Top 『浮世絵師伝』 浮世絵文献資料館
く 浮世絵師伝
☆ くうめいどう 空明堂
◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝空明堂
【生】 【歿】
【画系】懐月堂派 【作画期】正徳~享保
名は信之、肉筆美人画あり〟
☆ くにあき 国明
◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国明
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】弘化~慶応
歌川を称す、十四番組御徒士平沢辰之助の長男にして、二代国明の兄なり〟
☆ くにあき 国明 二代
◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国明 二代
【生】天保六年十月(1835) 【歿】明治廿一年(1888)七月廿九日-五十四
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、平沢氏、出でて蜂須賀氏を嗣ぐ、初代国明の弟、俗称斧二郎、一鳳斎また鳳斎と号す、弘
化四年より豊国の門人となれり、初め本所千歳町に住し、後ち横網町二丁目に移る、性来角力を好みし
かば、角力絵を多く国きたり〟
☆ くにうめ 国梅
◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国梅 二代年信の前号〟
☆ くにお 国雄
◯『浮世絵師伝』p4(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国雄
【生】 【歿】
【画系】橘守国門人 【作画期】宝暦~天明
橘姓、俗称酢屋平十郎、皎天斎・挹芳斎と号す、描く所『毛詩品物図攷』・『挹芳斎画譜』・『女筆芦
間鶴』(宝暦三年版)・『絵本様殿罵』(天明五年版)等あり。〟
☆ くにおき 国興
◯『浮世絵師伝』p48(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国興
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにかく 国魁
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国魁(カク?)
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永
歌川を称し、茜斎と号す〟
☆ くにかげ 国景
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国景
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称し、一英斎また一桜斎と号す、戯作者晋米斎玉粒(藍庭氏)の男なり、美人画あり〟
☆ くにかげ 国景
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国景
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】天保
大阪の人、錦葩楼と号す〟
☆ くにかず 国一
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国一(カヅ)
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにかず 国員
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国員
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人? 【作画期】嘉永~万延
歌川を称す、号一珠斎、風景画及び役者絵あり〟
☆ くにかつ 国勝
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国勝
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにかね 国兼
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国兼
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称し、一豊斎と号す、錦絵及び草双紙あり〟
☆ くにかめ 国花女
◯『浮世絵師伝』p4(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国花女(カメ)
【生】文化七年(1810) 【歿】明治四年(1871)二月十八日-六十二
【画系】初代豊国の女 【作画期】
名はきん(後に小金)年甫めて十歳(文政二年)の頃より、父豊国に就て正式に習画す、十一歳にして其
の処女作たる役者絵を上梓せり、此頃まで落款には「きん女画」としたりしが、幾ばくもなくして父より
一鳥斎国花女の号を与へられたり。後ち十七歳の時(文政九年)即ち父の歿せし翌年に、市ヶ谷田町なる
英子商渡辺伊兵衛方へ嫁ぎたれば、作画も自づから廃止したりしならむが、文政十一年の瘞筆之碑には依
然として「国花女」の号を列ねたり。(文学博士坪内雄藏氏の研究に拠る) 墓所青山南町二丁目龍泉寺〟
☆ くにきよ 国清
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国清
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化
歌川を称す、江守氏、俗称安藏、一楽斎と号す、『青本年表』文化八年の條に「幕府小吏、茶番狂言を
よくす、芸名を松魚といふ」とあり。然るに、某年罪を得て伊豆八丈島に流謫の身となり、彼地にて
『八丈島画記』を自録(写本)せり、巻末に「八丈左遷、国清画」と著名す。(雑誌『此花』第十五枝
参照)〟
☆ くにきよ 国清 二代
◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国清 二代
【生】 【歿】明治二十年(1887)頃
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、一楽斎・松魚楼と号す、本所石原町に住めり〟
☆ くにくめ 国久女
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国久女(クメ)
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにさだ 国貞(歌川豊国三代参照)
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国貞 三代豊国の前名〟
☆ くにさだ 国貞 二代(歌川豊国四代参照)
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国貞 二代 四代豊国の前名〟
☆ くにさだ 国貞 三代
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国貞 三代
【生】嘉永元年(1848) 【歿】大正九年(1920)十月廿六日-七十三
【画系】三代豊国及四代豊国門人【作画期】慶応~明治
歌川を称す、竹内氏、名は栄久、幼名朝太郎、同胞四人のうち彼は長男なり、其が生地は日本橋なるが、
生後間もなく一家は深川富川町に移れり、彼十一歳即ち安政五年に三代豊国の門に入り、豊国歿後は二
代国貞(後ちに四代豊国)に学ぶ所あり(大正十五年三月号『新小説』所載、樋口二葉氏の文に拠る)、
初め四代国政を名乘り梅堂と号せしが、明治廿二年三代国貞を襲名し、香朝楼と号す、又別号を梅堂豊
斎(芳斎とも)と云へり、画く所俳優似顏絵最も多く。就中、市川左団次(先代)を写すに得意なりし
が如し。居所蠣殻町二丁目後ち淺草田町に移る〟
☆ くにさと 国郷
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国郷(サト)
【生】 【歿】安政五年(1858)
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称し、一曜斎また立川斎と号す、俗称政次郎、本所立川の菓子屋に生る、後ち尾張町に住せり〟
☆ くにしげ 歌川 国重
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国重
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~文政
歌川を称す〟
☆ くにしげ 国重 二代
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国重 二代
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにしげ 国重 三代
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国重 三代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政
歌川を称す〟
☆ くにしげ 国重(柳斎重春参照)
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国重
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】
柳斎重春の前名(重春の項参照)〟
☆ くにしげ 国茂
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国茂
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにしげ 国繁
◯『浮世絵師伝』p50(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国繁
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称す、初め五常亭国道(又は国路)といへり、浅草馬道田町に任し、提燈屋を営む〟
☆ くにたか 国孝
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国孝
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政~慶応
歌川を称し、一柳斎と号す、俗称喜之助、柳島に住む〟
☆ くにたき 国瀧
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国瀧
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化
歌川を称す〟
☆ くにたく 国宅
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国宅
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す。(宅字の訓み方不明なるが故に、音読タクとして此処に編入す)〟
☆ くにたけ 国武
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国武
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにただ 国忠
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国忠
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化
歌川称す〟
☆ くにたね 国種
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国種
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにたま 国玉
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国玉
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】文久~明治
歌川を称す、枝(或は江田)氏、俗称岩次郎、一宝斎また宝斎と号す、柳島に住し後ち浅草諏訪町に移
る〟
☆ くにため 国為
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国爲
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称し、一年斎と号す、千駄ヶ谷に住す〟
☆ くにちか 国周
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国周
【生】天保六年(1835)六月五日 【歿】明治卅三年(1900)七月一日-六十六
【画系】豊原周信(長谷川派)及び三代豊国門人 【作画期】安政~明治
豊原を称す、荒川氏、江戸京橋五郎兵衛町の湯屋大島屋九十の子、俗称八十八、幼より画を好み、初めは
四日市の隣春(チカハル)と云へる羽子板師の弟子となりて面相を描きし由、されど「国周」の二字は、師豊
国(三代)及び周信の画名に因みしものと思はる、嘉永五年師豊国の画きし役者絵の一部に彼の人物画あ
り、落款に門人八十八画とす、当時は末だ国周の画名を用ゐざりしものと見ゆ、然るに安政二年即ち彼が
二十一歳の作たる「隅田川夜渉し之固」(大錦三枚続)には、「豊国門人国周画」と落款せり、これ恐ら
くは国周落款の処女作に近きものなるべし、しかも其が図中の美人及背景の描写など、頗る優秀の技倆を
示したり。別に花(又は華)蝶楼・一鴬斎・豊春(ホウシユン)楼の号あり、専ら俳優の似顔絵を描き、面貌
の描寫に所謂羽子板絵式の特徴を有したり、其が役者絵の作夥しきが中に、明治初年に画きし大首の数図
最も優れたり(口絵第六十八図参照)彼は性来任侠にして奇行に富む、たゞ如何なる故にか、妻を離別す
ること四十人以上、転居実に八十三度に及びしとぞ、最後の住所は吉原土手下にして、歿後浅草今戸の本
龍寺(真宗大谷派)に葬れり、法名を鴬雲院釈国周といふ。一男二女ありしも画系を継がず、門人数名あ
り、就中、周延を代表者とすべし〟
☆ くにちか 国近
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国近
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す、俗称藤次郎、一英斎と号す。早世〟
☆ くにつぐ 国次
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国次
【生】寛政十二年(1800) 【歿】文久元年(1861)-六十二
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化八~嘉永
歌川を称す、中川氏、俗称幸藏、一応斎と号す、銀座四丁目に住む、凧絵をよくせり〟
☆ くにつな 国綱
◯『浮世絵師伝』p51(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国綱
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにつな 国綱 二代(歌川国輝二代参照)
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国綱 二代 国輝の前名〟
☆ くにつる 国鶴
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国鶴
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称し、一寿斎と号す。天保年間の大阪版役者絵に「歌川国鶴画」とせるものあり、同一人か〟
☆ くにてつ 国鐵
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国鐡
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにてる 国照
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国照
【生】文化五年(1808) 【歿】明治九年(1876)-六十九
【画系】初代豊国門人(初め国直に学ぶ)【作画期】文政~慶応
歌川を称す、山下氏、俗称彦三郎(一に惣右衛門)、下総古河藩士、浮世絵の傍ら文晁の風を学び、晩
庵・琴松と号せり〟
☆ くにてる 国輝(歌川貞重参照)
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国輝
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】弘化~安政
歌川を称す、太田氏、俗称金次郎、一雄斎・雄斎と号す、初名を貞重と云ひしが、師の国貞(初代)が
豊国を襲名するに及んで、彼は国輝と改む、同門中此の類甚だ多し、亀井戸に住す。(貞重の項参照)〟
☆ くにてる 国輝 二代(歌川国綱二代参照)
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国輝 二代
【生】天保元年(1830) 【歿】明治七年(1874)十二月十五日-四十五
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、山田氏、俗称国次郎、一雄斎・一曜斎と号す、初め二代国綱を名乘りしが、後ち師豊国の
推薦によりて二代国輝となる、東京名所を題材とせる錦絵數多あり、また彼が慶応三年一月、陣幕久五
郎の土俵入を画きし絵馬浅草寺に現存せり。墓所、亀井戸法蓮寺。(二代国綱の項参照)〟
☆ くにてる 国輝 三代
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国輝 三代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人(後ち国周に学ぶ)【作画期】文久~明治
歌川、後ち豊原を称す、岡田氏、俗称藤四郎、一雄斎と号す。霊岸島に住せり〟
☆ くにとき 国時
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国時
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称し、一鐘(鏡とするは誤)斎と号す〟
☆ くにとき 国時 二代
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国時 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政
歌川を称す、俗称久喜万字家の楯吉〟
☆ くにとく 国登久
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国登久
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにとめ 国登女
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国登女
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
幕府旗下の士某の妻なり〟
☆ くにとく 国得
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国得
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、大屋氏、俗称幸五郎、本所松倉町に住せり、役者絵あり〟
☆ くにとし 国利
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国利
【生】弘化四年 【歿】明治卅年九月七日-五十三
【画系】三代豊国門人 【作画期】明治
歌川を称す、山村氏、俗称清助、梅寿また梅翁と号す、別に楳樹邦年とも云へり。名所絵、風俗絵、切
組絵を多く描けり神田小川町三十五番地に住す、墓所浅草永住町観蔵院、法名秋風国利信士〟
☆ くにとし 国歳
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国歳
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】明治
歌川を称す、曾て国次の門人となりしことあり〟
☆ くにとし 国年
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国年
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】明治
歌川を称す、小笠原氏、名は玉記、一笠斎・笠斎等の号あり、横浜に住居す〟
☆ くいとみ 国富
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国富
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称し、花川亭と号す、後富信と改めたり〟
☆ くにとみ 国富 二代
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国富 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称す、俗称磯吉、京橋に住して煙草商を業とせり〟
☆ くにとも 国朝
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国朝(トモ)
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにとも 国朝 二代
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国朝 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、俗称友次郎、四谷新宿に住し酒屋を業とせり〟
☆ くにとら 国虎
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国虎
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~天保
歌川を称す、前田氏、俗称久米藏、一に繁藏、一龍斎と号す、洋画の遠近法を応用したる風景画あり、
就中「近江八景」最も顕はる。初代豊国の外孫伊川梅子刀自の直話によれば、国虎は画を描く事をあま
り好まざりしが、偶ま筆を執れば必ず相當出来栄えするものを作りき、師の豊国は常に彼が技倆を賞讃
し、時には彼に代作せしめしこともありと、又彼は書を巧みにせり、特に碁と釣とを好み、服装などは
極めて無雑作にしたりき、生涯独身にして家を成さず、安政の頃六十余歳を以て其が甥の家に歿しきと
云ふ〟
☆ くにとら 国虎 二代
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国虎 二代
【生】 【歿】
【画系】四代国政門人 【作画期】明治
歌川を称す、渡辺氏、俗称丑太郎、初め政員と号し、後ち梅莚と改む、また「歌虎」と落款せるは此の
国虎の略名なるべし〟
☆ くになが 国長
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国長
【生】 【歿】文政十二年(1829)-四十余
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化三~文政
歌川を称す、俗称梅干(ホヤ)之助、一雲斎と号す、切組絵に長じたりといふ、新橋金六町に住す〟
☆ くになお 国直
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国直
【生】寛政五年(1793) 【歿】安政元年(1854)六月廿八日-六十二
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化六~天保
信州の人、歌川を称す、吉川氏、俗称鯛藏後ち四郎兵衛と改む、一烟斎・一楊斎・浮世庵・独酔舎・柳
烟楼・柳烟堂・後素園・写楽翁・写楽斎・東雲亭等の数号あり、夙に元明の古格を修し、又北斎の画風
を慕へり、風景及美人などを描きたる錦絵の外に草双紙の挿絵もまた肉筆美人画をも描きしが、晩年廃
業して筆を執らず、居所初め麹町、後ち両国米沢町其他諸所を転居し、遂に八王子に移る。墓所、八王
子横山、極楽寺(浄土宗)、法名高(手偏+禿)琮運居士。因みに、彼が姓吉川は「ヨシカハ」に非ず
して「キッカハ」なり、そは天保十三年版『広益諸家人名録』二編の「キ」の部に入れたるを以て証と
すべし〟
☆ くになお 国直
◯『浮世絵師伝』p54(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国直
【生】 【歿】
【画系】柳川重信門人 【作画期】文政
大阪の人、英泉斎と号す、文政五年重信下阪の当時入門して教へを受く、役者絵あり〟
☆ くになお 国直 二代
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国直 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】明治
芦原氏〟
☆ くにのぶ 国信
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国信
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明和~天明
春信風の美人画錦絵あり、天明二年版の黄表紙『擲討鼻上野』に挿画す〟
☆ くにのぶ 国信 初代
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国信 初代
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化十一~天保
歌川を称す、金子氏、俗称弥四郎(或は惣次郎)、一礼斎・陽岳舎・堰埭楼等の号あり、又、師豊国よ
り一陽斎の号を譲られたりと云ふ、湯島三組町に住し、幕府の御小人目付を勤む、戯作名を志満山人と
いひ自画作の草双紙あり〟
☆ くにのぶ 国信 二代
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国信 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】慶応
歌川を称す、田中氏、名は忠順〟
☆ くにはる 国春
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国春
【生】享和三年(1803) 【歿】天保十年(1839)一月廿六日-卅七
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
俳優嵐冠十郎の長子にして、俗称具足屋佐兵衛、初名冠之助、文政七年十一月二代目嵐徳三郎を襲名せ
り。幼より画を好みて演技の余暇自ら彩管を揮ひたりしが、文政八年二代豊国の門人となるに及びて、
いよいよ其の道に熱中し、且つ生来多病の爲め、永く舞台に立つ能はざるを以て、遂に文政十一年の春、
俳優を廃めて浮世絵師となれり。別号を玉陽斎・山風亭といふ、役者似顔絵を得意とす。墓所は芝三田
三丁目聖坂下、蓮乗寺、法名は聞妙院歌聲日慶信士〟
☆ くにはる 国晴
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国晴
【生】 【歿】
【画系】瀧川国広門人か 【作画期】天保
大阪の人、役者絵あり〟
☆ くにはる 国晴(歌川芳盛二代参照)
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国晴
【生】 【歿】
【画系】芳盛門人 【作画期】明治
歌川を称し、芳盛斎と号す、後に師名を襲いで二代芳盛と改む。(其の項参照)〟
☆ くにひこ 国彦
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国彦
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにひさ 国久
◯『浮世絵師伝』p55(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国久
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】享和~文化
歌川を称す、豊国門人中の先輩にて、肉筆美人画に優秀のものあり〟
☆ くにひさ 国久 二代
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国久 二代
【生】天保三年(1832) 【歿】明治廿四年(1891)二月五日-六十
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、勝田氏、俗称久太郎、陽斎・一雪斎・立蝶楼等の号あり、師の養子となりて其の三女(名
は栄)と結婚し、後を継ぎて柳島に居住せり。墓所、亀戸光明寺。豊宣・国峰は共に彼が子なり〟
☆ くにひさ 国寿
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国寿(ヒサ)
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政
歌川を称す、俗称弥五郎〟
☆ くにひで 国英
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国英(ヒデ)
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称し、一峰斎と号す〟
☆ くにひら 国平
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国平
【生】 【歿】
【画系】瀧川国広門人 【作画期】文化末
大阪の人、役者絵あり〟
☆ くにひろ 国広
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国広
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~文政
伊勢亀山の城主石川日向守、下谷御成街道の邸に住み、浮世絵を初代豊国に学ぶ、其の關係によりて豊
国の一女きん(国花女)を、七歳の時「お絵具とき」といふ名目にて召抱へしと云ふ。豊国の画印とし
て用ゐし年丸の紋は、此の亀山俟より与へしものなりとぞ。(初代豊国の外孫伊川家の伝へに拠る)〟
☆ くにひろ 国広
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国広
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】文化~天保
大阪の人、瀧川氏、江南亭・丸丈斎と号す、役者絵多し、作画期は文化末より天保末に及べり、居所戎
橋一丁北〟
☆ くにひろ 国弘
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国弘
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにふさ 国房
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国房
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~文政
歌川を称す、俗称鶴吉、一に多三郎〟
☆ くにふさ 国房 二代
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国房 二代
【生】天保五年(1834) 【歿】明治十六年(1883)なほ存命
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政~明治
歌川を称す、大竹氏、名は政直、俗称勝五郎、一柳斎(或は一梅斎)と号す、初め浅草馬道に任し、後
ち四谷に移る〟
☆ くにふさ 国総
◯『浮世絵師伝』p56(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国総
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】天保
歌川を称し、富士亭と号す〟
☆ くにまさ 国政
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国政
【生]安永二年(1773) 【歿】文化七年(1810)十一月卅日-卅八
【画系】初代豊国門人 【作画期】寛政~文化
歌川を称す、俗称甚助、一寿斎と号す、会津の産、早く江戸に出でて紺屋の職人となりしが、天性芝居
を好み且つ俳優の似顏を写すに巧みなりしかば、豊国に認められて遂に其が門人となれり、蓋し彼は豊
国門下中、最初の入門者にして、其の作品は既に寛政七年の冬頃より行はれ、俳優似顔の大首絵に優秀
の技倆を示したり(口絵第四十六図参照)、単に錦絵のみに止まらず、肉筆美人画にも亦相当の佳作あ
り。また寛政十一年版の『俳優楽屋通』は、師豊国との合筆にして、彼が師に愛せられし一証とも見る
を得べし、其の後文化二三年頃まで、錦絵及び団扇絵などを画きしが、それより業を更め、専ら俳優似
顏の仮面を作りて自から鬻ぎしと云ふ。居所初め芳町、後ち堀江町、市ヶ谷左内坂上などに移転す〟
☆ くにまさ 国政 二代(歌川国宗二代参照)
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国政 二代 二代国宗の前名。(二代国宗の項参照)〟
☆ くにまさ 国政 三代(歌川豊国四代参照)
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国政 三代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】
後ち国貞(二代)と改め、更に四代豊国を襲名す。(四代豊国の項参照)〟
☆ くにまさ 国政 四代(歌川国貞三代参照)
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国政 四代
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】
三代国貞(梅堂豊斎)の前名。(三代国貞の項参照)〟
☆ くにまさ 国政 五代
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国政 五代
【生】 【歿】
【画系】四代国政門人か 【作画期】
梅堂と号す、姓氏其他詳ならず、明治廿六年及び廿七年版の錦絵に「五代目国政筆」と落款せるものあ
り〟
☆ くにます 国升
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国升
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】天保~嘉永
歌川を称す、初め一樹園貞升と号し、後ち国升と改む、別に五蝶斎・五蝶亭・一樹園の号あり、大阪船
場の素封家にして、常に画料を受けず、私財を抛ちて其流派を弘むることに努め、最も役者絵をよくせ
しが、晩年浮世絵を廃し専ら四條風を画きたり〟
☆ くにます 国益
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国益
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~文久
歌川を称す、役者絵あり、探し絵といふものを創案せし由〟
☆ くにまつ 国松
◯『浮世絵師伝』p57(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国松
【生】現存
【画系】国鶴(二代豊国門人)の子 【作畫期】明治
歌川を称す、画を父に学び、初め一龍斎豊重(二代)と号し、後ち福堂国松と改む、錦絵及び新聞挿画
あり〟
☆ くにまる 国丸
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国丸
【生】 【歿】文政末頃-三十余
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化六~文政
歌川を称す、前田氏、俗称文治、一円斎・五彩楼・軽雲亭・彩霞楼・飜蝶庵等の号あり、美人画をよく
し、錦絵、草双紙等数多あり、文化六年発行の合巻本『花鳥風月仇討話』(益亭三友作)の挿画は彼が
初筆にして、式亭三馬の口上に「次に歌川豊国門人當年十五歳にて文治と申す画工是又末々は大立者と
なりますやう御贔屓御取立の程を奉希ます」と記せり〟
☆ くにまろ 国麿
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国麿
【生】 【歿】
【画系】豊丸門人か 【作画期】
叢を称す、美人画あり〟
☆ くにまろ 国麿
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国麿
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~明治
歌川を称す、菊越氏、俗称菊太郎、一円斎と号し、俳号を菊翁といふ、後ち四代豊国の門人となりしも
のゝ如し〟
☆ くにまろ 国麿 二代
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国麿 二代
【生】 【歿】
【画系】初代国麿門人か 【作画期】明治
歌川を称す、横山氏、俗称近二、一円斎・菊哉等の号あり〟
☆ くにみち 国道
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国道
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】嘉永
国貞風、錦絵摺団扇絵に美人と子供の図あり〟
☆ くにみち 国道
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国道
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す〟
☆ くにみち 国道(路)二代(歌川国繁参照)
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国道(又は国路) 二代 国繁の前名〟
☆ くにみつ 国光
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国光
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】安政~明治
歌川を称し、一雄斎と号す〟
☆ くにみつ 国満
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国満
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】享和~文政
歌川を称し、一翁斎と号す、俗称熊藏、飯倉土器町、桧物町、芝口二丁目、田所町等に転住せり〟
☆ くにみね 国峰
◯『浮世絵師伝』p58(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国峰
【生】現存
【画系】国久の次男 【作画期】明治
歌川を称す、勝田氏、俗称銀之助、梅蝶楼と号す、新聞の挿画あり〟
☆ くにむね 国宗
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国宗
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す、山下氏、俗称松五郎、長文斎・杉嶺等の号あり〟
☆ くにむね 国宗 二代
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国宗 二代
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す、山下氏、俗称勇蔵、文政中二代国政を名乗りしが、天保に入りて二代国宗を襲名し、長文
斎と号す、居所芝柴井町、天保十三年版『広益諸家人名録』二編には、国宗として出でたり〟
☆ くにむら 国邑
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国邑
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称す、石沢氏、俗称清次郎〟
☆ くにもり 国盛
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国盛
【生】 【歿】
【画系】二代豊国門人 【作画期】文政~天保
歌川を称し、胡蝶庵と号す〟
☆ くにもり 国盛 二代
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国盛 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称し、一宝斎・一龍斎・一麗斎・春暁斎等の号あり、居所本郷四丁目〟
☆ くにやす 国安
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国安
【生】寛政六年 【歿】天保三年七月六日-卅九
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~天保
歌川を称し、一鳳斎と号す、俗称安治郎、一時画名を西川安信と改めしが、再び旧名に復して国安とい
へり、文化半ば頃には既に役者絵の作あり、はじめ落款には「豊国門人安画」とせり、美人画にも巧み
なりき、居所、本所相生町、また深川扇橋〟
☆ くにやす 国安 二代
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国安 二代
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】天保
歌川を称し、一鳳斎と号す、前名詳かならず〟
☆ くにやす 国保
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国保
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明治
瀬尾氏、俗称文五郎、石斎と号す、初名治明、深川西森下町に住す、俳優似顔絵あり〟
☆ くにゆき 国幸
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国幸(ユキ)
【生】 【歿】
【画系】初代豊国門人 【作画期】文政
歌川を称す〟
☆ くにゆき 国幸 二代
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国幸 二代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称す〟
☆ くにゆき 国雪
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国雪
【生】 【歿】
【画系】四代豊国門人 【作画期】明治
歌川を称し、梅章と号す〟
☆ くによし 国芳
◯『浮世絵師伝』p60(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国芳
【生】寛政九年(1797)十一月十五日 【歿】文久元年(1861)三月五日-六十五
【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~万延
歌川を称す、井草氏、俗称孫三郎、一勇斎・朝桜楼と号す、神田本銀町一丁目染物業柳屋吉右衛門の子
にして、幼名を芳三郎といへり。幼時より深く絵本類を愛玩し、七八歳の頃重政の『絵本武者鞋』と政
美の『諸職画鑑』とを見て初めて人物画を描く、其後十二歳の時「鍾馗の図」を描きしに、筆力秀勁に
して恰も老成者の如き観ありしと云ふ。初代豊国曾て其の図を一見して彼の非凡なる画才を称揚し、遂
に彼を門生の一人として薫陶することゝなれり、これ実に文化八年彼が十五歳の時の事なり。
彼の作品は、凡そ文化十一年(十八歳)に発表せしものを以て最初と見るべく、それより年々錦絵及び
草双紙類を画き、歿年当時に至るまで連続して夥しき数に上れり。彼れ素より凡匠には非ざれども、師
豊国の存世中は師の盛名に圧倒せられ、且つ同派諸先輩の爲めに多少進路を妨げらるゝ所ありて、文化
以後文政七八年頃までの彼は、未だ社會的に名声を贏ち得るには至らざりしが、文政十年の頃「【通俗】
水滸伝豪傑百八人」(面貌の変化は本所五ツ目の五百羅漢の木像を写して応用せしものなりとぞ)を出
すに及んで、所期以上の好評を博し、それよりして世に「武者絵の国芳」と謳はれたり。爾後更に研鑽
を重ねて、新たに風景画の方面に擡頭し、当時其の方面に名を得たる北斎・広重等と相並んで、各技倆
を競ひし中に、彼の用ゐたる洋画風の手法は、在來の型と異りて、著しく清新の気に充ちたるものなり
き、かの天保二年頃の作と思はるる「東都名所」(十図)及び同型の風景画(五図)は、即ち其の点に
於ける代表的傑作なり。彼は其後洋画の手法を人物画にも応用し、嘉永年間には「唐土二十四孝」其他
数図を作画せり。いま彼が風景画の重なる画題を挙ぐれば左の如し。
◯東都名所霞ケ関 ◯同 駿河台 ◯同 鉄砲洲 ◯同 大森 ◯同 両国の涼
◯同 新吉原 ◯同 洲崎初日の出 ◯同 両国柳橋 ◯同 浅草今戸 ◯同 佃島
(以上十図、版元加賀屋吉兵衛)
◯東都橋場之図 ◯同 御厩川岸之図 ◯同 宮戸川之図 ◯同 首尾の松之図
◯同 三ツ股之図
(以上五図、版元山口屋藤兵衛)
◯忠臣蔵十一段目夜討之図 ◯近江の国の勇婦於兼
◯東都富士見三十六景 昌平坂の遠景・山王神事雪解の富士・新大はし橋下の眺望・隅田堤の夕富士・
佃沖晴天の不二
◯相州大山道田村渡の景(口絵第六十一図参照) ◯大山石尊大瀧之図
◯東海道五十三駅四宿五宿名所 ◯高祖御一代略図(十枚の内)塚原雪中・角田波題目
尚ほ彼の美人画、役者絵も亦優に一家を成すに足るものなりし事は、其の作品に照らして明かなるが、
其他禽獣・魚蟲及び種々の戯画・手遊絵等に至るまで、取材頗る広汎にして、修技上に就ては、師豊国
の外、先輩北斎に私淑し、一時は同門の国直が家に塾生の如く寄寓し、或は勝川春亭にも学ぶ所ありし
ものゝ如く、後に三代堤等琳(雪山)の門に入つて雪谷と号し、また柴田是真に教へを受けて仙真と号
するなど、諸家の長所を巧みに取入れし外、当時の舶来に暗示を得て、所謂洋画風の特色ある作を試み
るに至りしなり。彼が技法の上に今一つ特筆すべきは、其が画中の人物に於ける衣裳模樣の変化と、色
彩の配合に巧みなる事にして、流石に染物業の家に成長せし彼の面目を窺ふに足れり。
嘉永六年六月二十四日、兩国柳橋南河内屋の楼上に於て、梅屋鶴寿の書画會を催せし時、彼は己が着衣
を脱ぎて墨に浸し、それを筆に代へて三十畳の渋紙に九紋龍史進の図を描きし由、其の後安政二年二月
吉原岡本楼の主人より浅草観音に寄進せむが爲め、「一つ家の悪婆の図」の大絵馬を彼に揮毫せしめし
事あり、今尚ほ該寺に保存さるゝ所にして、彼が筆力の非凡を知るに足るものなり。斯かる大作にも馴
れし彼なりしが、年来の嗜好たる酒に厄されて、安政五年頃より中風症に悩み、揮毫意の如くならざり
し爲め、或は門人等に代筆せしめし場合もありしが如し。それまでに新和泉町(俗称玄冶店(ゲンヤダナ))
に居を定め、其処を最後として病歿せり。
法名は深修院法山国芳信士といひ、浅草八軒寺町(現今高原町)日蓮宗大仙寺に葬りしが、墓石は往年
墓地整理の爲め、府下千住飛地へ移されたり。また彼が歿後十三回忌辰にあたり、遺族及門下の人々等
相謀つて、向島三囲稲荷の境内に一基の記念碑を建てたり、碑文は東條琴台の撰に係る。
彼には二女あり、長子名は鳥といひ早世し、次子名は芳といひ田口其英を迎へて家を嗣ぐ、但し画系は
伝へず。然れども門人芳虎・芳宗・芳幾・芳年等、よく師風を伝へ、且つ各々門下を養成せし中に、芳
年の如きは殊に英才を出だして、明治、大正及び現代に至るまで、次々に画壇の一勢力たらしめし事は、
国芳が指導方針の自由主義に胚胎するものと謂ふを得べし。
因みに、国芳は安政元年及二年版の団扇絵に「柳燕」といへる別号並びに「ゆたか」の印章を用ゐたり、
蓋し、柳燕は其が生家の商号を柳屋といへりしに由り、ゆたかはユ田カ即ち一勇台の「勇」を分解して、
更に平仮名読みにしたるものなりと(石井研堂氏の説)。又按ずるに、柳燕は彼が同門の先輩国直が別
号柳烟楼に因みしものか。其他、春画には一妙開程好(ホドヨシ)の戯号を用ゐたりき〟
☆ くにとし 邦年
◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝邦年
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明治
歌川を称し、楳樹と号す、国利と同一人なり。(国利の項参照)〟