Top           『浮世絵師伝』         浮世絵文献資料館
                             浮世絵師伝  ☆ まごじ 孫二    ◯『浮世絵師伝』p183(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝孫二    【生】           【歿】    【画系】二代等琳門人    【作画期】文化    堤氏、師等琳の俗称を襲で孫二といふ、雪峯と号し、俗称を雉子定といふ、神出大工町に住す〟    ☆ まごじ 孫二 二代?    ◯『浮世絵師伝』p183(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝孫二    【生】           【歿】    【画系】初代孫二門人    【作画期】天保    太田氏、俗称保二郎、雪丘、また筆廼家と号す、俗に筆安といへり、神田久右衛門町代地に住す〟    ☆ まごべい 孫兵衛    ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝孫兵衛    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】正保    菱川氏、近江八幡町日觸八幡社に納めたる西村船の献額には「奉掛御堂前、正保四年丁亥三月吉日、安    南国居住西村太郎右衛門、菱川孫兵衛筆」とある由、此の孫兵衛は浮世絵なりしや否や未詳なれど、菱    川姓を名乗りしを以て姑くこゝに掲ぐ〟    ☆ まさかず 政員    ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政員    【生】           【歿】明治十九年(1886)    【画系】二代国貞門人    【作画期】    梅筵又は梅園と号す〟    ☆ まさくに 政国    ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政国    【生】           【歿】    【画系】よし国門人     【作画期】文政    大阪の人、寿鶴堂と号す、役者絵あり〟    ☆ まさてる 政てる     ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政てる    【生】           【歿】    【画系】政演門人      【作画期】天明    天明八年版の黄表紙『【真名手本】義士之筆力』(京伝作)に「政演門人政てる画」とあり〟    ☆ まさとし 政利    ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政利    【生】           【歿】    【画系】政信及び利信門人か 【作画期】寛延    奥村文全政利在名の異本『高砂十返松』・『浪に衣』などありといふ(水谷不倒氏の説)、また肉筆美    人画に「政敏書」(印文政利)と落款せるものあり〟    〈「日本古典籍総合目録」に『高砂十帰松』なる黒本あり。奥村利信画とある。『浪に衣』は見当たらない〉    ☆ まさのぶ 政信    ◯『浮世絵師伝』p184(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政信    【生】貞享三年(1686)   【歿】明和元年(1764)二月十一日-七十九    【画系】          【作画期】元禄~宝暦    奥村氏、名は親妙、俗称源八(稀に源八郎)、芳月堂・丹鳥斎・文角・梅翁等の号あり、蓋し、弱冠の    頃既に松月堂不角千翁(立羽氏)の門に入りて俳諧を学び、師より斯かる号を与へられしものなり(宮    武外骨氏の『奥村政信画譜』に拠る)。画は夙に鳥居清信に私淑し、よく読学して遂に一家の風を成せ    り、もとより文筆の才もありしかば、自作の浮世草紙数種を出だしき。彼の処女作は、元禄十四年六月、    栗原長右衛門枚の『遊女絵本』(題名未詳)にして、時に年十六歳なり、こは無落款にて画風清信に酷    似せり、按ずるに、元禄十三年四月、版木屋七郎兵衛校の『娼妓画幉』(仮題)は、即ち清信が画ぐ所    にして、政信は正に此の本を模倣せしなり、故に聊か憚る所ありて斯くは無落款とせしものならむ。次    に元禄十四年八月、同じく栗原長右衛門板の『遊女絵本』(題名未詳)には、初めて「奥村屋源八政信    図」と落款せり。前記の彼が処女作たる遊女絵本には、尚ほ左の如き類本あり。     元禄十五年正月(奥村源八郎政信図)小寺長兵衛板     元禄十五年正月(奥村源八政信図) 小寺長兵衛校     正徳元年八月 (奥村源八政信図) 竹田長右衛門板    即ち、前記の栗原板二種と、右の小寺板二種、及び竹田板一種等、都合五種行はれしなり。而して彼は、    右の五種中、最初の無落款本を除く外は、皆其が落款に「和画工」の肩書を用ゐたり、これ清信の『娼    妓画幉』に於ける落款の肩書に擬せしものならむが、後には次の如き肩書を用ゐし例あり。     風流大和絵師(宝永四年版『比翼連理丸』挿画)     大和絵師(正徳初頃、墨摺一枚絵、十二枚揃)     東武大和画師(正徳三年頃、墨摺大判、美人画)     日本画工(享保九年乃至十三年頃、細判漆絵)     日本東武画工(寛保四年頃「芝居狂言浮絵」)    以上の内、大和絵師・日本画工などの肩書は、当時の浮世絵師の多くが共通的に使用せしものなれど、    日本東武画工と自称せしは聊か異例とするに足れり。然るに、茲に一つ彼れ独特と称すべき肩書あり、    そは、享保末頃の『絵本千本桜』に「おやまゑ画工」とし、また寛延頃の紅摺柱絵遊女の図に「江戸お    やま絵」とせるもの即ちそれなり。按ずるに、京阪地方にては遊女を「おやま」と俗称せるを以て、お    やま絵即ち遊女絵といふ意味にて斯くは肩書せしものなるが、其の京阪の称呼に擬したる理由は、或は    彼が特に彼地との関係深かりしに因るか、又は京阪地方の顧客を本位として、版売政策上より案出せし    ものか、恐らくに、両者共に関聯する所あるべしと思はる。従来諸書に伝へられし、彼が伝記中には、    彼の俗称を「源六或は源八」とし、甚だしきに至つては「源六後に源八と改む」などゝ記載せり、此に    勿論誤りにして、政信は終始一貫して源八(稀には源八郎)を称し、源六を併用せし確証は絶無なり、    併し乍ら、源六を政信と同一人と見做せしは無理ならざる点あり、即ち、かの版元としての奥村源六と、    画工としての奥村政信が恰も同一人の如く一枚の版画に併記されたるを以てなり。しかも一方に「奥村    源六筆」と落款せる細判漆絵もありて、源八と源六の区別は頗る曖昧となりしものゝ如し、こゝに於て、    新たに両名別人説を設けて、兩者の関係を明かにせむと欲す。抑も源八の称は、政信の初期の作品に見    受くる所にして、享保以降の作には其の例を見ず、これ或は「初め源八後ち源六と改む」と称し得ベき    にも似たれど、具さに、其が作品を比較するときは、斯かる改称の理由を見出し得ざるのみならず、寧    ろこれを別人と認むるの自然なるを首肯し得べし。先づ、宮武外骨氏の自輯自刊(明治四十三年)に係    れる『奥村政信画譜』に考証さるゝ所を見るに、彼の名を諸書に「観妙」とせるは「親妙」を誤りしも    のなる事を明かにし、次に、「政信が芳月堂文角梅翁と号せしは、松月堂不角千翁(立羽氏)の俳諧門    人たりしに拠るなり」「政信は書肆(絵草紙問屋)にして画工を兼ねたりしなれども、そは享保初年後    の事なるべし、宝永正徳頃に出せし政信画作の浮世草紙、六段本等の版元は、いづれも皆自家にあらざ    りしにて知るべし」とあり、まことに正鵠を得たる説にして、最も信憑するに足れり。然れども、未だ    源八と源六の区別には言及されず、且つ、政信が最後まで版元を兼業したりしが如く解せられたれど、    事実は、源八即ち政信、源六即ち政信の子と区別し得るのみならず、源八は版元奥村屋の初代、源六は    其の二代と断定して可なるが如し。蓋し、政信は其子源六をして画系の後継者たらしむべく、初めは画    技を指導する所ありしが、途中にして方針を変へ、将来絵草紙問屋を以て専業たらしむることゝせしな    り。彼が絵草紙問屋となりて、自己の作品を初めて出版せしは、恐らく享保九年の春なりしと思はる、    其頃に近き彼が自画自刊の一例としては、細判漆絵「【浅草名物】藤のちや屋」の水茶屋女に扮せる佐    野川万菊の図あり、これ享保九年四月頃の作と推定すべきものなり。爾後、引きつゞきて自画自刊の一    枚絵あり、享保十年の細判漆絵には「日本画工奥村政信正筆、通塩町絵問屋、べにゑゝさうしおろし、    あかきひやうたんめじるし仕候、奥村」と長々しき説明を附し、翌十一年にはそれを多少添作して「浮    世絵一流根元」とし、或は瓢箪印の傍らに「るいなし」の四字を加ふる等、頻りに画名と店名の両宣伝    に意を用ゐしが、それに加へて、享保十三年よりは門人利信の作品をも彼が出版することゝなりて、創    業以来幾ばくをも経ざるに、早くも相当の成績を挙げしものゝ如く、彼の画才と並んで商才の傑れしこ    とを実証せり。彼が営業の全権を其子源六に譲りしは、何年頃なりしか不明なれど、寛保年間の「浮絵」    の数図には、明かに版元奥村屋源六の名を附刻せり、勿論画面の形式上、細絵には俗名「源六」を省き    しもの多かるべければ、実際は寛保以前に於て、源六が版元として父に代りしやも測りがたし。兎も角、    それ等の如何に拘らず、彼は益々作画に努力せしものゝ如く、又作品の上にて盛んに自家宣伝を行ひた    り、例へば延享年間に出だしゝ紅摺美人画の一図を見るに、「私方の絵を直に張跡方もなきゑかきの名    印まぎらはしく付にせるい重板彫出し候御しらせ申上候正名奥村絵を御召可被下候、以上」などゝ注意    書を附刻せり、勿論当時相当の模倣者は出でしならむも、多少事実を誇張せし点も無きにあらず。彼の    版画製作期は、元禄末より延享・寛延まで連続的に作品の発表ありしが、宝暦に入りては殆ど影をとゞ    めず、これ或は、石川豊信・鳥居清満等の如き、後進の輩出せし爲め、又一つには彼の老齢の然らしめ    し点もありて、とみに版画の製作を怠り、専ら肉筆画の方面に力を注ぎしものならむ。晩年の肉筆にて    女万歳を画きし双幅には「芳月堂丹鳥斎奥村文角政信行年七十二歳画」と落款せり、即ち宝暦七年の作    なり。いま彼の版画に於ける全作品を概観するに、初め元禄末より宝永半ば頃までは、鳥居清信の影響    を受けし所最も多く、それより宝永末-正徳年間に於ては、繊細なる描線にて彼れ独自の画風を示し、    享保に入りては、前半期までに全く彼の特徴を完成せり、享保年間に於ては、彼の称する「べにゑ」    (後に漆絵とも云ふ)に苦心の跡をとゞめ、最も役者絵に力を注ぎたり、また享保後半期に画きし漆絵    中には畳以上の大さある幟絵の鐘馗の図ありて、其の眼玉に金粉を塗りたるなど、単純ながら面白き考    案を示せり。爾後、元文を経て寛保年間に入りては、例の「浮絵」を案出して、従来未だ見ざる所の風    景画に遠近法を応用し、芝居の内部の全景、或は青楼の大広間、其他数多の図を画きて、著しき特色を    現はしたりき。寛保末頃には、幅広柱絵と称する竪長判のもの数図を画き、そのうち「尾上菊五郎(初    代)の女せきぞろ」には、落款の肩書に「芳月堂正名はしらゑ根元」と明記せり(口絵第九図參照)、    これは全く浮絵と共に彼の創案といふべきものなり。次で、延享より寛延に亘りて、所謂「紅摺絵」の    盛行を見るに至り、彼の作品も頗る多数に上りしが、此の期を一段落として、前述の如く彼は版画界を    徐々に引退せしものゝ如し。飜つて、彼が挿画本及び絵本類は、一々枚挙に遑あらざれば、凡そ大略を    示さむに、     ◯好色花すまふ   五冊(元禄十六年版)  ◯好色又寝の床  五冊(宝永二年版)     ◯男色比翼鳥    六冊(同四年版)    ◯若草源氏    六冊(同四年版・自作)     ◯風流呉竹男    五冊(同五年版)    ◯唐玄宗(六段本)一冊(同五年版)     ◯紅白源氏物語   五冊(同六年版・自作) ◯風流鏡ヶ池   六冊(同六年版・自作か)     〇八幡太郎(六段本)一冊(同七年版)    ◯武家職原抄   二冊(正徳六年版)     ◯俗解源氏物語   六冊(享保六年版・自作)◯雛鶴源氏    六冊(同六年版・自作)     ◯若草源氏     六冊(同六年再摺・自作)◯祇園祭(赤本) 一冊(享保年間出版)     ◯どうけ地口(同) 一冊(同上)      ◯平家物語(青本)五冊(延享年間出版)     ◯絵本風雅七小町  二冊          ◯絵本千本桜   一冊     ◯絵本天神御一代記 二冊          ◯絵本小倉錦   五冊     ◯絵本鶴の嘴    二冊(宝暦二年版)    斯くの如きものなり。彼の歿年に就ては、関根只誠の『名人忌辰録』に「明和五子年二月十一日歿す歳    七十九(美成の名誉往来には明和元申年七十九歳と有り)」とし、同著の『浮世絵人伝』(本朝浮世絵    名家詳伝と改め、近年更に浮世絵百家伝と改題す)には「さて政信は明和元年二月十一日享年七十九に    て歿しぬ」とあり、いま後説を採る〟    ☆ まさのぶ 政信    ◯『浮世絵師伝』p187(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明和    上田氏、浮世絵師なるや否や判明せざれども、細絵判の水絵あれば姑くこゝに載す。(浮世絵版画全集、    第二六一図)〟    ☆ まさのぶ 政信    ◯『浮世絵師伝』p187(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政信    【生】           【歿】    【画系】師宣門人か     【作画期】元禄    『浮世絵師系伝』に「菱川政信、師宣の門人なり、字守節、よく師の画風を似せたり」と出づ。恐らく    は肉筆画のみ描きしものならむ〟
    菱川派系譜
   ☆ まさのぶ 政信    ◯『浮世絵師伝』p187(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政~天保    菱川を称す、三浦氏、初め信丸といふ。文政十一年版『傾城豹の巻』(東里山人作)の挿画に「信丸改    菱川政信」とせるもの即ち是れなり。其後天保年間の筆と思はるゝ或る肖像画(肉筆)に「従四位下土    佐守光貞葉、菱川政信謹画」と落款せり、蓋し同一人なるべし〟    ☆ まさのぶ 政演    ◯『浮世絵師伝』p187(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政演    【生】宝暦十一年(1761)  【残】文化十三年(1816)九月七日-五十六    【画系】重政門人      【作画期】安永~文化    北尾を称す、本姓拜田、故ありて岩瀬を氏とす、名は醒(サムル)(初名田臧)、字は伯慶、後に酉星(一    に有儕)と改む、幼名を甚太郎といひ、後に伝蔵と称す。父の代より京橋銀座一丁目に住し、商業を営み    家号を京屋と云へり。彼は後に、其が新案に係る煙管及び煙草入などを売りし事あり、世人彼を呼んで京    伝と云ひしは、京橋の京と俗称伝蔵の伝とを取りしものとも、又は京屋伝蔵の略称なりとも伝へらる。按    ずるに、初めは他称なりしを後に自から雅号として用うるに至りしものならむ。彼が居所は恰も楓葉山の    東に当れるよりして、山東庵・山東居・山東窟・山東軒・山東人・山東亭・瑚洞散士などの号を用ゐ、其    他、葎斎・醒斎・醒々斎・醒々・醒世・世醒老人・宝山・素石・鼯鼠(ムササビ)翁・臍下逸人・洛橋陳人・    甘谷・菊亭(後ち菊軒と改む)・菊花亭等の諸号あり、又狂歌名を身軽折輔(初め織輔)と云へり。彼は、    安永七年(十八歳)に『お花半七・開帳利益札遊合』といふ黄表紙に挿画す、これ即ち彼が処女作なりと    伝へられたるものなり。同九年版の草双紙評判記『菊寿草』に彼を画工の部に加へたるを見れば、当時既    に斯界に相当の位置を占め居りしものと察せらる。爾後年々歳々自作或は他作の黄表紙に挿画し、其の間、    錦絵に役者絵、美人画などの作あり、就中天明四年版の『吉原傾城・新美人合自筆鏡』(特大倍判錦絵七    枚の帖)、及び大判錦絵「当世美人色競」の数図(口絵第三十五図参照)等は、彼の傑作として有名なり。    蓋し其の頃よりして、彼の画技は益々円熟の域に進みしが、一方には山東京伝の号を以て、黄表紙・洒落    本などに軽妙洒脱の文を綴りしかぼ、画名文名並び称せらるゝに至りしも、彼は自己を知るの明ありて、    徐々に文壇に地歩を進むると同時に、自然的に浮世絵界を退くことゝはなりにき。即ち寛政三年春発行の    『早染草後編・人間一生胸算用』其他同年発行の黄表紙類は、彼が政演としての最後の筆と認むべきもの    にして、恐らくは、此の年より其が画名(政演)を廃し、従来文学上にのみ使用せし「山東京伝」の号を    作画上にも併用したるなり。彼の晩年を記念すべきものは、幾多の戯作と、肉筆の自画賛と、今一つは、    『浮世絵類考追考』(写本、享和二年編)・『近世奇跡考』(文化元年版)・『骨董集』(文化十二年版)    等の著書なり、曾て蜀山人が彼の肖像画(鍬形蕙斎筆)に賛して曰く「しやれ本は皮と肉にて書のこす骨    董集そまことなりける」と、其の名著『骨董集』の続稿を執筆半ばにして、彼は卒然長逝(脚気衝心なら    むと云ふ)せり、法名弁誉智海京伝信士、両国回向院墓地内先塋の側らに葬る。彼の詳伝は、大正五年宮    武外骨氏の編纂に係れる『山東京伝』につくされたれば、こゝには、単に画家としての彼を紹介するにと    ゞむ。(栄里の錦絵に彼の肖像画あり、口絵第四十九図参照)〟    ☆ まさはる 政春    ◯『浮世絵師伝』p188(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政春    【生】元禄十三年      【歿】    【画系】          【作画期】享保    窪田氏、俊満の祖父、享保十年霜月、願主山内佐兵衛の爲めに、沢村宗十郎の巴御前の姿を額に画きて、    熊谷稲荷に奉納せり、後ち安永三年五月、嫡孫春満(俊満の初名、時年十八)に命じて、該図の彩色を補    修せしむ(明治年間に紛失)、時に彼れ七十五歳なりしと、『浅草寺志』巻三の記事を引きて島田筑波氏    の発表(『浮世絵新誌』第十一号)あり〟    ☆ まさひさ 政久    ◯『浮世絵師伝』p188(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政久    【生】           【殘】    【画系】直政門人か     【作画期】安政    歌川を称し、梅堂と号す〟    ☆ まさふさ 政房    ◯『浮世絵師伝』p188(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政房    【生】           【歿】    【画系】政信門人      【作画期】寛保~延享    奥村氏、文志と号す、寛保・延享年間の異本『年玉ひまち噺』・『鶴竹情の商人』・『榮華義經蝦夷錦』・    『盛景両面鏡』等を画けり。年玉には「文角門人奥村文志政房画」、鶴竹には「芳月堂弟子奥村文志政房    画」、栄華には「奥村文志政房画」と落款せる由、宮武外骨氏の『奥村政信画譜』に出でたり〟    ☆ まさゆき 政之    ◯『浮世絵師伝』p189(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政之 辰斎の名〟    ☆ まさよし 政美    ◯『浮世絵師伝』p189(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝政美    【生】明和元年(1764)   【歿】文政七年(1824)三月廿二日-六十一    【画系】重政門人      【作画期】安永末~文政     北尾を称す、本姓赤羽、後ち鍬形氏に改む、名は紹真(ツグザネ)、字は子景、俗称三二郎、蕙齋と号す。     父は駿州興津の人、田中義珍といひしが、後ち下野国那須郡猿子村の農赤羽源左街門の養子となりて赤     羽姓を名のり、やがて江戸に出でゝ畳職を業とせり。政美は江戸に生れて、此の畳屋に人となりしかば、     世人彼を畳屋の三公(三二郎の略)と呼び做しゝを、其の居所堀留杉森(稲荷)新道にありし爲め、自     から杉皐(サンコウ)と号せしこともありき。彼れ父の業を顧ずして、専ら画道に志しゝが、天性の好みは     其技の進むことも速く、安永九年正月、即ち十七歳の時に初めて黄表紙の挿画を試みたり(文溪堂作     『十二支鼠桃太郎』三冊)。翌天明元年より引続きて黄表紙を画き、頗る世の好評を博せしものゝ如く、     爾後寛政八年に至るまで連続的に挿画し、其の全数実に百六十余種の多きに上れり。      初め安永九年には「北尾門人 三二郎画」と落款せしが、翌天明元年よりは「政美」の名を用ゐし例あ     り、されば此の年に師より斯く画名を与へられしものなるべし。次で、天明半ば頃よりは錦絵を作り、     武者絵及び浮絵等に特色を示し、また従来上方版のみなりし組上燈籠絵を、彼は初めて江戸版にて作り     始めき。彼の得意とせし所は、人物画のうち、美人画よりも寧ろ武者絵に力を籠め、また美人画として     は、時勢粧よりも古代風俗に興味を有せしが如し。これ蓋し、彼が大和絵に心を傾け、藤原時代の絵巻     物などを研究せし事ありとの説に符合せり。もとより狩野派の骨法を学ぶ所あり、其他西洋の解剖学を     人物画に応用し、又は光琳の筆意に倣ひて草花を画くなど、あらゆる技法に亘りしが、就中最も特色の     著るしきものとしては、輕妙洒脱なる人物略画と、一目瞭然たる鳥瞰式風景図との二種なるべし。いま     彼の主要なる絵本類を挙ぐれば左の如し。      ◯江都名所図会(藍摺五十景)一巻 天明五年版      ◯絵本吾嬬鏡        三冊 同七年版      ◯京都名所 絵本都の錦   一冊 (天明七年序 寛政三年版)      ◯海舶來禽図彙(花鳥)   一帖 寛政二年版      ◯略画式(人物)      一冊 同七年版      ◯山水略画式        一冊 同十二年版      ◯魚貝譜(俳句入)     一冊 享和二年版      ◯魚貝略画式(右の解題俳句無し)一冊 同二年版      ◯蕙斎略画苑(人物二編)  一冊 文化五年版      ◯諺画苑          一冊 同五年版      ◯草花略画式        一冊 同十年版      ◯今様職人尽歌合 二冊 文政八年版     右のうち『海舶来禽図彙』は、花鳥十図と南京人物二図を収めたるものにして、後に花鳥画のみを再摺     して一枚絵とせしもの世に流布せり。次に彼が得意とせし鳥瞰式「江戸名所の絵」といふ一枚摺は、原     画は文化七年の作にして、一は扁額に画きて神田明神に奉納し、一は軸物に仕立てゝ津山俟に献じたり     き。此の津山俟と彼とは特別の関係あり、蓋し、寛政六年五月、津山俟の御抱絵師となりし彼は、苗字     を定むる必要ありて、寛政九年六月新たに鍬形氏(祖母の実家の姓)を名のることゝなり、同年同月、     侯の命に依りて狩野養川院惟信の門人となれり。こゝに於て首肯さるゝは、彼が黄表紙の挿画を寛政八     年正月限りにて廃めしことなり、それのみならず、爾後全く浮世風俗の錦絵を画かず、専ら肉筆に主力     を注ぎしなり。彼が肉筆には傑作尠からず、筆力一種の氣品を帯びて、浮世絵出身者としては、頗る異     彩を放てるものと謂ふべし。其が多くの肉筆中に於て、東京帝室博物館所藏の『近世職人尽絵詞』三巻     (文化二年作)は、最傑作として世に定評あり。彼は曾て狂歌を森羅亭万象に學び、狂名を麦野大蛇麿     (ムギノオロチマロ)といひしが、あまり巧みならざりしものか作詠尠し。彼は又、気象天業(キシヤウテンゴウ)     といふ戯号を用ゐて、寛政四年正月『神伝路考由』といへる黄表紙を自画自作せり。文化九年正月、名     を羽赤と改めしは、本姓赤羽に因みしものならむ。居所初めは杉森新道、次に新桧物町、最後に神田弁     慶橋に移れり。法名は彩決瞰蕙居士といひ、墓は浅草永住町に真言宗密蔵院にありしが、明治四十三年     に府下豊多摩郡野方村(町)大字下沼袋に移転せり。尚ほ、彼が男赤子(名は紹意)及び其の養子蕙林     (名は勝永)の両人も亦、津山俟に仕へき。(本稿は文学土星野日子四郎氏の研究に俟つ所多し)〟    ☆ まさずみ 正澄    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正澄    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】嘉永    龍斎と号す、嘉永頃の錦絵「日光名所十景」に此の落款あり〟    ☆ まさたか 正高(杉村治兵衛参照)    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正高    【生】           【歿】    【画系】師宣門人      【作画期】元禄    杉村氏、俗称治兵衛、通油町に住す〟    ☆ まさとし 正歳    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正歳    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明暦頃    浮世正歳画と落款したる肉筆人物画あり〟    ☆ まさのじょう 正之丞    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正之丞    【生】           【歿】    【画系】菱川師宣弟     【作画期】元禄〟    ☆ まさのぶ 正信    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】文政~弘化    大阪の人、一楊斎と号す〟    ☆ まさのぶ 正信    ◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正信    【生】           【歿】    【画系】二代国貞門人    【作画期】明治    梅童と号す〟    ☆ まさひさ 正久    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正久    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】明治    葛飾を称す、錦絵、新聞挿画等あり、自ら北斎の孫なりといへり〟    ☆ まさゆき 正幸    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝正幸    【生】           【歿】    【画系】宮川長春門人    【作画期】享保    日本絵師を称す、肉筆美人画あり〟    ☆ まさつぐ 昌次    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌次 寺沢氏。(シの部に入る)〟    ☆ まさのぶ 昌宣    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌宣    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄    吉川氏、菱川風の肉筆美人画ありといふ〟    ☆ まさのぶ 昌信(月岡雪鼎参照)    ◯『浮世絵師伝』p(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌信 月岡雪鼎の名〟    ☆ まさのり 昌則(古山師政参照)    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌則 師政の初名。(師政の項にあり)〟    ☆ まさふさ 昌房    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝昌房    【生】           【歿】    【画系】辰宣門人      【作画期】宝暦末~安永    大阪の人、岡本氏、雪圭斎と号す、彼者絵、美人画等あり、安永六年版の『難波丸綱目』に、北尾雪坑斎    門人とし、居所を松江町と記せり〟    ☆ ますのぶ 益信    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝益信    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛保~延享    田中氏、三晴堂と号す、筆彩浮絵あり、画風奥村派に近し〟    ☆ ますのぶ 益信    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝益信    【生】        【歿】    【画系】       【作画期】明和    春信風の錦絵美人画あり、或は田中益信と同一人ならむといふ説あれど如何〟    ☆ ますのぶ 升信    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝升信    【生】           【歿】    【画系】国升門人      【作画期】嘉永    大阪の人、一刀斎と号す、役者絵あり〟    ☆ ますはる 升春    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝升春    【生】           【歿】    【画系】国升門人      【作画期】嘉永    大阪の人、役者絵あり〟    ☆ またべい 又平    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝又平    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】元禄~享保    名は久吉、大津追分に住し、肉筆の戯画に古朴なる彩色を施して之れを鬻ぐ、所謂、大津絵なり。山東京    伝の『浮世絵類考追考』に「余大津の古画奴の鎗を抱たる図を蔵す八十八歳又平久吉とかきて花押あり古    雅なるもの他」と云へるもの即ち此れなり。一説に享保年間八十九歳にして歿すと伝へたり〟    ☆ またべえ 又兵衛    ◯『浮世絵師伝』p191(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝又兵衛 岩佐勝以の俗称〟    ☆ またべえ 又兵衛    ◯『浮世絵師伝』p192(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝又兵衛    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】    当世又兵衛と称す、元禄五年版『買物詞方三合集覧』に「当世絵かき丸太町西洞院古又兵衛」とあり〟    ☆ まとら 真虎    ◯『浮世絵師伝』p192(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝真虎    【生】寛政四年(1792)   【歿】天保四年(1833)四月十四日-四十二    【画系】月樵及び周渓門人   【作画期】文政~天保   名古屋本町通り門前町の医師小泉隆助の二男にして、幼名を門吉といひしが、後ち門太、衛門七・寿太郎な   どゝ屡々改称し最後に順平と改む、彼は初め小泉を氏とせしが、其の先大石良雄より出でしとて自から大石   氏に変へしなり、又彼が月樵の門下にありし頃は樵谷と号し、其の後、渡辺清に就て有職故実を学ぶに及ん   で、画名を真虎と改めしとぞ。描く所の絵本及び挿画本は、文政十二年版の『神事行燈』初編、天保四年版   の『百人一首一夕話』、其他若干種あり。墓所、名古屋大須の真福寺〟    ☆ まんげつどう 万月堂    ◯『浮世絵師伝』p192(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝万月堂    【生】           【歿】    【画系】          【作画期】寛延    画風政信に似たり、紅摺絵美人画あり。(林カタログ二二五図)〟