川氏、寛政年間に「四季子供遊び」其他の美人画錦絵あり、また享和三年版『仇討備前徳利』に挿画    す、画風長喜に似たり〟    ☆ しゅうば 集馬    ◯『浮世絵師伝』p79上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝集馬    【生】         【歿】    【画系】北馬門人?   【作画期】文化~文政    牧亭と号、草双紙の挿画あり〟    ☆ しゅうけい 〈草冠+周〉渓    ◯『浮世絵師伝』p79(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝草冠+周〉渓    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政末    文政末頃の錦絵「養蚕図」を英笑・泉晁等と合筆せり〟    ☆ しゅうげつ 周月    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝周月    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政    大阪の人、北川氏〟    ☆ しきじょうてい 式上亭(柳郊参照)    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝式上亭 柳郊の別号〟    ☆ しきまろ 式麿    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝式麿    【生】           【歿】    【画系】月麿門人      【作画期】文化    喜多川を称す、東海林(シヤウジ)氏、俗称平次右衛門(一に平右衛門とす)、小石川水道端牛天神下に    住し、文化末頃に歿せしと云ふ。錦絵及び肉筆の美人画あり〟    ☆ しげん 子健    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝子健    【生】           【歿】    【画系】流光斎の男     【作画期】文化    多賀氏、朴仙と号し、別に指癭山人といふ、又、俳名を梅国といへり、壮年にして歿す〟    ☆ しこう 子興(栄松斎長喜参照)    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝子興  栄松斎長喜の前号及び晩年号〟    ☆ しれい 子冷    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝子冷    【生】           【歿】    【画系】馬円門人      【作画期】文化    大阪の人、文化十年版『機応冥顕』に挿画あり〟    ☆ しげかつ 重勝    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重勝    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政    浮世重勝と号す、文政九年大阪版の役者絵を画く、画風歌川派に近し〟    ☆ しげきよ 重清    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重清    【生】           【歿】    【画系】初代広重門人    【作画期】安政~明治    野沢氏、俗称定吉、一栄斎、或は栄斎と号す、浅草吉野町二十五番地に住せり。東京市街の風景画あり〟    ☆ しげさだ 重貞    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重貞    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    天保頃の大阪芝居番附に此の名あり〟    ☆ しげつぐ 重次    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重次    【生】           【歿】    【画系】初代広重門人    【作画期】安政    大宅氏、一笑斎と号す〟    ☆ じげてる 重輝    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重輝    【生】           【歿】    【画系】重広門人歟     【作画期】安永    北尾を称す、中判の子供絵あり〟    ☆ しげとし 重利    ◯『浮世絵師伝』p80(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重利    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    泰川氏、自ら大和錦絵師と称す、漆絵あり〟    ☆ しげなが 重長    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重長    【生】           【歿】宝暦六年(1756)六月廿七日-六十余    【画系】          【作画期】享保~宝暦    西村氏、初め影花堂と表し、後ち仙花堂と改め、別に百寿といふ、享保十年頃より美人画家として現は    れ、初めの画風は鳥居清信の影響を受けしが、漸次西川祐信、奥村政信等の特長を採り、よく其等を融    合して遂に一家の風を成すに至れり。また遠近法を利用して浮絵も試みたり。(口絵第十六図参照)     彼の作品としては、漆絵に属するもの最も多く、其のうち「美人三幅対」の如き細絵三枚続の絵は、彼    の夙に創案せし所にして、当時非常の好評を博せしものなりと云ふ、其の他、石摺画といへる白ヌキの    絵を案出し、また支那版画に暗示を受けて水絵と稱する特殊の色摺版画を試作するなど、彼が版画家と    しての天分に豊かなりし事を察するに過るべし。『浮世絵類考』に従へば、彼は通油町の地主なりしが、    後ち神田に移りて書肆を開業したりし由、おもふに晩年には殆ど版画の製作を廃め、専ら営業に従事せ    しものならむか、而して彼の門下より石川豊信、鈴木春信の二大明星を生み出だしゝ事は、彼の名をし    て永久に光彩あらしむる所と謂ふべし〟    ☆ しげなお 重直    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重直    【生】           【歿】    【画系】重春門人      【作画期】文政    大阪の人、柳狂亭と号す、役者絵あり〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保~寛保    京都の人、川島氏、柳花堂と号す、京都川原町通に居住せり、画風西川流。肉筆遊女の図に「日本絵師    柳花堂毫」と落款す、また享保七年版『世の中百首絵抄』、寛保四年版『吉野川』あり〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    瀧沢氏、自から大和絵師を稱す、肉筆美人画あり、画風梅翁軒永春などに似たり〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    常川氏、漆絵あり〟    ☆ しげのぶ 重信(石川豊信参照)    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】重長門人      【作画期】享保~延享    西村氏、俗称孫三郎、後に石川豊信と改む。(豊信の頃参照)〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    花房氏、春信風の錦絵美人画あり〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p81(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    広瀬氏、鳥居風の漆絵美人画あり〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】天明七年(1787) 【歿】天保三年(1832)閏十一月廿八日-四十六    【画系】北斎門人      【作画期】文化~天保    柳川を称す、鈴木氏、俗称重兵衛、曾て北斎の養子となり、其が長女(名は美與)と結婚して一子(男)    を儲けしが、故ありて離縁となり実家に歸りし由、雷斗の号は初め師北斎より与へられしものなりと云    ふ、彼れ本所柳川町に居住せしかば、人これを柳川重信と呼べり、よつて画姓とす、別に琴斎・鈴斎・    雨蕉斎等の号あり。彼が画く所、美人画及び読本草双紙の挿絵などありしが、文政五年大阪に行き、彼    地にて役者絵を画きし事あり、其の間、彼が門人となりて教へを受けし者(重春・信貞・国直及び其他)    もあり、当時大阪の斯界に相当の影響を与へしものゝ如し、されど滞在久しからずして帰東せしとぞ。    墓所下谷坂本、宗慶寺。彼が享年は、一説に五十余歳を伝へたり〟    ☆ しげのぶ 重信 二代    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信 二代    【生】           【歿】    【画系】初代柳川重信門人  【作画期】文政~天保    柳川を称し、初め重山と号す、谷城(一に代)氏、名は重信、字は子儀、俗称季三太、別号を雪蕉斎・    松影といふ、実は志賀理斎の三男なり、谷中天王寺北に居住せり。文政六年版『絵本ふぢばかま』(重    山)・天保八年版『理斎隨筆』挿画(重信)〟    ☆ しげのぶ 重信    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    山本氏、草双紙あり〟    ☆ しげのぶ 重宣(歌川広重二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重宣 二代広重の前名。(広重の項参照)〟    ☆ しげはる 重春(山本義信参照)    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重春  山本義信の前名〟    ☆ しげはる 重春    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重春    【生】享和三年(1803)     【歿】嘉永六年(1853)五月廿九日-五十一    【画系】国広門人後ち柳川重信に学ぶ 【作画期】文政~嘉永    長崎鍛冶町に生る、山口氏、名は安秀、俗称甚治郎、夙に大阪に出で、瀧川国広の門人となりて役者絵    を学ぶ、初め梅丸斎(また崎陽亭)国重と号し瀧川氏を称す、文政五年柳川重信の下阪当時入門して教    へを受けしが、文政四年より同九年の春までは、依然として国重の画名を用ゐ、同年夏の頃に至って初    めて柳斎重春と改めたり、また別に玉柳斎・玉柳亭と号す。画く所の役者絵及び読本の挿画等尠からず、    また芝居絵看板にも筆を揮ひしといふ、居所大阪三津寺町。(黒田源次氏著『上方絵一覧』参考)〟    ☆ しげはる 重春    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重春    【生】           【歿】    【画系】二代清重門人?   【作画期】天保~嘉永    清川氏、芝居絵本及び長唄本の表紙絵などに此の名あり〟    ☆ しげひろ 重広    ◯『浮世絵師伝』p82(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重広    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安政    大阪の人、秀丸斎・秀丸・秀峰等の号あり、役者絵を描く〟    ☆ しげふさ 重房    ◯『浮世絵師伝』p83(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重房    【生】           【歿】    【画系】祐信門人      【作画期】延享~宝暦    大阪の人、寺井氏、雪蕉斎と号す、画名重房の外に尚選とも云ひ、後に尚房と改む、画風祐信に酷似し    たれば、恐らくは其が門人なるべし、而して又狩野派の画法を学びし事は、彼が筆に成れる『画本拾葉』    によつて明かなり、居所、延享四年版の『難波丸綱目』に「安堂寺町五丁目、寺井重房」とあり。    彼が作画に係る絵本類大略左の如し。     ▲絵本浜眞砂(寛延二年版)▲淡粧源氏物語(同四年版)      ▲画本国見山(宝暦七年版)▲絵本勇名草(同十一年版)〟    ☆ しげふさ 重房    ◯『浮世絵師伝』p83(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重房    【生】           【歿】    【画系】重春門人      【作画期】天保    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しげふさ 重房    ◯『浮世絵師伝』p83(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重房    【生】           【歿】    【画系】初代廣重門人    【作画期】安政    歌川を称す、吉野氏、俗称勝之助〟    ☆ しげまさ 重政    ◯『浮世絵師伝』p83(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重政    【生】元文四年(1739) 【歿】文政三年(1820)一月廿一日-八十二    【画系】          【作画期】宝暦~文化    源姓、北畠氏、画姓には北尾と改む、諱は兼儔、字は非贏、幼名太郎吉、俗稱久五郎、後に佐助と改む、    小伝馬町一丁目の書肆須原屋三郎兵衛の長男にして、幼より画を好みしが、家業上常に種々の絵本類を    手にするの機会多かりしかば、其等を参考して専心自習せし結果、遂に一家の風を成すに至りしものと    思はる。或は当初画道に志しゝ際に、暫く狩野派の画家に指導を受けし樣にも察せらるれど、しかも彼    が天性素より画才に富めりし事は争ふべからず。彼は長男なるを以て当然父の後を継いで家業を営むべ    き者なるが、元来商業に携はることを好まざりしかば、家督は弟に譲りて、己れは専ら画技の研鑽に没    頭したりき。初め小伝馬町の家より大伝馬町三丁目扇商井筒屋の裏に転寓せしが、後ち閑居の志を懐い    て、金杉(根岸)中村に移り、其処を永住の地と定めたり。彼れ資性恬淡にして寡慾、画料の如きは大    抵依頼主の定むるまゝに任せ、敢て多きを貪らざりしといふ、これ多少家産に余裕ありしが爲めなるべ    く、作品にも自づから着実の気分を具へ、所謂君子風の面影を髣髴せしめたり。    画名の重政を一に繁昌、恭雅とも書したる例あり、蓋し両者とも「シゲマサ」と訓み得るが故なり、又    別に花藍・碧水・紅翠軒・紅翠斎・北峰・北鄒田夫・時雨岡逸民・恒酔天・酔放逸人・了巍居士等の数    号あり、其のうち花藍の号は、彼が俳諧の師たる谷素外より与へられしものなりと云ふ。彼は尚ほ、画    技の殊に書道に就て研究する所浅からず、三体篆隷皆之れを巧みにして、大小密各宜しきを得たりき。    夙に暦本の版下に堪能なりし外、種々版下に筆を染めしもの尠からず、又祭礼の幟に大書せるものなど    世に遺存せり。    彼の作画期は、宝暦の末より文政の初めに及び、初期の作品中には、紅絵の役者絵あり、また明和二年    の摺物には花藍の落款を施し、また大形中判の見立道風にも「花藍画」と款せり。明和末年頃の作に浮    世六玉川の揃あり。(口絵第二十五図参照)彼が春章と親交ありし証拠には、十二ケ月の行事を春章・    重政・豊春の三人にて四枚宛画き分け、安永五年の『青楼美人合姿鏡』色摺三册は重政と春章の合作、    天明六年版の「蚕養草」は重政・春章と六枚宛の画き分け等にて知るべし。重政は豊春の如く多からざ    れども浮絵を画けり、彼の大判美人画は無銘にて優秀のものあれども、概して錦絵の作はあまり多数に    上らず、数に於ては黄表紙に挿絵せしもの最も多し。其他絵本類も亦尠からず、いま其中の著名なるも    のを挙ぐれば次の如し。      ◯絵本荒獅山(寶暦十年版)◯絵本吾妻の花(明和五年版)     ◯絵本浅紫(同六年)   ◯絵本三家栄種(同八年)      ◯絵本よつの時(安永四年)◯青楼美人合姿鏡(安永五年 春章と合作)      ◯絵本武者鞋(天明七年) ◯絵本花異葉(同八年)      ◯画図四季交加(寛政十年)◯写真花鳥図会(文化二年)    彼の法名は了巍居士といひ、淺草本願寺地中善龍寺に葬りしが、墓石は既に所在を失して該寺に存せず、    纔かに過去帳を以て之れを立証し得るのみ。彼が門下には、政美・政演・俊満・柳郊等あり、歌麿・北    斎等も亦彼に教へを仰ぎし所ありと云ふ。(本項は文学士星野日子四郎氏の研究を参考す)〟    ☆ しげまさ 重政 二代    ◯『浮世絵師伝』p84(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重政 二代    【生】寛政五年(1793)     【歿】    【画系】政美及月麿門人又豊国に学ぶ 【作画期】文化~文政    前名を蕙麿・美丸又は美麿といひ、初め北川氏を称せしが、尋で小川氏に改め、其後更に歌川氏となり、    最後に北尾氏を称す、文政十年正月、自から二代重政を襲名して、別号を花藍(一に蘭とす)斎といへ    り、文化七年正月発行の『昔語兵庫之築島』に「【北川姓改十八歳】小川美丸画」とあるを以て、其の    生年を推算し得べし。居所新乘物町川岸、作品には美人画の錦絵もあれど、草双紙の挿画最も多し〟    ☆ しげまさ 重政(広重三代参照)    ◯『浮世絵師伝』p84(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重政 三代広重の前名。(広重の項参照)〟    ☆ しげまさ 重政    ◯『浮世絵師伝』p84(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重政    【生】           【歿】    【画系】重信門人      【作画期】安政    柳川を称す〟    ☆ しげまさ 重昌    ◯『浮世絵師伝』p84(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重昌    【生】           【歿】    【画系】広重門人      【作画期】    初代広重の愛弟子、十余歳にして夭折す。(内田実氏の談)〟    ☆ しげます 重倍    ◯『浮世絵師伝』p84(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重倍    【生】           【歿】    【画系】重長門人?     【作画期】延享    西村氏、漆絵美人画あり〟    ☆ しげまる 重丸    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重丸    【生】           【歿】    【画系】初代広重門人    【作画期】嘉永    歌川を称す、風景画あり〟    ☆ しげまろ 重麿    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重麿    【生】           【歿】    【画系】秀麿門人      【作画期】弘化    喜多川を称す〟    ☆ しげまろ 重麿    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重麿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】慶応    役者絵あり〟    ☆ しげみつ 重光    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重光    【生】           【歿】    【画系】重信門人歟     【作画期】嘉永    遠浪斎と号す、北斎風の武者絵あり〟    ☆ じゅうざん 重山    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝重山 二代重信の前名。(ヂウザン)〟    ☆ しばくに 芝国    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝芝国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、一に志葉国、西光亭と号す、役者絵あり、居所大阪両国橋〟    ☆ しゃらく 写楽    ◯『浮世絵師伝』p85(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝写楽    【生】           【歿】文政末或は天保頃    【画系】          【作画期】寛政    斎藤氏、俗称十郎兵衛、東洲斎と号す、阿波蜂須賀侯抱への能役者にして、春藤流の家筋なり、彼は江    戸南八丁堀蜂須賀邸の長屋に住せしと云ふ。写本『浮世絵類考』に「是又歌舞伎役者の似顔を写せしが    余りに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば長く世に行はれず一両年にして止む」とあり、また    別の写本『浮世絵類考』には「以画俳優肖像得時名、又能油画号有隣、享和元年卒」と書入れせり。蓋    し、彼の画きし所の役者似顏絵には、当時の江戸に於ける名優の殆ど全部を網羅し、其の描写の深刻な    る点は、時人をして或は「あらぬさま」と思はしめしやも知るべからざれど、該書別本(文化十二年加    藤曳尾庵手写)には、写楽の項の最後に「しかしながら筆力雅趣ありて賞すべし」と附記せられ居り、    一面具眼の士の好評を受けしことを察するに足れり。また、享和二年正月出版の式亭三馬作『稗史憶説    年代記』には「倭画巧名尽(ヤマトヱシナヅクシ)」と題して、師宣以降北斎辰政等に至る各著名の絵師を地    図に擬して画きたる中に、歌麿・北斎辰政と同じく「写楽」を海上の孤島として挙げたるは、当時彼の    技倆を認めたる一証なり(挿版参照)。而して、其が作画期の一両年にして止みしと云へるは、彼の版    画を帰納的に推考せし結果と一致する所にして、実に寛政六年及び七年に該当せり。    彼の作品中、大判雲母地の錦絵は皆寛政六年の作にして、画中の人物は半身及び全身の両図あり、また    一人のみと二人を画きしものとあり、雲母摺は白地と黒地の両種ありて、白地は全身図に、黒地は半身    図(例外として全身図一図あり)に取られたり(口絵第四十三図参照)。次に細判錦絵に於ては、悉く    全身図にして、三枚続若しくは五枚続とせり、背色は黄摺にしたるものと、背景を添へて地は無色の侭    にしたるものとあり、黄摺は寛政六年のうち十月までの作に係り、然らざるものは同年十一月より翌七    年に亘りて発表せしものなり。今一種は間判錦絵(黄地半身図)にして、これには各俳優の替へ紋と家    号俳名等を現はしたり、蓋し、寛政七年の作なり。以上、大判・細判・間判の各図を通じて、彼が落款    の形式は「東洲斎写楽画」と、「写楽画」の二種以外に出でず、而して、其の使用年代は前者は寛政六    年のうち十月以前に属し、後者は同年十一月以後翌七年に亘れり。茲に彼が版画の全作品に終始一貫せ    るものは、即ち其が版元を一軒に限れる一事なり。版元は富士やま形に蔦の印を用ゐし蔦屋重三郎(通    油町)にして、当時同業中一流の店なりき。    抑も、浮世絵師として画系甚だ明瞭ならざるに、しかも版画の妙諦を会得するに巧みなる彼の如きは蓋    し稀なり。彼の準備時代のことは殆ど不明なるが、狩野派の手法も多少は学びしものゝ如く、似顏の描    写に就ては、或は勝川春英などに得る所ありしかと思はるれど、其が作品の生命とする所は、全く彼れ    独特の奇警なる筆致に存せり。かの『類考』の一本に書入されし「油画ヲ能クス」と云へるは、恐らく    事実なるべく、版画の上にも其の閃きを見る。しかも、彼が能役者たりし素養は、俳優の舞台姿を写す    上にも影響して、或は歌舞伎以上の型に厳粛化せしめたる点無きにしもあらず。彼の作品に於ける描写    の確実性は、実に能楽と油絵(現今称する所の泥絵)とに基礎を置けるものと謂ひ得べきが如し。各人    毎に眼、眉毛、鼻、口等役者の特徴を捉へて表情を現はし、似顔絵画家としては浮世絵師随一なり。    欧米の具眼者は、夙に彼の似顔絵を模範的肖像画なりと推賞し、特に独逸のクルト氏の如きは、千九百    十年に挿絵入単行本の『写楽』を公表して、世界に於ける写楽紹介の先駆を成せり。    尚ほ、彼の版画には、役者絵以外に、大童山文五郎の図(二種)・夜討曾我・紅葉狩(黄地間判)・惠    比須(大黒と二図か)などあり。また版下には役者絵と角力絵とありて、共に未刊の侭となれり。肉筆    は市川鰕藏(五代目団十郎)の「暫」を以て、確証ある唯一のものとせしが、大正十二年の大震災に焼    失せり。其他、無落款にて彼の肉筆と称するものゝうち、寛政年間の俳優似顔半身図(間判、版画下絵)    約十図許り、十数年前に偶ま入札会に出でしことあり。    彼は、彗星の如く現はれて彗星の如く退きしと雖も、其が背後には然るべき後援者の存せしことは推察    に難からず、そは他なし、当時の藩主蜂須賀十二代重喜侯其の人にして、詳細なる記述は他日、文学博    士鳥居龍蔵氏の発表さるゝ所あるべし。鳥居博士は写楽と同郷の故を以て、数年来彼に関する調査を続    けられ、曾て、郷里阿波徳島に於て、彼が一族の墓及び過去帳等を実地に研究され、尚ほ最近には、森    敬介氏の買払求められたる江戸蜂須賀邸に於ける能番組(徳島新井儀八氏の家に伝はりしもの)中より、    斎藤十郎兵衛(写楽)が喜多流の能楽「巴」のワキ役(「大蛇」にも関係す)を勤めし実証を発見され    たり。この番組中彼は喜多六平太の「半蔀」のシテを勤め居れり、また六平太は七太夫の四男にして文    政八年十月二十一日嗣子となり、同十二月六日家督相続六平太となりたれば、この能は文政八年を溯る    能はず其以後のものなり。これに拠つて、写楽は廃筆後再び能楽に復帰し、確かに文政八年以後に未だ    活動力を失はざりし事を証するに足るべく、彼の歿年は文政八年以後たること論を俟たず。蓋し、博士    今囘の発見は、まさに写楽研究上に一道の光明を与ふるものと謂ふべし。    [挿図]稗史億説年代記所載〟    ☆ しょうてい 蕭亭    ◯『浮世絵師伝』p87(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蕭亭    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】】安永    春重の別号、肉筆美人画あり。(江漢の項参照)〟    ☆ しゅんえい 春英    ◯『浮世絵師伝』p87(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春英    【生】宝暦十二年      【歿】文政二年十月廿六日-五十八    【画系】春章門人      【作画期】天明~文化    勝川を称す、磯田氏、俗称久次郎、九徳斎と号す、各人物画に長じ、就中役者絵、角力絵等を最も得意    とす、其の画風質実にして筆力凡ならず、よく大家の風格を具へたり、蓋し春章門下中の第一人者と称    するに足るべし。    彼は新和泉町に住して家主たりしが、資性木衲、常に超俗の行ひありし事は、向島長命寺境内に現存す    る「勝川春英翁略伝」の碑文(文政八年十月石川雅望撰)に記されたり、其が文中「翁明和五年戊子に    うまれて文政二年己卯十月二十六日とし五十八にてみまかりぬ」とせる明和五年は宝暦十二年の誤算な    り。    彼の作品は、既に天明初年頃より世に発表せしかど、其の技の円熟大成したる時期は寛政二三年より同    五六年頃までとす。其の間彼に親炙して最も多く影響を受けし者は豊国なり、豊国の役者絵に於ける発    達は春英に啓発せられし所尠しとせず、猶ほ写楽の如きすら、暗に春英の特長に学ぶ所ありしは、両者    の作品によつて窺ふことを得べし。彼は役者絵を得意とすれども美人画家の春潮と懇意なりし如し(口    絵第三十八図参照)彼の美人画はあまり多く見ざれど、寛政六年頃の作「おし絵形」と題する錦絵(美    人踊の図)若干図は、彼が傑作として殊に出色のものなり。蓋し彼は常に観劇を好み、義太夫節を嗜み、    自から三絃の技にも長じたりしと云へれば、恐らくは舞踊に対して一隻眼を有せしことゝ思はる。    例の碑文に拠れば「子二人あり女子はさきだちてうせぬ男子斧二今世にあり」と見ゆ、然れども彼の画    系は継がず、門人数多ありしが中に、春亭・春扇・春紅・春和等最も著はれき。法名釈春英、墓は浅草    本願寺中善照寺にあり〟    ☆ しゅんえい 春栄    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春栄    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しゅんえん 春艶    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春艶    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】寛政    勝川を称す、役者絵あり〟    ☆ しゅんきゅう 春久    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春久    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんきょう 春喬    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春喬    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】寛政    勝川を称す、後に菱川柳谷と改めしと云ふ説あれども、未だ確証を得ず〟    ☆ しゅんぎょう 春暁    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春暁    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】寛政~文政    勝川を称し、鶴僊斎と号す、美人画に巧みなり〟    ☆ しゅんぎょう 春暁    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春暁    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    永島氏、麗斎と号す、日清戦争其他の錦絵あり〟    ☆ しゅんぎょうさい 春暁斎    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春暁斎  菱川柳谷の別号〟    ☆ しゅんぎょうさい 春暁斎    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春暁斎    【生】           【歿】文政六年(1823)七月十日-六十余    【画系】玉山門人か     【作画期】享和~文政    大阪の人、藤原姓、速水氏、名は恒章、俗称彦三郎、後ち京都に移る、画風玉山派に近し、自画作の読    本あり。墓所、京都裏寺町光徳寺、又、洛北等持院とす〟    ☆ しゅんぎょうさい 春暁斎 二代    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春暁斎 二代    【生】           【歿】慶応三年(1867)五月十六日    【画系】初代春暁斎の男   【作画期】文政~慶応    速水氏、名は恒茂、俗称民之助、初め春眠といひ、暁雲斎と号しゝが、後に二代春暁斎と改む。墓所、    京都裏寺町光徳寺〟    ☆ しゅんきょく 春旭    ◯『浮世絵師伝』p88(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春旭    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】安永~寛政    勝川を称す、黄表紙の挿画あり、安永九年版の『庚辛待例長話』は彼の自画作なりと云ふ〟    ☆ しゅんきん 春錦    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春錦    【生】           【歿】    【画系】春好斎門人か    【作画期】文化    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しゅんぎょく 春玉    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春玉    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】享和~文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんこう 春光    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春光    【生】           【歿】    【画系】春草門人か     【作画期】安永~天明    勝川氏なりとの説あり、錦絵美人画・子供絵等あり〟    ☆ しゅんかく 春鶴    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春鶴    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】寛政    勝川を称す、役者絵あり〟    ☆ しゅんけい 春景    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春景    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんけい 春敬    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春敬    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天保    大阪の人、梅好斎と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんこ 春湖 〔生没年未詳〕    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春湖    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    大阪の人か、細判役者絵あり〟    ☆ しゅんこう 春好    ◯『浮世絵師伝』p89(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春好    【生】寛保三年(1743) 【歿】文化九年(1812)十月廿八日-七十    【画系】春章門人      【作画期】明和末~文化    勝川を称す、清川氏、俗称伝次郎、長谷川町に住す、春章門人中の先輩にして、最も役者似顏絵をよく    せり、初め(明和の末)其が落款に壺印(壺形の中に木の字)を使用しかば、世人春章を壺屋と云へる    に比して彼を小壺と呼びしとぞ、安永より天明にかけて細判にて二枚続、三枚続もあり。(口絵第二十    九図参照)四十五六歳(天明七八年)の頃より中風を病みて右手の自由を失ひ、専ら左筆にて描きたり、    寛政の初め頃に画きし彼の作品中、役者の似顔を大判錦絵とせる所謂大首絵なるもの若干図あり、これ    彼が創案といふ種にはあらざれども、従前の型より多少新機軸を出せし点無きにしもあらず、先づ彼が    傑作と認むべきものたり、彼は斯く役者絵には成功せしかども、美人画及び風景画等には、何等見るべ    き作品を遺さず、殊に晩年は甚だ振はざりしものゝ如し。    文化四年正月発行の『【市川白猿】追善數珠親玉』に市川白猿(五代目團十郎)の舞台姿を画きて「六    十四歳春好左筆」とす、按ずるに此図は前年文化三年の冬に画きしものなるべければ、文化四年には六    十四歳に相当せしなるべし、是れに拠りて彼が歿時の年齢を知り、又逆算して出生の年を察し得るなり。    墓所、浅草本願寺中、善照寺、法名釈春好信士〟    ☆ しゅんこう 春好 二代    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春好 二代    【生】                 【歿】    【画系】初め三代等琳門人後ち春英に学ぶ 【作画期】文化~文政    俗称清次郎、初め秋琳といひしが、文化三年春(摺物に拠る)、春扇と改め勝川氏を称す、別に可笑斎    ・登龍斎等の号あり(口絵第五十三図参照)、文政三年頃に至つて二代春好を襲名す、彼が春英門下よ    り出でゝ其の後を継がず却つて二代春好を名乗りし事は不審とすべきか、恰も彼が襲名当時に画きし作    品に、西洋画法を応用して江戸名所を題材とせし風景画数図あり、彼の春扇時代に於ける美人画と対比    して一特長を有するものなり、彼に錦絵の外に草双紙の挿画尠からざりき。居所初め麹町貝坂、後ち芝    中門前町に移り、文政の末頃芝神明町に転ず、其頃は既に錦絵類を画かずして、専ら陶器に筆を執りし    と云ふ〟    ☆ しゅんこう 春好(北洲参照)    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春好 北洲の前名〟    ☆ しゅんこう 春幸(勝川春章二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春幸    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文化~天保    勝川を称す、其松井春幸といひしが、後に二代目春章を襲名せり、武者絵あり。(二代春章の項参照)〟    ☆ しゅんこう 春紅    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春紅    【生】           【歿】    【画系】春章(春英?)門人 【作画期】寛政~文化    勝川を称す、浮絵・役者絵及び風俗画あり〟    ☆ しゅんこう 春紅 二代    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春紅 二代    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんこう 春江(北英参照)    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春江 北英の前名〟    ☆ しゅんごう 春郷    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春郷    【生】           【歿】    【画系】春好斎門人か    【作画期】文化    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しゅんさい 春斎    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春斎    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】天保    勝川を称す〟    ☆ しゅんざん 春山    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春山    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】天明~寛政    勝川を称す、初め春山と号せしが、天明六年頃泉守一の門に入りて、泉昌有(有昌とせるは誤)と改む、    但しそは極めて短期間なりしものゝ如く、其の後再び旧号に復して、寛政の末頃まで作画を続けたりき、    最も美人画を巧みにせり、又、天明七年頃の黄表紙『【新作落咄】徳治伝』(作名泉昌有)を自画自作    せしを見ても、多少の文筆の才ありし事を察するに足らむか〟    ☆ しゅんざん 春山 二代    ◯『浮世絵師伝』p90(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春山 二代    【生】           【歿】明治四年(1871)二月二十九日    【画系】初代春山門人か   【作画期】文政    勝川を称す、俗称文吉、狂歌を天明老人に学びて、狂名を出久廼坊画安といへり、本郷丸山本妙寺地中    妙雲寺に葬る〟    ☆ しゅんざん 春山    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春山    【生】           【歿】    【画系】北洲門人      【作画期】文政    大阪の人、北心斎と号す、文政末期の役者絵あり〟    ☆ しゅんし 春芝    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春芝    【生】           【歿】    【画系】北洲門人      【作画期】文政    大阪の人、画登軒と号す、役者絵あり、居所二つ井戸〟    ☆ しゅんし 春枝    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春枝    【生】           【歿】    【画系】春芝門人      【作画期】天保    大阪の人、画好軒と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんし 春子    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春子    【生】           【歿】    【画系】北洲門人か     【作画期】文政    大阪の人、青陽斎と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんしょ 春曙(北頂参照)    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春曙 北頂の前名〟    ☆ しゅんしょ 春渚    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春渚    【生】           【歿】    【画系】北洲門人か     【作画期】文政    大阪の人、別に春要と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんしょう 春升    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春升    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】天保~嘉永    松尾氏、胡蝶園、又、蓬莱と号す、美人画あり〟    ☆ しゅんじゅ 春寿    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春寿    【生】           【歿】    【画系】春江門人      【作画期】文政    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しゅんしょう 春章    ◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春章    【生】享保十一年(1726)【歿】寛政四年(1792)十二月八日-六十七    【画系】春水門人      【作画期】明和~寛政    一時宮川、或は勝宮川を称せしが、後ち勝川と改めて一派を開きたり、春水の外、高嵩谷にも学ぶ所あ    りしと云ふ、姓は藤原、諱は正輝、字は千尋、俗称祐助、旭朗井・酉爾・李林・六々庵と号し、落款に    従画生と冠せし例もあり、俳諧を島妌(セイ)斎に学びて、俳名を宜富といへり。    明和の初め、彼の画名未だ世に広く知られざりし頃、人形町の地本問屋林屋七右衛門方に寄寓して、其    の作品たる細絵の役者絵に林屋の仕切判(壺形の中に林の字ある印)を画印の如く使用せしに、其等の    作皆好評を博し、それよりして、世人彼を壺屋又は壺春章と呼做せりとの説あり、然れども、果して林    屋といへる地本問屋の存在せしか否かは不明なるのみならず、該壺印に就ても尚ほ疑問なき能はず、或    は林を以て彼の氏とも解し得らるゝが如し。    彼は明和初年以降、春信等と共に、浮世絵版画の革新に与つて力ありし一人にして、就中役者絵に於て    は、在来の鳥居一派の類型を破りて、新たに写実的似顔絵を創始し、殊に顔面描写に就て前人未発の表    現法を用ゐたりしが、特大判で地紙形跡中へ役者半身を試みたる図、実見したもの十三枚あり、其内菊    之丞の図は優秀の作なり。(口絵第二十七図参照)     版画に幾多の傑作を遺せしのみならず、晩年に至つては、特に肉筆美人画に絶妙の技を揮ひたり。    彼の筆に成れる絵本中、重なるものを擧ぐれば左の如し。     ◯絵本舞台扇 三册(【明和七年版/文調と合作】)      ◯錦百人一首 一册(安永三年版)      ◯百人一首あつま織 一册(同四年版)        ◯青楼美人合姿鏡 三册(【安永五年版/重政と合作】)      ◯役者夏の富士 一册(安永九年版)         ◯怪談百鬼図会 五册(天明三年版)      ◯絵本宝能縷(タカラノイト) 一册(【天明六年版/重政と合作】)      ◯絵本千代の友 (一字欠)册(天明七年版)      ◯絵本栄家大我恰(エイカタイガイ)三册(同七年版)      ◯絵本義經一代實記 一册(同七年版)        ◯絵本拜開夜婦子取(ハイカイヨブコドリ)一帖(同八年版)      ◯猨山(サヤマ)三十六歌仙 一帖(同 九年版)      ◯絵本接穂の花 四册(寛政二年版)      ◯絵本威武貴山 三册(同五年版)          ◯列国怪談聞書帖 三册(【享和二年版/春英と合作】)     右の外、芝居絵本(色摺)若干册あり。    斯くて「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」の一句を辞世として、彼は六十七年の一生を終れり、法名    を勝譽春章信士といひ、浅草新堀端(南元町)、松平西福寺々中存心院に葬る。尚ほ彼が画技の外、書    道に堪能なりし事は、前記『錦百人一首あつま織』の序文の筆蹟を見ても、其の一斑を知るに足るべし。    門人中には、春童・春好・春常・春英・春潮・春朗(北斎)等あり、それぞれ特長を発揮して、よく勝    川派の盛名を成さしめたり〟    ☆ しゅんしょう 春章 二代    ◯『浮世絵師伝』p92(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春章 二代    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政~天保    勝川、又は勝宮川氏を称し、旭松井と号す、初め松井春幸といひしが、天保三年二代春章を襲名せり、    蓋し同年版『衣食住狂歌集』の挿画に「春幸改メ旭松井春章画」と落款せるを以て証とす、武者絵及び    役者絵を得意とし、作画は文政以降天保十一二年頃まで継続したりき〟    ☆ しゅんじょう 春常    ◯『浮世絵師伝』p92(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春常    【生】           【歿】天明七年(1787)七月一日    【画系】春章門人      【作画期】安永七~天明二    勝川を称す、安田氏、俗称岩蔵、役者絵をよくし(口絵第三十一図参照)、又黄表紙を多く画きたり、    春英の一族にして菩提所も亦同じ(浅草本願寺地中善照寺)、法名を宗因と云ふ。(島田筑波氏発見)〟    ☆ しゅんすい 春水    ◯『浮世絵師伝』p92(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春水    【生】           【歿】    【画系】長春門人      【作画期】延享~明和    画姓は宮川氏の外に、勝川とも勝宮川とも称す、俗称を藤四郎といひ、初め深川に住し、後ち芳町に移    る、作品中、宝暦十年版『絵本武者軍鑑』あり、又明和四年版『活花百瓶図』の内一図を画き、落款に    「宮川春水画」とす、則ち春章の師なり、然れども一説には、長春門下の春水の門人に更に春水を名乗    りし者ありとし、後者を以て春章の師とせり、これ恐らくは、一人の春水を誤つて二樣に解釈せしもの    なるべし〟    ☆ しゅんすい 春水    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春水    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安永    玉川氏、安永年間の出版に係れる春章風の美人画、役者絵、武者絵等あり。安永九年版の『大きに御世    話』と題する小咄本に挿画す、落款に「玉川春水画」とあり〟    ☆ しゅんすい 春翠    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春翠    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    四方氏、俗称茂兵衛、又は茂平、京都六角通柳馬場東入町に書肆を営み、通称を平野屋といひ、家号を    翠松園といへり、蓋し父祖の遺業を継ぎしものなれど、後に廃業して銅版師となれり。其の間『花洛名    勝図会』の挿絵を画きしこともあり、画風松川半山に稍似たり。銅版は、自著『万国往來』(明治五年    発行)に挿画せり、巻尾に「册中鐫画図 独立一派四方春翠鐡筆、門人北村友山助刻」とす。彼は又、    書を能くして、該書の版下も自筆に成りしものゝ如し〟    ☆ しゅんせい 春青    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春青    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】    勝川を称す、文化九年版『浮世三十二相』を描く、或は春清と同一人か〟    ☆ しゅんせい 春清    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春清    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を証す、或は春青と同一人か〟     ☆ しゅんせい 春勢    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春勢    【生】           【歿】    【画系】春芝門人      【作画期】天保    大阪の人、画遊軒と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんせきさい 春汐斎    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春汐斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    坂本氏、名は吉久、明和八年版『弁説叩次第』に挿画す、春朝斎の師なり〟    ☆ しゅんせつ 春雪    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春雪    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文化    勝川を称す、後に蓬山米之と改む、麹町に住し後ち赤坂に移れり、武者絵あり〟    ☆ しゅんせん 春扇(勝川春好二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春扇 二代春好の前名〟    ☆ しゅんせん 春泉    ◯『浮世絵師伝』p93(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春泉    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】天明~寛政    勝川を称す、役者絵あり〟    ☆ しゅんせん 春泉    ◯『浮世絵師伝』p94(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春泉    【生】           【歿】    【画系】春川五七門人    【作画期】弘化    京都の人か、春川を称す、弘化五年版『風俗名婦伝』に「五七門人春川春泉画并述」とせり、又大阪版    『絵本千丈嶽』二册あり〟    ☆ しゅんせん 春仙    ◯『浮世絵師伝』p94(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春仙    【生】明治十九年(1886) 現在    【画系】久保田米仙外    【作画期】明治~大正    名取氏、本名は芳之助、明治十九年東京に生れ、小学時代、同窓の川端龍子氏、岡本一平氏と共に画才    を認めらる。中学時代、久保田米仙の司馬画塾に学び、米仙の失明後、漢籍、美学、美術史等の講義を    聞き、技術方面は米仙の嗣子金仙氏に学ぶ、別に池田有真翁に着彩の秘法を聴き其門に遊ぶ。十七の時、    真美会へ水墨牧牛図二曲屏風を出品褒賞を受く。十九歳の時、平福百穂氏に私淑し其説に随つて洋画を    兼学す。明治四十年美術学校撰科に入学せしも安田勒彦氏の追学に刺戟されて退学す。    二十三歳 -「東京朝日新聞」夏目漱石氏を迎へて其作に配すべき画家を求む、幾多の応募者中、野田    九浦氏と共に挙げられて、藤村、草平、鏡花、花袋等諸文豪が挿画に風格ある新機軸を出し其名大に揚    がる。二十五歳 -「デモ画集」「日本の神樣」(渋川玄耳共編)「漫画と訳文」(岡本一平、仲田勝    之助共著)等の著作あり、小杉未醒氏の「黒白」紙上の激賞や、デモ画集中百穂氏の序文に「……春仙    君の画は実に春仙君から生れたで……山に水に花に鳥に將た小説に劇に行くとして可ならざるはなく嘱    目する処直に春仙君の絵が生み出される、春仙君は憎い程の才人……」と其個性を賞讃されてゐる。二    十六歳 - 結城素明、平福百穂諸氏の当時の尖端的作品発表唯一の機関たりし無声会に迎へられ龍子氏    と共に会員となり夙に斬新なる作風を成す。二十七歳 - 百穂、芋銭、龍子、恒友、浩一路等の諸氏と    結んで三五会(珊瑚会)を組織し現画壇新傾向の急先鋒を成す。二十八歳 - 未醍氏、耕花氏の推挙に    より琅玕洞展(院系展の権威ありし画商展観)に「韮山の太閤」を出陳、横山大観氏に認めらる、同年    作素描「松助の顔」を前田青邨氏は其客室に掲げ妙技を共鳴せりと伝へらる。三十歳 - 復興第四回院    展に六曲屏風「潮満珠潮干珠」を出品、僅々十一点の厳選に入り、本格的才能を認めらる。蓋し当時の    入選水準は現下の帝展特選に等しく其反響も亦今日の比にあらず。三十一歳 - 美術院試作展に入選    「劇場の巻」は川端龍子氏の「獅子」と共に院賞励賞を受く。院友に推薦さる。三十三歳 - 第六回珊    瑚会に「緑の裡の光り」と題する鎌倉大仏の隠見する松林に朝陽の輝く大作を出品し問題となる。三十    四歳 - 支那山東省泰山に遊び青島に滞在して山水画及書道の研究に没頭す。三十五歳 -「朝日」の    執筆及諸雑誌の執筆を止め、専心本格的製作に耽る。三十八歳 - 万朝報社に入り絵画部主任たり、余    技として漫画を描き、サンデー毎日の創刊に際し再び版画の筆を執り週間朝日、演芸画報其他諸誌に執    筆。大正五年頃、京橋区柳町の画博堂に展覧されたる名優画家の内、氏の作で雁治郎の紙屋治兵衛が渡    辺版画店主の限に止り依頼されて木版画に作り、肉筆では現はせない色の情味が摺の技巧次第で意想外    の色調が現はれ、次に源之助の切られお富を試作したのが動機となり、大正十四年五月(四十歳)から    「春仙似顔集」と表題し、一ヶ月三図宛、趣味の会員へ頒布し、昭和四年一月、三十六枚揃 - 完成し    た、此似顔集は「創作版画 - 春仙似顏集」と氏が自信の下に表題を付けたのであるから、徒に肉筆の    模写に堕ちた複製的技巧を弄したものや、幼稚粗野を以て新味と曲解した自刻式のものと異つて、木版    画に就て幾多の洗練と研究を重ねて古版画に見ざる新味を出したるため、「名優妙技の俤、名匠の霊筆    に依て洵に活けるが如し」と批評された、趣味会員より名優及び新派俳優の追加を希望され、一揃の外、    十図以上製作中。尚ほ似顏集を見られて、独逸大使ゾルフ博士、徳川頼貞侯、高見廉吉氏の肖像を木版    画で依頼され製作した。    昭和五年の米国雜誌「アメリカン、マガゲン、オブアート」に依て、伊東深水、川瀬巴水氏等と共に版    画の功績を世界に紹介された。自今氏は日本劇画協会同人、日本挿画協会々員。住所は東京府中野町、    仲町十二番地〟    ☆ しゅんせんさい 春泉斎    ◯『浮世絵師伝』p94(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春泉斎    【生】           【歿】    【画系】春朝斎門人     【作画期】寛政~文化    大阪の人、竹原を称す、谷本氏、画名を清秀といふ、然れども別号の春泉斎を以て世に知らる、名所図    会両三種あり〟    ☆ しゅんせんどう 春泉堂    ◯『浮世絵師伝』p94(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春泉堂    【生】           【歿】    【画系】春燈斎門人     【作画期】文久~慶応    京都の銅版画家、遠山氏、春泉堂又は春泉亭とも号せり、三都名所絵若干図ありて、其の中の三図に、    木版にて彩色を施せるは新例と見るべし。(黒田源次氏の説に拠る)〟    ☆ しゅんそう 春艸(春草?)    ◯『浮世絵師伝』p95(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春艸    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】安政    錦江斎と号す、「東都八勝」と題する錦絵あり〟    ☆ しゅんちょうさい 春朝斎    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春朝斎    【生】           【歿】    【画系】春汐斎門人     【作画期】安永~寛政    大阪の人、竹原氏、本姓松本、名は信繁、俗稱門次、大阪道頓堀四郎兵衛町に住む、名所図会数種あり〟    ☆ しゅんちょう 春朝    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春朝    【生】           【歿】    【画系】春芝門人か     【作画期】文政    大阪の人、画寿軒と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんちょう 春朝    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春朝    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】明和    明和六七年頃の作と思はるゝ細絵にて、三代目市川団藏(安永元年六月歿)の侍役の図あり、落款に    「春朝画」とし、画風春章に酷似せり。次に、安永初期の作、地紙形肉筆役者絵鬼一法眼の図には「唐    春朝画」の落款あり〟    ☆ しゅんちょう 春潮    ◯『浮世絵師伝』p95(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春潮    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】安永~寛政    勝川を称す、俗称吉左衛門、雄芝堂・紫園・東紫園・中林舎・三江等の別号あり、役者絵には殆ど筆を    染めざりしことは、例へば口絵第三十八図の如く役者は春英、美人は春潮の筆に合作せるを見ても知る    べし。美人画に於ては特に傑出せる作品尠からず、「浮世絵板画傑作集」の第十集柱絵の内、及び十一    輯の内、美人行歩の図等天明より寛政初期までの作は清長と対立し得る程度の作なり。又黄表紙、絵本    などをも画きたり、其の最も早き時期のものとしては、安永六年版の黄表紙『敵討七色唐辛子』あり、    絵本中の傑作には『絵本栄家種』二册(寛政二年版)あり、最後に寛政十年版の落款本『無事志有意』    の挿画を描きしが、錦絵の作は、それ以前に跡を絶ちしものの如し。初め馬喰町に住し、中頃日本橋大    工町に移り、文化年間に至りて瀬戸物町に転ず、其の頃よりして窪俊満の門に入り、号を吉左堂俊潮    (或は朝)と改め、専ら狂歌狂文の作を事とせり、而して、彼が文政頃まで生存せしことは、写本『浮    世絵類考』に式亭三馬の書入れせし文中に「文政四年今猶存す長寿の人なり」とあるを以て証とすべし。    ☆ しゅんちょう 春鳥    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春鳥    【生】           【歿】    【画系】春川五七門人    【作画期】文化~文政    京都の人、春川を称す、堀田氏、合羽摺彩色の細判役者絵及び美人画あり〟    ☆ しゅんちょう 春蝶    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春蝶    【生】           【歿】    【画系】北洲門人      【作画期】文化~文政    大阪の人か、合羽摺彩色の美人画・役者絵・武者絵等あり〟    ☆ しゅんてい 春亭    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春亭    【生】明和七年(1770) 【歿】文政三年(1820)八月三日-五十一    【画系】春英門人      【作画期】寛政十~文政三    勝川を称す、山口氏、俗称長十郎、柳々斎・松高斎・汲壺・戯墨庵・酔放逸人等の号あり、其が作品は    美人画、役者絵、武者絵などの錦絵をはじめ、読本、草双紙等の挿画に至るまで相当多くの数に上れり、    尚ほ風景画は極めて少数なれども、江戸名所「深川新地の図」及び「品川之図」等、文化末期の作とし    て注目に値すべき特色を有せり(口絵第五十九図参照)。初め馬喰町一丁目に住し、後ち神田和泉町に    移る〟    ☆ しゅんてい 春定    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春定    【生】           【歿】    【画系】春芝門人か     【作画期】嘉永    大阪の人、画蝶軒と号す、役者絵あり〟    ☆ しゅんてい 春貞    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春貞 ハの部にあり〟    ☆ しゅんとく 春徳    ◯『浮世絵師伝』p96(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春徳    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】寛政末~文政    勝川を称す、俗称千太郎、十軒店に住す、武者絵あり〟    ☆ しゅんとうさい 春燈斎    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春燈斎    【生】           【歿】    【画系】初代玄々堂門人   【作画期】弘化~万延    京都の銅版画家、源姓、岡田氏、名は義房、俗称儀七郎、東園と号す、京都仏光寺通柳馬場東入る所に    住し、自製の銅版画を自から販売せしなり、其の店を水月堂といへり。彼の作品は、諸国案内図及び名    所絵等頗る多く、数に於ては二代玄々堂に匹敵し、技術に於ては遙かに玄々堂以上のものあり〟    ☆ しゅんぼう 春卯    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春卯    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】天明~寛政    勝川を称す〟    ☆ しゅんどう 春洞    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春洞    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】寛政末~文化    勝川を称す、俗称政蔵、大工を業とせしかば大政といへり、左筆を用ゐて役者絵を描く、また歌麿風の    美人画あり〟    ☆ しゅんどう 春童    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春童    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】明和末~寛政三    勝川を称す、蘭徳斎と号し、後に春道を画名とす、安永、天明頃には多く役者絵を画き、また黄表紙の    挿画も尠からず、寛政年間まで作画を続けしものゝ如し。其が作品中、寛政初年頃の筆と覚ぼしき美人    画(肉筆)に「道法自然」といへる印章あるを見れば、彼が抱負の一端を察するに足らむか。また、寛    政三年の絵暦には「蘭徳斎祥用画」と落款せり。一説に、彼は初め春水に学び、後ち同門の先輩たる春    章の指導を受けしなりと云ふ、最も多く春章の感化を蒙りし事は、其が作品によりて立証せらるゝ所な    り。『鹿子餅』と題する小咄本(小形六册)あり、初編上中下は春章の挿絵、二編上中下は蘭徳斎春童    画とあり、奥附には双方共明和九年正月吉日堀野屋仁兵衛外二店の版元なれども、二編の跋には其前に    上編を売出したる如く書込みあり。何れにしても春章の初弟子にて描方も巧みなる故、師より愛せられ    たる者ならむ〟    ☆ しゅんどう 春童 二代    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春童 二代    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文化~文政    文政八年十月、石川雅望(六樹園)の撰文に係れる「勝川春英翁略伝」の碑は、向島長命寺に現存せる    が、其の碑背に春英門下十二人の名を連ねたる第二人目に「春童」とあり、これ恐らくは、春章門人の    春童が春道と改名せし以後に現はれたる者なるべく、即ち二代目を襲名せしと察せらるゝなり〟    ☆ しゅんどう 春道    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春道 春童の項にあり〟    ☆ しゅんば 春馬    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春馬    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ しゅんぽう 春峰    ◯『浮世絵師伝』p97(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春峰    【生】           【歿】    【画系】春芝門人      【作画期】天保    大阪の人、画照軒と号す、役者絵あり〟    ☆ 春満(窪俊満参照)    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春満 窪俊満の初名〟    ☆ しゅんみん 春眠(速水春暁斎二代参照)    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春眠 二代春暁斎の初号〟    ☆ しゅんゆう 春雄    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春雄    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政〟    ☆ しゅんよう 春陽    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春陽    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政〟    ☆ しゅんり 春里    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春里    【生】           【歿】    【画系】春章門人か     【作画期】寛政    勝川を称す、役者絵あり〟    ☆ しゅんりゅう 春龍    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春龍    【生】           【歿】    【画系】春章門人か     【作画期】寛政    勝川を称す〟    ☆ しゅんりゅう 春柳    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春柳    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんりん 春林    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春林    【生】           【歿】    【画系】春章門人      【作画期】天明四~寛政    勝川を称す、美人画を描き、又黄表紙の挿画あり〟    ☆ しゅんりん 春琳    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春琳    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】文政    勝川を称す〟    ☆ しゅんれい 春嶺    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春嶺    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】文化    東氏、葛飾を称す、草双紙挿画あり〟    ☆ しゅんろう 春朗(葛飾北斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春朗 葛飾北斎の初名〟    ☆ しゅんろう 春朗 二代    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春朗 二代    【生】           【歿】文化十四年(1817)四月二十五日    【画系】豊春及春朗門人   【作画期】天明~文化    初め叢(クサムラ)豊丸といひ、寿亭と号す、後ち春朗門人となりて、寛政後半期中に二代春朗を襲名せり、    其が作品の落款に「前豊丸春朗」或は「勝川春朗(二代)」としたる例あり。天明六年より寛政年間に    亘りて芝居絵本を画きし外、細判役者絵及びおもちや絵を多く作りき〟    ☆ しゅんわ 春和    ◯『浮世絵師伝』p98(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝春和    【生】           【歿】    【画系】春英門人      【作画期】寛政~文政    勝川を称す、寛政末頃の摺物あり、後に相撲絵を画く〟    ☆ しゅんまん 俊満    ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝俊満    【生】宝暦七年(1757)   【歿】文政三年(1820)九月二十日-六十四    【画系】楫取魚彦及び北尾重政門人【作画期】安永~文化    北尾を称す、窪田(修して窪といふ)氏、俗称易(一に安とす)兵衛、幼年にして父を喪ひ、伯父何某    の許に養はれて成長す、初めの師魚彦より春満の号を与へられしが、後ち世人より春章の門人ならむと    云はるゝを厭ひて俊満と改む、生来左筆なりしかば、別号を尚左堂と云へり、其他、黄山堂・南陀伽紫    蘭(戯作号)・一節千杖(狂歌号)・塩辛房(俳号)等の号あり。    彼は、安永の初期より浮世絵師生活に入り、美人画を主とせる錦絵と自画作の黄表紙若干種を発表せし    が、作画の傍ら狂歌を六樹園(石川雅望)に学びて、後ち伯楽側の判者と成り其の機縁にょりて絵入狂    歌本及び狂歌の摺物等に筆を執りたり、晩年益々狂歌道に親しみ、且つ長子嫡孫共に摺師たりしを以て、    摺物の製作上に便宜を蒙る所尠からざりき、而してそは単に自己の娯楽とせしに止まらず、一般の需め    に応じて殆ど専門的に工夫を凝らしゝものゝ如し、今其等の作に従事する以前に発表せし錦絵中にあり    て、世に傑作と称せらるゝものは、春霄図(【茶亭の黒塀の内外に人物を配置したるもの】)・曲水の    宴・四季庵楼上の酒宴(以上各三枚続)・美人六玉川(六枚物)(口絵第三十四図参照)等なるが、其    他の諸図に就て見るも、多くは天明年間の作なり。尚ほ中年、晩年を通じて、肉筆画は頗る多数の作あ    り。    右の外彼は沈金彫の技に長じ、又貝細工を巧みにせり、加之、文藻甚だ豊かなるものあり、実に多芸多    能の人と謂ふべし。居所初め通塩町、後ち小伝馬町三丁目河岸に移りし事は確証あれど、其の他にも、    亀井町・神田富松町・本所亀沢町などに住みしとする説あり。法名を善譽尚左俊満居士といひ、浅草黒    船町正覚寺に葬る。    ☆ しょうい 勝以    ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝勝以 (カの部に入る)〟    ☆ しょうい 勝以    ◯『浮世絵師伝』p(99井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝勝以 勝川派に此の名を用ゐし者ありと云〟    ☆ しょうろく 蕉鹿    ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蕉鹿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政~文化    高尾氏、酔夢亭と号す、肉筆美人画あり、画風栄之などに似たり、蜀山人の画賛せしもの多し。朝倉無    声氏の説に、蕉鹿は神田小川町辺に住し、狂歌を蜀山人に学ぶ、恐らくは幕府の徒士なりしならむ、と    云へり。(『此花』第二十一枝参照)〟    ☆ しょうえん 蕉園     ◯『浮世絵師伝』p99(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝蕉園    【生】明治十八年(1885)【歿】大正六年(1917)-三十三    【画系】年方門人      【作画期】明治~大正    榊原氏、本名は百合子、大阪に生れ、東京に出でゝ、水野年方及び川合玉堂氏に学ぶ、明治四十年七月、    同門生の池田輝方と結婚して姓を池田と改む、大正元年文部省第六回美術展覧会へ「ひともしごろ」を    出品して褒状を受く、第七回へは「ねがひ」第八回には「中幕のあと」、第九回展には「こぞのけふ」    一対を出品して特選の賞を受く、最後の作である〟    ☆ しょうげつ 勝月    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝勝月    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    小島氏、名は勝美、東洲と号す、浅草永住町九十八番地に住す。明治二十年頃の風俗、及び日清戦争等    の錦絵あり〟    ☆ しょうげつ 松月    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松月    【生】           【歿】    【画系】二代或は三代等琳門人【作画期】文化~文政    俗称和泉屋作十郎、水陽(或は楊)亭・泉山と号す、後ち法橋に叙せらる、英泉風の美人画錦絵あり、    居所神田鍋町〟    ☆ しょうこうさい 松好斎    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松好斎    【生】           【歿】    【画系】凉光斎門人     【作画期】寛政~文化    俗称半兵衛、大阪島之内清水町に住す、専ら役者似顏絵をよくせり。また彼が挿画せしものに、     ◯絵本二葉葵 二册(寛政十年版)    ◯戯場楽屋図会 四册(同十二年版)      ◯俳優兒手柏 △册(享和二年版)    ◯三都俳優ますかゞみ 二册(文化三年版)      ◯拳会角力図会 二册(同六年版)    等の外、享和年間に絵入脚本数種を画きたり。而して、文化六年以後は如何なりしや詳かならざれども、    彼が画系は門人春好斎(北洲)によりて継承され、更に数多の門葉を擁したりき〟    ☆ しょうざん 松山    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松山    【生】嘉永三年(1850)八月十五日 【歿】    【画系】暁斎門人         【作画期】明治    早川氏、俗称徳之助、晴斎と号す、また帰誠の別号あり、明治十年版の錦絵征韓論の図を書く。下谷?    東竹町四十番地に住せり〟    ☆ しょうじゅ 松寿    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松寿    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    漆絵美人画あり〟    ☆ しょうてい 松亭    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松亭 弘明(ヒロアキ)が前名〟    ☆ しょうとうろう 松東楼    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松東楼    【生】           【歿】    【画系】勝川派か      【作画期】文化    一に松藤浪とす、美人画及び草双紙あり〟    ☆ しょうげつさい 嘯月斎    ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝嘯月斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保~元文    氏名詳ならず、肉筆美人画あり、落款の肩書に日本絵師とせり〟    ☆ しょうじ 昌次    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌次    【生】           【歿】    【画系】雲鯨斎英信門人   【作画期】明和~安永    大阪の人、寺沢氏、天王寺に住す、絵本及び芝居絵番附、秘戯画等数多あり〟    ☆ しょうゆう 昌有(勝川春山参照)    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌有    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    泉氏、勝川春山の改号〟    ☆ しょうしょうけん 小松軒(百亀参照)    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝小松軒  小松屋百亀の別号〟    ☆ しょうせん 小泉    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝小泉    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    文化初期の洒落本に挿画して「渓斎小泉」と落款せり、蓋し英泉の前名なるべし〟    ☆ しょうしん 紹真(北尾政美参照)    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝紹真 ツグザネ、鍬形蕙斎の名。(政美の項参照)〟    ☆ しょうせん 尚選(寺井重房参照)    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝尚選 寺井重房の別名〟    ☆ しょうそん 祥邨    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝祥邨    【生】明治十年(1877)二月九日  現在    【画系】鈴木華邨        【作画期】明治~昭和    小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授(初め東京帝国大学    教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフェノロサ博士の指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数    描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋(松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年よ    り祥邨(シヤウソン)と改め、肉筆のみ揮毫せしも、昭和元年より渡辺版画店の需めに応じ、主として氏の    得意とする花鳥版画の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。古昔の浮世絵版画に、歌麿・政美・    広重等の花鳥あれども、専門的の花鳥画家は無く、版画として優秀の作は少ない。氏の描画は、草木、    鳥獣等は悉く写生に基き、更に美化したるもの故、室内の装飾品に最も適応せり。氏の住所は、東京府    高田町雑司ヶ谷上り屋敷一一四四番地〟        ☆ しょうは 章波    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝章波    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    上野氏、絵暦美人画あり、画風春信に似たり〟       ☆ しょかんさい 書肝斎    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝書肝斎    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    春信風の美人画あり〟    ☆ しょかんどう 書感堂    ◯『浮世絵師伝』p101(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝書感堂    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】享保    肉筆美人画あり〟        ☆ しょざん 曙山    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝曙山    【生】           【歿】    【画系】歌川派       【作画期】嘉永    麗斎と号す、居所麻布〟        ☆ しんこう 真好    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真好    【生】           【歿】    【画系】松好斎門人か    【作画期】文化    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ しんとく 真徳    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真徳    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文化    錦絵「福助とおかめ」の図あり〟       ☆ しんぺい 真平    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真平    【生】           【歿】    【画系】文政        【作画期】    大阪の人、役者絵あり〟     ☆ しんりゅう 真龍    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真龍    【生】           【歿】    【画系】上龍門人      【作画期】天保~弘化    豊後の人、吉原氏、字は臥雲、俗称衛三郎、撫隠と号す、浮世人物画をよくし、法橋に叙せらる、京都    寺町通蛸薬師上ル所に住す、版画は作らざりしが如し〟    ☆ しんさい 辰斎    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝辰斎    【生】           【歿】    【画系】北斎門人      【作画期】享和~文化    名は政之、俗称半次郎、人呼んで満納半二と称す、師より辰斎の号を与へられ、別に柳々居・柳花園と    号す、其が落款中「柳々居政之」又は「辰斎政之」としたる例もあり、狂歌摺物最も多し、錦絵は和蘭    陀画の手法に倣ひたる風景画若干図あり、例へば「近江八景」(八枚揃)・「隅田川」・「永代橋」・    「六郷渡」等の如き、いづれも筆致清洒にして、一種の風格を備へたるものなり、此等の風景画は、    「近江八景」を除くの外概ね無落款にして、往々北寿などゝ混同せらるゝ場合無きにあらず、多少比較    研究を要す。居所神田小柳町また新石町〟     ☆ しんすい 薪水    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝薪水    【生】           【歿】    【画系】春水門人      【作画期】寛保    勝川を称す、本銀町四丁目に住せり〟    ☆ しんすい 深水    ◯『浮世絵師伝』p102(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝深水    【生】明治二十九年(1896)現存    【画系】清方門人      【作画期】大正~昭和    伊東氏、本名は一(ハジメ)。明治二十九年(戸籍は二ヶ年後れて三十一年二月四日届出)深川区西森下    町に生れ、十三の時東京印刷会社へ職工として入社し、其内監督に画の巧妙なるを認められ、石版部の    図案課の助手に廻された、此図案課には結城素明、西村青帰氏を初め美校出の秀才が多く集まつて居た。    社内であらゆる参考図書を見学し、帰宅すると夜は実業補習学校(氏は其前家計の都合にて小学校三年    で退学した)に通学し、昼夜熱心に勉強し、画技の上達を課長に認められ、秋田課長は鏑木清方氏と同    じく年方の門下であつた関係から、秋田氏の紹介で当時浜町に居住せる清方画伯の門に入り、明治四十    五年三月当時文展に次ぐ巽画会へ「のどか」と云ふ画を出品して初入選、翌年の会へ「無果花のかげ」    を出品して一等褒状を受け、日本美術院再興第一回展覧会に「桟敷の女」非常の厳選を凌いで入選し、    招待日に笹川臨風氏が其れを売約した、大正四年文部省第九回展覧会へ「十六の女」、半玉が炬燵に倚    り掛れる表情、其の絵は当時の新聞紙上に十八の男が十六の女を描いたとの記事が掲載された、翌年再    び日本美術院第三回展覧会へ「乳しぼる家」、此図は氏が大島へ渡り旅行中写生したる牛舎の図、氏の    眼に映ずるものは美人に限らず、僧侶、渡し守、労働者、動物、自然の風光、舞台のシーン等は何れも    氏の製作欲を満たすものである。    大正十一年平和博覧会へ「指」と云ふ画題にて透屋の着物、指を見て膝掛けて居る丸髷の美人、場中第    一の好評にて銀賞を受く、大正十三年帝国美術院第五回展には「おしろい」二曲一双、十同年には「昼    さがり」二幅対、十五年「女五人」六曲屏風、昭和二年の八回には「羽子の音」を出品して特選、三年    「雪の夜」、続いて四年の第十回展には「秋晴」晴れたる天に秋草の背景、現代の美女、二人連れにて    歩行の図、特選首席の栄譽を担ひ、続いて推薦された(永久無鑑査)、五年の十一回には「浮島」清流    のほとり渓谷の噴出場に好みする数人の裸女、以上は氏が美術界に乗出した大略である。    浮世絵には肉筆と木版画がある、古今の浮世絵を比較すると肉筆に巧みなる者は(元禄以前は別)版画    は少ない、然し氏の作画は肉筆の外、新聞雑誌の挿絵、読立した木版画にも筆を揮ひ、大正五年より    「対鏡」を処女作として美人風景等大正十二年(大震火災)迄約四十図、目下「現代美人集」と題する    高級版画に技巧を揮はれて居る、渡辺版書店で出版した氏の版画も春信、清長、歌麿等優れたる昔の版    画が缺乏したる際、唯一の後継美術版画であらう。氏の住宅は府下大井町南浜川より池上の本門寺境内    へ新築の宅へ移転された〟    ☆ しんろてい 振鷺亭    ◯『浮世絵師伝』p103(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝振鷺亭    【生】           【歿】文化十二年(1815)十一月二十三日    【画系】清長門人      【作画期】寛政~文化    猪川氏、名は貞居、俗称与兵衛、浜町(或は本船町)に住し、其の家甚だ富裕なり、戯作をよくし傍ら    浮世絵を描く、而して、其が自作の洒落本などに自から挿画せるものあり。後年落魄して川崎在大師河    原村に移り、手跡指南を以て業とせしが、一日大酔して堰に墜ちて死すと云ふ〟    ☆ じちょうさい 耳鳥斎    ◯『浮世絵師伝』p103(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝耳鳥斎 (ニの部にあり)〟    ☆ じゅこう 寿好    ◯『浮世絵師伝』p103(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝寿好  よし国の別号〟    ☆ じょうりょう 上龍    ◯『浮世絵師伝』p103(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝上龍    【生】           【歿】    【画系】岡本豊彦門人    【作画期】天保    京都の人、後大阪に住む、三畠氏、上龍、或は乗龍、乗良とも号す、初め岡本豊彦に就て学び、後専ら    浮世風俗を画きて遂に一家を成せり、但し版画は描かず、門人に吉原真龍あり、よく師風を伝ふ〟    ☆ じょけい 如慶    ◯『浮世絵師伝』p104(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝如慶    【生】慶長四年(1599) 【歿】寛文十年(1670)六月廿日-七十二    【画系】住吉派       【作画期】寛永~寛文   『大日本人名辭書』より抜萃すれば左の如し。   住吉広通は有名の画人なり、土佐光吉の次子(長男は光則)、幼名光陳、内記と称す、後薙髪して如慶と   改め法眼に叙せらる。画を善くするを以て徳川幕府の画師となり、東都に住して業を世々にす、今の画家   住吉氏は其後なり、往昔有名の画家住吉慶恩の後、久しく絶えたりしが、広通勅を奉じて新に住吉の家名   を興す、故に広通を以て住吉家中興の祖とす。能く土佐家の画格を守り、其図樣密にして頗る美麗なり、   寛文十年六月二十日歿す、年七十二。遺蹟著名の品は聖徳太子絵伝五巻、多武峰新縁起(土佐広澄との両   筆)、光明寺縁起、義経記、夢物語、曾我物語、宇治拾遺、橋姫物語、天若彦草子木曾物語、二十四孝絵   巻物、奈世竹物語、伊勢物語、妙法院宮鳩之間絵とす(扶桑画人伝)。外に、某氏所蔵の肉筆、紙地極彩   色遊戯、酒宴、踊等の寛永風俗を図したる十枚一帖あり(横一尺三寸位)〟    ☆ じょけい 如圭(流光斎参照)    ◯『浮世絵師伝』p104(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝如圭 (流光斎の項に入る)〟    ☆ じょざん 如山    ◯『浮世絵師伝』p104(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝如山    【生】           【歿】    【画系】喜多川派      【作画期】文化    豊川氏、歌麿風の肉筆美人画あり〟    ☆ じょせん 如扇    ◯『浮世絵師伝』p104(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝如扇    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛政    喜多川風の美人画錦絵あり〟    ☆ じょれん 如連(北鼎参照)    ◯『浮世絵師伝』p104(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝如連    【生】           【歿】    【画系】北斎門人歟     【作画期】文政    北鼎と号す、摺物あり〟