Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                            浮世絵師伝  ☆ おうい 応為    ◯『浮世絵師伝』p24(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝応爲    【生】           【歿】    【画系】北斎の女      【作画期】文化~弘化    葛飾を称す、俗称栄、常に父の傍らにありてオーイ/\と呼ばれしより其の発音に因て応爲と号せしな    りと云ふ、初め南沢等明(堤等琳門人)の妻となりしが、睦からずして離別され再び他に嫁せず、安政    四年の夏、家を出でたる侭行く所を知らず、或は加賀金沢に赴きて彼の地にて歿すともいへり、歿年月    は明かならざれども、行年六十七と伝へらる。画風よく父に似たるが、美人画に最も得意とせしものゝ    如く、殊に父の助手となりて描きし春画は、その妙技実に驚くばかりのものあり。また肉筆にて浮絵風    に画きし「吉原青楼夜景の図」あり、頗る異彩に富みしものなり。高井蘭山の作『女重宝記』(弘化四    年版)及び、山本山主人著『煎茶手引の種』(嘉永元年版)の挿画を描く〟    ☆ おうきょ 応挙    ◯『浮世絵師伝』p24(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝応挙    【生】享保十八年(1733)  【歿】寛政七年(1795)七月十七日-六十三    【画系】石田幽汀門人    【作画期】宝暦~寛政    姓は藤原、後ち源に改む、円山氏、幼名岩次郎(又は与吉)、後ち主水と称す。丹派国桑田郡穴太村の    農家に生れ、十一二歳の頃京都に出でて、四條通新町東入る岩城と云へる呉服店に雇はれしが、間もな    く転じて四條通柳馬場東入る中島(尾張屋)勘兵衛方に仕ふ、蓋し、此家は玩具商にして、自然画家な    どとも往来せしかば、彼は其機会に石田幽汀(狩野派)の門人となりしものなるべし。初め人形の彩色    などに従事せしが、画法を学び得て始めて夏雲と号す(後ち僊嶺、更に応挙と改む)。恰も其頃(宝暦    年間)、和蘭陀渡来の眼鏡絵を、中島方にて取扱ひ居りしが、其図の種類には限りあれば、何とか目先    を変へむものと考へ、遂に応挙をして種々の題材にて眼鏡絵を画かしめしなり。当時彼れは、中島の世    話にて四條道場(今の新京極の一部)に居を構へ、自筆の絵を店頭に並べて自から之れを鬻ぎ居りしが、    右の眼鏡絵を画くに方りて、偶然にも写生と遠近法などの暗示を受け、それより自己の画風に革新の第    一歩を進めしなり。されば、彼が後年の大成も、実に斯かる玩具に等しき眼鏡絵に胚胎せしは一奇と謂    ふべきか。(久保田米僊氏談話筆記参考)    彼が画きし眼鏡絵には、肉筆と版画(筆彩)とあり、肉筆には京都名所及び支那風景等数図、版画には    京都名所及び其他の図若干枚あり、而して、或る図には裏面に「応挙」(下に花押)としたる署名印を    黒肉にて押せし例あり。如上諸図の作画期は、宝暦末より明和年間に及びしものゝ如し。(黒田源次氏    著『西洋の影響を受けたる日本画』参考)    彼は、最初斯くの如き画歴を有し、後には円山風(或は四條風)の影響を後進に及ぼす所多く、其の間    上方浮世絵と相関聯する所尠からず、依てこゝに収録することゝしたり。彼が墓所は京都四條通大宮西    入る悟眞寺(俗稱応挙寺)、法名は円誉無三一妙居士と云ふ〟    ☆ おうさい 鴬斎    ◯『浮世絵師伝』p25(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝鴬斎    【生】           【歿】    【画系】国芳門人      【作画期】嘉永~万延    梅の本と号す〟    ☆ おきのぶ 沖信    ◯『浮世絵師伝』p25(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝沖信    【生】           【歿】    【画系】珍重門人      【作画期】元文    羽川氏を称す、元文頃の細判漆絵に福禄寿と雷の図あり。一に沖信を珍重とすれど、其の証無し〟    ☆ おきひで 興秀    ◯『浮世絵師伝』p25(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝興秀    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】天明    小本挿画あり〟