Top 『浮世絵師伝』 浮世絵文献資料館
こ 浮世絵師伝
☆ こういつ 光逸
◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝光逸
【生】明治三年(1870)八月 現存
【画系】清親門人 【作画期】明治
遠州浜松在の農家に生る、土屋氏、俗称幸一、明治十七年(十五歳)に上京し、初め木版彫刻師杉崎其
の門弟となりしが、間もなく清親を相識るに至つて其の門に転ず、但し、彼は内弟子として師家に住込
み、家僕同樣の待遇を受け、同家にあること前後十九ケ年、其間日清戦争の錦絵などを画きしが、明治
二十八年版の「請和使談判之図」と題せる三枚続は最も佳作なり、後ち石版業に転ぜしといふ。(『浮
世絵志』第二十七號、大曲駒村氏の記述を参考す)〟
〈『浮世絵師伝』は「歴史的仮名遣い」による表記のため、「光逸」は「こ」ではなく「く」の項目に入っている〉
☆ こうげつどう 光月堂
◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝光月堂
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】延享
海岸の高楼を描きたる浮絵(大判漆絵)あり、画風政信に稍似たり〟
☆ こうぎょ つきおか 月岡 耕魚
◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝耕漁
【生】明治二年(1869) 【歿】昭和二年(1927)-五十九
【画系】月耕門人 【作画期】明治~大正
月岡氏、故ありて坂巻氏を名乗る、前名年久。特に能楽絵(木版)を能くし、能楽図絵・能楽百番・狂
言五十番等の作あり〟
☆ こうか 耕花
◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝耕花
【生】明治十八年(1885) 現存
【画系】尾形月耕 【作画期】明治~昭和
山村氏、本名豊成、東京府品川に生る、初め尾形月耕を師とし、東京美術学校へ入学し、明治四十年卒
業、日本美術院再興当時より展覧会へ出品して、同人と成る、氏の好みは古浮世絵版画及び古陶器の蒐
集と観劇にあり。大正六年頃より役者絵の版画に着手し、九年より十一年迄に現代俳優の内十二図を出
版し、十三年より静物・舞妓・風景等十二図等は氏の余暇に作図せり、木版画には本名の豊成の落款あ
り。現住所東京府北品川本宿十二〟
☆ こうかん 江漢
◯『浮世絵師伝』p67(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝江漢
【生】元文三年 【歿】文政元年十月廿一日-八十一
【画系】鈴木春信門人後ち宋紫石に学ぶ【作画期】明和~文化
江戸本芝に生る(其の先祖は紀州の人)、本姓安藤、司馬氏を称す、名は峻、字は君嶽、俗称勝三郎、
後に孫太夫と改む(藤岡作太郎氏の『近世日本江画史』には「俗称吉次郎、四十余歳の時、土田氏に入
夫す」とあり)、幼より画を好み、初め狩野古信に学び、中頃鈴木春信の門に入りて鈴木春重と称し
(口絵第廿二図参照)、錦絵美人画を作りしが、中には師春信の名を僣用して偽作せし錦絵もありしと
云ふ、後ち宋紫石の門人となりて画風を一変せり、彼が挿画せる安永二年版の『【俗談】口拍子』には
春重画とあり、同四年版の『瓶花百々枝折』には江漢の落款を用ゐたり、而して、安永四五年頃の作と
思はるる彼が肉筆遊女及禿の図に「蕭亭春重図」と落款して、印文には「春信」とあり、されば、当時
は図によりて江漢とし、或は春重として別に蕭亭(一に蘭亭とも)などの号を用ゐしものなるべし。彼
は又詩文を唐橋世済に学び、自作の詩などに必要の爲め、司馬氏(其の居所芝に因みて)云々と支那式
の名字等を附せしものなりと、彼の自著『後悔記』に記せり。彼は其の後、蘭人に就て洋画の法を学び、
又銅版画の製作法を習得して、之れを自作の風景画に応用し、邦人最初の試みを発表せり、蓋し天明乃
至七年の出版に係り、其が画題は、御茶水景・不忍池図・麻布おやぢ茶屋・中洲夕涼・三囲之景(口絵
第三十三図参照)等の如く、江戸名所を画きしものなれど、其他に「紀州和歌浦」及び外国風景などを
写せしものもあり、其等の落款に「日本創製」の肩書を用ゐしは、彼が、本邦最初の銅版画家たる事を
自認せしなり。
如上の外に彼の作品として見るべきものは、寛政年間に出せし天体地球を図せし銅版画、享和〈一字空白〉
年出版の自画自著『画図西遊譚』、寛政八年六月の款識ある肉筆(泥絵)の「相州鎌倉七里ケ浜図」
(もと芝愛宕神社に奉納せしを後ち民間に伝ふ)、其他泥絵風の肉筆画数点あり、最後に文化十一年正
月版『京城画苑』と題する諸家合筆の画帖中、彼の筆に成れる西洋人物図あり、款識に「東都江漢司馬
峻写於皇都客舎」とあるを見れば、当時幾回目かの西遊の途にありしものと想像せらる。『浮世絵師系
伝』(写本)に「江漢将に死なんとするに臨み自像一葉を画き其上に辞世の歌をかき附たり、江漢が年
がよつたで死ぬるなり浮世に残す浮絵一枚、此画像今(明治二十四年頃)は美濃大垣の医師江馬活堂氏
の家に存したりと云ふ」とあり。彼は晩年麻布笄町に住し其処にて歿す、法名は桃言院快栄寿延居士と
いひ、墓所は麻布本村町浄林寺なりとの説ありしが、先年某氏等の実地踏査によりて、其は浄林寺にあ
らず深川猿江の慈眼寺なる事、慈眼寺は大正元年に市外西巣鴨町に移転せし事など確かめられたり。因
みに、彼の享年に就ては八十二歳説と七十二歳説とありて、従来いづれとも決定せざりしが、近年相見
繁一氏の発見されたる肉筆「魚肆店頭の図」には「文化乙亥(十二年)春、七十八翁桃玄司馬峻」と落
款せる由、然らば其が歿時文政元年には八十一歳なりし事を確証するに足るべし〟
☆ こうこう 耕好
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝耕好
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明和
並岡氏、細判紅摺絵、大黒天の図あり〟
☆ こうけい 高渓
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝高渓
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】弘化頃
乙部氏、国芳風の肉筆美人画あり〟
☆ こうげん 幸元(「ゆきもと」参照)
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝幸元 石川氏、(ユキモト)〟
☆ こうすけ 幸助(高木貞武(さだだけ)参照)
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝幸助
【生】 【歿】明和初年頃
【画系】 【作画期】享保~宝暦
大阪の人、高木氏、名は貞武、素点斎と号す。初め狩野派に就て学び、後ち祐信に私淑せしか或は直接
門人となりしかは不明なれど、其の画風祐信流に近し。著はす所の画本『画図拾遺』(享保五年版)・
『絵本和歌の浦』(同十九年版)・『本朝画林』(宝暦二年版)其他両三種あり〟
☆ こうだい 鴻台
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝鴻台
【生】 【歿】
【画系】北斎門人 【作画期】天保~明治
高井氏、俗称三九郎、信州高井郡小布施村に住し、造酒業を営む、初めは佐伯岸駒に学び、後ち北斎の
門人となる。天保三年北斎信州に遊びて、彼が家に寄寓すること一年有余に及びしと云ふ〟
☆ こえん 皷円
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝皷円
【生】 【歿】
【画系】馬円門人 【作画期】文化
大阪の人、一瀧斎と号す〟
☆ こっかどう 国花堂
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国花堂
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】安永
京都の人、合羽摺彩色の浮絵(菊屋安兵衛版)数図あり〟
☆ こくにまさ 小国政
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝小国政
【生】 【歿】
【画系】三代国貞の長男 【作画期】明治
竹内氏、初め父に学びしが、後ち飯島光峨の門に入り、柳蛙と号せり、日清戦争其他の錦絵絵あり〟
☆ こよしもり 小芳盛
◯『浮世絵師伝』p69(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝小芳盛
【生】 【歿】
【画系】歌川芳盛門人 【作画期】明治〟
☆ このぶ 小信(長谷川貞信参照)
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝小信(コノブ)
【生】 【歿】
【画系】初代貞信の長男 【作画期】明治
大阪の人、長谷川氏、父の隠居後、二代貞信の名を襲ふ。(貞信の項参照)〟
☆ こくば 谷馬 〔生没年未詳〕
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝谷馬
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】文化
歌麿晩年風の小判錦絵美人画あり〟
☆ こそん 古邨
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝古邨 祥邨の前名〟
☆ ことう 古洞
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝古洞
【生】明治二年(1869) 現存
【画系】芳年門人 【作画斯】明治~昭和
山中氏、本姓佐藤、名は升、画技は芳年の外、在原古玩・熊谷直彦・石原白道等に就て学ぶ。明治三十
年前後雑誌の口絵、挿絵等を執筆す。目下「辰重」と落款して映画女優の版画を作画中なり。現住所東
京市本郷区駒込東片町六六〟
☆ このまろ 此麿
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝此麿
【生】 【歿】
【画系】歌麿門人 【作画期】享和
喜多川を称し、煙里亭と号す〟
☆ こましん 駒新
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝駒新
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】享和~文化
名古屋の人、俗称駒屋新兵衛、益甫と号す、肉筆美人画及び劇場の看板を画く、門人数多あり〟
☆ こまつけん 小松軒
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝小松軒
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】明和
恐らくは、小松屋百亀と同一人ならむ〟
☆ こりゅうさい 湖龍斎
◯『浮世絵師伝』p70(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝湖龍斎
【生】 【歿】
【画系】重長門人? 【作画期】明和~天明
藤原姓、磯田氏、名は正勝、俗称庄兵衛、江戸小川町土屋家の浪人にして、画技を西村重長に学びしと
の説あれども、未だ明かならず、夙に鈴木春信と親交ありて、作画上春信の感化を受けし所尠からざり
しが如し、彼の明和三四年頃の作品中に「春広画」又は「湖龍斎春広画」と落款せるものあり、春広と
いへるは恐らく春信に因みしものならむ、其後は単に湖龍斎或は湖龍を号として用ゐたり、また両国薬
研堀に居住せしを以て「武江薬研掘隠士」と傍書せる例もあり。画く所の錦絵には美人画最も多く、就
中「雛形若菜の初模樣」と題する遊女絵は、連続出版(版元西村永寿堂)して其の数六十図以上に及べ
り(口絵第二十八図参照)。柱絵(掛物に仕立てたる)に美人画を描きし数は湖龍斎随一なり。版本と
しては『東錦太夫位』(安永六年阪)・『画本役者手鑑』(同八年版)・『画本混雑倭草画』(同十年
版)・『北里歌』(天明四五年頃版)等の外に黄表紙三種あり。彼が錦絵に用ゐし丹彩色は、特に注意
せしにや頗る色の冴えたるものあり、また構図上、背景などには狩野派の特徴を帯びたれば、多少其派
の流れを汲みしものと思はる。彼が作画期は明和二三年頃より天明八年頃に及び由れど、安永末頃法橋
に叙せられし以来、版画(錦絵)の作は殆ど廃止して、専ら肉筆画に力を注ぎ、相当傑作と認むべきも
の世に遺存せり。生歿年共に未詳なるが、恐らくは天明八年以後幾ばくもなくして他界せしものゝ如し〟
☆ ごがく 五岳(八島岳亭参照)
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五岳 八島岳亭の一号。(岳亭の項参照)〟
☆ ごけい 五景
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五景
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】弘化
八島氏〟
☆ ごきょう 五郷
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五郷
【生】 【歿】
【画系】栄之門人 【作画期】寛政
遊女の錦絵あり〟
☆ ごきょう 五橋
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五橋
【生】 【歿】
【画系】歌川風 【作画期】嘉永〟
☆ ごしち 五七
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五七
【生】安永五年(1776) 【歿】天保二年(1831)?-五十六
【画系】春川栄山門人 【作画期】文化~文政
春川を称す、青木氏、俗称亀助、初名を神屋蓬洲といひ、別に蓬莱山人亀遊と号す、戯作をよくし、彫
刻の技をも心得たり、文化四年版の滑稽本『【民間図誌】口八丁』は彼の自画作にして、彫刻も亦自作
せるものなり、其他読み本には、『【敲氷茶話】龍孫戞玉』(文化四年版)・『【観音利生】天縁奇遇』
(同九年版)・『【繍像奇談】双三絃』(同年版)等の自画作あり、文政八年の春、五十の賀を祝して
「松の齢」といふ狂歌の摺物を知友に配る。初め(所謂御家人なりしと)江戸小石川に住したりしが、
文化の末より京都に移り、八坂辺に住めり。彼が門人に六輔といふ者あり、伏見に住せし由〟
☆ ごせい 五清
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五清
【生】 【歿】
【画系】 【作画期】文化~天保
砂山氏、抱亭と号す、狂歌本の挿画多し、また肉筆美人画あり、居所横山町三丁目。一説に、彼を抱亭
北鵞と同一人なりとすれど、落款、画風等に共通の点なく、全く別人なり〟
☆ ごよう 五葉
◯『浮世絵師伝』p71(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝五葉
【生】明治十三年(1880)十二月二日 【歿】大正十年(1921)二月廿四日-四十二
【画系】 【作画期】明治~大正
鹿児島県士族橋口兼満の三男、名は清、五葉の号は其が郷里鹿児島市樋(タヒ)ノ口町の邸に大なる五葉
の松のありしに因みしと云ふ。画歴は、明治三十八年に東京美術学校の洋画科を首席にて卒業し、明治
四十年文部省第一囘美術展覧会に油絵「羽衣」を入選出品せり。同年油絵の大作「孔雀と印度女」を東
京博覧会に出品して最高賞を得たりしが、彼の名が著しく世間的に知られしは、明治四十四年に三越呉
服店が初めて懸賞募集せし美人絵ポスターに、彼の作が一等賞を獲し時に始まれり。又、書籍の装幀図
案にも独特の技倆を有し、夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』其他数種、及び永井荷風・泉鏡花の著作にも
其の例を見る。併し、彼の作品中最も精彩に富むものは、浮世絵風の版画数図にあり、例へば、大正四
年十月初作の「浴後裸体女」(渡辺版)、大正七年の「化粧の女」(自家版、以下同じ)、大正九年三
月の「髪梳ける女」、同年五月の「長襦袢を着たる女」、同年六月の「夏衣の女」、同年七月の「浴後
の女」、同年八月の「鴨」等の如き、正に傑作と称するに足れり。蓋し、彼が学生時代より浮世絵版画
に興味を有し、卒業後益々其が研究と蒐集に没頭して、自己の製作には、其等各版画の長所を巧みに応
用し、加ふるに彫摺に細心の注意を以てせしかば、各図相当の画面効果を収めたりき。氏の浮世絵研究
論文は雑誌、解説に所載のもの数種あり。氏の歿後、日本浮世絵協会主催で氏の作画と蒐集品を高島屋
階上で展覧し、浮世絵之研究第二号へ詳に記載しあり〟